●フェイズ17「第二次世界大戦(11)」

 グリニッジ時間1941年12月7日、連合軍は東南アジアのマレー半島各地に上陸作戦を開始した。
 上陸は即日連合軍への参加を表明したタイ王国とイギリス領マレー連邦のコタバルに行われた。コタバルの上陸は敵前での強襲上陸作戦で多くの海上戦力が支援にあたった。支援艦隊の中には、連合軍の政治的建前を作り出すべく、英連邦自由政府に属する巡洋戦艦《レパルス》の姿もあった。
 上陸したのは3個師団で、日本の第5師団、近衛第2師団、第18師団で、これを戦車旅団、重砲兵旅団などが支援した。さらにこの後には、2個師団が続く予定だった。加えて自由イギリス軍が1個旅団派遣し、アメリカ陸軍も大隊規模だが後続部隊として参加を予定していた。指揮官には山下奉文将軍(当時中将)が任命されたが、これは日本陸軍内の人事としては派閥的に難しいところだったが、戦争前に行われたアメリカ視察に山下将軍が行った事での人脈が評価された形でもあった。日本陸軍も、自らの中だけを見ている時代では無くなっていた証でもあった。
 なお戦前の陸軍は、実質的に日本陸軍随一の逸材と言われた永田鉄山と彼の舎弟といわれた東条英機を中心とした、前世界大戦に従軍した軍人達による従軍派が中枢に位置していた。山下らは、当時本国に止まっていたグループ(保守派)に属しており、従軍派と対立する側の代表的軍人だったが、当時左遷に近かったアメリカ陸軍の視察が予想以上に活きてきた形だった。

 話しが逸れたが、コタバルには上陸戦に優れた第5師団が強襲上陸作戦を決行し、戦艦、巡洋艦の艦砲射撃、インドシナからの爆撃、空母艦載機による支援を受けながら、イギリス軍が防御陣を敷いていると考えられた場所に突撃した。短期的な目的はコタバルの飛行場を短時間で占領し、航空隊を進出させる事にあった。もちろんこのまま第5師団は進撃するし、後続部隊のための拠点を作るのも目的だったが、なにより制空権の確保が重要と考えられた。
 もっとも、10月から開始された航空撃滅戦によって、マレー半島のイギリス本国空軍部隊は既に壊滅状態だった。インド(ビルマ)方面から直接飛来できるのは航続距離の関係で爆撃機だけで、戦闘機は輸送船で運ばなければならないが、この輸送作戦も連合軍の通商破壊戦で半分も達成できていなかった。
 そして日本軍を中心とする連合軍による航空撃滅戦が続けられたが、連合軍の戦闘機は空母を用いなければならないため、10月半ばで一旦重爆撃機による空襲だけとなり、イギリス側も一息つけた。だが、10月の時点で400機近くあった機体は半月で稼働100機を切るまでに激減し、1ヶ月半で補充できた機体は50機程度だった。幸いにして修理やエンジンの補給で稼働率は多少向上したが、総数で200機程度に落ち込んでいた。そして連合軍は200機でも十分な脅威と考えており、上陸作戦の3日前から再び航空撃滅戦を開始し、12月7日(現地時間8日)の時点で100機を切るまでに減少していた。
 このためマレー半島に籠もるイギリス本国軍は、友軍の制空権を最初から期待できない状態だった。
 一方、マレー半島を守るイギリス本国軍だが、平時から駐留している現地警備部隊とインド師団(※インドで動員された兵士とイギリス軍将校によって編成された部隊)を中心として、総数は15万人いた。そして大量の戦闘機を送り込んだように、大量の戦車、装甲車も送り込んでいた。インド兵だけでなくイギリス本国からも師団級の部隊が派兵され、第18師団、第4機甲旅団などの姿があった。インド兵も本国兵並に強力と言われたインド第4師団などの姿もあり、生半可な兵力での攻略は不可能だった。しかし植民地兵が多く装備や練度に劣る兵力が多いのも事実で、現地部隊は本国兵の増強を常に要請していた。しかしイギリス本国は、補給線の問題からマレーへの大規模な増援は危険と考えていたし、インド防衛こそが本命と考えてインドへの本国兵投入を平行して行い、結果としてマレー半島には限られた戦力しか増強しなかった。インドに力を入れていたのは、アメリカ軍が戦時体制を整えて大軍を投入してくる事を警戒しての事だった。
 そして現地司令部が不満でも、かなりの戦力である事には違いなく、「この程度の戦力」で十分に日本軍を撃退できるとイギリスは見ていた。現地司令部ですら、日本軍をかなり過小評価していた。チャイナで日本軍が猛威を振るっていたが、それは相手が同じ有色人種だからだと考えられた。
 そして日本軍は、イギリスが中華への増援を捨て置いた事を殊の外重視した。制空権獲得を第一に考えた作戦を実行し、さらに上陸部隊も戦車を多数含んだ機械化部隊で固めていた。日本の各師団は自動車化され、捜索(偵察)連隊は軽戦車中隊、対戦車大隊は砲戦車中隊を持ち、さらに戦車連隊が属していた。火力も欧米基準に並ぶほどに強化された戦時編制で、制空権さえあれば十分に対向できると考えられていた。これほど強化された師団は、当時の日本陸軍では数が限られており、それだけ日本軍がマレー作戦に力を入れている証拠だった。

 第5師団が上陸したコタバルには、イギリスも上陸を予測していたので1個旅団のインド師団と戦車部隊を配備していた。砲兵部隊も沖合を睨んでいたが、戦艦複数を並べた日本軍の攻撃を前に上陸作戦が始まるまでに壊滅状態に陥っていた。直接的な原因は、トーチカなどの陣地構築が不十分だったから防御力が不足していたからだが、沿岸部の多い細長い半島での防衛戦の難しさを伝えていた。加えて砲兵部隊の火力も、戦艦相手には決定的に不足していた。
 コタバルの飛行場は沿岸からわずか2キロメートルほどの場所で、川の三角州にあった。
 このため機械化部隊による攻略は難しいと考えられ、歩兵中心で攻撃が行われた。そして上陸作戦と進撃を容易とするため、艦砲射撃と爆撃を徹底した。おかげで現地イギリス軍は大損害を受けるも、飛行場に至る道や地面が砲爆撃で掘り返され、進撃の大きな障害となった。
 ここで活躍したのが、ソ連軍の戦車を見て改造した九七式戦車だった。火力は以前として貧弱だが、相手に戦車がいなければ57mm榴弾砲は歩兵部隊や陣地の制圧には有効だった。このため主に改造したのは履帯幅で、幅を広く取り合わせて足回りを少し弄ることで接地圧を大きく軽減して、地盤の弱い場所での行動を容易としていた。
 しかし同車両は火力の弱さから歩兵支援が中心で、相手が装甲車両(戦車)だと装甲の薄い場合しか対処出来なかった。だが日本側も既に教訓は得ていたので、対装甲戦用の部隊も準備されていた。これが「一式砲戦車」で、砲塔を無くして車体に直接75mm機動砲の改良型(一式戦車砲)を搭載し、可能な限り低い車高とした装甲で覆ったものだった。この75mm砲は、もとが野砲だが初速が比較的早い(38口径砲)ため対戦車砲として既に日本陸軍部隊のかなりに配備が進んでいたものの大幅な改良型だった。分かりやすい改造点は、発射の際に「紐」を引っ張るのではなく「トリガー」を引く戦車砲としての改造が施され、砲口に発砲煙を制御するマズルブレーキ装着したものだった。さらに、駐退機も強化した上で短縮し、車外の露出が減らされていた。見た目は完全に別物で、一式戦車砲と呼ばれた。
 車両自体はドイツの「III号突撃砲」ほど完成度は高く無かったが、生産が簡単なためこの頃の日本軍に急ぎ配備が進められていた。そして専用の強化徹甲弾(タングステン使用弾)を用いれば距離600メートルで「マチルダII」の正面装甲を貫けるので、非常に重宝される事となる。この戦場でも飛行場近辺で防戦を展開するイギリス軍戦車を撃破して、日本軍の勝利に貢献した。
 ただしコタバルの英軍戦車は巡航戦車だけで、この車両が目標とした「マチルダII」との対戦はまた別の場所での事となった。

 コタバルの戦いは、強襲上陸作戦だが連合軍が圧倒的という以上の支援部隊を投入していたので、ほぼ全ての場面で連合軍の思惑通り運んだ。そして水際で撃退できないことはイギリス軍も理解していたので、内陸部の進撃に入ってからが陸戦の本番だった。
 マレー半島は熱帯雨林で覆われており、地形も平坦とは言い難く、高温多湿という悪条件ながら防戦には有利と考えられていた。大小の河川も多く、撤退時に橋を落とせばそれだけで防戦の時間稼ぎが出来た。しかも細長い半島なので防衛ラインも絞りやすく、イギリス軍もかなり前から敵を阻止するための陣地構築を行っていた。
 最も有名なのが「ジットラ・ライン」だった。イギリス軍は100万の大軍が押しよせても半年は防げると豪語した陣地群だった。フランスのマジノ・ラインのような要塞線と言われることもあるが、密度や規模から見ても陣地群でしかなかった。「〜でしかなかった」と表現したように、ジットラに限らずマレー半島の防衛線はどれも不十分で未完成だった。原因の多くは熱帯雨林だったからで、ジットラも狭隘な地形ではあるが湿地帯で、工事が難しかった。しかも工事を発注したタイ政府だったが、イギリス本国がナチスに降伏した事、その後の戦争の進展の影響で、工事をいい加減にした。しかも日本側のスパイ活動によって、ジットラなどマレー各地の陣地の様子はタイを通じて筒抜けとなった。
 そして日本軍は、精鋭の機械化部隊を用いることで、強引に「ジットラ・ライン」などを突破してしまう。欠点、弱点が分かっているので、この突破は比較的容易だったのだが、半年どころかわずか2日足らずの強引な突破線で1万の兵士が守備する要塞線が突破されたことに、現地イギリス軍はかなりの衝撃を受けた。
 だが日本軍の側は、マレー作戦前からの情報収集に加えて熱帯での作戦行動訓練や演習を海南島などで積んでいたので、敵を侮っていたイギリス軍の完敗だったとも言えるだろう。日本軍に従軍したアメリカ陸軍の将校も、非常に驚いている私見を残している。そして白人達が驚いたように、マレーでの戦いはこの大戦始まって以来の白人対有色人種の戦い(陸戦)でもあった。

 マレー半島で最大規模の戦いとなったのは、クアラルンプール北方での「スリムの戦い」だった。両軍合わせて5万以上の兵力が激突した。特に大規模な戦車戦が実施され、両軍が投じた精鋭戦車部隊が激突した。
 日本側は先に説明した「一式砲戦車」と砲塔前面に追加の装甲版をリベット止めした「九七式戦車」、それにこの戦場に急ぎ間に合わせた「九七式戦車改」、そしてこの大戦で初めて戦場に姿を見せた「九九式重戦車」も投入された。またアメリカが日本に供与した「M3 スチュアート軽戦車」もあった。
 日本側の欠点は、主力となる「九七式戦車」の火力の低さで、優れた性能を持つ戦車の数量不足だった。優れた性能を持つ「九九式重戦車」は、試験投入でもあったのでわずか4両しかなかった。
 イギリス側は大量に運び込んだ「クルセイダー」巡航戦車、「バレンタイン」歩兵戦車が主力で、これに「マチルダII」歩兵戦車が脇を固めていた。イギリス側の欠点は、歩兵戦車の足の遅さ、戦車砲が全て2ポンド(40mm)砲という事、それに強力な対戦車砲に欠くという事だった。また戦車砲が榴弾を撃てない事も、この時も大きな欠点だった。
 戦車の総数は、日本軍が240両、イギリス軍が280両とイギリス軍が若干勝っていた。日本軍の主力部隊は第三戦車旅団、イギリス軍が第4機甲旅団で、どちらも練度は高かった。
 アジアで初めての大規模戦車戦に世界中が注目したが、意外な展開となった。戦車戦よりも陣地突破を重視した日本軍が、戦車を先頭とした機械化部隊でほとんど正面から夜戦(夜襲)を仕掛けたからだ。
 予期せぬ夜戦にイギリス軍は戦闘の初期から混乱し、予想外の時間に始まった重砲弾幕で戦う前から大きな損害を受けた。しかも不確かな情報に従って反撃を実施したため、大きな損害を受けてしまう。それでもイギリス軍は、一度は日本軍の前線の一部を突破したのだが、その先には日本軍が防衛用に陣地を展開していた。そしてそこには、優れた高射砲でもある九八式速射砲、九〇式機動砲が多数展開し、陣地前面には地雷原もあったため戦車の墓場となった。九八式速射砲には「マチルダII」も距離800メートルで正面から撃破されてしまい、しかも多数の照明弾が打ち上げられる夜戦のため、イギリス軍の戦車の多くが無為に失われた。機動性に優れた「クルセイダー」だったが、夜の乱戦では威力も発揮出来なかった。「バレンタイン」歩兵戦車はそれなりの性能なのだが、相手と比べると多くの面で中途半端な性能なうえに速度が遅いため、あまり活躍は出来なかった。このため、この戦い以後「バレンタイン」歩兵戦車は役立たずと考えられたが、生産ラインの関係でその後も量産が続けられ、42年に入ってからは主に同盟国に供与されている。

 先に突破戦を仕掛けた日本軍の方が混乱は少なく、中でもわずか4両の「九九式重戦車」が猛威を振るった。重量、装甲厚、火力などの数字は、少し後にドイツに登場する「VI号戦車」に近いが、機動性など多くの面で劣る古い思想で作られた純然たる重戦車だった。だがこの戦場では無敵の重騎兵だった。
 2両ずつで戦車隊の先頭に立った「九九式重戦車」は、照明弾がぼんやりと辺りを照らす中で、敵の砲撃を一身に受けつつ時速15〜20km/h程度の速度で着実に進撃を続けた。総重量48トン、最大装甲100mmしかも傾斜装甲を採用した重装甲は、イギリス軍の対戦車砲をまるで受け付けなかった。2ポンド砲では目の前のような距離ですら弾くことも多く、500m以上の距離だと重砲(75mm)の水平射撃を受けても装甲に少し傷が付いただけだった。重高射砲(3.7インチ(94mm)砲)の射撃を受けたら流石に撃破されたと言われるが、この頃のイギリス軍は高射砲を陸戦に使うという発想が無かったし、当然ながら装備(徹甲弾)も無かった。
 他の戦車のうち、比較的活躍したのが「九七式戦車改」と「M3 スチュアート軽戦車」だった。ノーマルの「九七式戦車」は、相変わらず対戦車火力が弱く、撃破こそなかなかされないが敵戦車も撃破出来なかった。搭載していたM2機関銃の方が役に立つと言われたほどだった。「一式砲戦車」は、射撃時に車体自体を動かさなければならないため、乱戦や陣地突破戦に不向きなのがハッキリした。砲戦車自体が、基本的に防戦用だと最初に認識されたのも、この時の戦いだとされる。
 アメリカ製の「M3 スチュアート軽戦車」の見た目はあまりよくなかったが、軽戦車に似合わず重装甲で、軽戦車らしい軽快な運動性と主砲の高い速射性能、なにより高い機械的信頼性と稼働率を見せつけた。「九七式戦車改」は、新規設計されたバスケット型の新型砲塔に「一式砲戦車」と同じ一式戦車砲を搭載していたので、非常にバランスの取れた中戦車として活躍ができた。
 「九七式戦車改」は重量21.5トン、砲塔前面装甲60mmで、初期型より1.5トン重くなっていたが、これでようやく主力戦車としての性能を獲得したと言えるだろう。21.5トンはドイツ軍の「III号戦車」と同じ重量で、総合性能では「III号戦車」が勝るが、火力と正面装甲では「九七式戦車改」が勝っていた。だが、この戦いでの活躍は限られており、「九九式重戦車」の印象があまりにも強かったため、日本陸軍内に重戦車信仰とでも呼ぶべきものを産み出すほどだった。この時の活躍で、「無敵の鎧武者」と題うって戦意昂揚映画にもなったほどだった。
 陸軍内でも、当時国内に20数両しかなかった「九九式重戦車」による独立重戦車部隊が設立され、増産と新型製造に多くの努力が傾けられた事にも象徴されている。さらに加えて、従来の「九七式戦車」を前線や部隊から引き揚げて順次「九七式戦車改」に改良している事からも、日本陸軍での軽量級戦車の時代が終わったことを伝えている。そして同時期に「一式中戦車」という25トン級の戦車を開発していたが、それよりも当時は開発中だった「二式重戦車」の開発と量産が急がれるという、他の国ではあまり見られない状態を産んでいる。ただし日本陸軍が重戦車開発を重視した背景の一つに、開発が失敗しても主力戦車はアメリカからの貸与、供与を受ければいいという、いささか他力本願な考えがあったことは忘れるべきではないだろう。

 スリムの戦いに戻るが、日本軍の戦車隊がイギリス軍の前線を突破すると、それに続いた日本の歩兵など各兵科がなだれ込んでイギリス軍の戦線は消滅し、あとは殲滅戦に移行した。ここでイギリス軍は師団1個が降伏し、第4機甲旅団も回復不可能な壊滅的な打撃を被り、他の部隊も多くが撃破されるか降伏するという大打撃を受け、以後の防戦が非常に難しくなっている。
 イギリス軍の苦戦はシンガポール前面のジョホールの戦いでも見られ、イギリス軍は最後の防戦と奮闘したのだが、日本軍を中心とする連合軍に完全に押し切られてしまう。そして戦いは、誰もが予想したよりも早くシンガポール島攻略戦へと移行する。
 シンガポールはイギリスの東洋支配の象徴であり、海に面した側には巨砲を備えるなど防備も固められていた。だからこそ日本軍はマレー半島を南下して、後背からシンガポールを攻略しようとしたのだ。
 シンガポールの戦いは1942年2月7〜15日の間にかけて行われ、古今東西の要塞戦でよく見られた通り、守る側のイギリス軍の敗北で幕を閉じた。
 戦闘開始前、シンガポールに籠もるイギリス軍は、残兵を収容するなどで10万人を数えていた。しかしマレー半島の戦いで装備の多くを失い、士気も高いとは言えなかった。しかも島の内陸側のジョホール水道方面には重砲など敵を阻止できる装備がほとんど無かった。もはや使い道があまりない僅かな戦車をトーチカ代わりに埋めたりもしたが、榴弾のない2ポンド砲では効果も限られていた。加えて、もはやイギリス側にまともに飛び立てる機体はなく、インドから増援や支援物資を送り込むことも不可能となっていた。要塞砲は15インチ砲など強力で、いちおうは内陸部方面に向けた砲撃も可能だったが、対艦用の徹甲弾しか装備しないので、砲撃の効果はほとんど無かった。
 対する日本軍を中心とする連合軍は、陸と海、そして空からシンガポールを完全に包囲していた。補給も十分に行われていた為、まずは重砲と艦砲をもちいた砲撃戦が展開され、合わせて島内各所への爆撃が実施された。この時の艦砲射撃では、イギリス軍の要塞砲射程外からの戦艦による艦砲射撃が実施され、《長門》など6隻の戦艦が参加している。
 総攻撃開始前に、降伏もしくは英連邦自由政府への帰属を求める使者が送り込まれたが、現地イギリス軍の返答は「No」だった。
 このため2月8日から島への強襲上陸が実施され、島の各所で歩兵同士による激しい戦いが展開されることになる。だがヴェルダンや旅順のような陣地要塞が構築されているわけでもないので、戦闘自体は普通の戦闘と大きな違いは無かった。
 そして補給と補充をいくらでも受けられる連合軍と違い、シンガポールのイギリス軍はすぐにも物資不足に陥った。特に飲み水(給水池)を失ったのが大きかったと言われる。このため総司令官のパーシバル将軍は降伏を選択せざるを得ず、シンガポールでの戦いは大方の予想を裏切って短期間で終息した。

 シンガポールには、英連邦自由政府の旗として持ち込んだユニオンジャックが改めて翻ったが、世界情勢に与えた影響は非常に大きかった。これをチャーチルは、「日本人を中心とする連合軍は偉大な勝利を掴んだが、連合軍の一角を成す自由政府にとっては大きすぎる痛みを伴う勝利でもあった」と書いている。そしてチャーチルが記したように、シンガポール陥落は世界史的にはヨーロッパ世界のアジア支配の終焉を告げるものだと定義される事が多い。攻略したのは連合軍だが、その戦力の90%以上が日本軍であり、有色人種が白人勢力に勝利した事になるからだ。何しろユニオンジャックの隣には、日本の国旗もアメリカの国旗と共に翻っていたからだ。
 しかし日本は連合軍の一員であり、同盟国の植民地支配自体は否定していないし、マレー半島以外では侵攻も解放もしていないし、占領後のマレー、シンガポールでも統治は英連邦自由政府に委ねている。このため、植民地支配に苦しむ地域からは、日本に失望したという声も大きかった。ただしこの頃の日本は、主要参戦国として大国外交を前面に出すしか無かったし、山梨首相など政府中枢の多くの人々が他者から与えられる独立に意味はないと考えて「植民地解放」などの言葉を振りかざさなかったからでもあった。加えてアメリカの当時のランドン政権も、今日で言われるほど植民地帝国主義に批判的で無かったことも日本の外交に影響していたことを忘れてはいけないだろう。
 また、短期的にはイギリス軍は10万人以上が降伏して捕虜になったが、この敗北はダンケルクで捕虜になったイギリス兵の数よりも多かった。これは東洋支配の象徴が有色人種の手によって落とされた事と動揺に大きな衝撃となった。しかもシンガポールを含むマレーは、戦闘前は最低でも半年、最大で一年以上、アメリカが大軍を派遣するまで陥落しないと考えられており、実質的に日本人の手で落とされた事の衝撃は非常に大きかった。
 そしてシンガポールの陥落と、蘭領東インドの連合軍参加によって、東南アジアはわずか3ヶ月で連合軍の勢力圏になってしまう。当時はビルマでも日本軍が現地イギリス軍を押して快進撃しており、ドミノ的な瓦解が起きていた。そしてそのドミノは、オセアニアまで押しよせる。

 シンガポールが陥落して半月ほどした1942年3月1日をもって、オーストラリア連邦、ニュージーランド、フィジーなどイギリス連邦を構成するオセアニア、南太平洋地域の全てが、英連邦自由政府への加盟と連合軍への参加を表明したからだ。
 この段階でのオセアニアの連合軍参加は、アジアでのイギリス軍及び枢軸軍の減退により軍事的脅威が低下したので、やっと連合軍に参加できるようになった、という流れになる。つまりオーストラリアなどから見たら、悪いのは不甲斐ない日本などの連合軍で自分たちではないという事になる。しかもオーストラリアは、連合軍参加後も横柄な態度を取る事が多く、また人種差別的な言動や行動が目立つため、日本からは非常に疎まれた。だが英連邦自由政府にとって、オーストラリアを含むオセアニア、南太平洋地域の参加は、国力、潜在軍事力、そして政治、全ての面で大きな効果が見られた。これまでほとんどカナダだけだったので、特に政治面での効果が期待できた。実際、オセアニアの動きに影響され、まだイギリス本国政府に属しているイギリス連邦構成地域や各植民地では大きな動揺が見られた。この時期にインドのビルマ戦線が大きく動いたのも、インド兵の離反が相次いだのも、日本がシンガポールを占領して有色人種に一定の光をもたらしたのと同様に、オセアニアの動きが影響していると見て間違いない。

 そして連合軍は、この機会を逃さなかった。
 一連のマレー作戦での海空戦力の消耗が少なかった事ともあって、一気にインド洋に押し出した。
 当面の目標はビルマの占領。ビルマに対しては、12月中ばにはタイを通過した日本軍部隊が、国境を突破して侵攻を開始していた。そして国境警備を軽視していた現地イギリス・インド軍を撃破して、主要都市のラングーンを目指した。そしてマレー侵攻が進んでマラッカ海峡を越えられるようになると、艦船を続々とインド洋側に持ち込んだ。そうしてまずは、インド洋東部外縁と言えるアンダマン海の制海権を獲得する。これでシンガポールが完全に孤立すると共に、欧州枢軸側が海路でビルマ主要部へ増援を送り込む事を難しくさせた。そしてさらに潜水艦を大量にインド洋、ベンガル湾に放ち、通商破壊戦を開始する。通商破壊戦には日本海軍第二艦隊の戦力の多くも投入され、まだ大丈夫と考えていた欧州枢軸側の船舶を次々に撃沈もしくは拿捕した。
 この時、欧州枢軸側はビルマでの制空権獲得競争にこそかなりの力を入れるが、混乱が続いていた。あまりにも呆気なくマレーの空軍部隊が壊滅し、陸でも連戦連敗が伝えられていたからだ。しかもイギリス、イタリア東洋艦隊は戦闘初期の段階でシンガポールから逃げ出し、あまつさえ海上で包囲されて大損害を受けていた。インド各地の僅かでも修理能力を持つ港は、欧州枢軸陣営の東洋艦隊修理、補修にかかりきりとなり、能力が十分ではないので艦隊の再編成もままならなかった。自ら戦闘を仕掛けるのは論外だし、マレーへの反撃など夢物語でしかなかった。
 このためイギリス、イタリア東洋艦隊の稼働艦艇は、日本海軍との戦闘を避けるためインド洋に密かに建設されていたアッズ(アッドゥ)環礁の基地(泊地)に潜んでいた。セイロン島の主要港湾は大艦隊の駐留には危険が大きいため、日本との戦争が始まってすぐに設置された「秘密基地」だった。

 この頃の連合軍のインド侵攻の最大の障害は大きく二つ。一つはイギリス空軍。もう一つはいまだ大きな戦力を有している枢軸東洋艦隊だった。
 空軍は出来るだけ短い航空撃滅戦で壊滅させるより他無いが、本国からの補給をさせなければ簡単に壊滅できるのは、チャイナ、マレー、さらにはジャマイカの戦闘でも立証されていた。しかしインドは広大であり、インド洋全体を封鎖するには東洋艦隊を撃破して、最低でもセイロン島を占領して自らの基地としなければならなかった。
 そして一言で東洋艦隊の撃破と言っても簡単では無かった。戦艦10隻を中心とする艦隊を撃破するには自らも大艦隊が必要で、しかも東洋艦隊は自らが不利になったら戦場から逃げ出すので、今までのような戦闘ではラチが明かなかった。何しろ、度々撃滅の機会があったのに、常に逃げられていたからだ。
 そこで日本海軍・聯合艦隊司令長官だった山本五十六大将は、一つの秘策の決行を提案する。アッズ環礁を空母機動部隊を用いて奇襲的攻撃で強襲し、一気に敵艦隊主力を撃破する事だった。
 アッズの存在は、リンガから撤退した東洋艦隊を潜水艦などで探し回った時の副産物で日本軍潜水艦が既に発見していた。その後も慎重な内定を進め、枢軸側に発見を気取られた気配も無かった。そして未完成の秘密基地、防御力のない孤立無援の秘密基地など、不安定な場所に卵を積み上げる行為に等しかった。
 だが、攻撃のタイミングだけは問題だった。蛻の殻では、大軍を用いる意味がない。かといって潜水艦で監視して通信を送るのでは、相手に気付かれてしまう。このため監視は遠くから行い、通信も半日程度移動してから行うという慎重さで実施された。
 また環礁内では雷撃が難しい場所も多い筈なので、攻撃は水平爆撃、急降下爆撃に頼らなければならなかった。このため空襲で艦隊を環礁外にあぶり出し、待ちかまえた潜水艦複数の雷撃で撃破するというのが攻撃プランとしては妥当とされた。
 だが攻撃を担う第一航空艦隊の武部提督は、環礁からいぶりだした上での洋上攻撃を望んだ。当然だが、敵に逃げられたら元も子もないので、奇襲もしくは奇襲に近い強襲攻撃が前提での事だった。そして短期間で全貌の掴めない場所への奇襲攻撃は不確定要素が大きすぎると考えられたため、可能な限り戦力を揃えた上での攻撃が決定する。
 第1航空艦隊としては、マレーの戦いではどうしてもシンガポールのイギリス本国空軍を相手にせざるを得なかったので、今度こそ艦隊攻撃、できれば洋上での戦艦撃沈を果たしたいと考えていた。作戦行動中の戦艦撃沈は、当時の空母指揮官にとって全ての人に空母の価値と可能性を示す最大のチャンスと考えられており、春にアメリカ海軍のハルゼー提督が今一歩までいきながら果たせていなかった命題でもあった。

 そして次の攻撃のために、日本海軍は新たな戦力を十分な数を用意することに腐心した。このため航空隊の転換訓練を大急ぎで実施し、作戦に間に合わせた。
 用意されたのが一式艦上攻撃機「天山」、一式艦上爆撃機「彗星」で、既にシンガポールの戦いでは先に機種転換訓練を受けていた一部航空隊が使用していたものだった。
 一式艦上攻撃機「天山」、一式艦上爆撃機「彗星」共に、空母用カタパルトでの発艦が可能な次世代機として開発された機体だった。カタパルト発艦が可能な丈夫な機体構造と機体性能を支える大馬力エンジンが最優先され、他は二の次として開発が進められた。どちらかと言えば、開発時間を優先した「つなぎの機体」として位置づけられていたからだ。しかしフリーハンドが得られた事は多くが良性に働き、予定より早く完成、試験、実戦配備と進んだ。戦時だったことも開発促進に大きく影響したが、海軍があれこれと欲張らなかった事が良性に働いた形だった。
 一式艦上攻撃機「天山」は、十二試艦上攻撃機として再び三菱と中島が一騎打ちの形で開発を競った末、自社の火星発動機を搭載した三菱製が勝利して採用されたものだった。三菱は九七式での敗北を教訓として、アメリカのメーカーや技術者からも様々な意見や技術を取り入れた上で同機体を開発した。この時の開発情報は、アメリカ軍の後の機体にも大いに反映されたほどだった。
 このため「天山」は、少し日本軍機らしくない無骨な姿をしており、試験開始当初は日本機らしいラインを持つ中島の機体が優勢と見られていた。三菱が優位な点は、丈夫さを除けば旋回機銃がブローニングM2ぐらいと言われた。だが、中島の機体が搭載する新型の「護」エンジンは所定の性能に達せず、また構造上の問題から前線配備後のトラブルが懸念され海軍側が採用を嫌った。三菱の機体は、カタログ性能は中島の機体に劣っていたが、エンジン共々堅実な構造を有していた。また、実戦において弾幕の中を進むことを考えた丈夫な構造は、現場将校からは軟弱との批判も出たが、司令部を中心に総じて高い評価を得た。
 一式艦上爆撃機「彗星」は、九九式艦上爆撃機などを開発した愛知飛行機が開発した。当初は十三試水上爆撃機として開発がスタートしたものを、艦上爆撃機に改設計したものだった。この背景には、アリソンエンジンの国産型(空技廠製)を積んだ空技廠の機体が、エンジンの出力不足と不調から開発が難航し、さらにカタパルト発進という規定の方針に十分添えなかったので、急遽代案として計画が進められたという経緯があった。この空技廠の機体は、その後艦上偵察機として何とか正式化されて高速と航続距離から活躍したが、艦上爆撃機として大量配備していたらエンジンの不調が大いに問題視されたと言われている。
 なお、愛知が九九式艦上爆撃機での不満点解消を目指して開発していた機体で元の設計が優れていた為、改設計以後の製作はスムーズに進み、艦載機としての翼を大きく折り畳む構造を加えても翼の強度は十分に確保出来た。
 そして元々フロートを付けた上で250kg爆弾による急降下爆撃が可能な丈夫さと積載量のため、エンジンを強化したこともあって最大で500kg爆弾と60kg爆弾2発を搭載できるだけのペイロードがあった(800kgでも過積載で何とか可能だった。)。非常に良好な成績を収めた為、海軍は元計画通りの水上偵察爆撃機も製造と量産を急がせ、こちらは「彗雲」として採用されることになる。

 この新たな牙が、欧州枢軸軍に放たれようとしていた。



●フェイズ18「第二次世界大戦(12)」