●フェイズ124「1980年代の日本軍(2)」

 次からは各軍の詳細を見ていきたい。
 日本帝国陸軍(IJA)は、軍が設立されてから事実上日本本土(本国)で戦ったことのない軍隊だった。少なくとも陸戦は一切行っていない。近代化して以後の日本軍は、常に国外で戦う外征軍だった。(※明治初期の内戦除く。)
 また、長期にわたり敵と向き合うのも、ほとんどの場合国外だった。
 日露戦争以後に国外への常駐が始まり、1930年代になると満州への大軍常駐が行われるようになる。第二次世界大戦後は、大規模な戦力の満州への常駐は無くなったが、より遠くのヨーロッパ常駐が行われるようになった。
 そして国外駐留は経費がかかるため、展開する部隊をいかに少なく済ませるのかが命題となっていた。特に兵士の数が多い陸軍は顕著で、効率的な兵力配置、兵器の開発に力が入れられる。冷戦時代の列強の中では、イギリス、イタリアに次いで陸軍兵士の数が少ないのが特徴だった。しかも人口比率から見れば、ダントツで兵士の数が少なかった。この補完として、スケルトン部隊の多用や定期的な訓練が義務づけられた即応予備役兵の確保、多数の一般予備役兵が確保されていたが、それでも少ない事に変わりない。また満州帝国は、日本にとって陸軍の補完場所として機能していた。
 また幸いな事に、同盟国のアメリカも同じような状態だったため、アメリカ軍と日本軍の関係を親密にする一助になったりもした。
 そして第二次世界大戦後にイタリア北東部に1個軍団の大軍を常駐させなくてはならない陸軍は、外征軍でありながら防衛軍としての向きを一層強めるようになる。
 そして外征軍としての象徴が、陸軍兵器の表看板と言える主力戦車(MBT)だった。

 日本陸軍は1930年代から重戦車開発に熱心で、世界の陸軍関係者からも重戦車大国として知られていた。特に第二次世界大戦で活躍した「三式重戦車(ジヲ)」は有名で、ドイツの「タイガー重戦車」と並んで重戦車の代名詞となったほどだ。第二次世界大戦後も重戦車重視は変わらず、第一世代MBTには「六式改重戦車」と「六式改二型重戦車」を、第二世代MBTには「イエロー・タイガー」こと「二一式戦車」(通称「ジム(地武)」)を開発、配備した。
 そして当時の日本では、重戦車を十分に運用できる場所は無かった。つまり国外で戦うことしか考えていなかったのだ。
 なお「二一式戦車」は、第二世代MBTとしては機動性、赤外線暗視装置などの面で少し劣っていたので、車体、エンジン、暗視装置などの完成度を高める事を踏まえて1974年に「三四式戦車(通称ジフ)」を正式化する。このため「二一式改」と呼ぶ事もある。また、製造元の三菱重工に仕事を与えるために開発されたと言われることも少なくない。
 「三四式」は電子装備などが優れていたため、2.5世代MBTとする場合もある。また同車両は、80年代終盤頃に各種近代化とリアクティブ・アーマー装備などを施した改良型が開発されている。
 「三四式」は、限られた数で国外駐留を実施する当時の日本陸軍としては、開発するべき車両だと考えられていた。しかし「三四式戦車」の開発は、中途半端だと言われることが多い。「二一式」からの改良も開発時期も中途半端で、日本人の悪い面が出た開発だったとされる。しかし「三四式戦車」の開発により、「二一式戦車」の近代改修と延命の道筋も作られたため、全くの無駄ではないし、重戦車に分類される事もある「三四式戦車」自体も依然としてソ連軍に脅威を与えた点では変わりはない。
 しかし、第三世代MBTの開発が遅れてしまったことは確かで、アメリカは1979年には「M1 エイブラムズ」を、満州は1980年に「80式戦車 鉄虎」を開発している。日本も「三四式戦車」の開発が終わるとすぐに第三世代MBTの開発を始めたが、出遅れたのは間違いない。しかも日本の場合は、変な面子(プライド)が開発の邪魔をした。
 と言うのも、満州の「二一式戦車」は、一応は日満共同開発ながら日本の三菱重工が開発の多くを担い、満州の小松重工が開発に関われたのは限定的で、実質ライセンス生産とすら言われた。ところが「80式戦車」はほとんど満州純国産のため、三菱重工は後身と思っていた小松重工に追い抜かれた形になった。「80式戦車」には日本のメーカーもかなり関わっていたが、三菱にとっては致命的な敗北と言われた。
 このため日本での新型開発では、日本陸軍と兵部省の考えとは裏腹に、満州に協力を仰ぐことを三菱重工が拒絶してしまう。しかも満州が自力開発してしまったため、今度の戦車は海外への兵器セールスが最初から小さくなることが確定となった。その上満州は、陸軍大国として世界の顧客からの信用を高めつつあり、さらに不利になることも十分予測された。しかも新型戦車を先に開発したのは満州の方であり、セールス競争で大きく不利だった。
 そうした中での日本独自というより三菱重工独自の第三世代MBTは、開発当初から苦しいものとなった。
 日本陸軍としては「三四式戦車」正式化の十年後にあたる1984年の正式化を強く求めていたが、1984年の時点では試作車両の試験を行うのが精一杯だった。そして正式化は1986年となり、「86式戦車(通称ジヒ)」としてようやく量産が開始される。
 完成した姿は、満州の「80式戦車」とよく似た箱形砲塔のため、ソ連の「T-55」の他国生産型のように「80式戦車」の日本生産型と見られる事もあるほどだ。しかしチョバーム装甲、中空装甲を採用すると自ずと似た形になるので、姿が似ているのは仕方ない面もある。しかも、どちらも「二一式戦車」が出発点となっているのだから、似ていて当たり前だった。日本では、開発中にアメリカの「M1」などのように砲塔前面を傾斜装甲にする案も出て、実際に試作車両が別に作られたが、もとの「二一式戦車」の形から「80式戦車」同様の形状に落ち着いている。
 また、似たような戦車を高い開発費をかけて開発するぐらいならば、満州から安価に購入する方が良かったという意見も国内外で強かった。
 なお「86式戦車」は、船舶への積載を想定しているため、満州の「80式戦車」と比べるとほんの少しサイズは小さく、重量も軽く作られている。このため「80式戦車」とほぼ同じエンジンを搭載している事で、機動性が高めの車両と評価される場合もあるが、搭載弾薬が少な目だったり正面以外の装甲を削っているので、その点を批判される事もある。

 そして主力戦車同様に、他の装備も満州帝国陸軍とよく似ていた。もともとは満州陸軍が日本陸軍に似ていたのだが、満州陸軍の方が規模が大きい上に発展が早かったため逆転現象が起きていたのだ。装備についても同様で、「三一式装甲車」など多くの装備が満州と似ている。装備も共同開発したり、日本側が満州から購入する事もあった。対空戦車の「雪豹」も、日本が満州から購入した車両の一つになる。
 主に陸戦兵器を製造する三菱はいい顔をしなかったが、もう一つの装甲車両の製造元である日本の小松製作所は、満州の小松重工のもと親会社に当たるため、むしろ積極的に取り入れて自らは小松重工の窓口やライセンス生産元となっている。しかし日本から世界に向けての兵器輸出が多いため、兵器自体のバリエーションは豊富で国民所得なども影響して生産単価も日本が安い場合が多かったので、日本陸軍の国産兵器比率は高かった。
 しかし、陸軍装備のかなりは、NATO基準以前の問題として、国産では十分な性能の兵器が開発できなかった事から、輸入やライセンス生産されている兵器も見られる。
 また軍全体の予算配分で後回しにされ続けていた影響で、正面装備以外の更新が遅れている事例も少なくない。特に野戦重砲が顕著で、第二次世界大戦中に使用された野戦重砲が1970年代まで現役兵器として使用されている例があったほどだ。また、国産の場合は兵器の生産数が少ない事が多いので、調達価格も高くなりがちだった。

 この当時の兵器として新型戦車以外だと、対地攻撃兵器として戦力価値が高いとされる戦闘ヘリも、西崎が生産する「Ninjaシリーズ」が日本だけでなく満州も多数を導入している。そして80年代には、「85式戦闘回転翼機(シノビ(Sinobi))」が登場している。一般的には、「Ninja」の最新型はアメリカの「コブラ」に匹敵し、「Sinobi」は「アパッチ」と同等とされる。しかし「Sinobi」の性能は、機動性以外はアパッチ、ソ連のハインドに一歩譲るというのが一般評価だし、数年早く開発された満州の「炎龍」にも劣ると言われる事が多い。しかも「Ninja」の輸出型としても開発された改良発展型の「フウマ(Fuuma)」の方が、価格と性能を合わせて比較すればこちらの方が良かったと言われる。
 さらに西崎は、日本、満州向けを中心に多くのヘリコプター(回転翼機)を開発、製造しており、ライセンス生産も含めると、日本軍向けヘリの7割以上が西崎製となり、三菱、中島を圧倒している。ただ1980年代になると、満州への輸出は不調になるばかりか海外での兵器セールスでライバル関係になっていたので、ヘリ輸出事業が好調だったわけではない。

 日本陸軍の編成面での特徴は、最初に書いた外征軍という点に集約されている。いかに早く効率よく遠隔地の戦場に部隊を展開できるかに最大の努力が傾けられており、海軍、空軍も協力した遠距離輸送体制は、規模はともかくアメリカに匹敵するとすら言われる。陸軍自身も、戦車トランスポーターや輸送車両、補給車両を外征用にかなり自前で保有していた。この部隊の移動と展開については、第二次世界大戦での苦い教訓が強く影響しており、日本陸軍だけでなく日本軍全体で重視されている事だった。ただ、部隊の移動、集結が最も格好いいとか、移動の巧い軍隊と言われたりもした。
 また、強襲揚陸艦など即応性のより高い艦艇は海軍陸戦隊が使用する場合がほとんどだが、海軍が多くの陸軍用輸送艦船を保有しているのは、多くは有事の際に迅速に支那大陸もしくはヨーロッパに陸軍部隊と装備一式を迅速に輸送するためだった。
 空軍の輸送機も、日本軍全体の世界展開を考えての事だった。
 「西崎 76式大型輸送機」も、米ソの超大型輸送機に対抗して作られたと言われるほどの巨体と積載量を誇っているが、日本本土から一気にヨーロッパにまで飛べることを一番の目的としていた。三菱 84式中型輸送機も積載量より航続距離を優先しているのは、日本軍の性癖とは別に戦略的判断があったためだ。
 陸軍部隊自体も、師団で言えば本土の3個歩兵師団以外は、全て海外展開を考えている。
 欧州派遣軍に2個師団、欧州派遣軍の交代用の2個師団も、その気になれば世界のどこかに持っていける体制を敷いている。残る3個師団のうち2個師団も、半分以上の装備と当座の弾薬や補給物資を輸送艦艇に載せたままで、有事の際は迅速に大陸などに移動できる体制を整えるためだった。
 日本本土で本当にその場での戦闘を考慮しているのは、ソ連が変なことを考えないように北海道に配備されている第七機甲師団と、千島列島駐留の第11混成旅団だけだった。日本各地の沿岸防衛も半ば名目にすぎず、国内配置師団は治安維持師団や警備師団としての装備と訓練が中心となっている。例外は日本各地に駐留する工兵部隊だが、これも実質的には国内の災害に備えた装備も少なくなかった。同様に目の前に大陸がある台湾駐留部隊も、対岸が不安定だった一時期を除いて例外ではない。
 そして外征軍として組み上げられているが故に、陸軍の兵員数が少ないとも言える。沢山兵隊を抱えていても、想定された戦場に運べないからだ。予備役が動員される場合も、大規模災害以外ではほとんど行われた事は無かった。
 そして日本軍自体が外征軍である以上、陸軍の役割は補助的とならざるを得ず、軍の中核は空軍と海軍が担うことになっていた。

 続いて冷戦最盛期とも言われた1980年代の、日本空軍、戦略空軍、海軍航空隊の日本軍における「3つの空軍」について見ていく。
 日本の空軍は、空軍と戦略空軍に別れている。1975年の改変までは防空空軍と戦略空軍に別れながらも、組織や部隊が重複するなど無駄が多かったが、改変によって一気に合理的な空軍組織へと変化していた。
 日本空軍の主な役割は、地中海とオホーツク海での制空権の獲得にある。それ以外だと、状況に応じて満州やフランス方面への援軍が考えられていたが、基本的には上記二つの地域での任務(作戦行動)を最優先としていた。支那方面で戦闘状態が起きた場合も一応は想定されていたが、支那方面での戦闘が起きた場合は、まずは満州とアメリカが主に担当する約束が交わされているため、要請を受けた場合という受動的な状態で、日本空軍もあまり熱心ではない。
 日本空軍がソ連に対して制空権獲得を最優先としていたのは、戦闘機の数だとソ連空軍が圧倒しており、戦闘になれば少なくとも戦闘開始当初は空での戦いでも劣勢を強いられると考えられていたからだ。この点はアメリカですら危惧している事だったが、実際の稼働率や数に頼んだ場合の第一線以外のパイロットの本当の質まで考えると、現在ではかなりが杞憂だったことが分かっている。だが当時としては、ソ連空軍の脅威は確かに存在していた事だった。
 日本空軍は戦闘機、戦闘攻撃機の多さから制空権優先とされるが、やはり空軍全体の攻撃機の少なさからも制空権優先なのを見て取ることができる。しかも、攻撃機が最も必要となる筈の欧州に配備されていないことからも、日本空軍がソ連の制空権優位を認めているに等しい。それでも攻撃機をある程度保有しているのは、局地紛争などソ連と直接対峙しなくても海外派兵の際に必要と考えられていたからだ。特に支那地域で大規模な戦闘が起きた場合、活躍が期待されていた。
 また満州、極東方面でソ連と全面的に戦う場合も、1970年代ぐらいからは満州空軍と共同なら十分な制空権を得られる可能性が高かったので、ソ連に対しても保有する価値があると考えられていた。

 1980年代の装備面を見ると、早くも日本の復活の片鱗を各所に見ることができる。これは70年代前半以前から開発が進んでいたものが、その後の停滞期に開発された技術などを取り入れることで次々に完成を見たからだだった。
 また、アメリカ、ソ連、フランス、そして満州にも国外の兵器販売競争で勝つためにも、新型機が必要とされた事も重要だろう。
 ソ連空軍の新型機に対抗しなければならないという理由もあったが、どちらかと言えば優先度は低かった。
 80年代の機体だと、「西崎 88式戦闘機 紫電改」、「中島 83式戦闘攻撃機 疾風」、「西崎 85式空中警戒管制機」が代表になるだろう。この時期に三菱の機体がないのは、主開発チームがこの時期は次世代のための試作機や実験機を複数開発中で大量生産の為の機体を送り出していなかった事と、この時期の他社との競争試作に負けていたからだ。しかし全軍共通の中間練習機など送り出しているので、量産期を生産していなかったわけではない。逆に西崎が戦闘機開発から遠のいていたのに、空軍の主力機と言える機体を送り出せたのは、以前に送り出した「紫電」の基礎性能と拡張性が非常に高かったからだった。
 「中島 83式戦闘攻撃機 疾風II」はアメリカの「F-16 ファイティング・ファルコン」と同程度の軽量級の戦闘機で、運用目的も似ていた。当時としては、「F-16」ほど革新的な技術は使われていなかったが、機体の発展余裕と改良の余地はかなり与えられていた。「F-16」との大きな違いは、戦闘機か戦闘攻撃機かではなく、エンジンが単発か双発だけとすら言われた。しかしこの差は大きく、輸出競争では常に劣勢を強いられる事となる。維持、整備の面で、「F-16」が有利だったからだ。
 「疾風II」は戦闘攻撃機だが戦闘機としての向きが強く、中島としては「隼II」を運用する国々への輸出用という目的も強かった。日本空軍の導入も輸出を視野に入れた政治的要素が強く、色々な意味で「支援戦闘機」とも呼ばれた。
 輸出を考えた軽戦闘機だが、維持・整備が比較的容易という以外の特徴は、格闘戦能力が高い事と対艦攻撃能力を有する事だった。対艦攻撃能力の確保は、日本空軍が導入に際して求めた事で、オホーツク海、地中海でのソ連艦艇の攻撃を前提としていた。しかしどちらもソ連の水上艦艇は存在しないため、政治的な要求でしかないと言うのが論評の大勢を占めている。しかし、対艦攻撃能力の高さが、輸出では思わぬ武器となっている。対艦ミサイルともども、かなりの国が購入した大きな理由となっているからだ。なお輸出型は「ゲイル」と呼ぶ場合もある。
 「西崎 85式空中警戒管制機」は、他の同種の機種同様に機体の上に円盤を載せた典型的な形状を持っている。搭載している電子機器を満州と共同開発しているので純粋な国産機ではないが、米ソの同種の機体に対抗して完成させるためには、日本単独では不可能だったが故の共同開発だった。
 性能はアメリカの同種の機種(E-3系列)とほぼ同じ性能を有しており、優れた能力を持っていると言える。機体自体は西崎が川西時代に生産していた旅客機をベースとしているので、この点もアメリカの同種の機体と似ているが、ベース機が比較的新しいので航空機、旅客機としての性能は「85式」の方がかなり勝っている。また、その後の派生型として、別の用途で用いる電子作戦機なども開発されている。

 「西崎 88式戦闘機 紫電改(紫電32型)」は、日本がソ連の新型機(Mig-29やSu-27)を空中格闘戦で圧倒するべく送り出した冷戦時代最後の制空専門の機体だった。
 「紫電」の改良発展型という事になっているが、機体の大部分を改修しており、コックピット、アビオニクス、レーダーなど電子装備も全面的に改修している。「紫電」では断念した(だが後で搭載できるような内部構造にした)フライ・バイ・ワイヤも採用された。また、電子機器が一人でも捜査が容易くなり、エンジン出力にも余裕があるので、限定的だが爆撃機としての能力も追加された。
 あまりの変化に、今まで「紫電」に乗っていたパイロットが「紫電改」のコックピットに入った途端、「別の機体じゃないか」と叫んだ逸話があるほどの違いだった。
 もともと「紫電」は、今後の発達余裕を大幅に持たせることで、長期間で見た場合のコストパフォーマンスに優れた機体とすることを開発コンセプトの一つとしていた。しかも開発当初から、大幅な改良を前提としていた。
 また「紫電」は、日本軍機としては大柄な機体なのも特徴の一つだった。エンジンサイズはアメリカ製に比べて多少大きかったが、「紫電改」でエンジンパワーを強化できたりと発達余裕の大きさが吉と出ていた。
 改良型が一部形状と素材、塗装が対レーダー対策が行われた点は、外観の違いという分かりやすさから話題にもなった。さらに、デジタル化時代を予見した設計が一部で行われており、操縦席は丸ごと変更となった。このため操縦桿が今までの機体のように股の間にはなくなり、左右に置かれているなど設計変更も行われていた。別の機体と言われる所以だ。
 そうした特性を踏まえて、来るべき第5世代を見据えたジェット戦闘機として生み出されたのが「紫電改」だった。このため世界初の4.5世代機と言われる事もある。
 もはや「紫電」とは別物と言っても良いぐらいで、主翼、尾翼、垂直尾翼など各翼や機体の形状すら変化して、主翼は一回り大きくなっている(※素材も一部変更されている。)。見た目での一番の特徴は機体前部にカナード翼を持つ点で、高い速度性能と格闘戦能力が付与されていた。エンジン開発能力ではアメリカに勝てないのを機体性能で勝とうという方針でもあり、同時代のソ連の戦闘機と似ている面でもあった。また当時としてはデジタル化も大きく取り入れられており、世界初のデジタル戦闘機と言われる事もある。(※流石に、これより後のデジタル化が進んだ機体とは比較にはならない。)
 計画初期では二次元可変ノズル(ベクターノズル)の装備が検討され、実際に試験機が試作もされたが、いまだ熟成された技術ではなかったため量産機に採用されることは無かった。開発段階で搭載を目指していたアクティブ・フェイズド・アレイ型のレーダーも、開発が間に合わなかった。
 それでもアビオニクス、レーダーが大幅に強化されたため、単座でも兵器の操作が簡単になった事を受けて、多少限定はされるが戦闘攻撃機としての能力も与えられている。
 生産単価は約1.5倍に跳ね上がったが、十分引き合うだけの性能向上が見られた。
 「紫電改」で得られた技術と教訓は、日本、満州双方が運用する機体にも取り入れられており、満州の「F-15DM」、日本の「疾風II」の改修型も同じ技術が使われている。海軍の機体、次の新型戦闘機も同様だった。優れた技術を取り入れていたので、アメリカが有償供与を求めたほどだった。
 また2000年代に登場する「紫電改二型(63型)」では戦闘機から完全に戦闘攻撃機となったが、デジタル化の促進、ベクターノズル、アクティブ・フェイズド・アレイ型のレーダーの搭載を実現しており、限定的ステルス化の強化も行うことで息の長い機体となっている。

 さらに紫電、紫電改の登場の頃から、日本空軍は次世代機の開発を三菱、中島に命じて、第5世代ジェット戦闘機の開発を熱心に行っている。格闘性能を突き詰めた機体、ステルス型の機体など複数開発され、80年代後半から90年代前半に行われた三菱、中島による競争試作は、現在に至るも語りぐさとなっているほどだ。軍全体の秘密実験場でもある硫黄島近辺の空域では、激しい模擬空戦が頻繁に行われていたと言われる。
 実用的な前進翼型の機体は、早くも1980年代序盤に三菱の手によって開発され、改良型の実用試験機が紫電改の競争試作にも登場している。日本での前進翼型の開発は1950年代から行われており、30年以上の技術と経験の蓄積によって実用化にまでこぎ着けた。
 同機体は、圧倒的と言われる格闘戦能力を見せるも、大量配備するにはバランスが悪く操縦性に難があり、しかも生産が面倒なため競争試作には負けた。だが、アグレッサーや実験用に少数生産が認められ、超精鋭部隊用に秘密裏に配備されたなど噂が出るように、日本空軍の「秘密兵器」と言われた。また同機体は、正式化された前進翼機としてして非常に珍しい機体でもあった。
 なお、その前進翼機は「89式戦闘機 閃電」命名され、軍事ショー、アグレッサー任務などに重宝された。さらに、派生型やさらなる改良型すら実験的に開発されるなど、手作り状態で細々と生産が続けられ、意外に長く運用される事になる。実際、少数機が特殊作戦に投入されたという話しまであった。ただし、生産単価、運用コスト共に非常に金食い虫の機体としても有名だった。
 しかしアメリカがそうだったように、格闘戦重視の方向性はステルス機の登場で否定され、ステルス機の時代へと移行していった。そして量産機としてのステルス機はなかなか完成には至らず、しかも開発費が異常に高騰していったため、日本全体での開発に変更され、さらには満州との共同開発にまで拡大していく事になる。
 その機体はついに社名を関することなく、「06式戦闘攻撃機 雷電」と命名される事となる。

 一方で、遠く欧州まで軍を駐留させているので、日本の軍事力にとって航空輸送力は必須の能力だった。また、旅団規模の空挺部隊を有していたり、同盟国への兵力の緊急展開の為にも輸送機は必要だった。もちろんだが、意外に遠距離飛行となる国内での輸送にも有用だった。このため空軍の規模から見ると、かなり有力な輸送機部隊を保持していた。
 それでもアメリカ空軍の巨大すぎる輸送力とは比べるべくもなく、ソ連空軍に対しても劣っているのが実状だった。
 遠距離輸送は「西崎 76式大型輸送機」がその代表で、多数の旅客機や輸送機を世界中に納品していた西崎が、国の依頼を受けて総力を傾けて開発したのが本機体だった。「アメリカに負けるな」がコンセプトと言われ、その巨体と航続距離から「戦略輸送機」とも呼ばれた。
 とにかく、無着陸で80トン以上の物資を一気に運べることを最低条件として開発されている。80トンという数字に大きな根拠はないが、単にこの程度が限界と見られていたからというところが日本らしいと言えるかもしれない。だが西崎は、民間航空機開発大手としてのプライドが有るため、総力を挙げて大型輸送機の開発に力を尽くした。
 完成した姿は同クラスのアメリカの「C-5 ギャラクシー」やソ連の「An-124 ルスラーン」に似ており、機体サイズも見劣りしないぐらい大きかった。しかし当時の西崎では、ロッキード社の技術力に完全に並ぶのは流石に難しかった。それでも最大ペイロードは120トン、通常でも100トンの貨物の積載が可能だった。また機体上部に兵員輸送席が設けられており、最大で250名の兵士を運ぶことができた。
 しかしその後、エンジンと主翼など各部を強化した改良型が開発され、こちらでは「C-5」に匹敵する積載量120トン、限界積載量180トンまで拡大されている。
 どちらも日本空軍でしか運用されていないが、後期型は民間機型が存在していて大型貨物の輸送で意外に重宝されている。そしてこれだけの機体が作れる事こそが、日本が「航空王国」の一角である証拠でもあった。

 また一方で、国産が徐々に難しくなっていったのは、十分な性能を有した地対空ミサイルだった。特に広域防空を担う長射程ミサイルは、徐々に国産では能力の不足が目立つようになっていた。それでもアメリカの「ナイキ・ハーキュリーズ」には何とか追随できていたのだが、1980年代になると性能不足と旧式化も顕著で、次世代の地対空ミサイルはもはや国産では十分な性能を与えることが難しかった。
 このため満州との共同開発が模索されたが、満州はアメリカからの導入を早々に決めてしまう。そして今度はアメリカとの共同開発を模索するも、アメリカからは日本が持つ技術を提供しても、ライセンス生産以上の言葉は引き出せなかった。
 結局、日米の政府間交渉となって、日本空軍もアメリカが開発した「パトリオットミサイル」の導入を受け入れざるを得なくなる。これと同等もしくはそれ以上の地対空ミサイルは、日本では開発不可能だった。時間と予算をかければ不可能ではなかったかもしれないが、自力開発した頃にはアメリカはさらにその先を進んでいるのは確実だった。それならば、日本が持つ技術の幾つを取引材料としたライセンス生産で我慢せざるを得ないのが現実だった。
 しかし「パトリオットミサイル」は1980年代末に導入が決まったばかりで、80年代は少しばかり旧式化していた国産ミサイルが地対空ミサイルの主力を占めている。


●フェイズ124「1980年代の日本軍(3)」