●フェイズ19「第二次世界大戦(13)」

 1941年12月3日と7日、アメリカ北東部のボストン港に駐留していたアメリカ海軍の戦艦《オクラホマ》と《カリフォルニア》が相次いで大破着底した。イタリア軍の人間魚雷の仕業で、イタリア軍は東南アジアで受けた大損害の意趣返しとして派手に宣伝した。
 この攻撃は、潜水服を着た人がまたがる形の魚雷型の潜水装置を潜水艦で沖合まで運んでボストン港に侵入し、機会を捉えて乗ってきた魚雷を戦艦の艦底に仕掛けて爆破したものだった。
 当然、仕掛けた兵士は脱出しており、アメリカ軍が原因も分からないまま敵の存在を血眼になって探すより早く、彼らは持っていた軍服を完璧に着こなした上で颯爽とアメリカ軍に投降して捕虜となった。
 あまりに鮮やか手並みとある意味気障な投降を前に、アメリカ軍は毒気を抜かれ、アメリカ市民もむしろ勇敢すぎるイタリア兵を賞賛したほどだった。
 だがこの攻撃により、アメリカ海軍はさらに大型艦艇2隻を行動不能とされ(その後、約2年かけて意地で復帰させた)、この時期はアメリカ海軍が海上戦で一番の苦境な時期だった事もあり、その苦境に拍車を掛けることとなった。

 アメリカ海軍は、同年11月にカリブ海のジャマイカ沖で大きな勝利を獲得したが、インドで日本海軍が大勝利を飾る4月に入るまで、欧州枢軸は海軍の多くを北大西洋とカリブ海に投入していた。
 特に11月の敗北は大きな衝撃で、しかもアジアと違ってすぐにも増援可能な上により多くの油田と輸送ルートを確保するという点で、カリブ方面の方がアジアよりも重視された。またこの時点では、インド洋に後退した東洋艦隊はまだ十分な戦力(戦艦8隻)を持っていると考えられていたので、大西洋、カリブ方面が重視された。
 そしてアメリカ軍だが、11月の戦いで大勝利を飾ったが、日本の重巡洋艦を含めて参加した8隻の巡洋艦は全て修理が必要となり、1シーズン(三ヶ月)程度の戦線離脱を余儀なくされた。マイアミやグァンタナモは大繁盛といえる状態で、アメリカ軍が1隻だけ保有する工作艦《メデューサ》はグァンタナモの守護神のごとく扱われていた。
 しかしこの時期のアメリカ海軍は、欧州枢軸陣営の潜水艦による被害がたて続いた。11月13日に護衛空母の実質的1番艦である《ロング・アイランド》が、同25日に戦艦《ペンシルヴァニア》がそれぞれ洋上を作戦行動中に沈められた。潜水艦に戦艦が沈められたのは、約1年前の開戦すぐの混乱の頃に、護衛も付けなかった旧式戦艦の《テキサス》《ニューヨーク》を相次いで沈められて以来の事だった。
 護衛空母《ロング・アイランド》は、開戦時の欧州枢軸海軍の潜水艦に翻弄されている時期に計画された対潜水艦用の低速小型空母の1番艦で、アメリカ海軍だけでなくアメリカ政府も大きな期待を寄せていた。それが訓練中に呆気なく沈められたことは大きな衝撃だった。また戦艦《ペンシルヴァニア》の沈没も、場所がマイアミとキューバの間のフロリダ海峡の大西洋側だったので、かなりの衝撃だった。他にも商船、小型艦艇の損傷や沈没も依然として相次いでいた。対潜水艦戦に長けた日本海軍の遣米艦隊ですら、一年を越えるアメリカ派兵の中で駆逐艦に損害が少なからず出ていた。
 結果アメリカ海軍は、ボストンでの損害を受けた時点までに戦艦が4隻が沈み、4隻が損傷修理中だった。それでも稼働戦艦は9隻あったが、うち3隻は12インチ砲搭載の旧式艦で第一線には出せなかった。まともに動かせる戦艦は、僅かに6隻しかなかった。
 空母も1隻が沈み2隻が修理中なので、稼働艦は4隻しかなかった。
 巡洋艦も稼働艦は大きく減っていた。
 合わせて4隻がすでに戦没したので、健在なのは重巡11隻、大型軽巡14隻、軽巡8隻となるが、うち3隻は太平洋で8隻が長期の修理や補修で動けなかった。軽巡は旧式なので出来れば前線に出したくはないので、実質的に15隻が動かせるだけだった。そしてアメリカ海軍は、北大西洋のグリーンランド沖合からパナマ運河にかけて、全ての任務に必要とされる巡洋艦を広く配備していた。
 欧州枢軸側も艦艇は潤沢とは言えなかったが、各国を合わせれば、アメリカよりも多い巡洋艦があるし(※とにかくイギリスの保湯数が多い)、連合軍にとってやはり高速戦艦は脅威だった。大西洋で稼働状態にある戦艦も、イギリスが《プリンス・オブ・ウェールズ》、ドイツが《テルピッツ》を就役、実戦配備させていた。これでフランスの旧式戦艦5隻を除いて、北大西洋、カリブ海で稼働する戦艦数は7隻となる。しかも当時のアメリカは、ドイツが3隻、イギリスが1隻の戦艦を大規模に近代改装中な事を正確には知らなかったので、稼働戦艦は最低でも10隻あると予測していた。しかも、場合によってはインド洋のイギリス、イタリア東洋艦隊も半数程度は大西洋に移動できると想定されていたので、最悪の場合三倍の数の戦艦を相手にしなければならないと想定されていた。このためアメリカ海軍では、アメリカ本土東海岸沖合での総力を挙げた艦隊決戦の計画を立てていたほどだった。
 連合軍として考えれば、英連邦自由海軍には戦艦2隻、重巡2隻、旧式空母1隻があったが、これらの艦艇を出すときは余程不利なときか反攻作戦の時だけだった。戦艦《リシュリュー》の実戦配備を急ぐフランス救国海軍についても、似たような状態だった。アメリカ海軍にとって唯一頼りなのは日本海軍だが、日本海軍はマレー作戦を全力で展開中で、今後もインド洋に向けて進軍するので北米への大規模な増援は難しかった。
 空母についても、アメリカ海軍は4隻が稼働可能だったが、ドイツがイギリスから空母2隻を賠償として手に入れた後に就役して訓練中という情報があったので、稼働空母数は同等か欧州枢軸側が有利と考えられていた。
 以上のような戦略状況の為、まだ積極的な海上作戦は出来なかった。そればかりか、いまだに北大西洋西部ですら危険と考えらえていた。

 1941年末頃、カリブ方面、北大西洋方面では、ジャマイカ島を巡る航空撃滅戦がアメリカ軍優位で最盛期を迎えていた。
 ジャマイカでの戦いと補給戦は41年11月の海戦以後も行われたが、一度大規模補給に失敗したジャマイカ島に立ち直る暇を与えない戦いが展開された。そしてアメリカ軍の航空機の配備数も増えたので、ジャマイカ島での枢軸側(イギリス側)の制空権が不確かとなり、枢軸側のジャマイカ補給は二度と立ち直らなかった。そしてジャマイカでの戦いは枢軸側のじり貧となると、イギリス軍は最悪の事態を迎える前の撤退作戦を予定通り企図する。
 小アンティル諸島とジャマイカの航空機全てを動員して短期間の航空優勢を作り上げた隙に、ジャマイカに高速船団を入れて逃げ去る事が作戦の骨子だった。
 時期は1942年2月末。この作戦は、最後は島の制空権が期待できなくなるので、空母の投入が必要不可欠だった。爆撃機やドロップタンク付きのハリケーンなら、ジャマイカ島を最後に飛び立ってそのまま小アンティル諸島の友軍基地まで何とか飛んでいけるが、スピットファイアはどうやっても、どこかの基地に飛んで移動する事は不可能だった。しかし、制空権維持に既にスピットファイアは必要不可欠で、最後の船団が引き揚げる時の制空権を維持するのに、どうしても空母が必要だった。
 このため、スピットファイアを艦載機型に入れ替えて、最後に空母に着艦させるプランも浮上したが、入れ替える手間と苦労、そして受ける損害を考えて中止された。空母を危地に入れるのも一度きりと考えられた。
 そしてこの作戦には一つの光明があった。ドイツ海軍の空母、といっても元はイギリスの《イラストリアス級》空母2隻が、ようやく稼働状態に入ったからだ。もちろんドイツ海軍の空母を危地に飛び込ませる事は出来ないので、あくまで支援が求められたが、イギリス海軍の負担が大きく軽減されるのは確かだった。
 この作戦にイギリスが《ヴィクトリアス》《イラストリアス》の2隻の装甲空母と軽巡4隻、駆逐艦8隻の空母機動部隊を投入予定とした。
 ドイツ海軍は、自らの面子を満たすためと欧州各国へのお披露目を兼ねて、2隻の空母《ペーター・シュトラッサー(フォーミダブル)》《マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(インドミダブル)》に加えて新造戦艦《テルピッツ》を作戦に加えた。ドイツ海軍はこれに重巡《プリンツ・オイゲン》、軽巡1隻、大型駆逐艦4隻でドイツ海軍初の空母機動部隊を編成した。本来は自国で建造中の空母も作戦参加させたかったが、いまだ就役にはかなりの時間がかかるため断念された。

 欧州枢軸海軍が大規模な艦隊、しかも空母機動部隊を編成、そして出撃させたことに、アメリカ海軍では大きな緊張が走った。
 1941年末頃、開戦から1年3ヶ月が経過したこの時期、アメリカ海軍の稼働空母は欧州枢軸より優勢だった。夏に《ワスプ》が沈んだだけだが、5月にかなりの損傷を受けた《エンタープライズ》は、魚雷による損害が大きく、まだ修理中だった。《サラトガ》は開戦間もない頃に潜水艦から雷撃を受けて沈みかけたが、秋にようやく戦列復帰していた。おかげで5隻が稼働可能となっていた。
 対潜水艦戦中心の戦力だが、日本が派遣した軽空母の《祥鳳》《瑞鳳》も支援戦力としてかなり期待が持てた。しかしこの時は、日本から運んできた新型機への転換訓練をメキシコ湾で交代で行っており、42年春までは限定的な護衛作戦以外では戦力外となっていた。
 この戦力状況の多くは欧州枢軸側も把握していた。そしてアメリカの空母部隊が東部海岸の北部と、フロリダ半島に分散していることも掴んでいた。
 当時フロリダ半島のマイアミや東部沿岸の南部にあるチャールストン鎮守府を拠点としていたアメリカ海軍の空母は、《レキシントン》と《ヨークタウン》だった。これを《ワスプ》を沈められるも奮闘したフレッチャー提督が指揮していた。
 そして欧州枢軸海軍の動きに合わせて、大西洋の中部で作戦行動を開始していた。

 欧州枢軸の二つの空母機動部隊は、まずはカリブ方面への出撃拠点となっているジブラルタルに集まって、顔合わせを兼ねた作戦の調整を実施した。
 空母部隊の任務は基本的に支援で、イギリスがカリブ海奥地に入って制空権獲得を図るが、ドイツは大西洋側での米空母機動部隊の牽制が任務とされた。どちらも危険はあるが、ドイツ側は基本的に友軍制空権の近くで作戦行動するし、作戦に合わせてUボートも多数展開して妨害と牽制、そして偵察を行うので、危険度は低いと考えられていた。危険が多いのはイギリス艦隊で、危険度合いを少しでも低くするため、空母艦載機の殆どを戦闘機で固めていた。搭載機数は基本的に36機で、このうち32機が戦闘機で残る4機がソードフィッシュ雷撃機となっていた。戦闘機も全て一新して「スピットファイア」の艦載機型の「シーファイア」で固められていた。ただしこの「シーファイア」は、「スピットファイア」とほぼ同じ性能なので、戦闘機としては非常に優秀だったが、航続距離が極端に短いのが問題だった。そして陸上での運用では特に問題視されなかったが、洋上で揺れる空母の上への着艦には非常に不向きだった。このため戦後に残る写真では、事故機の方が多いと言われるほどだが、イギリス海軍は次の機体が登場するまで愚直に使い続ける事になる。
 艦載機での問題は、ドイツの方が大きいと考えられていた。
 何と言っても異例なのが、艦載機の所属が海軍ではなく空軍だった。当然だがパイロット、整備兵も空軍からの出向で、海軍には空母の船としての運用しか任されていなかった。艦載機の運用も空母に乗艦した空軍指揮官の手に委ねられ、艦長以下乗組員は直接的な命令が出せなかった。艦隊を指揮する艦隊司令や幕僚達ですら、状況に大きな違いは無かった。空軍に「要請」する事で、作戦が行われる形になっていた。このため運用には常に困難が伴い、この戦争中ずっとドイツでの空母の運用を酷く邪魔し続ける事になる。
 当然だが、ヘルマン・ゲーリング空軍元帥の強すぎる政治力の影響で、ナチス特有のセクショナリズムの弊害が如実に現れた形だった。それでもドイツ海軍では、親衛隊がいないだけマシと自らを慰めたという。
 加えて、艦載機自体も問題だった。艦載機には、「メッサーシュミット Bf-109 E」戦闘機の艦載機型の「Bf-109 T」と、スツーカの名で有名な「ユンカース Ju 87C」の艦載機型「ユンカース Ju 87 T」を搭載した。「Ju 87 T」は急降下爆撃機だが魚雷も搭載しようとしたがパワーが足りず、エンジンを換装した改良型の「Ju 87D」の改良型まで、ドイツは雷撃用艦載機を持たなかった。
 だが問題は雷撃が出来ない事では無かった。
 「Bf-109 T」は空母艦載機としては脚部が弱かった。艦載機型として補強されたのだが、それでも洋上で揺れる空母の上での運用には困難が伴った。また航続距離も非常に短く、ドロップタンクを付けてもアメリカ、日本機に全く及ばなかった。そして航続距離でより問題なのが「Ju 87 T」の方だった。イギリスのスピットファイア以下で、爆撃機なのでドロップタンクも搭載できないので、近距離攻撃しか出来なかった。
 そしてイギリス、ドイツの艦載機を、日本とアメリカの空母関係者は「海のバッタ(シー・ホッパー)」と小馬鹿にした。距離320キロメートル(200マイル)離せば攻撃を受けることはないし、事故が多いので稼働機は時間が経つほど勝手に減っていくのだから、小馬鹿にするのも仕方ないだろう。

 しかしまだ情報の少ない当時、4隻もの空母が活発な活動を開始したことは大きな脅威と認識された。
 そしてアメリカ海軍の空母機動部隊は、「強力な空母機動部隊」という幻影に翻弄された。フレッチャー提督の空母部隊は、ドイツ海軍の空母部隊との追跡戦に終始するも、ドイツ側が常に友軍制空権を意識した動きしかしない上に、頻繁に潜水艦発見報告や潜水艦が発したと思われる通信を探知したため、敵に対して踏み込むに踏み込めなかった。潜水艦制圧のため日本海軍に支援が要請され、軽空母《祥鳳》と3隻の駆逐艦が出撃したが、この出撃はドイツ艦隊の警戒を煽るだけに終わり、日本艦隊が潜水艦1隻の完全撃沈の戦果を挙げるも、一度も航空戦をしないまま終えることになる。
 そして連合軍がドイツ艦隊に翻弄されている間に、イギリスの空母部隊は苦もなくカリブ海へと入り、ジャマイカからの最後の脱出が始まる。
 しかしこの脱出作戦を、アメリカ軍は撤退ではなく増援と考えていた。空母を用いれば、一度に多数の航空機を短時間で補給できるし、装甲空母を中心とする艦隊なら基地航空隊の攻撃も、極端に大きな脅威ではないからだ。
 日本海軍では、明確な撤退作戦だという意見が多かったが、これはアメリカと日本の基本的な国力から来る価値観や主観の違いから意見が分かれたと言えるだろう。
 結果として日本海軍の意見が正しかったわけだが、アメリカ軍は増援だと考え「次の一手」を見越した布陣を取る。接近する空母部隊への攻撃は、発見された段階で撃破や撃退が難しいし、ジャマイカに水上艦艇を突撃させる戦略状況でも無かった。このため、キューバのグァンタナモなどの航空基地の増強と防備の強化を急ぎ、後方から航空隊が呼び寄せられた。ジャマイカに対する爆撃は強化されたが、激しい抵抗を受けていたのでどちらかと言えば及び腰状態だった。
 そして2日後、全ては後の祭りとなっていた。
 ジャマイカ島に飛んだ偵察機が、突然迎撃を受けなくなった。レーダー波も捉えられず、対空砲も沈黙していた。見た目は今まで通りだが、偵察機が低空に降りても迎撃はなく人の姿が全く見えなくなっていた。
 ここでアメリカ軍もイギリス軍の全面撤退だと気付くが、全ては手遅れとなっていた。イギリス海軍の空母部隊は南米大陸寄りに燃費無視で脱出しつつあり、プエルトリコ島の各航空基地は激しい空襲にさらされて、空母部隊に攻撃を送り出すどころではなかった。それでも攻撃隊が出されたが、多数迎撃してきたスピットファイアに散々に撃退された。空母艦載機型のスピットファイア出現は、当時の連合軍に少なからず衝撃を与えた。
 しかし少なくない衝撃を受けていたのは、空母を運用した欧州枢軸海軍だった。実質戦闘をしていないのに、南米ギアナまで移動した時点で、艦載機の実に3分の1が着艦の失敗で破損し、多くが破棄されていたからだ。イギリス海軍は事前にある程度の覚悟はしていたが、ドイツ海軍というよりドイツ空軍の受けた衝撃は少なくなかった。もちろん出撃までの訓練での事故はあったが、訓練中は状態の良い離発着訓練が多かったので事故率も低かった。しかし大西洋の荒波は北海とは大きく違い、対空警戒で頻繁に飛び立つ事で事故率は大きく上昇した。スツーカは古くさい設計ながら丈夫なので問題もあまり無かったが、対潜哨戒時の滞空時間の短さは大きすぎるネックだった。このため製作中のD型の投入がいっそう求められた。
 事故率の高さに関して、ドイツ空軍は最初はドイツ海軍に抗議して、次にイギリスに抗議する。ドイツ空軍の言い分としては、船の運用が悪い、船の設計が悪い、ということになるからだ。だが運用した将兵からしたら、「機体が悪い」の一言に尽きる。日米海軍からしたら、陸上機、しかも水冷機を艦載機にすること自体が大きな過ちだった。
 そしてイギリスを巻き込んだ事で、事態は政治へと移行。短くも激しい言葉の応酬の後に、実機を使った検証を徹底することになる。この結果「Bf-109 T」の空母艦載機としての特性のなさが明らかとなり、メッサーシュミット社と決めた空軍省は面子丸つぶれとなった。そして、様々な機体の適正を調べた結果、実戦投入が始まったばかりだったフォッケウルフ社の「Fw190A」の艦載機化が決まる。「Fw190A」も着陸速度など問題があったが、他に適当なものがなったからだ。メーカーは開発中の機体を提案したりもしたが、存在しない上に性能も大したことがないので考慮すらされなかった。
 「Fw190A」は、ドイツ軍戦闘機にしては珍しい空冷エンジン搭載機で、着陸脚の幅が広く丈夫で、機体も丈夫な上に非常に高性能を発揮していた。空母への搭載も着陸速度の速さ以外では大きな問題はなく、すぐにも艦載機型への改造が決まり、1942年秋には「Ju 87D」の艦載機型ともどもドイツ海軍の空母に搭載されることになる。おかげでドイツ軍の空母は何とか実戦に耐える艦載機を持つことができるようになり、カリブの戦場へと投入されていく事になる。
 しかしそれはもう少し先の話しで、この時期のイギリス本国海軍は非常に活発だった。アメリカ海軍が一時的に弱体化している今こそが、攻撃の機会と考えられたからだ。

 力を入れたのは、空母ではなく潜水艦だった。そしてイギリスの案にドイツも乗り気で、各国と合わせて欧州枢軸全体での大規模な通商破壊戦を仕掛ける事を決める。
 イギリス海軍内には、空母機動部隊を用いたより積極的な攻撃案もあったが、流石に冒険的過ぎるとして却下されていた。冒険的案とは、アメリカ本土攻撃計画だった。
 しかしイギリス本土からアメリカ本土を攻撃するには、1万キロ以上の航続距離を持つ機体が必要となる。小アンティル諸島からでも2000キロメートル以上あるので不可能だった。ジャマイカからも既に撤退していた。
 潜水艦を沿岸までいかせて艦砲射撃する案もあったし、実際何度か行われたが、既に哨戒機が沿岸部を飛ぶので危険が大きかった。しかし活発な潜水艦による通商破壊戦の中で、哨戒網の穴が発見されていた。また、半年ほど前にジャマイカ島からフロリダのマイアミを爆撃したことがあったのに、物資の移動状況、統計情報、枢軸シンパから得られるアメリカ国内の情報などを総合的に判定した結果、アメリカ東部沿岸都市ですら夜間の都市防空が対空砲以外で行われていない事が分かった。いちおう各地に航空基地があって戦闘機が駐留していたが、そのほぼ全てが単発小型の戦闘機だった。というよりも、アメリカ軍に夜間戦闘機はほとんど無かった。
 この事はアメリカでも、初期の頃から問題視されていた。
 このためアメリカ軍は、1941年の時点で自国の各メーカーに開発を指示すると共に、日本からも夜間戦闘機に使えそうな機体を片っ端から言い値で輸入を実施した。そして輸入機でのテストとメーカーからの情報で、日本陸軍航空隊が「百式司令部偵察機」として採用している機体に白羽の矢を立てる。そして小規模な改造とさらなるテストの結果、機体中央上面に斜めに機銃を装備する事で夜間戦闘機として完成させる。さらにレーダーの搭載も予定したが、最初の時点では「斜銃」とも呼ばれる20mm機銃2門を装備し、アメリカ製エンジンを載せた上で「P-100 スパイダー」と日本名を踏襲した特殊な機体番号を付けて配備する。「P-100」の「100」は、日本陸軍の「百式」からそのままナンバリングしたものだった。
 この頃は、まだ日本から機体を輸入して仕上げを自国でするという面倒な方法を採っていたが、42年秋からは日本(三菱)で全て完成させてから輸入し、アメリカ製の機体が出てくる1944年に入るまでアメリカの夜の空を守ることになる。またこの機体は、少し遅れて日本陸軍航空隊でも採用されている。
 そしてアメリカの哨戒網自体、夜間はほぼがら空きだった。そして沿岸部に哨戒用の航空隊、潜水艦撃退用の航空隊は配備されていたが、艦隊に攻撃された場合に対処できる航空隊はごく一部にしか配備されていなかった。艦隊についても同様で、アメリカ軍はアメリカ本土の東部沿岸が攻撃されないと、何故か決めてかかっているとしか考えられなかった。
 実際警鐘を鳴らす者もいたが、全てを防備するだけの部隊、資源が無駄すぎるので、この時期のアメリカ軍はカリブへの攻撃と、来るべき日に備えての陸軍の編成、そして艦艇の整備に力を入れていた。このような状態になったのは、開戦からしばらくしてからの恐慌状態が影響していた。狂ったように沿岸防備砲台、高射砲部隊を作り上げたが、あまりにも無駄だったことが分かってきたので、その反動から次に用意するべき迎撃のための兵器や部隊が大幅に縮小されたのだ。
 そして当時のアメリカは、まだまだ艦艇と船舶双方の不足に悩んでいた。

 開戦時のアメリカは約1200万トンの船舶を保有していた。多くは経済性を重視したタンカーで、外航洋の大型船も船も多かった。ミシシッピ川や五大湖で運用する内陸船舶以外では、小型船は非常に少なかった。これは島国と言われる日本の船舶事情とは大きな違いだった。
 そして開戦から半月もすると、欧州枢軸陣営の通商破壊戦が開始され、約二ヶ月間に沈められたアメリカ商船は200万トンにも達した。その後、すぐに日本の救援を受け、さらに自らも対潜水艦戦に力を入れたが、受ける損害は建造される量を上回っていた。このためアメリカの流通網は石油輸送を中心に混乱し、戦時生産の移行の遅れや生産の遅れが発生した。開戦から1年ほどのアメリカが、統計数字から見たら驚くほど不調なのは、間違いなく通商破壊戦の影響だった。
 アメリカ軍は沿岸部の防備を強化して航路を国内航路を限定することで損害を押さえ込んだが、中南米行きの航路には護衛艦艇を付ける以外に手が無かった。それでもアメリカは多くの資源を国内で賄えるし、基本的に太平洋側は安全だったので、体制を立て直すことで損害を限定することは比較的容易かった。
 それでも損害は皆無ではないし、本国沿岸も夜間が危険なのは変化無かった。水上捜索レーダーが艦船と航空機に広く搭載されるようになるまでが勝負と考えられたが、日本と協力したり英連邦自由政府の技術者の助力を得ても簡単では無かった。
 だが、努力の甲斐あって、毎月受ける損失は30万トン程度まで押さえ込むことに成功していた。日本と英連邦自由政府から戦術を取り入れ、艦艇と装備を調えることで、敵に与える損害も大きくなっていった。
 しかし大西洋、カリブ海は、押収枢軸のほぼ全ての潜水艦が活動する海だった。強敵のドイツ、イギリス本国に加えて、フランス、イタリアも潜水艦による通商破壊戦を行っていた。
 しかしアメリカとの開戦から一年もすると、アメリカが沿岸での防備を強くしてかなりの損害を受けるようになっていたので、戦果と損害の関係から欧州枢軸各国はアメリカに対する通商破壊作戦にあまり力を入れなくなっていた。盟主のドイツですら、短期的に対ソ連戦を重視して海軍への比重を下げているのが実状だった。イギリス海軍内でも、大西洋よりもインド洋もしくは東南アジアでの日本に対する通商破壊戦に力を入れた方が良いのではないかという意見が少なからず出ていた。
 だが日本に対する潜水艦を用いる攻撃は、効果を上げるには拠点を東南アジアに置かねば意味がないと考えられていた。しかし既にシンガポールは敵に奪われ、日本軍がインド洋へと押し出しつつあった。逆に、日本軍がインド洋に出てきたからこそ、上陸や補給を阻止する為に潜水艦による通商破壊戦が必要と言う意見もあったが、前線への補給は強固に防衛されているので損害も大きくなる。ましてや日本海軍は、イギリスに次ぐか凌ぐほどに対潜水艦に熱心で、開戦以来多くの損害を受けていた。

 そして1942年4月から6月にかけては、アメリカ海軍と日本の遣米艦隊(+カリブ艦隊)にとって、最も苦しい時期の一つとなった。
 ヨーロッパから多数の潜水艦が出撃し、ドイツ海軍が編み出した「ウルフ・パック(群狼戦法)」で商船狩りばかりか対潜水艦艦艇も狙ったからだ。対潜水艦艦艇を狙ったのは、この時期のアメリカ海軍は対潜水艦用の「護衛駆逐艦」の整備を本格化したばかりで、まだ各地の造船所の体制を整えつつあるところだった。既存の駆逐艦の対潜能力は開戦時と比べて比較にならないぐらい向上していたが、基本的に旧式なので能力が不足していた。加えて、まだ数が不足していた。1937年、38年に計画された駆逐艦の数は、日本海軍よりも少ないぐらいだった。
 むしろこの時期は、日本海軍が対潜専門の護衛戦隊を2個戦隊カリブ方面の航路に投入していたので、日本海軍の方が戦力が充実していたほどだった。
 ちなみに日本海軍の護衛戦隊とは、旧式軽巡洋艦か司令部施設を増設した旧式駆逐艦を旗艦として、旧式の二等駆逐艦か「海防艦」と呼ばれる小型低速の対潜専門艦艇をまとめた部隊になる。海防艦の大きさは、初期の《千鳥型》《鴨型》で開戦時の戦時装備が約700トンだったが、戦時量産型の《大鷹型》は1000トン近くに拡大され、アメリカ海軍がその後何百隻も建造する護衛駆逐艦に性能も近かった。装備面でも、初期は対空装備をほとんど備えず爆雷などばかり搭載していたが、徐々に対空砲、機銃を搭載していく。このカリブ派遣でも、機銃を増設した戦時建造型が派遣されていた。1個戦隊は、旗艦1隻に4隻一組の護衛隊を4隊組み入れたもので、交代のため2個戦隊で一つの海域の護衛に当たる戦術を取っていた。
 この頃の日本海軍は、旧式一等駆逐艦の《峰風型》《神風型》36隻、第一次世界大戦時に急造した《桜型》63隻、旧式二等駆逐艦29隻のうち状態のよい80%程があり、海防艦は既に100隻以上が就役して、このうち70%が実戦配備されていた。つまり既に200隻近い陣容を持っており、東南アジアでは対潜航空隊と共に枢軸海軍の潜水艦の跳梁を許していなかった。42年春頃は、戦力の充実に伴い余裕が少しあったので、カリブへの派兵が出来たのだ。しかし、そろそろ最初に派兵した水雷戦隊を一度帰国させたいという思惑もあり、アメリカとの間で政治的な折衝が続いていた。そしてアメリカ政府は、自国海軍よりも日本海軍を評価する向きが(表向き)強く、インドへのアメリカ陸軍の大量派兵と引き替えに日本海軍のさらなる増強すら望んでいた。
 これは日米の政治的取引と交渉となり、ワシントン駐在の吉田茂全権大使がアメリカ側の政府、軍部要人とのねばり強い交渉を行った。この頃の日本政府としては、自らの戦争遂行能力から出来る限り短期決戦を望んでいた。このため、インド戦線というよりユーラシア戦線は、セイロン島を奪ったら一気にアラビア半島へ突き進むことを考えていた(紅海手前のソコトラ島と、その後のペルシャ湾への二段構えの侵攻)。故に、アメリカ、特にアメリカ陸軍(と英連邦自由政府)が異常なほど積極的だったインド派兵は有り難迷惑に近かった。一方で、カリブ及び大西洋の連合軍全体の海軍増強は必要な事も分かっていたので、理を持って交渉してくるアメリカに対して日本側が不利だった。ただしこの時期の一連の交渉では、吉田は山梨首相から与えられた権限を駆使して、多くの人々と交流を深くしたと言われる。特にインドでの交渉では英連邦自由政府のチャーチル首相と関係を深め、1943年の日米英首脳会談のお膳立てをしている。

 連合軍内での駆け引きはともかく、1942年の春は大西洋、カリブ海の連合軍海軍にとって試練の時期となった。そうした時期に日本海軍の護衛戦隊が到来していた事は、少なくない効果があったが、この時ばかりは欧州枢軸海軍が勝っていた。
 アメリカは沿岸からの哨戒機を増強し、夜間にサーチライトを照らすなどして飛行させたりもしたが、再び北米大陸東海岸での被害が激増した。船舶は港に閉じこもり、航行しても護衛がない時は、沿岸ギリギリを航行して夕方には近くの港に待避する為、効率は格段に悪くなった。
 カリブ海での状況は、ジャマイカの戦いが連合軍の勝利で終わったのでマシだったが、アメリカにとって最前線といえるプエルトリコ島への補給は大きな損害が出た。しかも欧州枢軸陣営は、カリブ南東部の小アンティル諸島の航空隊も大幅に増強して、プエルトリコ島の空襲を強化した。
 そして予想以上に戦況が推移した事を受けて、欧州枢軸内ではプエルトリコ島の攻略が俄に取りざたされるようになった。
 局外中立を頑なにまもるハイチ、ドミニカのあるエスパニョーラ島を挟んだアメリカ領のプエルトリコ島を奪ってしまえば、カリブ海東部は安定し航空撃滅戦にも一息付けるからだ。もちろんアメリカに攻め込むための一歩などとは考えていなかったが、ロシア人との戦いが終わるまでの間は何があってもベネズエラの油田を維持しなければならないので、プエルトリコ島奪取は非常に魅力的だった。

 かくして1942年5月、欧州枢軸海軍の総力を挙げた支援のもとでのプエルトリコ島侵攻が決定された。
 それはカリブでの最も激しい戦いを告げるものでもあった。


●フェイズ20「第二次世界大戦(14)」