●フェイズ134「冷戦最盛期と呆気ない終幕」

 1980年代は、軍事的には「イラン・イラク戦争」、「アフガン侵攻」、「フォークランド紛争」などの戦争が注目されたが、米ソを中心とした核戦力が破滅的な規模で拡大した時期でもある。同時に、東西両軍の戦力が主に西ヨーロッパを中心として最も充実した時期でもあり、第三次世界大戦が起きれば「MAD(相互確証破壊)」が起きて、人類は確実に絶滅すると言われていた。

 大陸間弾道弾、中距離弾道弾、潜水艦発射型弾道弾、巡航ミサイルなど、多くの核搭載兵器が開発、量産され、同時に多数の核弾頭が主にアメリカ、ソ連の間で量産された。敵にある程度破壊されることを前提に、敵を完全に滅ぼす事を目指した筈が、その条件すら越えるほどの量が軍拡の原則に従って生産、整備された。互いに数万発の核弾頭を抱えるようになり、人類を何度をも滅ぼせる量だと言われた。
 日本でも最も核兵器が生産、整備された時期でもあり、弾頭数は最大で3000発にも上った。この数だけで、敵に迎撃されてもソ連の国家機能を完全に破壊できる規模と量だった。逆を言えば、本来は抑止力としての核戦力はこの程度で十分だったのだ。

 1980年代半ばでの核兵器保有国は、開発順にアメリカ、日本、ソ連、イギリス、フランス、満州、インドになる。また当時からイスラエルが保有していると言われていたが、同国からはいまだ正式な保有宣言は出されていない。他に、中華人民共和国(西支那)とイラクが開発をしていると言われていたが、イラクは開発に必要な原子力発電施設をイスラエルに破壊されている。また当時の西支那は、ソ連の統制が強いため可能性としては低かった。
 アメリカ、日本、ソ連以外の国は、何らかの方法で技術を他から手に入れる事で開発されている。イギリスは、自由政府時代に日米の開発に研究者を送り込んだり手持ちの技術や資金提供もしている関係で開発技術を入手し、1954年に初の自力実験を成功させた。
 フランスは、第二次世界大戦までは核物理学の先進国であった影響もあってか、ドイツに全てを奪われ戦争で国土が荒廃してもなお、戦後になると自力での核開発を目指した。アメリカは、当初は「準敵国」扱いで止めさせようとしたのだが、幾つかの制約を設ける形で認めた。フランスでは、通常戦力のみではソ連への抑止力にならないのが主な理由だっだ。しかし一部では、核保有する事で自ら東側の標的になってくれるのなら構わないだろうと言う辛辣な評価があったとも言われる。
 インドの核保有は、基本的には日本からの技術供与で開発が行われたが、政治的には日米がインドに持たせるべきだと判断した結果だった。インドからだと、ソ連の下腹部全域に圧力をかけることができるからだ。
 そして保有国が多くなっても、米ソの核保有量は群を抜いていた。第三位の日本の核保有量、保有核戦力は、米ソそれぞれの10分の1程度に過ぎなかったほどだ。

 米ソの間で「INF(中距離核戦力)全廃条約」が締結される1987年直前の1980年代中頃で、米ソ双方とも1000基程度の大陸間弾道弾(ICBM)を保有していた。弾頭数ではアメリカ約2000発、ソ連約6000発と、多弾頭弾の多いソ連が圧倒する数字を示していた。
 潜水艦発射型弾道弾(SLBM)では、戦略型潜水艦(SSBNまたはSSB)保有数でアメリカが38隻、ソ連が旧式を含めて64隻を保有。弾頭数では最大でアメリカ約5860発、ソ連が約3700発とアメリカが断然有利になる。最大というのは、弾頭の大きさで多弾頭弾の弾頭数を変更する為で、大威力弾頭だと搭載される弾頭数が減るためだ。
 またアメリカの場合は、日本、イギリス、フランス、インドの核戦力、主に戦略型潜水艦をあてに出来た。
 核戦力はこれだけでなく、さらに戦略爆撃機を始めとする爆撃機が加わる。核搭載機としてカウントすると、ソ連は1000機以上を保有している事になる(※通常任務と兼用が多いし、稼働率はかなり低かった。)。アメリカは300機程度だが、80%程度が「B-52」で他も高性能機なので、実質戦力ではアメリカが圧倒していた。
 他に巡航ミサイル、中距離弾道弾、核搭載可能な戦術機が加わり、非常に多彩で大量の核戦力を構成する。
 そして全てを合わせた核弾頭は、アメリカが2万〜2万5000発程度。ソ連は1990年頃で最大6万発を保有していた。第三位の日本が最盛時で3000発程度なので、比較にもならない保有量だった。
 世界を何度も破滅できるわけである。
 しかし過ぎた力を維持するのは難しく、頂点への到達は転落の瞬間でもあった。

 ソ連が核戦力に大きく傾倒し、アメリカとアメリカが率いる形の自由主義陣営に対抗もしくは圧倒しようとしたように、1970年代半ばから以後十年ほどは冷戦が最も激化した時期だった。これは1981年にアメリカで共和党のロナルド・レーガンが大統領となり、「強いアメリカ」をスローガンにしてソ連に対して軍拡競争を挑んだ事で拍車がかかる。
 しかし対立は、アメリカとソ連だけのものではない。確かにアメリカ、ソ連は圧倒的な核戦力を筆頭として世界の第一、第二の超大国だったが、世界中には他にも大国があり自らの考えに従って行動していた。
 当時列強(グレート・パワー)と呼びうる国は、西側もしくは自由主義陣営が、GNP(国民総生産)順にアメリカ合衆国、満州帝国、日本帝国、イギリス連合王国、フランス王国、イタリア王国、少し落ちてインド、カナダの合計8カ国になる。ただしインドは「第三世界」の盟主を自認しており、ソ連の敵ではあっても自由主義陣営とは言えなかった。東側もしくは社会主義陣営は、ソビエト連邦ロシアとドイツ民主共和国の二カ国だ。他に、単に軍事力という点で見ると、中東の一部の国(イスラエル、イラク、イラン)の突出が目立っていた。
 西側は70年代から米、日、満、英、仏、伊、加で「先進国首脳会議(通称:サミット)」を毎年開催し、さらに結束を強めていた。経済力で見れば西側が圧倒という以上の数字を示しており、東側陣営としては軍事力、特に核戦力でしか対等もしくは優位を獲得できなくなっていた。
 しかも1980年代のサミットは、「如何にしてソ連に対向するか」が主な議題の一つだったほどだ。
 しかし東側の盟主ソ連は、1980年代になると表面上の脅威の高さとは裏腹に、アメリカとの激しい覇権競争によって国力の限界を迎えつつあった。アフガン紛争が国力消耗の原因と言われることがあるが、それはあくまで原因の一つでしかなかった。
 激しい軍拡競争、過剰な宇宙開発、他国への過剰な支援、同盟国価格での資源輸出、国民への低価格での社会保障の提供、社会資本、生産施設の老朽化など、原因を上げればキリがなかった。しかも共産主義国、社会主義国という経済原則を無視した経済、産業の状態こそが、衰退の大きな原因となっていた。また官僚の腐敗も深刻化していた。

 そして衰退を象徴するかのような短期間のうちに起きた相次ぐ書記長の死去の末に、ミハエル・ゴルバチョフが新たな書記長として登場した。
 彼はペレストロイカ(諸改革)を掲げ、市場経済を導入することで経済を再生させ、ソ連を復活させる事を目論んでいた。しかし、彼を含めて多くのロシア人達が思っていた以上にソ連の疲弊と劣化は進んでおり、もはや巻き戻しが不可能なまでになっていた。そしてソ連の衰退を示すかのように、1986年4月にチェルノブイリ原発事故が起きて、ソ連は情報公開と踏み切る事になる。
 そして1987年12月の「INF全廃条約調印」によって米ソ冷戦構造の解消へと大きく舵を切り、1988年にアフガニスタンからも完全撤退する。さらに1989年12月に地中海のマルタ島で開催されたアメリカのブッシュ大統領との米ソ首脳会談によって、全世界に向けて冷戦終結が宣言される。
 これで世界から破滅の危機が遠のき、ソ連はようやく莫大な軍事負担から解放され、経済の本格的再生を目指すはずだった。
 だが、一度緩んだタガが元に戻る事はなく、政治的な東側陣営、社会主義陣営の大きな変化が起きる。

 発端はゴルバチョフ書記長の就任と、彼によるペレストロイカの開始だった。本来ならソ連だけに止まるはずの改革と変化だったが、すぐにも東ヨーロッパ各国に波及していった。
 その象徴の一つが、西フランクフルトでの一人のロック歌手のコンサートだとも言われる。
 冷戦の象徴の一つだったフランクフルトを東西に分ける壁の西側で行われたコンサートに、ドイツ各地から彼の歌声を壁越しに聞くために数千人の若者がかけつけたのだ。ドイツの秘密警察シュタージ(国家保安省)は当然のように若者達を監視したが、監視以上の事は行わなかった。本来なら大量連行が起きてもおかしくないのだが、もう厳しい取り締まりを行う必要性をシュタージの局員達が感じなくなりつつあったのだ。
 それまでも、1956年のハンガリー事件、1968年のチェコ動乱、1980年のポーランドでの「連帯」発足など、ソ連に反発するもしくは民主化を求める動きはあった。このうちある程度成功したのは、ポーランドの連帯ぐらいだった。
 だが一度タガが緩んでしまうと、後の流れは急激だった。

 始まりは、かなり限定的ながらいち早く経済面での改革解放路線を取っていたハンガリーだった。
 1988年に急進改革派が台頭し、その翌年の初夏に隣国オーストリアとの国境を自由化。オーストリアは永世中立国だったが資本主義を掲げる事実上の西側世界であり、東側の市民達に与えた衝撃は極めて大きかった。そしてこの流れを、ゴルバチョフは止めなかった。
 同年夏になると、ハンガリー=オーストリア国境には西側への亡命を希望する人々が殺到。特に東西に分裂した形だったドイツから、ラインラント地区への亡命希望者が殺到した。そしてそのドイツでは、ハンガリーより少し遅く国民の民主化要求により、ホーネッカー政権が退陣。
 隣国ポーランドでは、一度は非合法とされた「連帯」が合法化され、他国に先駆けて国名をポーランド共和国に変更。一気に民主化を果たした。ポーランドの動きは、東ヨーロッパの国々の国民を大いに勇気づけた。現在のポーランドが、東欧諸国で一目を置かれる理由がここにある。
 そしてドイツ政府は、次々と西側へ勝手に亡命していく国民を何とか阻止、それが無理でも統制しようとしたが、止められないと分かると今まで規制していた国外旅行の規制緩和を発表する。しかし既に変化しつつある情勢に熱狂していた市民達は、政府の声を自分たちに都合の良い部分しか聞いていなかった。市民達は、全ての自由が約束されたと取ったのだ。
 多くのドイツ市民は、ライン川とその少し西側にある「フランクフルトの壁」に駆けつける。そして多数集まった市民達を前に、混乱を避けるべく国境が開放され検問所が開かれた。実質的に、東西両陣営を隔てていた「壁」が崩壊した瞬間だ。
 その後フランクフルトの壁に集まっていた群衆は、手に手にハンマーやツルハシを持ち、壁を破壊し始める。これが教科書にも載っている、歴史的瞬間の情景になる。
 またほぼ同じ頃、ライン川各所の橋にある検問所が開放され、事実上東西分裂していたケルン市にかかる橋の上では、双方の市民が抱き合って歓喜に湧いていた。

 一方で、フランクフルトの壁崩壊の前後、東西両陣営の中央にいるドイツ人達は自体を傍観するしかなかった。
 東側陣営のドイツのホーネッカー議長らは既に退陣し、新たな政府は実質的にゴルバチョフに裏切られており、もはや何も出来ない状態だった。民主化の動きも既に大きく進んでいた。
 もっとも、西側陣営のラインラント地区は、人口こそ1500万人というオランダ並みの人口を抱えてはいたが、そもそも独立国ではなく連合軍の占領地域のままだった。アメリカ軍人が連合軍総司令官として統治し、その下に民生のための自治政府が置かれているだけだった。ラインラントのドイツ人最高指導者は民政議会の議長に過ぎず、連合軍司令官に指示を仰がねば外交的な事は何もできない状態だった。また1500万人もの市民がいるのに、警察の国境警備隊が居るだけで軍隊は1兵も存在していなかった。
 これは冷戦時代変わらず続き、外交能力を与えられていない彼らは、ライン川の向こう側が沸き返るのを、やはり傍観するしかなかった。
 そしてしばらく傍観した次の瞬間、東西両陣営のドイツ人達は違う反応を取り始める。
 東側というより過半のドイツを持つドイツ民主共和国では、自らが民主化を成し遂げて、一気にドイツを再統合する機運が高まった。これに対して西側のラインラント地区は、このままだと「民主化」したドイツに「併合」される事に強い焦りを覚えた。
 本来ならドイツの再統合は、民族の悲願と言えた。そしてこの瞬間に一気にやってしまわなければ、ロシア人がいつ元気を取り戻して阻止にかかるか分からないと考えられた。アメリカ人に対しても、今の勢いがなければ再統合は難しいと言う見方が大半だった。ロシア人とアメリカ人(+フランス人、イギリス人)は、復讐の一環としてラインラント地区を作ったのは明白だからだ。

 だが、両者の決定的な人口差、経済格差が、ラインラントの人々に再統合を躊躇させた。
 ドイツの過半を占めるドイツ民主共和国の総人口は約9000万人。対してラインラント地区は、6分の1の約1500万人。合わせれば総人口1億人を越え、ヨーロッパ最大の国家となる。
 また1人当たりGNPは、ラインラントが西側最高クラスの1万1000ドル程度に対して、ドイツ民主共和国は東側でダントツトップの約1万ドル。
 一見、ラインラントは人口差から飲み込まれるが、経済的にはそれほど問題があるとも思えない。しかし壁の向こう、もしくはライン川の向こうの情景を体感的に見てきたラインラントの人々は、東側もしくは隔てられた向こう側の経済的もしくは産業的実状をある程度分かっていた。
 商店に並ぶ商品の質と量の違い、乗っている車の違いを見れば、実質的な経済格差、技術格差が歴然としていたからだ。
 しかも壁や河を越えて来た人々が、古くさい車に乗せて帰ったのは、西側で一般的に売られていたカラーテレビだった。西側では、早くも液晶モニターの時代が幕開けしつつあったのに、東側では白黒テレビが中心なうえに、それすら十分な普及率では無かったのだ。しかも東側で最も経済的に発展しているという、分断された東側のドイツでそうなのだ。
 もし「東西統合」すれば、自分たちの富みが搾り取られて、一気に貧乏人になるのではと考えるのは自然な事だった。
 仮に西から東に技術移転して底上げするにしても、5年や10年でできる事ではなかった。ドイツが西側基準の先進国になれるとしても、最低四半世紀は必要だろうと考えられた。
 そうした未来に対して、ラインラントの人々は知恵を絞り、1990年の春に一つの回答を隣のドイツと全世界に提示した。
 それが「一国二制度」だ。

 そしてこの考えを突き詰めてしまえば、国としては一つになるが当面(彼らの予定では四半世紀)は内政と経済を分けたままにしようというものだった。そしてこの制度を提案した理由として、統合に際する混乱を最小限にするためだとした。
 この考えは、多くの人々、国々の賛同を得た。ドイツ民主共和国の市民は、民主化して統合すれば自分たちはすぐにも豊かになれると思っていたので落胆も大きかったが、幾らラインラントが豊かでもドイツ全てを抱えきれないのは分かっていたので、極端な反発は示さなかった。それよりもラインラントがドイツ統合に前向きな事を評価した。アメリカも、ある程度自分たちの影響力が残る「一国二制度」を支持した。英仏なども、ドイツが民主化するならばと肯定的だったし、本音としては今まで通り二つに分かれる事に内心ホッとしていた。一番反対すると見られたソ連は、もはや他国のことを省みる余裕が無かった。何しろ、自分たちの国が倒壊寸前だった。
 そしてドイツ統合の話しは誰もが予測したよりも早く進み、ドイツ民主共和国で総選挙が行われて民主的政権が誕生すると、新たな政府・議会は「ドイツ連邦共和国」の成立を宣言。「連合軍ラインラント地区」は、国連の承認を経た上で連合軍司令部も看板を下ろし、「ラインラント自治州」となって連邦共和国に加盟。
 1990年10月、ドイツ統合が実現する。

 そして共産主義の総本山ソ連では、1991年8月に軍部・保守派のクーデターが起きるも民衆の意志によりクーデターは否定され、同年12月にソビエト連邦が解体される。
 そしてソ連での混乱に見られるように、社会主義政権、共産主義政権の崩壊がドイツなどのように穏便に進んだわけでもなかった。
 ユーゴスラビア地方では、ソ連の統制が無くなったセルビアが、大セルビア主義に従って旧ユーゴスラビア王国地域の近隣諸国への干渉を強めるようになる。とはいえ同地域の他の国が連携を強めることで、何とか干渉を抑止した。
 ルーマニアでは、長期間チャウシェスク政権による独裁が行われたが、独裁と横暴に我慢の限度を超えた民衆が蜂起。1990年12月にクーデターが発生し、チャウシェスク夫妻が逮捕・処刑される事で政権は崩壊する。そしてルーマニアでの出来事は、世界中の独裁者、特に社会主義政権の独裁政権に自分たちの未来の姿を見せた事になるのだが、欧州以外の社会主義政権の多くが民族主義的な国なので、極端に動揺が広がることも無かった。
 それは支那地域も同様だったが、支那地域の場合は別の要素から混乱が広がることになる。

 支那地域の東側陣営の国は、中華人民共和国(西支那)と四川民主共和国になる。また外郭地として東トルキスタン人民共和国、モンゴル人民共和国、プリ・モンゴル人民共和国がある。しかしどの国も、特に独裁者と言える人物はいなかった。中華人民共和国は1971年に林彪が暗殺されてからは、ソ連の傀儡政権状態に置かれてしまっていた。ソ連崩壊の頃でも変わらず、官僚の力が強い官僚専政国家ではあっても独裁者はいなかった。このためそれぞれの国は、概ね東欧諸国のように順次民主化が行われていく。
 逆に独裁が進んだのは、自由主義陣営側に属している事になっている支那共和国(北支那)だった。
 北支那では、ソ連の退勢が明らかになると、もう自分たちにも専制的な体制は不要で、民主化するべきだと考える人々が一気に増えた。いつしか首都北京でデモへと発展し、デモは大規模化の一途を辿った。
 そうした中で、情勢を握る立ち位置に居たのが軍だった。
 1973年以後、北支那で軍は不遇な扱いを受けていた。そこで政府の中央官僚達は、軍部を説得した。最初は利益をちらつかせることで釣ろうとしたが、うまくはいかなかった。そこで次は、官僚も軍も立場は同じだと伝えた。
 その上このまま民主化してしまえば、ある程度ではあっても特権を享受している軍も、民衆に解体されると言った。そうでなくても、仮想敵がほとんど居なくなるのだから、リストラされるのは確実だと軍人達も理解はしていた。
 そして既に民主化の流れを止めることは、簡単にできそうにはなかった。ならば手を結ぶことで、流れを止めるしかないと説得したのだ。

 1989年6月、支那共和国政府は北京市の中央にある天安門広場に犇めく民衆を国家への反逆者だと断罪。直ちに解散しない場合は、力を以て制圧すると極めて強い警告を発する。そして出動命令を受けた軍部隊が、各所から北京市内へと突入した。
 そして軍の戦車隊は民衆を挽きつぶし蹂躙するのかと見られたが、民衆が空けた道をそのまま突進。民衆の歓呼を受けつつ、中南海の政府と中央官僚の区画へと突撃していった。
 かくして支那共和国での民衆クーデターは、そのまま軍事クーデターへと変化。支那政府は一気に倒壊する。
 短時間の鮮やかな軍事クーデターだったため諸外国が介入する時間はなく、軍事クーデターを成功させた北支那の軍首脳は、新政府の樹立を内外に宣言する。しかも民衆の支持を受けたとあっては、世界各国もクーデターを否定しづらかった。
 しかしクーデターはそれで終わりでは無かった。

 ここ15年ほど政府というより文官官僚に押さえ付けられた軍部は、政権を握ると早速権力の拡大、強権支配を実施した。
 しかも中央官僚の多くを粛正したので、政府の統治能力は低下。二つの大きなマイナスにより、一気に悪政を行うようになる。軍への歓呼は、1年も経ずして怨嗟へと変わったが、軍は民衆を力で押さえ付けるようになり、情勢は悪化の一途を辿ることとなる。
 そして必然的に、新たな支那共和国は近隣各国との対立を深め、特に今まで以上に軍事対立を強めるようになる。力だけが、彼らの拠り所だからだ。
 同時に、諸外国との関係を急速に悪化させた。諸外国の求めに対して軍事政権が強く反発するため、関係を事実上断絶させる国も多かった。そしてもともと関係を維持していた国が少なかった為、ほとんどの国との国交が事実上断行してしまう。支那地域の全ての国とは完全に断交していた。世界の大国だと、辛うじてアメリカ、イギリスの大使館が小規模に活動しているだけだった。
 かくして支那地域にとって、米ソ冷戦構造の崩壊は結果として新たな対立構造を誕生させたに過ぎなかった。
 このため、南支那のトウ小平総統が冷戦崩壊後に目指していた「中華連合構想」は、彼が構想を練っている段階で最初の大きな躓きに直面する事になる。何しろ西支那と南支那の間、つまり中華連合の要の位置に北支那があるからだ。

 そして支那地域のように米ソ冷戦の崩壊は、世界に様々な変化をもたらす事になる。
 その最初の大事件が「湾岸戦争」だった。

●フェイズ135「ガルフ・ウォー(1)」