●フェイズ146「地域連合の形成」

 世界規模での貿易の自由化は、第二次世界大戦後に実質的にアメリカの手によってもたらされた。1990年までは東西冷戦構造があったが、西側や自由主義陣営と言われた国々は、その恩恵を受けることが出来た。その最右翼が満州帝国であり、満州帝国は戦後から僅か20年で一気に先進国化した。その次に恩恵を受けたのは、1970年代に大規模な改革を断行した日本だった。
 しかし欧米とオージー諸国以外で先進国になれた国は、少なくとも冷戦構造崩壊までは満州だけだった。日本ですら完全に先進国入りをしたのは、冷戦崩壊前後のことだ。
 だからこそ満州の奇跡、日本の奇跡と言われたりもした。

 そして日満に代表されるように、20世紀終盤はアジア地域が発展する時期でもあった。
 日本の高度経済成長と同時期に、東アジアのシンガポール、香港が大きく経済発展を遂げたが、どちらも都市国家に過ぎないため、世界に対する経済的影響力は限られていた。
 日本の次を追いかける国はなかなか現れなかった。1980年代になると満州などが東南アジアへの企業進出を強めてタイ、ベトナムが注目を集めたが、相応の発展は21世紀を待たねばならなかった。
 産油国のイランは、豊富なオイルマネーと日本などの指導もあり順調に経済発展していたが、長いイラン・イラク戦争で強制停止を余儀なくされた。その後経済発展は再開したが、8年のつまづきは小さくなかった。
 支那地域では、長い混乱の中から南部の支那連邦共和国が他国より一歩先んじることに成功したが、本格的な発展は21世紀に入ってからと言われていたし、先んじたと言ってもまだまだ貧しかった。

 そして1997年7月、そのアジアを震源として「アジア通貨危機」が起きた。
 7月にタイ王国、8月に支那連邦共和国、12月に韓王国で発生した。
 さらに第二次支那戦争の影響で、東南アジア各国、支那地域各国に通貨危機が波及。満州の高度経済成長が終演したのも、この時期とされている。もっとも、日本の経済発展は勢いがあったこともあり停滞にまでは至らず、この時期の停滞を跳ね返して2008年まで継続しているので当てはまらない。
 それよりも支那連邦共和国が受けた打撃は大きく、支那連邦共和国は一時的にIMF(国際通貨基金)の管理下となり、支那連邦共和国も加盟するEAFTA(東アジア自由貿易協定)が大きく組織改革せざるを得なくなったほどだった。
 そして通貨危機は、1998年にロシア、1999年にブラジル、2001年にアルゼンチンを襲う。たいていの国は、新興国もしくは経済発展の続いていた国だったが、それまで過大に評価されていた為替レートに圧力がかかり、トレーダーらの空売りを発端として大規模な通貨下落が起きていった。
 そしてその波は、旧共産圏国家も襲った。
 2002年のドイツだ。

 ドイツは第二次世界大戦でライン川を境に事実上分断され、冷戦崩壊の1990年の春に「一国二制度」を採用しつつではあったが再統合を果たした。
 冷戦崩壊後のドイツ共和国は、民主共和制国家として再建を目指した。軍備を最低限とした上で、ラインラント地区を窓口として西ヨーロッパからの積極的な投資と資本進出、工場誘致を行った。
 冷戦時、西側先進国に匹敵すると言われた一人当たり所得が虚構だった事を逆用し、労働力の質の高さ、労働コストの安さを武器にしようという算段だった。そして当時、自国での労働コストの高さに苦しんでいた西欧各国は、ドイツ人と握手を交わすと我先にドイツ進出を果たした。
 しかも民主化ドイツは、ソ連主導の「経済相互援助会議(COMECON)」を再編成したような「東欧貿易連合(EETU)」を率いる形で、実質的に自らの経済影響圏に飲み込んでいった。
 影響範囲は、かつての盟主であるロシアの資源と市場にまで及んだ。世界は、半世紀越しのドイツの反撃と言ったほどだ。とはいえ1970年代から、ソ連国内で稼働している機械類のかなりがドイツ製となっていたので、ソ連崩壊後の状況は当然の結果でもあった。
 また、西側諸国のドイツ進出に際しては、フランス中心の「欧州共同体(EC)」とイギリス中心の「欧州自由貿易連合(EFTA)」を競わせる形で自国優位に導いた。
 一応は、ECは食糧を、EFTAは工業を、EETUは人的資源をそれぞれに融通しやすくする貿易システムが作られたが、最も恩恵を受けたのはドイツだった。特に西側の進んだ技術を安価に取り込むことで、ドイツが苦労して基礎を再建したルール地域など工業地帯は、最新の設備を持つ工業地帯へと短期間で復活、変貌を遂げつつあった。

 そして旧社会主義側で9000万人抱える総人口の一人当たり所得が急速に拡大することで、短期間のうちに経済力を拡大していった。
 発展は急速で、20世紀中にラインラント地区との経済面での垣根は必要無くなるとまで言われた。そして2010年までに、欧州一、世界第四位の経済力に発展するとまで予測された。さらに5年から10年で満州を越えるという予測まであった。
 1997年にアジアを震源とした通貨危機が起きても、支那地域が不安定となっても、ドイツの高度経済成長と言える好景気はむしろ加速された。東アジアが一時的であれ不安定な事が分かったので、投資が東アジアから引き揚げられ、相対的にドイツへの投資が増えたからだ。
 1998年に通貨危機がロシアに波及した時はドイツも冷や汗をかいたが、危機回避に成功すると旧社会主義陣営だった頃の人脈などを使いむしろロシアでの買い叩きに走った。
 おかげでドイツの資産は、短期的に膨れあがった。特にロシアの資源供給地を経済的に押さえた事で、安定して資源が獲得しやすくなると共に安価に手に入れることも可能となり、ドイツの好景気に拍車がかかった。
 そして2001年のアルゼンチンでの通貨危機を最後に、世界の通貨情勢も安定するかに見えた。
 しかし、短期間での「電撃的」とまで言われた経済的成功で慢心していたドイツは、内実は本当の資本主義国家に返り咲いてはいなかった。
 世界中の投資家、トレーダーを甘く見ており、急速な発展によるしっぺ返しを受けることになる。この反撃をした投資家達は、基本的にはナチスドイツをいまだ恨み抜いているユダヤ人だとされるが、国家として見るとアメリカ、満州、日本であり、「連合軍の反攻」と言われる事もあった。
 2002年春にドイツのマルクの暴落が起きて、ドイツでの好景気が終演すると共に一気に経済が萎んだ。経済成長も大きなマイナスを記録した。
 これ以後ドイツは、苦労して建て直しを図ると同時に、本当の意味での資本主義国へ復帰するための地道な歩みを再開することになるが、非常に高い授業料を支払うことになったと言えるだろう。

 そしてこのドイツでの通貨危機は、ドイツに多く投資していた西ヨーロッパ各国にも大なり小なり波及し、今までの状態では駄目だという事を思い知らされる形となった。
 またグローバリゼーションの進む中にあって、冷戦崩壊以後もヨーロッパの沈下が激しいので、地域全体で団結しなければならないという考えも共有が深まっていた。
 この結果、ヨーロッパの政治・経済を統合した、連邦国家的な組織となる「ヨーロッパ連合(EU)」という考えが急速に具体化。
 2005年に「ヨーロッパ連合(EU)」は短期間のうちに誕生し、世界のスーパーパワーとして浮上する事になる。
 急速に組織を作ることができたのは、早くはEC時代から議論され、冷戦崩壊以後も話しが進められていたからだった。
 しかし、3つの大きな国際組織の全ての国が参集したわけではなく、政治の要素が加わった事などからスイスなど一部の国はEUには非加盟となった。またフランス、ドイツが求めた通貨統合については、未熟なドイツ経済、東欧経済の体たらくに対する不信、通貨統合そのものに対する懸念が強い事から、以後議論と調整を重ねるという事で満足しなければならなかった。
 また軍事同盟、安全保障組織としては、冷戦時代に作られた「NATO(北大西洋条約機構)」があるが、これにはアメリカ、日本、カナダなども加盟したままで、冷戦崩壊後は日本がほぼ形だけとなるも、アメリカの軍事力はヨーロッパに必要と考えられていたこともあってそのままで、政治組織としての「EU」はやや中途半端ではあった。
 安全保障面での不安は、1998年のセルビアでのコソボ紛争(内戦)で表面化し、ヨーロッパ各国は減らしすぎた軍備の再建など、様々な問題に対処していかなくてはならなくなった。

 ヨーロッパ以外でも、地域統合の動きが見られた。
 北東アジア地域がそうだ。
 北東アジアには、1977年設立の日本、満州を中心とする「EAFTA(東アジア自由貿易協定)」という自由貿易のための国際組織があった。また、日本、満州中心とするもアジアの広い範囲が加盟する安全保障組織として1975年に成立した「アジア条約機構(シンガポール条約機構)」もある。
 そしてそれだけなら問題も少ないのだが、北東アジアの地理的中心部と言える場所が「支那地域」だった。そして漢族が中心となった支那中央の国々は、常に「中華の再統一」や「中華連合」を求めていた。支那地域が連合化などを目指すのは、日本、満州が求める道とは違っていた。
 しかもインドネシア戦争を除いて、東アジアでの混乱と言えば支那中央地域で発生しており、1997年秋には「第二次支那戦争」が起きている。もっとも、その戦争の影響で支那共和国の軍事政権が国民の手で打倒され、その後は一定の安定を見るようになっていた。
 そして「第二次支那戦争」の影響もあって、1997年7月1日に香港、1999年12月20日マカオが完全な独立を達成した。国連委任統治領が続く海南島も、21世紀初頭の独立に向けて動いていた。
 しかし支那地域の問題が無くなったわけではない。
 第二次支那戦争で支那共和国の軍事力は半壊したが、西部の中華共和国の西安の東部地域は戦災で荒廃したため国連による援助が長期間必要だった。軍事政権が打倒された北部の支那共和国は、新政府設立と民主化が完全に達成され政治面での軟化が確認されるまで、慎重な対応が必要だった。
 中華共和国と支那共和国は、日本や満州、アメリカ、ロシアの影響が強くなり、次なる支那もしくは中華の盟主を自認するようになっていた南部の支那連邦共和国の、諸外国に対するマイナス感情を生んだ。19世紀後半の列強による侵略とだぶって見えたからだ。
 しかし政府間同士は、現状のままでは埒が開かないことは理解していた。

 そして1990年代ぐらいから、支那連邦共和国を中心とした「中華連合構想」と、日本、満州を中心とした極東地域の連合化を目指す「拡大・東アジア自由貿易協定」は別の道を目指すようになる。
 だが「中華連合」の道は、19世紀末からの歴史的経緯もあって前途多難だった。
 経済面で見ても、東アジア自由貿易協定には支那連邦共和国も加盟して、支那連邦共和国には日満の企業も多数進出していた。さらに言えば、支那連邦共和国は主にアメリカの市場で、アメリカ経済の影響も強かった。通貨のドル・ペッグ制もアメリカの影響故だ。南部の海南島や香港、マカオは、いまだアメリカの橋頭堡とすら言える状態だった。
 そして旧清朝(大清国)地域の各地では、「中華連合構想」に対する大きな温度差があった。また、冷戦構造崩壊後は、アメリカが限定的ではあるが「中華連合構想」に賛同を示している事も問題を政治的に複雑化させていた。
 支那連邦共和国中心の「中華連合構想」に賛成しているのは、意外にも中華共和国(奥地の西支那)だった。北の支那共和国も、軍事政権が消え去って以後は態度を軟化させてはいたが、自らが中心だという姿勢を強く維持していた。
 もっとも、賛成しているのは中央の3つの国だけだった。

 同じ漢族系の国家でも一度袂を分かった四川共和国は、EUのような実質面で完全な対等の条件でない限り賛同する積もりはなかった。そして支那連邦共和国の経済的影響力が年々強まっていることに苛立ちを強めており、南のウンナンを経由して東南アジアとの繋がり、さらには日本などとの経済的結びつきを強めるようになっていた。チベットとも連携していた。
 四川が支那地域と統合して欲しくない南部、西部の国々も、四川の動きを支援した。
 そして四川への動きでも分かるように、支那周辺地域の国々は「中華連合構想」に対して否定的な考えや感情を強く持っていた。拒絶という場合も少なくなかった。
 西部は軒並み反対していたし、それどころか関わる気すらなかった。北部の万里の長城以北の地域も、民族的アイデンティティーからモンゴルという枠で結びつきを強めており、経済的にも満州との関わりを強めていた。
 南部のかつての少数民族を中心とする国家は、すでに支那ではなく東南アジアの一角としか自らを考えていなかった。言葉も文字も、もはや支那や中華ではなくなっていた。言葉や文字については、西部もモンゴル地域も同じだった。どの国も漢字を棄てていた。
 独立したばかりの香港、マカオは、都市国家に過ぎない自分たちの生き残りの道を模索していたが、「中華連合構想」の中で支那連邦共和国に飲み込まれてしまうことだけは避けたいと考えていた。
 そして支那連邦自体は、20世紀末の時点で強引に事を進める気は無かった。反発が強いことも、自らの力が不足していることも十分に理解していたからだ。このため、「中華連合構想」を進めたい支那連邦共和国は、当面ではあっても「EAFTA(東アジア自由貿易協定)」が必要だと考えていた。
 また、支那連邦を含めて、旧社会主義国を含めた支那地域の殆どの国が「アジア条約機構(シンガポール条約機構)」に加盟するようになっていた。
 つまり日本・満州を中核とするアジアもしくは東アジア、というより大きい範囲を覆う国際組織が支那地域を内包している事になる。
 しかも、東アジア条約機構は、西からイラン、インド、東南アジア各国、さらにアメリカも加えた広域の安全保障条約なので、NATOとEUのように釣り合いがとれた組織同士とは言えなかった。

 一方、EAFTAとアジア条約機構のある種不釣り合いな状態は、日本、満州も古くから懸念していた。
 そして1990年代に巨大な経済力を有するにまで発展した日本、満州は、極論2国だけの連携の大幅な強化による、実質的なスーパーパワーを作り上げることで釣り合い取れないかと考えるようになっていた。
 これが「極東連合(FEU)構想」の基本的な考えだ。
 1980年代半ばぐらいから提唱された「極東連合構想」では、日本、満州を中心にEAFTA加盟国を中心としつつも、一定以上の一人当たり国民所得が必要などの前提条件を設け、EAFTAを地域国家連合に再編成しようとした。これは極東を一塊りの地域として、アメリカに匹敵する政治体制、経済体制を作り上げようという考えでもあった。
 そしてその巨大な国家連合によって、新たに再編成する北東アジア、東アジア地域、さらにはアジアでの圧倒的プレゼンスを発揮しようと言う野心的な考えでもあった。
 1世紀近く続いていた日本とアメリカの関係を、日米蜜月、無二の同盟国などと日本は持ち上げられていたが、アメリカとの力関係から半ば従属状態なのは誰の目にも明らかであり、そうした状態からそろそろ次のステージに向かうべきだと考えるようになっていた、という事にもなるだろう。

 しかも「極東連合構想」自体の発想は古く、多少形は違えど第二次世界大戦が終わるとすぐにも考えられるようになっていた。
 EAFTA(東アジア自由貿易協定)も、もともとは第二次世界大戦以前の日満の協商関係を発端としている。しかし、満州はアメリカ経済の影響も強いため、共産主義陣営に立ち向かうと言う建前を用いる事で何とかEAFTAを作り上げるのが限界だった。
 そして時を経てアメリカの満州への影響力が低下するに従い、そして満州経済が躍進するに従って、日満対等の関係を作り上げるべきだという考えが徐々に具体化していく。そして日本と満州の関係も、順調にと言ってよい速度で地域統合へと進んでいった。
 最初に日満対等の関係を具体的に進めたのは、満州の田中角栄首相だった。そして70年代は日本経済が弱体化していた事が、日本側も満州と対等の関係を感情面でも進める大きな切っ掛けとなった。
 80年代になると、日満を合わせると西ヨーロッパの経済と人口規模に匹敵もしくは凌駕するようになり、アメリカとも十分渡り合える数字にまで成長すると、極東で政治的、経済的統合を進めることで、アメリカ、ヨーロッパに対して対等の勝負が挑めるのではないかという考えが進んだ。
 また「プラザ合意」でのアメリカの態度が、心理面でも日本、満州の連合構想を進める大きな動機となった。
 これを欧米メディアを中心に脅威に感じる者が、「日満枢軸(J-M axsi)」というかつてのナチスドイツを思い出させる言葉を用いるようになる。特に80年代は、大躍進していた満州の経済力がアメリカと大きな経済摩擦を起こしていた為、アメリカの民主党系メディアが中心となって極東の経済拡大と日満の連携を叩いた。
 実際、国家連合成立まで、アメリカの「説得」と明に暗にの「妨害」は続き、日本とアメリカの友好関係を主に水面下で破壊し続けたと言われる。特に、日満とアメリカの民主党との関係は、大きな亀裂が入ったことは間違いなかった。
 この亀裂は、日満が冷戦時代の流れで左翼勢力に以前として厳しい政治制度や風土を維持していたのに対して、アメリカではリベラルという衣を被った左翼が広がっていた事が影響していたとも言われる。
 そして1990年代、いよいよ日満を中心とする連合構想が具体的に動き始める。発端は冷戦構造の崩壊と、それに伴う政治経済の再編成が理由で、一見ヨーロッパ世界と似ていた。
 懸念は支那中央地域の混乱が続いていることだが、一部を自分たちに取り込む事で、逆に支那中央を分裂させたままに置けないかとも考えられた。

 「第二次支那戦争」、「アジア通貨危機」で大きな転機が来る。
 「第二次支那戦争」の影響で支那共和国の軍事政権が倒れ、「アジア通貨危機」で支那連邦共和国の財政がIMF(国際通貨基金)の管理下に置かれた。前者の結果、支那地域中央と近隣地域の政治的、軍事的安定性が大きく向上した。さらに日本、満州は、過剰な軍事費の削減をさらにできるようになった。
 後者の結果、EAFTAの再編成が決まった。
 財政的に支那連邦共和国、韓王国がEAFTAの加盟規約に引っかかり、2国を脱退させるか組織自体を一度解体もしくは再編成するかの選択を迫られる事になる。EAFTAは自由貿易の為の組織で、財政破綻した二つの国の財政を組織として積極的に支援できないし、加盟させ続けることも無理だったからだ。
 そして韓王国は脱退に強く反発するも、支那連邦共和国は自ら退く姿勢を示した。支那連邦共和国は、日満が目指す組織に自らの席が無いことを理解していたし、自らの目指す道の為にも新たな組織に入ることは出来ないからだ。
 韓王国は域内で自らの言い分(我が儘)が通らないと分かると、世界中にEAFTA全ての国を悪し様に罵って回ったが、今までの行動から予測されていた事もあって、何の変化ももたらしはしなかった。逆に、日満南支からの一層の嫌悪と軽蔑を買っただけだった。
 また1990年代からは、支那連邦と日本、満州の間に秘密裏の会合が何度も持たれていた。よく言えば「WinWin」を目指す話し合い、少し悪く言えば棲み分けを進めるための話し合いだ。そしてそれは、支那連邦の財政危機で皮肉にも短期間での具体化の目処が見えた。
 日本、満州は国家連合を作る。支那連邦は支那中央の統一を進める。これをお互いに尊重、支援する。それが話し合いの結論だった。そしてそのために、現状のEAFTAは不要になったのだ。
 この合意があったからこそ、これ以後も日本、満州と支那連邦の一定程度の良好な関係は続き、支那連邦など支那中央の国々はシンガポール条約機構に属し続けた。
 ある意味、東洋的妥協の産物とも言えるだろう。これが欧米なら、話しはまとまらなかったと言われることが多い。

 そして離脱する二国の顔を立てるという建前で、再編成のためのEAFTA解体が実施され、さらに一気に連合化のための動きを加速する。
 1999年初頭の事で、さらに3年後に新たな条約が締結され、その翌年21世紀に入った2003年遂に極東地域の連合化が実現された。
 ヨーロッパ連合(EU)成立より2年早いが、ユーラシアの東西での国家連合誕生に、世界は新たな時代の到来、唯一の超大国への新たな挑戦と書き立てた。途中、アメリカの明に暗の横やりもあったが、様々な手段と交渉でそれも何とか抑え込み、自らの進むべき道を選択する事に成功する。
 しかし当時のEAFTA加盟国のうち、条件をクリア出来る国は日本、満州以外だとシベリア共和国、ボルネオ島の3国しかなかった。事実上脱退した韓王国、支那連邦共和国以外だと、内蒙古王国が条件を満たせていないだけだった。しかし内蒙古王国は人口が非常に少ないため、連合内で面倒を見ることで合意に至り、そのまま加盟が受け入れられる運びとなった。
(※建国から支那戦争頃に国内の漢族を追い出し、さらに流入も厳しく禁じていたため。そして域内の地下資源埋蔵量が多い事から、今後の大幅な所得向上が見込まれていた。)

 日本、満州を中心とした新たな地域統合体の名称は、名付ける段階になって意外に紛糾した。
 日本と満州が中心なのだから、極東連合もしくは北東アジア連合が妥当と考えられた。一方で、今後も拡大していくことを考えるならば、東アジア連合もしくはさらに大きくアジア連合こそが相応しいとも考えられた。
 しかしアジアという地域では広すぎるし、当面加わりたいという国もほとんどない状況で、アジア連合は名前が相応しくないという反対も強かった。とはいえ、ヨーロッパから見ての極東という名はあまり相応しくないし、北東アジアでは支那地域も含むのでアジア連合同様に相応しくないと言われた。(※極東でも支那地域を含む。)
 結局、議論だけではどれを名付けても駄目という事になったので、準備委員会の全役員の投票で決を採ることになった。
 結果一位を獲得したのは、意外というべきか「極東連合(ファー・イースト・ユニオン=FEU)」だった。
 一般のアンケートでも、日本、満州からは極東連合の評判は良かった。また、19世紀のヨーロッパ世界でのアジアの地域分類では現代の東アジアの多くが極東に含まれるため、ヨーロッパ世界にはむしろ分かりやすかったとも言われる。

 かくして「極東連合(ファー・イースト・ユニオン=FEU)」が正式名称となり、2003年4月1日に正式発足した。
 本部はシベリア共和国のウラジオストク。
 第二次世界大戦後のウラジオストクは、極東の重要な国際都市、政治都市として発展していた。日本、満州の間にある国家の首都で、シベリア共和国自体が大きな国力を持たない事から、相応しいと考えられたからだ。また冷戦時代は、ソ連からシベリア共和国を守る目的を作るという意図もあった。
 ロシア人系の国家である点を問題視する者もいなくもなかったが、長らく同盟国としての付き合いがあったし、この頃までのシベリア共和国の構成人口の3分の1はアジア系であり、同じ極東の国という連帯感も育っていたので、反対もごく一部の感情論に止まった。当のシベリア共和国も、自らの政治的地位向上につながるので積極的に受け入れた。
 もちろんだが、日本、満州のどちらかに本部を置くと角が立つなどの外交問題を回避するためでもあった。
 発足時の「極東連合」構成国は、日本、満州、シベリア共和国、内蒙古王国、サラワク王国、ブルネイ王国、ボルネオ共和国、香港共和国の合計8カ国だった。
 香港の加盟は意外と見られたが、ボルネオ島の三国が加わるのは第二次世界大戦からの歴史的経緯を見れば自然な事と見られた。香港が加わったのは、互いに支那地域との接点を維持する為だった。
 他にも参加を希望した国はあったが、条件をクリアできないので参加は許されなかった。
 特に同じ極東地域で日満に挟まれた絶好の地理条件という事で最後まで加盟を熱望した韓王国は、通貨危機がなくても一人当たり所得、国家債務、国家制度、国民の教育程度などほぼ全ての項目で条件を満たしていないため、実質面で日満などには相手にされなかった。
 それでも日満は、韓王国の近代化促進の援助を条件付きで約束するなど完全に切り捨ててはいなかった。国家安全保障上で、朝鮮半島が完全に敵対するのを防ぐためだ。

 なお初代議長には、日本の麻生太郎が選ばれた。
 日本で議員や大臣を歴任していたが、極東連合設立の話しが進むとそちらに深く関わるようになり、準備委員長を経て議長に就任した。就任後は、優れた外交手腕、財政手腕を発揮し、極東連合をEUに並ぶ組織として世界に認めさせていく事になる。また、一時期国政から距離を開けていた石原慎太郎も準備委員として活躍し、極東連合成立時は日本代表を務めている。準備委員には、もと満州首相の李登輝の姿もあった。
 ただ、「極東連合」という日本語名称と麻生議長の20世紀前半風のお洒落な装いから、日本のヤクザやマフィアを連想するとよく言われる事になる。

 その頃、日本帝国の総理大臣は20世紀末の小渕恵三の任期中の急死、当時副総理だった森喜郎の総理代行を経て、2001年からは民主党の小泉純一郎だった。
 パフォーマンスに優れた小泉純一郎は、「第二次世界大戦後の体制をぶっ壊す!」と獅子吼して国民の人気を博し、極東連合実現に大きなリーダーシップを発揮した。
 これに対して満州帝国は、2000年に李登輝が引退すると、民主選挙で漢族出身の温家宝(首相在位2000年〜2013年)が首相に選出された。
 彼の両親は第二次世界大戦までに華北地域から満州に移民して、その後彼を満州で出産しているので、初の満州世代の首相と言えた(※戦前に満州族出身はいるが傀儡に近いため。)。
 温首相は、地質系の技術者だったのを見いだされて政治家となり、その後国民の過半数を占める漢族系の支持を集めて民主化した満州で勢力を拡大し、遂に総理の座を射止めることに成功した。漢族出身に日系、米系と言われる市民は警戒感を持ったが、人柄などを武器にうまく国民をまとめ上げることにも成功した。
 また温内閣では、複数の黒人系大臣が起用されるなど、人種面で非常に幅広いことでも世界的に話題となっている。

 設立当初の極東連合は、麻生議長、小泉総理、温首相の三人が必然的に中心となった。そしてこう書いてしまうと、まるで一つの国の為政者のように見えると言われた。
 組織としてはヨーロッパ連合(EU)と似ているが、当面は通貨統合の話しは無かった。日満が対等な上に、他に同等のゲームプレイヤーが連合内に存在しないので、無用というのが表向きの理由だった。しかし日本と満州の間の通貨関係は限りなくフラットにされており、中央銀行が二つあるだけで半ば通貨統合していると言われる事もあるほどだった。
 それでも通貨統合を行わなかった事から、議長をトップとした極東議会による、政治を重視した地域統合体と見られやすい。しかし域内通過は国内同様となるし、自由貿易分野では完全な無関税となる事を始めとして、様々な自由が保障されている。
 通貨統合に関しても、制度と組織を作る構想は初期の段階から存在していた。

 2003年度の各国の所得(ドル)
 国名    GNP  一人当たりGNP 総人口(万人) 経済成長率
日本    5兆1,862億   29,136    1億7,800  5〜6%
満州    3兆8,112億   33,727    1億1,300   3〜5%
(アメリカ  11兆0,041億   37,424    2億9,000  2〜4%)
※同年の世界全体のGDPは40兆ドル程度。

 日満以外の極東連合の人口
ボルネオ(全島)  1,860万人
香港        600万人
シベリア共和国   430万人
内蒙古王国     100万人

 以上が、極東連合成立時のそれぞれの「国力」になる。
 日本、満州以外の1人当たりGNPは、内蒙古以外は5000円(※1ドル=1円60銭・約8000ドル)以上ある。極東連合の域内GNPの総額は、約9兆2500億ドル(14兆8000億円)。総人口約3億2000万人。土地面積は、アメリカの3分の1程度。
 つまり、アメリカの80%の経済力とアメリカの一割り増しの人口を擁する国家統合体という事になる。
 しかもEUと違い二つの国が実質を成しており、歴史的にも関係が深いことから非常に強固な体制を作り上げていた。他の国は香港が支那と東南アジアの経済進出のための橋頭堡、シベリア共和国はロシア極東に対する橋頭堡で、ボルネオ三国は量は少ないながらも資源供給地だった。
 域内で使われる主要言語は、第一に日本語とされた。日本、満州の主公用語であり、北東アジアの一番の経済言語なのだからインフラの面からも当然の選択だった。
 いずれ参加国が拡大したときに問題になるという意見もあったが、そもそも大きく拡大するとは考えられていなかったので、大きな問題とは考えられなかった。また冷戦時代は、日本が熱心にアジア各国に国際語としての日本語を広めていたので、拡大しても問題は最小限だとも言われていた。
 その代わりと言うべきか、英語は第二公用語とされた。英語は満州、香港の第二公用語で、事実上の国際公用語ということもあり使われるが、あくまで副言語とされた。英語を主公用語などにしたら、それこそ地域性が損なわれるし、いずれアメリカに飲み込まれるのではないかという強い懸念があったからだ。
 合わせて日本帝国は自身の国家の地域合併と連邦化を進め、台湾地域、西部太平洋地域をそれぞれ自治地域とした。これは国連や諸外国から求められていた事でもあると同時に、日本が1974年の改革から徐々に進めていた事だった。ただし道州制の導入には日本各地からの反発が強く、この時点では一部導入に止めざるを得なかった。(※これを平成の大合併とも言う。)

 なお、単純に国家連合と言うが、よく議論される通貨統合以外に何ができるのかという疑問も多い。結局政府は別だし、外交、軍事も個別に有する。では何が連合なのか。
 まず第一に、人・モノ・サービスの移動で国境が実質的に無くなり、自由貿易などよりも格段に敷居が低くなる。当然だが関税はない。また域内居住で有れば、国を跨いでも移民や移住ではなく単なる転居となる。他にも、仕事の資格が共通化されているので働きやすく、他国の大学で授業を受けても卒業資格が受けられたりする。
 他にも製品の規格の統一があるが、これは日本国内でも家電製品の周波数の違いなどがあったので完全に統一されていない面もある。
 一方で、地域国家連合になる事での問題も皆無ではなかった。
 ある一つの例として、日本と満州という2つの経済大国があるという事は、2つの大きな証券取引所が有ることを意味していた。具体的には大阪証券取引所と大連証券取引所だ。さらに域内で見ると、香港証券取引所も世界の証券市場で無視できない存在だった。これらを極東連合として一つにするかで、準備期間の間にかなり揉めることとなった。結局、ヨーロッパのユーロネクストのような事はせず、特に統廃合などは行わなかったが、アメリカへの対抗という面では問題を残したままとなった。
 そうした様々な問題を抱えつつも、一つの地域として人、物、金の動きが自由に行えるようになった利点は大きく、結成当時まだ上向きだった日本経済を中心に、さらなる発展が促されることになる。

 そして極東連合成立に際して、一つの巨大計画が提起される。
 極東鉄道連結構想だ。
 日本列島、北海道、樺太、そしてユーラシア大陸をトンネルでつなぐという雄大な構想だ。
 これは第二次世界大戦後に航空機に押されっぱなしだった各国の鉄道関係者による、起死回生の一手だった。
 しかも最も工事が難しい津軽海峡は、1990年代に日本独自の開発によって青函トンネルでつながれていた。後は宗谷海峡トンネル、タタール(間宮)海峡トンネルを作るだけで、どちらも建設工事費、建設難易度は青函トンネルより下だった。
 そして樺太(サハリン)島は、1980年代より資源の島としてシベリア共和国のドル箱となり活況を示していた。島の北東部沿岸で天然ガスと石油を採掘し、特に天然ガスは日満の天然ガス消費量の5〜10%程度を賄っていた。現地で採掘され、そこに建設された工場で液化して船で各国に運んいた。このため樺太はかつてない活況状態で、冷戦構造崩壊の頃から2つの海峡トンネル建設の機運も盛り上がっていた。
 なお、同じ日本列島と大陸を結ぶのなら対馬海峡だと推す声も、朝鮮半島を中心にあった。だが、流石に海峡の幅が広すぎる事、海流が早すぎる事、何より朝鮮半島の発展がいまだ大きく遅れている事から経済性が低すぎて、樺太周りのルートが有望視されていた。
 また日本国内では、南樺太を鉄道で結ぶことに一定の意義を感じていた。それが大陸と結ぶことにより大きな経済的価値を持ちうる可能性が高まったので、建設機運は高まった。
 日本、満州では既に巨大な勢力を有していた飛行機マフィア(航空業界)、船舶マフィア(造船、船舶業界)を中心に反対していたが、当時経済的な躍進が続いていた日本で実質的な計画が動き始める。
 そうした状態で極東連合としての団結を求められると、満州としても断り続けられなかった。それに満州も、満州産業の基礎を築いた東鉄にとって、日本と大陸を結ぶ鉄道はある意味悲願だった。
 かくして2005年、極東連合としての域内事業として「極東連結鉄道計画」が具体的に動き始める。同工事は、タタールトンネル、宗谷トンネルの同時工事で、世界最高峰の最新の技術を用いて比較的短期間での完成が目指された。
 同トンネルを通る列車は基本的には貨物中心の予定で、通常の貨物列車以外にカートレイン(車をそのまま積載する)の運行も予定されていた。また、象徴的意味で限られた数の旅客列車の運行予定で、その中の一つは各国の首都を巡る超豪華列車として鉄道の表看板になる予定とされていた。
 完成は2020年夏を予定しており、極東連結鉄道は日本人の悲願の一つの達成であると同時に、極東連合の一つの完成を象徴する計画とされた。
 もっとも、当時の日本、満州の経済的躍進の象徴の記念碑と見られる向きが強いと同時に、無駄な社会資本建設の象徴と言われることも多い。

 一方、極東連合の結成で大きく揺らぐと言われた「アジア条約機構(シンガポール条約機構)」だが、欧米を中心とする各国の予測とは少し違っていた。
 2003年当時、日本からイランかけてのアジア地域を広く覆う安全保障条約として冷戦崩壊後も維持されていたが、もともとNATOほどの安定感はない組織だった事もあり、極東連合の成立で再編成や解散についての議論が起きた。
 アジア条約機構は、今までも日本、満州がそれぞれ圧倒的な存在感を持っていた。そして、極東連合成立後も軍事力は日、満それぞれが持つが、一段と存在感を増したことは間違いなかった。そして日、満の強大化は、冷戦時代なら安定に寄与したが、もはや冷戦時代ではなかった。
 東南アジアにはASEANがあるが、一部地域で入り組んでしまったこともあり、日満の強大化に対する不快感こそ示すも解散や離脱、組織の弱体化などマイナス方向には反対していた。それにインドネシア人民共和国という共産国を域内に抱えたままだったし、本部がシンガポールにありアジアの東西の真ん中にあるという地理的条件からも、存続と発展、さらには拡大すら望んでいた。
 一番西の端のイランは、湾岸戦争以後も安定した統治と発展に努力しており、中近東地域随一の大国として存在感を増していた。だが、アラブ的にも世界的にもイランが機構に参加することで一定の安心を得ていたので、機構が揺らいだりましてや解散という自体は避けて欲しかった。イラン自身も、自らの発展と安定の為に機構を必要と考えていたし、自らを西の要と捉えていた。
 支那地域は、周辺部はほどんどが機構に参加して、支那中央でも支那連邦が参加していた。1997年の第二次支那戦争終息後は支那全ての地域が機構に参加することで地域として存在感を増すと言われていたが、極東連合成立でそれも遠いたと言われた。一方で、支那連邦がEAFTAを抜けることで支那単体として一体感を強めているので、支那連邦自身は今は力を蓄える時期だと捉えており、そのためにも機構が必要だった。
 それに支那連邦は、日本、満州と当面の協力関係を約束していたのだから、余程のことが起きない限り袂を分かつ気は無かった。
 インド連邦は1980年代から機構内でも存在感を示していたが、極東連合成立で薄らいだと言われた。しかもインドは一国で一つの地域(南アジア)を内包する大国なので、インド以外の国にとって極東連合の誕生は、極端に反発を示すほどではなかった。
 しかしインド自身にとっては、機構の中で存在感を発揮し辛い状態は不満が小さくなかった。日本、満州と支那連邦の水面下の盟約も薄々知っていた事も、内心の大きな不満材料ではあった。
 だが、まだ国力、技術力、軍事力で日本、満州、そして極東連合に並ぶか越えるには長い時間がかかることが明白だった為、機構の中にいて力を蓄える時期だと捉えられていた。

 かくして「アジア条約機構(シンガポール条約機構)」は、極東連合成立後も各国の思惑によって大きく揺らぐことなく続いた。
 だが極東連合の成立で、アジア地域は極東、支那、東南アジア、インド、イランと分立する向きを強めたのも間違いなかった。このため極東連合成立は、シンガポール条約機構崩壊の時限爆弾のスイッチを入れたことになると言われている。
 また逆に、次なる巨大国家連合に向けての道標がだったのだとも言われた。


●フェイズ147「イスラム原理主義」