●フェイズ135「ガルフ・ウォー(1)」

 日本政府公称の「湾岸紛争」は、1990年8月2日イラク軍のクウェート侵攻により始まり、翌年3月3日のイラクの停戦受け入れまで続く。しかし「湾岸戦争」と呼ばれる期間は、1991年1月17日からの開始が正確な日付となる。
 同戦争が冷戦崩壊を象徴する一つの理由は、国連安保理でソ連がアメリカ、日本などに反対せずにイラクへの武力容認決議に賛成したからだ。

 イラクのクウェート侵攻の遠因は、イラン・イラク戦争にあった。
 イラン・イラク戦争でイラクは、中東諸国から莫大な援助と借款を受けたが、600億ドルもの莫大な戦争債務を抱えていた。
 またソ連などからの援助と、中東諸国を経由した列強各国からの兵器購入により、瞬間的にイラン軍を越える世界第6位の軍事力を手にした。だがこの巨大な軍備は、戦争が終わったからと安易に動員解除もできず、戦争中に契約が結ばれるも間に合わなかった兵器を中心として、イランに備えるためという名目で戦後も軍備増強は続いた。
(※米ソ日満英が上位5カ国。陸軍力では、米ソ満に次ぐ世界第4位。)
 イラクが戦費を返済するには、OPECが石油価格を引き上げるしかないのだが、イラクの求めは受け入れられなかった。しかもサウジアラビアやクウェートなどは、アメリカなどとの繋がりを利用してOPEC割り当てを越えて採掘を行って、欧米諸国に売りさばいていた。
 イランもイラクと同じ求めをOPECにしたが、イランの場合はOPEC割り当てを越えて日本、満州、インドに輸出することで外貨を稼いでいた。またイランの場合は、イラクより国内産業が発展していたし、日本などが返済を猶予したし、何よりイラクほど戦費を使っていないので、イラクほど国家財政は深刻ではなかった。
 そしてOPECの仕打ちにイラクは激怒。OPECを牛耳るサウド家のサウジアラビアと、隣国クウェートを酷く敵視するようになる。各国の調停も表向き以外では全て失敗し、イラクはクウェートへと電撃的に侵攻する事になる。

 しかしイラクのクウェート侵攻は、世界にとって非常に都合の悪い場所だった。クウェートの地下には、採掘コストが非常に安い世界第二位の埋蔵量を有する超巨大油田があり、そこの石油が一時的であれ利用できないと言うことは、世界経済を悪化させる大きな要因となるからだ。加えて、今後イラクがこれを有するなど悪夢でしかなかった。
 要するにイラクは、龍の逆鱗に触れてしまったのだ。
 だからこそ世界中の動きは極めて迅速だったし、イラク対する行動に誰も反対しなかった。イラクはクウェートに攻め込むことで、全世界の経済を敵に回してしまったのだ。
 ただし国連軍の編成は政治的にできなかったため、「多国籍軍」の編成がアメリカが呼びかける形で編成、派遣される事になる。
 多国籍軍の派遣先は、イラクの次の目標でもあるサウジアラビア。
 サウジアラビアもイラクに恨まれているし、サウジアラビアまでがイラクの手に落ちたら、世界の石油市場と供給網が本当にパニックに陥ってしまうからだ。サウジアラビアも、今まで外国軍を入れたことはなかったが、背に腹は代えられないため多国籍軍を受け入れた。
 そしてその後僅か数ヶ月で、サウジアラビアには世界中から約60万人の地上部隊、約7000両の戦闘車両(多数の戦車含む)、約4500機の航空機(ヘリ含む)、200隻以上の艦艇が集結する。遠隔地への短期間の兵力集中は、冷戦時代の末期に位置する時期だからこそ可能だった質と量だった。
 最終的に湾岸戦争中に直接参戦した国は、アラブ諸国がクウェート、サウジアラビア、エジプト、シリア、オマーンになる。アメリカ軍を中核とする他の地域の国々は、アメリカ、日本、満州、イギリス、フランス、インド、イタリア、カナダ、モロッコになる。これ以外にも、非戦闘支援で多くの国が多国籍軍に参加している。
 なおこの時、民主化したばかりのドイツ(連邦共和国)が多国籍軍への実戦部隊派遣を打診しているが、軍の組織や装備が他国と違いすぎるという理由で丁重に断られて、非戦闘支援のみを行っている。だが、ソ連製装備はアラブ諸国も使っていたので、NATO諸国の「ドイツ軍と肩は並べられない」という感情論が影響したと言われる事が多い。
 他にも、派遣もしくは参戦で慎重を期されたのが、イラクの隣国のトルコとイランだった。特にイランは、2年前までイラクと戦争をしていたし、宗派の面でも近隣諸国と問題があった。このためイラクのクウェート侵攻のすぐ後に、友好国の日本から特使が飛んでイランとの緊急交渉に入った。そして最終的には、イラク軍がイラン国境を越えるか本格的攻撃してこない限り、国境の厳重封鎖、多国籍軍への資金援助のみと決められた。散発的な空爆やミサイル攻撃に対しても、軽挙妄動は厳に慎むことが、約束された。その代わり多国籍軍各国は、イランに様々な援助をしたり優遇政策を行うことを約束した。
 トルコもイラクとの微妙な関係を考慮して、多国籍軍への参加は見合わされた。
 イランの動きはアラブ諸国、多国籍軍共に安心できる政治的要素となり、さらには湾岸戦争を加速させる事になる。
 イラクとしてはイランを無視してもよくなったので、クウェート、サウジ方面に兵力を振り向けられるようになったからだ。このためイランの事実上の不参戦は、イラクに利するところが大きかったと言われることもある。しかし逆にイランが積極参戦でもしようものなら、取り返しのつかない混乱が発生したのは確実だった。

 多国籍軍の展開は、非常に早かった。
 イラクのクウェート侵攻から1週間以内に、アメリカ軍の空軍部隊が配備されて守備に就いた。アメリカ軍の次にやって来たのは、日本軍だった。
 日本は、インド洋のディエゴガルシア島に基地を有していたし、日本からイタリア北部に如何に早く増援部隊を送り込むかを、冷戦の間日本軍は研究と訓練を重ねに重ねてきた。そのための装備も数多く揃えられた。
 第二次世界大戦まで日本軍で軽視されがちだった後方支援体制と補給部隊も、まるで別の国の軍隊のような分厚い陣容が整えられていた。規模はアメリカ軍の3分の1か4分の1程度だったが、これはアメリカ軍が懸絶しているだけで、世界的に見て日本軍も十分に整った体制を整えていた。
 そして思わぬ事態を前に、日本軍が磨いてきた緊急展開能力が発揮される事となった。当の日本軍将兵たちは、「いざイタリアの筈が、変なことになった」と派兵の頃によく話し合ったと言う。
 真っ先にサウジアラビアに入った日本軍は、本来はイラン・イラク戦争の再発や拡大に備えて、ディエゴガルシア島に一時配備されていた空軍の第3航空団飛行群の301飛行隊に属する「88式戦闘機 紫電改」、通称「新選組」だった。「紫電改」は当時の最新鋭機で、牽制を目的に臨時配備されていたものだが、サウジアラビアが多国籍軍受け入れを発表するとすぐにも派兵を伝えて、航空隊は基地を緊急出撃さながらの勢いで飛びだった。
 急いだのは、イラク軍が気になったのももちろんだが、アメリカ軍との先陣競争に勝てるかもしれないと画策したからに他ならない。しかしサウジアラビアと直接交渉していたアメリカの方が、内示の情報を早く受け取っていた事もあって、欧州配備の「F-15C イーグル」隊がサウジアラビア一番乗りを果たしている。
 そして半ばお約束として、日本軍パイロットはアメリカ軍パイロットから「サウジアラビアにようこそ」と笑いながら声をかけられたと言う。

 そしてここからが、流石アメリカ軍だった。
 緊急展開部隊の第18空挺軍団が、ものすごい数の輸送機に乗せられていち早くサウジアラビア入りした。第82空挺師団、第101空中突撃師団を擁する同軍団は、装備が(アメリカ軍としては)軽いのと空挺部隊という事もあって、世界中が驚くほどの速度で移動した。
 この空挺軍団の移動を始め、アメリカ軍は1000機近い輸送機を湾岸戦争に動員している。(※延べ機数ではない。)
 日本軍も、全軍の輸送機を根こそぎ動員して、まずは第一空挺旅団の緊急輸送を開始する。しかし日本軍の場合、遠距離進出に使える中型以上の輸送機は約140機しかない(※140機でも十分に多い。アメリカ軍が異常なだけだ。)。このため、以前から契約している有事に際して動員される民間輸送機を、民間航空各社に協力を要請している。
 合い言葉は、本来なら「ショー・ザ・フラッグ」だが、内々では「アメリカに負けるな」と言われた。
 なお、日本陸軍にも空挺部隊とヘリ強襲部隊があった。どちらも旅団編成で、空挺訓練も受けている特殊戦部隊も加えて第一空挺師団として編成される事もある。これらの軽装備ながら精兵揃いの部隊を、アメリカ軍同様に空輸で強引に送り込んだ。
 しかし、アメリカ軍にしろ日本軍にしろ軽装備の空挺部隊に過ぎず、イラク軍の共和国親衛隊が本気でサウジアラビアに侵攻を開始すれば、遅滞防御戦闘が精一杯だった。多数の戦車、装甲車を有するイラク軍のこれ以上の侵攻を防ぎ、そしてクウェートを奪回するためには、重装備の本格的な大規模地上戦部隊が必要不可欠だった。しかも相手の数が数だけに、多くの地上部隊が必要と考えられた。

 サウジアラビアへの地上部隊補派遣には、多くの国が名乗りを挙げた。アメリカ、日本との関係を深めるのが半ば目的の国もあったが、多国籍軍も数が力という点は理解していたし、外交としての派兵でもあるので余程の事が無い限り受け入れた。そうしてアラブの近隣諸国は、連隊や旅団規模で兵力を派遣してくる国が少なくなかった。もちろんだが兵站(補給)能力はないので、アメリカ軍かサウジアラビアが主に面倒を見た。
 しかし自力で兵站(補給)の面倒が見られないのは、アメリカ軍以外のほとんどが当てはまった。日本軍と多少限定的ながらイギリス軍は例外だったが、他の国はどうにもならなかった。遠隔地に本格的装備の軍隊を短期間で派遣できる方が、本来なら異常なのだ。遠距離派兵能力は、覇権国家のみが持つ特殊能力だからだ。
 国際的影響力拡大を狙って大軍派兵を打診したインドなどは、距離が比較的近いにも関わらず国内以外での補給能力が非常に貧弱だった。依然として植民地的帝国軍事行動を好むフランスも、海外派遣に向いた軽装備の軽機甲師団の派遣を行うと言ったが、継続的な補給能力は極めて貧弱だった。
 西側随一を誇る巨大な陸軍を有する満州軍は、経済力の拡大にともなってそれなりの数の輸送機を保有するようになっていたが、だからといって彼らが派遣すると言ってきた機甲師団の輸送と継続的補給となると、全く足りていなかった。
 それでも満州は、自前でチャーターした大量の貨物船とカーフェリーで兵站物資と輸送トラックを持ち込んだので、急揃えにしてはまだマシと言えた。
 日本軍も自前の補給に関しては何とか面倒が見れたが、他国の分もとなるとアジア各地にある中継基地を提供するぐらいしか難しかった。
 そして派遣部隊の主力がアメリカ軍となる事もあって、形式はともかく実質的な作戦指揮はアメリカ軍が取ることになる。シュワルツコフという司令官の名前を覚えている方も居ることだろう。
 また陸海空軍共に、派遣部隊の主力もアメリカ軍だった。
 地上部隊だけでも、第18空挺軍団以外に、欧州に駐留している第7軍団、本国待機の第1海兵遠征軍などを派兵し、師団数だけで合計9個師団にも上る。しかも全てが今までソ連との戦いに備えていた精鋭部隊だった。海空軍も抜かりなく、固定翼機1500機以上、空母6隻、戦艦3隻などを派遣。誰が戦争の主役であるか、子供にも分かるほどだ。
 そうした情勢にあって、アジアの盟主を自認する日本も負けてはいなかった。

 当時の日本の総理大臣は、民主党の福田定一。軍人宰相とも言われるが、その風貌と作家でもあるという経歴から、経歴をあまり知らない人は文人宰相としか思わなかった。演説下手で有名で説明時以外の口数は多くはないが、柔らかい口調ながら歯に衣着せぬ物言いには人気があった。
 副総理は変人として有名な小泉純一郎で、弁舌や扇動はもっぱら彼の担当であり、そういう意味では役割分担がしっかりしていた。内務大臣には中曽根内閣で副総理も務めた後藤田正晴が、兵部大臣には石原慎太郎の姿も見られた。
 そして福田内閣は、何より中曽根内閣以上のタカ派内閣と言われ、その期待を裏切ることなく湾岸戦争にも積極的に関わっていく。福田自身も、やるからには一撃で最大の効果を上げなければいけないと慎重派を一蹴し、軍人出身の経歴をかいま見せたりもした。
 なお福田内閣は、先の竹下登内閣(1期のみ)が自由党内閣であり、民主党としては国民人気の高い福田を立てることで政権奪回を狙ったに過ぎなかった。だが民主党は、嫌がる福田の擁立には苦労し、総理になった場合は可能な限り福田の好きなようにやっても良いという一札を福田が取り付けた事で、何とか擁立にこぎ着けたと言われる。また福田を総理にするため、福田の指名で小泉や後藤田が重要職で入閣している。もっとも、大軍派兵を渋る内務官僚出身の後藤田を福田は強引に説き伏せており、これが福田政権が一期で終わった原因の一つと言われる事もある。
 そして福田は、もと戦車将校らしく果断な決断を即座に下し、一撃で最大の成果を挙げるべく日本軍の最高司令官として、軍人達にペルシャ湾に赴くことを静かにしかし断固として命じた。
 これをCNNなど一部の報道は、「時代錯誤な騎兵宰相の勇み足」などと揶揄したが、日本の強い姿勢はアメリカのブッシュ政権にとっても強い援護射撃となった。
(※なお福田定一は、将軍級の軍人から宰相となった人物なので、「20世紀のカエサル」と言われる事も多い。)

 派兵に際して日本軍は、最初は欧州駐留軍の転用を考えた。
 冷戦が終わりを告げてお役ご免となったし、湾岸派遣の後はそのまま日本に帰ってくれば良いと考えられたからだ。事実アメリカ軍は、湾岸派遣戦力のかなりをヨーロッパ駐留軍から転用している。
 しかしアメリカ軍も全軍を欧州から持ってきたわけではないし、冷戦が終わったと言っても、ソ連軍のドイツ駐留部隊、ポーランド駐留部隊は依然として残されたままだった。このため、イタリアなど地中海諸国からの強い要請で、海空軍の限定的な転用はともかく、陸軍の欧州方面軍の転用は見送られている。
 その代わりとして、日本本土で即応待機している1個軍団の派兵が決まる。この部隊なら、もともと装備の多くを事前集積船(船団)に載せた状態だったし、兵士達も急な移動には慣れていた。また、アメリカ軍同様に空挺部隊は早々に派遣が決まったし、さらには海軍陸戦隊も特殊部隊の長距離偵察隊を中心として派兵が決まる。
 しかし、アメリカ陸軍が師団だけで7個も出しているのに、日本陸軍が2個師団では日本の存在感が示せないという意見が主に国内から出た。
 このため一時は、日本陸軍が冷戦時代を通じて虎の子としてきた第七機甲師団の出動が取りざたされる。だが、重装備の1個師団の追加移動は、地上戦に間に合わない公算が高いとして流石に構想段階で中止。折衷案として、第七師団所属の1個戦車連隊と機械化教導旅団に支援部隊を付けた、臨時編成の機甲旅団の派遣が決まる。
 旅団名は「第101独立機甲旅団」。
 かつてインドネシア戦争で、福田総理が軍人時代に指揮した部隊名だ。このため野党や反戦派、一部報道などから、総理の特権乱用などと非難が起きたが、国民はインドネシア戦争で活躍した精鋭部隊復活に喝采を送り、派兵と日本のショー・ザ・フラッグに期待した。諸外国からも、自由を守った部隊の派兵だと好評だった。
 懸念は日本軍が砂漠の経験が少ない事だが、確かに日本軍は第二次世界大戦以後に砂漠で戦った事も駐留した経験もない。しかし皆無と言うこともなく、少数部隊による派遣訓練も行っていた。
 また、世界中に顧客を抱える日本の軍需企業は、砂漠に対して十分な技術と経験を有していた。当然ながら、派兵する日本軍装備に対してもすぐに対応できた。そして、事前集積船に積んでいる車両も少なくないので、アメリカのようにサウジに改修工場を設置して対応たのだが、そこまでの準備は思わぬ散財となった。それでも砂漠の国々への今後の商売の宣伝になるので、軍需企業は率先して砂漠戦装備への改修を請け負った。
(※自軍以外にも、装備の似ている満州軍の装備の砂漠化改修も請け負った。)
 最終的にサウジアラビアに派遣された日本陸軍の部隊は、以下のようになる。

  ・第二軍(臨時編成・大将相当官麾下)
 ・第一機甲師団 ・第二機械化師団
 ・第101独立機甲旅団
 ・第二重砲兵旅団 ・第103独立戦車連隊、他
  ・第一空挺師団(臨時編成・中将麾下)
 ・第一空挺旅団 ・第十一空中突撃旅団 ・特戦第一連隊
  ・海軍所属
 ・海軍陸戦隊 特別長距離偵察隊(連隊規模)

 以上、アメリカ軍を除けば最大の派兵規模で、後方を含めると7万名の陸軍兵が派遣されている。
 そして軍団司令部を持ち込んでいる事もあり、当初アメリカ陸軍が想定していた第7軍団の指揮下に置く事は難しく、日本陸軍第二軍は第7軍団とアラブ合同軍の間に配置される事になる。
 ただし、日本陸軍の空挺部隊は第18空挺軍団の指揮下に置かれ、海軍陸戦隊長距離偵察隊もアメリカ海兵隊の指揮下に置かれる事となった。これは日本軍の独自性の低下になるとも考えられたが、現実問題として受け入れざるを得なかった。アメリカ軍とでは規模が違いすぎたからだ。
 また、増強1個軍団程度の第二軍では、一部とはいえイラク軍の共和国親衛隊を直接相手にするには戦力が不足すると考えらえた。とは言え、イギリスが派遣予定の第1機甲師団は、第7軍団に加える予定だった。日本軍としてもイギリス軍との地上での演習経験はないので、指揮下に置かれても困っただろう。
 そこで満州軍が派遣を決めた第一重機甲師団を、第二軍の指揮下に置く事が各国調整の後に決められる。さらにインドが派遣を決めた、第一機甲師団も配下に置かれることになった。合わせて4個師団と1個旅団となるので十分な戦力だが、日本陸軍の感覚では軍団を二つにしてその上に方面軍司令部を置いても構わないと思うほどの規模となった。
 だが多国籍軍としては軍団司令部で十分と考えており、戦争中は第7軍団を「アングロ・コーア」、第二軍を「アジア・コーア」とも呼んだりもした。
 なお、アメリカ、イギリスも第一機甲師団を持ち込んでいるため、西側世界各国の第一機甲師団が湾岸に集結することになった。第一機甲師団の名を冠していて来ていないのはフランだけだったので、一時はフランスでも派兵が取りざたされたが、様々な要因から中止されたという逸話もある。(※フランスは軽機甲師団を派遣している。)
 また湾岸戦争では、チベットでの国境紛争以来久しぶりに、世界中の特殊部隊が参集していた。
 アメリカ各軍、日本陸海軍、満州、イギリス、フランス、イタリア、インドが集まり、通常は総司令部直轄だが、通常は空挺軍団の指揮下にあり進撃時の尖兵となる予定になっていた。

 そして湾岸に派遣された多国籍軍にとっての一番の問題が、この巨大な地上部隊への継続的な補給だった。
 現地は砂漠な上に鉄道はないので、全てを自動車(トラック)で行わなくてはならない。しかも短期間でその準備を行わなくてはならなかった。
 しかも多国籍軍が湾岸戦争で持ち込んだ兵器、弾薬、人員、補給物資など軍需物資の総量は、アメリカ軍だけで300万トン。全てを合わせると400万トンに達する。
 輸送の過半はアメリカ軍が行うが、例外は日本軍だった。
 有事の際の日本軍は、海路や空路での遠距離移動には大きな努力を傾けていた。だが本来の想定では、現地での陸路での物資の移動は主に鉄道を使う予定だった。何しろイタリア北部か満州が主な展開予定地域で、鉄道インフラが非常に発達している地域だったからだ。
 それでも鉄道路線から展開地域までの補給用として、かなりの数の補給車両を持っていたが能力に限りがあった。これも日本陸軍が、海外展開を常に考えて車両と後方支援部隊を整備していたおかげだった。おかげで戦車移送用のトランスポーターも一定数保有しており、これらも湾岸戦争で根こそぎサウジアラビアに送り込まれていた。
 湾岸戦争でアメリカ(+現地のサウジ政府)などは、総数約1万6000両の輸送車両を持ち込んだ。これ以外に日本は、約3000両の輸送車両を軍用の集積船や輸送艦、さらにはチャーターした多数の民間船を用いて、サウジアラビアに持ち込んでいた。他にも満州が1000両、インドが500両程度持ち込んだ。イギリス軍は輸送船舶はともかく、輸送部隊用の専門車両は限られていた。
 なお、一般的にアメリカ軍の1個師団の維持には、1日で最低1250トンの物資が必要となる。日本が湾岸に派遣した各師団も、同程度が必要だった。これに加えて、全力で戦闘を行うとなると1個師団当たり3000トンから7000トンもの物資がさらに必要となる。日本陸軍の第二軍団も、戦闘開始すれば1日当たり2万トンもの物資を消費する計算だ。これに加えて、日本は麾下とした満州軍、インド軍の補給も一部肩代わりしていた。だが、さらに1万2000トンもの補給は日本軍にとって重荷であり、三分の一を満州軍が、三分の一を米軍が、そして残りを日本軍が補給する体制とされた。
 日本陸軍内では、湾岸戦争は「輜重の戦い」や「輜重運用の総決算」と言われたほどだ。そして補給より前に苦労したのが、艦船による部隊の移動だった。

 湾岸に派遣された日本軍の総数は、陸軍だけで約7万名。これに3万名の空軍と2万名海軍、さらに後方や中継地で支援した軍人、軍属を含めると15万人を越える。
 まさに日本軍を挙げた戦いであり、しかも実質4ヶ月で10万以上の前線兵力を、今まで行ったこともない場所に全力戦闘できる状態で展開しなければならない戦いであった。このため全てを外から運び込まねばならず、日本軍の輸送部隊は総力を挙げて兵力と物資の移動を行った。
 中核となるのは海軍の強襲揚陸艦船と輸送艦艇、さらに事前集積船になる。だがこれだけでは足りず、民間へ支援が戦時体制さながらの強さで要請された。
 軍の方は当然海軍が主軸となり、動員できる全ての補給艦艇、揚陸用艦艇、輸送艦が動員された。
 日本海軍は、1990年度時点で以下の数の大型輸送艦艇を保有していた。
 
 大型高速支援艦:2  大型補給艦:6 
 給兵艦:2  大型給油艦:4
 強襲揚陸艦:3  ドック型揚陸艦:5
 大型戦車揚陸艦:8  大型兵員輸送艦(給兵艦):12
 貨物輸送艦:8  弾薬運搬艦:6

 このうち補給艦、各種揚陸艦の約8割が稼働状態で、事前集積船に含まれる艦艇の全ては、短期間で出動可能状態が維持されていた。そして事前集積船は、派兵が決まるが早いか護衛に伴われて湾岸へと赴き、ほぼ同時に輸送車両も民間船舶などに載せられて向かった。さらにその前には、アメリカ軍と協力する形で陸軍の工兵部隊が根こそぎ湾岸へと送り込まれ、受け入れ体制を整えるための工事に入った。

 そして、この船団の護衛を兼ねて、海軍艦艇の湾岸への派兵も順次進められた。
 海軍としては、地中海艦隊をそのまま地中海東部に展開する事を始め、最大で空母3隻、戦艦2隻を送り込む予定を立てていた。
 この頃日本海軍は兵器更新の過渡期にあったため、大型空母が5隻あったことが3隻派遣を可能とした。逆に、湾岸にはあまり必要ない支援空母の派遣は、掃海任務の支援のために1隻が派遣されたに止まっている。
 なお、この時期の日本海軍は、原子力空母《翔鶴》《鳳祥》、大型空母《蒼龍》《飛龍》《白龍》を保有していた。このうち原子力空母《翔鶴》と、冷戦の状況と湾岸戦争勃発で退役を延期した大型空母《白龍》がペルシャ湾に、《飛龍》が東地中海に展開している。
 戦艦の方は1988年4月、1989年7月に再就役したばかりのイージス戦艦《大和》《武蔵》がこぞって送り込まれており、非常に大きな存在感を放った。
 2隻同時の参戦はアメリカも予想外で、当初簡易改装しただけの《アイオワ》《ウィスコンシン》の派遣だけで済まそうとしていたところを、慌てて改装が終わったばかりのイージス戦艦《ルイジアナ》がペルシャ湾に派遣されている。
 しかし、非常に強固な防空能力を持つ《大和》《武蔵》の方が危険な海域に展開することが多いため、洋上でのショーザフラッグは日本海軍に一歩譲る形になった。
 
 空軍の方は、基地の設営や準備などはアメリカ軍に多くを任せざるを得なかったが、部隊の派遣については手抜かりは無かった。こちらも軍需メーカーが強い支援体制を提供しており、可能な限り多くの部隊が湾岸に派遣された。
 主に派遣されたのは欧州駐留部隊と、有事に支那大陸(含む満州)か地中海に派遣する前提の即応展開部隊なので、規模の大きさに比べると移動も展開もアメリカ軍に次いで早かった。
 ただし日本空軍は対地攻撃能力、対機甲部隊攻撃力は、アメリカや満州に劣るとされていたので、可能な限り新鋭機の部隊を送り込んでいた。
 そしてアジアからは、日本以外にも満州とインドも空軍部隊を派遣しており、普段の協力状態から主に日本軍と行動を共にする事が多かった。そうした中で満州空軍は、アメリカ空軍以外で唯一「A-10」攻撃機を装備する空軍として注目されたりもしている。
 また、当時はアメリカ空軍以外で日本空軍が多くを有していた空中警戒管制機(AWACS)も6機(※当時の配備数の半分)送り込んでいた。
 そして後方では、アメリカ空軍同様に輸送機部隊が総力を挙げて人員や物資を運搬した。
 もっとも、輸送機が主に運んだのは兵士と一部の食料品や兵士のための嗜好品、慰安品がほとんどで、輸送した物資の総量は全体の10%程度に過ぎない。しかし、日本本土からの米、生鮮食品の輸送は、航空機だからこそニーズに対応できたと言える。
 また輸送機は、米兵だけでなく日本などアジアの兵士達にも、日本、満州の電気店、玩具店から買い集めた当時最新の携帯ゲーム機器を送り届けたりもしている。衛星を使って位置を知るための市販のGPS機器も、一部は同じように市販品を買いあさって送り込まれた。

 そうした努力の末に、短期間のうちに何もなかった砂漠にまるで幻影のように巨大な兵団が布陣する事になる。


●フェイズ135「ガルフ・ウォー(2)」