●フェイズ138「冷戦崩壊すぐの欧州」

 1991年12月、ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊した。
 その僅か2ヶ月前に、ドイツでは悲願だったドイツ統合が実現した。ドイツの統合は「一国二制度」という、ラインラントの内政自治と経済の分立を残した形だったが、悲願が達成された事に違いは無かった。国旗も赤い旗から、19世紀半ばに作られた旗へと変更された。
 これにより、ヨーロッパの勢力図、政治地図が劇的に変化する。

 ソ連を中心とした社会主義陣営の国々は、ドイツに代表されるように次々と社会主義体制を投げ捨てて民主化していった。政治的にはもちろんだが、経済的にも完全に行き詰まっていたのが大きな理由だった。
 実質的に欧米の1930年代で止まっていた民生技術、更新できず老朽化した社会資本、社会主義体制独特の低い生産性、などなど1970年頃の日本よりもはるかに悪い条件が並んでいた。
 しかし、ソ連のゴルバチョフ書記長がペレストロイカと唱えただけで経済問題を解決できなかったのと同様に、東ヨーロッパ諸国の経済もこれ以後長い年月をかけて再編、そして再興していかねばならなかった。
 顕著な例が、ドイツだった。
 旧ドイツ領域の過半を占めたドイツ民主共和国は、1960年代からの経済成長によって、1980年代には西側先進国に匹敵する名目国民総生産額を達成した。しかし実際は、西側先進国と比べると大きく遅れた技術しか持っていないし、所詮は経済体制の貧弱な社会主義国家だった。
 国家連合に近い形で統合したラインラントの企業による初期的な接触と調査で、その事は十分に理解できた。彼ら曰く「正直、ここまで差があるとは思わなかった」という事になり、地道に資本主義を体感で学んでもらい技術指導と移転をしていくしかない、というのが結論に近かった。真の統合には、最低でも四半世紀は必要だと言われたが、実際はそれ以上だった。
 そして最もマシだったのが旧ドイツ民主共和国であり、他の旧東側諸国はもっと酷かった。限られた形とは言え、比較的早く市場経済を取り入れたハンガリーが少しマシなぐらいだった。
 ただし、西側と東側に大きすぎる経済と民生技術の格差があったおかげで、結果論として混乱が回避された地域もあった。
 ユーゴスラビア地域だ。
 ユーゴスラビア地域のセルビアは、冷戦終結、ソ連崩壊を機会として「大セルビア」もしくは「新ユーゴスラビア」の建設を企図していた。今まではソ連という重石があったから、動きたくても動けなかったからだ。
 だが、彼らがライバルとするクロアチアは、先進国とはいかないまでも発展しており、中立国であるが故に精強な軍隊を保有していた。このため拡張に出るのは、自殺行為だという事が早期に理解された。またボスニア・ヘルツィゴビナ、モンテネグロ、北マケドニアは、以前からNATOに加盟していたので、安易に軍事力を用いればNATOへの攻撃になってしまうので、順当に考えれば手を出す以前の問題だった。このため経済的進出と、人口差を活かした飲み込みを図ろうと考えたのだが、現実論として経済が劣勢なのは社会主義国のセルビアの方だった。
 そして冷戦終結で経済の実状が明らかになったことで、セルビアの方が窮地に追い込まれてしまい、警戒するユーゴスラビア地域はNATOだけでなくセルビア以外でも団結する事で混乱を未然に防ぐことに成功している。またセルビアへ対抗できるクロアチアは、冷戦期間中を中立国として過ごしてきた事もあって、拡大や統合という考えは持っていなかった。あっても経済と貿易の自由化ぐらいまでで、これは別に旧ユーゴスラビア地域だけでする事でも無かった。
 かくして旧ユーゴスラビア地域は、主にセルビア地域で混乱の火種が燻るも、すぐに燃え上がる状態ではなかった。

 しかし一方で、ヨーロッパ全体の混乱が皆無だったかと言えば、そうとは言い切れない。
 確かに軍事的な対立や衝突は無かったが、次のヨーロッパの経済的覇権を巡る争いは、冷戦崩壊、ドイツ統合と共に始まったと言っても過言ではなかった。
 19世紀ぐらいから、ヨーロッパの大国と言えばイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシアになる。このうち冷戦崩壊後しばらくは、取りあえずロシアは除外して考えてよいので、イギリス、フランス、ドイツが互いをライバル視していた。
 
 ・1990年の総人口
・イギリス 約5900万人(※植民地除く)
・フランス 約6800万人(※植民地除く)
・ドイツ(統一ドイツ) 約1億600万人(※うちラインラント1500万人)
・イタリア 約5800万人
(・スペイン 約4000万人 ・ポーランド 約3900万人)

 ヨーロッパで人口の多い国というと、だいたい以上になる。あとは北欧のように国土は広くても人口が少ない。ベネルクス三国は人口密度は高いが、国土が狭いうえに冷戦構造の中で経済的に疲弊しきっていたので、経済的にも中心に立つことは無理だった。
 また、当時のスペインとポーランドは、先進国と呼べるだけの一人当たり国民所得は無かった。精々が、先進国ラインの半分程度だった。
 そして冷戦崩壊までイギリス、フランス、ドイツの名目GNPは横並びに近かったが、民主化して経済の実態が明らかになった統一ドイツは、西側経済と結びつき始めると、旧ドイツ民主共和国地域のGNPが実質半減してしまっていた。実質GNPで見ると、さらに酷い状態だった。
 なお、冷戦終結時点で、フランスはイタリア、ベネルクス三国にスペイン、ポルトガルを加えて「EC(欧州共同体)」を構成していた。
 イギリスは、北欧や永世中立国さらにギリシアを加えて「欧州自由貿易連合(EFTA)」を構成していた。そして二つの陣営は、ドイツと東欧諸国の取り込みを図り、次のヨーロッパの経済的主導権、さらには政治的主導権を握ろうと動いた。
 イギリスは自由貿易協定、フランスは経済と政治双方の緊密な連携という違いはあるが、ドイツなど東欧を飲み込むことでライバルを大きくリードして、その後のヨーロッパでの主導的地位を得ようと言う意図があった。
 これに対して西側諸国から「獲物」と見られた東欧の旧社会主義諸国は、一旦はソ連主導の「経済相互援助会議(COMECON)」を解散するも、すぐにもドイツを中心として集まる。西側経済は魅力的だが、飲み込まれて経済植民地になりたくはない、もしくは「二等国」にされたくはない、という感情からの結束だった。
 このためドイツを中心として、ソ連以外の旧COMECON諸国に新たに独立したバルト海沿岸3カ国を加えて、「東欧貿易連合(EETU)」が結成される。各国のドイツへの警戒感から結束力のあまり強い組織ではなかったが、これで人口規模的にはヨーロッパで最も大きい国際組織となった。そしてこの影響を受ける形で、セルビア以外の全てのユーゴスラビア地域の国々とブルガリア、さらにフィンランドにアイルランドがEFTAに加わり、ヨーロッパのほぼ全ての国がいずれかの組織に属する事となった。
 そしてこれで、イギリス、フランス、ドイツそれぞれを中心とした分立構造が成立する。

 そしてどの陣営も、冷戦終結後のヨーロッパ世界を主導するには決定打を欠いていた。相手を飲み込む事も無理だった。英仏が合同する動きが無くもなかったが、所謂、三竦みだった。
 ECは、基本的に農業国ばかりだった。フランスはかなりの重工業化が進んだが、もともとが欧州随一の農業国だった。イタリアも北部は工業が発展していたが、南部は経済的にも遅れた農村地帯だった。1975年に王政復古したスペインは、それまでがフランコ独裁政権で国際的に孤立していた事もあって、農業はそれなりに盛んだが経済、産業はやや遅れていた。ベネルクス三国は、冷戦構造でのライン川が実質利用できなくなった事で工業力が衰退していた。
 EFTAは、イギリス、北欧諸国、スイス、オーストリアは工業国で、ユーゴスラビア地域、ギリシアはそもそも経済規模が小さかった。そして人口規模では最も少ないが、加盟国が非常に多い(※15カ国)という優位を持っていた。
 EETUは、人口規模は三つの中で最大となるが、ラインラント地区以外は旧社会主義国で、老朽化した旧態依然とした産業構造を持ち、経済自体も大きく傾いていた。だが安価な労働力が提供可能で、製品のコスト高に苦しんでいた旧西側諸国に対して大きなアドバンテージを持っていた。
 それぞれ利点と欠点があったが、結局のところお互いの足りないところを補い合う形で、横並びになるしかなかった。
 ECは食糧を、EFTAは工業を、EETUは人的資源をそれぞれに融通しやすくする貿易システムを作った。というより、作らざるを得なかった。しかも素早く作ってしまわなければ、アメリカや満州、日本が深く入り込んでくる可能性があった。

 一方で、ECというよりフランスが目指していたヨーロッパの政治・経済、さらには通貨の統合や連合化は、時期尚早というのが意見の多くを占めていた。特にEC以外の多くの国から反対された。それでも将来的なEC内の通貨の統合をフランスなどは画策したが、それも当面は研究や議論以上では断念せざるを得なかった。なぜなら、ヨーロッパの他の二つの国際組織との経済連携に際して、ECが突出してしまうからだ。それにEC内でも、経済状態が違い、経済格差もある国々の間での中央銀行の統合すら含める通貨統合は、国ごとの経済の柔軟性を欠きやすく経済の原則にそぐわないという意見が大勢を占めていた。
 国際組織としての統合などはこの段階では議論を継続するという以上では話し合われず、まずは経済的にヨーロッパの真の復権が目指されることとされた。
 またEFTA、EETUは、政治的統合よりも貿易のいっそうの自由化を強めるべきだと考えていた。このため新たな貿易協定などが考えられたのだが、こちらもすぐに進めるには西欧と旧東欧の経済、技術格差の是正を先に進めるべきと考えられ、大きく進展することは無かった。それにEETUは、西欧への警戒感が強かった。
 そして結局のところ、19世紀半ば以後の対立軸だったイギリス、フランス、ドイツの折り合いが付かない上に、それぞれが抱える勢力が比較的拮抗していた事が、ヨーロッパ全体でのより強い連携を阻んでいた。

 一方で、冷戦構造の崩壊によって、全ての国に重くのしかかっていた軍事費から、ほぼ全ての国が解放されたことは、全ての国にとって大いなる福音だった。
 1990年の時点ではドイツ、ポーランドにソ連軍の大軍が駐留していたが、もはや予算の問題から本国に引き揚げる事が出来ないだけで、軍事的に大きな事はできない事が暴露されていた。だからこそアメリカ軍、日本軍は、1990年秋に湾岸戦争のために大軍をヨーロッパら引き抜くことができた。そして1993年には日本軍が、1995年までにはアメリカ軍も大規模な軍隊をヨーロッパから引き揚げている。ソ連軍も、本国に戻す予算をヨーロッパ中の国から出してもらう事で大軍を撤退させ、そのまま解体してしまった。
 そして軍備の解体で、最も大胆だったのはドイツだった。
 冷戦時代に、けっきょく東側陣営でソ連に次ぐ軍事力を建設した旧ドイツ民主共和国だったが、湾岸戦争で一部を除いてソ連型軍隊と兵器があまり役に立たないことが暴露された。そしてドイツは、ソ連が最も大きなアドバンテージを持つ核軍備を有していなかった。
 あるのは通常軍備で、多少数を増やしても警戒されにくかった陸軍が充実していた。空軍も充実させたかったが、ソ連からも「侵略的軍備」とされて制約が付いて回った。
 このためソ連から「Mig-29」は買えたが、航続距離の長い「Su-27」は売ってもらえなかった。それ以外も、戦闘機ばかりが目立っていた。ソ連としては、ドイツ空軍を西側との戦いでの盾に使おうという意図からでもあったが、それでも防空力の高さはドイツにとっても一定の価値はあった。それにドイツ空軍は、短距離型の小型迎撃戦闘機である「Mig-29」を気に入って、かなりの数をソ連から購入した上に、設計図とライセンスを購入してエンジン以外を自力で生産する事までしていた。
 冷戦崩壊後も、アビオニクスやエンジンを更新した改良型を生産したほどの気に入りようだった。そしてこのため、西側諸国のドイツへの兵器セールスが失敗したりもした。
 また陸上の主力兵器の戦車も、特にソ連で新型が配備されて初期の頃は、ソ連から購入しないといけないと言う制約もあったが、「T72」は1978年から独自改造型を自力生産(「Pz78」)していた。
 冷戦崩壊までには「T80」の図面とライセンスも購入しており、冷戦崩壊時にほとんど生産されていなかったこともあり、冷戦崩壊後もドイツが自力で生産する兵器の一つとなっていた。
 しかも21世紀になって、独自の改良型の生産すら行っている。と言っても、ドイツ軍への装備よりも、近隣諸国を中心とする兵器輸出の側面の方が強かった。そして第二次世界大戦の記憶もあるため、戦車輸出はそれなりに成功をおさめる事となる。
 だが冷戦構造の崩壊で、国家として必要最小限の軍備以外が不要になってしまう。東西冷戦が終わり、ドイツ自身は民主化し、しかもソ連が崩壊してしまうと、まわりに敵がいなくなってしまう。主権国家として最低限の軍備は必要だが、それ以外は解体して軍事費を削減する方が、今後の国の建て直しの為にも必要と考えられた。
 また、20世紀の戦乱の記憶をまだ引きずっているヨーロッパ世界で、ドイツは常に警戒の目で見られる事を覚悟しなければならなかった。冷戦時代は、ソ連という重すぎる重石があったが、それが無くなったらヨーロッパ世界の目が厳しくなる事は覚悟しなければならなかった。

 この一つの解決手段も兼ねて、他国よりも一段進んだ大規模な軍縮を、いち早く実施した。その象徴として、ソ連から譲り受けた上に大規模な近代改装を施した戦艦を早々に退役させ、すぐにも解体したほどだ。改装からわずか数年の出来事だったため、流石に投じた予算に合わないと国内から批判も出たが、民主化後の政府はドイツの新たな姿勢を分かりやすく示せたと満足していた。
 国防予算は一気にGDPの1%にまで削減する事を議決し、現有する軍備の多くを削減して、余った兵器を廃棄していった。それでも残す兵器は新しいものにしたので、周辺国から「ドイツ軍の近代化」と懸念されたほどだった。このためより防衛的な装備と編成である事を、周辺諸国を中心に諸外国に見せることを心がけねばならなかった。
 そして民主化後のドイツ軍は、5年後の1994年までに従来の軍備の30%程度にまで一気に削減している。この結果、陸軍は4個師団、空軍は第一線の戦闘機、戦闘攻撃機が約200機、海軍はフリゲート、駆逐艦を合わせて6隻(※潜水艦は保有を禁じられていた。)にまで削減。比較的多く残されたのも、広域防空の為の対空ミサイル部隊だった。そして全体の軍備としては、数年前の東側の中堅国程度にまで減少した。
 また「一国二制度」であることと、今まで国連軍の統治しただった事もあり、ラインラント地域は引き続き実質的に非武装のままとされた。ただし流石に軍備なしとはいかなくなったので、警察部隊を一部再編して「軍」を編成している。もっとも、軽装甲車や軽武装のヘリ、機関銃程度の武装しか持たないので、重装備の警察程度の戦力でしかなかった。

 しかしドイツは、軍縮を一気に断行しすぎた面もあった。
 一番の「被害者」は、旧ソ連のロシアだった。輸出兵器の大口顧客だったドイツからの発注が全て消えたからだ。だが「被害者」はロシアだけではなかった。
 ドイツ統合に際してドイツの軍縮を声高に訴えた主に旧西側諸国だったが、これほど急速にそして大規模にドイツが軍縮を行うとは予測していなかった。そしてソ連が崩壊して、ドイツが自ら軍備を大幅に削減するのに、自分たちが後生大事に軍隊を抱えておくことはできなかった。
 軍縮自体は大いに歓迎すべき事だったが、イギリス、フランスには軍需産業と軍需企業があり、その他諸々の利権などのため、急速すぎる軍備の削減は実のところしたくはなかった。ドイツが簡単にできたのは、ソ連から戦車や戦闘機などの兵器を買わされる事が多かったので、ドイツ国内の軍需企業(国営企業)が西側に比べて比較的少なく貧弱だったおかげでもあった。
 しかもドイツにとっては、国内に駐留するソ連の陸海空軍のために膨大な資金と物資の援助をさせられていたので、実質的な軍縮の規模は他国に比べて極めて大きかった。その上、金のないソ連のために、ドイツ駐留ソ連軍の撤退資金の多くを西側からも出させたのだから、ドイツはかなり強かだと言えるだろう。
 ドイツは、全ヨーロッパ諸国の軍備に「大打撃」を与えることに成功したのだ。

 また軍事面では、1991年にワルシャワ条約機構が解散した。
 このためドイツなど東ヨーロッパ諸国は軍事同盟に加わっていない状態となり、NATO諸国から圧力を受ける形となってしまう。これはNATOに軍事的に対立するつもりがなくても、NATOという巨大な軍事同盟が存在している事そのものが圧力となってしまうからだ。
 だがアメリカを含めた西側諸国も理解しており、旧東側諸国との政治面での軍事的軋轢の解消に務め、多くの東側諸国は20世紀が終わろうという1999年に一斉にNATOへと加盟し、NATOがヨーロッパ全体での安全保障体制に昇華している。
 しかしNATOは、アメリカを中心とした軍事同盟という向きが強く、半ばイレギュラーとして日本までが加盟していた。このため政治的に西欧諸国にとって、好ましいとは言い切れなかった。主導権が、圧倒的軍事力を有するアメリカにあるからだ。かといって解体や解散もできないため、だからこそフランスなどはヨーロッパの政治的統合を早期に進めようとしたと言えるだろう。
 また一方では、ヨーロッパに巨大な政治勢力が出現する面倒を嫌った、アメリカ、日本などがヨーロッパの政治的連合を明に暗に阻んだと言われる事もある。もっとも、日本はアジア情勢で手一杯で、冷戦崩壊後はオブザーバーに近い立ち位置でしかなく、フランスなどの警戒しすぎでもあった。

 問題は皆無では無かったが、冷戦構造、主にヨーロッパでの軍事対立が消えた事は、ヨーロッパ各国にとって大きな負担軽減を意味した。それまでGDPの4〜6%程度を占めていた各国の軍事予算は、多くの国で2%台かそれ以下に低下したからだ。
 戦略核兵器を保有するイギリス、フランスは少し例外だったが、通常戦力は劇的に減少させていき、ヨーロッパ各国は劇的に減らした軍事予算を別に振り向け、新しいヨーロッパ世界の再編成と構築に投資していく。
 そして主にフランスが大きな不満を持ちつつも、数十年ぶりにヨーロッパ全体での有機的な経済状態が到来する事になる。その象徴の一つが、ライン川とライン川に通じる河川と運河による交通網が復活した事だ。同時に、鉄道網、道路網、航空網の全ても、今までの断絶から緊密な連絡へと変化していった。
 これだけでもヨーロッパ経済全体にとっては大きな前進で、新たな経済成長を促す大きな事件だった。
 工業地帯としてのドイツ・ルール地方の本当の意味での再生が始まったのは、1991年のことだった。またライン川が国際河川として本格的に再生を始めた事で、河口部のオランダ経済が大きく上向き、1992年には新たに巨大な国際貿易港(ロッテルダム)が建設される事が決まった。
 しかし一度断絶し、長らく断絶が維持された状態だったため、社会資本の再整備には莫大な予算が必要だった。また、物量網の再構築や再編成も、簡単に進む事ではなかった。
 また、ドイツなど東側が西側資本を導入すると言っても、法制度の整備、工場誘致のための用地整備、道路など流通網の整備には一定の時間が必要だった。
 しかしドイツでは、条件が揃い投資が効果を発揮し始めると、大きな経済効果が確認されるようになる。
 西欧諸国からアジアに向かいかけていた投資も、当面はドイツと一部東欧諸国に向かった。また東欧諸国からは、出稼ぎ労働者や労働移民が多数でて、西ヨーロッパ諸国やアメリカへと流れた。そしてある程度人口政策で成功していたと言っても、イギリス、フランスでは労働力が足りているとは言えず、特に低賃金労働者の不足はかなり深刻だったため、少なくとも20世紀の間はどの国でも労働力の供給という面では良性に働いた。このため、イギリス、フランスでは、1980年代から始まりつつあったそれぞれの旧植民地地域から労働者や移民を入れる動きを意図的に限るなどの影響も出ている。

 また、トルコやその周辺からヨーロッパへの出稼ぎ労働、移民も、出る側からの要求は高かったが、受け入れる側となるヨーロッパ地域が消極的なため、その規模は極めて限られていた。
 このためトルコなどでは、国内に余剰労働力を抱える事になり、必然的に起きた失業率の上昇などで治安の悪化にまで発展していた。それでも冷戦中は、トルコはソ連に対向するため必要な国だったので、アメリカや西欧諸国から支援や援助、または限られた数だが移民の受け入れもあったが、冷戦以後はこの動きも低下してしまい、トルコなどの状況悪化が進むようになっている。
 なお、主に地中海沿岸から東欧地域の流れは、少なくとも冷戦時代は皆無だった。冷戦構造消滅後も、ドイツなど大きな人口政策で多くの若年労働力を抱えているため、移民や労働力の受け入れは原則として厳しい難民申請を通った場合ぐらいしか受け入れていなかった。
 似たような事例となる北アフリカ地域からフランスなどへの移民も、フランスなどが積極的に求めない事と、第二次世界大戦中と戦後の一時期にフランスと北アフリカ地域が切り離された影響で、北アフリカ地域からの求めがあっても殆ど受け入れは無かった。
 ただし、フランスにとってアルジェリアの石油など必要な天然資源もあるため、完全な拒絶ではなかった。しかし、人口が拡大傾向に入った北アフリカ地域の求めるほどの数字ではないため、フランスと北アフリカ諸国の関係を悪化させる要因の一つとなっている。

 そして1990年代中頃ぐらいからヨーロッパ世界は、ヨーロッパ域内を重視した投資の流れ、移民の流れから、他の地域から「ヨーロッパ第一主義」などと非難されたりもした。だが、当のヨーロッパ世界からすれば、政治的な団結や統合という最も行うべき事ができてない現状を前に、理不尽な言葉に大いに不満を高めた。
 そしてこの不満が、さらなる「ヨーロッパ第一主義」を呼び込み、さらには「ヨーロッパ連合(EU)」を目指す大きな動機となっていく事になる。
 しかし政治と経済は分けるべきと言う考えは尊重せざるを得ず、政治組織としての「ヨーロッパ連合(EU)」と、経済連携としての「ヨーロッパ自由貿易協定(EFTA)」という二重体制で進んでいく事になり、共通通貨については次の課題とせざるを得なかった。

 そして本来なら非難されるべきではない「ヨーロッパ第一主義」が非難され、ヨーロッパが連合体として進んだように、世界は「世界的規模」つまり「グローバル」で動くようになっていったのが、冷戦構造崩壊による一つの方向性だった。

●フェイズ139「冷戦後のアジア情勢と国連改革」