●フェイズ20「第二次世界大戦(14)」

 1942年5月から6月にかけて、世界の主要戦線ではそれぞれ象徴的な激戦が繰り広げられた。
 カリブ海ではプエルトリコ島の戦いが始まり、インド洋ではインドでの本格的な地上戦の始まりとなるセイロン島侵攻作戦が行われ、そして両軍合わせて1000万人もの兵士が対峙する世界最大規模の陸戦が展開されるロシア戦線では、欧州枢軸の二度目の対ソ夏季攻勢がされる。
 今時大戦は、まさに世界大戦だった。

 1941年10月末から予定されていたロシア戦線での冬季攻勢は、同盟国との関係を重視する形で、例年より酷いロシアの冬を前にして「延期」という形で中止された。
 11月からは陣地固守のための準備が急速に進められ、戦線の整理とロシア人(ソ連赤軍)の冬季反抗を見越した計画的な後退、遅滞防御作戦、機動防御部隊の設置など、多くの準備が進められた。
 アドルフ・ヒトラー総統は、当初は計画的とは言えロシアの大地からの後退に否定的だったが、次の夏に勝利するためという多方面からの説得と、フランスなどの同盟国に死守を命じるわけにもいかないという政治的理由もあり、「予め計画された作戦としての後退」は認めた。
 そして冬営用の陣地構築に際しては、既に時間がない事と冬のロシアの大地は凍って硬すぎるため、ロシア人がモスクワ防衛に作り上げた陣地の再利用が見られた。このため、モスクワ前面での最終的なドイツの後退はヴィヤジマと呼ばれるモスクワ防衛線のロシア側から見ての一番外のラインまで下がった。ヴィヤジマはモスクワとスモレンスクの中間に位置しており、モスクワまでの距離は約150キロメートルだった。つまりドイツ軍はモスクワ前面から100キロメートルも後退した事になる。しかし他の地域からの後退はほとんどなく、初期の懸案だったセバストポリ要塞も陥落させたので、南部では戦線はほぼ動かなかった。中でも、アゾフ海に面したロストフの街が確保され続けたのは、大きな得点と考えられた。ここを起点として、コーカサス及びボルガ河方面へ進軍しやすくなるからだ。これはアストラハンまでの中間点ともなるボルガ川にあるスターリングラードまで、約400キロメートルという距離でも分かりやすいかもしれない。ドイツ軍の電撃戦だと、スターリングラードまで最悪でも6週間で到達でき、秋までにアストラハンを占領できる事を可能とする場所が、起点となるロストフだった。
 補給路も鉄道の再整備が進んだので、鉄道兵站駅までの体制は対ソ連戦開始の頃とほぼ同じぐらいに良好となった(必ずしもそうとは言い切れなかったが)。
 そして補給が良好になったので、春になる前ぐらいから陣地固守用に多くの欧州各国軍がロシアの大地へと入っていた。何故固守用で攻撃用ではないかと言えば、攻撃のためには自動車、トラックによる補給が不可欠だが、ヨーロッパ世界は依然として全欧州の大軍を進撃させられるほどの数がなかったからだ。

 少し両軍の状況を見てから、戦況を追いかけてみたい。
 当時ソ連赤軍は、31個軍を前線に置いていた。後方には親衛軍や突撃軍という名を冠した精鋭部隊があって、通常部隊よりも戦車や機械化装備など優良な装備を多く持っていたが、赤軍にとって「切り札」のため反攻作戦や攻勢にしか出されないので、数としてカウントできない兵力だった。そして合わせて約800万の兵士が、これらの巨大な軍団を構成していた。しかし本当の精鋭部隊や頼りに出来る一般部隊はせいぜい全体の3分の1程度で、無限と思われた兵士のなり手も少しずつ不足していたので、年齢幅を広げて全てのロシア人の徴兵が進んでいた。この根こそぎ徴兵と兵士を消耗品として扱う戦略は、ロシアの人口問題に戦後長らく暗い影を投げかけることとなる。
 ソ連軍以外の連合軍としては、42年春までに80万の兵力に達した満州国軍があった。と言うよりも、満州軍だけが連合軍としてロシア戦線に加わっていた。
 彼らはロシア人から「タタール」と呼ばれ、政治将校や共産党関係者の一部はともかく、ロシアの将兵や市民からは愛された。ロシアの大地でロシア人の為に戦ってくれるという事が最大の理由で、加えてタタール(モンゴル人)はロシア人にとって歴史的トラウマであると同時に「強い兵士」の代名詞だったからだ。
 しかし、兵士の多くはタタールと呼んでも良いモンゴル系は極めて少なく、モンゴル系に近い満州族も将校や士官などに僅かにいるだけだった。兵士の殆どは漢族、しかも約半数が再訓練を受けたもと中華民国軍の兵士だった。そして80万の巨大な軍隊を実質的に運営していたのが、日本人将校と日本陸軍から教育を受けた漢族、満州族の人々だった(※ごく僅かに満州に帰化した朝鮮族と中華民国系将校もいた)。
 部隊の編成は当時の日本陸軍に準じており、軍服と鉄兜は日本製で、見た目は日本軍に非常に近かった。軍服がカーキ色なので、ソ連(ロシア)軍にも少し似ていた。
 だが装備の多くは、アメリカがレンドリースで貸与もしくは無償供与した兵器で占められていた。小銃(カービンまたはガーランド)や手榴弾、拳銃から始まって、自動車、トラック、野砲、対戦車砲、戦車に至るまで、ほぼ全てがアメリカ製だった。塹壕を掘る携帯シャベルまでがメイド・イン・USAだった。
 擲弾筒(グレネードランチャーの一種)など日本軍独自の装備も見られたが、すぐに80万人分の装備を満たせたのはアメリカの生産力だけだった。しかし1941年冬頃のアメリカは、まだ戦時生産が完全に本格化していなかったので、アメリカ陸軍への供給を先延ばしして満州軍の装備を満たしていた。「M3 グランド」中戦車など、初期生産のほぼ全て(約300両)が満州軍にレンドリースされている。冬の戦いでは「M3 グランド」が間に合わないので、日本軍の戦車と「M3 スチュアート」軽戦車だけで戦ったが、冬の戦いはドイツ軍やフランス軍にも戦車が殆ど無かったので事なきを得ていた。冬の戦いでは、満州の極寒の中で培われた日本陸軍の兵器(と防寒装備)が、旧式が多いながらも活躍していた。
 80万の内訳は、師団1個当たりの兵員数は約3万人で、1個軍(軍団)で10万、35万で1個方面軍(軍)となり、満州軍は2個軍21個師団で、ロシア派遣総軍(軍集団)を編成していた。部隊の最上位を軍集団単位としたのは、政治的発言力を得る為もあるが、何より独立性を維持するためだった。
 師団のうち戦車師団は総軍直轄の1個しかなく、各方面軍は戦車旅団しか持たないが、各師団は編成表の上では戦車連隊(4個中隊・58両)を有していた。しかし定数全てを満たすには1600両以上の戦車が必要で、当時の日本とアメリカのレンドリースはこれを満たせなかった。戦車総数は軽戦車を含めても定数の半数程度で、多くが車両牽引の対戦車砲やハーフトラックの荷台に対戦車砲を乗せた車両で代替されていた。
 その代わり、旧式でも対戦車砲は多数持たされており、師団自体の機動性も自動車化か半自動車化されているため高かった。また、ソ連側の受け入れ体制がない事もあって自前の航空隊を派遣できないので、対戦車砲にも使えるように砲弾なども手配された高射砲が多数装備されており、師団規模で軍団規模の部隊を有していたほどだった。トラックにM2機関銃を据え付けた輸送車も防空任務に使えるので、満州軍の防空能力はこの当時としては非常に高かった。ロシア人たちが、野戦防空師団かと勘違いしたほどだった。
 また補給や補充のため、シベリア鉄道には専用列車が定期的に運行されており、トラックなどの数もソ連軍より潤沢だった。
 満州軍の総指揮官は、もと馬賊で満州がまだ中華民国領だった頃の一時期に東鉄の軍事顧問もしていた満州族の馬占山(大将)だったが、実質的な指揮は日本陸軍が行っていた。総指揮官の経歴から、傭兵部隊と言われることがあるほどだった。
 総軍参謀長には、当時の日本陸軍中枢(というより永田、東条ら)と些細なことから対立した石原完爾中将が当たっており、中将以上の人材が当てられる軍、軍団指揮官から師団長はともかく、各部隊の参謀や将校の多くも日本陸軍の中枢から外された、もしくは事実上パージされた「問題児」たちが多く含まれていた。特にアメリカ軍との共同作戦で支障をきたすと考えられた合理性に欠けた将校が多く、日本陸軍の中央からは「愚連隊」と陰口を言われることもあった。実際問題、「精神論」を唱える将校、軍の権威を利用しがちな将校の中でも問題児と考えられた人々は、ほぼ間違いなく満州軍に派遣されていた。天保銭と呼ばれる人々ですら、戦時と言うことで容赦なかった。このため永田の下で人事を実質的に差配した東条将軍は、陸軍の一部から蛇蝎のごとく嫌われる事になる。
 ただし、日本陸軍がもとから敵性言語としてロシア語教育に熱心だったので、現地ロシア人との交流が比較的円滑に行えたりもした。また、厳しすぎるロシアの大地での戦闘で、多くの者が軍人としての本分を尽くさざるを得ず、派兵前に言われたほどの問題は起こさなかった。ロシアの大地は、安易な精神論を許すような場所ではなく、特に1941年の冬が例年より厳しかったことがその傾向を強めさせていた。
 そして何より、巨大な陸軍部隊を中央から五月蠅く言われずに運用できることで充足した毎日を送ったと証言したり記録に残した将校が多かった。「この戦場で戦うために生を受けた」と言った高級将校も居たほどだった。こうした将校達は、いまだ腰に軍刀(日本刀)を差しているため、ロシア人から「サムライ」とも呼ばれた。

 対する欧州枢軸軍は、ドイツ軍が4個装甲軍と8個歩兵軍を派兵していた。装甲(戦車または機甲)師団を中核とした装甲軍(機甲軍)を編成しているのはドイツ軍だけで、他は装甲(戦車または機甲)師団や機械化師団をせいぜい軍団単位でしか持っていなかった。工業力のない東欧の中小国だと歩兵師団しか無かった。各国にはイギリスから供与された戦車がかなりの数配備されていたが、数が全然足りていなかった。
 それでもフランスが3個軍を持ち込み、1個軍を北部、2個軍を南部と中部の間に置いていた。イタリア軍は2個軍派遣し、2個とも南部に置いていたが、春の時点ではうち1個が戦線後方で待機していた。他は、ルーマニアが2個軍、ハンガリーが1個軍、ベネルクスが合同で1個軍派兵していた。あわせて9個軍で、数だとドイツ軍の歩兵部隊に匹敵するが、戦力としてはせいぜい70%程度だった。特に東欧諸国の軍隊は装備など多くの面で脆弱だった。戦車どころかまともな装甲車もほとんどないし火力も貧弱なので、密度を高めて使用しても心許なかった。そしてドイツには、他国に供与できるだけの兵器がなく、辛うじてイギリスが装備のいくらかを供与もしくは貸与したに止まっている。このためイギリス製兵器を見たら東欧諸国軍だと思えと言われた。ドイツ軍が頼りに出来るのは、フランス軍とイタリア軍の一部精鋭部隊ぐらいで、侵攻作戦はドイツ軍が担わなければならなかった。
 フランス軍とイタリア軍も大規模な機甲部隊の編成は進めていたが、工業力、生産力の限界からドイツ、ソ連に劣っていた。その上ドイツの無理難題もこなさなければならないので、本来の国力、生産力が全く発揮できていなかった。
 フランスは、20トン級の戦車を早くから生産できる能力があるので、この時期はかなりの努力を行っていた。そうして登場した「S-41」中戦車は、ドイツからの技術指導を得て開発された戦車で、総重量25.5トンと「S-35」を一回り大きくてバスケット型の3人用砲塔を載せていた。その他、今までの欠点も多く克服されていた。しかし火砲は新規に開発できず従来通りの47mm砲を長砲身化しただけだったので、ソ連軍戦車に対しては火力不足だった。この点は、日米双方がフランスが開発した75mm野砲を改造したり発展させ、戦車砲に使用している点と大きな違いと言える。
 だが、当時のドイツ軍も42年春の時点で「III号戦車」の50mm長砲身型をようやく主力としたところだったので、それほど劣るとも考えられていなかった。イギリスでも、現行では2ポンド(40mm)砲が全てだった。
 イタリアもロシアに大軍を派遣したので陸軍への予算配分が大きくなり、他国の支援を得て新兵器の開発に力が入れられたが、工業力の限界から成果はなかなか見られなかった。このため、イギリス軍から一部戦車の供与を受けていた。
 既に75mm砲を搭載するソ連やすぐに追随したアメリカ、そして他国に合わせた背伸び感が拭えない日本など連合軍の方が過剰と見られていたほどだった。
 そしてフランス軍は、1941年内に再編成に努めてフランス陸軍としては重編成の機甲師団4個と準機械化された自動車化師団を6個編成し、支援部隊を加えてドイツ軍のような装甲軍を一部で編成していた。戦車の運用も歩兵の支援から独立して使うことを、ドイツとの戦いとロシアでの戦いで思い知らされていたので、運用の根本も変わっていた。
 イタリア軍についても同様で、リットリオ、アリエテなどの名称を冠した装甲師団や機械化師団を編成したが、どうしても装甲戦力(戦車)が弱体だった。このため装備の一部は、イギリスからの供与に頼っていた。他国の旗を付けた「マチルダII」歩兵戦車は、ロシア戦線でも活躍していた。
 なお、兵力の総数は20個軍で合わせて550万ほどになる。最初は北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団の3つに分けて、3〜4個軍で各軍集団を編成していたが、同盟国の戦力が低いからと言っても軍集団の規模が大きくなりすぎていた。このためソ連軍の冬季反抗が終わった3月に大きく改変され、南方は大量の同盟国軍の編入に伴ってA軍、B軍、C軍集団の3つに分けた。合計で5個軍集団を平均すれば各軍集団は4〜6個軍ずつ持つことになるが、北方と中央は3〜4個軍、A軍が6個軍、B軍が3個軍、C軍が4個軍を有していた。南方とコーカサスにはこれからの進撃で広がる戦線を守るためのドイツ軍以外の部隊が後方で待機する形になっており、北に行くほど当面は固守の構えだったので、兵力の極端な比率となっていた。特にA軍集団の規模が大きいのは、戦線を一時的に大きく広げるための守備用として同盟国軍が多く属していたからだった。そして同盟軍の軍規模は小さいので、軍集団としての規模の差はそれほど大きく違わなかった。

 1942年の初夏から開始予定の対ソ連夏季攻勢の主目標は、バクー、アストラハンの占領。この戦略目標の決定には、多分に資源問題が絡んでいた。
 ドイツ軍参謀本部は、今度こそソ連共産主義体制の打倒を目的としたモスクワを目指すべきだと考えて提案もしたが、ヒトラーから否定されたし各国からも反対が相次いだ。原因は、ヨーロッパ世界全体の石油事情だった。
 当時のヨーロッパ世界の油田は、ルーマニア油田が域内にあるのを除けば、全て海外にあった。最大規模がベネズエラのマラカイボ湖油田で、次いでペルシャのアバダン油田、東南アジアの東インド油田群となる。中東には多くの石油が眠っていることは分かっていたが、イラクの一部以外でほとんど開発は進んでいないので、調査こそ進めるが戦争中に役に立つ可能性は無かった。
 そして上記した油田のうち、すでに東南アジアの油田は連合軍の占領下や影響圏となっていた。油質のよいペルシャでの産油と輸送は順調だが、ルーマニアの油田と足してもヨーロッパ全体では足りていなかった。イギリスなど欧州世界が有する大量の船舶を運航させるためには、ベネズエラの油田が必要だった。だが、ベネズエラはアメリカに近く、距離と国力の問題からいずれ運べなくなると考えられていた。そしてベネズエラの油が欧州に来なくなる前に別の油田が必要だった。ガソリンなら、採算度外視で人造石油の精製という方法もあるが、安価な重油だとそうもいかない。経済を維持して戦争を続けるためには、欧州と海外を結ぶための船の運航が必要だった。
 だからこそのコーカサス侵攻だった。
 コーカサス山脈のカスピ海沿岸には、バクー油田と呼ばれる当時世界最大級の油田があり、ソ連の年産約3800万トン石油の70%程度を産出していた。しかも油の質もよく、もともと油田を開発したのがドイツの技術者なので、占領できれば短期間で欧州にもバクーの石油を供給できると考えられた。欧州への石油輸送が仮に出来なくても、ソ連の戦争遂行能力を大きく殺ぐ事が出来るので、戦略上で非常に重要だった。
 重要性は欧州各国全てが理解しており、それまでソ連戦にほとんど参加していなかったイギリスですら、大規模な派兵を決定した。イギリスが派兵を決定した場所は、ソ連領内への空軍の派兵を除けば、中東だった。イラクのキルクーク(小規模な油田があり、さらに開発中)に空軍基地を設置して、そこから重爆撃機による爆撃を行い、ペルシャと話しをつけて南からバクーへ侵攻する予定を立てた。しかし集結場所から侵攻する最初の段階まで全て山間部で、中東の貧弱な鉄道網での部隊や物資の集積には問題も多いため、大規模な戦力を短期間で用意するのは不可能だった。戦線がロシアだけなら何とかなったが、カリブ、インドと大きな戦線を抱えるイギリスとしては、他では補助的な役割しか担えなかった。にもかかわらず中東に戦力を投じたのは、ベネズエラ油田に対する危機感の現れでもあった。

 欧州枢軸軍の対ソ夏季攻勢の攻勢発起点となる兵站駅のある都市は、北からクルスク、ハリコフ、ロストフだった。
 クルスクは中央軍集団、ハリコフはA軍集団、ロストフはB軍集団、C軍集団が使用していた。
 B軍集団の最初の目標はヴォロネジで、来るべきモスクワ攻略で確保しておきたい都市だった。ここを確保できれば、モスクワを南方から迂回して回り込むことも可能となる。
 A軍集団の北翼の目標はアストラハン。途中のボルガ川沿岸にあるスターリングラードまで一気に突進し、そのままの勢いでカスピ海沿岸のアストラハンまで進み、コーカサスとロシア中央部を遮断することが目標だった。このため戦線が伸びるため、多くの同盟国軍が属していた。
 そして南翼のC軍集団がコーカサス地域、特にバクー油田攻略を目指す。
 ドイツ陸軍が有する4つの装甲軍のうち3つが、それぞれの軍集団の中核となって先陣を切ることになっていた。装甲軍は装甲師団(戦車師団)、機械化歩兵師団(自動車化師団)で編成された装甲軍団を中心に編成されており、当時のドイツ陸軍は国防軍の装甲師団は21個、親衛隊が2個、機械化師団12個を編成し、編成中のそれぞれ1個師団を除いた全てが、4つの装甲軍に属していた。装甲軍は第1から第4まであり、北に配備された第2装甲軍の戦力は低く、他の3つに戦力が集中されていた。さらに北の装甲軍は実質的に二つに分けられ、防衛(機動防御)用となっていた。侵攻の先陣を切る3つの装甲軍は8〜10個の装甲、機械化師団を有し、強力な突破戦力を構成していた。

 また各軍集団を支援する空軍だが、航空師団(航空艦隊)で見るとドイツが3個、イギリス、フランス、イタリアがそれぞれ1個をロシアの大地に展開させていた。イギリスが既に展開している部隊は基本的に戦略爆撃用で、バルト海沿岸のリガに展開してレニングラードやモスクワ方面を爆撃し、主に鉄道路線や橋梁、運河を狙った。
 フランスとイタリアは自軍の展開する南部に置いて、ドイツ空軍を支援する形になっていた。ドイツは、北と中央に1個航空艦隊を置いて、2つを南部に集中していた。つまり今回の夏季攻勢では、4個航空艦隊が陸軍を支援する形となる。加えて、師団より一つ下の単位となる連隊規模の航空隊が、中東方面からバクー侵攻を支援する事になっていた。
 1個航空師団(航空艦隊)の定数は600機程度なので、対ロシア戦に向けられた4000機近い航空機のうち2500機ほどが南ロシアの空を飛ぶことになる。そして補給の円滑化などのため、フランス、イタリアなどドイツ以外の空軍機の多くが、イギリス製エンジンを搭載したため、戦力もかなり向上していた。イギリス本国では、マーリンエンジンが他を置いて24時間体制でフル生産を実施していた程だった。またイギリス製の航空機の供与も進むようになり、他国のマーキングを施したスピットファイアなどがロシアの空を飛ぶようになった。
 航空戦では、気象条件で運用が難しくなる冬以外はソ連空軍が劣勢で、このためソ連は当初から連合軍に強い支援を要請していた。冬が終われば枢軸空軍の活動も活発になると見られていたので、攻勢が開始されるまでに出来る限りの支援を求めた。
 連合軍も指をくわえて見ていた訳ではなく、実働部隊としては満州で大量の航空兵の養成が行われていた。しかしすぐに戦線に送ることが出来る戦力は僅かで、大量の部隊を送り込むには後2年も必要だった。日本の空軍(陸海軍航空隊)は、中華戦線がまだ残っていたし、これから始まるインドの戦いにほぼ全力が必要だった。
 アメリカの陸軍航空隊も大量養成はまだ練成途上で、その上無駄な消耗が報告されているロシアへの派兵には強く反対していた。それに今ある部隊は、カリブでの戦いと念のための本土防空に必要だった。42年下半期に入ればかなりの数が用意できるが、アメリカ陸軍は陸軍部隊と共にインドへの派兵を予定していた。
 故に支援は、航空機と航空機燃料の供与だった。特にアメリカは42年に入る頃から続々とレンドリースをソ連に注ぎ込んだ。バーターとなる原料資源もいらないと言いたげな規模で、日々消耗するロシア人パイロットの数を遙かに上回る機体が、満州の東鉄により日々強化されているシベリア鉄道で運ばれていった。中型機以上だと、アラスカから直接ロシアの大地に飛んだりもした。
 この時期主に供与されたのは「ベルP-39 エアコブラ」戦闘機と「カーチスP-40 トマホーク」戦闘機と、「ノースアメリカン B-25 ミッチェル」爆撃機になる。特に「P-39」は自国での装備は少な目で、多くをレンドリースとした。ソ連空軍ではこれを通常の戦闘機戦闘に投入し、アメリカ軍が不合格を出していたにも関わらず、武装を37mm砲だけにして軽量化した独自改造型だったが、かなり優秀な機体と評価されていた。
 「P-39」は「P-40 」共々ソ連以外にも数多く貸与され、日本陸軍は地上支援機として使用した。貸与用とされたのは、戦闘機としての性能が今ひとつだった為だが、37mm砲を搭載するため地上支援機としてはそれなりに使えた。もっとも、欧州枢軸陣営から見たら、戦闘機としてはカモでしかなかった。アメリカが自ら使ったのも、「P-40 」の航続距離が海での戦いでは短いからで、「P-39」を使いたくて使ったわけではなかった。日本陸軍航空隊でも、あくまで支援用で制空任務には余程の苦境じゃない限り投入しなかった。しかし当時の日本陸軍には対地支援に使える小型単発の有力な機体が無かった(※「九九式襲撃機」があるが数が少なかった)ので、陸軍将兵からは「カツオブシ」と呼ばれてかなり頼りにされた。なお日本軍では、カタログスペックよりやや重い250kg爆弾を搭載するか、60kg爆弾4発を搭載している。
 なお「P-39」は、英連邦自由政府空軍、フランス救国空軍にも供与されているため、「P-40」ともども連合軍の初期の主力戦闘機として各地で見ることができた。
 また日本も貸与しており、特に中島飛行機が熱心だった。これは三菱との競争に勝つためという国内要素が大きく、「九七式戦闘機」など日本軍で既に使われなくなったお下がりの旧式機が多かった。このため、川崎が国内であまり使われない為に供与機とした「一式重戦闘機(飛燕)」の方がロシア人パイロットからは好評で、アメリカ軍機と比較しても優れていたので「ラーストチカ(燕)」と慕われた。

 なお、欧州枢軸軍というよりドイツ軍が夏季攻勢を開始するまでに、ソ連は別の戦線で動いていた。
 モスクワを「守り抜いた」ことで自信を取り戻したスターリン書記長が、野心を燃やした結果起きた事だった。
 スターリンが行ったのは、連合軍としての義務を果たすという建前での中華民国への宣戦布告と、ウイグル(東トルキスタン)への侵攻だった。すでに現地では民族ゲリラが蜂起して、一部では独立に近い状態となっていた。これをソ連が利用した形で、取りあえず共産化や共産党政権の樹立は外交問題もあるので表向き脇に置いて、現地勢力と結託する形で中華辺境へと侵攻した。そしてこれは思いの外成功して、4月に行動開始して僅か一ヶ月で東トルキスタンと言われる地域の80%を実質的な支配下に置く。しかし中華域内の共産党は、既に1934年に内戦の結果殲滅といえる状態のため、中華地域の共産化は新しい人材探しから始めなければならない状態だった。
 そしてソ連が、中華地域での次の動きを進めるより早く、欧州枢軸軍の総力を挙げた第二次夏季攻勢が開始される。

 1942年5月22日、「青作戦(オペラツィオーン・ブラウ)」が発動された。対ソ連戦開始2周年のこの日、約200万の欧州枢軸軍が、ソ連の喉元を締め上げるべく、そして自らの渇きを事前に癒す手段を得るためにロシアの南の大地へと進み始めた。
 既にセバストポリが陥落していたクリミア半島南部の防衛はイタリア軍主体の部隊(イタリア第7軍)が防備を固めており、冬にこの場にいたドイツ軍(第11軍)はロストフ方面に移動し、今度は東側から殺到してクリミア半島の対岸で彼らを手こずらせたロシア人を包囲するつもりだった。
 以下が、「青作戦」の時の、北から順番に見た各軍集団ごとの軍配置になる。

 北方軍集団 :第16軍、第18軍、仏第4軍(+フィンランド軍)
 中央軍集団 :第2装甲軍、第4軍、第9軍、仏第5軍

 B軍集団  :第3装甲軍、第2軍、仏第3軍
 A軍集団  :第4装甲軍、第6軍、
        イタリア第8軍、ハンガリー第2軍、
        ルーマニア第3軍、ルーマニア第4軍
 C軍集団  :第1装甲軍、第11軍、第17軍、イタリア第7軍 

 ドイツ軍以外の部隊で初期の攻勢に参加するのはフランス第3軍だけで、フランス第3軍は機甲1個軍団を有する上に火力も大きいので、ドイツ歩兵軍以上の戦力と考えられていた。攻勢に使うために戦力層もドイツ軍以上に分厚く編成されていた。この点からは、フランスの本気度合いが伝わる。
 とはいえ突破戦闘の主力はドイツ軍だった。
 第1装甲軍、第3装甲軍、第4装甲軍は、ドイツ軍の戦車など機械化部隊の80%以上を集めた最精鋭部隊に再編成され、彼らの突進力と突破力に作戦の成否がかかっていた。

 一方のソ連軍だが、昨年の戦闘で大きな教訓を得て、方針に大きな変更があった。
 端的に言うと、無意味な死守命令の否定だ。
 そしてこの夏は、ヴォルガとコーカサスでギリギリまで後退して、予備兵力は可能な限り投入せず、欧州枢軸軍の攻勢が限界点を迎えたところでの総反攻を決定した。
 また、外様の満州軍については、命令系統も違うし政治的に激戦への投入も躊躇われたため、中央軍集団とA軍集団間の辺りに展開していた。真ん前の軍はフランス第5軍で、一部がヴォロネジの戦いの北翼として参加するに止まっている。
 そしてドイツ軍は、突進に突進を重ねて前年のような包囲殲滅戦を企図したが、ロシア人達はほとんどの場合がドイツ人が殺到するより早く逃げ去っていた。場合によっては、地域の食糧などの物資も持ち去っていた。頑強に抵抗する場合は、どうしても防衛しなければならない場合だけで、主にスターリングラード前面で見られた。
 スターリングラードはボルガ川の要地にあり、工業都市として地域の中心だった。時の支配者の名前を冠するだけの価値のある街だったのだ。だがドイツ軍は、僅か一ヶ月足らずの6月20日に達してしまう。快速を誇る第4装甲軍の戦果であり、ソ連の独裁者スターリンは攻略される3日前に慌てて街の名称をボルゴグラードと改め徹底抗戦を命令した。
 しかし、迎撃準備が何もかも足りなかったスターリングラード改めボルゴグラードでは、まともな市街戦もできないまま呆気なく陥落する。あまつさえ、そのすぐ後にボルガ川の渡河も許しており、ドイツ軍の突進がいかに早かったかを伝えている。
 その突進力は止まることを知らず、攻勢開始から約2ヶ月後の7月26日に、カスピ海に面するアストラハンに到達した。
 アストラハンは、ドイツ軍が最初に立案したバルバロッサ作戦で、最終目標到達地点の南端に位置している街で、ここと北極海に面するアルハンゲリスクを結ぶラインまで侵攻できれば、ソ連は崩壊して戦争が終わると考えられていた場所になる。
 この時点で、ソ連が想定していた防衛計画の一部が早々に破綻した。ドイツ軍のボルガ川到達によって、アストラハンからボルゴグラードの間のボルガ川下流域の河川防衛ラインが作り上げられ、大量に動員されていた同盟軍がすぐにも配置についていったからだ。しかも、B軍集団によるヴォロネジ占領はあったが、ヴォロネジの西側を流れるドン川はボルゴグラード近くまで続くので、こちらも河川を防衛戦として利用できた。これで侵攻側面を北から逆襲される危険が大幅に低下し、ドイツ軍は安心してコーカサスに大軍を進められるようになった。
 ソ連軍もドン川の西側は可能な限り守ろうとしたのだが、これが一部で川に蹴落とされるか死守で包囲殲滅されるかの二者択一となり、多くの部隊が防衛体制が整わないまま犠牲となった。
 しかも、その隙を付かれてヴォロネジが陥落したことで、ドイツ軍はドン川の東側から北に入ってモスクワを伺うようになるため、今度はソ連軍の方が防衛戦が不安定となってしまう。これは、本来南部での反攻作戦で使うべき戦力が大幅に減ることを意味していた。同方面の近くには満州軍もいたため、主に前面のフランス軍との間で激しい戦闘が見られた。
 そしてボルガ川が使えなくなることで、ソ連の河川交通が大打撃を受ける。特にカスピ海からの石油の輸送がボルガ川ルートを使えなくなるので、今後はウラル山脈からの鉄道ルートを使う事が考えられた。

 そしてこの時活躍したのが、意外にも東鉄だった。
 東鉄は、ロシア戦が始まってからシベリア鉄道の運行に関わる事で、既にソ連へのレンドリースで大きな存在感を持っていた。そして物資供給の情報を多く持つようになったため、戦争がどのように進展するかについても各種数字から統計をとって予測していた。本来は経済や政治情勢を予測するために存在する東鉄シンクタンクが出した結論は、ソ連は一時的であれバクーの油田を使えなくなる、という事だった。このため、少しでも回避する準備をレンドリースのリストに載せて、ソ連政府からの了承も得ていた。
 そして、峻険で複雑なコーカサス山脈と複雑な山や高地が国境となっているトルコ、イランの山岳地帯の間にあるバクーを陥落させるのは一筋縄ではいかなかった。コーカサスからバクーに至る平地は、実質的にカスピ海沿岸の極めて細い場所しかなかった。他は険しい山岳地帯で機甲部隊が活躍できる場所ではなく、訓練された歩兵の戦場だった。そしてロシア人達も予期していたので、計画的に後退していく歩兵は優れた兵士が選ばれていた。そして山岳地帯に至ると、ドイツ人の前進は今までの神速が嘘のように停止してしまう。しかも交通網に乏しいコーカサスに至る平原を短期間で踏破したため、補給状態も非常に悪化していた。
 6月からはイランからのイギリス軍による爆撃と侵攻が開始されたが、こちらの地上侵攻は牽制と陽動、そして兵力を引きつけることが半ば目的なので、バクーを奪うのは無理だった。一度バクーめがけてイギリス軍の重爆撃機がイラクのキルクークから飛び立ったが、バクーはモスクワのような高射砲の巣になっていたので、イギリス軍爆撃機隊は大損害を受けた。その上、反対側のインド洋が連合軍の侵攻で不安定になったため、全てで中途半端なことしか出来なかった。

 バクーは二つの巨大山脈を天然の要害として徹底した消耗戦を敵に強いて、連合軍はコーカサス山脈とバクー周辺に籠もるソ連軍を万難を排して補給するという案が、東鉄の出した結論だった。バクーへの補給はカスピ海の海路を使い、行きは武器弾薬や兵站物資を運び、帰りはドラム缶でもいいので石油や石油精製物を満載する事になる。このために42年春頃から、レンドリースにカスピ海で運行できる小型か中型の船が部品の形で運ばれるようになり、ウラル山脈から流れてカスピ海に注ぐウラル川の畔にあるグリエフの街(現アテラウ)を俄に造船と港湾の街とする工事が始まる。工事には多数のソ連市民が動員され、秋までに港と造船所が稼働し、日々拡大していった。ロシア各地から集まった河川用の船もカスピ海に激増し、シベリア鉄道からグリエフに至る鉄道路線も強化された。またグリエフの街はアストラハンから300キロメートル程度の距離で、欧州枢軸の空襲が予測されたため、航空隊と高射砲部隊も数多く配備された。当然だが、1個軍以上の地上部隊が守りに就いていた。
 しかし、ソ連という国が倒れるほどの打撃を受けない限り、ドイツ軍が300キロメートルを踏破することは無理と考えられた。鉄道がないので物資をトラックで運ぶしかないが、全ヨーロッパを見渡してもそこまでの余裕はないと考えられたからだ。何しろ、持てる限りのトラックは、コーカサス方面に投じられていた。
 また油田に関しては、第二バクーと名付けられ連合軍にも秘密にされていたチュメニ油田があり、ソ連は独自に採掘量の増強を進めた。
 しかし全てがうまくいっても、ソ連が使うことの出来るバクーの油は、大きく減少することになる。これは前線で活動する機械化部隊を始めとする軍隊の行動を束縛するばかりでなく、工業生産にも大きく影響していった。一部はレンドリースでアメリカから貸与されるが、シベリア鉄道は他に運ぶものが多すぎるため、航空ガソリンの一部貸与に止まった。

 かくしてバクーを巡る戦いは、アストラハンが陥落した時点で大きく変化した。ドイツ軍を始めとする欧州枢軸の大軍は、大軍を広く大きく展開したまま進みたくても進めず、かといって極めて重要な戦略目標があるため引くに引けなくなってしまう。
 しかしドイツ軍も何もしないわけではなく、ヴォロネジ=ボルゴグラード=アストラハンを結ぶ河川防衛ラインを続々と固め、また空軍を用いた爆撃を強化して、ソ連軍が企図していた冬季反抗を安易に行わせない算段を立てた。
 ソ連側も、博打要素と危険度が大きい現時点での反攻作戦よりも、反攻用の部隊を使ってでも欧州枢軸軍を兵站限界の先で消耗させ、長期的な疲弊を待つ方が得策と考えた。またしばらくは燃料事情が悪くなるので、油を散財する行動は慎まねばならない事も、大規模な反攻を断念させる大きな要因となった。
 スターリン書記長もかなり悩んだと言われているが、1941年冬の反攻が冬営で待ちかまえていたドイツ軍に反撃された事が、最終的にこの時の反攻を「延期」させることになった。

 一方のドイツ軍を中心とした欧州枢軸軍だが、最大で攻勢発起点のロストフから800キロメートルも前進していた。この距離は、ポーランド国境からモスクワ前面の距離に匹敵した。ベルリンからだと、2800キロも陸路を進んだ先だった。そしてボロネジ=ボルゴグラード=ロストフのラインには欧州枢軸の大軍が並んでいた。コーカサス山脈の手前も同様だった。このため補給に極めて大きな負担がかかるようになり、兵站線の増強と建て直しをしなければ何も出来ない状態に自ら追い込まれていた。コーカサス方面での進撃がうまくいかなかったのも、現地に鉄道インフラが少なく何もない平原が続くだけのコーカサスでの補給の負担が大きすぎた事が、大きな原因を占めていた。
 これでロシア戦線は、コーカサス山脈戦線が第一次世界大戦の西部戦線とは少し違う形の泥沼状態として完成され、ドイツ軍を中心とした数百万もの欧州枢軸軍はヨーロッパ世界の辺境から抜け出せなくなってしまう。
 政治的にも、バクーまであと一歩、今年が無理でも来年なら確実という思いも強かったので、尚更引き下がれなかった。それに、攻勢が中途半端なまま終わった事でヒトラー総統が攻略に固執してしまい、成果が出るか全滅するまで撤退は論外と考えるようになってしまう。

 こうして1942年の欧州枢軸の夏季攻勢は、当初は誰も予測しなかった膠着状態のまま、結果を翌年へと持ち越す形に終わった。
 しかし世界各地の戦場は、激しく動き始めていた。



●フェイズ21「第二次世界大戦(15)」