●フェイズ143「第二次支那戦争」

 「第二次支那戦争」の発端は、1997年8月22日のトウ小平死去だった。
 と言っても、支那連邦共和国で内乱が起きたり、支那連邦共和国が突然他国に攻め込んだりしたわけではない。また逆に攻め込まれたりしたわけでもない。
 しかし、小さくない政治的混乱が発生した。共和制国家としてはともかく民主主義国家として不完全だったことを現すように、江沢民体制への完全な移行のため国内に多くの努力を費やさなければならなかった。関連して、日本、満州なども政治的に慎重に動かねばならず、また世界の目は、自然と支那連邦に集まった。
 そして世界の混乱の間隙を突く形で、同年10月8日に支那共和国軍が突然動いた。

 支那共和国軍が選んだ先は、彼らにとってお馴染みの相手でもある西の中華共和国。数年前まで中華人民共和国と呼ばれていた国だ。
 支那共和国は、従来から中華共和国の境界線(DMZもしくは国境線)に軍を大量に配備し続けて、冷戦崩壊以後に中華共和国の混乱やソ連の影響力低下を期待して、物資の備蓄など侵攻準備を秘密裏に進めていた。このため動くのに、大きな準備は必要なかった。
 そして天安門事件で多くの国と国交断絶状態のため、世界は支那共和国の状況について詳しく知ることはできなかった。
 このため支那共和国軍も動きは、大国の軍事衛星でしか察知できなかった。そして察知した時には行動寸前であり、外交的に止める時間はなかった。

 当時の支那共和国軍は、今までの対立構造と軍事政権の方針もあり、多数の兵力を抱えていた。総人口1億1200万人で、最大250万の兵力を抱えていた。このうち常備軍が150万、実質的に動員不可能な予備役が100万あった。歩兵中心の遅れた軍隊だったが、数は力だった。このうち各30万ほどが、満州帝国と支那連邦共和国に向けられており、10万の首都など主要都市の警護部隊を除くと、半数以上にあたる80万の兵力が中華共和国(西支那)に向けられていたことになる。
 この兵力は軍事政権になってから大きく増加しており、1970年代の五割り増しになっていた。とは言え、海外から兵器が購入できないので、数が増えただけで戦力価値は低かった。
 しかし数は力であり、中華共和国軍は支那共和国軍よりも、装備も数も大きく弱体だった。
 中華共和国は体制の崩壊、軍事組織の再構築もあって、軍隊の数は20万人程度だった。総人口約5000万あるので、徴兵すればもっと兵力は揃えられるのだが、貧弱すぎる国家予算から20万の兵力維持の予算すら不足している有様だった。ほぼ全兵力を支那共和国に向けていれば良い政治状態だったが、それでも大きく劣勢だった。

 DMZ(非武装中立地帯)は、基本的には黄河を挟んでそれぞれの対岸2キロメートル。南部の一部は陸続きだがそのまま今度は支那連邦共和国(南支那)の境界になるが、陸路で西安市に進撃できるため、両陣営共に大軍を配備していた。そして交渉場所などとなる共同警備区域を含めて、当事国以外の軍隊は既に無かった。国連も共同警備区域に職員が若干数いるだけで、それも監視というより管理のためだった。
 陸続きのDMZの長さは、約150キロメートル。より南の支那連邦共和国と中華共和国のDMZの方が約250キロもあり境界線の凹凸も複雑なのだが、両者暗黙の了解もあり国境警備隊程度しか置いていなかった。それは支那連邦共和国と四川共和国も同様で、支那共和国軍がいっそう浮いた状態だった。そしてそれがいつしか日常になっていた事も、この時の支那共和国の突然の軍事行動を諸外国が気付くのが遅れる原因となった。
 DMZから西安までは約100キロメートル。かつて長安とも呼ばれた古都は、20世紀になってから争奪戦の場となった場所だ。そして支那共和国にとっては、先の戦争でも目標とした場所の一つなので、彼らにとって西安を奪回することは大きな政治目標足り得た。

 この時DMZの支那共和国軍が行ったのは、以前から度々行っていた越境砲撃や小規模な偵察隊による侵入などではなく、本格的な侵攻だった。突如戦闘を開始してDMZに侵入、そして中華共和国になだれ込んだのは、現地に配備されていた約50万の兵力のうち約60%。全兵力ではないのは、様々な制約から陸路侵攻可能な全域で動けなかったからに過ぎない。
 そして支那共和国は、最低でも西安を奪う事。いかに弱体な中華共和国でも、短期間で一気に征服出来ないことは理解していた。しかし千載一遇の機会を逃す気も無かった。だからこそ動いたのだが、半ば衝動で動いた為本当の意味での戦略目標がなかった。
 加えて、どうやって戦争を収めるのかのビジョンも無かった。また別の視点では、支那共和国は国際的に孤立していた事を逆用して勝てる戦争を吹っ掛けたわけだが、だからこそ味方に付く国、仲裁してくれるような国も無かった。故に世界は、軍事政権の無軌道な暴走でしかないと断じた。

 戦闘開始から2日目、世界は事態の深刻さに気付き始めた。
 国連は、緊急の安保理会議で戦闘の即時停止と境界線までの軍事力の撤兵を勧告したが、支那共和国は国連はすぐには何も出来ないと開き直りに似た決断を下し、自らの行動を鈍らせることは無かった。そして世界があたふたしている間に、支那共和国軍は1メートルでも先へと進んだ。そして迎撃する中華共和国軍は、初戦でDMZで敗北して以後、弱い地帯防御戦闘を戦闘展開しかできないでいた。
 このままでは数日で西安は陥落すると見られた。
 なお、戦闘が一方的だったのは、中華共和国軍に原因があった。

 中華人民共和国の呆気ない崩壊で、国軍を構成していた人民解放軍も瓦解した。人民解放軍は、もともと中華人民共和国を作った中華共産党の軍隊であり、国家の軍隊ではなかったからだ。
 1970年代の第二次支那紛争で共産党はソ連の傀儡となるほど力を無くしたが、それでも人民解放軍は名を変えながらも残された。他に軍事組織が無かったからだ。だが、それまで有していた能力も組織力もなくなった。そして冷戦崩壊で中華人民共和国崩壊と同時に共産党も霧散してしまい、人民解放軍も自壊の形で事実上の解体となった。
 その後、人民解放軍は名を国防軍と改め、最初から軍隊を再建しなければならなくなる。しかし、国民には人民解放軍に対する良い印象がない事もあり、新時代の軍隊を作ると言っても人が集まらなかった。兵士は給与を高めに設定したり、徴兵制を敷けば取りあえず数は集められるが、将校が全く足りなかった。
 新国家建設と共に国外から教官を呼んだり、外国に研修に送り出すなども行われたが、共産主義ではなくなった資源もない国に、あまり関心を示す国はなかった。しかも近隣諸国は、かつての中華人民共和国と人民解放軍に対する警戒感も強かった。
 当然、新たな国軍の編成は遅れた。しかも装備はソ連のお下がりの旧式のままな上に、予算が少ないため平時に動かす為の燃料や予備部品が足りず、兵器の稼働率も低かった。銃弾、砲弾の備蓄も少なかった。
 さらに中華共和国は、主に満州が経済進出を始めていたが、基本的にロシアの勢力圏と考えられていたので、西側諸国との安全保障に関する条約などを交わしていなかった。
 だから満州などがフォローして、主に満州と支那連邦が支那共和国を押さえ付けていたのだが、トウ小平死去に伴う支那共和国の混乱を突いて支那共和国軍が動いたのだった。

 しかも戦争が起きた1997年10月は、東アジア地域にとって時期が悪かった。
 1997年7月から「アジア通貨危機」が起きていたからだ。
 これまで東南アジア諸国の半分ほどと支那連邦共和国、韓王国は、アメリカのドルと連動する固定相場制、いわゆる「ドルペッグ」を採用していた。制度を取り入れてから1990年代前半まで東南アジアも景気が良かったので、大きな問題はなかった。しかし、アメリカの景気動向とそれぞれの国のこの時点での経済実態がそぐわない所をヘッジファンドに突かれ、空売りによって各国通貨の暴落と大規模な金融不安が起きた。
 しかも各国経済が傾いた理由は、「アジア通貨危機」で大きな被害を受けた支那連邦共和国にも原因があった。と言うのも、支那連邦が安価な労働力を武器に外資と海外の工場を呼び込んだ事で、それまで東南アジア、インドにあった工場などのかなりが支那連邦に流れ、その後は奪い合いに近い状態に陥った事が遠因となった。そして支那連邦の方は、経済は上に向かう状態ながら予測よりも成長率が落ちて、東南アジアは工場が消えて景気と実体経済が悪化していった。
 支那連邦に対してはEAFTAの中心である日本、満州が以前から警鐘を鳴らしていたが、当初からアメリカ経済の影響が強い支那連邦としては選択肢が無かった。支那連邦がドルペッグを採用したのは、支那連邦がEAFTA参加するより前なので、日満としても支那連邦に制度改革を促す程度の事しか言えなかった。
 だが日満の懸念が当たってしまい、9月には支那連邦でも大規模な通貨危機が発生した。しかも第二次支那戦争の勃発で、周辺国と関連国への懸念が世界的に強まり、東南アジア各国、支那地域各国、韓王国に通貨危機が波及。その影響は、日本、満州にまで及ぶ。
 また支那連邦共和国と同じく、日・満への不満から強引にドルペッグを採用していた韓王国も、元から貧弱だった経済面で壊滅的と言える打撃を受けて、事実上の国内経済の崩壊と全面的な債務不履行にまで悪化してる。しかし経済規模が小さすぎる事と、友好国などが救済してもメリットが少なすぎる事などから半ば放置されてしまい、その後も韓王国は酷い経済の低迷が続くことになる。
 ここまでの事態を予測していたとしたら、支那共和国は極めて狡猾だったと評価できるかもしれない。

 「第二次支那戦争」の開戦当初の戦闘は一方的だった。何年か前のイラク軍とクウェート軍よりもひどく、DMZ(非武装地帯)に配備された中華共和国軍は3日持たずに撃破され、西安の道を開けてしまう。そしてもともとの軍事力が少ないため、第一線が突破されてしまうと西安を守る手だては少ない数の遅滞防御部隊ぐらいしかなかった。
 なお、DMZは国境線として残されていたが、中華人民共和国の衰退以後は半ば形骸化してしまい、無数の地雷が埋められたままの自然保護区のような場所でしかなかった。このため支那共和国軍は難なくDMZを突破し、進撃のための臨時道路すらDMZ各所に通した。国家分裂以後はずされていた鉄道のレールももとに戻して、鉄道は支那共和国軍の補給路として利用ようとした。つまり本格的な進撃を行おうとしていたのだ。
 そして戦争開始から5日後、支那共和国軍が西安への道半ばにさしかかる頃、国連と世界は流石に不味いと考え、次なる行動へと移る。

 勧告に従わない支那共和国への制裁決議だ。
 と言っても、支那共和国への事実上の経済制裁は軍事政権が強権支配するようになった1990年から続いているような状態だし、湾岸戦争でのイラク軍同様に非軍事的制裁措置に止まっていた。国連安保理では、軍事的制裁措置や国連軍の派遣も提案や検討されたが、戦争により満州、日本の支那地域での影響力拡大を懸念したロシアとアメリカが難色を示した為、非軍事的制裁措置に止められた。しかし非軍事的制裁措置では戦争を止めることは難しいので、多国籍軍もしくは有志連合による軍事行動が認められた。
 このような決定になったのは、支那地域の特殊な政治状況が影響していた。支那地域東部はアメリカの領分、支那地域西部はロシア(旧ソ連)の領分、アジア全域は日本の領分という軍事区分だった。
 このため今回世界が軍事行動を取るなら、日米露が合意が必要になる。しかし支那共和国に日米満が軍事行動を行うと、そのまま支那共和国が侵攻している中華共和国にも日米満の影響が強める可能性が強まる。それをロシアが懸念したのだ。
 そして同様の事を、アメリカも懸念した。支那共和国で日満の影響が強まると懸念したのだ。
 一方で、アメリカにとってアジアの問題は、日本が中心になって解決するという日本との外交上の基本原則を最低限でも守る必要があるので、アメリカは日満の軍事行動に向けた動きを止められなかった。
 さらには、国連軍などでアメリカが余計な負担を被らないためだった。当時アメリカは景気が回復基調にあったが、軍事費は比較的抑えられており、それがアメリカ国民からも支持されていたからだ。しかしこの時はあまりにもアメリカが何もしなかった為、当時のクリントン政権はアメリカが世界の警察官だという認識を持つ保守派市民層から強い非難を浴びて、支持率を大きく下げている。民主党は弱腰という印象も、改めてアメリカ市民の間に印象づけられてしまった。
 ロシアは当時通貨危機で他国どころではなく、しかも国内にもコーカサス地域での紛争を抱えるなどしていたため、これ以上他で何かをする余裕が無かったというのが主な理由だった。また中華共和国が支那共和国に蹂躙されたら困るので、日満の行動を認めざるを得なかった。
 もう一つの拒否権を持つ常任理事国のイギリス(U.K.)は、基本的に日本や東アジア各国側に立っていた。象徴的な軍事力の派遣すら口にするほど積極的だった。だがこの背景には、遂に香港の主権を無くした事で、アジアでの発言力を少しでも維持しようと言う意図があったと言われる。

 国連の決定を受けて「アジア条約機構」(もしくは「シンガポール条約機構」)とアメリカ軍は、既に準備を進めていた軍事介入の動きを加速させる。特に主力となる満州、日本はすぐに動ける兵力があるため、軍の動員と配備を進めると共に、各国の連名で支那共和国に対する最後通牒とも言える勧告を実施する。勧告には期限こそ決めないものの、受け入れない場合は軍事力の行使を行うと宣言されていた。
 勧告は10月12日に行われ、24時間以内の期限を設けた。
 だがそれでも支那共和国は、中華共和国に対する軍事侵攻の手を緩める気配は無かった。
 中華共和国は世界中に対して救援を要請し、同国内に入っていた世界中の報道関係者によって、戦争の断片的情報と中華共和国が置かれている状態を世界に伝えた。無責任な報道は、明日にも西安が陥落し2週間で首都蘭州陥落も十分あり得ると報じた。
 だが、事態がここまで進んだ以上、軍事力を用いる覚悟を固めた国にとってはこれで良かった。
 軍事介入する国々にとって、大義名分は全て揃ったからだ。
 かくして開戦1週間を待たず、戦争は次のステージへと移行する。

 第二次支那戦争を軍事的に見ると、開戦初期は兵器の質で言えばせいぜい1960年代ぐらいだった。インドネシア戦争の方が、全般的には高性能の兵器を使用していた。
 と言うのも、侵攻した支那共和国軍は1960年代ぐらいのアメリカ軍装備中心で、対する中華共和国軍は1950年代ぐらいのソ連軍装備中心だったからだ。なぜなら、支那共和国は1970年代の第二次支那紛争の結果、アメリカなど西側諸国からの信用を無くした。中華共和国の前の中華人民共和国は、1950年代末にソ連からの信用を無くしていたので、以後の兵器の購入が難しくなっていたからだ。
 両国とも国連制裁までされていないので購入は可能だが、それまでのように同盟国価格などの優遇措置は一切なく、それどころか旧式兵器の払い下げすら難しくなっていた。さらに仮に新兵器を購入しても、それを維持するための交換部品の入手にも困難が伴うため、運用自体が難しかった。また支那共和国は、基本的に満州帝国を半ば敵視しており、日本に対しては時代錯誤から格下に見るため、近隣から兵器を購入する道を自ら閉ざしていた。
 アメリカとの関係は第二次支那紛争後も最低限は維持されたが、それも1989年の天安門事件以後は事実上断絶していた。天安門事件以後は、フランスなど世界中の国々からの兵器購入も出来なくなっていた。
 中華共和国は基本的に貧しいため、文革後にソ連の衛星国化しても兵器を買いたくてもなかなか買えなかった。象徴的にソ連から同盟国価格で購入された兵器もあるが、数が非常に限られていた。
 冷戦崩壊後に、ソ連から極めて安価になった兵器をいくらか買い足したが、それも予備部品、整備部品の不足から稼働率は非常に低いのが実状だった。
 支那共和国軍の主な装備は、陸軍はアメリカ製の「M-47」、「M-48」戦車で、「M-60」戦車の購入計画はあったが実現前にアメリカとの関係が悪化して、それ以後兵器の更新はされていない。第三国経由で部品だけ買って若干近代化を施すのが限界だった。自力生産も考えられたが、工業力が貧弱すぎて旧式戦車の整備用の部品すら生産出来なかった。
 空軍はアメリカ製の「F-5」戦闘機、「A-4」攻撃機が主力で、限られた数の「F-4」戦闘機の初期型とフランス製の「ミラージュ」戦闘機を数十機ずつ保有する程度だった。海軍については、アメリカが第二次世界大戦に建造した駆逐艦を数隻供与されていたが、近代改装もされずまともな稼働状態には無かった。空母や潜水艦と言った兵器は、計画上にすらなかった。
 日本への複雑な思いとアメリカの影響から装備の多くがアメリカ製で、1970年代半ば以後一部ヨーロッパ製造が導入されている。
 中華共和国軍の主な装備は、全てソ連製の古い兵器だった。陸軍は「T-55」戦車が主力で、象徴的に供与された「T-72」の輸出型モデルを若干数保有する程度だった。装甲車の数も、ソ連軍のお古ながらかなりの数があった。数字上の戦力はそれなりにあったが、状態はアフリカなどの国々よりも悪く稼働率が低かった。
 空軍は「Mig-19」、「Mig-21」戦闘機で、若干「Mig-23」を保有するだけだった。「Mig-29」を購入する計画はあったが、中華共和国にとっては安価な割に高性能と定評のある「Mig-29」ですら高額すぎる兵器だった。
 冷戦崩壊後に若干満州から兵器を購入しており、冷戦崩壊後に要らなくなった兵器が満州からタダ同然の格安価格で供給されたが、予備部品などメンテナンスの多くを満州に頼る状態だった。

 1997年10月12日のアジア条約機構による勧告では、24時間を期限として支那共和国の即時停戦と他国領土からの撤退開始を求めた。受け入れられない場合は、軍事介入を実施すると声明を発表した。脅しではないことは、東シナ海に展開した海軍の恣意的な動きによって、支那共和国に見せつけた。
 これに対して支那共和国は、造反勢力に不当に占拠されたままの中華領域の回復は正統な権利であり、不当に阻む者には断固たる反撃を実施すると今まで通りの反論を展開しただけだった。水面下での動きは皆無では無かったが、後で分かったことだが支那共和国は満州、日本がすぐに戦闘を仕掛けてくるとは全く考えていなかった。このため満州、日本なども、支那共和国の水面下の政治的動きは時間稼ぎでしかないと判断していた。
 しかし日満など周辺各国は、全く何も掴んでいなかったわけではなく、警戒態勢と臨戦態勢を強化していた為、一定程度の軍事力ならばすぐにも行動可能だった。

 かくして10月13日午前3時、アジア条約機構に属する日本帝国、満州帝国の軍隊は、支那共和国に対する軍事制裁を開始する。支那連邦共和国は、事態がより悪化する可能性がある事と国内情勢の安定化を優先するという理由で、この時点での攻撃には参加しなかった。しかし国境線の警戒は一段と高められた。
 日満軍の攻撃方法は、既に展開を終えていた海空軍部隊による、空爆と巡航ミサイルによる攻撃。湾岸戦争で示された戦法を、さらに装備と戦術を洗練させた形で実施した形だった。
 日本軍は黄海に緊急展開した艦隊から、空母艦載機と巡航ミサイルによる攻撃を実施した。空軍、戦略空軍は、第一撃には参加しなかった。
 攻撃は、全面戦争を意図した攻撃ではないため、攻撃目標は象徴的な意味での西安への進撃途上の軍及び補給部隊に対する攻撃と、各地の情報・通信施設、さらには一部空軍基地だった。首都北京は敢えて攻撃対象から外され、支那共和国侵攻に対するメッセージとしての攻撃となった。
 攻撃を受けた支那共和国は二つの意味で驚いた。
 一つは、アジア条約機構が短期間のうちに躊躇無く攻撃してきた事。もう一つは、自らの防衛網が全く機能しなかった事。先端兵器で20年以上遅れた装備しか持たないため、湾岸戦争でのイラク軍同様もしくはそれ以上に反撃や防御を出来なかった。このためアジア条約機構側が予測したより、大きな損害を受けていた。
 激しい電子妨害でレーダー、通信が使用不能もしくは困難な状態に追い込まれ、そこにミサイルと攻撃機が襲いかかった。支那共和国にとっての僅かな救いは、湾岸戦争ほど大規模攻撃では無かった事ぐらいだが、一撃で戦争遂行能力が実質的に半身不随に近い損害を受けたことは、衝撃以上の出来事だった。
 この時攻撃に参加したのは、主に日本海軍の艦艇と日本、満州空軍機になる。しかし局地戦としては大規模で、日満合わせて300機以上の航空機が作戦参加し、約100発の巡航ミサイルが使用された。それでも日本は戦略空軍を偵察以上で用いていないなど、全面攻撃ではなかった。そして戦線後方では、第一撃で支那共和国が反応を示さない時に備えて、本格的な戦争準備が急速に進められていた。この中には、予備役動員や地上侵攻すらオプションに含まれており、実際満州陸軍を中心として準備も開始されていた。硫黄島などでは、戦略爆撃機の出撃準備も進んでいた。
 しかし、アジア条約機構(日満軍)としては、最初の一撃で支那共和国の政府、軍部の士気を挫き、支那共和国から撤退させれば十分な成果だった。後方での準備は、あくまで保険でしかなかった。湾岸戦争で示されたように、先進国の軍事力に対してそれ以外の国が正面から戦っても勝ち目が無いことは十分に世界にしめされていたので、第一撃にそれを分からせれば十分と判断されたのだ。

 アジア条約機構(日満軍)の攻撃に対して支那共和国軍は、日満軍が警戒したほど防衛体制を敷いていなかった。この時の支那共和国軍は、手持ちの空軍戦力と防空部隊の多くを首都防衛と核関連施設、そして前線部隊に集中していた。それでも他も相応の防衛体制にあったのだが、日満軍の電子戦の前に偵察網、連絡網が麻痺してしまい、まともな迎撃が出来なかった。そもそも攻撃はないと言う前提だったので初動が遅れに遅れて、損害を大きくしていた。
 空軍機の場合はスクランブルした機体もあったのだが、日満の海空軍機の目標以上の価値はほとんどなかった。遅ればせながらも支那共和国各地を飛び立った迎撃機のほとんどは、日満のAWACSによって飛び立った時から捕捉され、遠距離からの誘導ミサイルで次々に撃墜されていった。
 そして一方的に撃破されることは、力で国を支配してきた支那共和国の軍事政権にとって緊急事態だった。政権を維持するため、国内に対して自らの力を誇示しなければならないと短絡的に考えた。そして彼らにとってお誂え向きに、示威行動を兼ねて黄海に日本艦隊が入り込んでいたので、支那共和国軍としてはこれに損害を与えることで「派手な戦果」の映像を得ようとする。
 前線からなけなしの攻撃機隊を呼び戻し、沿岸部に急ぎ対艦ミサイル部隊を展開させ、数年前イラクが行ったような攻撃を規模と密度を縮小した形で攻撃した。
 そして、湾岸戦争でミサイル戦の脅威を身を以て体験した日本海軍は、示威行動であっても自らの艦隊防空を手抜きにする筈もなく、支那共和国空軍機はさらに数を増したイージス艦の餌食となった。
 この戦闘では、イージス戦艦《武蔵》が出動しており、さらに近代改装で強化された圧倒的防空能力を披露して、支那共和国は日本海軍の引き立て役にされてしまう事となる。湾岸戦争ほどではないが、ミサイルを連射して迎撃する《武蔵》の勇姿は、かっこうの宣伝材料となった。
 一応は示威を目的として作戦行動していた支那海軍の洋上艦艇と、情報収集のため活動していた払い下げの旧式潜水艦も、開戦前から捕捉され続けていた事からすぐにも撃沈された。
 洋上艦艇同士の戦いはフォークランド戦争以来で、日本海軍が直接挙げた撃沈戦果としては、事実上第二次世界大戦以来の事となって話題になったりもした。ただし水上艦の戦いは、一方的にミサイルで攻撃するだけだったので、かつての戦いのように大砲を撃ち合うような勇ましいものではなかった。

 そして限定的とはいえ反撃にも失敗した支那共和国は、既に西安まで20キロの地点まで進軍していたことを交渉材料として、まずは戦闘を仕掛けてきたアジア条約機構に交渉を持ちかける。
 彼らとしては時間稼ぎが目的で、交渉する裏で進撃を続けて最低限の目標である西安だけでも奪回(陥落)しようとした。そして西安を落とした段階で、本格的な交渉を開始する積もりだった。
 だが、当然と言うべきか、アジア条約機構ならびに国連は、交渉の最低条件として戦闘行為及び即時進撃停止を要求する。しかも受け入れられない場合は、戦闘を継続しさらなる攻撃拡大すら示唆する。
 アジア条約機構の後ろでは、アメリカ軍及びNATOまでもが動きだそうとしていた。しかもすでにアメリカ空軍の極東地域への移動は始まっており、アメリカ西海岸では空母機動部隊が出動し、グァム島には戦略爆撃機の進出までが始まっていた。
 10月15日になる直前、事態はさらに動く。
 今度は支那連邦共和国が、これ以上支那共和国による中華共和国への攻撃が続けば、アジア条約機構加盟国として戦闘参加するという声明を発表したのだ。この声明は、支那連邦内の政治的ゴタゴタが取りあえず沈静化した事を物語っており、支那共和国にとっては戦闘行為を続ける危険をさらに一段階高めるものだった。
 だが、力によって権力を維持している支那共和国としては、国内向けの政治として安易に弱腰な態度は見せられなかった。表向きだけでも自らが主導権を握れる形での交渉のテーブルにつく事はできても、恫喝に屈する形で交渉のテーブルにつくことはできなかった。故に支那共和国の軍事政権は、支那連邦に対しては戦闘参加に対して断固たる態度で反撃すると通告。アジア条約機構に対しても、戦争当事国以外の不当な武力干渉の即時停止を要求。
 そしてその宣言の中に、「いかなる手段を用いても」という表現が含まれていた。これを世界は核兵器ではないかと推測する。
 支那共和国は既に核兵器を完成させており、破壊されなかった施設や部隊に配備済みなのではないかと疑った。もしそうでなくても、既に原子力発電所を保有しているので、プルトニウムはある程度保有しているだろという推測も多かった。もしくは、核物質がなくても生物化学兵器を使用する可能性も強く懸念された。
 また一方で、支那共和国は核兵器搭載可能な航空機は保有していないが、短距離弾道兵器は保有していた。主に1980年代にソ連、イラクなどから輸入したスカッドミサイルだ。そして攻撃手段となるスカッドミサイルは、小型の核弾頭を搭載するとしたら射程距離は300km程度。アル・フセインは射程距離は倍ほど長いが、搭載能力などの問題から核兵器の搭載は難しい。
 このため近隣各国の攻撃こそあるだろうが、核攻撃の可能性は低いと判断されていた。警戒するべきは高濃度プルトニウムを火薬の代わりにスカッドなどに搭載することだが、流石にそこまで愚かな事はしないだろうと常識的に考えられた。

 全ての関係国が警戒する中、10月16日に満州国境近辺、内蒙古国境近辺、支那連邦共和国の国境近辺、山東半島の先端部の各所から、一斉にスカッドミサイルもしくはその改良型が発射された。
 数はそれぞれ2発。発射や弾道飛行の失敗を考慮した攻撃で、日本以外の攻撃は近隣諸国の首都に向けて発射された。日本は射程の長いアル・フセインでも射程距離外なのだが、実際には届いており、この時初めて支那共和国での独自改造型「東風2型」の存在が確認される事になる。
 満州の新京、支那連邦の上海、内蒙古のチーフォン(赤峰)、韓王国のソウル(韓城)、日本の博多がターゲットとされた。このうち新京を狙ったミサイルは、配備されていたパトリオットミサイルの飽和攻撃で無事撃墜された。また博多を狙ったミサイルは、日本海軍のイージス艦が撃墜した。しかしどちらも実は外していたという説もあり、その辺りは湾岸戦争とあまり変化は無かった。
 どの場所でも被害は軽微で、市街地にも着弾しなかった。核弾頭やプルトニウム、生物化学兵器も搭載されていなかった。だが、ミサイル攻撃を受けたという衝撃は極めて大きかった。特に満州帝国にとって、この攻撃は歴史上初めて本土が攻撃を受けたことになり、国も国民も大きな衝撃を受けていた。そして特に満州帝国をより攻撃的とさせてしまう。日本の世論も、攻撃された事に過剰反応し、少なくとも軍事政権は打倒しなければならないという世論が一気に形成された。この辺りの反応は、湾岸戦争でのイスラエルの方が国民が戦争慣れしていた分だけ、冷静だったと言えるだろう。
 さらに日満以外の近隣諸国も強い警戒感を持ち、今まで政治的不安定から及び腰だった支那連邦共和国も東アジア条約機構への軍事力派遣を決定。さらには、インドなど構成国も派兵を開始することになる。
 そして当然と言うべきか遂にアメリカも動き、すぐに派遣できる空軍部隊や空母機動部隊の派遣などを決定した。
 また一方では、弾道弾攻撃により最低でも日満軍の戦力を防衛に向けさせる効果はあり、日本のイージス艦が支那連邦共和国の上海沖、韓王国の仁川沖合に展開するなどしている。そしてこれで戦力不足を感じた日本は、臨時予算を通すことで当時予備役状態だったイージス戦艦2隻の緊急現役復帰を決め、戦争が終わるまでにイージス戦艦4隻が配備される事になっているし、当時就役準備が進んでいたイージス駆逐艦の1隻が前倒しで就役している。
 弾道弾攻撃の支那共和国の意図は、戦闘の泥沼化とそれにともなう西安の占領にあったと思われるが、この時点で少なくとも戦闘の短期収拾の可能性は潰えたと言えた。

 ミサイル攻撃によって、国連もさらに動かざるを得なくなる。
 支那共和国に対して即時戦闘停止と撤退が勧告され、従わない場合はより強い制裁を発動するとまで宣言された。しかし既に一線を越えたに等しい支那共和国は、内政の問題からも強硬な態度を崩すことができず、隣国への散発的なミサイル攻撃を続けざるを得なかった。湾岸戦争でのイラク軍と違い、敵の本国、しかも首都にミサイル攻撃した時点で、選択肢を誤っていたからだ。
 なお、支那共和国は各種弾道兵器を200発以上保有していた(※ソ連もしくはロシア、イラクから購入していた)。そしてスカッドミサイルは、湾岸戦争のイラク軍のように周辺各国に向けて散発的に放たれはじめた。死傷者を出すことで、相手国の国民の士気低下や軍事介入からの脱落を狙っての事だった。10月18日には、上海で初めての死者が出た。その後も、日本、満州、韓国で死傷者が出ており、撃てば撃つほど周辺国から怒りを買うことになる。
 そしてアジア条約機構などもやられっぱなしではいられないため、空爆が強化された。さらに支那連邦共和国も戦闘参加の為に、関係各国との本格的調整に入りつつ、戦闘準備を進めた。アメリカも、ついに戦闘参加を決意した。
 だが、遂に支那共和国は核兵器を使用しなかった。また、高濃度プルトニウムが使用されることも無かった。その後の調査で判明したが、当時の支那共和国では核兵器はまだ開発の初期段階だった。ある程度の濃度のプルトニウムも既存の原子力発電所から取り出されていたが、兵器転用については準備以上は行わなかった。
 1950年代の支那戦争の記憶が、彼らに核及び核物質の扱いに対して臆病にさせていたからだ。自らが何らかの形で使用したが最後、日満米が躊躇無く国土に核兵器を撃ち込むと考えていたのだ。

 だが、戦争については収拾の目処は全く見えなかった。
 各国の首都や都市にスカッドが襲ってくる中、アジア条約機構軍の支那共和国に対する空爆は続いた。10月20日以後、日本軍は戦略空軍すら動員するようになり、攻撃対象も拡大して軍事施設、支那共和国に侵攻した部隊を攻撃するようになった。そしてこの時期の攻撃によって、支那共和国軍は中華共和国内で大規模な進撃能力をすっかり無くしてしまう。規模を拡大した空爆によって、進撃途上で臨時の陣地しかないので、侵攻部隊も大損害を受けた。
 また、支那共和国に対する空爆以外の攻撃手段として、東アジア条約機構軍では満州を中心として地上侵攻のための兵力の動員も進められた。この事は、支那共和国中枢に対して極めて大きな焦りを呼んだ。満州国境から首都北京まで150キロ程度しかないのに、防御陣地は貧弱で配備されている軍隊も、相対する満州軍と比べると大人と子供以上の差があった。

 当時満州帝国は、冷戦構造の崩壊、ソ連との軍事的な妥協を経て、1980年代と比べると軍備を大幅に削減していた。しかし、冷戦崩壊とほぼ同時期に北西に位置する支那共和国が軍事政権化して事実上の敵対状態となったため、軍備の削減を抑えた上でソ連国境にいた軍主力部隊を万里の長城の北側へと配置を変更する。
 今までも主に中華人民共和国に対抗するという名目で、満州陸軍は1個機甲軍団が配備されていたが、今度は国境線に1個軍以上の大部隊が配備される事となった。満州空軍も、ソ連シフトから支那共和国シフトへと移った。
 冷戦時代最盛時の満州陸軍は18個師団を基幹線力としていたが、1997年時点では14個師団に減っていた。2個軍団が廃止された形になるが、過剰戦力と判定された支援部隊のかなりも削減され、さらに戦力自体は旧式装備の廃止などにより、70%程度と師団数以上に減少している。また、ロシア(旧ソ連)国境近辺には1個機械化軍団を置くだけで、軍主力の2個軍が万里の長城の北側に配備されていた事になる。
 空軍も同様で、最盛時の13個航空団・26個飛行隊から、11個航空団・22個飛行隊に削減されている。しかし旧式機の退役を進めただけに等しく、陸軍ほど実質戦力は低下していない。第二次支那紛争でも、数の上での主力は満州空軍が占めていた。
(※フェイズ121、フェイズ122参照)
 そしてさらに、アジア条約機構軍として日本軍も大規模な軍事力の動員と展開を急ぎ進めていた。
 日本軍の場合は、既に陸軍を大きく削減しているし、緊急派遣ですぐ対応できるのは空挺部隊と海軍陸戦隊程度で、これも全てをすぐに動かせるわけでは無かった。その代わりと言うべきか、本国近辺にいる動員できる限りの空軍と海軍を振り向けようとした。
 これにより約600機の航空機と50隻以上の艦艇が支那共和国に向けられる事になり、一部は満州の飛行場に向けた移動を開始した。
 攻撃を受けた支那連邦共和国も、日満に比べると兵力や装備は貧弱ながら、中華共和国から急ぎ引き揚げてきた陸軍部隊を満州国境線に動員して並べ、日満と連携して報復爆撃を行う算段を整えていった。
 さらに遠方からは、インド軍が派兵の準備を進めていた。だがそれでは時間がかかりすぎるので、長距離進撃可能な機体でインド本土から直接支那共和国か中華共和国の支那共和国軍を攻撃する準備を進めた。
 そしてアジア条約機構軍以外として、アメリカ軍も足早に極東地域に駒を進めつつあった。
 戦略としては、支那共和国の軍事政権を打倒する事を目的としていたが、どちらかと言えば支那共和国への軍事的圧力で戦争を収拾するのが目的だった。
 そして完全に追いつめられた状態の支那共和国政府は、ようやく折れる姿勢を示した。すでに西安奪回(占領)も難しく、各地の軍事基地は次々に破壊され、イラク軍のように隠す前提に乏しかった空軍戦力、防空戦力も既に壊滅状態だった。
 
 そして11月2日、満州軍などが陸上侵攻の準備を進める中、支那共和国に対する停戦勧告や中華共和国からの全面撤退を第三国を介してや国連での交渉が行われる事が決まる。
 自ら袋小路へと追いつめられた支那共和国は、補給が続かなくなった中華共和国領内から軍を引き揚げる意志を示し、10月24日を境にスカッドミサイルの発射も行わなくなった。すぐに軍の撤退は開始しなかったが、進軍を止めたことは支那共和国の発表と各国の偵察衛星によって明らかとなった。
 なお、支那共和国は、支那世界(中華世界)の理論に従えば、中華共和国に侵攻したことで、侵攻先は自らの領土だという既成事実を作るという最低限の政治目的は達成していた。さらに満州や支那連邦などへの攻撃そのもので、「中華統一」という目的を改めて示した事にもなっていた。目的を行動で示すことで、政治的な既成事実を作った事になり、戦闘に敗北しても戦争の敗北にはならず、むしろ政治的には攻撃しただけで勝利とすら言えたのだ。
 このため、支那共和国政府自身が一度決断してしまえば、その後は素早く混乱は終息していった。拳を振り下ろす準備をしていたアジア条約機構やアメリカが拍子抜けするほどだった。そして関係各国と世界は、支那共和国の決断を評価せざるを得なかった。
 しかしアジア条約機構とアメリカも、甘いわけではなかった。
 戦闘が完全停止するまで空爆は継続し、その後の脅威になるであろう軍事施設については執拗に攻撃している。この結果、支那共和国の空軍力は、最終的に70%以上の戦力が失われた。しかもその後の武器輸出の禁止などにより、20年以上も苦しむ事になる。
 この戦争で撃ち込まれた「ライキリ」巡航ミサイルの数は、実に400発にも及んだ。空爆でも、冷戦時代末期の日本戦略空軍の秘密兵器と言われた超音速戦略爆撃機の「三菱 85式戦略攻撃機 剣山」が出撃し、大きな戦果を挙げている。

 戦闘は11月3日に完全停止し、その後は国連本部での様々な会議へと移った。中華共和国、支那連邦共和国などは、最低でも支那共和国の軍事政権を打倒すべきだと論陣を張り、その声は世界的にも高いものだったが、結局、軍事政権はそのまま残った。天安門広場を、他国の戦車が行進する事も無かった。ホワイ河に軍を並べた支那連邦共和国も、地上侵攻することはなかった。だが戦闘には参加し、空軍により日満軍よりも支那共和国が嫌がる拠点や重要施設を攻撃している。
 そして年を跨いで停戦交渉が行われ、支那共和国の完全撤退以外はほぼ戦闘前への復帰という結末となった。支那共和国は、撤退の条件として各種制裁の緩和を国連と各国に求めたが、一部人道上の物資、製品の緩和が認められたに過ぎなかった。

 支那世界的な視点での政治目的を達成した支那共和国ではあるが、その後は一気に不安定になった。何しろ軍事政権の力の源泉である軍事力が、近隣諸国によって否定されたからだ。空爆は支那共和国各地でも行われたので、政府が国民の目を欺く事も出来なかった。
 そして1998年には政情不安が一気に拡大し、軍事政権が滅ぼした筈のかつての文官達が水面下から糸を引く形で、全国規模の軍事政権打倒の動きが起きる。
 支那共和国の軍事政権は、当然とばかりに軍及び軍に近い重武装警察組織を投入したが、軍人以外に対して権力基盤の弱い事が徒となり、兵士からは離反者が続出。フランス革命のように、下級兵士達が市民に合流して政権転覆の大きな力となっていった。
 結局、支那共和国の軍事政権は、自らが戦争を引き起こしてから1年を生きながらえることはできず、自らも戦車によって政権の座から引き下ろされてしまう事になる。民衆の期待を裏切って酷い独裁と侵略戦争まで起こした政権としては、ごく順当な末路と言えるだろう。
 そして軍事政権が半ば自壊、半ば自然消滅の形で消えると、支那共和国各所で軍事政権側の軍人、官僚、協力者狩りが、住民の自発によって開始される。

 1998年の夏頃には情勢も安定化に向かい、支那中央部の住民達は公正な統治さえ行うなら統治体制に従順な傾向が強く、急速に安定していった。加えて、新たな支那共和国政府は各国との前向きな対話を行うようになる。
 この時点で国連も大きく関わってきたが、近隣諸国以外は支那中央地域への関心をほぼ失っていった。
 世界では、アジア金融恐慌を引き金とした通貨不安がいまだ続いており、経済の弱体を露呈したロシアへと波及しつつあったからだ。(※その後さらにブラジルでも起きる。)

 なお、支那共和国の軍事政権が進めようとした、支那統一もしくは支那世界の再編の動きは、支那中央の国々にとっては、結果としてマイナスに作用した。支那共和国の軍事政権の暴走によって、国際情勢は日満側に分があったからだ。
 そしてその結果起きたのが、香港、マカオの独立の確定だ。
 第二次支那戦争が起きる直前の1997年7月1日に、イギリスが香港の主権を失い、国民投票(市民投票)に従って独立を果たしていたからだ。同時に1999年12月20日にポルトガルが主権を失うマカオも、独立に向けた準備が進んでいた。
 香港、マカオの独立は、支那中央各国にとっては是非とも阻止したい事案だった。自治はともかく、完全独立だけは避けたかった。だが、支那共和国が起こした混乱で、支那連邦共和国が一番目論んでいた香港、マカオの影響力確保を得ることは出来なくなった。そして香港、マカオの件は、中華連合構想の大きな後退を意味した。
 また、支那共和国の軍事政権が倒されたと言っても、他の支那中央の国に対する独自性、自立性は維持したままだし、世界各国との関係を完全に健全化させたわけでもないので、他の支那各国と連携する状態でもなかった。
 それでも支那共和国の国力、影響力が大きく低下した上に、支那共和国が民主共和制国家に戻った事自体は大きな前身で、その後の支那中央は支那連邦主導で徐々に連邦化や連合化の話しが進むようになる。
 また一方では、支那連邦と日本、満州特に満州との関係が疎遠になっていくようにもなる。日本と満州は、北東アジアでの連合化に向かおうとしたのに対して、支那連邦はあくまで中華の連合化を目指した為、向かうべき先が違っていたからだ。



●フェイズ144「新たな宇宙開発競争(1)」