●フェイズ130「1980年代の日本軍(8)」

 次からは艤装面を見ていこう。
 機関を据えて、ようやく防御甲板以上の再構築と上部構造物の設置になるが、上部構造物の中核となるのが今回の一番の目的となる「イージス・システム(AEGIS System Mk.7)」だ。
 同種のシステムは、1950年代から70年代半ばにかけて日本でも、新世代防空装置として研究と開発が熱心に行われていた。だが、予算をかけた割には、開発はあまりうまくはいかなかった。試作品までは作られたが、性能が十分ではない上に艦艇に搭載できる規模ではなかった。そして75年の大軍縮で、開発縮小の対象とされてしまう。
 しかし新型防空システムは是非とも必要なので、同盟国アメリカからの有償供与を計ろうとする。もちろん日本側も無条件で最新技術が得られるとは考えていないので、自らが開発していた技術を提供することで、早期導入にこじつける。
 この際、日本側は最初は共同開発を持ちかけたが、流石にアメリカが認めるはずもなかった。ブラックボックスの開示も無理だった。しかし日本が提示した技術リスト、研究リストにアメリカが必要としていたものが幾つも見られた為、アメリカ側が早期供与で歩み寄ったという経緯がある。
 しかし、日本側にとっては最大でもライセンス生産な上にブラックボックスは存在したので、その後も日本は独自システムの開発も精力的に行う事になる。これは後に、独自のほぼ同じ性能と言われるレーダーシステムと、「零式捜索装置」などと呼ばれるアクティブ・フェーズド・アレイ・タイプのレーダーなどに繋がっている。

 イージス・システムを搭載するに当たって問題となるのは、その設置場所だ。従来のレーダーとは違う設置方法を選択せざるを得ない上に、非常に大きなシステムになるため重かった。このため《大和》は上部構造物の一新を決め、アメリカよりも早くレーダー反射面積の少ない専用の艦橋とセットで設置する事になる。
 しかも《大和》の場合は、船体が大きく重く安定している為、上甲板よりもさらに2段も高い場所にイージス・システムの要となるフェーズド・アレイ・レーダーの「SPY-1」一式を艦橋周りに設置している。このため《大和》は、就役時点では世界一高い場所にイージス・システムを装備した艦艇となった。
 そして地球が丸い以上、古代の昔より高い場所から見渡す優位は変わらないので、《大和》は最も有力なレーダー能力を備えることになった。
 イージス・システム以外のレーダーなど電子装備も当時の最新鋭のものが搭載されているので、電子戦能力も非常に高かった。電算装置も、独自のより新しいタイプ(JCN2000)が設置された。
 また本クラスの特徴の一つが、主砲の照準装置として旧来の技術の延長となる光学式の照準装置(測距儀)を艦橋上部に設置している点になるが、これはどちらかと言えばサブシステムでしかなかった。
 イージス・システムと連動して《大和》の大きな特徴は、個艦としての同時誘導能力の高さだった。艦の規模が大きく上部構造物も大きいので、載せられるだけイルミネーターを設置する。イルミネーターを必要とするのはセミアクティブ・レーダー・ホーミング誘導方式のミサイルで、この時代はほぼ全ての遠距離対空ミサイルが必要としていた。
(※80年代だと低精度の赤外線誘導型などが例外。日米共同開発のRAMシステムは開発中。)
 通常型レーダーシステムと連動したイルミネーターだと、同時に1基のミサイルしか誘導できない。しかしイージス・システムだと4基可能となり、ジャグリングの要領だとも言われる誘導方式で、数が多ければ多いほど沢山誘導できる。
 《大和》の場合は6基も搭載しているので、単純な足し算だと24基の同時誘導能力がある事になる。しかしジャグリングのように次から次へと目標に誘導波を浴びせる事で、28基の同時誘導が可能と言われている。最大で30を越えるという説もある。
 しかし、イージス・システムの搭載と合わせた艦橋の新設は、国民の多くと特に軍事マニアからは絶不評だった。戦艦としての完成された美しさを持つとも言われた古い艦橋を全て取り払い、そこに「不格好な」太く短くのっぺりとした艦橋を設置する事は、彼らにとって許し難い事だった。計画がイメージ画として発表された時などは、反対の署名活動すら行われたほどだった。この時反対派は、《大和》はそのまま退役させて記念艦として、専門の艦艇を新造するべきだと言ったが、海軍もそれが出来ればしていたわけだから、皮肉な指摘と言えるだろう。

 武装(艤装)については、近代改装後の《大和》で最も重要な武装はイージス・システムと連動した対空ミサイルシステムになる。ミサイルはイージス・システムと連動した、アメリカのスタンダード・ミサイルとした。イージスを使う以上、当時は他に選択肢が無かったし、開発には一定程度日本も参加していたからだ。
 ただし、発射システムはアメリカ製の「Mk-41」ではなく、国産の「79式垂直発射装置」とされた。だが、サイロのサイズはアメリカ製武器も共用出来るように設計されていたし、もともと大型対空ミサイル以外の発射媒体も運用予定の拡張性の高さを持たせていたので、特に問題は無かった。発射サイロ数は8×8で1セットのものが採用され、これを装甲で区切った上で4基装備。合計で世界最多となる256発のミサイルが、発射可能状態で搭載できる事になる。当時のアメリカ製のMk-41は、発射サイロのうち3つを使って専用の装填クレーンを装備していたが、日本製は自力での装填装置はないので、256発が搭載できる定数になる。
 他にはミサイル発射装置は搭載せず、アメリカの艦艇だと垂直発射型の対潜アスロック、ハープーン対艦ミサイルを搭載する。だがアメリカ製で揃えるのは、国産メーカーを蔑ろにしすぎることになってしまう。
 そして日本は、古くは第二次世界大戦中から誘導ロケット兵器の開発は熱心に進めており、アメリカ、ソ連の次の地位はずっと保持し続けていた。特に核搭載もできる巡航ミサイル、巡航対艦ミサイルは重視しており、海軍と戦略空軍ばかりか、兵部省の音頭取りで軍全体でそれぞれの軍が必要とする巡航ミサイルの開発が精力的に行われてきた。
 「三〇式艦対艦ミサイル(流鏑馬(ヤブサメ))」もその一種で、追加装備のブースターを装備したタイプは限定的な巡航ミサイルとして運用できた。
 亜音速で射程距離的にも巡航ミサイルではないが、比較的安価なため、対艦装備として各種タイプを全軍が装備しているし輸出もされていた。この時期は、誘導方式を多数揃えるようになっていたので、実質的に改良型と言える。
 そして、この時代の日本の巡航ミサイルは「82式巡航ミサイル(雷切(ライキリ))」(Type-82 CM (RAIKIRI))になる。
 アメリカの「トマホーク巡航ミサイル」に対抗して開発されたと言われているが、長年地道に開発を続けてきた日本としては、結果として似ているに過ぎない。「雷切」の先代に当たる「鬼丸」は、ソ連と同様にいち早く実用化された巡航ミサイルだし、雷切の性能も初期のトマホークより熟成されていた。しかし長射程型では、トマホークの方が射程距離(航続距離)が長い。
 なお、愛称は第二次世界大戦中から改められ、攻撃型ミサイル(巡航ミサイル、対地ミサイル、対艦ミサイル)を「武器に関する名称」とされ軍を問わず付けられてきて、戦国時代の武将立花道雪が落雷を切り裂いたという「雷切」の名前が選ばれた。

 「雷切」巡航ミサイルは、空中発射型と艦載型、潜水艦発射型があり、潜水艦発射型は最後に登場した。そして射程距離や搭載弾薬、用途で幾つかバリエーションがあるが、基本的には対艦用か対地用がある。
 そして《大和》は艦砲射撃が副任務とされていたので、基本的には対地用が搭載されていたが、任務によっては対艦用も搭載可能だった。しかし「雷切」は対艦ミサイルとして使うには高価なので、基本的に対艦ミサイル型は搭載されない。
 そして通常では「スタンダード」を192発、「雷切」を64発搭載していると言われていた。また、任務によっては核弾頭搭載型の「雷切」も搭載したと言われる。

 それ以外の装備だと、やはり主砲を外すわけにはいかない。先述した通り新開発された55口径46cm砲を用いた「85式46cm砲」が正式名称で、その後《大和型》4隻全てに搭載された。あくまでソ連の巨大戦艦を葬る為の装備であり、艦砲射撃は副任務とされていた。射程距離は通常で48km。50km越えも可能だが、流石にあまり意味がないので若干だけだが抑えられていた。また、特殊な長射程砲弾(※超軽量弾型でロケット弾型ではない)もあるが、150km程度としか公表されていない。
 そして砲塔システム自体も大きく改良されており、特に装填の機械化が大幅に進めら、自動装填化されていた。結果、最短で15秒に1回、通常で20秒に1回砲撃が可能となっている。実際は砲身の加熱もあるため、30秒に1回程度とされていた。さらに監視カメラを多数設置するなどして、砲員も大幅に減っている。
 主砲以外の砲は、砲撃目的か防空目的で二分して搭載された。砲撃は艦砲射撃を考えて「二〇式二〇サンチ砲」の改良型の「83式20センチ砲」単装4門を旧副砲の位置に設置。新型は完全自動砲塔で、分発20発の射撃が可能で対空射撃にも十分対応できた。第二次世界大戦中の標準的な二〇サンチ砲が分発3発なので、いかに射撃速度が早いかが分かるだろう。
 対空用の中距離砲としては、オットー・メララ社の76mm砲が4基搭載されていた。戦後の日本海軍が愛用している対空砲の最新型で、《大和》では当時最新鋭のスーパー・ラピッド砲(分発120発)を搭載して対空射撃用としていた。そして特注の大型弾倉を設置することで、長時間の対空射撃を実現している。
 さらに近接防御用として、艦橋構造物の四隅にファランクス20mmCIWSを4基設置。遠中近、極近全ての面での防空兵器を備える鉄壁の要塞として仕上げられていた。しかも最後の守りとして、自らの強固な装甲まで備えていた。
 しかし当時の日本海軍はこれでも不満を持っており、それが完成時の姿にも現れている。艦中央の武装設置用のデッキは、明らかにさらに何か別の対空装備を搭載することが可能なほどの空間が存在していたからだ。空いている場所には、別のCIWSかRAMを搭載する積もりだったと言われ、実際後の簡易改装の際に追加でRAMなどを搭載している。
 さらに対空装備として、再度の小規模改装までは中距離対空ミサイルのシースパローを搭載して、防空能力をさらに高めている。ただシースパローは、蛇足だったと言われることも多く、その後の改装の際には撤去されている。
 しかし過剰と言える防空能力で、単艦で「オケアン演習」すら凌げるあまりの重武装に、アメリカ海軍関係者などが「日本海軍は宇宙人とでも戦おうとしているのか?」と半ば本気で聞いたと言われたほどだ。
 実際、改装後の《大和》とその姉妹達は、スクリーンや画面の向こう側で様々な敵と戦う事になる。

 さらに《大和》には、もう一つの特徴があった。
 大規模な航空艤装だ。
 初期案で対潜ヘリ1チーム6機を搭載する事が盛り込まれていた影響で、また新造時から艦の後部に大きな航空機運用区画を有していた影響でもあった。
 大改装に際して旧来の格納庫を大きく改装して、船体内に中型ヘリを十分に格納できる高さの格納庫を設置。さらに上甲板とエレベーターで接続。艦載機の装備の搭載区画も別個に確保され、艦の後部を完全にヘリ空母の状態へと改装した。
 機体用の燃料や弾薬、装備には若干の制限はあったが、通常任務時で6機の対潜ヘリが搭載できた。しかも、格納庫内でヘリのローターを広げた整備ができるのも特徴で、母艦機能は小型の軽空母クラスほどあった。
 さらに上甲板は耐熱強度が高められており、再就役時点では固定機は搭載しない前提ではあるが、垂直離着陸機「ハリアーII」が搭載、運用可能だった。また「ハリアーII」の対空ミサイルを、防空や斥候任務に使う戦術オプションも存在し、演習で行われた事もあった。
 そしてその後、「ハリアーII」の着弾観測機型を搭載するオプションも加わり、仮想敵の潜水艦の脅威が低下すると後に採用されている。この着弾観測機型「ハリアーII」は、湾岸戦争で最初に運用された。

 近代改装は他にも渡っており、居住区画も大幅に変更されていた。建造された頃と比べて国民生活が大きく向上しており、特に80年代から本格的な先進国としての生活の向上が見られた事から、大きな船体を有する《大和》も出来る限り対応する事となった。
 また軍自体の変化、女性を第一線の艦艇(※当時は大型艦に限っていた。)にすら乗せるようになった影響を受けて、《大和》にも女性乗組員用の区画や設備が組み込まれた。
 しかし、船体中央上部の旧居住区のかなりが、装備の搭載場所とされ、後部の航空機格納庫も実質的に拡張されていた。船体前部もVLSの搭載区画とされた。このため艦内空間が、それほど余裕が有るわけではなかった。
 一方で新たな艦橋構造物下部のかなりが、居住区や事務区画などで使えるようにはなっていた。そして何より、旧来に比べて乗組員数が大幅に減っていた。新造時で2500名、最大で3300名、1970年頃で2000名必要だった乗組員数は、近代改装で1200名に減った。多くの人員を必要とする蒸気タービンからガスタービンへの換装、搭載兵器の自動化、他にも様々な省力化が行われた結果だった。損害対応のために監視カメラやセンサーを多数設置するなど、当時の最新のシステムも優先して装備された。何しろ、被弾する可能性が最も高い艦艇だからだ。
 なお、航空機搭載数の増減で、航空要員が増減するようになっていた。また、司令部区画が設けられているため、旗艦任務の際は要員の分だけ乗組員を受け入れられるようにもなっている。また、艦砲射撃任務などで陸戦隊関係者が乗り込む場合もあるが、常時1個分隊の陸戦隊員が保安要員として乗っているのも特徴となっている。実戦を前提とした陸戦隊員が乗艦するのは、核兵器を運用する大型艦艇の特徴の一つでもある。
 通常は1200名前後が乗艦するが、最大で1500名程度が乗艦可能な区画が確保されている。その気になれば、輸送ヘリを含めて1個中隊程度の海軍陸戦隊の強襲要員を一時的に乗艦させる事も可能だった。
 そして、やろうと思えば(予算の制約さえ考えなければ)何でも出来る万能艦すら言われたが、一つだけ大きな欠点があった。やはり水上艦艇として大きすぎたのだ。
 損害前提の斥候艦と言っても、基本的には大規模作戦にしか投入できず、運用経費も決して安くはない事も重なって、活動には常に運用経費という制約が付いて回る事となった。
 なお、《大和》は1988年4月、《武蔵》は1989年7月に再就役を完了。艦隊に編入され、冷戦時代の水上艦の最後を飾る。

 そして《大和》が再就役した頃には、次の国防計画によって続いて《信濃》《甲斐》の大規模近代改装が始まる。
 当初の予定では《信濃》《甲斐》も、《大和》《武蔵》同様の改装を行う予定だった。しかし88年というのは、微妙な決定時期でもあった。ソ連の斜陽が誰の目にも明らかになりつつあり、米ソが本格的に歩み寄り始めていたからだ。だがそれでもソ連に対して油断は禁物と考えられてはいたので、改装自体は行われる事となった。
(※当時は、ソ連が崩壊するとは夢にも思われていなかった。)
 それでもソ連海軍の弱体化は既に明らかになりつつあり、また演習やシミュレーションの結果、《大和》《武蔵》の攻防力は過剰見積もりだった事が分かった。このため改装規模を若干縮小する事とする。
 具体的には、VLSの搭載数を半減する事だ。連動してミサイル誘導装置も減らす事になる。また火砲の刷新も、主砲だけとされた。さらに面倒な機関換装では、旧来のディーゼル機関を残して蒸気タービンだけをガスタービンに変更する事とされた。とはいえ、イージス・システムを搭載する事が改装費を最も引き上げる要素なので、それほど改装費が安くなったわけではない。ミサイル搭載数を減らすと言っても、海軍全体で見れば誤差の範囲と言われる事も多かった。また、半減は減らしすぎると判定された為、対地、対艦攻撃可能な「ヤブサメ」ミサイル4×4:16発を、固有の発射装置と共に搭載する事とされた。SLCM用の装甲ランチャー搭載も、追加オプションとして計画に含まれた。
 一方で、さらに新しくされた部分もある。
 アンテナマストは、他艦に先駆けてレーダー反射面積を減らす新型が開発され、シンプルな構造となった。艦内のモニターなども、細々と新型にされた。イージス・システム用の電算装置も、より高性能なものに変更されている。
 火砲に関しても新型が導入された。
 導入されたのは新型CIWSの「90式CIWS ディフェンダー」になる。もともとは満州帝国が開発した対空戦車の砲塔を砲台化したもので、自力での捜索、照準ができる上に35mm砲という比較的大口径機関砲な点が買われた。これを2基1組として4組、合計8基装備して、最大6000メートル程度の近接防空を行う。さらに4基のアメリカ製のファランクスも搭載するため、非常に強固な近接防空能力を有したことになる。
 航空艤装、旗艦用設備もそのままなので、2種類の機関を搭載する事を合わせて乗組員数はほぼそのまま。巡洋艦以上の防空力を持った斥候艦として1993年、94年に再就役した。
 しかし、防空力は過剰なままの方が良かったのではないかという議論も根強く、結局《大和型》4隻が本当に現役を去るまで結論が出る事は無かった。

 なお、「平成の大改装」と言われた大規模近代改装によって、《大和型》4隻は25年間の現役続行が可能となった。
 実際は20年程度だが、電子装備が更新できるようになっていたので、最大で50年も可能とされた。また、日本海軍全体の艦隊整備計画からも、最低でも20年程度は現役でなくてはならなかった。一方で、運用経費が高すぎるので10年程度で退役させ、イージスシステムなど装備だけ新造の巡洋艦などに転用すればよいという意見も根強かった。

 しかし日本軍がソ連、東側陣営への対抗戦力を整えている一方で、時代の大きな流れが押しよせてもいた。


●フェイズ131「冷戦最盛期の欧州情勢」