●フェイズ149「大地震と21世紀のエネルギー政策」

 2011年3月11日14時46分18秒、「東日本大震災」が、日本列島の太平洋岸東海岸沿いを襲った。千年に一度と言われる大地震で、日本列島を未曾有の災害が襲った。
 この大災害は、リーマン=ショック以後の景気低迷の日本経済に、さらなる打撃を与えることとなる。第二次石原政権は全力で対応に当たったが、災害規模が大きすぎて十分な対応が出来たとは言い難かった。
 そうした中で災害に対して大量動員されたのが軍だった。

 日本軍の災害救助の歴史は、それこそ明治の建軍の頃から存在している。
 地震、台風など日本は災害に事欠かないからだ。
 大規模な救援活動の最初の例としては、誰もが関東大震災を思い浮かべるが、その数年前まで世界中で猛威を振るっていた「スペイン風邪」になる。日本もヨーロッパに大軍を送り込んでいたので、防疫部隊が大幅に拡充された。それだけでなく、国内での防疫対策として軍の医療部門が大規模に投入されている。
 とはいえ規模は限られており、軍の災害出動として有名なのは、やはり1923年の関東大震災になるだろう。この時は陸海軍総力を挙げて帝都東京での災害救助活動と、その後の復興事業に携わり、国防が疎かになったほどだった。
 また同時に、関東大震災は他国の軍隊が災害救援に参加した最初の例でもあった。参加したのはアメリカ軍で、日米関係の緊密化に大きな役割も果たした。
 第二次世界大戦の終盤に立て続けに起こった地震に際しても、軍全体の規模が大きかった事もあって積極的な災害出動が行われている。そして直接はこの時の活動の教訓から、第二次世界大戦後の軍において日本国内の災害主導が重要な任務の一つに含まれ、常設の装備なども配備されていくようになる。
 このため、大地震や大洪水になると、軍が出動する事が日常的になっていった。
 そうした中でも20世紀内での大規模出動だと、1995年の阪神・淡路大震災が災害救助する軍の姿を多くお茶の間に届けたという点で重要になるだろう。
 大都市を直撃した流石の日本列島でも珍しい大地震に際して、政府は軍の大挙出動を災害発生当初から即座に命令。日本中から、被災地域に災害出動を実施した。冷戦崩壊で海外駐留部隊が大幅に減っていた事もあり、多数の軍部隊が救援活動に参加した。
 またその前年の1994年の、外南洋とも呼ばれるビスマーク諸島ニューブリテン島北東部の現地の自治政府が置かれているラバウル市近隣の花吹山、西吹山の大規模な噴火の際には、大型空母や強襲揚陸艦までが出動して、遠隔地での大規模な災害救助を実施している。
 同じく別の噴火では、2000年の三宅島噴火の際にも軍は多数の艦艇と航空機を出動させている。
 さらに4年後の1999年の中部台湾大震災でも軍は大規模出動し、多くの教訓を反映した上での救援活動を実施した。これで、大規模出動の形が整ったとも言われる。

 そして2011年3月の東日本大震災は、未曾有の大災害という事もあって通常の災害出動では全く足りないので、当時の軍の3分の1が動員された。
 それでもさらに数が足りないとして一部予備役の召集までが実施され、最大15万人以上が災害救助と復旧に当たった。
 震災すぐにも空母、各種揚陸艦、輸送艦、輸送機などが大量に被災地に投入され、さらには備蓄されていた保存食やテント、毛布など軍の物資の大量拠出も行われた。
 遠征や出兵用に用意されていた仮設建造物も、在庫一掃セールのように拠出された。このため被災地の各地に、日本軍の野戦陣地のような避難施設が雨後の竹の子のように作られたりもした。そうした中には、阪神淡路大震災から「定番」となっていた仮説風呂が各地で作られたりもしている。それだけでは足りないので、沿岸部に停泊した海軍の艦船の風呂が広く利用されたりもした。計画だけで終わったが、原子力空母が岸壁に横付けして電力と真水を供給するという話しまであったほどだ。
 また、津波で流された人々の捜索にも当たっている。日本海軍は海上保安庁という海上警備組織も麾下に持つため、海上での捜索活動は海軍の本分とも言えたので熱心に行われた。
 一方で、世界中から緊急救助部隊が派遣されたが、他にもアジア条約機構に属する満州など各国の軍も多数の救援部隊を派遣している。さらには同盟国のアメリカ軍も救援活動に艦艇や航空機を派遣しており、関東大震災と同様に日本との関係強化の一助となったと言われる。
 なお、日本軍の災害出動は国内に止まらず、状況が許すなら世界中へと赴いている。
 特に極東、太平洋地域の災害出動の回数は多く、アチェ共和国、インドのスマトラ島などに甚大な被害をもたらした2004年のスマトラ沖地震では、強襲揚陸艦など大規模な部隊を派遣している。

 一方、東日本大震災は、日本のエネルギー政策に一石を投じている。地震災害に対する、発電施設の安全性などについてだ。
 日本列島は、全世界の地震の20%が発生すると言われる元ともなる火山帯が集中する。そのため日本政府は、当初から原子力発電所及び原子力関連施設の安易な建設に慎重だった。
 また、原子力施設建設初期の頃に、主に省庁間の不毛な対立から世界的に見て非常に厳しい建設基準、安全基準が設けられた。このため、原子力発電所建設には補償費などを含め莫大な資金が必要となった。
 これは、原子力発電自体の発電コストの安さ、発電規模などを割り引いてもかなり高かった。それでも資源に乏しい日本としては、エネルギー政策やエネルギー安全保障の面から、ある程度は原子力発電自体を進めざるを得なかった。
 それでもコストが高すぎる為、まずは手を付けやすい発電を優先した。それが、日本で初めての大規模発電所と同じ水力発電だった。
 幸い日本列島は、降雨量が相応に多く峻険な山が連なり河川が巡っているので、ダムの建設に向いていた。しかし大陸を流れる河川と比べると規模が小さい為、超大規模ダム及び水力発電所の建設は無理だった。
 日本最大の水力発電所は、関東平野を流れる利根川上流域に建設された沼田ダムになる。沼田ダムは全ての面で日本最大規模で、発電力も大型火力発電所、大型原子力発電所を越える130kWを誇っており、1980年代に入るまでは日本最大の発電所でもあった。
 その他、日本中に水自体の利用を含めたダムと併設して水力発電所が日本中に作られたが、やがて移民などで住民を山奥から追い出しても限界に達した。
 また1980年代以後は、揚水発電も多用されるようになっており、発電量全体から見ると僅かではあるが水力発電量の増大に貢献している。
 一方では、戦後になると急速に地熱発電が拡大し、1970年代には水力発電を上回るほどの発電量を誇るようになる。政府、企業による技術開発も進められたため、効率も大きく向上した。
 おかげで電力需要の自給率は向上した。と言うよりも、1950年代までは電力と言えば水力発電のみで、地熱発電がその補完となり、火力発電はほとんど見られなかった。
 それでも1960年代に入ると、安価な石油の利用が世界的に進み、日本でも石油の輸入が急激に伸びた。当時はボルネオ島の油田もあったが、到底足りないので輸入に頼った。幸い輸入先には困らないが、外貨の流出は止めたかった。
 しかも国内で産出する主な地下燃料資源だった石炭は、採掘コストの面で輸入石炭や石油に対して割に合わなくなっていったので、エネルギー自給率は急速に低下した。
 そしてエネルギー自給率の低下は、国家として可能な限り避けたいリスクだった。

 そこで日本政府は、従来の水力、地熱以外の燃料資源を用いない発電方法方法を強力に模索する。
 まず頭に浮かぶのは、原子力発電だった。当時は夢のエネルギーのような扱いだったし、1基辺りの発電力も大きくし易いし、一度ウランを輸入してしまえば、その分をエネルギー自給している事にもできるからだ。
 しかし日本では、当時世界中が驚くほどの厳しい基準があるため、大規模な商業発電開発はしたくても出来なかった。
 それでも原子力発電所は建設されたが、建設計画から廃炉までのロードマップまで含めた厳しい国内制限があるので、普及は遅々として進まなかった。
 しかも稼働は30年以内と定められている事がコスト上昇に直結しているので、尚更普及を遅らせた。法制度上の自縄自縛でしかないのだが、一度決めたことを日本の中央官僚組織は撤廃や緩和する事ができなかった。原発推進委員会の事を、規制委員会と影で言ったほどだ。

 建設された原子力発電所は、超大規模地震や10〜15メートル以上の津波(高潮)に十分対応できて、非常発電を二重以上に備えているなど、やや過剰な安全基準を持っていた。
 しかも、門扉などは対テロ用に重厚に作られている場合も多いので、見た目もコンクリートでできた要塞のようだった。発電所が城壁のように囲まれている為、中世ヨーロッパのお城のようだと言われることもあるほどだった。
 実際は、中世のお城より余程頑丈に作られた、大自然に対する難攻不落の要塞だった。
 建設費も維持費も他国に比べて大きかった。建設地周辺への補助費も過剰なほどで強い批判も出た。原発建設に絡んで、成金、賄賂と言った言葉も頻繁に飛び交った。
 さらに冷戦時代を反映して、破壊活動を警戒する軍の警備部隊まで置いていた。安全基準については、技術向上などで稼働年に限り審査つきで延長されたが、それでも40年が限度とされた。
 しかしこの世界的に見て異常なほど厳しい安全基準は、確かに自然災害から日本列島を守った。
 日本列島を定期的と言ってよい頻度で襲う大規模地震に際しても、原子力発電所はその都度十分以上に耐えて見せた。主要構造物は核兵器の直撃にも震度7以上の超巨大地震にも耐えられると言われ、あまりの過剰さにマスコミなどは日本列島が沈没でもしない限り壊れることはないと揶揄したほどだ。
 そして最大の威力を発揮したのが、2011年の東日本大震災だった。

 主に被災した原発は、宮城の女川原発と東海原発、福島の福島原発になる。
 このうち女川原発と東海原発は、特に大きな被災もなくあまり話題にもならなかった。対して福島原発は、予想以上と言われる津波が押しよせた事から、一時大きな話題となった。
 1969年に稼働していた福島発電所は、既に新旧4基の原子炉があった。だが、既に初期に建設した第1、第2は稼働30年に当たる2009年に完全停止して、2011年春までには全ての燃料を取り除いていた。
 それでも第3、第4は稼働していたし、どちらも100万kWを越える大型発電所だが、非常に厳しい基準で作られたお陰で、想定を大きく上回ると言われた大規模な地震津波を無難に耐えきった。

 「城壁」や「要塞」と言われた最大高15メートルを誇る巨大な防潮堤は、宣伝文句通り「千年の一度の災害」に打ち勝った。事前に二重に用意されていた予備電源対策すら不要なほどだった。マスコミが、無駄や予算の使いすぎだと批判した「1000年に一度の災害に備える安全対策」は、見事その役割を果たしたのだ。
 だが、それでも非常に危険だったのは確かで、この時の地震と津波を契機として、日本中の原発の稼働年数は再び30年に短くされた。
 福島原発が実際はギリギリで災害を免れた事から、安全基準もさらに高められた。
 しかし逆に、安全基準の確かさが立証された形になり、21世紀初頭に定まった原発の拡大方針に大きな変更は加えられなかった。

 なお、2011年当時の日本国内の原子力発電所は30基を少し越える程度で、燃料自給率の低い先進国という事を考えると少ないぐらいの数だった。しかもこの30数基は、すでに活動を停止しているものも含まれていた。
 一方建設予定は計画を含めると20基近くあり、どれも100kW級の大規模発電所だった。
 厳しい基準のため他国に比べると原発による発電コストは高いが、先進国化にともなう電力需要に応えるため、そしてエネルギー自給率の向上のためには仕方のない選択だった。
 だが一方では、冷戦構造の崩壊により軍事的な脅威が低下したと見られており、その点からはコストと安全性が向上しているので、原発政策を後押ししていたし、国民の声も2011年の大地震を乗り越えた事もあってそれなりに評価されていた。
 なお、発電コストの高さとクリーンエネルギー開発の促進の影響によって、日本で原発が発電全体に占める割合は2011年時点では15%程度だった。しかし2030年までには25%にまで高める計画が、その後も進んでいく事になる。
 一方で東日本大震災は、世界的には原発と自然災害の関係について大きな警鐘を鳴らしたと見られる向きが強く、先進国を中心に原発政策が見直されるようになっている。極端な国では、無理矢理全ての原発を停止したりもしている。

 そして東日本大震災によって、しばらくは安易に原発を推進するわけにもいかなかった。少なくとも隠れ蓑は必要と考えられた。そこで注目されたのが、21世紀に入ってから日本がやり玉に挙げられることが少なくない温室効果ガス削減問題だ。
 電力自給率の向上、原発政策の隠れ蓑、そして温室効果ガス削減の全てを満たすのが、クリーンエネルギーと呼ばれる燃料資源を使わない発電になる。
 そして日本は、自らの貧弱極まりないエネルギー自給状態を前に、長らくそうした発電量の多い国として知られていた。
 1990年代ぐらいからは、「クリーンエネルギー大国」と自ら言うようになっていたほどだ。

 日本での発電は、1940年代までは水力一本だった。
 水が豊かで山間部が多いのでダムが作りやすかったからでもあるが、水力発電の発電量で十分だったからだ。戦中に燃料資源の発電が行われるようになったが、それでも1950年代まで水力が中心だった。
 石油による火力発電が大きく拡大したのは1960年代だ。石炭も電力以外のエネルギー源として使われることが多かったので、石炭火力発電が盛んになるのは極めて安価な海外産石炭が大量供給されるようになってからだ。
 一方で、日本での燃料資源を使わない発電は、水力以外だと地熱発電が盛んだった。日本の地熱資源は国土の狭さに対して世界第三位なので、21世紀初頭でも約1000万kWhと世界的に見ても非常に大きな発電規模を有している。国内での発電量としては、水力よりも多いぐらいだった。
 地熱などで発生する温泉(温水)については観光業との共存も年々進められ、発電に使われた後の湯を再利用、加温してするなどで、発電所と温泉街が共存する事も増えていった。場所によっては、発電所に隣接して公衆浴場のような温泉を開いている事も少なくない。

 なお、2011年の日本の総発電量は、約1兆5000億kWh程度。
 人口1人当たりで見ると先進国としてはやや少ない方だが、総人口が多いのでアメリカに次ぐほどの発電量になる。
 クリーンエネルギーについては水力、地熱は古くから力を入れてきたが、発展と所得の向上をがあったため、21世紀初頭だと合わせて全体の15%程度の割合しか占めていなかった。そしてそれに加えて、年を増すごとに増えていたクリーンエネルギーが風力発電だった。
 日本は平地が少ないので陸上での風力発電には限界があるので、主力は洋上設置となった。同じ海上での発電所だと波力発電や潮力発電があるが、こちらの成果は現在でも今ひとつだった。
 一方で風力発電は、国が大きく支援する形が1973年のオイルショック以後に作られた事もあって、世界に先駆けて産業としても発展することができた。おかげで、全発電量の10%以上を占めるまでに発展していた。しかも造船業を一部流用した形での風力発電輸出国として、21世紀に入ると脚光を浴びるようにもなっていた。
 洋上で回転する巨大な風車の列は、日本各地での日常的光景とすら言えた。
 そして地熱発電、風力発電で勢いづいた「クリーンエネルギー発電」事業として、次なるエネルギーとして太陽光発電が日本では早くから注目されていた。そして水力、地熱、風力と産業、企業が育ちすぎた影響で、電力行政全体も原子力利用の利権を大きく上回るようになり、日本での原子力エネルギー開発を停滞させる大きな要因にもなっている。
 産業として見ると、原子力の方がはるかに劣勢なのだ。しかも廃棄物問題、安全性の問題、安全保障上の問題などが山積しているとなれば、いかに効率の良い発電ができると言われても拡大できないでいた。
 太陽光発電の発展と普及は技術の進歩もあって21世紀に入ってから急速に進んでいたが、現時点においても日本が世界をリードしている。慎重に優遇制度などを行っている影響もあり、個人の家庭用は1000万kWhに達する。
 2020年現在で、日本国内の総発電量に対する太陽熱発電の割合は8%近くで推移しており、10%を越えるのも時間の問題と言われている。世界的にも太陽光発電が注目されたおかげで、世界的な販路の拡大にも成功しており、太陽光発電大国となることもできた。
 しかし日本での太陽光発電は、平地の少なさのため自然災害など危険を伴う山林の伐採が付き物だったりしているので、大規模な発電施設の設置が難しい。
 一方では、風力などがそうであるように水上、より正確には湖面やダム湖に敷き詰める方式が世界的にも進んでいる。しかしこちらも問題克服を含めたリスクは付きまとっているのが現状だ。

 そして全てのクリーンエネルギーを合わせると日本全体の約35%に達し、原子力発電の二倍以上もあった。それが大地震のあった2011年以後は、原発の安全性向上が確認されるまでという期限付きながらさらに原発の5%削減分を代替する事となり、その代替手段としてクリーンエネルギーは急速な拡大を示すことになる。
 2020年では、発電総量の40%以上にまで拡大している。おかげで天然ガス、石炭の輸入量も減少した。
 また、産業としてさらに弾みがついたため、風力、太陽熱はさらなる拡大を示すことになる。
 そしてこの上に、原発が加わるので火力発電の割合は50%を切っている。
 このため21世紀に入ると、日本はクリーンエネルギー大国と呼ばれるほどとなるが、それでも膨大な量が必要となる電力エネルギーの半分以上は、輸入された燃料資源を使用としていた。
 なお、クリーンエネルギーは、火力や原子力に比べて発電コストが高くなりがちだ。日本の場合は、原子力は安全基準の高さから発電コストはより高い傾向にあるが、クリーンエネルギーの発電コストが安いわけではない。
 そして電力料金が他国より高くなりがちな事は、加工貿易立国としての不利な点になってもいるのも事実だ。
 また一方では、クリーンエネルギーの普及によりエネルギー自給率が向上できるため、使用エネルギーの電化が精力的に進められてもいる。日本政府は、将来的には電力の70%以上を、クリーンエネルギーと原発で賄う計画だった。
 従来からの鉄道のさらなる普及と効率化はもちろんだが、家庭用エネルギーも石油加工物やガスから電気への転換が、特に21世紀に入って以後急速に進んでいる。
 また他の先進国よりやや遅れて発達した自動車産業においても、巻き返しを図るべく行われている次世代動力として電気自動車を政府が強力に推しており、国内インフラの整備が進められている。
 そしてクリーンエネルギー、電化の推進によって、日本は産業の先進国化が他の列強より遅れたにも関わらず環境対策が進んでおり、地球温暖化に関する会議などでは優等生として知られている。
 国産の地下燃料資源に乏しい事が生み出した事象になるので、皮肉を以て語られることもある。だがそれも、温室効果ガス排出大国であるアメリカ、インドと言う本来なら最も友好的な国との関係を悪化する要因になっているためでもある。

 一方でクリーンエネルギー以外の電力用燃料資源としては、二酸化炭素(CO2)排出量の少ない天然ガス(液化天然ガス)と安価な石炭が主力だった。
 1960年代からオイルショックまで盛んだった石油発電は、全体の5%程度しか行われなくなっていた。輸入される石油の多くは、発電以外の用途で使われていた。
 ちなみに、日本が保有する国内の地下燃料資源は、非常に限られている。
 1960年代までは石炭が大いに活用されたが、1960年代の世界的な原油安と安価な海外石炭の輸入拡大により、国内炭田は採算割れして利用が廃れた。
 それでも1980年代半ばまではそれなりに採掘が行われたが、1975年の大改革以後の経済発展により、1990年代には採掘技術維持のための幾つかの炭坑を除いて全て廃坑となっている。
 そして一方では、石炭と同時期に廃れた山林から得られていた薪や落ち葉、木炭などは、自然再生エネルギーの一部と見られる事もあって、近年利用が復活しつつあるのは皮肉と言えるだろう。
 これは日本各地にいる「山地主」の企業化に伴う山林の再生、林業の促進という側面もあって、無視できない勢力となって年を経るごとに注目度も高まっている。

 油田は日本海側に小規模なものしかなかった。
 新規の国内油田で有名なのは、オイルショック以後開発の始まった尖閣海底油田になる。
 とは言え、尖閣油田の究極埋蔵量は約33億バレル。1980年代から毎年1000万トン程度しか採掘されていないが、それでも50年ほどで掘り尽くしてしまう量でしかない。実際、2030年代半ばに枯渇予測がされている。しかも海底油田なので採掘コストも割高だった。
 天然ガスも日本各所で若干量が採掘されているが、消費量全体から見ればごく僅かでしかない。
 東シナ海には海底ガス田の存在も確認されているが、埋蔵量、採掘コストなどの面から商業利用は諦められており、試験的な試掘以外は行われていない。
 天然ガスの輸入先は、近在から順番に北樺太(シベリア共和国)、ボルネオ島(ブルネイ、サラワク=ボルネオ)、オーストラリア、ペルシャ湾岸諸国になる。
 このうち半分以上を、今でも日本の影響が非常に強いボルネオ島から輸入している。しかし東日本大震災以後は、オーストラリアからの輸入が大きく伸びてもいる。ニューギニアからの輸入も伸びつつある。ロシアのシベリアからの輸入の話しも進んでいる。
 天然ガスの消費量は2020年頃で1億トン程度で、主に発電用燃料と都市ガスに消費されている。つまりクリーンエネルギー開発と電化が進めば進むほど、天然ガスの輸入は減ることを意味している。
 なお、最も消費量が多いとされる石油の輸入量は、先進国化した2010年代だと3億〜3億5000万トン程度にもなるので、尖閣油田はないよりマシという程度でしかなかった。自前の石油資源の乏しさは、日本が覇権国家になれない最大の理由の一つとされるほどだ。かつて領有していたボルネオ油田を保有し続けたとしても、あまり状況に変化は無かった。
 もっとも、ボルネオ島は天然ガス供給地として有望なので、結果的に天然ガス政策では少しではあるが幸運だったとも言えるだろう。
 ボルネオ島各国が極東連合に加盟しているのも、日本(+満州)の資源政策の面が強かった。
 
 以上のように、2011年以後の日本は、エネルギー自給率向上という国家戦略も重なって、尚一層のクリーンエネルギー大国としての向きを強めていた。しかもそれは日本の先進国化に伴う開発能力によって着実な成果を挙げており、世界的に見ても日本の新たな特徴と見られるようになりつつあった。


●フェイズ150「グローバル化と蜜月終焉の道」