●フェイズ148「欠ける蜜月」

 21世紀初頭、日本とアメリカの密接な蜜月関係は、日露戦争直前から極東連合成立まで約1世紀持続したと言われるようになった。
 西暦で言えば1904年から2003年の100年間が、蜜月関係だったという事になる。
 しかし、日本と満州が中心になって作り上げた極東連合はヨーロッパ連合と同様の国家連合で、アメリカと対立するための組織ではない。国力や経済力で対等もしくはそれに近い立場、立ち位置を目指す面は強いが、アメリカよりもアジア世界もしくは全世界規模を見ての事である。
 しかし、遂に日本(+満州)がアメリカと国力面で対等に並ぶと言われ、時代の大きな節目だとされた。
 少し、冷戦崩壊頃から20年ほどの関連する大きな出来事を年代順に並べて見てから話を進めていきたい。

 ・概略年表(AD.1985〜2008)
1985年 プラザ合意 ・両高、円安 = ドル高の是正が表向きの目的  ・満州経済改革促進、日本高度経済成長へ
1989年 ・冷戦終結 アメリカとソ連が和解
1991年 「湾岸戦争」
1991年 ソ連崩壊 = その後、ソ連(ロシア)経済破綻
1995年 WTO(世界貿易機関)発足 ・自由貿易、グローバリゼーション促進
1997年 アジア通貨危機
  ・東南アジア、支那各地の経済破綻
  ・満州の経済成長鈍化
  ・その後、ブラジル、ロシア、ドイツでも発生
1997年 「第二次支那戦争」 ・支那地域の混乱が一旦沈静化
2001年 「アメリカ同時多発テロ事件」(イスラム原理主義テロ)
2003年 FEU(極東連合)成立 ・日本、満州中心の国家連合成立
  ・この頃、「BIRIs」台頭
  ・インド、「世界の工場」として躍進が目立ち始める
2005年 EU(ヨーロッパ連合)成立
  ・ほぼ全ヨーロッパが参加した国家連合成立。通貨統合は見送り
  ・この頃、世界経済、世界情勢は新たな構図の出現と言われる。
2008年秋 「リーマン=ショック」(世界同時不況)
  ・全世界規模で大幅な景気の後退
  ・日本の高度経済成長終焉

 以上を極めて大ざっぱにまとめれば、ソ連が崩壊して冷戦が終わり、グローバル化同時に地域統合が進んだと言える。また一方では、1990年代はソ連が崩壊した事でアメリカの時代と言われ、同時多発テロでそれが終演した時期でもある。イスラム原理主義については1980年代から横たわる問題なので、2001年以後は顕著になっただけとも言える。
 そして日本とアメリカにとって、極東連合成立によってついに蜜月関係が終わりを告げると言われていた時期でもある。さらにアメリカにとっては、アメリカにとっても経済影響下にあった満州帝国が、日本と極東連合を作ることで完全に自立した事にもなる。しかもその邪魔をしようとして、アメリカが関わったとされるスキャンダルが暴露されるなど、醜態までさらした。
 そして当時は、遂にヨーロッパも統合を果たして大きな勢いを持ち、金融危機で一度躓いた民主化後のドイツもすぐにも息を吹き返していた。新興国枠では「BIRIs」などの台頭が世界規模でも目立ち、独立から半世紀以上を経てインドが「世界の工場」として躍進しつつあった。さらにアメリカが極めて強い影響力を持つペルシャ湾岸の産油国も、以前から抱えている問題に加えて、イランの隆盛、イラクの中途半端な孤立状態などから、安定しているとは言い難かった。
 要するにアメリカの足下が脅かされていた事になる。
 そして世界経済全体に大きな躓きを呼び込んだのが、結果として「リーマン=ショック」になった。
 「リーマン=ショック」自体は、「アメリカ同時多発テロ事件」でのアメリカ証券取引所の一時的な閉鎖に伴う景気対策として、金融緩和政策を行ったことが遠因だったとされる。
 金融緩和により不動産バブルが発生し、その後グローバル化に伴う債権の複雑化によって誰もが経済状態の実体が分からないようになって無軌道にバブルが拡大し、致命的な破断界を迎えたのが「リーマン=ショック」だ。
 そして巨大な不景気が、世界の消費を牽引しているアメリカで発生したことが世界的に大きな問題となった。
 もっとも、世界経済がアメリカ経済に大きく作用される、言い方を変えればアメリカ頼りなのは、第一次世界大戦後から続いている事だった。20世紀が「アメリカの世紀」と言われる所以だ。
 そして21世紀を挟んだ時代を見てみると、「プラザ合意」から「リーマン=ショック」もアメリカ抜きに語ることは出来なかった。

 アメリカ社会は、ほぼ建国の頃からローンに頼る消費社会を形成していた。移民してくる者達は、基本的に無一文だからだ。
 ローンに頼る消費社会という構図は21世紀に入っても変わらず、アメリカの肥大化していると言える消費社会は、世界経済を牽引する大きな力となっていた。特に1960年代からは、アメリカ国内で人件費の面から生産コストが上がった事で、アメリカは自らが消費する製品の多くを輸入するようになる。そしてアメリカに大量に輸出する国は、各時代ごとに「世界の工場」と言う名の「アメリカの工場」ともなった。
 1960年代の西ヨーロッパ、1970年代以後の満州、1980年代以後の日本、21世紀に入ってからのBIRIs諸国、そしてBIRIsの一角であるインドも、アメリカからの消費の求めを自らの経済発展の大きな拠り所としていた。冷戦崩壊後に「西ヨーロッパの工場」へと転身したドイツも、アメリカへの輸出を年々伸ばしていた。
 一方でアメリカは自らの消費力を武器にして、一方では貿易不均衡を理由として、相手国を責め立てた。そうすることで、自由貿易が行われる国々の間で、自らの覇権維持の一助としてきた。
 もっとも、域内貿易を重視する西ヨーロッパ、連合形成後の極東連合は多少の例外となったが、それでもそれぞれの国に属する企業はアメリカに生産工場を置くことで、貿易不均衡の是正を行っている状態だった。
 冷戦崩壊以後のヨーロッパ地域、日本・満州は、単体でそれぞれアメリカに匹敵する人口と経済力を有するようになったが、一人当たりGDPや消費力という点ではアメリカに及ばず、自らの経済を回すためにもアメリカ経済を必要とした。そして、よりアメリカ経済を必要としたのが、時代時代で新興国と呼ばれる、真にアメリカの生産工場となった国々だった。そして冷戦崩壊後に形成されたのが、いわゆるグローバリゼーションであり、より文物が行き交う規模と頻度は増して、一気に隆盛できるチャンスも広がった。

 そうした時流に乗ったのが「BIRIs」だった。
 ロシアは高騰した資源を世界中に売った。資源を売ったのは、ブラジル、イラン、南アフリカも同様だった。一方、国内資源が豊富と言えないインドは、世界最大の貧困者を抱える点を逆手に取った労働コストの安さを武器に、IT産業の拡大を図ると共に軽工業を中心とした工業生産国として駆け上がった。
 工業国としての隆盛は、世界第四位という豊富な石油資源を有するイランも同様だが、イランの場合は今までの産業育成が実を結び、一定程度の重工業製品も輸出出来るようになっていた。
 しかし、中進国から先進国への昇華に成功した日本が、当時は世界中で販売を伸ばしていたので、先端工業品にまでは手が届かなかった。また、インド、イランの後ろには、ベトナムなども追従しつつあった。さらにその後ろには支那連邦共和国が続いており、世界の工場の座を虎視眈々と狙っていた。
 そうした状態で世界の頂上を構成する国々による会議、つまりサミットも変化していった。
 G7もしくはG8と呼ばれる先進国首脳会議もしくは首脳酷首脳会議のメンバーは、かつてソ連だったロシアを加える以外に大きな変化は無かった。しかし新興国の隆盛を考えると、トップだけで話し合うには情勢にそぐわなくなっているため、新たにG20が開催されるようになる。
 G20は、首脳会合と中央銀行総裁会議があるが、1999年の第一回以後参加国に変化はない。以下が、G8、G20の参加国になる。

 ・G7(G8)
・アメリカ合衆国 ・日本帝国 ・満州帝国 ・イギリス連合王国 ・フランス共和国 ・イタリア王国 ・カナダ (+ロシア)

 ・G20
・ロシア連邦共和国 ・インド連邦共和国 ・ブラジル連邦共和国 ・イラン共和国 ・南アフリカ連邦共和国 
・ドイツ連邦共和国 ・メキシコ合衆国 ・オーストラリア連邦 ・サウジアラビア王国 ・トルコ共和国 ・アルゼンチン共和国 ・ベトナム共和国
・EU(ヨーロッパ連合)

 ヨーロッパのスペインのように、経済規模的には上記参加国よりも相応しい国もあったのだが、ヨーロッパはドイツ以外はEUの参加でまとめられていた。逆に極東連合は、域内の日本と満州の存在が大きすぎるため、オブザーバーでしか参加は認められなかった。また支那地域は政治的に複雑なので、支那連邦共和国の参加について議論されたが、支那地域での政治情勢もあって参加は保留という形で見送られていた。
 この20の国や地域を合わせると、発足当時のGDPは世界の90%、貿易額は80%に達するので、世界規模での議論には国連よりも相応しいと言われることもある。
 一方で、大人口地帯の支那地域からの参加がないなど、加盟国の人口総数は世界の60%程度なので、人口の点では相応しいとは言い切れない。またアフリカが1カ国なのは地域格差だという声もあったが、経済力が基準なので反論も小さかった。
 もっとも、G20は実行力のある会合と言えないのが実状で、G7の方が「大国クラブ」としては機能していた。そしてどちらも、所詮は先進国と新興国の「大国クラブ」でしかないので、途上国から不評という点は同じだった。
 それでも1990年代は、アメリカの世紀と言われたほどアメリカの国力、特に軍事力と国際影響力が突出したので、その影響でG20が設立されたとも言える。しかしG20設立頃に「アメリカ同時多発テロ事件」が起きてアメリカの影響力低下が始まり、そして欧州と極東での国家連合成立と、「リーマン=ショック」によって決定的となった。

 しかし「リーマン=ショック」は、世界同時不況と呼ばれたように世界規模での非常に大規模な不景気をもたらした。特に新興国の受けた打撃は大きく、さらに国の貧富を問わず資源輸出国の低迷は酷かった。「リーマン=ショック」までは高騰を続けていた鉱産資源や石油が一気に暴落し、国によっては財政が立ち行かなくなるほどだった。
 「リーマン=ショック」は、景気を下支えできる需要を発生させる国があれば短期間で終息すると言われたが、そうした国は現れなかった。先進国の中で最も高い経済成長率を維持していた日本ですら、「リーマン=ショック」によって遂に高度経済成長に終止符が打たれた。
 日本の場合は、政府による膨大な額の公共投資があれば、自国のみならず世界経済を支えるだけの力があると言われたが、日本政府は相応の景気対策は実施するも行き過ぎた公共投資をする気は無かった。
 そんな事をすれば、いずれロクな結果にならない事は経済原則から分かり切っていたからだ。
 もっともアメリカからは、経済状況の良好な日本は公共投資をさらに拡大するべきだという言葉を何度も言われており、日本からかなりの反発を招くほどだった。
 また、隣国の韓王国の支援をしなかったと韓王国自身から異常なほど強い非難があったが、日本政府は日本に余裕なしとして相手にしないなど、日本政府もこの時の自国及び連合内での景気対策に非常に苦慮している。
 そうした中での過剰な公共投資の拡大は、下手をすれば自殺行為になっていただろうと言われる事が多い。
 新興国としてBIRIsと別枠とされていたほど勢いのあったドイツも、欧州経済の低迷によって再び大打撃を受けていた。BIRIs諸国も、二つのIのインドとイランの傷が浅いぐらいで、やはり大きな景気後退に見舞われた。特に資源の暴落をモロに受けたロシアの受けた打撃は大きく、不況を誤魔化すため軍事力を用いた力の外交に転向していくようになる。
 世界中の大国が低迷した事だけは、アメリカにとって小さくない福音だったと言われるが、震源地のアメリカも大きな打撃を受けた。大統領は共和党のブッシュ(ジュニア)から、民主党のオバマに代わった。
 そしてアメリカが最も経済的打撃を与えたかった国は、日本もしくは極東連合だと言われた。

 極東連合は、2003年の発足時でアメリカの80%を越える経済力があった。そして5年後、GNP(GNI)は約11兆6000億ドルに拡大。対するアメリカは、12兆7500億ドル程度だった。
 その差は、わずか5年で10%も縮まっていた。そしてこのまま推移すれば、2013年にはアメリカに並ぶというかなり現実的な予測すらなされた。
 もっとも、日本の新興国的な高度経済成長自体は既に限界に達しつつあり、リーマン=ショックが無くてもさらに鈍化すると見られていた。実際2007年の経済成長率は、約5%にまで下がっていた。
 なお、2008年当時の日本の総人口は、約1億8500万人(※内地は1億6500万程度)。1980年代から人口増加は鈍化していたが(※増加率は約0.7%)、いまだ景気拡大の中にあった。総生産額は約7兆ドル、一人当たりは約3万8000ドルあった。
 この年のアメリカの一人当たり所得が約4万2000ドルなので、一人当たりだとわずか5年で日米の格差は4000ドル以上も縮まっていた(※満州は4.6兆ドル、一人当たりは約3万9000ドル)。
 21世紀に入る頃から、日本国内ではアメリカと経済、国力の両面で同格になったという意識も高まり、極東連合の成立によって完全に対等になったと認識されるようになっていた。
 今までは軍事面、政治面はともかく、経済、国力は日本にとってアメリカに決して敵わない要素であり続けたので、この意識の変化そして実質面での変化は、非常に大きな変化でもあった。
 もちろん資源面や軍事力などアメリカに及ばない点も多かったが、こと経済に関する限りアメリカへの負い目はなくなったと言える。
 そしてそれは、アメリカにとって都合が悪いとされた。
 日米の蜜月関係が、真の意味での終焉を迎えると考える者が少なくなかったからだ。

 「リーマン=ショック」時点でのアメリカ大統領はジョージ・ブッシュ(ジュニア)、日本の総理大臣は石原慎太郎、満州の首相は温家宝。三人の関係は良好で、サミット、首脳会談などでも良好な関係を見せていた。リーマン=ショックの後でも違いはなく、連携して対策することを約束した。
 そしてこの中で、ブッシュ大統領は石原総理に日本の公共投資拡大を依頼している。
 ここで石原総理はこれ以上は難しいと返答したとされているが、この時点で石原政権は国内景気を維持するために大規模な公共投資拡大と国債発行を行っている。
 この20年ほど日本政府は国債発行をほとんど行っていなかったので、それだけ景気後退が懸念された証とされたほどだ。しかし公共投資と国債発行の額は常識範囲内だったため、日本及び極東連合の景気後退を一定程度押しとどめるのが精一杯で、世界経済に大きな好影響を及ぼすほどではなかった。
 そしてこの事が、日本とアメリカの間に溝を生んだとされる。
 ブッシュ政権はともかく共和党はその年の選挙で敗北し、民主党に政権を譲り渡した。一方で日本は、景気対策が功を奏した事もあり、石原が二期目の政権も維持した。
 といっても、日本が景気対策に成功したのは、日本では公共投資拡大が有効な程度の経済水準だった事を現している。公共投資が効果を現さないほど先進国として発展していたら、景気対策は失敗した上に赤字国債を増やしただけに終わっただろう。
 石原慎太郎は、若い頃から期待されるもこの時期ようやく総理の座を射止めたのだが、国民からはカリスマ性と指導力、そして実行力のある政治家だと見られていた。
 ただ石原は、1989年、1995年の総理選挙で敗北したように、今ひとつ運に恵まれていなかった。彼に運が向いてきたのは、極東連合立ち上げのおりに中心人物の一人となったからだと言われる。
 日本の中央政治から少し距離を置いたのが良かったというわけだ。そして極東連合の議長は自由党の麻生太郎が就任したが、民主党の代表として石原は極東連合内で中心的役割を務めた。この時期の石原は、極東連合の副議長も務めているし、極東連合のナンバー2とも言われた。
 そして極東連合で実績を積みつつ、国内外の自らの知名度を高めるなどして総理選挙に備えた。そして2007年の総理選挙で自由党の安部晋三を敗って、国民から総理の座を託される。
 そしてリーマン=ショックに際しても、適切な対処を実行することで日本が受ける経済的影響を最小限に止めた。
 また極東連合では麻生議長が辣腕を振るい、満州も温首相以下の内閣は適切な対応をとった。おかげで極東連合は影響を最小限としたが、アメリカは大きな影響を受けていた。この格差が、日米の温度差を生んだと言われる。

 一方で、日本そして満州がアメリカを恨む事態も生んだ。
 異常と言えるほどのドル安だ。リーマン=ショックを機会として、世界的に見て比較的安定した経済状況を維持する日本、満州の通貨が買われて、円、両の双方が高騰し、二つの国の輸出産業に大きな打撃を与えた。
 世界中の投資家の動きなので一概にアメリカの責任ではないが、当人達ですら訳の分からない金融商品をばらまいたのはアメリカ(の企業)なので、堅実にやってきた自分たちが大きすぎるとばっちりを受けたと考えられたのだ。
 そしてドル安と不景気に対応するべく、日本、満州は中央銀行が大幅な金融緩和を実施し、一部では為替へのアプローチと強めた。
 さらに、極東連合内及び自由貿易協定を結ぶ国々を中心とした経済圏での活動を活発化、さらには重視することで立ち向かおうとした。
 だがこれも、アメリカなどから非難された。過剰なドル高誘導に近く、為替操作に当たるかもしれないと攻撃を受け、連合内での貿易促進を閉鎖貿易的だと非難された。
 しかし日本、満州そして極東連合は、アメリカとの関係よりも自国経済を優先。自国経済を支えることで、世界不況に貢献するとした。そして世界第二位、第三位の経済大国の不況が最低限で切り抜けられる事は世界経済全体としても好ましい為、概ね受け入れられる事となる。
 しかし日本、満州は、経済対策にばかり力を入れている場合では無くなりつつあった。世界的不況の影響で、近隣の支那情勢が再び不安定化したからだ。

 リーマン=ショック以後の世界的不況は、資源輸出国、工業製品を輸出する国々に深刻な打撃を与えた。
 支那地域だと、工業力の拡大が進んでいた支那連邦共和国(南支那)、主に石炭の資源輸出で経済の建て直しをしていた支那共和国(北支那)が大きな打撃を受けた。そして支那中央で一番の人口と影響力を持つ国の大規模な経済不況とそれに伴う混乱は、他の国々の自主性拡大を促した。
 南部のウンナン、コワンシーは、不景気を前にして遂にASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟。
 これを支那中央の国々は止めることはできなかった。それどころか、支那中央で独自性を求める四川共和国は、南部2国の動きを支持。自らもASEANとの連携を強めた。さらにはチベットを経由する形で、インドとの繋がりも強めた。これを支那連邦は政治的、経済的に止める術はなく、あるとしたら軍事力となるが、安易に軍事力を用いることが自殺行為な事ぐらいは熟知していた。
 西では、チベットへのインドの影響力が強まった。東トルキスタン共和国もロシアやCIS諸国よりはインドの影響力が強まった。
(※中央アジア諸国のかなりも、インドの影響が強まっている。)
 北のモンゴル系諸国は、既に満州の影響が強まっていたが、それがいっそう進んだ。プリ・モンゴルは満州に石炭などの資源を買いたたかれたが、売れないよりはマシなので受け入れた。
 そして八方ふさがりなのが、支那共和国(北支那)だった。

 支那共和国の軍事政権は打倒されたが、その後の政府も周辺諸国との関係を十分に良好にはしていなかった。特に「中華統合」で対立する支那連邦と、依然として仮想敵としている中華共和国との関係は悪かった。
 四川共和国などは、いまだに存在を認めていないし国交も結んでいなかった。さらに言えば、満州、内蒙古との関係も事実上の断絶状態が続いていた。日本、アメリカとの関係も、最低限の国交という状態に近かった。経済制裁はされていなかったが、武器の売買は封じられている状態だった。軍事政権が倒され軍も粛正されたも同然だったのだが、支那共和国自体は世界中から信用されていなかった。
 そうした中での国際市場での資源価格の暴落は、支那共和国国内に政情不安をもたらすのには十分すぎる打撃だった。
 しかも支那共和国の主力輸出商品の石炭価格の暴落は酷く、他に産業も輸出品もない状態なので一気に経済破綻へと至った。そして国内の経済破綻の不満を逸らすには、強権で抑え付けるか、逆に外に敵を作るしかなかった。加えて、国民を「中華統合」に向けさせる事もできるので、中華共和国へ敵意を向ける利点があった。
 この点で南の支那連邦は、自らの支那地域の影響力低下を受け入れてでも、不用意な行動を慎んだ点で国際的に高く評価された。
 だが北の支那共和国は、我慢出来なかった。主に中華共和国とのDMZに緊張状態を作り出し、国民の目を「敵」に向けさせようとした。さらに保有するスカッド・ミサイルを用いて、「実験」や「演習」を実施して日本、満州、一応韓王国を挑発して、その敵意を国民見せることで国内安定の一助にしようとした。
 どちらも瀬戸際外交で、軍事政権のように実際戦闘を行わないだけマシかもしれないが、地域を不安定化させるには十分だった。世界最貧国級の所得とは言え、総人口2億を有する国が近隣に力を誇示すると、周辺に与える影響は非常に大きかった。

 極東地域の軍事緊張は増し、支那共和国と近隣諸国の株価が大きく下落した。加えて各国の為替市場に大きな影響を与えた。日本と満州も例外ではなく、株価は香港、大連、大阪の下落に影響を受けて世界的にさらに下落して支那共和国へのさらなる非難が強まった。
 しかし通貨の下落は円と両に起きただけで、お陰でと言うべきか円と両はドル高となって貿易状況が緩和するという副作用がもたらされた。
 一方では地域不安による、安全保障の面から日本や満州は、自国周辺、支那情勢の安全保障を優先せざるを得なくなる。下落傾向が続いていた国防予算も、一転して上昇に転じた。
 そしてそれは日本、満州の海外展開の縮小を意味しており、中東での戦力低下となり、世界は日米の関係が希薄化していると観測した。
 日本、満州を中心とするアジア条約機構内では、アフガニスタンや中東への安全保障はインドとイランの役割という事で話しは済んでおり、その事はアメリカも十分に了承している事に過ぎなかった。

 ただ、この頃の日本とアメリカの蜜月が欠け始めた事は事実であり、極東連合というアメリカに匹敵する国家連合体の巨大化が、両者の関係に隙間を作ったのは事実だった。


●フェイズ149「大地震と21世紀のエネルギー政策」