●フェイズ150「グローバル化と蜜月終焉の道」

 日本とアメリカの蜜月関係が終焉した、もしくは完全に月が欠けたと言われるのは、グローバル時代の競争激化の為だったと言われる事がある。
 そう祝えるだけに、競争も激しかった。そしてまた、電子産業もしくは電脳産業の興亡は激しかった。
 最初に頭角を現したのはアメリカの企業で、1960年代まではIBM、GEなどの独断場だった。当時の日本、イギリスの企業も懸命に努力はしていたが、1970年代までアメリカ企業の絶対的とすら言える優位は動かなかった。
 そしてイギリスは、気が付いたら競争から脱落していた。日本は1975年の大改革で企業は元気になったが、アメリカの巨大な企業の前には苦戦を強いられてた。
 そして間隙を縫うように、満州の企業が1980年代に急速に頭角を現す。
 最初にアメリカの牙城を突き崩したと言われるのは、日本人移民が起こしたソニー(SONY)だった。そしてデジタル化の時代に際しても、ソニーは満州の尖兵だった。

 デジタル時代の前史として、ソニー(SONY)が主にアメリカ、日本(+英国)による世界の真空管市場を押しのけて、トランジスタ製品で世界を席巻した。一見地味な始まりだが、ソニーは真空管の既得権益の小さい満州でしか発展出来なかった企業だった。創業者達が日本に拘っていたら、真空管製造の既得権益によって進むべき道を阻まれていた事だろう。
 そしてその後も映像機器、音響機器を中心に革新的な家電製品を生みだし続け、世界的な家電メーカーに成長。ついにはデジタル機器産業にも事業を拡大した。
 そしてその頃に、アメリカからスティーブ・ジョブズが満州にやって来て「NeXT(ネクスト)」を立ち上げ、ソニーと二人三脚で駆け上がりOSの「i(アイ)-os」とPCの「VAIO」によって、世界中の家庭用コンピュータ市場をあっと言う間に席巻する。
 1980年代の事だった。
 しかも日本でも「TRON」というオープンソース型のOSが登場し、日本、満州とその市場となっている国では、アメリカ企業の入り込む余地がなかった。
 これに焦ったアメリカが、貿易問題や政治問題にまでして巻き返しを図ろうとして満州、日本が強く反発。「OS戦争」もしくは「パソコン戦争」と呼ばれる競争が勃発する。
 この時点で日米の蜜月は欠けたとする識者も少なくない。

 「OS戦争」でのアメリカ側の尖兵は、Microsoft社の「Windows」。対する日満は「i-os」であり、共にアメリカ人のビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズの対決とも言えた。
 初期の戦況は、個人用に限れば「i-os」が一強と言えるほど圧倒的に優位だった。何より先を進んでいたし、「NeXT」はアメリカの「Apple(アップル)」も傘下に入れていたので、アメリカ市場にすぐにも食い込んでいった。
 対してMicrosoftの「DOS-V」もしくは「Windows」を使おうという日本、満州のユーザーは、アメリカと関係の深い企業に限られていた。しかも企業向けでも、アメリカの不利は覆せそうに無かった。
 これは日満の政府が政策としたのではなく、市場原理としてアメリカ製品を使おうとしなかったに過ぎない。
 だがアメリカは、満州、日本に対して強引な貿易交渉を開始。他の貿易品目を盾にして、強引に受け入れさせようとする。しかも交渉では、貿易、商業以外の純粋な外交や国防、さらには先端軍事産業の供与などにまで話しを広げていったので、尚更日本、満州の反発は強まった。
 しかしアメリカも、日本、満州が核保有国で日本はアメリカ以外で原子力空母など多種多様な兵器を保有し、アジア世界の自由主義陣営の防衛を担っている以上、軍事面で強く言いすぎることはできなかった。時代はまだ冷戦中なので、ソ連と直に向き合っている満州に対して強く言うことも難しかった。しかも満州には米軍が駐留していないとあっては、アメリカが強く言う事自体が難しかった。

 このためアメリカは、日本満州に対して決定打に欠けていた。
 日本、満州もアメリカの横暴に腹を立てつつも、ねばり強く交渉を重ねた。
 そして何にせよアメリカ製OSを、日本、満州の市場が求めているわけではないので売れる道理が無かった。これはアメリカ車が日本、満州で売れなくなったことと似ている。時代の進展に伴い、アメリカのスタンダードが世界のスタンダードではなくなっていたのだ。
 しかも、アメリカが言い立てた頃には、既に満州、日本では教育現場などに「i-os」の普及を進めたりしていたので、尚更アメリカの強引な言い分を受け入れるワケにもいかなかった。

 だがアメリカの態度はいっそう硬化し、日本、満州も同じように態度を強めた。そしてアメリカは、日本、満州の閉鎖的市場を強く非難し、貿易の不公正を言い立てて、「スーパー301条」という貿易に関する対外制裁をちらつかせる。
 これは到底同盟国に対して行う事では無かった。既にソ連の退勢が明らかなのでできた事だが、アメリカの強欲さに流石の日本、満州も呆れてしまう。
 そこで日本と満州は、完全な自由競争である事を絶対条件に、互いのOS市場を開放することを提案する。この場合の「互い」とはアメリカも同じ条件で市場を解放することが条件だった。
 そして自由貿易であるなら、アメリカが不用意に拒否すれば最低でも二重基準になってしまう条件でもあった。
 これをアメリカは、日本満州の市場をこじ開けるために受け入れざるを得なかった。そして取りあえずではあるが日本、満州の市場に参入していったが、アメリカにとって結果は思わしくなかった。
 「DOS-V」は「i-os」とはあまり競合・対立しなかったが、「TRON」とは最初から正面衝突した。そして91年に参入したところで、1985年から日本、満州だけでなくアジア地域を中心に世界中に広まっていたオープンソース型汎用OSに、牙城の日本、満州で太刀打ちできるわけが無かった。逆に、個人用PCとしてではあったが、「i-os」を搭載したマシンがアメリカで愛されるようになっていた。

 しかもそこに、電子ゲームという思わぬ伏兵がアメリカに追い打ちをかける。
 その存在をアメリカが明確に意識したのは、「湾岸戦争」での携帯型ゲーム機だった。兵士達の娯楽物の一つとして、世界中で買い漁られた携帯ゲーム機はアメリカ製ではなく日本製だった。当時は日本製しかなかったからだ。
 もっともその頃はインターネットもないし、コンピュータ機器とは競合する事は無かったが、1994年にソニーが高性能の家庭用ゲーム機を出す頃になると状況が変化し始める。
 そしてその頃にOSは次なる競争の時代、というより本格的な競争時代を迎えるのだが、そこでもアメリカは出遅れた。
 「i-os」を搭載したソニー(SONY)の基幹PC「VAIO」もしくはApple(アップル)の「Macintosh」は、マイクロソフト社が「Windows95」を出す頃にはすでに世界の個人用パソコン市場を席巻していた。
 しかも「TRON」は、オープンソースなのを利用して、家庭用パソコン以外で広く使われるようになっていた。その上、早くも急速に小型軽量化されていった携帯電話に使われるようになっていた。日本と満州では携帯端末が活発に開発され、世界の市場を覆い尽くしていった。
 それでもアメリカが発明したインターネット技術、IBMなどの企業力によって「Windows」の普及は一定程度進んだが、少なくともアジア圏の市場を奪うことは出来なかった。
 逆にアメリカ市場の3分の1程度は、日本、満州製に染められてしまっていたほどだ。旧東側陣営にも、オープンソースタイプつまりパテント料無料という点もあり「TRON」が先に広まった。欧州など他の地域でも、アメリカ優位企業優位とは言えなかった。
 結果として、世界史上の60%近くをアメリカのマスコミが言うところの「日本・満州枢軸」のパソコンが占めたことになった。加えて、満州企業が大きく躍進しており、OS戦争の勝者は満州という事に落ち着いた。
 アメリカにはシリコンバレーがあったが、満州にはシリコンペネンソラ(珪素半島)があった。
 しかも電子産業全体としての争いは、それで終わりではなかった。
 先ほどの伏兵が、世界を席巻していったからだ。
 しかも世界のインターネット・インフラの整備に伴い、日本と満州のゲーム機器は、圧倒的なシェアを誇るようになる。さらに「NeXT(ネクスト)」と「SONY(ソニー)」は、電子空間上での娯楽を征服するべく精力的に事業を拡大した。
 21世紀を迎える頃には当面の勝敗は決し、映像、音楽コンテンツ産業はアメリカの手からこぼれ落ちていた。アメリカの市場自体は巨大だったが、それは消費する側でしかなくなっていた。
 そしてそうした状況で、サービスとコンテンツを消費するユーザーの情報を収集したネット企業が大きく隆盛を始める。

 巨大インターネット企業は、サービスとコンテンツなどを提供する事で集めた個人情報を、ビックデータとして活用することで巨大な収益を上げる企業だが、その隆盛は21世紀に入ってから始まる。
 巨大ネット企業の種類は、大きく検索エンジンを中核とした企業、ネット通販企業、最後にスマートフォンが普及して一気に普及していったSNS(ソーシャルネットサービス)を運営する企業が主なところとなる。
 その中での例外が、「ネクスト(NeXT)」もしくは「Apple(アップル)」になる。
 NeXTは、ハードを供給する会社として世界的に知られていたが、配信会社としても発展。さらに同種の事業を興していたSONYと協力することで巨大な存在となった。
 そしてその隆盛を支えた最大のハードが、世界で最初にNeXTが送り出したスマートフォンだった。それまでの携帯電話と一線を画すハードの登場と、それまでの音楽配信、映像配信などと結びつけることで、一気に巨大企業へとのし上がっていった。
 もっともNeXTは、競合者が実質いないという点で特殊だが、他はそうはいかなかった。
 特に日(+満)と米の同種の企業が激しく競合した。
 主に、検索エンジンのGoogle(グーグル)とセッテン(SET-TEN)。ネット通販のAmazonn(アマゾン)とジャムチ(Jamchi)。SNSのFacebook(フェイスブック)やTwitter(ツイッター)、Line(ライン)など。他にもYouTubeを中心とする画像、動画配信企業も、年々存在感を増していった。
 検索エンジンや通販は他にも色々な企業があったが、他は抜きん出る程ではなかった。と言うより、抜きん出たのが代表とされる巨大企業だった。
 そしてNeXTとFacebookがそれぞれの分野で抜きん出ていたが、検索エンジンやネット通販は完全に世界を二分する事になった。
 特に検索エンジンでは、アルファベット圏と非アルファベット圏で勢力が分かれた。もしくは完全に二重になっていた。
 そしてそれはそのまま、アメリカと日本・満州を中心とする極東連合の対立構造とでも呼ぶべき構図にもなっていた。
 しかも満州を中心とする企業は、それまでの地縁と経済的結びつきからアジア圏内で広がり、最も巨大な人口を抱える地域で勢力を伸ばしていった為、アメリカ発祥の企業に対して優位にあった。
 そしてインターネット空間での競争に代表されるように、アメリカと日本・満州の競争もしくは競合は冷戦構造が無くなって以後、強まり続けていた。
 OS戦争に始まる2010年代までの競争と平行するように競争は激化し、世界はアメリカと日本の蜜月関係の変化を伝えた。
 そうした中で新たに台頭してきたと言われるのが、インド連邦だった。

 インドは1945年の独立以後、独自路線自力での発展を重視してといたため、技術発展、経済発展は遅れがちだった。事実、1980年代には東南アジアの幾つかの国にすら経済的に先を越されてしまった。
 隣国イランが新興国として目覚ましい発展を遂げても、インドの独自路線と緩やかな発展は変わらなかった。
 それでも日本、満州という欧米諸国とは一線を画す有色人種の国家との関係を最も重視し、何かを受け入れる場合、購入する場合は、日本もしくは満州からと言うのが定番だった。特にインドは、アメリカとの関係を希薄なまま維持するのが経済、外交の基本方針だった。
 それが変化を見せるようになるのは、冷戦構造の崩壊以後だった。
 これはソ連の崩壊によりアメリカが唯一の超大国となった影響と言われることがあるが、事実は大きく異なっている。
 経済と情報のグローバル化が原因だ。特に経済のグローバル化が、インドが敢えて閉鎖的としていた状況を覆させていった。

 経済のグローバル化は、アメリカを中心として発生した。
 所得の向上に伴う製品単価の上昇と、安定した同盟関係、自由経済関係が合わさり、製品単価を抑えるべく他国から入手するようになったからだ。
 1950年代はアメリカの時代と言われ、世界に対して巨大すぎる工業力がありとあらゆる優れた製品を生みだした。
 だが、多くの製品を生みだした工場、機械は、古くは1910年代後半の第一次世界大戦の頃のものだった。
 このためアメリカではそうした機械の更新を行う必要があったが、それには莫大な資金が必要になる。また高い一人当たり所得は、あらゆる製品の生産単価を引き上げた。そしてそのままでは、自国製の高い製品を買い続けなければならないが、それは経済の鈍化を意味した。
 このためアメリカは、自らを金融を中心とした一部収益率の高い産業に集約した上で、工場での単純生産を中心とする製品を海外に求めるようになる。
 最初に応えたのは西欧諸国だったが、すぐにも満州が台頭して一気に先進国化していった。その次に出てきたのが日本で、日本も21世紀を迎える前に完全な先進国化を果たすまでに発展する。
 だが発展してしまうと、アメリカと同じ状況がそれぞれの国にも発生する。このため満州、日本は生産拠点を、安価で質の高い労働力を求めて海外進出を強めた。その最初の進出先の多くは東南アジア地域とイランで、その次に南支那(支那連邦)とそしてインドとなった。
 南支那は、近隣諸国との政治的不安定な状況が慢性的に続いているため、満州、日本の進出は限られていた。特に満州は、支那中央地域との関係が悪いため、支那地域を素通りして東南アジア、そしてインドを目指した。イランは日本の勢力圏だからだ。

 グローバル化による海外生産は、21世紀に入ると輸出する現地での生産も大きな比率を占めるようになったが、労働コストが低い地域で生産するという形が崩れることはなかった。そして主に、世界随一の消費国家であるアメリカは、貿易赤字を増やし続けた。
 満州、日本、インドがアメリカから最も貿易黒字の恩恵を受けている国になり、アメリカが切れる巨大すぎる外交カードとなっていた。そして多くの国も理解していたので、カードを切らせないような政策を心がけた。
 若干風向きが変化したのは、日本、満州が中心となって「極東連合(FEU)」を結成してからだった。
 これ以後日本と満州は、外需の拡大よりも域内での内需の充実に傾倒するようになった。またアメリカ同様に生産拠点を海外に求める向きを強め、自らの国内での生産コストの上昇からアメリカへの輸出を鈍化させた。
 この結果、日本、満州は貿易面(輸出面)でのアメリカへの依存は低下し、経済面でいっそう自立性を強めるようになる。それでも世界随一の消費国家アメリカは日本、満州に対して貿易赤字を続けたが、2010年代になるとインドが最大の貿易赤字国となっていた。
 インドの極めて安価な労働力によって生み出された商品が、21世紀に入る頃から湯水のようにアメリカに注がれ続けた結果だった。
 しかもインドは16億という巨大すぎる人口を抱えているため、簡単には一人当たり所得は拡大せず、長期間にわたり安価な労働力を用い続けることができた。
 しかもインドは公用語の一つが英語で、数学に長けていることからくるIT産業の急速な発展によって、21世紀に入ると一気に経済の発展が進んだ。
(※しかもアメリカの反対側にあるため、労働時間の分業、棲み分けもできた。)
 2005年頃の予測では、2025年には日本を抜いて世界第二位のGDPに達すると予測されていた。その成長は「リーマン=ショック」によって一時的な停滞を余儀なくされたが、2030年頃には世界第二位のGDPになるという軌道修正のみだった。
 だが、インドの経済大国化の進展は、インド自身による強い覇権拡大には結びつかなかった。インドの覇権拡大への動きは皆無ではないが、インドが求めるのは近隣諸国を含めた環インド圏という地域での覇権の拡大、国際的地位の向上だった。
 しかしインドの隆盛は、地域ごとの結びつきを強めるという世界的な動きを加速させることになる。何しろインド単独で一つの地域であり、そうした多様性もインド隆盛の鍵だと考えられたからだ。
 そして主にヨーロッパ、インド洋、極東地域で、国家連合や自由貿易連合の動きが進んだ。自由貿易に関しては、環太平洋地域、アジア全域といったより広域での動きもあったが、殆どの場合アメリカは自らの国力と経済力、そして消費国家であるが故に深く関わることが出来なかった。
 3つの地域共に域内での発展と拡大を主眼としているので、アメリカはむしろ排除される側でしかなかった。

 一方、アメリカが世界唯一の超大国なのは変わりなく、特に軍事力において他の追随を許さないという点で大きな変化はなかった。しかしその軍事力面でも、アメリカの影響力は緩やかに低下していた。
 ヨーロッパは、冷戦崩壊によって全体としては安定へと向かった。
 2010年代ぐらいからはロシアが新たに軍事面で脅威となりつつあったが、かつてのソ連のようなほど酷い事態は考えられなかった。ある程度維持されているヨーロッパ各国の軍事力も、ヨーロッパを戦場とする事はあまり考えられていないほどだ。3つの勢力による三竦みと言われることはあったが、だからこそEUはどこかの国が突出する事もなく比較的安定していた。
 インド洋地域は、隣接する中東・西アジアが常に不安定だが、そこはインド洋地域とは言えないし、中東問題は石油・天然ガス資源の問題もあって世界の問題だった。
 極東地域は、支那共和国が多少の不安定要因ではあったが、1997年の戦争で一定程度安定化され、それは20年近く維持されていた。それでも支那共和国の政治は不安定な状態が続いてはいたが、独裁者、独裁政権ではないので、世界も極端に強くは当たらず、近隣情勢に悪影響を与えない限りは寛容な姿勢で臨んでいた。
 しかも支那中央地域は、支那連邦(南支那)主導による自由貿易などの動きも緩やかではあるが進んでおり、ゆっくりではあるが安定に向かっていた。少なくともそう見られていた。
 とはいえ、向こう四半世紀は軍事的緊張も続くだろうと予測されてもいた。支那地域の中央が統合なり連合に向かうのも、それ以後の事だろうと言われている。
 そして支那中央が統合しない事は、周辺の極東地域の国々にとっては安心要素だった。

 世界規模で見ると、一部過激なイスラム原理主義者によるテロはあったが、世界の目と力をこの厄介な問題に集中することが出来たので、致命的な問題は回避されていると見られていた。
 それでも、2011年からのアラブの春で、リビアのカダフィ政権に続いて遂にイラクのフセイン政権が崩壊し、イラク全土が大きな混乱状態に陥った。だが、世界と言うよりアメリカ、EU、FEUは、それに軍事的に対処することができた。極端な原理主義勢力の出現もあったが、問題が深刻化する前に辛うじてではあるが対処できたとされている。
 他の地域で大きな問題があれば事態もまた違っていただろうが、取りあえず世界はイスラム世界に力を入れることが出来たのが幸いしたのだというのが現時点での結論だ。
 その代わりシリアなど独裁政権の一部が生き残ったが、それは半ば必要悪として世界から許容されていた。

 そうして何とか安定が保たれていると言われる世界状態だからこそ、それぞれの地域が統合と域内発展に力を入れられたとも言える。もし世界的に混乱が広がっていれば、地域統合はすぐにも綻びを見せていたという研究も少なくない。
 そして世界的に最も成功しているとされる極東での域内発展の進展は、必然的に日本とアメリカが一世紀に渡って続けてきた蜜月関係に、一定程度の変化を及ぼさざるを得なかったと言えるかもしれない。
 特に日本とアメリカの関係だけで言ってしまえば、満州と言う国家が存在し、そして発展しなければ、日本はこれほどアメリカとの距離を置くことは無かった、もしくは出来なかったかもしれないと言えるだろう。
 少なくとも日本を中心に地域国家連合を形成することはできず、アメリカと対等な国力均衡を作り上げることも不可能だったのは間違いない。

 だが一方で、日本とアメリカの蜜月関係を作り出した最大の原因は、満州の経済的利権を共有し、そして満州を他の地域から切り離して自分たちの好き勝手にできる場所にした事にある。
 つまり日本とアメリカの関係を蜜月としたのが満州であるなら、その蜜月関係を終焉させたのも同じく満州だったと言えるだろう。

 そして満月とはいつかは欠けていくものである以上、両者の蜜月関係が終焉するのもまた歴史の必然だったと言えるのかもしれない。
 もちろん、蜜月関係が終わったもしくは変化したと言っても、友好国、同盟国としての関係が変わるわけではないが、約1世紀に渡って維持されてきた関係が今後変化していくのは避けられないだろう。
 むしろ一世紀以上の間安定した関係が続いたことこそが、近代史、現代史の上での一つの奇跡だったと言えるのではないだろうか。




●あとがきのようなもの