●フェイズ131「冷戦最盛期の欧州情勢」

 1970年代半ばから80年代にかけて、第二次世界大戦後一貫して行われてきたヨーロッパでの政策が、大きな効果を見せるようになっていた。
 人口の回復および増加、そして経済の回復だ。

 ヨーロッパは、第二次世界大戦の序盤と終盤の主戦場となり、多くの国が戦場となって荒廃した。戦争を主導したドイツは、国家としては一度完全に滅亡した。
 しかもアメリカ、ソ連を中心とした新たな対立構造の出現によって、歴史的な西ヨーロッパの大動脈であるライン川が勢力境界線となって断絶したため、経済的にさらなる大打撃を受けた。西側、東側を問わずに物流網と経済の再編成と再構築が急務となり、半ば米ソそれぞれに国防もしくは軍事対立の主役を任せて、国力の回復に躍起になった。
 ヨーロッパ世界のこれほどの断絶は、有史以来ほとんどない緊急事態だったため、ヨーロッパ各国の危機感は非常に高かった。戦争や対立はあっても、貿易が長期間途絶える事は今まで一度も無かったからだ。ローマとゲルマンの棲み分けどころではなかった。
 そしてフランス、イギリス、少し遅れて東側のドイツを中心として、ヨーロッパ各国は人口の回復を国力回復の原動力にするべく大きな努力を傾けた。
 政策を進めて少ししてから、旧植民地帝国のフランスなどは近在の北アフリカから移民を集めればよかったと後悔したが、既に政策には莫大な公費が投入され、各国と競争状態になっている以上、続けるより他無かった。

 いち早く大規模な人口拡大政策を開始したイギリス、フランスは、第二次世界大戦終了で故郷へと帰ってきた若者達によって起きたベビーブームを、政策としてそのまま拡大する。特にフランスは、カトリックの倫理を強く持ち出して、妊娠中絶を法的に禁じてまでして人口拡大に躍起になった。
 ドイツは、1955年にようやくドイツ民主共和国として再独立すると、英仏への対抗もあって慌てるように強力な人口回復政策を開始する。
 ドイツの場合は、他国と比べても事態は深刻だった。戦争で多くの犠牲を出した上に、戦争終結前後、そして1961年に「フランクフルトの壁」で西側との国境線を封鎖するまでの間に、大量の国外亡命者を出していたからだ。(※西側のラインラントも、東側にすれば領土ごとの亡命に等しい。)しかも再独立が遅れ、ソ連の占領期間中の人口拡大もほとんど市民に委ねられたままだった。
 そして戦後すぐで6000万人だったドイツの人口は、再独立時の1955年には大量亡命で4500万人近くにまで激減していた。しかもこの時点では、既に英仏に大きな遅れを出した状態だった。
 ドイツとしては何としても人口を回復、そして拡大しなければならず、中央政府主導で強力に政策を推進。ソ連も強引に説き伏せる形で政策は不断の努力が続けられ、政策実行から30年後の1980年代半ばで約二倍の9000万人にまで人口の増加に成功する。
 この数字は戦前の水準を大きく上回るもので、しかもソ連などへ100万人程度の農業移民すら出ていたほどだった。このため1960年代から80年代のドイツは、子供と若者だらけの途上国や新興国のような人口構成となった。この状態は、19世紀の産業革命の頃以来の出来事だった。
 しかもドイツ人(民族)全体で見るならば、西側へと亡命したドイツ人及び二世の総数も約2800万人にまで増えていた。(※うち半数はラインラント居住)
 大きすぎる悲劇の反動ではあったが、ドイツ民族として見た場合、人口拡大は大きな成功を納めたと言えるかも知れない。

 そして人口拡大で成功したのは、フランス、イギリスも同様だった。1980年代半ばのそれぞれの人口は、フランスが6600万人、イギリスが5800万人だった。フランスは戦後のドイツからの亡命者を全体の5%ぐらい含み、イギリスはある程度の比率の海外移民を含めての数字だが、十分な成功と言えるだろう。イタリアでも他国に引っ張られる形で多産政策が実施され、何もしなかった場合よりも3〜5%多い人口の拡大に成功したと言われる。
 また大国に影響される形で、イタリア、ベネルクス三国、さらにはルーマニアなど東欧各国でも人口拡大政策は大なり小なり実施され、何もしなかった場合に比べると大きな人口拡大に成功している。
 しかも亡命ドイツ人を中心として、主に西ヨーロッパから主にアメリカ合衆国への白人移民が発生しており、世界規模での民族の流れにすら大きな影響を与えた。
 戦後も西ヨーロッパからの移民を多く受け入れた、ヨーロッパが座視したままだった場合より、最大で1000万人も多く移民が流れてきていると言われている。

 そして西欧の人口拡大の大元であるフランス、イギリスは、1956年の「スエズ危機」で対外的に失墜したことと、植民地依存型の帝国主義の限界に直面した事を受けて、近隣経済および国内経済の抜本的な転換を本格的に開始する。
 この時期にはアメリカからの援助や支援は無くなっていたが、この頃には西ヨーロッパ諸国は自力で建て直しを計りつつあった。
 1958年に成立したフランス・イタリア中心の「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」と、イギリス、北欧諸国による「ヨーロッパ自由貿易連合(EATA)」がそれだ。
 片や「ラテン同盟」、片や「北海同盟」とも言われたが、西側全体で結束しなかったのは主にフランスとイギリスの歴史的な関係が原因していた。またイギリスの、ヨーロッパ大陸に対する伝統的な不信感と警戒感の結果でもあった。しかもイギリスなどは組織を発展させて、1960年に「欧州自由貿易連合(EFTA)」を設立、フランス、イタリアなども1967年に「EEC」を「EC(欧州共同体)」へと発展させた。
 もっとも、70年代序盤の「ニクソン・ショック」は、純金獲得に躍起になったフランスが誘引したようなもので自業自得だった。次の「オイル・ショック」に際しては、北海沿岸諸国はソビエト連邦ロシア、ドイツ民主共和国と一定程度のデタント(緊張緩和)と妥協を行ってまでして、北海油田の開発を加速、拡大することで危機に対応した。フランスは、もと植民地地域からの輸入拡大と原発の異常な拡大で乗り切ろうとした。
 そして70年代に入ると、人口拡大政策が大きな成果となり始める。戦後生まれの人々が成人し始め、各分野へとなだれ込んでいったからだ。しかもこれが70年代半ば以後だったことが、より大きな成果へと繋がった。新規産業や拡大した産業が若者の受け入れ先となり、景気が大きく上向いている中で第二次ベビーブームが発生していったからだ。第一次ベビーブームは、アメリカからの援助があってなお苦しい状態で行われたが、70年代以後に起きた第二次ベビーブームは、冷戦最盛期と言われる中で経済の好調の中で起きた。
 西ヨーロッパの復活が言われたのも、1970年代半ばぐらいからだった。

 そうした中で、西側のヨーロッパ経済をより強める政策として、より強い国際関係の構築が目指された。しかしそこには大きな問題があった。俗に言う「ラインラント問題」だ。
 第二次世界大戦でアメリカ軍とソ連軍が握手したライン川の西岸地区、いわゆるラインラント地区は昔からドイツ領であり、これを他国に賠償などで併合するのは政治的、民族的に難しかった。かといってアメリカなどは、ソ連にみすみす自らの取り分を渡す気は全く無かった。独立させる動きもゼロではなかったが、狭すぎるし何より守ることが難しい地形だったので行われなかった。
 このため「連合軍ラインラント地区」が作られ、連合軍の占領下に民政組織を置く自治地域として冷戦時代を過ごすことになる。そしてラインラントの南西部にはザール炭田という有望な炭田があるのだが、この炭田は当時の西ヨーロッパ諸国に必要不可欠だった。1952年成立の「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)」の中核の一つであり、近在のフランス、ベネルクス諸国にとって是非とも必要だった。
 同地域はフランスが自国への併合を求めたほどだが、流石にアメリカはこれを許さなかった。アメリカとしては、アルザス・ロレーヌすら準敵国といえるフランスには過ぎた報償だと強く考えていたほどだったからだ。
 そこでフランスはドイツ人への復讐として、ラインラントの独立を決して行わないとアメリカと秘密文書を取り交わすことで「禊ぎ」として、ラインラントを自分たちの経済システムに組み込んだ。同時に大量のドイツからの亡命も受け入れ、彼らを労働力としてフランス経済の回復に役立てた。
 EEC設立でも、特別措置としてラインラントの参加が認められた。全てはフランスやベネルクスの経済拡大に、ラインラントを活用するためだ。そしてラインラント自身は、亡命してきたドイツ人が食べるために懸命に働く事で経済的な成功をおさめ、60年代には西側の近隣諸国にとって無くてはならない地域になっていた。
 だがラインラントは連合軍占領地域であって、独立国では無かった。独立はドイツ民主共和国はもちろん、ソ連も許さなかった。ラインラント地域で小さな議論が起きただけで、東側陣営は大規模な軍事的恫喝を行ったほどだった。アメリカも第二次世界大戦を起こしたドイツ人への懲罰の一つとして、ラインラントを独立させる気は全く無かった。

 そしてラインラントというよりドイツについて、イギリスが良く思っていなかった。
 EEC、ECSC共にイギリスなど北欧諸国、中立国は蚊帳の外に等しかったからだ。ラインラントについても、彼らから見れば「アメリカの勲章」に過ぎず、何かあったときの最初の「弾避け」ぐらいにしか考えていなかった。しかも自分たちが利益の外に置かれたとあっては、経緯はどうあれ気に入らないのは当然と言えるだろう。
 そうした中で、主にフランスとベネルクス諸国が、イギリスなど北欧諸国にECへの参加を呼びかけるようになる。東側に対抗するため、世界経済から埋没しないため、世界での発言権を高めるため、ヨーロッパの自由主義陣営は一致団結しなければ生き残れ得ないというのが彼らの論だった。確かに理屈では多くが正しかった。
 だがイギリスに、自らが作ったEFTAを飛び出してまでEC入りするメリットはあまり無かった。組織の結束力はECの方が強かったが、経済面ではあまり必要ないと考えていたし、何よりフランス主導なのが政治的、心理的に問題だった。しかもEC5カ国(+1)に対して、EFTAは当時で9カ国と参加国が多かった。
 さらにECは、フランス主導になりすぎていた。ベネルクス三国はその位置と国力の差からフランスに追従するしか選択肢が無く、形だけの対等のパートナー扱いのイタリアがフランスの傲慢さに嫌気を見せているのが実状だった。EFTAもイギリス主導ではあったが、参加国が分散している上に永世中立国が多い影響もあって、極端なイギリス一国主導ではなかった。そもそも経済的繋がりがより強く、政治的要素が低かった。さらにイギリスは、英連邦諸国を経済的にアテにすることもできた。
(※1970年代までのEFTA加盟国:イギリス、オーストリア*、クロアチア*、スロベニア*、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン*、スイス*、ポルトガル、アイスランド。 *マーク付きが中立国)

 また、純粋な貿易面で見ると、フランスは本来は農業国なのだが、人口拡大政策によって国内での消費が増えていたので、必然的に輸出は減少傾向にあった。しかも国内産業を強力に振興したおかげで、工業国としても大きな地位を占めるようになっていた。つまり工業国のイギリスに、あまり旨みは無かったわけだ。
 イギリスとしては、むしろ永世中立国も参加できる自らの自由貿易圏の拡大を行うべきだと考えていた。このためライン川の実りが無くなったベネルクス三国には、イギリスの側から誘いを行っていた。そしてイギリスは、安全保障ならNATO(北大西洋条約機構)が十分役割を果たしていると考えていた。
 もちろんだが、西側欧州陣営として団結する事による政治的地位の向上と発言権の強化は大きな魅力だった。NATOで安全保障を牛耳られ、アメリカの言いなりなのも気に入らなかった。しかしそれ以上に、やはりイギリスとしてはフランス主導の組織は受け入れがたかった。それは映し鏡であり、フランスにとってもイギリス主導の組織はあり得なかった。
 だからこそ英仏対等の組織を作るという線で、英仏の間で何度も会談や交渉が行われた。だがこの話しが他の西側欧州諸国に漏れると、多くの国から反発が出た。またイギリスだけが国連常任理事国という点で、どうしてもフランスの側にわだかまりがあった。

 EC、EFTAが一つの組織にならなかったのは、結局のところそれぞれ核となる国がイギリス、フランスだけだったのが問題だと言われる事が多い。このためイタリアが、フランスに匹敵するぐらいに国力もしくは政治力が大きければと言われる事も少なくなかった。ドイツの全体もしくは西半分だけでも西側の国だったなら話しも違っただろうと言う説もあったが、それはあくまで「もしも」の話しでしかなかった。
 結局、EC、EFTA共にほぼ現状維持のままで、東側陣営は西欧が大同団結しなかった事にホッと胸をなで下ろした。
 その結果というわけでもないだろうが、1975年に「全欧州安全保障会議(CACE)」が行われ、全欧州諸国と米、加の間に相互の国境の尊重が行われた。そして皮肉な事に、この会議によってラインラント地区に独立の芽が芽生える事になる。ドイツ民主共和国は認めなかったが、ドイツではない場所と諸外国が認めた事になったからだ。
 しかし政治的に敏感な場所なのは間違いないため、ラインラントが独立という話しにまではならなかった。オブザーバーなどでの国連参加も認められなかった。同地域からのオリンピック参加という話しも実現しなかった。

 一方、ラインラントの東、旧ドイツ主要部を領土とするドイツ民主共和国は、ヨーロッパ諸国の中でも復興の遅れた国だった。ソ連が意図して近代産業の復興を遅らせた上に、かなりの期間農業国としての再建しか認めなかったからだ。
 とはいえ元工業国を農業国戻してしまうのは、あまりにも無駄な話しだった。その事にはソ連も最初から分かっていたので、自らに不足するものの生産を少しずつ認めるようになった。加えて言えば、ソ連としてもドイツ経済があまりにも低迷しすぎていては、ソ連の負担が大きくなるばかりか、アメリカに対抗する点で見てもドイツを得たメリットが薄くなりすぎて、半ば本末転倒だった。
 そうして戦後のドイツでは、俄に繊維産業を中心とする生活用品の生産が復活、発展した。しかも軽工業は、重工業を極端に重視してきたソ連が不得手とする事だった。そしてドイツは工業化以前から「職人(マイスター)」の国であるため、繊維産業以外の伝統産業が盛んだった。鞄、靴、陶磁器などの生産も、ロシア人の求めから順調に回復していった。重工業に含まれるガラス製品も、比較的早く復活していた。重工業に含まれる事もある化学繊維産業も、気が付いたら行われるようになっていた。
 機械産業についても、手工業レベルならば当初から認めるたため、時計やカメラのような精密機械の生産も、「手工業」と強引に言い切って生産が途切れることは割けられた。ジーメンスなどは、企業の本体はドイツの外に逃げ出していたが、職人、技術者はかなり残ったままだったので、国営企業としてだったが復活も早かった。
 電気製品産業も、民生面での復活、発展は東側としてはかなり早い方だった。
 それでも重工業、特に機械工業については、ソ連が使う戦闘艦を作る以外ではほとんど認めず、重工業の指標の一つである粗鋼生産も低迷を続けざるを得なかった。
 ドイツで産出される豊富な石炭も、東側諸国に輸出する以外では、せいぜい火力発電で使われるばかりだった。先進重工業の象徴の一つである自動車生産も、戦前の生産施設はソ連に持ち去られ、一度は完全に無くされた。航空産業についても同様だ。戦後残っていた施設も、全て解体してソ連が持ち去っていた。
 そして戦争終盤にソ連が攻め込んだ為、多くの企業、技術者が国外亡命せざるを得なくなり、戦後も続々と亡命者が出た。そしてアメリカ、フランスなど、ドイツ人亡命者を受け入れた国々が恩恵を受けることとなった。特にアメリカが受けた恩恵は大きく、戦後のフランスの重工業政策にも大きな影響を与えた。旧ドイツの軍需企業のかなりも、アメリカやフランス、イギリスで何らかの技術が活かされるか、場合によっては企業自体が生き延びていた。
 また、ダイムラーなど一部の企業は、ラインラント地区で再興を図っている。このため戦前からの流れを持つ自動車、航空機、武器開発の一部はドイツ以外で生き延び、そして発展するという皮肉な状況を生んでいた。亡命の一部は、欧米ばかりでなく満州や日本にも行っていた。
 そしてライン川での政治的分断もあって、ライン川西岸各所にあった欧州最大の工業地帯(特にルール地方)は一度は完全に寂れてしまう。爆撃の被害もあって、まるでゴーストタウンのようにすらなった。

 ドイツの重工業復活は、ソ連のブレジネフ書記長の時代を待たねばならなかった。
 西欧諸国の復活と満州の拡大が原因とされたが、実際はソ連経済と財政自体が大きく停滞もしくは傾き始めていた為、その代替を東側陣営各国にソ連自身が求めるようになった事が強く影響していた。ドイツ産業の切っ掛けの一つとなったインドネシア戦争での支援で、一部をドイツが生産を肩代わりしたのもソ連が既に疲弊し始めていたからだった。だからこそ、ジャワ島の港にやって来る船のかなりがドイツ船籍だったのだ。
 そしてドイツではホーネッカー政権(1971〜1989)の間に、ソ連から同盟国価格で各種資源を得て、またソ連がドイツから奪った技術を実質的に返してもらう形で、ドイツの重工業が大きく発展していく事になる。
 また、戦災と戦後の「無工業化」で一度は完全に更地になっていたことで、用地や区画の整備の面倒を大きく減少させていた事も、ドイツでの重工業再建には逆に役に立った。一時期のドイツは、かなり本気で農業立国を目指していたが、そうした用地は広く大きな工場の建設に向いていたからだ。
 こういう一方方向に突き進む性質は、ドイツ人らしいと言えるだろう。

 だが、かつてはドイツの心臓部とすら言われたルール工業地帯がすっかり寂れていたように、一度絶えた重工業の再建は容易ではなかった。
 技術者の育成の面ですら、多くの技術をソ連などで学び直す必要があった。しかもソ連の一般的な重工業技術は、極端に言えば1930年代にアメリカから輸入されたものだった。常に進歩している西側諸国との格差は明らかだったのだが、それでも当時のドイツは多くの苦労が伴った。自動車などに使う薄い板金のプレス加工ひとつとっても、東側の技術はアメリカから技術輸入した1930年代のままだった。このため東側の車には、凝った外装の量産車が無かった。
 共産政権下のドイツでも、1960年代からはかなり貧弱ながら小型車が生産され、70年代になるとナチス時代のフォルクスワーゲンが復活したが、それ以上の発展はほとんど無理だった。しかも民間技術の基盤の殆どが(アメリカの)1930年代のままであり、西側先進国のような洗練された車や最新技術を用いた車の製造は無理だった。それでも生産力は大きく拡大され、1980年代には東側諸国で最も走っている車となっている。
 そして科学理論が西側と同等でも、先端技術で10年、軍事技術で20年、主に民生の汎用技術で30年遅れているとすら言われていたのは、西側のプロパガンダではなくほぼ真実を突いていた。

 だが、重工業化が軌道に乗り始めると、それなりに順調な拡大を開始する。何からすれば良いかある程度までは分かっていたし、かつての技術者もかなりの高齢ではあったが皆無ではないし、軽工業で産業と経済、会社経営を再構築してきた事が好影響をもたらしていた。
 これを西側陣営の専門家は、旧ドイツ時代に資本主義をきちんと経験してきた影響だと判断しているし、ロシア人よりもドイツ人の方が産業を育成することには向いていると分析した。と言うよりも、世界中でもドイツ人ほど産業育成に向いている民族は珍しいとすら言える。伊達に、世界を二度も敵に回して近代戦争を戦ってはいなかった。
 GNP(もしくはGDP)も大きく伸びていき、1980年代半ばには名目数字で8000ドルから1万ドルという、西側の先進国並の水準に達している。
 総人口も大きくなっていたため、公表されている数字だけならイギリス、フランスを越えるほどとなる。このため、東側唯一の先進国と言われたりもした。そして、当時経済的苦境の続くソ連経済すらも支えるほどだった。ドイツの復活が言われたのも、1980年代の事だった。
 とはいえ、ソ連も無条件にお人好しではないので、ドイツの武器生産には大きな制限を付けた。
 特に航空機、ジェットエンジン、ロケットエンジン、潜水艦、NBC(核、生物、化学)兵器の開発は厳禁していた。他にも兵器によっては、輸入兵器の独自改良を禁じてる場合もあった。兵器に転用可能な商業原発も、建設こそされたが工事はソ連が行い、ドイツ人には基礎研究すら決して認めなかった。何やら第一次世界大戦後を思わせる制約だが、それだけドイツの潜在性を恐れていた証拠だった。
 それでも元がソ連製ならば、小銃から始まって戦車程度までならばソ連製のライセンス製造も認めるようになった。装甲車ぐらいまでなら、徐々に国産も認めるようになった。1970年代になると、航空機もライセンス生産は認めるようになった。しかし、戦後の混乱で企業の多くが全てを抱えて逃げ出し、さらに四半世紀も兵器の生産を一切行っていなかった影響は大きく、成果を出すまでに非常に大きな苦労が伴われた。

 ドイツ以外の東側諸国では、基本的に国力、軍事力で高く評価できる国は無かった。特にチェコを除いて重工業力が低く、ソ連が援助してある程度の力を付けさせたほどだ。1980年代になると、ドイツが東欧各国に経済的に進出したりもしている。
 もっとも、ソ連にとってはドイツを含めて頭を押さえ付けた状態でないと安心出来ないため、自力で行動に結果を出すこと自体に無理があった。その象徴が各国の「秘密警察」であり、東欧各国はソ連の同種の組織のコピーと言える組織が、国民全てを厳しく監視していた。
 ドイツ民主共和国の国家保安省、通称「シュタージ」が特に有名だろう。シュタージの権力と勢力は大きく、全人口比でソ連のKGBや自らの先代に当たるナチス時代のゲシュタポすら越える規模を有していた。
 しかもシュタージは、西側への亡命阻止の組織としても拡大した事から、国境警備隊を中心にして半ば軍隊化し、「ハイドリヒの遺産」ともども「親衛隊(SS=シュッツ・シュタッフェル)」と裏で言われる事もあった。組織自体も階級を始めとして、かなり軍隊寄りとなった。

 また、社会主義陣営全体で見ても、1970年代以後のドイツを除けば、軍事的に評価できる国は中華人民共和国(西支那)とインドネシア人民共和国、キューバ共和国ぐらいしかなかった。この3国も、西側の戦力と注意を限定的に引きつけるという程度の能力しかないのが現状で、ソ連としては自らしか頼る者はなく、ヨーロッパでの優位を維持することを第一にせざるを得なかった。
 ヨーロッパ正面以外で多少の例外は、ソ連自らが苦労して作り上げたカムチャッカ半島の巨大な潜水艦基地だが、これも半ばやぶ蛇だった。
 確かに日米に強い政治的脅威を与えはしたが、ソ連軍では対応が難しい軍隊(戦力)を主に日本に作られてしまったからだ。このためソ連が北太平洋に置いた戦力は、戦力価値を大きく減殺されていた。しかも対抗上置き続けざるを得なかった。このため専門家の中には、太平洋など放っておいてヨーロッパ正面に全ての力を注ぐべきだったという意見も少なくない。もしくは、北極海方面に潜水艦戦力を集中するべきだったと言う。
 しかしソ連としては国家戦略上の見地から、中距離の潜水艦発射弾道弾で日本、アメリカ西海岸に脅威を与える為にも、太平洋方面に有力な潜水艦隊と基地が必要であり、引くに引けないというのが実状だった。

 一方、イタリア以外の地中海・バルカン諸国だが、比較的平穏と言うか、米ソからあまり注目されていなかった。
 その多くの理由は、小国か永世中立国ばかりだからだ。旧ユーゴスラビア王国の地域が特にそうで、小国が分立してそれぞれの陣営に属したり永世中立国なので、両陣営も手を付け難たかった。
 勢力的にはセルビアだけが明確に東側陣営に属し、そして「大セルビア主義」を掲げて主に旧ユーゴスラビア地域の近隣諸国を政治的に圧迫していたが、言ってしまえばそれだけだった。軍事的には、セルビアが強く出過ぎると地中海に駐留する日本軍の活動が活発になるが、活発になりすぎるとソ連が反応しなければならず、ソ連としては余計な金がかかるだけで有り難迷惑でしかなかった。このためソ連がセルビアの動きを押さえ付けることが多く、この事が同地域の安定化に大きく寄与していた。
 他の国は、明確にNATOに入って庇護を求めるか永世中立国となっていたが、経済的には西側と関係を深めた。特に近隣のイタリアと関係を深めるか、イギリス中心のEFTAに加盟していた。それでも小国ばかりで一国一国の経済規模も小さいので、ソ連が過剰に反応する事もなかった。
 トルコ憎しの感情からNATOを離れて中途半端に中立化したブルガリアは、フィンランドのように東西双方と経済的な関係を持っていたが、工業力に乏しく国力も限られていたため、どの国も注目していなかった。
 結局、西側にとっては経済の補助地域で、東側というよりソ連にとっては、金が無くなって以後急速に意図的に無視する地域になっていった。
 そして意外に安定したアドリア海沿岸は、1970年代ぐらいから主に観光地として発展するようになる。しかしアドリア海が平穏だったのは、軍事的にも価値が低かったからに他ならない。

 東西対立の最前線であるライン川の両岸は、そうはいかなかった。


●フェイズ132「冷戦最盛期の欧州軍備」