●フェイズ136「ガルフ・ウォー(2)」

 多国籍軍の攻撃は、1991年1月17日の新月の夜から開始された。
 「砂漠の盾」作戦の開始だ。
 新月であるだけに真夜中の2時に攻撃が開始され、膨大な数の航空機、多数の巡航ミサイルがイラク軍を攻撃した。また同時に、空前の規模だったとも言われる電子妨害戦が展開され、空爆と合わせてイラク軍の「目」と「耳」を一瞬で麻痺状態に追い込んだ。

 イラク空軍は「Mig-21」「Mig-23」「F-1 ミラージュ」を数の上の主力としながらも、戦闘機、戦闘爆撃機を合計約550機保有していた。中には「Mig-29 ファルクラム」のような当時の新型機も含まれており、多国籍軍はイラク空軍を侮りがたい相手だと考えていた。
 実際、イラン・イラク戦争では、イラク空軍よりも実質的に優勢な戦力を有していたイラン空軍と(形だけは)対等に戦った実績もあった。
 と言っても、航空戦力は多国籍軍が質量共に圧倒していた。
 アメリカ空軍、海軍だけで F-14、F-15、F-16、F-18だけで800機を越えていた。他に戦闘機、戦闘爆撃機だと米英が合わせて30機程度、サウジがF-15を20機程度だったが、アジア諸国は日本、満州、インドが有力な航空隊を競うように派遣していた。
 満州空軍はF-15を、インド空軍は78式戦闘機を、日本海軍が77式艦戦、日本空軍が78式戦、88式戦、83式戦攻を多数派遣していた。合わせて300機以上で、特に日本軍はアメリカに対抗するように多数の戦力を送り込んでいた。
 合わせて多国籍軍全体で1200機近くに達し、しかもほとんどが本当の最新鋭機を含む第一線の機体ばかりという圧倒度合いだった。
 しかも多国籍軍には、さらなる切り札があった。
 早期警戒管制機(AWACS)だ。
 湾岸戦争ではアメリカ軍を中心に20機以上が派遣され、24時間体制でイラク軍の動きを完全に把握し、そして的確な指示を下した。湾岸戦争はデジタル戦争などとも呼ばれたが、AWACSの大規模な運用は新たな戦争の時代を切り開いたと言って間違いないだろう。
 そして当時の世界の主力戦闘機のほとんどの種類が参加した戦いだったのだが、戦闘(空中戦)自体は規模に比べて少なかった。と言うのも、イラク空軍が基本的に戦力温存策を採ったからだ。
 イラク空軍はあまりの戦力差に正面からの抵抗を諦め、爆撃用のシェルターの中に航空機をしまい込み、多国籍軍という嵐が過ぎ去るのを待とうとしたのだ。
 それでも国内奥地に攻撃に来る機体に対しては、多少でも有利と判断した場合は迎撃に出ている。あまりにも温存ばかりして戦闘を避けていては、士気にも関わるからだ。
 だが、訓練度の違い、電子技術の違い、その他様々な要素によって、全ての戦闘は多国籍軍のワンサイドゲームに終わった。多国籍軍は、空中戦で撃墜された航空機は全くなかったのだ。多国籍軍機が撃墜される場合は、地上の対空砲火と故障しかなかった。

 多国籍軍の攻撃では、「ステルス機」で有名になった独特の形状を持つアメリカ軍の「F-117」ステルス戦闘機、トマホーク巡航ミサイル、雷切巡航ミサイルが事実上の先陣となり、イラク軍のC3I(指揮通信・統制・情報(コマンド・コントロール・コミュニケーション・インテリジェンス))機能を壊滅させ、後は思うがままの爆撃を実施した。
 多国籍軍の開戦最初の大規模空爆には、主に以下の機体が参加した。

アメリカ空軍(+戦略空軍)
・F-15C イーグル戦闘機
・F-15E ストライク・イーグル戦闘爆撃機
・F-16 ファイティング・ファルコン戦闘機
・A-10 サンダーボルトII攻撃機
・F-111E/F 爆撃機
・F-117 ナイトホーク攻撃機
・B-52 ストラトフォートレス戦略爆撃機
・F-4G ワイルド・ウィーゼル電子専用機
アメリカ海軍・海兵隊
・F-14 トムキャット戦闘機
・FA-18 ホーネット戦闘攻撃機
・A-6 イントルーダー攻撃機(+電子戦機)
・A-7 コルセアII攻撃機
・AV-8 ハリアーII戦闘機

日本空軍(+戦略空軍)
・西崎 78式戦闘機 紫電
・西崎 88式戦闘機 紫電改
・中島 83式戦闘攻撃機 疾風
・中島 76式攻撃機 嵐竜
・三菱 一五式戦略攻撃機 轟山
日本海軍
・三菱 77式艦上戦闘機 旋風
・愛知 三〇式艦上攻撃機 天狼
・AV-8 ハリアーII戦闘機
満州空軍
・F-15 イーグルDM
・西崎 78式殲機 紫電
・F-4 ファントムII 
・A-10 サンダーボルトII攻撃機

 他、イギリス空軍の「バナビア・トーネード」攻撃機、「ジャガー」攻撃機、フランス空軍の「ミラージュ2000」戦闘機、インド空軍の「西崎 78式戦闘機 紫電」が参加した。
 サウジアラビア、クウェートの亡命部隊、他アラブ諸国は、第一撃目にはサウジアラビアが若干数参加したに止まっている。
 また国境付近では、日米の戦闘ヘリが攻撃に参加して、近距離用のレーダーサイトを攻撃している。
 1500機もの膨大な戦力、しかも西側陣営を中心に世界中の精鋭部隊の多くが参加している豪華絢爛、空前絶後と言える戦力だった。最盛期のソ連空軍の欧州方面部隊でも太刀打ちすることが難しい戦力であり、イラク空軍に対抗できる戦力ではなかった。
 それでも開戦から10日ほどは、イラク空軍も何度か出撃した。しかし一方的な展開で負けるばかりなので、序盤以外は温存策を採った。外交的にはかつての敵手だったイランを含めて全ての近隣諸国に、航空機の疎開の受け入れを求めたが、どの国にも断られた。イランなどは、領空侵犯したら撃墜するとまで言って警戒態勢を高め、各国を慌てさせる一幕もあった。
 そして初戦で絶対的優勢を獲得した多国籍軍の空軍及び海軍航空隊は、主にイラク軍の陣地を破壊した。この破壊の段階になると、アメリカの「B-52」、日本の「轟山」が持ち前の搭載量を活かした攻撃を実施して、面でイラク軍陣地や地雷原を攻撃した。また地雷原攻撃では、デイジーカッターなどと言われる超大型爆弾や、燃料気化爆弾も使用された。
 最終的に多国籍空軍の攻撃は、出撃数15万ソーティー、投下弾量10万トンに達する事になる。

 開戦当初の攻撃は、空爆だけではなかった。
 海軍の空爆部隊としては、少し後方に持ち込めるだけの補給艦を従えた空母機動部隊の活躍を無視することはできない。
 アメリカ海軍が6隻、日本海軍が3隻、イギリス海軍が1隻持ち込んだ大型空母は、空軍機に匹敵する固定翼機を運用できる事から、空軍と同等の活躍をした。しかもカタパルト発進は、テレビカメラに対して見栄えが良いので、格好の宣伝材料となった。
 そうした中で、海軍が最も重視した「宣伝攻撃」が、戦艦を用いた各種攻撃だった。
 開戦のゼロアワーと共に、2隻並んだアメリカの戦艦から一斉発射されていくトマホーク巡航ミサイルの発射シーンは、発射が深夜だった事もあって迫力抜群で、何度も世界中のメディアに取り上げられたりもした。
 そして最も激しい戦闘として取り上げられたのが、ペルシャ湾奥に進撃した日米の戦艦群と、イラク軍の地対艦ミサイルの戦いだった。

 多国籍軍は、イラクがイラン・イラク戦争の末期からクウェート侵攻にかけて大量に買い込んだ地対艦ミサイルを、大きな脅威と認識していた。装備していたのは、ソ連製とフランス製のミサイルで、それぞれテルミットとエグゾゼの名で有名だった。
 しかし何発持っているのかが不明だった。
 イラン・イラク戦争で多少使っているが、イランへの対抗から多数を買い込んでいたので、非常に多くの備蓄を有していると考えられていた。最低でも120発、最大で300発以上。500発以上という予測もあった。
 これが温存され、そして多国籍軍がクウェート沖などに進撃した時に使われては大損害が予測された。多国籍軍の予定では、クウェート沖での強襲揚陸部隊の陽動作戦とそれに先駆けた大規模な掃海作戦を予定していたので、何とかしなければいけなかった。
 このためイラク軍に、多国籍軍の都合でミサイルを使わせてしまおうという野心的な作戦が立案される。
 作戦と言っても、強固な防空能力を持つ囮艦隊を湾奥に進ませ、これらに集中攻撃をさせて地対艦ミサイルを消耗させようと言うのだ。
 この作戦を多国籍軍に立案させたのは、イージスの盾を持つ艦船、しかも極めて強力な艦艇複数がペルシャ湾に展開していたからだ。
 イージスの盾を持つ日米の艦艇から選抜されたのは、《大和》《武蔵》《ルイジアナ》の戦艦3隻と、巡洋艦クラスのイージス艦の中でも同時対応能力の高い垂直発射装置を装備する日米それぞれ1隻ずつの《バンカーヒル》《霧島》が選ばれた。加えて、日米各2隻の汎用駆逐艦が随伴して、主に高速艇を警戒するべく脇を固めた。
 同臨時艦隊のイージスシステムによる対空ミサイルでの同時対応迎撃数は110発。一般的な仮想敵が一度にミサイルを発射することは不可能なので、最大で1000発の攻撃を受けても対応できると当時言われた戦力だった。流石に1000発の迎撃は難しかったが、《大和》《武蔵》だけで最大540発までの攻撃に対処可能だった。
 そして1000発迎撃が宣伝だったように、この当時は、イージスシステムの正確な迎撃能力はあまり世界には知られていなかった。アメリカ、日本の切り札であり、十分に情報が出回っていなかったからでもあるし、故意に間違った情報も流されていたからだ。情報の中には、故意に高い能力が公表されたりもして、プロパガンダとしての情報と見て取ることも十分に可能だった。
 そして予測通りと言うべきか、当時のイラク軍もそこまで高くイージスシステムを評価していなかった。また、イラクに派遣されていた軍事顧問のソ連軍人は、かつて自らが行った「オケアン演習」での飽和攻撃に十分な自信を持っていた。
 このため「クウェート沖海戦」とも言われる戦いは、飽和攻撃という冷戦時代最強の矛と、それに打ち勝つため生み出されたイージスシステムという最強の盾の戦いとなった。

 多国籍軍の戦艦部隊によるペルシャ湾最奥への進撃と、イラク軍の陣地攻撃の情報は故意にイラク側が掴めるように手配されていた。気付いてもらわないと意味がないからだ。だがあからさま過ぎてもいけないので、適度に妨害が行われた形でイラク軍にも伝わるようにされた。
 またイラク軍が迎撃に出てくるように、戦艦部隊の後方では日米の海上強襲揚陸艦艇群が、開戦壁頭にクウェートへの強襲上陸作戦を敢行するかのような行動を取らせた。洋上からの巡航ミサイルの攻撃も、半ば陽動だった。
 さらに後方に展開する空母機動部隊も、ペルシャ湾に展開する日米4群全てが活発に活動した。空母機動部隊の方は、どちらかと言えば開戦壁頭の航空総攻撃としての動きだったが、一部の欺瞞情報として強襲上陸の準備攻撃とも取れるように情報が流された。
 そして沿岸部に展開するイラク軍に対して、フセイン大統領から直々の命令が下る。「敵のクェート上陸もしくは攻撃を断固阻止せよ」と。また、全世界にイラク軍が敵戦艦を撃沈する映像を流すようにも指示が下された。

 日米の戦艦群などが進軍してくることに気付いたイラク軍は、ソ連軍事顧問の強い進言もあって、手持ちの戦力全てを用いた迎撃を決意する。既にレーダーはほぼ真っ白もしくは破壊されつつあったが、この事だけでも制空権が自らに無いことを雄弁に知らしめた。そしてそれを知ったイラク軍は、多国籍軍に何もかも空爆で破壊される前に、手持ちの戦力を使い切ってしまう事とした。
 迎撃に成功すれば、劣勢な中にあっての大きな宣伝にもなるからだ。
 このため、稼働状態にあった「Tu-22 ブラインダー」9機、「Su-24 フェンサー」16機の出撃を命令(※保有機数はもっと多いが、稼働機はこれが限界だった。)。同時に、護衛として「Mig-23」が18機飛び立ってもいた。
 二つの機体は、対艦攻撃能力が付与されており、イラン・イラク戦争でも「Su-24 」は攻撃に使われていた。稼働機全てにあるだけの対艦ミサイルを搭載し、地対艦ミサイルと連携した攻撃を開始する。ミサイル搭載数は、「Su-24」が各4発で64発。「Tu-22」は、弾頭重量1トンの大型空対艦ミサイル1発の搭載なので9発となる。
 地上配備の主な地対艦ミサイルはソ連製の「テルミット」。正式名称は「P-15」。これの主に改良型をイラクは大量購入していた。フランス製の「エグゾセ」の方は航空機搭載型とミサイル艇搭載型で、この攻撃では4隻のミサイルボートが合計16発を発射している。
 「テルミット」の方は、イラク陸軍の地対艦ミサイル大隊(48発装備)が3個大隊展開しており、これら部隊による全力発射を実施した。
 一度に発射された対艦ミサイル数は合計233発。多国籍軍の予測のほぼ真ん中あたりだった事になる。しかしこの数字は、ソ連が行ったオケアン演習よりも大規模で、実戦で行われた対艦ミサイル攻撃としては史上空前の規模だった。
 だがこれでも、イラク軍の最大想定よりは少なかった。
 本来ならイラクに派遣されていたソ連空軍も参加して一斉攻撃を計画していたのだが、多国籍軍がいきなり突っ込んできた事と、イラク軍が急ぎ迎撃した事、ソ連軍が事態をやや楽観していた事などから、ソ連空軍の参加は行われなかった。
 もしソ連空軍機が攻撃に加わっていれば、対艦ミサイルの同時発射数は300発を越えていただろう。

 イラク軍の一斉攻撃に対して、日米戦艦群の対応は早かった。自前のイージスシステムだけでなく、アメリカ空軍のAWACSとJ・STARSの支援を受けていたからだ。特にJ・STARSと呼ばれた「E-8 ジョイント・スターズ」の威力は大きく、当時最新鋭機で合成開口レーダーという特殊な探知装置で、地上の敵を正確に捉えることができた。
 そして友軍の支援と自前で敵を探知した艦隊は、臨時旗艦となっていた《大和》からの割り当てを受けながら、「全自動射撃(ハンズ・オフ)」もしくは「オート・スペシャル」と言う、イージスシステムによる全自動迎撃を開始する。
 そしてイージスシステムは解き放たれた野獣となり、各艦のVLSから好きなだけのスタンダード対空ミサイルを放ち始めた。
 5隻合計で約750発搭載されていたスタンダード艦対空ミサイルは、イージスシステムの命じるままに、敵性航空機もしくはミサイル1発に対して、撃破率を高める2発発射を開始。
 一部のミサイルは、ミサイルを発射した母機を狙って遠くに向けて放たれたりもした。2発同時照準による撃破率は、99%にも達する。
 この結果5隻の艦艇の上は、まるで活火山のように火炎を吹き上げ続けた。
 イラク軍が放ったミサイル数は233発。このうち70%以上に当たる約170発が正常に機能を発揮。しかし正常に機能を発揮できなかった内の約半数は、取りあえずは発射には成功していたので、イージスシステムに標的認定された。つまりイージスシステムは、約200発のミサイルを迎撃した事になる。また護衛を含む約50機の遠方の敵(航空機)に対しても、射程距離内を飛行していた約40機に対して、80発のミサイルが発射された。
 結果、合計で500発近い長距離対空ミサイルが、ごく短時間の間に発射されたことになる。ペルシャ湾奥の闇夜は、無数のミサイルが放つ飛翔の火炎と爆発の閃光で彩られた。
 しかしそれでも迎撃は完全ではなく、10%程度の対艦ミサイルが今までにないスタンダードミサイルの濃密な迎撃を抜けてきた。これは対艦ミサイルが低空を飛行するため捕捉が難しい事に起因しているのと、あまりにも双方が飽和状態で戦闘したので、どうしても迎撃の漏れが発生してしまう為だ。

 だが、敵ミサイルが近づいて来ても、イージスシステムが屈する事はない。近距離迎撃も、今までの迎撃システムと違ってイージスシステムが得意とするところだった。しかも《大和》《武蔵》は、敵ミサイルがスタンダードミサイルなど中長距離ミサイルの迎撃を抜けてくることを前提とした大改装を受けていた。
 20キロメートルぐらいにまで敵ミサイルの一部が迫ると、早くも射程距離の長い新型の20cm砲が火蓋を切る。大型砲なので発射速度の遅さが大きな欠点だとされるが、その分射程距離が長いので、127mm砲よりも遠距離の敵を迎撃できた。
 次に米艦艇の127mm砲が火を噴き、さらに《大和》《武蔵》の速射性能の高い76mm砲が機関砲並の射撃を開始する。
 これを越えられるとCIWSの出番となるが、この段階でもスタンダードミサイルの発射と迎撃は続いていた。この即応性の高さこそが、イージスシステムの神髄発揮だった。この距離まで詰められてしまうと、フォークランド紛争のイギリス艦隊のように迎撃ができなくなって、なけなしの機銃を撃つしかできなくなり、少数の敵の貧弱な攻撃に対しても大損害を受けてしまう。
 だが、イージスシステムを備え戦訓を踏まえ艦隊に死角は無かった。この段階でも、全てのレンジに対して適切な迎撃が行われた。それでも100%の迎撃とはいかず、標的としても大きく次の砲撃の為陸側に位置していた《武蔵》は、CIWSの射撃まで行う事になる。
 CIWSもフォークランド紛争には無かったもので、従来の機銃と違い的確にそして素早く敵ミサイルを迎撃した。
 最終的に艦隊まで到達して《武蔵》のCIWSの迎撃を受けたミサイルは2発。つまり全体の約1%。
 そして2発とも見事に撃破されたのだが、うち1発は至近弾と同じ状態になった。
 距離1000メートルを切ったところでレーザービームのように発射される20mm砲弾に切り裂かれたミサイルだったが、20mm弾が迎撃するには少し大きすぎた。
 撃破されたのは「Kh-22」。西側がキッチンと呼ぶ大型対艦ミサイルで、日米の空母を葬る為に生み出されたミサイルは、弾頭部に1トンの火薬か戦術核を搭載できた。この時は当然火薬だったのだが、その1トンの火薬と残されていたロケット燃料が、バラバラになりさらには炸裂、燃焼しつつ、《武蔵》の右舷側面に降り注いだ。
 このため《武蔵》は、右舷の前部から中央部の前側にかけて至近弾が被弾した状態となった。そして火薬や残燃料により、一瞬《武蔵》が爆発したようにすら見えた。
 しかし《武蔵》は、爆煙の中から悠然と現れる。その様は、第二次世界大戦中の戦闘を彷彿とさせる情景だった。
 だが流石に無傷とはいかず、右舷前の76mm砲1門が破損し、右舷甲板各所も事実上の被弾で無数の小さな傷がついた。だが堅牢な主砲や船体装甲は無傷だった。艦橋構造物も、ごく一部が少し焦げた程度で被害を免れていた。前部VLSもすでに射撃を終えて装甲シャッターを下ろしていた事もあり、艦全体としては特に大きな損害を受けることも無かった。
 そして迎撃の様子と《武蔵》の被弾、そして被弾後の《武蔵》の健在ぶりは、これ以上ないぐらいの宣伝映像となった。
 作戦中の各戦艦が捕捉した迎撃で連続して爆発する敵ミサイルの超望遠映像と合わせて、イラク軍の凶暴さ、多国籍軍の活躍、そして戦艦という過去の遺物と思われていた戦闘艦の健在ぶりを世界中に知らしめることになった。同時に、新時代の海戦がどのようなものかを、人々の心と戦史に深く刻みつけた。
 しかし、事実上被弾した事への批判もあり、人的損害が無かったのは結果論に過ぎず危険が大きすぎたと、多国籍軍司令部並びに日米海軍に批判もあった。また当事者となった日本海軍では、絶対の自信を持っていた防空網が100%に機能しなかった事に少なからずショックを受けており、その後さらに努力を重ねる事にもなった。
 だが、より大きな衝撃を受けたのは、イラク軍とソ連軍だった。絶対の自信を以て行った対艦ミサイルの飽和攻撃が実力で跳ね返されたと言うことは、西側洋上戦力に対して通常攻撃では対抗手段がない事を意味するからだ。しかも日米艦隊は、全艦イージス艦艇であっても僅か5隻の艦艇で迎撃しており、加えて空母艦載機はミサイルの迎撃に関してはあくまで間接支援しかしなかった。
 それでもソ連海軍は、巡航ミサイル搭載潜水艦を投入していない点などから逃げ道も若干あった。全く逃げ道がないのはイラク軍だった。開戦初日の僅か数時間で、虎の子の一つの対艦ミサイル部隊が消耗してしまったからだ。これで事実上海からの上陸を防ぐ一番の手段を失ってしまった。
 しかも多国籍軍の戦闘行動は、この初戦においても迎撃を行っただけだった。
 そしてイラク軍のミサイルが尽きたとほぼ同時に、反撃の刃を敵手に向けて振り下ろした。

 日米の戦艦部隊を攻撃した部隊は、まずはミサイル攻撃の段階から航空部隊がスタンダードミサイルの迎撃を受けて、護衛を含めて50機以上作戦参加したうち、半数以上の28機が撃墜されてしまう。それでもミサイル発射には成功しているので、任務は全うしたと言えるだろう。
 だがその後も受難が続き、AWACSの支援を受けた多国籍空軍機の攻撃で、さらに6機を失っている。一度の戦闘で空中での30機以上の損害を受けた事は、湾岸戦争全期間を通じても最大規模だった。
 水上でも、エグゾセミサイルを発射したボートは、戦艦を護衛していた駆逐艦から対艦ミサイルの攻撃を受けて、ミサイル発射後すぐに待避したにも関わらず4隻中3隻が撃沈されている。さらに多国籍軍艦隊に最も近い沿岸からは、5隻の自爆モーターボートが出撃したが、各種迎撃を受けて全艇撃沈された。
 ここでもJ・STARSの捜索能力が威力を発揮していた。
 そしてこの戦いでJ・STARSが最も威力を発揮したのが、戦艦部隊の反撃時においてだった。
 ミサイル発射で位置を暴露したイラク軍の地対艦ミサイル部隊に対して、J・STARSはその位置の多くの特定に成功。情報を各戦艦に伝え、ミサイル迎撃が終了するとすぐにも3隻の巨大戦艦は自慢の主砲を久しぶりに咆哮させる。
 目標は艦隊から30キロ近く離れていたが、46cm砲、18インチ砲にとっては、十分射程距離内だった。しかも新造時と違って、様々な捜索装置の支援を受けていた。支援の中には人工衛星からの情報すら含まれており、位置が特定された敵に逃げ場はなかった。
 それでも沿岸部の地対艦ミサイル部隊は、以前から構築されていた深く掘られた待避壕や重コンクリート製の強固な防空壕に待避していた。これらの備えは、通常の爆撃や砲撃に対しては、十分効果的だった。実際、クウェート各所のイラク軍は、深い待避壕の奥に隠れていたおかげで、この世の終わりとすら思えたという多国籍軍の空爆では、大きな損害を受けていなかった。
 だがこの時は、相手が悪すぎた。
 デイジーカッターなど超大型爆弾を除けば、核兵器以外で最も強力な攻撃にさらされたのだ。しかも砲撃は1発だけでなく、連続して同じ場所に行われた。
 55口径砲から打ち出される重量1.7トンの砲弾が生み出す運動エネルギーは、重核シェルターに対応するレベルの防護施設でもない限り、防ぎようがなかった。しかも日米の戦艦は榴弾と徹甲弾をまぜて撃っており、暴露した敵設備と部隊を面単位で制圧していった。
 戦艦から巡航ミサイルの攻撃は無かったが、これはこの時の任務の為、万が一被弾した場合を考慮して一時的に降ろしていたからだった。その代わりというわけでもないが、艦砲射撃は徹底して行われ、さらにメディアへの宣伝材料を増やした。

 開戦以後、多国籍軍は一方的な空爆を続けた。
 クウェートの奪還が最大の目的だったが、そのためには周辺にいるイラク軍を撃破する必要があったからだ。そして多国籍軍司令部は、空爆で敵地上戦力の50%撃破を目標に掲げていた。このため連日激しい空襲が各所で実施された。
 そして2月24日午前4時をもって、多国籍軍の地上作戦が開始される。
 それまでに一度イラク陸軍の反撃があり、サウジアラビアの国境の町カフジが攻撃を受けたが、1月29日から30日にかけて行われた戦いは、圧倒的戦力で反撃に出た多国籍軍によりイラク軍が撃退されて終わった。そしてその戦闘は、24日午前4時から約100時間かけて行われた地上戦を暗示するような戦いだった。
 多国籍軍による地上からの反撃、つまり「砂漠の嵐」作戦は、ペルシャ湾の沿岸部のサウジアラビアとクウェート国境を軸として、イラク中部のユーフラテス川沿岸にあるサマワを目指して、イラク軍主力部隊を包囲するべく迅速な進撃を開始する。
 西側から第18空挺軍団、米第7軍団、日第二軍、海兵隊を中心とする中央軍、アラブ諸国を中核とした東部合同軍に分かれてそれぞれの目標に向けて進軍した。
 進軍する多国籍軍の前には、イラク陸軍の過半が配備されていると見られた。そのイラク陸軍は、50個師団56万人の兵力を有し、4300両の戦車、2900両の装甲車、3000門以上の火砲を装備していた。
 これに対して多国籍軍の地上部隊は、17〜18個師団相当の部隊と支援部隊が攻撃に参加していた。戦車、装甲車両の総数は1万両を優に越えており、一方的とも言える制空権と装備の優位を考慮すると、戦力差は比較にもならなかった。
 だがこれでも多国籍軍司令部には不安があった。
 と言うのも、シュワルツコフ総司令官以下、多国籍軍司令部の第一の目的は、友軍の犠牲特に戦死者の数を1人でも少なくすることにあったからだ。そして地上戦は、多数の犠牲が出やすい戦闘だった。陸と空で多数の戦力が入り乱れるので、誤射や同士討ちの危険性も高まる。
 だからこそ徹底した空爆を事前に実施し、圧倒的な戦力を揃えたのだ。
 そしてその努力は報われ、クウェートやサウジ国境近辺に配備されていたイラク軍は、度重なる空襲で士気が完全に萎えていた。地上部隊同士が接触して一方的に撃破されると、残りは簡単に投降していった。一発も撃たずに降伏する例も少なくなく、多国籍軍の予測よりもずっと早く作戦は進展した。
 イラク軍の頼みの綱は「サダムライン」と呼ばれた対戦車阻止線だったが、多国籍軍の圧倒的火力と主にアメリカ軍の機械力の前には無力だった。
 「サダムライン」に多数埋設された地雷は、事前の空爆、主に絨毯爆撃と燃料気化爆弾により、多くが破壊されていた。砂堤、塹壕、鉄条網も、機械化工兵部隊により地均しされていった。特にイラク軍が期待していた広範囲に火災を発生させる仕掛け(発火装置と燃焼材)も、ドーザーで上から砂を被せることで無力化された。
 この間、ラインの後ろに布陣していたイラク軍は、無数の重砲弾幕、MLRSの圧倒的な砲撃、対戦車ヘリの暴風、攻撃機の空爆により押さえ付けられ、阻止や反撃どころか頭を上げることすら出来なかった。
 そして啓開された幅広の進撃路を通ってきた多国籍軍に、ほとんどのイラク軍は反撃もせずに降伏していった。

 戦闘は2月28日朝に完全に終了したが、戦闘の総決算は損害比率1対100以上という多国籍軍の一方的な勝利だった。
 この戦闘により、アメリカ軍など西側の最新装備を有する軍隊に対して、世界中のどの軍隊も正面からの戦闘では勝ち目がない事がハッキリした。このためアフガン紛争でも示されたゲリラ的消耗戦に、多くの国や軍、武装組織が傾倒したと言えるかもしれない。
 そしてアメリカを中心とする多国籍軍の圧勝で終わった湾岸戦争だったが、イラク軍を撃破してクウェートを奪回して「めでたしめでたし」では終わらなかった。むしろ、今まで以上に問題の火種が誕生したとも言えた。
 まず、アラブ世界でイラクの地位が大きく低下した。特に軍事力での地位低下は著しかった。そしてその結果、今までアラブ世界もしくはペルシャ湾岸でイスラエルとイラクが軍事力の高い国だったのが、イラクの地位にイランが入ることになる。そしてイランは、イスラム教国家の中でも宗派が違うため、アラブ世界(イスラム世界)の混乱が大きくなってしまう。この穴を埋めるのと、イラクの行いへの反省からサウジアラビアが大幅な軍備増強を実施するが、世界最大級の産油国であり人口が多いとは言えないサウジアラビアが、真の軍事大国になることはあり得なかった。それでも湾岸戦争以後は、サウジアラビアがアラブ世界の盟主としての地位を高めていく。
 それまでもサウジアラビアは、領内に整地メッカがある事からアラブ世界の盟主としての自覚を持っていたのだが、実を伴った地位へと進んでいったと言ってよいだろう。
 だがサウジアラビアの隆盛も、不安定度を高める要素だった。と言うのも、イスラム教内でのスンニ派の雄がサウジアラビアで、シーア派の雄がイランになるからだ。さらにサウジアラビアは絶対王政(独裁制)国家であるのに対して、イランは多少特殊ながら民主主義国家だった。
 またサウジアラビアのバックには、「唯一の超大国」であり「世界の警察官」を自認するアメリカがいるのに対して、イランのバックには日本がいた。アメリカと日本は、世界で最も強い同盟関係にあると言われているが、どちらも大きな国力、軍事力を有するため、無条件に仲が良いとも言い切れない関係と見られていた。

 そして早くも、イラクを巡る面倒が起きてしまう。
 湾岸戦争後のイラク国内では、フセイン政権の自壊は必至という見方が広まった。
 北部のクルド人、多数派のイスラム教シーア派など、それまでサダム・フセイン大統領とバース党の独裁に押さえ付けられていた反政府勢力が一斉に反旗を掲げ、イラク各地で戦火が広がった。しかも隣国イランは、湾岸戦争が終わって多国籍軍が引き揚げていくと、「人道的支援」を名目にイラク国内のシーア派救援に動いた。
 と言ってもイランは民族意識も強いため、国外のシーア派に対して心理的な壁もあった。イランとしては、イラクがシーア派主導の国になれば良いとは思っていても、それ以上は考えていなかった。また援助も、アラブ各国が非難を強めるとイラン領内での難民受け入れ程度になっていった。
 そしてイラク自身は、何とかフセイン政権が体制維持に成功し、クルド人の一部が主にトルコに、シーア派の一部が主にイランに亡命や難民化する事で沈静化する。
 だが、イラクに火種はくすぶり続けたままで、イラク以外のアラブ地域の問題も何かが解決したわけでもなかった。


●フェイズ137「冷戦終結前後の支那地域」