●フェイズ137「冷戦終結前後の支那地域」

 1989年12月に地中海のマルタ島で開催されたアメリカのブッシュ大統領との米ソ首脳会談によって、全世界に向けて冷戦終結が宣言される。
 一方で同年6月、支那共和国首都北京で軍事クーデターが行われた。
 当初は民主化を求める民衆の支持を得ていたが、軍事政権は強権支配を強めていった。そして民衆の支持が低下するのを力で押さえ付けるという悪循環に陥った。
 この時点をもって、支那地域の情勢は次のステージへと進んだと見られる事も多い。

 近代に入って以後の支那地域もしくは旧清朝(清帝国)地域は、分裂と混乱の歴史だった。分裂は旧清朝が旧時代的な植民地帝国だった影響でもあるが、混乱は支那中央に住む漢民族(漢族)にとって歴史上の必然でもあった。いったん中央政府が弱体化したら混乱期に入り、次の強大な王朝もしくは中央政府が成立するまで、混乱と分裂を繰り返すからだ。
 しかし20世紀の混乱のかなりは、今まで歴史上では無かった状況が大きく作用していた。言うまでもないが、支那世界から地理的に分断された地域からの大きな干渉だ。そして1960年代後半から70年代前半にかけての第二次支那紛争の結果、その混乱は頂点に達したと見られたのだが、冷戦構造の崩壊と1989年に北支那(支那共和国)での軍事クーデターで、次なる混乱の予兆が現れた。

 1984年に支那連邦共和国と四川民主共和国が国際承認された時点で、旧清朝地域(属国除く)は以下の国や地域に分かれていた。

 ・支那中央
・支那共和国(北支那)  ・中華人民共和国(西支那)★
・支那連邦共和国(南支那)  ・四川民主共和国★

 ・北部(万里の長城以北)
・満州帝国  ・シベリア共和国  ・内蒙古王国
・モンゴル人民共和国★  プリ・モンゴル人民共和国★
 ・西部(中央アジア)
・東トルキスタン人民共和国★  ・チベット法国
 ・南部(準東南アジア)
・ウンナン共和国  ・コワンシー共和国
 ・植民地
・香港  ・マカオ(澳門)  ・海南島(国連委任統治領)
(・台湾(日本領))

※19世紀に当時のロシア帝国に割譲された中央アジア地域除く。
※★印付きは冷戦崩壊までの社会主義、共産主義国

 以上、17の国と地域に分かれていたことになる。(※香港、マカオを除外して15とする場合もある。)
 もはや細切れと言えるが、それでも支那中央の国々はどれも人口規模も領土も広かった。
 旧清朝地域全体の人口は、1990年頃で約7億人程度。(※神の視点より:史実ではこの頃で既に10億人越えてます。)
 国や地域で人口を大ざっぱに分けると、北支那2億人、南支那2億人、西支那5000万人、四川1億人、満州1億人、その他合計5000万人程度となる(※台湾、シベリア共和国除く)。
 20世紀初頭は最大で5億人近かったので増えるには増えていたが、度重なる戦乱と暴政で度々大きな人口減少に見舞われた結果、支那中央の人口は余り増えていないのが実状だった。20世紀初頭に域内人口がほぼ同じだったインド連邦が10億人を越えていることで、支那地域の人口増加が鈍いことが少しは分かるだろう。
 20世紀まで人口希薄地帯だった満州を除くと、1億人程度しか増えていない事になる。
 そして多くの地域では、1980年代になっても前近代の農業しか行われていないし、食料輸入する経済的ゆとりもないので、人口が増えないのも道理だった。それでも衛生観念と医療技術の向上、化学的な人工肥料の導入などが徐々に進んでいるため、情勢の安定化に伴って人口はかなりの増加傾向にあった。
 また、領土の広さや人口だけでは、国力を図ることはできない。
 例えばイギリス領の香港は都市国家だが、一人当たりGDPは先進国に準じるほど高い(※1970年代以後の経済成長の結果。)。GDPだけだと、総人口も多い満州帝国がダントツの一位で、さらに世界第三位の地位を誇っている。逆に支那中央の漢族由来の国家は、どれも戦争と内戦そして暴政で国土が荒廃しており、南支那以外は世界最低クラスの一人当たり国民所得しかなかった。南支那も、ある程度の経済成長は1980年代に入ってからで、それまでは他の3国とあまり変わりなかった。
 また貧しいというのなら、人民共和国と冠する事の多い社会主義国家はどの国も貧しい。西側に属するチベット、ウンナン、コワンシーも、やはり貧しい事に変わりない。満州や香港が、支那地域での例外なだけだった。
(※最貧国扱いだと、一人当たり1日1ドル以下(年間365ドル以下)。1990年頃の先進国だと一人当たりGDPは8000ドル以上で、所得差は20倍以上。)

 簡単に国富を増やしやすいのは、地下天然資源の輸出になるだろうが、それも単純ではない。
 北支那は世界有数の石炭資源を有していたが、石炭はあまり儲かる資源では無かった。それでも危険な炭坑で極めて安価な労働力を活用することで、それなりの収益を上げていた。また北支那には、かなりの量の石油資源もあったのだが、採掘が簡単ではない油田が多く、また油質も悪い場合が殆どのため、有望な輸出資源にはなっていなかった。加えて、支那共和国が国営に拘ったため、外資も入っていないので開発自体があまり進んでいなかった。
 南支那はそれなりの規模の鉄鉱山があったが、何よりの特徴はタングステンとレアアース(希少土)を豊富に産出する事だった。極端に大きな外貨には結びつかないが、1980年代に入り世界でデジタル化が進み始めると注目を集めるようになっていた。
 それ以外だと満州は比較的資源が豊富だが、発展した満州経済では国内で産出する量ではとても足りなくなっていた。
 そして支那全体としては、人口規模に対して地下天然資源が豊富とは言えないという事だった。地域全体で見ると石炭、石油は賄えたが、それは1990年頃の時点でも消費量が限られているからに過ぎない。先進国とは言わないまでも、新興国程度に発展すると仮定すれば、全然足りていなかった。
 とは言え、そもそも人口が多すぎるのが原因なので、強力な人口抑制政策を行ったとしても完全に解決できる問題ではなかった。だが人口が多すぎることは、北支那、南支那では以前から問題視されており、南支那では1980年代から政府主導での人口抑止と人口増加コントロールの為の政策が強力に推進されるようになっている。

 一方で、支那中央の国のうち四川以外は、旧清朝領域もしくは中華地域の再統合を国家の目標に掲げているが、周辺地域で自立した地域はもはや一つの国に戻る気は皆無だった。
 民族的に見ても漢族の国ではない場合がほとんどだし、ウンナンのように中世以後漢族の入植が進んだ国では、建国頃に漢族の追放(さらに酷い場合は民族浄化)を行っているほどだ。
 漢族がほとんど住んだことが無かったシベリア共和国に至っては、もはや完全にロシア人の国だった。また、シベリア共和国ではロシア語が公用語で、満州帝国では日本語と英語が公用語だった。香港、マカオでも、チャイニーズ(支那語)は市民の言葉の一つとしてしか使われていない。行政府など公共機関や一定規模以上の企業に勤めたければ、英語かポルトガル語を習得する必要があった。モンゴルなど他の地域でも、チャイニーズを使っている場合は殆ど無かった。むしろ独立以後は、政府が進んでチャイニーズを排除していった。
 清朝という名のバベルの塔が破壊され支那世界では、もはや一つの言葉で話し合う事はあり得なかったのだ。
 支那中央以外で行政府がチャイニーズを使っているのは、長らく国連委任統治領として過ごしている海南島ぐらいと言える。その海南島でも、主に統治しているのがアメリカなので英語の普及が進んでいた。また、漢族の文字である漢字を残しているのは、香港、マカオ以外だと日本語を使う満州帝国ぐらいだった。
 逆に支那中央の国では、漢族以外の少数民族に対して漢族化を強行する国が多かった。特に共産党崩壊までの西支那が顕著で、文化大革命の時期には破滅的な文化破壊と平行して「民族浄化」すら実施され、多くの犠牲者を出していた。北支那もモンゴル系の同化や弾圧を行うため、ほぼ全てのモンゴル系は、内蒙古や満州に亡命、移住している。
 南支那は南部に多数の少数民族を抱えるが、やはり同化政策は皆無ではないため、ウンナンやコワンシーへの移民が多数でていた。近隣各国との国際問題も起こしていた。四川では西部山岳地帯はチベット族など少数民族が多いが、文革の頃に酷い弾圧が行われている。四川になってからは宥和政策が積極的に行われているが、これは西支那との対立、南支那との融和の為に行われた向きが強く、本当の民族融和ではなかった。
 そして民族という点でも、シベリア共和国を例にするまでもなく、もはや一つの国に戻るのは不可能だった。にも関わらず、支那中央の国々は大なり小なり中華地域の再統合や連合国家化に強いこだわりを見せるため、旧清朝地域の国や地域と民族感情の軋轢が強く、政治的な対立が続いていた。
 そうした中で、南支那のトウ小平が政治的に大きな存在感を放っていた。

 トウ小平は1904年生まれなので、1989年でもう85才の老齢だった。彼は20世紀の支那地域で随一と言ってもよい優れた政治家で、紆余曲折の政治人生の中で、とにかく人々が豊かに暮らせるような国造りを目指した。しかし東西支那の対立に嫌気がさして見切りを付けてしまい、まずは南部の近代化と発展を行うべく新たに国を作った。そして1978年には西側に、1984年には世界から認められる独立国とした。そして様々な国内環境を整え極めて安価な労働力を武器にして、積極的に外資を呼び込むことで南支那の発展を促した。この政策は当たり、1980年代後半からは欧米や満州、日本から多くの外資を呼び込むことに成功した。
 しかし彼自身は、流石に政治の第一線に立つには肉体が限界にきていた。このため北支那で軍事クーデターの起きた1989年には政治の第一線から身を引き、総統(首相)の座を江沢民に譲った。
(※南支那(支那連邦共和国)は議会制民主主義制なので、政党党首の交代という形での政権委譲となる。ただし大統領のいない一元統治制で、総統(首相)が国家元首となる。)
 その後トウ小平は、江沢民以後の後継者を順番に指名した遺言とも言える言葉を残したとも言われるなど、その後の南支那の政治にも大きな影響を残している。「中華連合構想」も、元々はトウ小平の発案だ。
 しかし政治の実権は、江沢民を中心とする所謂「上海閥」中心に動くようになった。そして江沢民が技術系の人物だった事もあり、以後の南支那は技術系政治家、官僚が中心となっていく。これは社会主義政権で時折見られる傾向で、民主主義国家では世界的に見ても珍しい形だった。政治家は、経済・法学系出身者が強い事が多いからだ。
 国家資本主義と言われる満州帝国でも、技術者、科学者は理解され優遇されはいるが、政治、行政の中心にいるとは言えない。
 なお南支那は、支那地域で最も大きな国土を有する国で、長江流域を中心として多くの人口を抱える大国だった。だが、主に長江特に沿岸部(揚子江地域)と香港近辺の南部の広東地域で、かなりの地域格差や文化、言葉の違いがあった。南部辺境を中心に、少数民族も多かった。だからこそ地域性を尊重する連邦共和国だったのだが、以後の南支那では上海閥を中心とした上海至上主義とも言える向きが強まるようになる。
 このため南部の広東地域との対立が広がっていった。使用言語も、多数派となる上海語が政治、経済の中心で使われ、北部の北京語を駆逐していったほどではないが、南部の広東語などを圧迫している。
 しかし南支那は、支那中央地域では最も穏健な国で、最も西側寄りの国だった。全てはトウ小平の賢明な判断と外交のおかげとも言えるが、しっかりとした方向性が付けられていた事もあって、その後の南支那の政権が簡単に路線変更できるものではなかった。それにトウ小平が引いた外交路線は、最短距離で自分たちの国(南支那)を豊かにできるので、否定する者はいたとしてもごく少数に限られていた。
 そして南支那は、他に対して圧倒的国力を有する形を作ることで、中華連合構想しくは「中華統合」を進めるようになっていく。

 トウ小平の後を継いだ江沢民は、1926年生まれ。総統(首相)となった1989年で63才だった。
 彼は生粋の政治家ではなく、技術系の企業で長らく過ごした。そして、トウ小平が国をひっくり返す時期に時流に乗って政治家に転向。トウ小平にも認められて、政治家としての地位を順調に固めていった。このため経済面に明るいだけでなく、トウ小平に南支那の発展を託されたと言えるだろう。
 しかし荒事にも躊躇はなく、若い頃は第二次世界大戦中に日本軍など連合軍にスパイとして協力した経歴を持つ。このため、主に日本軍との関係も長らく続き、国政に関わるようになってからは軍事面での発言力も強めている。またトウ小平の外交路線を引き継ぐ形で、支那中央の国々の中では随一の親欧米、親日満の政治家としても知られた。
 そして12年続いた江沢民政権の間、支那中央で最も大きな経済発展を続けたのだが、外交面で問題が皆無では無かった。経済力そして拡大した国力に応じた軍事力を持つ事で、支那の次なる盟主もしくは「中華統合」を目指すようになったからだ。

 そうした外交の中で問題となったのが、1997年が期限の香港、1999年が期限のマカオの返還と、国連委任統治領の海南島の返還・帰属問題だった。
 国連、イギリス、ポルトガルとしては、清朝や中華民国の正統な後継国に返還するのが順当だと考え、1980年代ぐらいから具体的な方針の策定に入っていた。海南島に至っては、1960年代から北支那政府との間に返還の協議すら行われていた。
 だが、第二次世界大戦の結果、支那地域はバラバラになり、さらに分裂を繰り返した。このため正統な後継国と呼べる国が存在しなくなっていた。本来なら支那共和国が当たるのだが、中華人民共和国も権利を主張していて問題を複雑化させ、さらに支那連邦共和国(南支那)の分裂でその資格も事実上棚上げ状態だった。
 当然だが、共産主義国家の中華人民共和国(西支那)とそこからさらに分裂した四川民主共和国に返還する予定はなかった。ソ連が元気な時代はソ連と共に「返還を受ける資格がある」と言っていたが、国が一度滅びかけた上に、その国を傀儡に作り替えたソ連が傾くと、声を挙げることもなくなった。
 地理的には支那連邦共和国(南支那)への返還が順当となるし、1980年代からは西側世界と最も親しいので、心理的には返還しやすい相手ではあった。だが南支那は、北支那から分離独立した形になるので、中華民国の正統な後継国とは言えなかった。
 結果、国連としては、海南島の国連委任統治領の当面の継続を決定。香港、マカオについては、国連仲裁のもとで市民投票で今後の方針と帰属を決めることとされた。
 選択肢は、植民地統治の継続、南支那への返還と政治的合流、主権国家としての独立となる。独立の選択肢を与えることは支那各国から強い反発が出たが、民意を問うという形にされてしまうと、一応は民主主義国家である国々も反論は難しかった。
 強く非難し続けたのは、唯一の正統な権利を有すると自ら断言する北支那だけだったが、南支那は別の解決法を提示することで対抗した。南支那が出した案は「一国二制度」。要するに国家としては統合するが、強い自治権を残すという形だ。
 しかし南支那の真意は、これをテストケースとして、最終的には他の周辺諸国を飲み込んだ形で自らを中心とする「中華連合」を形成することにあった。この事は「一国二制度」を発案した段階から周辺国から指摘され、強い警戒感を持たれた。
 だが南支那の計画や構想は、1989年6月にひっくり返されてしまう。

 北支那(支那共和国)は、1989年の軍事クーデターで軍事政権が成立した。しかもその後は圧政に反発した民衆も弾圧しており、軍が近年不遇な扱いだった事への反動から強権的な軍事独裁政権となった。
 そしてタイミング悪くと言うべきか、冷戦が終わって共産主義国が相次いで民主化していったため、アメリカなど西側諸国にとって北支那の役割も大きく変化した。悪い言い方で言えば、番犬として必要なくなったのである。しかもアメリカとしては、経済的には南支那という代用品も生まれていた。このためクーデター以後の北支那への各国の態度は、非常に厳しいものとなった。国連からの強い言葉だけでなく、世界中のほとんどの国が外交断行を行い、さらには経済制裁も実施された。
 しかも戦車で為政者を葬った映像が世界中に伝えら、さらに民衆を強権支配している事が伝えられると、「悪の軍事独裁政権」というレッテルを貼られてしまう。ほとんど自業自得の結果ではあるが、北支那の軍事政権は発足当初から外交的に行き詰まっていた。
 国境を接する周辺国も国境を固く閉ざし、刺激しすぎない程度に軍隊を並べた。満州などは、内蒙古の要請を受けて同国に援軍すら派遣した。
 さらに南支那は、四川が民主化と西側諸国との和解に向かうと、それまで四川に向けていた軍隊も北支那国境に向ける。そしてこの10年ほどの間にそれなりに国力を拡大した南支那の軍隊は、北支那を圧倒していた。
 北支那の軍事政権としては、東側陣営が崩壊した千載一遇のチャンスを活かして西支那への何度目かの侵攻と、吸収合併を画策していたのだが、南北から挟まれて身動き一つ取れなくなってしまう。北支那としては、彼らを中心とする「中華統合」の最初で躓いた形だ。
 しかも民衆を弾圧した事で世界中から外交関係の断交と経済制裁を受けたため、元から貧しかった国はさらに経済的に困窮し、軍隊は国民の不満を押さえ付ける方に向けられた。北支那にとって幸いだったのは、何とか食糧自給が可能で、国内に石炭資源が豊富で燃料の石油化が遅れていた事だが、慰めはその程度だった。北支那には、一部の軽工業以外にまともな近代工業が無かった。
 アメリカなど西側陣営に属しているのにことごく裏切った支那共和国には、世界のどこにも味方はいなかった。いるとすれば、同じように世界中から爪弾きにされた国だけだが、そんな国は少ない上に北支那を助けてくれるほどの国力を有していなかった。

 そして今まで社会主義もしくは共産主義による独裁体制を敷いていた国々だが、一斉に民主化していった。
 東トルキスタン人民共和国、モンゴル人民共和国、プリ・モンゴル人民共和国、四川民主共和国、そして中華人民共和国。どの国もソ連の援助や影響力がなければ、社会主義体制を維持できない国ばかりだった。また民衆は今までの抑圧にウンザリしており、民主化を止めることはできなかった。商品の並ばない商店ばかりでは、社会主義体制に愛想を尽かすのも当然だろう。
 そしてそのまま、全部の地域が一つの国もしくは連合体に向かえば良かったのかもしれないが、そうはならなかった。何より北京を中心とする支那中央部には、孤立した軍事独裁政権の支那共和国が存在していた。地理的にもこれが一番の障害だが、一方で多くの国にとっては都合の良い状態だった。漢族中心の国でない場合は、もう金輪際漢族の支配する国に戻りたいとは考えていなかったからだ。
 古代や中世の昔なら優れた文物をもたらしたかもしれないが、近代以降の漢族や漢族の国家は遅れた貧しい国でしかないのだから、付き従う理由は皆無だった。
 東トルキスタン共和国と名を改めた旧東トルキスタン人民共和国は、中央アジア地域の国として、ソビエト連邦から独立した中央アジア諸国との連携を強めるようになった。CISにこそ参加しなかったが、一時期は準構成国と言われたほどだ。
 モンゴル、プリ・モンゴルは、民主化後は内蒙古王国と「実りある」話しを持つようになり、モンゴル民族による大連合や連邦構想に向けた話し合いが活発に行われるようになった。連合、連邦、「モンゴル帝国の復活」も結局は実現しなかったが、以前とは違って緩やかな共同関係を構築する事には成功した。
 また満州からは内蒙古から強引に伸ばされた鉄道が、冷戦崩壊後に大規模な延長と改造工事が行われている。この結果、内蒙古、プリ・モンゴルを通って、東トルキスタンまで鉄道が貫通している。またプリ・モンゴルから、中華共和国(旧中華人民共和国)へも北支那を通らずに直接行けるようになり、北から北支那を包囲する形が形成されている。そしてこの内蒙古縦断鉄道によって、プリ・モンゴルに眠る豊富な地下資源(※莫大な量の石炭や天然ガス)が、21世紀に入ると精力的に運び出されるようになっている。

 四川民主共和国は漢族の国ではあるが、「四川人」と言うこともあるように古代の昔から自立心の強い地域だった事もあり、今更他の漢族の国と一つになる気は無かった。
 それでも内陸国なので、外との繋がりを持つべく、民主化以後は南支那との関係を深めるようになる。国民も支那人や中華人よりは、「四川人」という意識が強い。そして西のチベット、南のウンナンとの連携を強めることで、支那中央からの離脱を図りつつ、独自性を年々強めていた。
 一方、世界中からまた問題を起こすのではと警戒された中華人民共和国は、呆気なく民主化すると国名を中華共和国と改めた。
 第二次支那紛争で支配層だった共産党が壊滅し、再建された共産党は覇気に欠けた賄賂のみ求める存在だったので、ソ連という後ろ盾が消えると市民もしくは国民となったもと人民の手ですぐにも粛正された。若干の争乱は見られたが、ほとんど一方的なリンチに過ぎず内乱にも値しないほどで、短期間のうちに民主化が行われていった。
 そして成立以後の中華共和国だが、1970年頃の文革と戦乱の傷が深く残されたままだった。そして北支那の軍事的脅威を最も受ける、経済力のない弱小国でしかないため、皮肉にも最も満州、日本、アメリカなど西側諸国を頼る国となっていった。
 なお、国名を「中華共和国」としたが、第二次世界大戦から40年以上経過していた事もあり、今更中華の文字を国名に冠する事を必要以上に咎める国も無かった。このお陰で、南支那などが「中華連合構想」などで「中華」という言葉を使うようになっている。北支那、南支那でも、21世紀までに国号を支那から中華に変更していった。しかし中華共和国という名を先に使われた為、北支那は国号の改名を思いとどまらねばならなかった。

 支那地域での冷戦構造崩壊に最も安心したのは、第二次世界大戦で独立した周辺部の小さな国々だった。チベット、ウンナン、コワンシーは、ようやく冷戦の呪縛と「中華」の呪縛の二つから取りあえずではあるが解放された。チベットは観光立国路線を強めるようになり、チベットの守護者となっていた「最強のサーヴァント」ことグルガ傭兵の数も大きく減った。このためグルガ傭兵が、世界に拡散するという副産物が生まれたりもした。しかしチベットは、インドの影響をいっそう強く受けるようになっており、手放しに喜べるわけでもなかった。
 ウンナン、コワンシーは、文化や風俗の独自性、支那からの脱却を年々強めつつ、東南アジア諸国の一角としての向きをさらに強めるようになる。自然、隣接するベトナム、タイ、インドの影響もさらに強まった。ただし、どちらも複数の少数民族を多く抱える国のため、支那中央からの脅威が薄れた事で政治的には内政面で不安定さを増す事にもなった。

 冷戦の重荷が下りたのは、北の満州帝国、シベリア共和国も同じだが、もはやどちらも支那地域とは言えないので、別の節で触れたい。
 また台湾については、日本の一地方化が進みすぎて、もはや支那という意識すらが保存するべき伝統文化や伝統芸能レベルでしかなかった。同地域に住む人々は、自分たちの事を日本帝国人としか思っていなかった。
 こうして、冷戦初期に言われた「冷戦が何らかの形で決着が付けば、支那は再び統合されるだろう」という「予言」は、少なくとも冷戦崩壊直後は全く当たることなく、むしろ地域としてはさらに分離が進む事になっていく。
 一方で大陸の西では、統合や連合に向けた動きが進められるようになっていた。

●フェイズ138「冷戦崩壊すぐの欧州」