●フェイズ139「冷戦後のアジア情勢と国連改革」

 1990年代、アメリカ合衆国が唯一の超大国となった。
 しかし1950年代と違い、圧倒的といえる経済力、工業力は無くなっていた。それでもGDPではダントツで世界一だったし、金融力も非常に大きく世界金融の中心は、依然としてニューヨークのウォール街だった。
 しかしソ連とは違う形で、アメリカに追いつこうとする国や地域もあった。

 冷戦崩壊で、東欧地域が一斉に民主化したヨーロッパ地域が一番の候補で、域内総人口、一人当たりGDP、粗鋼生産量、貿易額、世界的な影響力からも、アメリカに並ぶ最有力候補だった。だが1990年代の少なくとも前半は、ヨーロッパ域内の勢力争いに汲々としていた為、あくまで候補に過ぎなかった。
 域内の広さではアメリカに匹敵する支那(中華)地域は、分裂と分立が固定化してしまい、向こう一世紀は世界的なプレイヤー足り得ないと言われていた。
 インド連邦は世界最大の巨大な人口を抱えていたが、経済的、産業的にはまだまだ発展途上で、新興国の域にも達していなかった。
 そうした中で、アメリカのライバルとして頭一つ抜きん出てきたのが、日本と満州だった。

 「ビッグ・デュオ」。1990年代のこの言葉には、色々な国や地域が当てはまると言われた。
 冷戦時代の西側陣営では、日露戦争以来の友好関係を続けるアメリカと日本の関係を揶揄する事が多かった。東側陣営に対して、世界規模での抑止力展開をしてきたのがこの二国だからだ。
 歴史的、経済的には、アメリカと西欧を揶揄する場合もある。冷戦崩壊以後のヨーロッパ再編による事実上の拡大を、アメリカと並べることで「ビッグ・デュオ」と言ったからだ。
 しかし、常に片方に置かれるアメリカにとっての「ビッグ・デュオ」の片割れは、日本と満州を中心とした極東もしくは北東アジア地域の事だったと言われる。
 なぜなら、日本(+満州)が勢力圏とする地域は、アメリカが最も影響力が低い地域だったからだ。また、二国を合わせた総人口は、アメリカを凌いでいた。そして2国を合わせた経済力は、アメリカの60%に迫っていた。総人口では日満の方が20%程度多いので、アメリカの経済力はまだまだ巨大だったが、今まで1国同士ではアメリカの数分の1が当たり前だった事を思えば、非常に大きな接近だった。
 同じような状態はアメリカとヨーロッパ世界との比較でも言えることだったが、ヨーロッパが英仏独を中心としつつも数十カ国に対して、極東地域では僅か2国でほぼ同じ状態となっている事が問題だった。
 しかも日本は、長らく東地中海から北太平洋の西半分までの防衛を負担してきた。同地域にアメリカの軍事的プレゼンスは少なかく、冷戦時代はアメリカの軍事負担軽減に大きく貢献していたが、日本をライバルとして見た場合は大きな空白と解釈できる。実際1991年の湾岸戦争では、巨大な兵力展開能力を有するアメリカだったが、拠点がアジアに少なすぎるため日本の基地の多くを間借りしている。
 また日本、満州共に「アメリカが認めた」核保有国であり、しかも日本は米ロに次いで核兵器を保有している。日本は、アメリカが望んだ形での「極東の覇者」であり「アジアの警察官」だった。
 だがそれも、米ソによる東西冷戦構造があればこそであり、アメリカのみが世界で唯一の超大国となった新たな時代に際して、変更が加えられるべきだという声はアメリカ国内で小さくなかった。
 にも関わらず、アメリカが望まない形で、日本(+満州)はアメリカから離れるばかりか、ライバルとして大きく浮上しつつあると見られていた。

 アメリカから見て、20世紀終盤の日本と満州の大きな経済的隆盛はかなり予想外だったし、その経緯も紆余曲折だった。
 1970年代序盤のニクソン・ショックで、圧倒的だったアメリカの斜陽が形となって現れた。だが日本は、変動相場制で大きな円安となり、経済的な停滞が暴露された。オイルショックで西側経済が大打撃を受け、特に日本が受けた打撃は大きく、大規模な政治改革、経済改革が断行される事となった。だがこれは、日本の斜陽を象徴すると同時に、経済面での反転攻勢とも言える発展の始まりでもあった。
 そしてその頃、満州は経済発展の道をひた走り、日本を追い抜くことに成功して世界第二位の経済大国に躍り出た。このためアメリカは、1985年のプラザ合意で経済的台頭が著しい満州の頭を押さえた筈が、満州はそれをはね除けて躍進を続けた。加えて、経済が大きく傾いた日本は、70年代のうちに建て直しを成功させ、85年のプラザ合意での一時的な大幅円安を利用して、一気に高度経済成長へと突入した。
 しかも1989年の冷戦構造の崩壊以後、大幅な軍事費削減により日本と満州はさらに経済への大きな投資が行われ、経済拡大が加速していった。先進国として熟成しきっていたアメリカには不可能な事だった。
 だがアメリカから見れば、日本、満州の経済的成功はアメリカへの輸出、市場進出が大きなウェイトを占めた結果でもあった。
 そしてアメリカにとっての懸念は、日本と満州の急速な1人当たりGDPの成長が、人口が多い事でダイレクトに巨大な国力へと結びついている事だった。
 さらに言えば、日本と満州の産業は、単にアメリカで衰退した産業が発展しているだけでなく、軍事産業、航空宇宙産業、電子産業、医療産業にも大きなウェイトを置いている事だった。国力の拡大で、金融産業も侮れない規模になっていた。
 そして何より問題なのは、特に日本が長年対等に近い関係を持つ同盟国であるため、あからさまな干渉や圧力がかけられないという事だった。戦略核の保有国ともなれば尚更だ。
 故にアメリカにとっての懸念は、多くを外交交渉の中で地道に解決しなければならないが、1980年代半ばから以後10年ほどのアメリカは経済的に衰えていると見られていた時期だったため、主にアメリカ人の心理に余裕がなかった。
 逆に日本、満州は、拡大するGDPに比例するように、大きな自信を持つようになっていた。

 冷戦崩壊時の日本の内閣総理大臣は、軍人出身の福田定一。作家将軍や作家宰相とも言われ穏やかな人柄だが、軍人としての彼は有能で積極的な戦車将校だった。そしてちょうど湾岸戦争という、日本も大きく関わった戦乱が起きた事もあり、非常に時節を得た総理ともなった。
 しかし福田は、自ら言い切ったように経済や財政に明るい人物ではなかった。だが、戦車将校らしいと言われる割り切りの良さで、自らが不得意な事は得意な者に任せることで無難に総理として乗りきった。だが、日本国内で全ての活動が非合法とされていた共産党の規制緩和を含めた合法化問題に関しては毅然として否定するなど、政治家としての決断力も見せた。
 そして自らの義務と考えた総理を3年務めると、そのまま政界からも公の前で公言し引退して故郷大阪で専業作家に戻っていった。総理まで上り詰めた政治家の幕引きとしては極めて希なケースだったが、世間の評判はいっそう上がったという。

 その次の総理には、自由党生え抜きの政治家の橋本龍太郎が選ばれる。民主党は、選挙の1年近く前まで福田の続投を考えていたので、石原慎太郎を候補に立てる準備が遅れてしまい、そのまま政権を失った。この件で福田は、最初から1期しかしないと言い切っていたので、福田の国民人気の上に胡座をかこうとした形の民主党への非難ともなった。
 しかし橋本政権は、閣僚のスキャンダルなどで安定せず、経済が絶好調と言える中でも国民人気の低下したことから、1期で降りざるを得なかった。
 そうして1995年の選挙は、自由と民主の接戦となった。
 自由党候補は小渕恵三、民主党の候補は石原慎太郎。経歴、見た目、知名度、選挙準備、多くの点で石原が有利と言われた。石原も民主党も、満を持して選挙に臨んだ。
 だが国民が選んだのは、「平成おじさん」の小渕だった。
 小渕の人柄と無難さを選んだのだと言われたが、その逆に石原の派手さが嫌われたとも言われた。一部橋本龍太郎とイメージが重なったからだとも言われた。何にせよ、自らの勝利を確信していた石原としては予想外の敗北だった。
 そして無難だが凡庸な総理と思われていた小渕総理だったが、日本型の調整型宰相としては非常に優秀な人物で、経済、外交、国防全てにおいてバランスの取れた政治を続けた。このため徐々に支持も高まり、2期目も無難に総理に選ばれた。
 国民は派手さよりも堅実さを選んだのだ。

 同時期の満州帝国の首相は1992年までは瀬島龍三だったが、その次に選ばれたのはライバルのアメリカ系候補を破って選ばれた、台湾出身の李登輝だった。
 満州帝国初の日本人以外の首相だったが、満州出身ではなく台湾出身の漢族系という変わった経歴を持っていた。
 彼は台湾在住の客家の家系で、第二次世界大戦中に日本の大学(京大)に進学。戦争中に学徒出陣で1945年に少尉任官。終戦時は、万歳昇進を含めて大尉で退官し、戦争中は半ば形だけヨーロッパに従軍して、終戦をロンドンの司令部で迎えている。
 戦後は、軍を退官して復学し大学を卒業。一度台湾に戻り結婚するも、今度は満州の新京大学で再び学んだ。当時の台湾系人としては、よくある経歴だった。
 だが、満州での勉学中に現地の人々に認められ、さらに請われる形で満州への移住を決意する。
 その後満州では得意の農業部門で活躍し、さらにアメリカに留学して博士号も得ている。満州からアメリカへの留学は、当時の満州でよく見られる事だったが、流石に年齢が高かったので周囲から目立ったという。
 そして1970年代になると政界に進出し、田中政権では農林大臣として辣腕を振るい、政界での存在感を増していった。そして次の瀬島政権の後期に副総理に選ばれ、誰もが次の首相と見るようになる。
 客家とははいえ初の漢族系総理であり、国民の多くを占める漢族(特に客家)から強い支持を受けたが、以上のような経歴から日系、アメリカ系からも一定の支持はあり、初の民主的に選ばれた首相と言われた。
 事実、彼の任期中に満州で事実上初めての民主選挙が実施され、見事選ばれてもいる。
 そして副首相の頃から、単に農政が得意なだけの人物ではない事が知られており、首相になってからも高いカリスマ性と指導力で、満州を力強く牽引した。
 そしてこの時期、日本では70年代後半以来の大幅な行政改革が開始され、満州では本当の意味での民主化が進んだ。そしてそれを可能としたのが国民の支持だったが、そうした民意を作り出したのは二つの国が経済的に大きく発展した時期でもあったからだ。
 順に見ていこう。

 1990年頃の日本の総人口は、約1億6900万人(※日本列島だけだと約1億5000万。)。同年の人口増加率は約1.03%で、経済発展の影響で世界平均を下回り始めていた。また、1970年代半ばの第二次ベビーブームが不完全だった事もあり、政府の予測数字を下回っていた。そして1980年代に入ってからの急速な経済成長に伴う所得の向上で、子供一人当たりの養育費などが上昇していった事もあり、急速に人口増加率に直結する出生率が低下しつつあった。
 このため政府は、1970年代の第二次ベビーブームの失敗から計画が開始されていた多産政策を徐々に制度化していき、2000年代に入ると精力的に行うようになる。(過剰ではない)人口こそが国力に直結すると考えられていたし、安定した経済成長と国家財政には緩やかな人口増加の継続こそが望ましいからだ。
 しかも1990年の時点では、日本の前にはバラ色に見える未来が見えているように思えた。
 1970年代後半からの経済発展は好調で、しかもそれは冷戦の崩壊に伴う軍事費の減少により加速される事が既定事項だった。莫大な軍事費が大きく削減され、経済に振り向けられれば、現在進行形で順調な経済をさらに加速させる事が確実だったからだ。
 また、日本の経済拡大を後押しした要因の一つが、隣国との自由貿易協定だった。

 極東地域を中心とする自由貿易協定は、発端は「ヨーロッパに見習え」という1960年代に出た言葉だった。そして当時は、満州経済が大きく発展しつつあり、急速に日本に並びつつあったので、日本と満州を中心とした経済的均衡状態ができつつあった。そしてニクソン・ショック、オイル・ショックで危機感が共有され、1977年に日本、満州を中心とした「東アジア自由貿易協定(EAFTA=東亜自貿)」が成立する。
 本部はウラジオストクに置かれ、人口規模でアメリカに匹敵する自由貿易体制が誕生する。(※この時点で人口規模は2億5000万人で、アメリカを越えている。)
 日本、満州以外の当初の加盟国は、シベリア共和国、内蒙古王国、韓王国、サラワク王国の6カ国で、北東亜細亜もしくは極東地域の国々が中心だった。
 この主な原因は、東南アジア地域に「ASEAN(東南アジア諸国連合)」があったためだ。また日満と東南アジア諸国の経済格差も、大きな原因の一つとなっている。また当時はサラワク以外にも、ブルネイ、シンガポールが日本の勢力下にあるなどしていたので、二つの地域できれいに分かれていたわけでもない。
 また、支那地域のウンナン、コワンシーも、当初からASEANに加盟しているので、ASEANは東南アジア地域だけとも言い難かった。支那地域は、西部以外は北東亜細亜に含まれるからだ。
(※チベット、東トルキスタンは、中央アジアに含まれる。)
 またASEAN領域内には、インドネシア人民共和国という社会主義国が存在していたが、冷戦崩壊でソ連からの支援も消えてしまうと、域内の視点から見ても人口が多少多い以外は遅れた農業国家でしかないため、従来と違いASEAN結束の理由としての存在すら危ぶまれるほどだった。
 だが、不思議と社会主義政権が倒れる事はなく、ジャワ島での民族主義に傾倒することでその後も存続し続ける事になる。この事はASEAN拡大の邪魔ともなり、ニューギニアが結局オセアニア地域として東南アジアから離れることを阻止できない大きな理由となった。

 ASEANの事はともかく、EAFTAは日本と満州だけが突出しており、ほとんど二国のための協定だった。シベリア共和国は1人当たり所得ならある程度並べるし日本が必要とする地下資源があるが、人口が段違いに少なかった。内蒙古も人口面では小国だったが、協定が安全保障も兼ねているようなものだったので、当初から加盟していた。
 韓王国は当時世界最貧国待遇で、初期は加わらない方が韓王国のためだと考えられた。だが、韓王国からの異常なほど熱心なアプローチもあって加盟している。売る物は少なく購買力も極めて貧弱で、誰にとってもメリットは無かったが、当時は東西冷戦構造があるので、域内できれいに固まっている状態になるので好意的に見られていた。
 しかし韓王国は、公平な自由貿易するために日満が韓国(と一応他の加盟国)の経済を大幅に底上げするのが当然だと訴えるなど、いつもの我が儘を言ったりしたため、域内での冷遇が行われるなどと言った状態も見られた。
 また、冷戦構造下だからこそ、EAFTA設立自体はアメリカから強く反対もされていない。それよりも1970年代は日本経済が大きく傾いている時期なので、好意的に見られたほどだった。しかしアメリカが加盟したり深く関わることについては、地域的な自由貿易協定ということで謝絶されていた。
 1990年の時点のEAFTAには、ブルネイが1984年に日本から独立してそのまま加盟し、もとインドネシアの一部だったボルネオ共和国もボルネオ島全体の経済的統一を重視して加盟。また、香港が1980年に、支那連邦共和国(南支那)が1983年に加盟している。しかしこれで支那共和国が反発して、同時期に話しが進んでいた支那共和国加盟の話しが立ち消えていた。一方では、主に満州が関係を深めている、民主化した支那奥地の国々が、加盟に向けた動きを強めていた。
 そしてこの自由貿易協定だが、冷戦構造崩壊後は日本と満州を貿易面で他から、特にアメリカから守る防壁として機能するようになった。

 なお1990年頃の満州は、2000年代に入るまで一人当たり所得で日本より優位にあったが、総人口では大きく負けているため、1990年頃だとGDP自体はほぼ同じぐらいだった。
 当時の総人口は約1億2000万人。大きな経済成長によって押しも押されぬ先進国となっていたので、出生率は低下傾向にあった。だが、移民の国だったので、移民を含めると順調な人口は増加を続けていた。しかし、日本からの移民の急速な減少と政府の政策もあって、1980年代以後は移民は大幅な減少傾向にあり、出生率の低下も1990年の時点で既に暗い未来を予言していたので、政府は強力な多産政策を実施するようになっていた。
 だが移民が多く、まだまだ若年層が分厚いので、豊富な労働人口を抱える活発な国だった。
 そして日本と合わせると、総人口は約3億人(約2億9000万人)。どちらも既に先進国水準の一人当たり国民所得に達しているため、2国で西ヨーロッパ全域に匹敵するほどのGDP(国内総生産)に達していた。2国を合わせた経済力が、アメリカの約60%にも迫っていたのも当然だった。
 とはいえ、一人当たり所得ではアメリカにはまだまだ及ばず、産業面でも遅れている面は少なからずあった。だが日本と満州の強みが、まだアメリカより低い労働賃金でもあったのだから、当然と言えば当然だった。
 さらにEAFTAで見ると、2億人の人口を抱える支那連邦共和国が加わるので、人口規模だと5億人にもなり、世界で最も巨大な人口を抱える自由貿易協定となっていた。人口だけで言えば、丁度当時のアメリカ合衆国の二倍にあたる。
 ただ、当時の支那連邦共和国の一人当たり所得は、ある程度の経済成長があっても内蒙古以下の300ドル程度だったので、北東アジアの経済大国と言えば満州と日本になる(※支那連邦の発展は1990年代から)。
 そして日本と満州だけが、アジア世界でアメリカと対等に近い関係にあり、特に日本はアメリカの片腕もしくは相棒と言える関係で、東西冷戦構造下で主にアジアの安全保障を担ってきていたため、アメリカも経済の事で簡単に日本を責めることはできなかった。この事は、1970年代以後の満州にも言え、満州と日本のアメリカとの貿易黒字拡大を助長する大きな要因にもなっていた。
 しかし冷戦構造の終了、ソ連の崩壊によって、アメリカにとっての日本と満州、そしてEAFTAは、アメリカの経済上のライバルとして急速に浮上する事になる。プラザ合意での事実上の満州叩きがその先例であり、1980年代中頃から始まった満州、日本との貿易摩擦、経済覇権を巡る競争が始まるようになる。
 このため、冷戦の終わりは日米蜜月関係の終わりと言われることもあった。

 一方、アジアで我が道を進んでいたのが、インド連邦だった。
 インド連邦共和国は、一国で一つの地域を占めており、世界三大海洋の一つインド洋も、その名の通り半ばインドの勢力圏だった。
 そしてそれを名実共に現実のものとするべく、インドは内政が安定するようになると軍の近代化と一定規模の海軍拡張に乗りだし、世界の大国としての振る舞いを広げていくようになる。湾岸戦争での派兵も、そうした政策の一環だった。1970年代からは、国連の軍事活動にも積極的に参加していた。
 しかしインドには、大国として足りないものが少なくなかった。特に経済力が他の列強に比べて劣る事は、インドの懸念であり続けた。
 だがインドの経済発展には、大きなハードルが幾つもあった。
 言語、宗教、民族、民度、殆どが当てはまる。近代化するためには、ヒンズー世界のカーストと呼ばれる身分差別も大きな障害の一つだった。政治、経済の言語としては、イギリスが普及させた英語が使える点は大きな利点だったが、英語はエリートが話す言葉でしかなかった。
 またインドは、大国として振る舞うべく国産や自力開発に強いこだわりを見せた為、急速な発展は難しかった。友好国である日本や満州からの投資も、国が制限を設けている事が多かった。
 そうした様々な要因があるため、1990年でも一人当たりGDPは僅かに200ドル程度と低かった。しかし10億人以上という世界でダントツの総人口は、インドに巨大な国力を与えていた。

 そのインドは「第三世界」の代表的立ち位置にあり、1970年代ぐらいから世界に対して訴え続けた事があった。
 「国連改革」だ。
 国際連合(U.N)は、世界中の国と地域が参加する国際機関だが、最も重要な案件を決める場合は「安全保障理事会(安保理)」で決まる事が多かった。そして安保理の常任理事国は、「ビッグ4」とも言われる第二次世界大戦の主要戦勝国によって占められており、拒否権という大きな権限が与えられていた。
 安保理の理事国自体は、初期の頃から任期5年の非常任理事国が8カ国加わるので、当初はそれほど異論は出なかった。
 だが1960年代に核保有国が増え、アメリカの絶対的とも言える国力が低下してくると、主に西側もしくは第三世界から、常任理事国を増やすべきだという声が高まった。それが無理でも、非常任理事国だけでも増やすべきだという、やや消極的意見も強まった。
 このため非常任理事国を二倍の16カ国にする案が浮上するが、結局拒否権のある常任理事国がいるかぎり、あまり大きな意味はないと考えられた。そうした不満を受けて、インドなどが拒否権なしの常任理事国を設けることを提案するようになる。
 この案では、拒否権有りの常任理事国は変化無し、拒否権のない常任理事国を4カ国、非常任理事国を4カ国増やして12カ国とするのが骨子だ。
 加えて拒否権に関しても、ある程度の制限を設けることが強く提案された。例えば、安保理で3分の2以上の賛成がある場合、1国の拒否権発動は無効とされる、などだ。
 当然と言うべきか、当時の常任理事国から反発が出た。だが、高いレートを示してから交渉を始めるという常套手段に過ぎず、インドなどの国々のこの時点での目的は安保理拡大と常任理事国の拡大にあった。
 そして日本、イギリスは安保理の拡大と改革に肯定的で、アメリカを説得する形で国連総会で決議するべきだという話しが進む。それでもアメリカはなかなか折れず、ソ連は断固反対の姿勢を取っていた。
 その流れが変わったのは、ソ連の崩壊と冷戦構造の終結だった。これを千載一遇の機会とした多くの国々は、一気に改革に向けて動いた。アメリカも、唯一の超大国となる事での強い風当たりをかわすためにも、安保理拡大に賛成を投じざるを得なかった。
 そして当時、国内が混乱状態のロシア(旧ソ連)は、エリツィン大統領の強い指導力によって、ようやく安保理拡大に賛成した。

 しかし安保理拡大は、最初のハードルを越えたに過ぎなかった。次のハードルは、誰が新たな常任理事国の椅子に座るか、だった。
 新たに用意される椅子は、初期案では4つ。拒否権がないとはいえ、常任理事国に選ばれる事で国際地位向上を目指す国は少なくなかった。だがここで、新たな常任理事国は拒否権がないので、常任、非常任の総数を同じ、つまり当時の拡大案に従って10席ずつにするべきではないかという案が出た。この場合、非常任理事国は改革案通り2国増えるだけの10カ国だが、新たな常任理事国は6カ国増えるので、拒否権を持つ4国にある程度対抗できるのではと考えられたのだ。
 そして最終的に、増やす常任理事国は6、非常任理事国は2つ増えて10。「4+6+10枠」に定められる。国や地域の数が、冷戦崩壊に伴う独立国の増加で200に迫ろうとしていたので、このぐらいの国が参加するのが当然と見られたのだ。
 一方で、選定基準は特に設けられていなかったので、様々な意見が出た。
 GDPの高い国。人口の多い国。地域(大陸)を代表する国。そして核(戦略核)保有国。多くの意見が出て、どれも一長一短だった。国連加盟国による投票で決めるという案ですら、ロビー活動でどうとでもなるという意見が多く、決定打にはならなかった。
 そこで、挙がった条件を複数クリアすることが最低条件とされた。
 GDP、人口、地域代表、核保有、このうち2つ以上の一定条件をクリアした国が、立候補もしくは複数国の推薦で候補となり、国連総会の投票で決めるという形になった。
 1991年に改革が決まり、翌1992年に決められる事になり、世界中が大騒ぎとなった。
 現状での常任理事国は、自分たちの友好国を新たな席に迎え入れようと活動した。第三国は、誰に一票入れれば自らに有利になるか、様々な方法で探った。そして候補に名乗り出る国が、最も活発に活動した。

 候補に名乗りを挙げたのは、満州帝国、インド連邦共和国、フランス共和国、ドイツ連邦共和国、ブラジル連邦共和国になる。
 しかし、候補を立てたヨーロッパも一枚岩ではなかった。フランスとドイツが立候補したが、それぞれの組織票を集めた上での事で、地域代表としても西欧と東欧に分けるには問題があると見られていた。しかも西欧で見ると、既にイギリスがいる。東欧もロシアを東欧と見ることができた。
 アジア地域はインドと満州が立候補したが、東アジア地域で見ればすでに日本が居るのでインド優勢が言われていた。しかしインドはインド1国で一つの地域であるため、票集めが難しいという欠点を抱えていた。
 アフリカは、エジプト、ナイジェリア、南アフリカが域内での候補として有力視されたのだが、どの国も決定打に欠けていたし、どの国もアフリカ地域での支持を集めきれなかった。このためエジプトはアラブ地域代表になろうと画策したが、サウジアラビア、イランも候補になりうるので、他の国を含めた話し合いで支持が集まらなかった。またアラブ地域では、主にサウジアラビアとイランが対立していて、立候補、推薦共に無かった。
 このためアフリカ1席、アラブ1席をその後経過を見つつ5年ごとに再考するという修正案を加えることで、空席のままとされた。
 しかしアフリカでは国の数から最低でも2席欲しいとか、サハラ以北はアラブ世界に含めるべきだと言われるなど、これでも問題は皆無ではなかった。結局、最大の票田となるアフリカ諸国を納得させるため、アフリカ、アラブ合計で3席を空席とせざるを得なかった。
 そして新たな常任理事国の椅子は3つしかなかった。
 これを先進国の陰謀だという話しが、当時はまことしやかに言われたが、流石に先進諸国にとっては濡れ衣でしかなかった。

 それはさておき、残る席は3つ。その3つを、満州、インド、フランス、ドイツ、ブラジルで競い合わなければならなかった。つまり2国が脱落するのだ。
 核保有なら満州、インド、フランスが、GDPなら満州、フランスが、人口なら5国どこでも、地域代表ならブラジルが圧倒的優位だった。このようにどの国が選ばれても不思議ではない状態であり、結局の所ロビー活動が全てを決すると言えた。
 投票は予選と本選の二回とされ、それぞれ最も得票数の少ない1国が脱落する事とされた。
 最初に脱落したのはドイツ。いまだ国連の敵国条項を背負ったままで、東欧の一部からも反発が出た事から票が伸びなかった。そして次の本選では欧州諸国が結束したため、4位だったフランスが順位を上げるという皮肉な状態となった。
 そして本選で落選したのは、ブラジルとなった。
 ブラジルは地域的に確定と言われていたが、第三世界としては人口規模以外は中途半端で国際的影響力も高いとは言えず、インドにアフリカ票を奪われていた。満州の当選は、アジア票を集めた事、特に支那地域の票をほとんど集めたことでブラジルを追い抜いていた。
 ブラジルの場合は、アンティル連邦共和国として1972年に独立した地域が、第二次世界大戦前のバラバラな状態で独立していれば自然と票が集まっただろうと言われたが、中南米諸国の票も集め切れていなかった。ブラジルが集めきれなかったのは、ブラジルだけがポルトガル語だったからとも言われるが、やはり昔からのアルゼンチン、チリとの勢力争いの延長で票が流れたと見るのが自然だろう。アフリカほどまとまりが無いわけではないが、隣国への対抗心が常任理事国の椅子を遠ざけたと言えるだろう。
 結果、インド、満州、フランスの順に当選し、新たに常任理事国入りした。しかし3席が空席のままなので、常任理事国7、非常任理事国10という、当初の予定から見ると中途半端な状態がかなりの期間続く事になる。
 空白の3席については、それぞれの地域からさらに席を増やす要請が度々出されたが、流石に我が儘すぎるとして国連総会でも何度も否決され、3つの席では候補が多すぎるため「永遠の空白席」として30年近くも空白のままの状態が続く事になる。
 だがアフリカ地域は爆発的な人口拡大が続いた為、その30年後には無視できないようにもなっていく事にもなる。


●フェイズ140「20世紀末期の日本と空港整備」