●フェイズ127「1980年代の日本軍(5)」

 日本海軍には他にも空母型の艦艇が幾つかあり、空母型の艦艇として「強襲揚陸艦」を保有していた。

 もともと日本海軍での揚陸作戦艦艇は、艦内部に大きな空洞を設けて鉄道のレールのようなランプを設け、そこに大小さまざまな揚陸艇などを搭載する形で整備が始まった。この形式は建造や改装が比較的容易い事もあって、第二次世界大戦中に様々な艦船が建造された。
 そうして建造された中に、上甲板の格納庫に航空機も輸送できるタイプがあった。《神州丸》の名を与えられた陸軍所属の艦艇で、第二次世界大戦序盤から中盤にかけて、日本軍が何度も行った強襲上陸作戦で大いに活躍した。
 その間、自由イギリス軍の発案でアメリカ軍が建造したドック型揚陸艦が登場するが、日本海軍、陸軍でも同種の艦艇を技術供与を受けて建造する。
 しかし日本陸軍は、海軍への対抗心もあって自らが考え出した形態をさらに進化させる選択を行う。こうして建造されたのが「強襲揚陸艦」の始祖とも言われる、《あきつ丸》になる。
 《あきつ丸》は、船体には《神州丸》のようなランプ付きの大きな格納区画を、上甲板は航空機格納庫を持ち、さらにその上に飛行甲板を設置して、航空機格納庫とエレベーターで結ぶ事で通常の空母のような形態を持っていた。
 空母としての設備や能力は非常に限られていたが、短距離で離着陸できる小型機やオートジャイロ、そしてヘリコプターの搭載と運用ができた。
 《あきつ丸》と同型艦(※姉妹艦《にぎつ丸》など類似艦を含めて6隻。)は、第二次世界大戦終盤の上陸作戦で何度も活躍し、日本軍だけでなくアメリカ軍など世界中の軍隊に大きな印象を与えた。
 そして戦後になると、《あきつ丸》など状態の良い何隻かの同種の艦艇を残して解体され、経費の問題もあるため全て海軍が運用することになる。

 戦後は軍事費が大幅に減った為、当初軍が構想していた後継艦の建造は計画だけで見送られ、《あきつ丸》の近代改装すら据え置かれたままとなる。
 しかしアメリカ軍(特に海兵隊)が強い興味を示したので、姉妹艦《にぎつ丸》をアメリカ軍が買い取って各種実験を行った。
 その後《あきつ丸》など数隻の揚陸艦は、支那戦争で兵器の輸送で使われたが、支那戦争は前線が内陸部だった為、輸送任務以外で活躍する余地はなかった。特徴のランプも、輸送先が通常の港湾では使い道も無かった。ただ単に、軍が保有する揚陸艦艇という理由で運用されたに過ぎない。
 しかしヘリコプターが徐々に発達すると、その運用艦艇としての使い道が生まれる。
 アメリカ軍は日本軍から買い取った揚陸艦は数年で解体した為、モスボールされていた護衛空母の見繕って次世代の揚陸艦の実験艦に改装したが、日本海軍はそのまま《あきつ丸》《くまの丸》《ときつ丸》の3隻を次世代の揚陸艦に仕立てなおす。これによって《秋津》《熊野》《時津》と名を改め、「強襲揚陸艦」という新しい艦種名称も制定された。またヘリコプター運用実験では、比較実験もかねてアメリカ海軍同様に護衛空母も使われ、護衛空母《大鷹》が任務に当たっている。
 これの運用実験が行われたのが1950年代終盤で、実戦経験は無かったが貴重なデータを提供した。

 彼女たちが退役を迎えようとしていた時期に、《秋津》《熊野》《時津》に出番が回ってきた。
 1965年のインドネシア戦争への参戦への従軍任務だ。
 この頃には運用実験結果を反映した新世代の「強襲揚陸艦」の整備が進んでいたが、新造艦の整備が遅れている事もあり1941年に建造された《秋津》も、まだ現役だった。
 新たな任務に際して《秋津》《熊野》《時津》の3隻は、この時代のヘリコプターを運用するための追加の簡単な改装を受けた上で、順次インドネシアへと派遣されていった。と言っても、主に兵士や装備の輸送任務が主で、沖合からヘリコプターで兵士や物資を運搬できるという利点が買われたという向きが強かった。強襲任務の機会もなく、インドネシア戦争参戦で軍事費が増額されたおかげで整備の進んだ新世代艦が揃うと前線任務からは外され、後方での輸送任務に変更された。それでも、現場に着けば直接飛行甲板から送り出せるヘリコプター運搬には重宝されたし、河川用の警備艇の運搬にも使われるなど、その特徴を発揮することができた。
 結局1975年の軍縮で退役するが、一般の戦闘艦艇よりも海軍(陸軍)に尽くすことが出来たと言えるだろう。

 そうして1960年代に、本格的な「強襲揚陸艦」として《大鷹型》が登場する。
 《大鷹型》は1万9000トン級のLPH、つまりヘリコプター揚陸艦で、日本海軍の艦種分類では「強襲揚陸艦」には含まれない。
 海軍としては出来ればドックを設けるか、無理な場合はランプを設ける形の空母型揚陸艦の建造を望んだ。しかし予算の都合で諦めねばならず、今までより一歩後退した形態で甘んじなければならなかった。ただし車両搭載まで諦めた訳ではなく、民間のカーフェリーとほぼ同じ形態で車両を積載できるように作られている。これは港湾のある場所でしか車両の積載は出来ないが、日本海軍の兵力運搬の任務に北イタリアや支那本土への兵力輸送の任務が有るため備えられた機能だった。
 またドックやランプを設けていない反面、速力は通常の揚陸艦よりも速く、迅速な兵力運搬が可能となっていた。
 《大鷹》《冲鷹》《雲鷹》の3隻が整備され、インドネシア戦争に投入されていった。そして流石に高いヘリコプター運用能力を有するため、インドネシア戦争の後半で大いに活躍した。
 インドネシア戦争では、様々なヘリコプターを搭載。場合によっては戦闘ヘリも運用し、海上からヘリコプターによる奇襲もしくは強襲部隊を送り込む任務に従事した。
 《大鷹型》は、アメリカで整備された《ダカール級》LPHとよく似た大きさ、性能を有しているが、港湾での車両用ランプを持っている点がアメリカの艦艇との大きな違いだった。
 そして80年代半ばに新型登場でお役ご免となると、早々に予備役編入される。このうち《冲鷹》《雲鷹》は有事の際の予備艦として保管状態に置かれ、《大鷹》は艦内に司令部機能を有する通信指揮艦に大規模な改装を施され、アメリカのように地中海艦隊の旗艦に改装されている。

 そして今までの戦訓を受けて、インドネシア戦争の末期にさらに次の世代の揚陸艦が計画される。だが、インドネシア戦争の戦訓を受けた影響もあって性能要求が多く盛り込まれた結果、艦の規模、建造費が高騰した。それでもインドネシア戦争中だったら、予算承認されただろう。だが計画が固まった頃に日本で大きな変革が起きて、大規模な軍縮と軍の再編成によって計画自体の練り直しと、一時的な建造計画の凍結が決まる。
 だが、《大鷹型》以外の各種揚陸艦の旧式化が著しい事は確かだった。《秋津型》3隻だけでなく、他の多くの揚陸作戦艦艇も第二次世界大戦中に建造された艦艇がほとんどだったからだ。戦車揚陸艦などは、全てアメリカが大戦中に多数建造したLSTだった。ドック型揚陸艦も5隻保有していたが、うち2隻は同様に大戦中に建造された艦だった。
 しかし、補給艦など他の艦の多くの補助艦艇も第二次世界大戦中に建造された艦船ばかりで、これらの代替艦建造も進めなければならない時期にさしかかっていたので、なかなか新規の大型揚陸艦の建造には踏み切れなかった。
 しかし、一定規模以上の地上戦力の緊急展開能力の確保は、日本にとって戦略的に是非とも必要だったので、70年代末に予算不足の中で建造が認められる。
 新世代艦は1980年代前半に相次いで3隻就役した《渥美型》強襲揚陸艦の《渥美》《三浦》《本部》である。
 アメリカ軍の同種の艦艇も参考にされているが、日本軍が積み上げてきた技術と教訓が反映されているので、アメリカ軍の揚陸艦との違いは少なくない。

 《渥美型》は、日本海軍が建造した二世代目の強襲揚陸艦に当たり、アメリカ海軍の分類でのLPH(ヘリコプター揚陸艦)ではなく、LHA(揚陸侵攻艦)にあたる。
 日本海軍では《秋津型》以後、初の強襲揚陸艦だ。
 中型空母並の大型艦で、アメリカ軍の同種の艦艇同様にLPH(ヘリコプター揚陸艦)、LST(戦車揚陸艦)、LKA(貨物揚陸艦)の役割を合わせて備えている。当時軍縮体制下の日本軍で本タイプが建造できたのは、1隻で何隻分もの機能と役割を持っていたからに他ならない。実際、戦車揚陸艦など多くの第二次世界大戦時の旧式艦が、本型の就役と連動して退役している。
 また日本海軍の期待は大きく、新たに「半島」を強襲揚陸艦の名称に定めたほどだった。
 全長267m、満載排水量は4万1000トンとアメリカの《カサブランカ級》より少し大きく、輸送力も2000名とその装備なのでほんの少し多い。これは日本海軍の海軍特別陸戦隊に合わせた為で、アメリカ軍の艦艇を張り合ったわけではない。
 船体規模に応じて飛行機格納庫も広めに取られ、搭載機数は最大で約40機ある。新造時は固定搭載ではないが、その後垂直離着陸機も搭載可能な艤装が施されて「ハリアーII」を搭載した。

 航空機格納庫、車両格納庫、貨物格納庫、そしてドックを持っているのが特徴で、本級は当時としては最大級のドック型揚陸艦としての能力も備えていた。
 と言うのも、アメリカ軍より先にホバークラフト型のエア・クッション型揚陸艇を4隻搭載するためだった。
 エア・クッション型揚陸艇の開発の経緯は、主に北辺での防衛のためとされている。
 と言うのも、日本最北地点にある千島列島は、その先にソ連と国境を接していた。そしてお互いに兵力を置いて睨み合う、日ソ唯一の場所でもあった。だが、現地での陸軍規模はソ連軍の方が多く、ペトロパブロフスクカムチャッカスキーには、かなりの規模の揚陸艦艇も配備されていた。多分にブラフではあったのだが、日本軍としては少しでも侵されないための対抗手段が求められた。
 だが最北の島の占守島は、荒涼とした事実上の無人島で、軍の守備隊がいるだけだった。その規模も限られており、ソ連の本格的侵攻を撃退する力は無かった。隣接する幌莚島も、軍事力的には似たような状態だった。同じ事は千島列島各島にも言えることで、軍としては迅速な兵力展開や奪回のための準備が欠かせなかった。
 しかも多くの島には、大規模な兵力を揚陸する港湾施設や岸壁が無かった。作っても良かったが、先にソ連軍が攻めてくる想定が主にされていたので、敵に利用させない目的もあって大規模なものはほとんど作られていなかった。
 幸い策源地の北海道には駐留部隊も多いが、北海道には海軍の有力部隊は駐留していなかった。択捉島には泊地があったが、あくまで演習などで使う一時的な設備で警備艇程度しか駐留はしていなかった。北の海で艦艇を常駐させると、気象が荒く温度差で金属の疲労が激しくなるなど、良いことはないのも常駐しない理由だった。

 このため海軍陸戦隊と陸軍の一部を用いて強襲揚陸部隊を仕立てる、離島奪還プランが50年代から研究された。
 そして問題となったのが、上陸もしくは逆上陸においてだ。
 揚陸艇や直接浜辺に乗り上げる戦車揚陸艦では、上陸できる海岸線が限られていた。ヘリコプターだけでは、重装備の揚陸が出来なかった。
 そこでホバークラフト型もしくはエア・クッション型の揚陸艇もしくは揚陸艦が模索される。エア・クッション型なら上陸できる海岸線が大幅に増えるし、速力も非常に早いので実用化できれば利点が多かった。
 そして開発が始まるが、流石に簡単にはいかなかった。だが折からのインドネシア戦争での予算増額と、多くの実戦経験の獲得で開発は進み、73年には「三三型浮揚型揚陸艇」という一つの形ができる。しかし「三三式浮揚型揚陸艇」は、当時計画中だった大型揚陸艦への搭載を大前提とした結果、当時の日本の技術力では積載量が十分では無かった。計画では主力戦車1両(※諸々込みで積載量65トンが必要)の積載が求められたが、多少無理をしても50トン程度が限界だった。大型化すれば積載量はクリアできたが、そうすると搭載可能な大きさを越えてしまった。もっとも、そもそも重い重戦車を積載しようとしたのが過剰要求と考えられ、同揚陸艇はそのまま採用された。しかし搭載される予定の新型揚陸艦の建造が遅れたので、ドック型揚陸艦への搭載をしつつも、その間を利用して改良が続けられた。この改良では、同揚陸艇に強い興味を示したアメリカも一時加わるが、60トンの数字には到達しないと分かると諦めて、自前の新型開発へと方針転換している。
 1970年代は日本海軍のみが「三三型浮揚型揚陸艇」の整備を続け、さらに新造のドックを備える艦艇は全て本級が搭載できるように設計された。
 またその後、新造に等しい大幅な改造型が生産され、この就役により60トン級の戦車が積載できるようになり、その新型は「85式」として完成するので、1990年時点では急いで更新しているところだった。
 他にこの時期に在籍していた揚陸艦のうち、ドック型揚陸艦は80年代に相次いで整備されたもので、以前の武勲艦の名を受け継いで《秋津型》として、《秋津》《饒津》《熊野》《時津》《天津》が就役している。
 こちらは1万8000トン級で、800〜1000名の兵員輸送能力を持ち浮揚艇を4隻積載できる。後部は車両甲板兼用の飛行甲板で輸送ヘリコプターも2機程度までなら搭載できた。
 戦車揚陸艦の方は、インドネシア戦争の頃に急造された《神州型》で、20両の戦車か400名の兵士が運搬できた。しかし80年代半ばには役割を終えた艦艇と考えられており、8隻保有しているうち半数の4隻は事前集積艦だった。また既に何隻かが退役して、友好国などに安価に売却されている。
 それ以外の大型兵員輸送艦(給兵艦)、貨物輸送艦、弾薬運搬艦は、基本的に事前集積任務用の艦艇なので、本当の有事以外はあまり関係のない艦船だった。実際の出動も、1990年のペルシャ湾派遣まで無かった。
 そしてこれら揚陸作戦艦艇を主に根城としていたのが、海軍に属する海軍陸戦隊だった。

 なお、揚陸艦艇を根城とする海軍陸戦隊は、主に第一特別陸戦旅団と特殊部隊の長距離偵察隊に分かれていた。このうち第一特別陸戦旅団が、強襲揚陸艦に乗艦する常設部隊になる。
 第一特別陸戦旅団は、歩兵3個大隊、戦車1個大隊、重砲兵2個大隊、機甲偵察1個中隊、工兵1個中隊、支援大隊、野戦病院中隊、通信中隊などから編成されている。さらに兵力輸送と支援の為に航空旅団があり、輸送大隊、武装大隊、偵察中隊から編成されている。装備のほとんどは陸軍と共用で、調達価格の低下を図っている。それでも若干の独自装備を保有しているが、アメリカ海兵隊ほどの独自性はない。航空機も海軍陸戦隊所属ではなく、あくまで海軍所属になる。
 また80年代からは垂直離着陸機の「AV-8 ハリアーII」飛行隊も含まれており、豊富な航空戦力を有していた。
 規模としてはアメリカ海兵隊の旅団規模に近い。規模だけなら他にも大きな海兵隊を有する国はあったが、戦力密度、火力、航空戦力、何より洋上機動力では、アメリカ海兵隊に次ぐ能力を有していた。
 これらを運搬するために各種揚陸艦艇が存在しているのであり、事前集積船以外の揚陸艦艇は海軍陸戦隊専属と言っても間違いでは無かった。揚陸艦艇が陸軍部隊を輸送するのは、訓練でも頻繁に行われているが、実際の出動となるとまずは海軍陸戦隊の輸送と支援に当たった。
 また海軍陸戦隊は、陸軍の空挺部隊の次に遠隔地に素早く派遣できる戦力として、外征軍の向きが強い日本軍にあって、非常に有効な緊急展開軍だった。
 
 なお、揚陸艦艇や事前集積船と混同される事があるのが、海軍の後方を支える各種艦船になる。
 特に補給を担当する各種輸送艦は、素人目には灰色(軍艦色)に塗っただけの普通の船に見える。潜水艦母艦や掃海母艦も同様だが、各種母艦は自衛用の火器を一応装備している事があるので、まだ軍艦と見られがちだ。だが補給艦は、日本海軍の場合基本的に非武装だ。80年代半ばからCIWSを装備しようと言う案は度々出ていたが、予算不足から高速支援艦にしか装備されていない。この点は、各種揚陸艦の方が武装を施している場合が多い。
 しかし武装していないからと言って、重要性が低いわけではない。それどころか、一般の戦闘艦艇より重要だと認識されている。特に日本海軍は、有事の際は地中海まで一気に進まねばならないので、補給は非常に重要だった。

 また、金食い虫と言われる空母機動部隊は、その悪名に違わず大食らいだった。
 このため日本海軍は、予算の許す限り補給艦艇の整備を心がけていた。陣容としてはアメリカ海軍に次ぐ規模で、アメリカ海軍を除けば他の追随を許さないほどの布陣を誇っている。小型補給艦以外はどれも4万トン級かそれ以上の大型艦ばかりで、しかも機動部隊に随伴可能なように速力が速い事が多かった。
 特に能力と規模で秀でているのは高速支援艦の《速吸》《神威》で、日本海軍以外ではアメリカ海軍しか保有していない高性能の補給艦艇だった。と言うより、大型空母を中核とした「まともな空母機動部隊」を保有しない限り必要のない艦艇になる。
 世界レベルで始祖となる艦は日本が第二次世界大戦に最初に就役させており、この頃運用されていた2隻はまだ2代目で、支那戦争以後戦後の戦いのたびに出動している働き者の艦で知られていた。同時に、簡単に後継艦が作れないほど高価な艦でもあった。
 満載排水量5万トンに達する巨体を最高速力24ノットで走らせることの出来る能力を持ち、空母機動部隊が必要とする燃料、弾薬、各種補給品を、航行しながら併走しつつ補給することができる。総量で3万トン近い積載量があり、危険度の高いジェット燃料を円滑に空母に補給する能力を有している点が、他の補給艦との大きな違いだった。

 大型補給艦は各種ある。一般的なタイプは4万トン級の船体に、大型空母以外の艦艇のあらゆる補給物資を洋上補給するための能力を有している。似たタイプはもう一つあり、こちらは建造年が新しく色々と装備や機能が向上している。ただし最高速力は、どれも18〜20ノットと高速支援艦と比べるとやや低い。しかし高速支援艦の方が特殊と言えるだろう。
 別のタイプはやや旧式で、空母機動部隊への弾薬補給を担っている。これは1万5000トン級と他に比べるとやや小型だが、補給用の燃料を積載していないためだ。このクラスは、戦艦の大型砲弾を補給する能力も有していた。
 給油艦は燃料のみの補給能力しかないが、規模は大型補給艦と同じぐらいで、緊急事態に備えて常時1隻がインド洋に護衛を伴って展開している。そして有事には、取るものも取りあえず日本本土を出撃した艦艇に、洋上補給を行う事になっていた。長期任務になるため、意外に高い居住性を有しており、小型艦船に対して限定的ながら母艦機能を果たすこともできた。
 他に小型補給艦が3隻あるが、小型と言っても1万トンクラスの補給艦で、規模が小さいだけで大型補給艦と同じ機能を有している。主に日本本土近海で活動し、小型の艦隊などの補給をになっている。
 これ以外にも支援艦艇は多数存在しており、アメリカ海軍に次ぐ巨大海軍を構成している。南極観測船《白瀬》や、人工衛星やロケットを追尾するミサイル追跡船《渋川》もそうした船の1隻になる。
 そして一般人が最も海軍艦艇もしくは「軍艦」と認識しやすいのが、次に紹介する各種水上艦艇になるだろう。


●フェイズ129「1980年代の日本軍(6)」