●フェイズ16「第二次世界大戦(10)」

 1941年夏頃から、カリブ海のほぼ真ん中に位置するジャマイカ島が激戦地の一つとなっていた。現在のジャマイカ島は、陸上競技選手を多く排出したり、レゲエ音楽で有名で陽気な国と思われるが、砂糖などの単品作物栽培に絡んだ黒人奴隷の悲哀の歴史が多くを占めている。

 当時ジャマイカ島は、イギリス領だった。独立に向けた運動が盛んになっていたが、イギリス本国はこれを利用して戦争協力すれば独立を約束すると言って枢軸陣営に属させていた。
 カリブ地域では3番目に大きな島で、アルミニウムの原料となるボーキサイトを豊富に産出するため戦略的にも重要な島だった。またカリブのほぼ真ん中にあるため、アメリカの海上交通を妨害するもってこいの位置でもあった。アメリカ本土を爆撃できる拠点としても使えた。
 しかし逆に、アメリカの勢力圏(元保護国)のキューバからは最短で160キロメートル、アメリカ本土のマイアミまでも1000キロメートルも離れていなかった。アメリカの目と鼻の先というわけだ。しかもヨーロッパからジャマイカに至る途中には、アメリカ領(自治領)のプエルトリコ島までがあった。このためイギリス本国は、大きく南周りの航路を設定し、アメリカが戦争準備を整えないうちに続々と戦力を送り込んだ。
 主に送り込まれたのは空軍部隊で、レーダー、通信管制施設、高射砲部隊など、航空戦を行うための部隊が中心だった。そうした上で潜水艦などが進出して、アメリカとの戦争が始まってから半年ほどは、カリブ海航路を荒らし回る拠点となった。「ヴィッカーズ・ウェリントン」などの爆撃機も、この島から盛んに出撃して艦船を攻撃した。数えるほどだが、マイアミなどフロリダ半島すら攻撃した。つまりイギリス軍は、米英戦争以来久しぶりにアメリカ本土を直接攻撃した事になる。こうした攻撃のため、アメリカはジャマイカの事を「20世紀の海賊の島」と呼んでアメリカ市民の敵愾心を煽った。
 しかしアメリカ本土からあまりにも近いため、いずれ奪われる島という意識も最初から持たれていた。この島の役割は、一日でも長くアメリカ軍を足止めする事だった。一方では無理な地上戦をする気がないので、地上部隊は警備用の最低限で、最初から撤退のための準備も行われていた。

 なお、イギリス空軍機によるマイアミなどフロリダ半島に対する嫌がらせを主な目的とした小規模な爆撃は、アメリカ市民に絶大な心理的影響を与えた。
 旧宗主国が百数十年ぶり(ナポレオン時代の米英戦争以来)にアメリカ本土を攻撃した事になるが、イギリス本国云々よりも「アメリカ本土が攻撃された」という事実が極めて大きな衝撃となった。アメリカ市民は、戦争になっても本土が攻撃を受けることはないと安易に考えていた。枢軸軍の潜水艦が沖合で跳梁しても、海でのことだという割り切りがあった。しかしマイアミ爆撃は例外だった。イギリス軍は軍事施設を目標としたが、誤爆や投棄などで市街地、民間にも被害が出た。しかも嫌がらせ目的で、燃料を追加で積み込み搭載爆弾も少なくした状態で、ミシシッピ川河口部のニューオーリンズなどにも爆撃を行った。しかもこの時期、大胆にもアメリカ東部沿岸に到達したフランス海軍が有する当時世界最大の潜水艦《シェルクーフ(スルクフ)》が、ノーフォーク軍港を自慢の8インチ砲で砲撃していた。ドイツやイギリスの潜水艦も同様に、艦砲射撃は何度か実施した。
 枢軸側としてはアメリカ国内の混乱を誘い、防備に手間を取らせる「嫌がらせ」以上の作戦ではなかった。だがアメリカ市民は、枢軸側が考えた以上の反応を示した。東部海岸からメキシコ湾岸に至るまでのほとんどの地域が、政府、軍に対して自分たちの場所を防衛するように極めて強く要請する事になる。関係ない地域までが、同様のことを求めた。
 そして政府も声の大きさから無視できず、この時期の戦争努力、生産努力の多くを「アメリカ本土防衛」に投じざるを得なくなった。この影響は兵器の生産や軍の派兵にも大きく響き、アメリカ軍の反攻を最低半年遅らせたと言われている。戦争中盤以後ほとんど使い道がなくなった沿岸砲台、高射砲陣地、過剰なほどの防空壕など、今日に残る施設もアメリカ各地に無数に残されていたりもする。アメリカ国内の土建業者の一部の懐が温かくなっただけだった。
 そして多くの研究家は、この時欧州枢軸陣営はジャマイカ島を利用して全力を挙げてパナマ運河を攻撃し、一定期間でもいいので使用不能にしておくべきだったと論じている。
 だが、アメリカ政府、軍もパナマ運河の重要性とカリブの危険性は十分認識しており、開戦すぐにもアメリカ陸軍の航空隊と守備隊が展開していた。小規模な空襲ではほとんど意味はなく、運河はよく言われるほど簡単には破壊できない。だからこそ大規模に攻撃して運河を破壊するべきだという意見が出てくるが、そもそも当時の欧州枢軸陣営というよりイギリス本国に、ジャマイカに大量の爆撃機を送り込む能力と部隊が存在していなかった。そこでチャイナへの「無益な派兵」をしなければ良かったという論がさらに出てくるが、これも机上の空論でしかない。チャイナに兵力を送らなければ、アジア戦線は早期に東南アジアやインドでの戦いになり、準備の整わないまま呆気なく枢軸側が敗北していた可能性も十分にあった。
 つまり枢軸陣営がパナマ運河を破壊できなかったのは、1940年の夏に突然のようにアメリカとの戦争が始まったからだと言えるだろう。

 カリブでの最初の航空戦は、キューバ南部のグアンタナモ(アメリカの租借地)に拠点を構えたアメリカ陸軍航空隊と、ジャマイカ各地に陣取るイギリス本国空軍の間で行われた。そして、イギリス側は攻撃では通商破壊戦を目的としているので、基本的に島を守る事を目的とした航空戦を行った。攻めるのは当然アメリカ側で、アメリカ陸軍航空隊は「カーチスP-40 トマホーク」戦闘機、「ベルP-39 エアコブラ」戦闘機、「ノースアメリカンB-25 ミッチェル」、「ダグラスA-20 ハボック」爆撃機を主力とした。4発重爆撃機の「ボーイングB-17 フライングフォートレス」はアメリカ本土で生産と部隊編成が急ピッチで進められたが、戦いの最初の方は投入できる状態ではなかった。
 対するイギリス本国空軍は、「ホーカー・ハリケーン」、「スーパーマリン・スピットファイア」を投入し、各種爆撃機は敵迎撃機の多いキューバに対しては、夜間爆撃か嫌がらせ程度の昼間爆撃しか行わなかった。「ヴィッカーズ・ウェリントン」などを用いれば、フロリダ半島のマイアミ程度まで爆撃が可能だったが、島の防衛を優先して島には爆弾をあまり持ち込まず、戦闘の初期以外でアメリカ本土攻撃も行われなかった。また「ウェリントン」の航続距離ならカリブ海のほぼ全域が行動半径に含まれるので、哨戒機としても重宝された。そしてさらにパナマ運河も攻撃可能で、実際何度か運行妨害を目的とした爆撃が実施され、アメリカ陸軍航空隊、高射砲部隊などが慌てて大量に展開するなどの混乱が連合軍の側で見られたりもした。
 ジャマイカ島は、アメリカにとって喉に刺さった魚の小骨どころか、喉元に突きつけられたナイフも同然だった。

 ジャマイカでの空中戦は、基本的にイギリスの防空網をアメリカ軍がいかに食い破るか、という点が焦点となった。そして初期のアメリカ陸軍航空隊は、惨敗記録を更新し続けることになる。「P-40」は扱いやすく安定性、稼働率、整備性が高くいなど使い勝手の良い機体なのだが、これと言って優れた性能は無かった。そして格闘戦となると「スピットファイア」の敵ではなく、「スピットファイア」に対しては最高速度、降下速度など航続距離、行動可能時間以外のほぼ全ての面で劣っていた。皮肉にもイギリス軍が使うマーリンエンジン(捕獲品)を試験的に搭載した改造型で、ようやく互角の戦いが出来る程度の性能だった。
 このため爆撃機を護衛しきれない事が多く、アメリカ陸軍の爆撃機は「スピットファイア」などの餌食となる場面も多く見られた。またイギリス空軍が優れた早期警戒網と航空管制能力を持つため、常に優勢な防空戦を展開した。ただし中型機でも編隊を組んだ爆撃機の弾幕射撃は強力なので、華奢な「スピットファイア」も攻めあぐねることは多々見られた。それでも爆撃機は、戦闘機の餌食だった。
 かくして1941年春から夏にかけてのジャマイカの空はアメリカ軍パイロットの墓場となり、アメリカ軍はやむなく夜間爆撃に戦法を変更したほどだった。この当時、アメリカ軍の物量はまだ発揮できるまでに生産体制が構築されていなかった。加えて、戦闘機戦でのあまりの苦戦のため、戦闘機開発に多くの努力が傾注される事になる。ここで重要なのはエンジン開発で、日本軍が中華地域で手に入れて複製中だったイギリスのマーリンエンジンがアメリカにもたらされ、パッカード社の手によって日本より早くそして完璧に複製、そして量産ライン構築へと続いていく事になる。(※パテント料は英連邦自由政府側の会社に支払われている。)
 また、アメリカ軍によるジャマイカ島爆撃がある程度形になるのは、10月頃に「B-17(E型またはG型)」が戦線に姿を見せるようになってからだった。重防御の「B-17」は、イギリス軍機が主武装としている7.7mm機銃での撃墜が難しく防御機銃も強力なためイギリス空軍も手を焼いた。このため20mm機関砲装備の「スピットファイア」は、優先してジャマイカ島に配備された。

 また一方で、ジャマイカの戦いで重要だったのが、イギリス軍の島への補給をどうやって阻止するかだった。
 島自体は「スピットファイア」が円卓の騎士のように鉄壁の防空網を作り上げているので、戦闘機の行動圏外で島にやってくる船を襲撃する方がはるかに確実だった。このためアメリカ軍は、プエルトリコ島に航続距離の長い「B-25」爆撃機部隊を進出させて、早くから輸送船攻撃を開始した。しかしプエルトリコ島も、小アンティル諸島に既に展開していたイギリス本国空軍などの空襲を受けていたので、初期の頃は攻撃よりも防戦で手一杯だった。小アンティル諸島には、早い段階でイギリス本国空軍だけでなくフランス本国空軍、オランダ本国空軍(イギリス軍装備使用)までが進出していた。
 しかも初期の襲撃で警戒を強めたイギリス本国海軍は、ジャマイカ補給及びジャマイカからのボーキサイトの運び出しを行う際に、十分な護衛を付けた船団で行うようになる。このため潜水艦による通商破壊戦も十分にはできず、1941年秋までの輸送作戦は80%以上の成功を収めていた。
 当然だが、早期のジャマイカ島攻略の話しも持ち上がったが、制空権を奪えないと上陸船団が大損害を受ける可能性が高いため、何を置いても制空権を奪い取ることが先決だった。

 1941年夏頃のジャマイカ島には300機近い航空機が展開し、その80%以上が戦闘機だった。そして主力は「スピットファイア」で、「P-40」や「P-39」との島上空での戦闘のキルレシオは3対1以上と圧倒的に優勢だった。爆撃機を足すと最大で5対1に迫るので、単純に数字を比較すると補給を絶った状態でも、アメリカ陸軍航空隊はジャマイカを完全に沈黙させるために1000機以上の損害を必要としている事になる。戦闘機の性能差と航空管制の相乗効果が、この大きな戦果をもたらしていた。
 アメリカ軍が消耗を避ける最善の方法は、圧倒的戦力を揃えた短期間の航空撃滅戦だが、戦力の備蓄には時間が必要だった。だが時間を空けると、イギリス空軍も戦力をより充実させるというジレンマがあった。しかもイギリス空軍は、間接的にベネズエラの石油輸送ルートを守る目的を果たすべく、ジャマイカでの戦いに力を入れていた。
 そうした中で考えられたのが、ジャマイカより重要なベネズエラ航路の遮断を狙った大西洋での大規模な通商破壊戦だが、10月に行われた空母を用いた作戦は中途半端なまま一旦作戦を終えていた。そしてアメリカ海軍の潜水艦の戦果が振るわない以上、短期間での通商破壊戦の効果は期待できなかった。
 このためアメリカ軍全体として、正面からのジャマイカ島に対する航空撃滅戦が決定する。このため陸軍航空隊だけでなく海兵隊の航空隊の投入も決まり、攻略作戦時には海軍も空母を束ねた攻略部隊を出すこととに決まった。
 10月から規模を大きくしたジャマイカ島空襲が開始され、イギリス空軍の激しい抵抗もあって激戦が展開された。「B-17」がまとまった数で投入されるようになり、爆撃の効果も徐々に出るようになる。
 そうした中で、一つの作戦が連合軍内で持ち上がる。
 激戦を支えるための船団がイギリス本土を起ったのに合わせて、大西洋ではなくカリブ海でその船団を撃滅して補給を絶ち、連動して一気にジャマイカ島への航空攻勢を強めるというものだった。
 仕掛けるのは、イギリス船団がベネズエラ沿岸からジャマイカ島を目指す最後の行程。戦闘機はドロップタンク付きの「ハリケーン」だけを相手にすればいい場所で、空母で制空権を得た上で水上艦隊を用いて撃滅するのが作戦の骨子だった。
 しかしイギリスも船団には巡洋艦を含む強力な編成をしており、間接支援で枢軸海軍の戦艦を含んだ艦隊が同行することも多かった。春以後に3度の大規模なジャマイカ輸送作戦が行われたが、アメリカ海軍は自らがすぐに準備できる戦力が不十分なため、襲撃計画こそ立てるも実施は出来なかった。
 だが、ビスマルク追撃戦以後、枢軸側の護衛戦力が大きく低下しているので、11月初旬にジャマイカに到達すると予測された船団を撃滅する大きなチャンスだった。

 1941年晩秋に入りつつある頃、欧州枢軸海軍は稼働艦艇が大きく減っていた。初夏の戦闘以後、損傷修理、整備補修、さらには大規模な近代改装に入った大型艦艇が多かったためだ。空母はまだイギリス海軍のものしか使えず、アメリカ大西洋艦隊の動向に合わせた睨み合い状態を維持していた。
 そして海軍での主軸となるイギリス本国海軍は、万が一の事態に備えて自らの主力艦隊(A部隊=本国艦隊)とジブラルタルの艦隊(H部隊)を安易には動かせなかった。その上、東アジアでは10月初旬に東洋艦隊が大きな損害を受けて、インド洋まで後退を余儀なくされていた。イギリス以外だと、フランスが本国に旧式戦列艦(戦艦)5隻を中心とした本国艦隊を持っていたが、基本的に旧式艦と小型艦中心のため大西洋上での船団護衛以外では大西洋を越えていなかった。イタリア海軍は、巡洋艦を中心とするかなりの規模の艦艇を本国に留め置いていたが、アジアでの大損害に真っ青になり、アジアに増援を送り込むか東洋艦隊を撤退させるかの激論中で混乱して何も出来ない状態だった。
 この時点で、南米ギアナのフランス領にある欧州枢軸の拠点(泊地)に駐留する有力な枢軸艦隊は、フランス海軍とドイツ海軍だった。フランス艦隊は5月に受けた傷も癒えた戦列艦《ダンケルク》《ストラスブール》と重巡洋艦を中心とした高速打撃艦隊で、ドイツも装甲艦《リュッツォウ》《アドミラル・シェーア》、重巡洋艦《アドミラル・ヒッパー》を中心とした艦隊を駐留させていた。またイギリスは、《ケント級》重巡洋艦を中心とする艦隊を駐留させていた。これら艦隊は味方制空権下での行動が基本とされていたが、ジャマイカに船団が向かうときに必ず艦隊が一つ支援のため出撃していた。
 これに対してアメリカ海軍は、襲撃の主力は巡洋艦だと考えていた。この時期のアメリカ海軍には、重巡洋艦11隻と重巡に匹敵する《ブルックリン級》大型軽巡洋艦が14隻あった。さらに《オマハ級》軽巡洋艦8隻がこの時も健在だった。さらに連合軍としては、日本の遣米艦隊の重巡洋艦《那智》《足柄》、水雷戦隊を率いる《那珂》《酒匂》があった。またカナダ方面にほぼ限定だが、自由英連邦艦隊にも重巡、軽巡が複数存在している。
 アメリカ海軍のうち、半数程度は本国近辺や北大西洋に向けて配備されており、残りのさらに半数は主にカリブ海での海上護衛にかり出されていた。また重巡、大型軽巡、軽巡各1隻がアジアに派遣されていた。このうち損傷や整備で動けない艦もあった。そして巡洋艦には何でも任務を押しつけられるため、いくらあっても足りない状態だった。このためジャマイカに向かう船団に差し向けられる巡洋艦は、最大でも6隻しかなかった。
 そこで船団護衛を専属任務としていた日本の遣米艦隊に、支援が要請された。日本の重巡《那智》《足柄》は、世界最高と言われる重武装を誇るので世界の海軍では有名な巡洋艦の一つだった。そのうち2隻がカリブにいるのに、護送船団の側で航行しているだけというのは戦力の無駄遣いだ、という事になる。しかも《那智》《足柄》は、5月の戦闘で空母艦載機と共同とはいえ《ダンケルク》《ストラスブール》を退ける武勲をあげていた。

 連合軍の作戦は、幾重にも欺瞞を重ねて一番大きな戦力の艦隊が攻撃できるよう配慮した。さらに「B-17」「B-25」も投入して攻撃を実施し、最低でもジャマイカ入りを阻止する事を目的とした。不振の続く潜水艦も投入し、戦隊単位での群狼戦を仕掛ける予定になっていた。攻撃の主力は巡洋艦6隻を固めたアメリカ・カリブ艦隊が担い、日本の巡洋艦部隊は他のアメリカの駆逐戦隊などと同様に牽制や戦力誘因の役割を担う予定だった。この作戦に空母の投入は予定されず、航空支援は陸軍機のみとなった。空母を縦横に使うには、カリブ海は狭かった。
 対する欧州枢軸側は、カリブへと向かう8隻の高速輸送船には、多数の戦闘機、航空燃料、銃弾、その他の兵站物資を満載してた。これを重巡洋艦《ケント》《サフォーク》に、3隻の軽巡洋艦と7隻の駆逐艦が直接護衛し、連合軍が何かしそうなのでドイツ艦隊がさらに支援する予定になっていた。他には小アンティル諸島とジャマイカ島から爆撃機が哨戒任務に出て、敵艦隊が出現したら攻撃を予定していた。そして船団は、一晩で最後の航路を進みきって、夜明けにジャマイカ島の十分な制空権下に到達するタイミングで航行を予定してた。
 欧州枢軸側は、連合軍のカリブでの活動が活発化する予兆は掴んでいたが、今まで同様の戦力でしのげると予測していた。それに、これ以上の戦力を投入する事は、現時点では難しかった。無理をすれば出せなくもないが、その後のローテーションや各地の配備が崩れてしまうからだ。カリブ海の奥地に戦力を投じることは、欧州枢軸陣営にとって負担が大きくなりつつあったのがこの時期でもあったのだ。

 ジャマイカへの輸送船団をめぐる戦闘は、今まで同様に枢軸側の小アンティル諸島からプエルトリコ島への空爆から開始された。空爆によってアメリカ軍機に船団攻撃をさせないようにする、一種の阻止爆撃だった。そして今までよりも戦力を蓄えていたプエルトリコ島の米陸軍航空隊は、迎撃戦で奮闘して攻撃を不十分なものとさせ、その後も続く空爆に耐えつつ偵察機を飛ばし、船団が攻撃範囲に入ると攻撃隊を送り込んだ。
 一番手の「B-25」16機による攻撃隊だったが、攻撃手段は基本的に水兵爆撃だった。この頃は機銃を多数搭載したガンシップ型はないし、スキップボミング戦法が登場するのはまだずっと先の事だった。
 対するイギリス船団は、護衛の巡洋艦3隻を防空巡洋艦の《ダイドー級》の《ナイアド》《シリアス》《ボナヴェンチャー》で固めていた。このため濃密な弾幕射撃が実施され、攻撃は失敗する。その後も延べ50機で行われた空襲も不調に終わった。潜水艦の襲撃も、熟練した駆逐艦の前にうまくはいかず、逆に1隻撃沈された。
 これで行程の半分程度が消化されていた。枢軸側の小アンティル諸島とジャマイカ島の制空権の間は高速輸送船が出せる15ノットでほぼ丸二日の行程で、今まで残り半分の行程ではキューバからの攻撃だけを警戒すればよかった。
 しかし今回は違っていた。
 パナマ方面から南米大陸寄りに進んでいた連合軍の艦隊が、虎視眈々と進んでいたからだ。しかも陽動としてグアンタナモからは日本艦隊が出撃し、米軍の航空支援を受けつつエスパニョーラ島を大西洋側に沿って迂回し、プエルトリコ島の西側から枢軸船団の北西に出る形で出現していた。
 これに枢軸側は気を取られ、枢軸側の輸送船団は進路をやや北西寄りに取り、護衛支援に出撃していたドイツ艦隊が日本艦隊との間に入る航路を進んだ。日本艦隊の動きは明らかな陽動と考えたので、枢軸船団は空襲を警戒して進んだ。このため日本艦隊への空襲で戦力を割くことを避けて、キューバのアメリカ軍基地の動きに神経を集中させた。また、日本艦隊の出動を察知してからは、ギアナの拠点にいたフランス艦隊も緊急出撃を実施し、各地の偵察機もさらに飛ばされた。欧州枢軸軍は、別の艦隊、特にアメリカ軍の空母が不意に出現する事を警戒しての行動だった。
 そして翌朝からは、予想通りと言うべきか、アメリカ軍の大規模な空襲がジャマイカ島を激しくそして途切れることなく襲った。空襲にはマイアミの「B-17」大隊も参加した。枢軸側は、ジャマイカに入ってくる船団の安全を如何に確保するかを考えて行動したが、支援の戦闘機部隊を出せないほどの激しい空襲のため、辛うじて支援用の爆撃機を待機させ、空襲前に偵察機、哨戒機を飛ばせただけだった。
 そして意外な事に、あからさまな陽動と考えられた日本艦隊は、船団への接近を止めず突進するように進んできた。このため護衛のドイツ艦隊は対応して動かざるを得ず、輸送船団から少し距離を取った。万が一戦闘になった場合、船団を巻き込まないようにするためだった。
 そうして二日目の午後を過ぎて、空襲がないことに安堵した船団だったが、水上警戒レーダーが未確認艦隊を捉えた。しかも捉えたのは二つで、合わせて10隻以上の有力な艦隊だった。
 この艦隊は、南から接近したのが大型軽巡洋艦《ホノルル》《セントルイス》《へレナ》と駆逐艦3隻の艦隊で、南西方向から迫ったのが重巡洋艦《ソルトレークシティ》《ペンサコラ》《シカゴ》と駆逐艦3隻の艦隊だった。しかも接近を続けた日本艦隊も、燃費を無視した急接近によってこの日のうちにドイツ艦隊と接触するまでになっていた。日本艦隊は重巡洋艦《那智》《足柄》と駆逐艦4隻で、駆逐艦はかつて世界を驚かせた重武装を誇る《吹雪型》の《吹雪》《白雪》《初雪》《叢雲》から編成されていた。日本艦隊は、きしくもかつての軍縮を呼び込んだ重武装艦で編成されていた事になる。

 カリブ海での5月以来の約半年ぶりの、そして二度目となる戦いは、前回と違って迫る側と守る側が逆転した形だったが、守る側のドイツ艦艇の砲撃によって火蓋が切られた。
 砲撃したのはドイツの装甲艦2隻で、自慢の28cm砲を用いて日本艦隊をアウトレンジで牽制するためだった。これに対して日本艦隊は、回避を優先したランダムでのジグザグ進路を取って接近を続けるも、接近速度は少し衰えざるを得なかった。船団の方は三方を敵艦隊に囲まれた形のため、阻止のための護衛部隊主力を前方に残して、2隻の駆逐艦に伴われた輸送船は進路を北北東に取って待避を開始した。そしてこれを見たアメリカの二つの艦隊は、それぞれ残された護衛艦隊に突進するか、船団への猛追を開始した。 護衛艦隊を追いかけたのが重巡部隊で、大型軽巡部隊が船団を追いかけた。
 これに対して護衛艦隊は、煙幕を展開しつつ二つの艦隊を横切るように進路を取る。目視での追撃の妨害と、できれば二つの艦隊の両方を自分たちに引きつけるためだった。また敵を発見してすぐにジャマイカに救援要請が出され、常に待機しているウェリントン爆撃機の中隊が、米軍の空襲の合間を縫って急ぎ飛び立った。ウェリントンの航続距離なら十分にジャマイカ島からカリブ海のほぼ全域を行動圏内に収めているので、相手に戦闘機の護衛がなければ十分に活躍が期待できた。距離的にはハリケーン戦闘機の護衛も随伴できたが、防空戦にかり出されたので爆撃機のみの出撃となった。しかし、爆撃機が到着するまでには時間がかかり、それまでに水上戦闘が実施された。
 アメリカの二つの艦隊は、敵との相対距離距離1万8100メートル(2万ヤード)辺りで重巡洋艦部隊が砲撃を開始し、大型軽巡洋艦部隊は牽制の砲撃をしつつも、イギリス艦隊を無視して輸送船へ突進した。これに対してイギリスの護衛艦隊も、艦隊をさらに二分して重巡と軽巡にそれぞれ分かれて、アメリカ艦隊の阻止を図った。
 なお両軍の装備だが、重巡《ケント》《サフォーク》は8インチ砲連装4基8門、《ダイドー級》軽巡洋艦は13.3cm両用砲を連装5基10門装備していたので、アメリカ艦隊が全力で攻撃すれば砲撃力はアメリカ海軍の方が大きかった。アメリカは《ソルトレークシティ》《ペンサコラ》が8インチ砲10門、《シカゴ》が9門、大型軽巡は6インチ砲を15門装備していた。アメリカ側は魚雷は搭載していなかったが、その分砲撃力と防御力は高く砲撃戦に特化した艦艇と言える。これに対してイギリスの巡洋艦は、伝統的に植民地警備を重視しているので航海性、居住性を重視し、その分防御力は低い傾向にあった。《ダイドー級》などは駆逐艦に毛が生えた程度の防御力と言われることもあり、日本海軍が開き直って建造した《秋月型》とよく比較されている。
 そうした装備と艦の数、艦の規模の差から、砲撃戦はアメリカ艦隊が有利だった。《ダイドー級》は対空用も兼ねる両用砲を装備しているので、一般的には射撃速度が速いと思われがちだが、アメリカの6インチ砲とそれほど大きな差はなかった。このため主砲口径、砲門数で圧倒するアメリカ側の方が有利だし、6インチ砲への対応防御の装甲を持つ分だけさらに有利だった。
 しかし初期の砲撃戦は、どちらかがグロッキーになるまでは続かなかった。北東方向で戦闘していた日本とドイツ艦隊の戦闘が、日本艦隊の突破という形で大きく変化したからだった。

 日本側は距離1万2000メートルに接近するまで砲撃は行わず、回避に専念しつつ猛烈な勢いで接近した。巧みに転進を繰り返しつつ、しかも30ノットを超える艦隊速度で急展開するので、大規模水上戦闘に慣れていないドイツ艦隊は翻弄された。距離が開いた状態で回避に専念していると、砲弾は驚くほど命中しなかった。この事は、半年前の戦闘でも日本海軍は十分に経験していたが故の戦法でもあった。
 そして日本の二隻の重巡洋艦は、8インチ砲(20.3cm)砲10門の火蓋を一斉に切り、まずは28cmを撃ってくる2隻の装甲艦に砲火を集中した。この20.3cm砲は55口径と砲身が従来より長く、貴重な重巡洋艦の戦闘力を少しでも伸ばすべく1939年秋に換装されたものだった(※なお、アメリカの重巡洋艦も全て55口径8インチ砲だった)。他にも高角砲を新型の両用砲に換装するなどの近代改装が施されており、より重武装の艦に仕上げられていた。雷装も列強最強クラスのままで、レーダー(電探)も既に装備していた。
 そして十分な砲戦距離に近づいてから砲撃を開始したので、2隻の装甲艦に次々と砲弾が命中した。この状態は、第二次世界大戦初期に《アドミラル・グラーフ・シュペー》がイギリス艦隊と戦った時と少し似ており、《リュッツォウ》《アドミラル・シェーア》は3番艦の《シュペー》より防御力が低かった。分厚い装甲に囲まれた司令塔と砲塔は何とか無事だったが、艦の各所が次々に被弾、破壊され、距離8000メートルを切る頃には2隻とも機関部に損害を受けた事もあり戦列から脱落していた。2隻の装甲艦も、それぞれ2発の命中弾を得ていたが、日本の重巡洋艦に大きな打撃を与えるには至らず、《那智》《足柄》は次の目標へと砲口を転じた。
 これでドイツ側の大型艦は《アドミラル・ヒッパー》1隻だけとなり、日本側は駆逐艦までが《ヒッパー》への砲撃を開始していた。装甲艦がめった撃ちにあっている間に、2隻いたドイツ側の駆逐艦は2倍の数の差もあって砲撃戦で圧倒されて大破していた。
 そして残された《ヒッパー》だが、あまり積極的な姿勢を示さなかった。これはドイツ海軍自体が、輸送船の護衛よりも自らの大型艦の保全を優先する命令を事前に出していた為で、既に随伴していた2隻の装甲艦が沈むかもしれない事態を前に、艦隊保全の考えが指揮官の考えの多くを占めていたからだ。このため優れた戦闘力を持つ《ヒッパー》は、僚艦が撃破されると中途半端な戦闘に終始して、小破程度の損害を受けると実質的に戦場から離脱してしまう。
 そして燃え上がるドイツ艦艇を無視して、いまだ脱落艦の無かった日本艦隊は船団へと突撃した。

 日本艦隊の突破は、戦場に劇的な効果を及ぼした。
 予期せぬ突破報告にイギリスの護衛艦隊が動揺し、その隙を付いてアメリカ艦隊も一気に突撃を実施したからだ。そして既にアメリカ艦隊が戦闘を優位に進めていた事もあり、イギリス艦隊が一気に崩れてしまう。
 アメリカ艦隊とイギリス艦隊は近距離で砲撃戦となったが、この砲撃戦で6インチ砲を15門も装備する《ブルックリン級》が本領を発揮し、次々にイギリス軍艦艇を撃破していった。イギリスの《ダイドー級》も高い砲撃能力を持つのだが、既に戦闘力が半分近く落ちていた事もあり有効な反撃ができず、防御力が低いため次々に戦闘力を喪失し、最終的には全艦沈没してしまう。《ケント級》2隻もアメリカ軍の重巡洋艦の前に完全に撃ち負け、旗艦でもあった《ケント》は大破戦線離脱、《サフォーク》は搭載魚雷の誘爆もあって撃沈されてしまう。駆逐艦同士の戦闘も、対潜、対空を重視した艦を選抜していたイギリス側が、砲撃戦で撃ち負けていた。
 そしてその後は、二つの方角から殺到する巡洋艦の群れを前にして、残された2隻のイギリス軍駆逐艦が絶望的な防戦を実施するも及ばず、8隻の高速輸送船はイギリス軍機が駆けつける前に全て沈むか燃えさかるだけとなった。この時日本海軍は、初めて魚雷による統制雷撃戦を実施し、一度に4隻の輸送船に命中弾を与え、魚雷の威力の大きさを見せつけた。
 戦闘の最後は、遅れてやって来たイギリス軍爆撃機の攻撃だったが、数が少なかったので《シカゴ》に至近弾を与えただけで、連合軍の圧勝で戦闘は終幕する。
 欧州枢軸側で大型艦が生き残ったのはドイツ艦隊で、意外にも2隻の装甲艦も自力で小アンティル諸島まで帰投している。ほぼ全滅したのはイギリス艦隊で、輸送船団が全滅した事と重ねてイギリス本国政府及び海軍に大きな衝撃を与えた。

 この海戦は、この大戦では珍しく水上艦だけで行われた大規模な水上戦闘だった。そして水上戦闘を目標に建造されたアメリカと日本の巡洋艦、駆逐艦の戦闘力と活躍が際だつ結果に終わった。また、船団護衛とある種の通商破壊戦を企図して起きた海戦であるにも関わらず、壮絶な砲雷撃戦となった点もかなり珍しいケースだった。
 そして初めてと言える大西洋方面での華々しい勝利だったため、アメリカは沸き立った。アメリカ軍指揮官のスコット少将(カリブ戦隊指揮官)、日本軍指揮官の三川中将(※6月からカリブ艦隊司令として派遣)は、アメリカで一躍有名人となった。ドイツのポケット戦艦を撃破した三川中将は、イギリス本国に残ったハーウッド提督を越えたと言われた。
 また一番の功労艦として、いち早く敵艦隊を突破した日本の2隻の重巡洋艦が称えられた。これをチャーチルは、かつて《足柄》がイギリスに来訪したときに言われた「飢えた狼」という言葉を再び用いて敢闘を称えている。アメリカ市民も、《妙高型》のあまりにも戦闘的な姿と合わせて、世界最強の重巡洋艦と称えた。

 ジャマイカを巡る戦いは、この海戦が一つの節目となった。補給作戦が失敗したジャマイカ島の抵抗力は大きく落ち、アメリカ軍の戦力が整い始めた事も重なって、以後ジャマイカでの戦いは連合軍の優位で運ぶことになる。
 そして42年春にジャマイカ島からイギリス軍が撤退すると、次はカリブ海東部を巡る戦い、そしてベネズエラのタンカー航路を巡る戦いの本格的な幕開けだった。
 カリブでの死闘は、いよいよ幕を開けようとしていた。


●フェイズ17「第二次世界大戦(11)」