●フェイズ147「イスラム原理主義」

 2001年9月11日、世界を揺るがす驚天動地の事件が発生した。
 俗に言う「アメリカ同時多発テロ事件」(9.11テロ)だ。

 この事件では、計画では日本も標的にされていたと言われるが、結果として何も起きなかった。
 世界的に第二の大国、アメリカの最も重要なパートナー、中東情勢にも深く関わる国として、世界第二の大国となっていた日本が標的にならなかったのは、アメリカが抜きん出て世界一の大国だからだと簡単に結論づけられる事もある。だが一方で、日本国内の状態も影響していると言われた。
 日本では、イラン人(シーア派)が多いとは言えイスラム教徒は極めて少数派で、不審な人物は監視などが行いやすかった。また日本本土は、世界的に見ても武器や危険物の所持に厳格な国の一つで、持ち込むことも非常に難しかった。特高や憲兵による目も、冷戦時代から厳しかった。
 さらに日本では、古くから存在する主に共産党を対象とした法制度と治安維持組織が、1990年代に入ると方向転換で対テロ組織として再編成されており、それが巧く機能していた。日本への共産主義者以外のテロリスト侵入阻止は、1990年代前半から実績を挙げていた。この事件の数年前にも、数名の重要容疑者が水際で逮捕されている。
 このため原理主義組織は、最初から攻撃対象から外していたと言われる事が多い。

 また、経済力第三位の満州が標的にならなかったのは、遠くの国から見れば単なる金の亡者であり、古くからアメリカ、日本の衛星国と見られていた影響だと言われる。
 しかし一方で満州は、1995年に首都新京で新興宗教組織による大規模毒ガステロ事件が発生しており、徹底した捜査が実施されている。毒ガステロは、今現在に置いても後にも先にも世界中でただ一度、新京においてのみだった。
 このため操作の徹底度合いは、凄まじかった。凶悪なテロリスト集団に対する対処としては相応に適切だったが、新興宗教とはいえ宗教がらみであったため、あまりの強い捜査やその他諸々の警察的手段に対して国際社会が苦言を呈したほどだった。捜査中の死者が一人や二人では無かった為、国際的にも非難されたほどだった。
 そして事件を契機として、国内に複数あった新興宗教、政治結社などへ厳重な対処が行われるようになり、幾つかの新興宗教とそれに連なる政党が事実上の強制解体に追い込まれている。
 そして1990年代後半には、イスラム原理主義系勢力の逮捕者も出していた。そしてこの時ターゲットにされなかったのは、したくても出来なかったからだと言われている。
 満州国内には古くからイスラム教モスクもあるのだが、外からのイスラム教徒及び原理主義シンパの徹底した監視が、勝手な活動を一切許さなかったのだ。この件に関して満州帝国は、事件前だけでなく事件後ですら国際社会から非難されているほどだ。

 「アメリカ同時多発テロ事件」、主にアメリカ、ニューヨークの世界貿易センタービルなどにハイジャックした旅客機を自爆突撃させたテロリスト組織は、アルカーイダというサウジアラビア生まれの組織であり、そしてタリバーンという名を持つアフガニスタンを支配していたイスラム原理主義政権が強力に支援していた。
 当時タリバーンはアフガニスタンをほぼ支配するイスラム原理主義政権として既に世界的に知られていたが、9.11テロでその名を一気に世界に轟かせることになる。
 当然と言うべきかアメリカの怒りは凄まじく、すぐさま世界中の国々が協力、賛同する形でアフガニスタンのタリバーン政権打倒のための戦争が開始される。
 今までは隣国のインド、イラン以外が放置していたに等しかったことに対して、全く逆の反応だった。
 NATOが自衛権の発動を理由として、アフガニスタンへの侵攻を行ったが、参加国には形だけNATOに所属したままの日本帝国も加わることになった。アメリカから強い協力要請があった事と、日本自身が次は我が身と考えた事が理由とされているが、物理的にはインド洋に拠点(ディエゴガルシア島など)を持つ日本の協力が必要不可欠だったからだ。
 また、シンガポール条約機構も、NATOと足並みを揃えることを圧倒的賛成多数で決めた事も世界的には重要と考えられた。多くのイスラム国、イスラム教徒が含まれた安全保障組織だからだ。
 特にインド連邦、イラン共和国が積極的姿勢を示した事は、世界だけでなくイスラム社会にも大きな衝撃をもたらした。インドは世界最大のイスラム教徒を抱える国であり、イランは少数派のシーア派が圧倒的多数を占める国だからだ。
 インドとしては、今までもアフガニスタンの原理主義勢力には何度も煮え湯を飲まされていたし、原理主義の被害や脅威も受けていたので、参加は当然という気持ちが強かった。また国内のイスラム教徒とそれ以外の宗教の者達の心理的離間を防ぐためにも、そして何より国内の急進的な原理主義勢力の打倒と排除のためにも、タリバーンやアルカイーダは打倒すべきと考えていた。
 イランは、アフガニスタン領内には少数ながらシーア派がいたが、タリバーン政権に弾圧されていたので、今までもシーア派の多い国境近辺を中心として水面下での支援を続けていたし、国境を越えてくる難民も積極的に受け入れていた。
 国内への原理主義勢力の浸透は防いでいたが、タリバーンからは敵視されていたので、こちらも参加は当然と考えられていた。
 しかし音頭取りをした形にもなるアメリカとしては、インドの参加はともかくイランの積極参加は少し意外だった。と言うのも、イランとアメリカの関係は悪いとはいえないまでも良好とも言い切れず、主にアメリカが一方的にイラン避けるか嫌う傾向があったからだ。しかしイランの側から協力すると言って握手を求めてきた以上、アメリカも拒むことはなかった。
 そして国境を接するインド、イランが全面協力することが決まると、短期での電撃的進撃は成功したも同然だった。
 その後、圧倒的な軍事力と息を吹き返した反政府組織の協力によってタリバーン政権は短期間で打倒された。政権及びアルカイーダ残党は国内の複雑な地形の山岳地帯に逃れるも、アフガニスタンは一応の安定を取り戻す。
 そして2001年12月22日には、首都カブールでアフガニスタンの暫定政権が成立した。

 そもそもイスラム原理主義は、ムスリムのヨーロッパ発祥の近代社会概念や文化への反発の一つの形だ。宗教的自覚を促すために始めたイスラム復興運動であり、暴力的な活動やテロのことだけを差すわけではない。むしろ穏健派が圧倒的多数を占めている。もちろんだが、前近代的な時代錯誤で狂信的な教義を振りかざすことは、殆ど全てのイスラム教徒は否定している。
 過激な行動は、主に欧米を中心とした先進国の富の独占と欧米的文化の浸透への反発からきており、特に貧富の差は大きな問題だった。にも関わらず、アラブ世界に近い豊かな西ヨーロッパ地域は、ほとんどアラブからの出稼ぎや労働移民を受け入れてこなかった。
 フランスは少し例外だが、これも1980年代まではカトリック教徒に限定したりするなど、厳しい審査を設けていた。
 また冷戦時代の西ヨーロッパ各国は、自らを他国が思っているほど豊かとはあまり考えておらず、しかも積極的な人口拡大政策(多産政策)を行っていたので、外からの移民や労働者をあまり必要としていなかった。
 冷戦崩壊後は、新たな労働先として民主化したドイツが注目されたが、ドイツも強力な人口拡大政策をしたので国内の労働力は十分以上にあり、しかも計画経済から市場経済への移行による混乱などもあり、外国人労働者を積極的に入れることはなかった。
 受け入れても、近隣の東ヨーロッパ諸国に限っていた。

 そうなると、人口拡大で溢れ始めていたイスラム教徒が稼ぎに行ける先は、遠いアメリカか極東の日本、満州ぐらいしかない。
 しかし日本、満州には、イランを例外とすればインドから東南アジアにかけての人々が出稼ぎに行く先で、イラン以外の中東の労働者受け入れはほぼ遮断していた。イランは特例と言えるが、これは日本とイランの第二次世界大戦後の関係のおかげで、アラブ地域が口を挟めることでは無かった。
 ならばアメリカしか選択肢はないが、70年代までのアメリカは人種差別が酷いため、アラブの人々が行ける場所ではなかった。
 アメリカが受け入れる有色人種は、戦友であり友邦である日本人だけだった。しかも日本人ですら、完全に受け入れられた訳ではなかった。しかも日本人以外のアジア系は長らく受け入れ拒否の状態で、支那系の漢民族は本土がアメリカの市場だったのに、旧敵国ということで長らく事実上の移民禁止にされていたりもした。
 しかもアメリカでは、1980年代ぐらいから中南米からの移民、不法移民が激増したため、他の地域から入り込める余地が少なかった。
 それでも若干数がアメリカへと移民したが、不満を募らせた挙げ句に9.11テロの尖兵の一部となった。
 そしてアラブ各国および住民は、石油、天然ガスで豊かになれた国を例外として、国内での貧困に喘ぐしかなかった。一世紀前の日本のように自力で発展しようと言う国もあったが、産油国以外で成功した国は事実上存在しなかった。しかもその希な国の一つは、イスラム世界の異端児と言えるイランだった。
 そして外にも内にも希望がないとして、若者を中心に過激な行動に走る者が増えていき、移動手段が発達し、情報社会が拡大するに従い、世界各地へと不満をぶちまけるようになる。
 そうした中で、イスラム世界で微妙な立ち位置にいたのがイラン共和国だった。 
 ここでは少し、当時のイランについて詳しく見ていきたい。

 イランと日本との関わりは、支那地域で唐と呼称した国が全盛を誇っていた時代まで遡る。
 シルクロードを通って長安までやって来たペルシャの文物が、遣唐使で日本にも伝えられたからだ。今も正倉院に残る宝物の一部がそれに当たるし、唐が受けた文化的影響の断片も日本に伝わっている。しかしその後は殆ど途絶えてしまい、日本人がペルシャもしくはイランを意識するようになったのは、第二次世界大戦の敵としてと言って問題ないだろう。
 ペルシャと言えば、ペルシャ絨毯、ペルシャ猫が最も知られているものになるだろう。他には、碧色の見事なタイルが印象的な寺院も人々を引きつける。様々な工芸品も、古い歴史と伝統を持つペルシャ独自の文化を今に伝えている。
 第二次世界大戦後は交流も盛んになったので、日本とイランの相互交流の機会も増えた。日本人が中東と言えば、最初にイランを思い浮かべるほどだった。日本の大衆作家が書いた作品が、日本とイランの双方でヒットしたりもした。
 そうした中で日本とイランが似ている文化の一つが、公衆浴場(ギャルマーベまたはオルキーデ)になるだろう。もっとも近代以後のペルシャ式はサウナが中心で、湯船がない事を除けばかつてのローマの浴場文化の流れを受けている。
 そのイランは、第二次世界大戦で王政が打倒されて以後、日本を中心とした国々からの支援を受けて近代化を行い、近代化と経済発展を成功させた国だった。
 巨大化した国力を恐れたアラブ社会の不安から「イラン・イラク戦争」を強要されるも、何とかドローに持ち込むことに成功した。
 その後も、理不尽な戦争や近隣諸国からのやや理不尽な外交や反応にめげることなく、比較的穏便に国の再建と発展に力を入れてきた。
 またイラン・イラク戦争とそれ以後のかなりの期間にわたり多産が奨励されたため、21世紀に入る頃には中近東随一の人口大国にもなっていた(※21世紀初頭で約8000万人)。そして人口と経済発展が良性に結びつき、大きな国力へと結びついた。
 このため21世紀初頭には、世界を代表する新興国の一つに数えられるようにすらなり、「BIRIs(ビリズ)」、著しい経済成長を遂げる5カ国、ブラジル、インド、ロシア、イラン、南アフリカの総称の一つに数えられた。

 イランの経済発展の再始動は、湾岸戦争を契機としている。
 と言っても、戦争特需があったわけではない。隣国イラクの軍事的脅威が大きく低下した事が、一番の原因だった。イラクが無謀な侵略を行った末に多国籍軍に袋叩きにあって、軍事力を大きく低下させた。お陰でと言うべきか、イランも過剰な軍備をイラク国境に配備しなくてよくなる。しかも北ではソ連が崩壊し、一時的ではあろうが軍事的脅威を非常に大きく低下させた。
 さらには、アラブ世界最大の軍事力を有するイランを、世界もあまり良い目では見ていなかった。
 また、戦災によるクウェートの石油採掘、輸出能力の一時的な低下、イラクへの事実上の経済制裁などで、世界の石油価格は大幅に上昇し、しかもイラク、クウェートの石油を買っていた国への代替輸入先として、世界第四位の石油埋蔵量を誇るイランも注目された。
 かくしてイランは、石油の輸出を伸ばして外貨を稼ぎ、軍事費を大幅に削減して国庫を立て直すばかりか、様々な分野、産業、社会資本へと投資することができた。すでに教育程度も向上していたので、労働力にも不足はなかった。
 さらに湾岸戦争での戦災復興の資材の近在の輸出先として、ある程度の産業が育っていたイランが応えることができた。全てが生産できたわけではないが、近在にあるため輸送費の分だけ遠い先進国から持ってくるよりも価格面で有利であり、イランの産業発展の重要な一助となった。
 こうしてアラブ世界では非常に珍しく、イランは二次産業も盛んな国家として急速に発展していった。産油国は数あれど、欧米やロシア以外で自力で採掘施設、精製施設を作り、各種パイプを自力生産できる国は無かった。工業化の指標の一つとなる粗鋼生産力も、並の欧州諸国以上を示した。タンカー建造を中心に、造船業もかなり発展した。
 それでも資本、技術など様々なものが不足してはいたが、石油で得た莫大な外貨によってカバーすることができた。イラン・イラク戦争では500億ドルもの戦争債務が発生していたが、それも発展に伴って返済していく事ができた。
 さらには、古い都の一つでもある観光都市のイスファハーンを大規模な再開発に連動して大規模ハブ空港を建設し、経済特区として世界中から資本を集めようとした。
 この動きは、ペルシャ湾岸にあるアラブ首長国のドバイ、カタールのドーハなどの動きに対抗したもので、完全に成功したとは言い切れ無かったが、イラン自体の国力、経済力の大きさもあって、一定程度の成功を納めることもできた。

 そして経済発展が進むと、国内だけで労働力が不足するようになったため、ペルシャ湾岸を中心として海外の労働力を受け入れるようになった。
 そして当時のアラブ世界は、ヨーロッパが依然として域外からの労働移民受け入れに消極的だった事もあり、イランが求める労働力はすぐにも確保できた。特に隣国トルコからの労働移民や出稼ぎ労働者は多く、両国の交流が今までにないほど活発になるという副産物ももたらした。
 同じ事はイランとインドの間にも言えたが、イランとインドは同じ新興国として連携する面と、また逆に経済的なライバルという面もがあるため、外に対しては協力関係にあるが、お互いだけの場合は対抗するという二律背反に近い状態に置かれていた。
 また一方では、大量の外国人労働者を受け入れていたサウジアラビアとは、労働力を取り合うような場面も見られた。そしてイランの外国人労働力受け入れでは宗派の違いは設けられず、イランの寛容さがイスラム世界(スンナ派)に知られるようになる。だが逆に、アラブ世界の欧米に対する反感を強める一助ともなってしまう。
 しかしスンナ派の人々は、イランを警戒する向きも強い為、近隣諸国のシーア派、インドのイスラム教徒以外が多いという面も見られた。そしてイスラム教内でのスンナ派とシーア派の違いからくる対立や反発を無くす事は非常に難しく、さらにはアラブ世界もしくはペルシャ湾岸地域でのサウジアラビアとイランの対立も消えなかった。
 しかも21世紀に入る頃には、サウジアラビアの二倍以上の人口とサウジアラビアを越えるGDPになっているため、少なくともペルシャ湾岸随一の経済力を持つに至っている。
 世界的に見ても20位以内に入っているため、二つの「G20」(主要国首脳会議と財務大臣・中央銀行総裁会議)にも名を連ねるまでになっていた。

 そして西からトルコ、サウジアラビア、イラン、インドと大国が並んでいる事になり、ロシア(ソ連)の圧迫が弱まって以後のイランは西アジアの大国として振る舞うことも増えた。
 そうなるとサウジアラビアだけでなくインドとの関係も微妙になったが、インドとは同じ民主主義国家という事で妥協と協力も可能だし、アジアの国際組織にも加盟し合っているので関係が悪化したことはない。
 インド連邦という一つの国で一つの地域を構成するインドにとって、イランは適度な国力を有するので付き合いやすい相手とは言えないが、お互いにとって許容できる相手だった。
 だが、サウジアラビアとの関係は、イランの発展が進めば進むほどこじれる傾向が続いている。しかもイランはOAPECには参加しているが、アラブ連盟には加盟していない。これはシンガポール条約機構に加わっていることが主な理由とされ、理由としてはNATOに加盟しているトルコに近い。
 だが本当は、イラン国民のほぼ全てがシーア派を信奉しているからに他ならなかった。
 またソ連崩壊以後は、中央アジアの草原諸国との経済関係を深めており、トルコ、インドとも連携する形で、アラブ世界とは経済的な対立もしくは対抗した状態になりつつある。
 イスラム教を信奉するが少数派で、アラブ人ではなくペルシア人の国で、アラブ社会に近いが決してアラブではない国、それがイランと言えた。
 しかもイランは、一定程度の経済発展を実現しているため、貧富の差の面では富める側に属していた。さらに原理主義に関しては、イスラム教以外のアイデンティティーとしてイラン、ペルシア人という民族主義もあるので、原理主義に傾く必要性が低かった。原理主義が台頭した頃のイランは、既にイスラム教国の中では穏健国といえた。

 しかしそのイランが、世界中のシーア派の中核として存在感を増していたことは、原理主義との対立も呼び込んでいた。スンナ派の原理主義勢力にとっては、邪教ではないにしても異教にあたるので攻撃対象になるからだ。一人勝手に豊かになった事も、むしろ暴力的な原理主義勢力にとっては攻撃対象足り得た。
 しかも国内に多数のシーア派を抱える隣国イラクは、常にイランを敵視していた。他にも警戒感を持つ国は少なくなかった。アラブ世界を二つに裂く危険な存在だと考える国も一つや二つではなかった。
 そうした情勢下でアメリカが、さらに原理主義勢力や「彼らにとっての敵」を探し始める。アフガニスタンのタリバーンとアルカイーダは取りあえず一瞬で叩きつぶしたが、それだけでは(アメリカ)国内的には物足りなかった。
 それが「テロ支援国」と決めつけて、アメリカが次なる敵を探し求めた原因だったと言われる。

 21世紀に入ったばかりの頃、ジョージ・W・ブッシュ(ジュニア)政権のアメリカ合衆国の「敵」は幾つか存在していた。
 旧ソ連であるロシアは、この頃の時点では自分たちの中に取り込もうとしている時期で、敵ではなく仲間にすべき存在だった。
 しかし旧ソ連のロシア以外となると、意外にパッとしない。常に敵を必要とするアメリカとしては、敵に困るほどだと言われたぐらいだ。
 だが、敵の存在は皆無では無かった。
 まずはお膝元のキューバ。
 しかしアメリカの手によって無力化されており、敵という以外では無視できる存在でしかなかった。他の中南米諸国も、アメリカに反発をする国はあったが、敵というほどの国はなかった。それに中米の小国など、アメリカにとって何時でも気軽に叩きのめせる相手でしかなかった。
 次に、東南アジアのジャワ島の社会主義政権。
 ここは世界の問題と言うよりアジアの問題で、どちらかと言うと日本、満州の担当する国だった。それに冷戦崩壊後は、かなり穏健な姿勢に傾いていた。むしろ現政権は、インドネシア国内の原理主義勢力の台頭に怯えており、日本、満州からの協力を求める姿勢を見せているほどだった。
 20世紀のうちに限定的な体制改革と市場経済導入も始められており、近隣諸国との関係改善にすら大きく乗り出していた。
 長い間混乱の続いた支那地域は、安定しているとは言えないながらも、共産主義も軍国主義も存在しなくなっていた。支那共和国は安定したとは言えなかったが許容範囲だった。
 もはやアメリカにとっては、ただの市場でしかない。支那地域の再統合に向けた動きは見られたが、第二次世界大戦から半世紀以上経過しているので、解体した事への反動についてはもはや時効という雰囲気も強まっていた。
 それに万が一の事態が起きても、第二次支那戦争がそうだったように軍事的には日本、満州の担当地域だった。
 アラブ地域は依然として不安定だが、アメリカの直接の敵となると限られている。リビアはアメリカが一度手を下した数少ない国になるが、一度空母で爆撃してからは依然として独裁を続けるカダフィ大佐も大人しくなっていた。
 そしてアフガニスタンは叩きつぶしたばかりだが、もう一つ叩きやすい国、できれば叩いておきたい国が残っていた。イラクだ。

 イラクは1991年の湾岸戦争で多国籍軍によって派手に叩きのめしたが、依然としてフセイン政権による独裁が続いていた。
 このためペルシャ湾岸地域の軍事的緊張は残ったままで、サウジアラビア、イランなどが大きな軍備を保有し続ける大きな理由となっていた。イスラエルこそが緊張の理由と言う者も多いが、イスラエルはアメリカが庇護すべき対象に近く、少なくとも敵になることはあり得ない。そしてそのイスラエルから、イラクが破棄した筈の大量破壊兵器とその運搬手段を持っているかもしれないという話しがもたらされる。
 イラクは否定したし国連の査察も受け入れたが、国連というよりアメリカは信じなかった。このため抜き打ち査察をしようとしたら、イラクは今までとは異なり査察を拒絶した。これが「9.11テロ」の少し前の事だった。
 そして「9.11テロ」後は、アメリカはイラクがアルカイーダなど原理主義勢力と深く関係しているのではないかと強く疑うようになる。
 だから、新しい国連決議までしてイラクへの査察を実施するが、アメリカが求めるものはどこにもなかった。これでアメリカは意固地になり、アルカイーダをイラクが関係していると決めつけて、武力行使を行おうとする。
 ここで国連安保理が開催されたが、殆どの国がイラクとの戦争に反対した。拒否権を持つ国のうち、アメリカ以外ではイギリスだけが賛成に周り、他の国はほぼ反対した。
 盟友であるはずの日本も反対にまわり、日本とアメリカの今までの蜜月関係に大きな亀裂を入れる外交上の大事件とすら言われた。
 日本に反対されるとは考えていなかったアメリカは、日本に特使すら派遣した。だが、民主党政権の時の総理小泉純一郎は受け入れられないと回答。他の反対するロシア、欧州諸国、満州など多くの国々と連携をとった。
 その一方で、アメリカにとって意外な国が賛成に周り、しかも積極的な侵攻すら支持した。
 イラン共和国だ。

 イランは日本を中心とした自由主義陣営に属しているが、アメリカとの関係は希薄か、アメリカの側からやや嫌っている状態が続いていた。イランもイラン・イラク戦争頃のアメリカの態度をかなり恨んでいた。だが、アフガニスタンへの侵攻には全面協力し、多くの兵力も拠出した。さらに戦後のアフガン統治でも、シーア派地域を中心として手厚い統治を実施した。もはや、イラン抜きのアフガン統治はあり得ないほどだった。
 そのイランが、イラクへの攻撃に賛成し参加すると言ってきたら、アメリカとしては断ることが難しかった。
 イラン軍はイラン・イラク戦争以後軍事費は削減していたが、その後の経済発展により国防予算はむしろ1980年代より増えていた。
 しかもイスラエル、イラクを依然として仮想敵としており、有力な軍隊を有していた。さらに兵器の多くを日本や満州から購入しており、ほぼ最新鋭の戦車や戦闘機を中心として非常に有力な存在だった。既存兵器の改良がほとんどとは言え、兵器の自力開発すら無理しないで行える工業力、技術力もあった。
 そして今回、イランの目的は明らかだった。少なくとも明らかだと考え見られた。
 今まではスンナ派との関係を考慮して、控え目な行動に終始してきた。だが、事態が決定的状況にまで悪化するのなら、これを逆に好機と捉えて、イラクに今までフセイン政権に虐げられてきたシーア派による政権を作り、自らの勢力を拡大しようと考えたと見られたのだ。
 そしてイランがアメリカ側に立ってイラクに共同で侵攻することを、イラクに攻め込むアメリカが否定することはできない。
 味方が極端に少ない状態ではむしろ歓迎しなければならず、フセイン政権打倒後もイラン軍の軍政参加など多くを認めなければならなくなる。
 逆にイラン参加でアメリカがイラク侵攻を躊躇すれば、それはそれでイランとしては隣国で戦争が起きずに済むので、一定の利益があった。アメリカへの賛成でイラクなどスンナ派から睨まれるが、もはや今更という感覚も強かった、と言われる。

 そしてアメリカは、振り上げた拳が下ろせなくなる。
 イラクと戦争を始めれば、どう考えてもバクダッドに最初に入城するのはイラン軍で、同盟国として参加を表明したイラン軍を止める理由がアメリカに無かった。
 強引に止めたとしても、イランが不満に持つのは明らかだった。
 もちろんイラク軍をイラン軍にけしかけるような事はできない。
 イラクを叩いた後にイランを敵視する政策に転換すれば可能かもしれないが、そんな事をすれば際限なく敵を増やしてしまう事になる。イランと日本、満州の関係を考えると、イランを嫌うことは出来ても敵とすることは出来なかった。
 アメリカが、イランがアメリカへの嫌がらせで対イラク戦に賛成したのだと考えたのも無理は無かった。
 そしてイランの言葉に対して、アラブ諸国というよりスンナ派イスラム系国家が一斉に反対に回る。イランの勢力拡大、シーア派の勢力拡大を看過できないからだ。
 そしてアメリカが躊躇している間に、当初賛成する方向だったフランスが国内の反対で軍事力派遣中止を発表すると、残る味方はイギリスだけとなってしまう。他にも賛成している国はあったが、賛成票を投じているだけに過ぎなかった。

 結局アメリカは、対イラク侵攻もしくはイラク戦争を起こせなかった。
 イラクに対しては、無条件の査察を受け入れなければ軍事侵攻を行うという最終通告を行うも、イラクが受け入れたので戦争は何とか回避された。
 そしてこの時の査察は、アメリカよりも戦争反対に回った国々が大挙して査察に入り、イラク中を隈無く長期間にわたり調査することで、大量破壊兵器、NBC兵器はないことが判明した。
 さらに査察団の常駐と抜き打ち査察までも、イラクは受け入れた。
 このためイラク国内でのサッダーム・フセイン大統領とバース党の支持は大きく低下したが、それでもクーデターは起きず経済制裁なども緩和されたこともあって、政権は何とか維持された。
 もっともアメリカは、イラクへの不信感を棄てなかったが、ここまでして何も見つからない以上、流石にアメリカも何も出来なかった。
 そしてイラク戦争の代わりとばかりに、世界中のイスラム原理主義系のゲリラに対する攻撃を強める事になる。
 これは各地の民族主義的原理主義ゲリラにも向けられ、現地政府への各種支援はもちろん、アメリカ軍の投入も行われた。そして攻撃的な原理主義勢力を見つけると、躊躇無く攻撃を行った。また、アフガニスタンへの駐留兵力の一時的増強や政府への支援も強化されたりもしている。

 そして対イラク戦争不発の結果、一番利益を得たのは皮肉にもアメリカだったと言われる。
 反対した国々は、戦争しない代わりに各地の原理主義への対策に人と金を出さざるを得なくなった。
 賛成したイギリスは、賛成した事こそが政権喪失の遠因となった。
 同じく戦争に賛成したイランは、近隣諸国からの目がさらに厳しくなった。このためイランは、もはや今更と考える向きを強めるようになり、各地のシーア派の庇護と支援を強め、イスラム世界での勢力拡大を図るようになっていく。
 だがアメリカは、戦争中止当初こそブッシュ政権の支持率はかなりの落ち込みを見せたが、時間が経つに連れて戦争回避した事がアメリカ国内でも評価されるようになり、また戦争に使われたであろう資金のかなりが対原理主義対策に回った事で国際的な評価を高めることになった。
 アメリカで損をしたのは、軍需企業だけと言われたほどだった。

 そしてイラクだが、政権の支持が衰えた事には間違いなく、アラブ世界の火種は21世紀に入ってもくすぶり続ける事になる。


●フェイズ148「欠ける蜜月」