●フェイズ132「冷戦最盛期の欧州軍備」

 1980年代のヨーロッパ正面の軍事事情は、ソ連を中核とする東側陣営は通常軍備で圧倒していたと言われていた。特に地上戦力での差は顕著とされてきた。
 第二次世界大戦で、スチームローラーのようにドイツ軍を押しつぶした結果は、冷戦時代を通じて西ヨーロッパ世界の当たり前すぎるソ連軍のイメージだった。

 ソ連陸軍の欧州駐留部隊は、規模が大きすぎる事もあって大きく二つに分かれていた。
 一つはドイツ西部、ライン川東岸地区にいるドイツ駐留戦線軍(軍集団)と、ドイツ東部(ベルリン東方)からポーランドに駐留するポーランド戦線軍(軍集団)だ。
 なおソ連陸軍(地上軍)の最大級の軍事単位は戦線軍(軍集団)で、その下に軍団さらに師団、旅団と続く。そして1980年代中頃のソ連陸軍は210個師団を有していた。西側の師団よりも小振りとはいえ、まるで第二次世界大戦頃のような規模でありソ連の力の根元の一つと言えた。
(※大まかに見ると、アメリカは重装備の師団が1個師団当たり1万8000名程度が基準ラインで、ソ連は1万から1万2000名程度になる。)
 師団の75%は一般の歩兵師団(狙撃師団=ライフル師団)で、25%つまり約50個師団が約300両の戦車を装備する戦車師団になる。他に砲兵師団などの支援部隊と、空挺師団のような特殊用途の部隊があった。
 戦車の総数は、野外の駐屯地に並べてあるだけの予備の旧式車両を含めると、実に5万5000両にも上る。生産数の多さから世界中の標準的な戦車とすら言える「T54/55」戦車は、ソ連だけで2万両も保有していた。これに欧州の東側諸国が保有する1万両が加わる。
 ただしソ連以外の東側は、「T54/55」戦車ばかりで「T72」を多少装備する以外は旧式ばかりとなる。場合によっては、第二次世界大戦で活躍した「T-34/85」を装備している事もあった。また、ソ連にとっての第三世代戦車といえる「T-80」戦車の量産は遅れがちで、80年代末で2000両程度しか配備されていなかった。冷戦最盛期のソ連軍の主力戦車は、あくまで「T72」「T64」「T62」だった。

 そしてソ連軍は、流石に多すぎる師団数を充足率から3つのカテゴリーに分類し、最前線に配置している軍団に充足率の高い精鋭部隊を配備していた。そのうち一つが、ライン川東岸に布陣しており、この部隊は全ソ連陸軍の中で最も精鋭部隊だった。
(※二番目は、シベリアのザバイカル方面で満州帝国軍の大規模な機甲部隊と睨み合っている、ザバイカル戦線軍になる。)
 ポーランド近辺に駐留している戦線軍も、短期間の動員と準備ですぐに出動可能であり、二つの戦線軍(軍集団)を用いて、一撃でヨーロッパ西部を蹂躙する作戦になっていた。加えてソ連本国にも2つの戦線軍が待機しており、これらも時間さえあれば兵員を充足し、第二または第三挺団として西ヨーロッパを蹂躙する手はずになっていた。全てを合わせると、全軍の半数にあたる110個師団にもなる。
(※満州方面のザバイカル戦域軍は、精鋭師団を中心に約30個師団。)
 しかもライン川西岸にいるフランス軍、アメリカ軍などの撃破は、西側が戦術核兵器を用いなければ、ライン川東岸にいる部隊だけで十分可能と言われていた。第二挺団以後がいるのは、西側が核兵器を用いるのを大前提としていた事への保険であり、完璧に占領するためでしかない。
 アメリカが本国に大規模な増援部隊をすぐにも出発できる体制を維持していたが、それは虚しい努力でしかないというのが純軍事面での一般評だった。ソ連軍の演習結果では、どれほどシビアにしてもソ連軍が大西洋に出る方が先だった。

 西側がヨーロッパの第二戦線と考えていたイタリア方面については、ソ連としてはポーランド方面の部隊の一部を差し向ける計画があっただけで、基本的にはオーストリアなどに侵攻予定の近隣同盟諸国の次の仕事とされ、あまり深くは考えられていなかった。西側の主戦線が崩壊すれば、それでヨーロッパ全体の決着は付くと考えられていたからだ。それにソ連軍としては、進撃速度が出せない山越えの戦闘はできるだけしたくなかった。
 しかも当時のイタリア王国陸軍は、意外と言われるほどの戦力を保有していた。
 旧式を含めて戦車総数1700両は、防衛範囲を考えれば決して少なくはない。しかも主力はアメリカ製の「M48」、「M60」戦車なので、フランス軍よりも防御的な機甲戦力では頼りになると言われていた。装甲車も総数4000両以上を保有しており、自走砲なども合わせれば十分な機甲戦力だった。しかも機甲戦力の全てを、国の北東部に集中していた。また日本軍が駐留していた関係か、満州製の「雪豹」対空戦車など日満の装備を有するヨーロッパでは珍しい国でもあった。
 第三世代の主力戦車の開発も自力で行われるようになり、満州、日本から技術導入する形でオットー・メララ社で開発が行われ、1985年に「アリエテ」の名を与えられ88年に量産開始されていた。
 能力的には標準的な第三世代主力戦車で、特に大きな特徴は見られない。強いて特徴をあげるなら、第二次世界大戦後最初で最後のイタリア国産の主力戦車という事になるだろう。またイタリアが生み出した、唯一の重量級戦車でもある。
 当初は、旧式化の著しいM47の代替分として300両。さらにM48の代替分として10年間に1000両という、イタリア陸軍としては野心的な量産を目論んでいた。しかし1992年に大規模な量産計画は流れてしまい、最終的には改良型を含めて500両程度が生産されたに止まっている。しかしその後、欧州各国を中心にある程度の輸出に成功している。

 また、イタリアの陸での守りは最初がアルプス山脈での山岳戦となるため、山岳部隊が非常に充実していた。空挺部隊よりも精鋭度合いが高く、機甲部隊よりも精兵が配備されていた。イタリア陸軍アルプス師団といえば、西側の山岳師団の代表の一つとすら言われるほどで、ソ連軍も一目を置いていたほどだ。
 鉄道や道路の山岳防御も充実しており、スイスを参考にした進撃阻止のための仕掛け(※対戦車障害や、橋、トンネル、狭隘な山道、谷道などの爆破用の弾薬穴の設置など)も入念に設置されていた。
 なおイタリアの山岳兵は、近代に入って以後精兵としてヨーロッパでは知られる存在で、彼らはその伝統を引き継いでいると言えるだろう。
 さらにイタリア軍の側面を、日本陸軍の重装備の機械化軍団(※「第三軍」。機甲師団、機械化師団共に1個ずつが所属)が支えることでイタリアでの防衛構想が組み立てられており、戦術核の乱れ撃ちをされるかソ連軍の精鋭が大挙押しよせない限り、防戦は可能と判断されていた。
 もっとも、イタリア王国軍の意外に高い戦力は、ソ連軍をなおさらフランス正面に向けさせたとも言われている。
 それに陸から地中海に出たところで、海軍がボスポラス海峡を自由に越えられなければあまり意味がないので、尚更ソ連の熱意を下げさせてもいた。

 ソ連陸軍のドイツ駐留戦線軍(軍集団)は、親衛隊や突撃の名誉称号を冠した軍団ばかり5つの精鋭機械化軍団と、1つの航空軍団を中心に編成されていた。
 合計地上24個師団、約34万人の兵員が、約4200両の戦車と約8200両の装甲車両、約1400機の航空機(ヘリ含む)などを装備していた。しかもどの装備も最新鋭で、練度も高い兵士を揃えていた。
 さらにライン川地域には、各3個師団編成の赤いドイツ軍(レッド・ジャーマン)の軍団が5個軍団(15個師団)あり、それぞれソ連軍の支援に当たるように分散して配備されていた。ドイツ軍だけでも直接戦闘参加する兵士だけで20万人の兵力になる。また赤いドイツ軍にはさらに4個師団の兵力があって、デンマーク国境とオーストリア国境方面に分散して配備されていた。
 なお赤いドイツ軍は、ソ連から大量に売りつけられた戦車と一部国産の戦車を多数保有しており、稼働率はともかく総数は5400両にも達していた。
 西側にとっては、「ドイツ軍」と「戦車」ということもあって十分に脅威だった。人民軍(ドイツ軍)の組織自体も旧ドイツ軍の伝統を色濃く受け継いでおり、「赤いナチス」と西側から言われたほどだ。(※ドイツ自身は、やや自虐的に「赤いプロイセン」と言っていた。)
 また、国産の「T-55」戦車の独自生産型「Pz-66」(※別名「VIII号戦車」)は、砲塔が少し高く大きいためドイツはまともな戦車生産能力を無くしたのだと小馬鹿にすらされたが、実際は人間工学に沿って再設計して内部空間を確保して実質的に性能を向上させた結果だった。何しろドイツで、ソ連製の戦車に似合う小柄な兵士を所定数確保するのは、かなりの難儀だったからだ。
 国産の装甲車も、カタログデータはともかく実際上の能力はソ連のBMP(歩兵戦闘車)よりも高かった。
 加えて東欧の東側諸国は、ポーランドが4個軍団、チェコスロバキアが4個軍団、ハンガリーが2個軍団、ルーマニアが2個軍団を保有しており、戦争になればこのうち半数が各地の戦線に投入可能とされていた。
 ドイツ、ポーランド以外の東欧各国の軍は、有事の際はオーストリアなど「中立国の壁」を突破して、イタリア、トルコを攻撃する予定とされていた。

 対するヨーロッパ正面の西側は、お世辞にも十分な戦力とは言えなかった。
 ライン川正面で数の主力は、やはりフランス軍だった。フランス軍は、ルイ王朝の最盛期やナポレオン時代はヨーロッパ随一の陸軍大国と言われ、第一次世界大戦の奮闘でも有名だった。しかし第二次世界大戦ではあまり活躍ができず、大戦後の軍の育成も今ひとつと言えた。
 工業力、生産力が遠因と言われる中途半端な能力と言われる事の多い主力戦車の「AMX-30」や、1950年代末からのペントミック師団の採用など、持たざるが故の弱体化が言われる事がある。
 ペントミック師団とは、戦術核の標的にならない規模に戦略単位となる師団の編成規模を小さくまとめあげたものだ。部隊規模的には、師団の一つ下の単位の旅団程度しかなく、その下の連隊も精々増強大隊規模しかない。兵科の基本単位が中隊なのも特徴の一つだ。
 大規模戦闘では大隊を部隊の基本単位とするべきで、部隊としての耐久力の低いペントミック師団は大規模正面戦闘には不向きだった。このため研究したアメリカでは採用されず、アメリカの強い影響下にあったフランスで全面的に採用された。
 しかし同編成は、大規模正面戦闘以外ではかなり優秀な編成で、特に植民地や後進国との局地戦では目覚ましい活躍を示した。フランスの場合、1960年前後のアルジェリアでの戦闘で採用間もないペントミック師団が大活躍し、そのまま全軍へと採用され用いられ続けた。

 フランス陸軍は、その小振りな機甲師団2〜3個と歩兵師団1個を合わせて小規模な軍団を編成し、これを7つ編成して守りの中核戦力としていた(※1個軍団でも、満州の重機甲師団1個より戦力は低い。)。
 また、別に9個の国境警備師団が存在しており、有事になると人員を充足して守りを固めることになっている。この国境警備師団は、郷土防衛部隊としての向きが強いが、装備も歩兵師団並の重装備を持っていた。
 フランス陸軍全体では、機甲師団18個、歩兵師団12個、空挺旅団1個、外人部隊(軽機甲師団)2個、国境警備師団9個、重砲兵旅団5個が主な部隊となる。
 兵員数は平時で32万人、戦時の充足状態の第一線部隊で45万人がフランスの国土を守ることになっていた。そして後方、事務を含めると、総数50万人を越える。当然ながら、ナポレオン時代からの伝統である徴兵制により兵士は供給されていた。総動員時には、予備役全てに招集をかけて100万を越える軍隊が出現する予定だった。
 師団数だけ見れば非常に雄大な規模の陸軍のように見えるが、師団の実質規模と戦力をアメリカ陸軍の旅団と同じ程度なので、3分の1の実質10〜15個師団程度の戦力と見ると分かりやすいかもしれない。ソ連など東側の師団と比較しても、師団戦力は半分程度で図るのが分かりやすい目安となる。
 また、兵力規模だけならドイツ駐留ソ連軍に匹敵するが、機甲戦力、直接火力は実質半分程度なので対抗不可能な戦力でしかない。

 戦車保有数は総数3500両とされるが、このうち主力戦車(MBT)は約2700両で、残りは「AMX-10RC」という装輪式の装甲車に105mm砲を搭載した実質装甲車でしかない。
 「AMX-10RC」は17トンと軽量のため海外派遣や緊急展開には便利だが、重装備の敵には無力なためフランス軍を非難する声は装備開始の頃から強かったと言われる。しかし、21世紀に入る頃にはこのような車両が求められるようになっていたので、大規模正面戦闘以外で有効だったのは確かなのだろう。
 フランス軍の装備と数が国力から考えると少ないのは、フランス自身がヨーロッパ以外に目を向けがちなのが強く影響していた。外人部隊という海外派兵前提の部隊を持っていたり、不必要と言われる規模の海軍を保有しているのがその証拠だった。
 当のフランス陸軍も、目の前の脅威に対して自分たちが力不足なのは痛感していた。このため60年代のうちから次の主力戦車開発が行われたが、「AMX-30」を元とした「AMX-32」は何もかもが中途半端だった。
 このため苦渋の決断とも言われた、アメリカから全面的に技術導入する事を決意する。「M1」戦車で使われている技術を用いて、自前の「AMX-30」の技術と設計をベースに新型戦車が開発されたのだ。
 これが「AMX-40」で、配備が急がれた事もあって1982年に試作車両が完成して、1986年に正式化された。総重量は「M1」よりも少し軽量だが、火砲は120mmで装甲も複合装甲を中心とする完全な第三世代戦車として完成した。エンジンはディーゼルで、何とか国産が搭載されたが若干の不安を抱えていた。このため後に、エンジンは改良型に全面換装されている。
 またこの頃としては珍しく、追加で簡単に増加装甲が装着可能という特徴を持っており、フランスが同車両の海外展開と輸出を考えていた事が強く伺える。総重量が軽いのも、増加装甲が装着できるからという理由もあった。
 そしてフランスの思惑通り、近隣の西側諸国に早々に輸出が開始されている。

 他の西側諸国だと、オランダが総動員で3個軍団(6個師団相当)、ベルギーが2個軍団(4個師団相当)程度、そしてイギリス・ライン軍団が戦時で1個軍団・4個師団を揃える予定だった。アメリカからの兵器供与面で全面支援されいたオランダ軍は意外に重装備で、主要部隊のほとんどが機械化されていた。
 イギリス・ライン軍団は、1966年からライン川東岸のベルギー領内を中心に展開していた。平時は移動の面倒さもあって、重厚な編成を持つ機甲師団を3個配備していた。これに有事になると歩兵師団1個が本国から増援され、さらに支援兵力を足した上で戦闘に当たる予定になっていた。
 このライン軍団はイギリス陸軍の主力であり、残りは有事に動員される軽装備の留守部隊を除けば空挺旅団や海軍のコマンド部隊などしか残っていなかった。その証拠と言うべきか、戦車の過半は常にライン軍団に配備されていた。
 そしてイギリス軍を足したところで、ソ連軍とドイツ軍を足した戦力には到底敵わなかった。だからこそ実質的な主力は、アメリカ陸軍のヨーロッパ駐留軍になる。
 アメリカ陸軍・ヨーロッパ駐留軍は、1個軍・3個軍団・6個師団を基幹線力としており、総数20万人の兵員を抱えていた。同部隊が保有する戦車数(約2300両)だけで、フランス全軍に匹敵するほどだ。そして平時は兵員数が15万人程度に抑えられていたが、装備、弾薬は全てヨーロッパ各所に保管、備蓄されていたので、有事が近づくと空輸で残りの兵士を送り込むことになっていた。また空輸という点では、緊急時には第82空挺師団や第101空中突撃師団がただちにアメリカ本土から駆けつける想定もあった。
 さらにアメリカ軍は、ある程度事前情報さえ得ていれば、2週間で4個師団の重装備部隊をアメリカ本土からフランスに持ち込むことが可能だった。海兵隊の2個師団を中核とした海兵遠征軍や、東海岸各所に配備されている装備を満載した事前集積船の群れなどが大部隊の迅速な移動を可能としていた。そしてこれらの戦力は反撃用なので、西ヨーロッパに配備していた1個軍の戦力は基本的に全て防戦に投入予定だった。逆を言えば、手持ちの全てを防戦に投入しなければ、ソ連軍を止めることが不可能だったという事になる。これは、アメリカ軍が西欧各地に大量の戦術核とその為の攻撃手段を用意していたことからも頷ける。
 最初の部隊を何とか耐え凌いでも、ほぼ同じ数が間髪を入れず突進してくるのだから、耐えられないのも道理だった。

 なお最盛期のアメリカ陸軍は、総数24個師団を基幹線力としていた。このうち6個が欧州駐留、2個が欧州派兵の為の即応待機、2個が支那共和国駐留となる(※支那駐留軍は70年代後半に廃止。)。また第82空挺師団、第101空中突撃師団も即応部隊であり、常に出動できる体制で国内待機している。
 残り12個師団のうち、ヨーロッパ向け、アジア向けにそれぞれ2個師団(1個軍団分)が準備されていたが、よほど事前に大規模戦闘の予兆が無い限りは派兵することは難しかった。そして残りの部隊は、実質的な2線級部隊なので国内警備用の州兵部隊になる。と言っても、他国の師団よりもよほど強力な編成と装備を持っていた。
 また師団以外には、アラスカの冬季戦旅団、欧州配備の空挺旅団、レンジャー旅団、教導部隊の独立機甲旅団などがあり、裾野の広い非常に規模の大きな陸軍を構成している。
 後方支援体制も他国を懸絶するほど充実しており、総合的な能力では実質的に世界最強の陸軍と言っても間違いないだろう。
 この事は、1980年代に平原では最強を誇るソ連軍が、アフガンの峻険な山の合間では弱体をさらした事からも確かと言える。それでも平原での大規模戦闘となると、やはりソ連軍に歩があるのは認めざるを得ないのが、西側陣営の実状だった。

 だが、アメリカ軍の神髄は、やはり空軍と海軍になるだろう。
 何隻もの巨大空母を保有し、最盛時は1000機もの戦略爆撃機を抱えていた。何よりアメリカ軍の真骨頂は、全世界に対する展開能力の高さだ。全世界の空中給油機のうち約80%をアメリカ軍が保有しているほどで、アメリカ本国からやって来る増援兵力は、どの時代でもソ連の脅威であり続けた。
 それでもソ連軍はヨーロッパ正面での兵力の優位を獲得することに腐心し、陸軍だけでなく空軍にも大きな努力を割いていた。このため極東の空では日満に徐々に押し込められていたが、ソ連としては最悪シベリアは切り捨てられるし、日満の戦力を引きつけていると考えるようにしていた。
 そして欧州の空の実状だが、強力なアメリカ空軍と言えども、手間と経費を考えると無尽蔵に部隊を駐留させるわけにはいかなかった。地中海の日本軍も同様で、西ヨーロッパ諸国の補助を当面の任務としていた。
 だが、西ヨーロッパ諸国の空軍軍備は、どの時代でも十分とは言えなかった。
 原因の多くは、第二次世界大戦に求めることができる。第二次世界大戦でイギリス、フランスは国を二つに割って戦い、実質的に全ての国が連合軍に敗北した事になるからだ。
 そして本来なら、敗者の軍備は制限されるのだが、大戦後に発生した冷戦構造によりイギリスの各メーカーは何とか生き延びた。そしてイギリスの努力もあって、1960年代までは失敗をはさみつつもある程度自力での航空機開発と生産が行われた。ジェット機型の戦略爆撃機すら、開発・生産できたほどだ。
 加えて、1960年代以後は自らの力を越える分には、国産以外の機体を使う事も増えていった。国産機も、「ハリアー」などといった優れた機体を時折生み出してもいる。また、イタリア、オランダなどとの共同開発で、「トーネード」攻撃機の開発も何とか成功させている。
 自力での制空戦闘機の開発は70年代に一旦諦めざるを得なかったが、そうした状況でイギリスが選んだアメリカ製の「F-16」戦闘機は優れた機体だった。(※本来は「トーネード」の戦闘機型を開発予定だったが、予算などの都合から無理だった。)
 イタリアは、敗戦と経済の低迷、さらには技術的に十分な余地がないなどの理由から、戦後は一時期を除いて共同開発以外の第一線機の開発は行わなくなった。このため日本、アメリカのメーカーの機体を運用する事も多く、日米としては御しやすい相手ではあった。
 ベネルクス三国は、東側の脅威を直に受けているため軍事力の整備に熱心だったが、国力規模から航空機を自力開発する力は無く、共同開発への参加が精一杯だった。
 主要兵器の自力生産能力を保持し続けていた中立国スウェーデンは、相変わらず我が道を進んでいた。
 問題はフランスだった。

 フランスは、第二次世界大戦で二度国内の航空産業を破壊された。一度目は1940年にドイツに敗北した時、二度目は1946年に連合軍に敗北した時だ。しかもフランスは、第二次世界大戦までの航空行政に完全に失敗しており、最初の敗北の原因の一つとすら言われた。
 にも関わらず、戦後のフランスは自力での航空機開発と生産にこだわりを見せた。
 このため一応連合軍の許可を得ると、国内で半ば残骸になっていたメーカーや技術者を集めて国策会社の再生を決定。これが再建された形の国策航空機メーカーのアルゼナル社になる。
 同社は第二次世界大戦中もフランスの軍用機を生産することで規模を拡大するも、大戦終了と共に連合軍に事業を一時停止され、事実上解体される。その後、再稼働が認められると、一度はこの会社にフランスの航空産業全てが集約された。
 だが、フランス自体が連合軍に課せられた制約もあって、すぐに結果が出るわけはなかった。このためフランス政府は、民間機開発を含めて大戦を何とか生き残っていた国内のメーカーも利用した。この中の一つが、第二次世界大戦中にフランスに進出していたドイツのハインケル社だ。
 ハインケル社は、ナチス政権とあまり関係がよくなかった為、国外特にフランスの航空機生産に大きく関わった。その経緯で、大戦中にはフランス国内にすら航空機工場を建設しており、他にもフランスに近いアルザス、ラインラントにも工場などを置いていた。このためドイツの企業ながら、かなりを西側企業として残すことが出来た。
 これをフランス政府は利用することとして、取りあえずは連合軍に目を付けられない民間機や非武装の機体の開発を行わせた。このためフランス風にエンケルと社名を改めると、小型プロペラ機、旅客機開発などを行うようになる。
 1960年代に入りハインケル社改めエンケル社が軍用機に参入するのも、輸送機や小型の連絡機など直接戦闘に関わらない機体からとなった。それでもジェット機開発能力は保持していたおかげで、徐々にフランスを始め西ヨーロッパで存在感を発揮するようになる。
 対してアルゼナル社は、社会主義的な国策会社だった事が仇となって、戦前同様にあまり大きな成果を挙げることが出来なかった。また、フランス自体が大戦後しばらくは連合軍から軍用機開発に制限が付けられた事もあって、第一世代のジェット戦闘機は遂に開発することができなかった。
 それでもフランス政府としては、まずは国策会社に力を入れざるを得なかった。そうして何度かの失敗と、辛うじての成功を経て、「ミラージュ」で知られる機体を世に送り出す。
 一方のエンケル社は、もとドイツの企業と言うことでアメリカが良い顔をしないため、結局目立つ軍用機は殆ど開発しなかった。その代わり、民間旅客機の開発では力を発揮するようになり、後に中型旅客機メーカーとしてヨーロッパを代表する企業の一つにまでのし上がる事に成功している。

 話が少し逸れたが、両軍共に戦力が充実していた1980年代の実戦力は、実は通常戦力に限り逆転していたという研究結果が後世になって発表されている。
 というのも、ソ連軍が予算不足から兵器の稼働率低下などで急速に弱体化しており、しかも一部の主力兵器(T-72など)開発に失敗していたからだった。逆に西側は、ソ連軍への恐怖心から努力を続けた結果、兵力は充実していったし、個々の兵器でも勝る場合が多くなっていた。
 なおソ連空軍の稼働率は特に酷く、平時で三割程度だったという話しもある。もっとも、冷戦時代の各国は抑止力にもなる装備数に一番気を遣っていたので、7割あれば非常に高いという状態で、平時の兵器の稼働率は平均して5割程度の場合が多かった。それでも、当時のソ連軍の兵器稼働率は低すぎたのだ。
 このため1970年代半ば以後のソ連軍の上層部では、実際の全面戦争になった場合は、自らが有利にある戦術核を多用することで西側の通常軍備に対抗する事を考えていた。戦術核で通常軍備に対抗する戦術は、それまでは主に英仏の基本戦術とされてきたが、これが逆転していたことになる。

 しかしどちらも真実は知らず、これからも冷戦と軍事対立は続くと考えていた。そしてそれを肯定するように、1980年代も世界各地で局地戦が行われた。

●フェイズ133「欧州の海軍事情」