●フェイズ21「第二次世界大戦(15)」

 1942年6月1日、日本軍の第一航空艦隊とインド洋前面のアンダマン諸島に進出した重爆撃機による日米合同の基地航空隊が、セイロン島を空襲。セイロン島での航空撃滅戦を皮切りとした攻防戦が始まった。
 セイロン島での戦いに呼応して、激しい雨期で空戦が難しいビルマからガンジス川河口部にかけての日本軍、アメリカ軍合同の航空隊による航空撃滅戦も開始され、現地を守護するイギリス本国空軍と雨の合間に激しい戦闘を展開した。

 インド及びインド洋を巡る攻防戦が本格化したのは、4月のアッズ(アッドゥ)環礁攻撃だった。ここで日本海軍の第一航空艦隊は、欧州枢軸のインド洋防衛の要だったイギリス、イタリア合同の東洋艦隊を環礁内で撃滅し、歴史的とすら言われる完全勝利を飾った。これでインド洋の制海権は沿岸部を除いて連合軍のものとなり、さらには世界の海軍バランスまでが大きく動いた。何しろ、当時はまだ海上戦力の主力と考えられていた戦艦6隻が一瞬で消えてなくなったので、インド防衛のためイギリス本国を中心とする欧州枢軸は、戦力の再編成を迫られたからだ。
 ここで注目されるのはイタリアの動きで、イタリア海軍は戦艦6隻を中心とする艦隊を派遣したが、脱出の成功とそれまでの損害おかげで4隻が生き延びて本国まで帰投した。イギリスなど欧州枢軸は、イタリア艦隊を短期間で修理してすぐにも再びインドに派兵するように要請した。しかしイタリアは、制空権のない場所への主力艦艇の派遣に強い懸念と難色を示し、空母なくして派兵はあり得ないと欧州各国に伝えた。
 そして42年春現在、艦隊に随伴できる高速空母は、イギリス2隻、ドイツ2隻のみといえる状態で、北大西洋とカリブで必要とされて作戦にも投入され、インド洋に回せなかった。仕方なくイギリスは、戦艦改装の軽空母《イーグル》の派遣を決め、さらにイタリアの改装空母の建造にさらに協力することを約束する。

 なお、当時のイギリス本国海軍は、空母の不足に非常に悩んでいた。だが1940年秋に策定された海軍増強計画では、大型艦建造施設(合計13箇所)のほとんどを塞いでいた。1942年の段階では戦艦4隻、空母4隻が24時間体制で建造中だった。他に5箇所の大型艦建造施設があったが、これも1940年以前の計画の空母2隻が塞いでいるので、残りは3箇所。この3カ所では、大型巡洋艦を建造していた。それ以外の中型艦建造可能な施設も、急速に消耗していく巡洋艦の建造に当てられており、建造施設の面で余裕が無かった。
 しかも1942年に策定された計画では、日米が建造中の大型戦艦(イギリス本国は4万〜5万トンと予測)に対向できる大型戦艦2隻と、3万5000トン級の大型空母が計画されており、空き予定の大型艦建造施設はなかった。
 それでも戦時建造型の簡易構造空母10隻が要求されたが、とてもではないが建造できなかった。早く戦力化できる空母は非常に魅力的だが、最低でも1年半後では現状ではあまり意味が無かった。それでも戦力補充の要求のため3隻が計画承認されている。この空母は、当初計画では基準排水量1万3000トン程度で、大型軽巡洋艦の機関の半分を載せて速力は25ノット(満載時23ノット程度)という、「ほどほどの性能」な空母だった。耐用年数も、通常の半分程度で構わないとされていた。搭載機は48機を予定していたので、中型空母程度の規模はあるが多くの点で中途半端だった。これは、本クラスが当初は2年以内での完成を目指していた為だった。似たような規模の空母を探せば、日本が戦前に建造した《龍鳳》が少し近い。
 だが、日本、アメリカとの戦いはテンポが非常に早く、鈍足空母に出番はないと考えが改められた。結果、排水量を2000トンほど増やして、最高速力も28ノットまで向上した設計に改められた上で建造が開始された。建造は全てを優先する形で進められ、1番艦は予定通りなら1944年春には就役する予定だった。しかし42年春の時点では、建造が始まったばかりだった。
 そしてイタリア海軍が懸念した通り、インド洋は欧州枢軸艦船全てにとって危険な海となっていた。

 1942年4月8日までに欧州枢軸東洋艦隊は撃滅され、その半月後にはアッズ環礁は日本軍の占領する所となった。
 そして日本海軍は、すぐにも潜水戦隊と自慢の水上機母艦部隊を進出させ、広域偵察と通商破壊戦を開始する。
 第11航空戦隊の高速水上機母艦《千歳》《千代田》と聯合艦隊直轄だった飛行艇母艦の《秋津洲》、商船改装の特設水上機母艦2隻など多数が押し掛けて盛大に「店開き」していた。また、環礁各所で座礁、大破着底したイギリス、イタリア艦艇の調査のため、多数の専門家がきていた。中には英連邦自由政府海軍、イタリア亡命海軍の技術将校や技官もおり、大破した艦の再生の可能性を調査を行った。
 5月に入るまでにアッズは日本軍の基地として稼働し、水上戦闘機などの活躍でセイロンからの偵察機も撃退して、飛行場の整備など地上施設の再建も急ぎ進められた。
 そして日本軍飛行艇(「二式大艇」、「九七式大艇」)の長大な航続距離を用いれば、セイシェル諸島やアフリカ東岸まで往復するのも容易く、インド洋北東部、アラビア海での欧州枢軸軍の動きは丸裸にされたようなものだった。
 欧州枢軸軍は各地に慌てて戦闘機を配備するが、それまでは各地の基地までが好き勝手に偵察された。特に「二式大艇」は、当時としては非常に優れた性能と「空中戦艦」とすら言われた防御力と重火力によって、中途半端な迎撃が通用しなかった。ブラックバーン・ロック、フェアリー・フルマー、ホーカー・ハリケーン、ブリストル・ボーファイター、ボールトン・ポール・デファイアント、フェアリー・ソードフィッシュ、ブリストル・ブレニム、ヴィッカーズ・ウェリントン、マッキMC.202、サボイア・マルケッティ SM.79、SM.84と、二式大艇と戦って敗北した機体は二式大艇の機体数が少ないのに大戦中盤では最多となっている。これは、アラビア海沿岸の防衛に、イギリス軍がどれほど焦ったかを物語っているとも言える。
 そして二式大艇は、偵察機とすれ違ったら襲いかかってくる来るほど攻撃的なため、空にとけ込む日本海軍らしくない特殊な迷彩を施したその姿から「アッズの怪物」と呼ばれた。

 そして5月半ばになると、遣印艦隊を中核とする水上艦隊までがアッズ環礁に拠点を構え、水上艦艇による通商破壊戦まで開始する。水上艦は大型軽巡洋艦が中心だったが、すでに相手に戦艦がいないことを知っていたので、連合軍海軍は非常に活発だった。この通商破壊戦には、アメリカ・アジア艦隊、自由イギリス東洋艦隊(※合流したオーストラリア、ニュージーランド各海軍を含む)、オランダ自由海軍と多数が参加しており、潜水艦以上に脅威だった。
 当然だが、欧州枢軸のインドに至る海上通商路はすぐにも危機に瀕し、ペルシャ湾と紅海を結ぶ航路も、沿岸部に慌てて航空隊を手配した上で、沿岸近くを航路とするより他無くなった。アデンとボンベイを結ぶ航路は効率を考えると一番なのだが、逆に最も危険な航路となった。
 また、連合軍艦艇は空襲を警戒して沿岸までは滅多に近寄らなかったが、沿岸部には潜水艦が出没するので、脅威が大きく減ったわけでもなかった。
 インド洋での欧州枢軸の主要海上交通路は、地中海、紅海を経由してアラビア海を越えるルートだった。喜望峰廻りでアフリカ大陸を大きく迂回する海路もあったが、安全なヨーロッパから地中海を経由するのが最も近く安全なので、アフリカへの輸送以外ではあまり使われていなかった。このため連合軍の通商破壊戦も、アラビア海中心に行われた。
 枢軸軍はアラビア半島のアデンを出ると、航空隊の駐留するソコトラ島のそばを通り、そのまま一気にインド西部のボンベイ(ムンバイ)を目指す。この航路は、イギリス空軍機によってほぼ護られているが、24時間守れるわけでもない。潜水艦対策も不十分だった。またセイロンを目指す船、さらにインドを回ってカルカッタ(コルカタ)などを目指す船もある。連合軍にとっての獲物は幾らでもあった。
 ちなみに、当時のインド洋には欧州枢軸の船舶が、イギリス本国を中心にして約600万トン分存在していた。これらを使うことでイギリスの世界帝国が維持されており、運行が制限されるだけで、イギリス本国の戦争経済は停滞を余儀なくされる。
 そして6月、イギリス本国が恐れていた日本軍を中心とした連合軍の大規模な侵攻が開始される。

 セイロン島を空襲した第一航空艦隊は、ほぼ10月の頃の編成に戻っていた。しかし航空隊は戦闘機の数を増やしており、航空撃滅戦での教訓が反映されていた。護衛の駆逐隊も、両用砲を搭載した《陽炎型》《夕雲型》の隊に入れ替わった。そして戦闘機の主力となる「零戦」は、エンジンを強化型に換装して1140馬力(金星44型)から1300馬力(金星51型)にひき上げ、さらに機体構造を一部変更した「零戦32型」を一部航空隊が装備し、イギリス本国空軍の「スピットファイア Mk.V」に対向していた。
 なお「零戦21型」の最高速力は、オクタン価100の燃料を使うことで550km/hだった。「零戦32型」でも580km/hで、「スピットファイア Mk.V」より劣っていた。だが、イギリス本国空軍のスピットファイアは、何故か日本軍機相手には格闘戦を好み、そして南国での運用に不向きな事も重なって、インドではついに振るわないままだった。
 日本軍機に格闘戦を挑むのは、欧州では格闘戦最強という自負心とイギリス人特有の頑固さが影響していると言われるが、当のパイロット達もあまり理由が分かっていなかった事が戦後明らかになっている。このため第二次世界大戦の七不思議の一つとも言われたのだ。
 そしてセイロン島での航空戦でも、セイロン島には都合500機もの機体が駐留し、うち350機が「スピットファイア」を中心とした戦闘機だった。またインド東岸各地にも各所に航空基地が設営され、南部の部隊はセイロン島を支援できた。しかし、アンダマン諸島から重爆撃機でインド東部沿岸を爆撃できるので、イギリスとしてはマドラスなどに戦闘機を置かなければならなかった。そして当然戦力分散となり、航続距離の短さもあって、それぞれが支援できるのは主に爆撃機となった。南東部のマドラス(チェンナイ)には大きな拠点があったが、300〜500キロメートル離れると戦闘機での支援は無理だった。つまりセイロン島も、半ば孤立した戦場となっていた事になる。
 そしてシンガポール同様に、セイロンの空軍部隊は数日の航空撃滅戦で消耗してしまった。しかもイギリス本国空軍全体の問題として、先の戦いでシンガポールの空軍部隊があまりにも呆気なく敗退しすぎていた。加えて、ジャマイカ、プエルトリコなどカリブ海でも激しい航空撃滅戦が展開されていた。このため戦闘機パイロットの補充と訓練が追いついていなかった。機体の製造はフランスやイタリアに供与出来るほど十分に生産できる状態になっていたが、長期戦ならともかく短期間での消耗だと、パイロットの面で対応できない場合があった。このセイロン戦はその典型だった。
 戦闘機同士の撃墜率は4対1以上で日本軍艦載機が優勢で、これはビルマ=カルカッタ方面でも似たような戦闘結果が出ていた。しかも日米の重爆撃機の迎撃でも、濃密な弾幕射撃によって少なからず返り討ちにされており、セイロン島に日本軍の上陸船団が接近した時には半数以下に激減していた。各地の飛行場も激しい爆撃で破壊され、爆撃機を中心に地上で破壊された機体も少なくなかった。イギリス空軍が誇るレーダー監視網と司令部も、司令部こそ無事だがレーダー網は修理が追いつかず、半分程度の稼働状態で機能は低下した。そして既に補給に滞りが出ており、カリブなどの戦線も抱えるイギリス本国空軍に、短期間で損害を回復する術はなかった。
 このためイタリア空軍の派兵が5月には決まり、同時にイタリア軍機の機体性能を引き揚げるためのエンジン供与も決まった。
 しかし日本軍のセイロン侵攻には間に合わなかった。

 6月5日、日本の第一航空艦隊が再びセイロン沖に現れた。補給と予備の航空隊を補充した上での進出で、戦闘力は開始当初の90%以上を維持していた。
 6月1日から3日の戦いでは、イギリス軍側から100機単位の攻撃隊も繰り出したが、さらに強化された艦隊の防空体制の前に犠牲が積み上げられ、雷撃装備のボーフォート隊が全滅するなど散々だった。ソードフィッシュ隊による夜間空襲も計画されたが、夜は日本艦隊はセイロンから離れるため、航続距離や位置不明などにより出来なかった。数の多いウェリントン爆撃機も多数出撃したが、護衛戦闘機がハリケーンやフルマーなので、損害ばかりが目立った。
 意外に戦果を記録したのは急降下爆撃機隊で、ソードフィッシュ、アルバコア、ブラックバーン・スクアと機体性能や旧式な事で批判されることの多い機体ばかりだが、五月雨式に波状攻撃を受ける日本軍の防空網の隙を付く形が偶然出来た事で、急降下爆撃を実施できた。この攻撃で空母《加賀》、《翔鶴》の飛行甲板に相次いで被弾。しかし、どちらも飛行甲板中央部が装甲化されているため、軽微な損傷に止まっている。また、激しい弾幕射撃にさらされ、さらに後退中に戦闘機の邀撃を受けたため、攻撃隊の90%以上が失われた。
 そしてこの攻撃は、日本側に防空網のさらなる強化を促すと共に、装甲空母への信頼をさらに高めさせることになる。アメリカでも、空母建造計画に影響したほどだった。《加賀》を代表として、大型の装甲空母はまさに海の飛行場要塞だった。
 そして6月5日に再び日本の空母機動部隊が出現した時も、マドラスなどから増援を呼び寄せて、再び攻撃隊を放った。とにかく空母を何とかしない限り、イギリス軍に勝機がないからだ。
 だが今度は日本側も予期しており、偵察機を繰り出した後は、一度イギリス側が仕掛けてくるのを待った。
 待ち伏せを完全にするため、対空捜索レーダーを搭載した艦艇を複数箇所に配置し、無線による航空管制も重視された。なお、この時期ぐらいから、日本軍機にもアメリカ製、もしくはアメリカの部品を用いた無線機が広く普及しており、無線による連絡は格段の向上を見せている。そしてこの時も、イギリス軍ほどではなかった航空管制は十分に機能した。 
 イギリス軍攻撃隊は、飽和攻撃を期して多数の機体を一度に放つも、日本側が重厚に布陣した迎撃戦闘機の防衛網に捕捉され、数日前よりも酷い損害を艦隊到達までに受けてしまう。そしてこの当時としては世界最高密度の艦隊防空網によって、攻撃隊はさらに減り、そして弾幕を恐れて調整の取れない不確かな攻撃しかできなかった。
 そしてボロボロになったイギリス軍攻撃隊が去っていくと、第一航空艦隊の反撃という名の殲滅戦が開始される。
 今度は、別の艦隊に属している第四航空戦隊も動員されているので、艦載機数は戦闘で若干減ってもまだ400機を維持していた。そして敵の攻撃をほとんど気にしなくて良くなったので、一度に100機単位の攻撃隊二つを送り出した。さらにアンダマン諸島からは、もはや定期便となっている日米の空の要塞達が飛来しつつあった。
 セイロン島にこれだけの攻撃を跳ね返す術はなく、それでも果敢に迎撃戦を実施するが、その日と翌日の熾烈な航空撃滅戦によって、セイロン島の航空基地の多くが沈黙した。機体はまだ若干数あったが、レーダーサイト、飛行場が集中的に爆撃を受け、それまでの損害と合わせると短期的な復旧は難しかった。
 そして6月7日になると、日本軍の攻撃機は上陸地点の爆撃を開始する。セイロンの空は、もはや連合軍のものだった。

 6月8日、セイロン島北西部の要港トリンコマリーに近い海岸に、日本軍を中心とした大上陸船団が姿を現した。
 沖合の空母艦載機の空襲、戦艦《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》、巡洋戦艦《レパルス》などの艦砲射撃が行われる中で、展開した上陸部隊から続々と海岸を目指す船が動きだす。特殊な構造(船体内から船尾にかけてのスロープ)を持つ輸送艦から滑り降りた上陸舟艇の先陣を切るのは、日本海軍が開発した「特一式内火艇」と呼ばれる水陸両用戦車だった。
 1940年の中華地域での上陸戦時の戦訓を受けて急ぎ開発が決まったもので、政府の指導で陸軍との協力によって急ぎ戦力化された。
 きたるイギリス軍との戦いでは上陸戦が多くなると予測され、イギリス軍の戦車に当面対向できる戦力として整備された。このため装甲戦力としての能力が求められた為、九七式戦車をベースとする事になる。九七式戦車は20トン級の戦車のため、船としてのフロート部分を足すと33トンの大きさとなった。また海軍ではあまりにも火力が貧弱だという意見が強かった為、短砲身の57mm榴弾砲を止めて、砲塔から新規で作った上で75mmの歩兵砲を改造した榴弾砲を装備した。野砲や速射砲(対戦車砲)でなく口径の大きな榴弾砲なのは、上陸戦で最も有効なのが大口径榴弾砲だったからだ。
 特一式内火艇は陸海軍双方で装備される事になり、さらに島嶼戦を予感していたアメリカ海兵隊が技術転用目的で同車両をパテントごと数量購入している。このセイロン戦では、海軍特別陸戦隊(第一特別旅団)の両用戦車中隊と、日本陸軍・第六戦車旅団・特務戦車中隊が装備していた。

 なお、セイロン島に侵攻した連合軍は日米英連合で、後日投入される増援を含めて20万人以上が動員されていた。
 以下が主な作戦部隊になる。

 日本:第二師団、第六師団、第三八師団
    第六戦車旅団、重砲兵旅団、陸軍第一挺身団(空挺旅団)、
    海軍陸戦隊第一特別陸戦旅団
 米 :第7師団、第25師団
 英 :カナダ第3師団、オーストラリア第8師団、海軍コマンド

 見て分かるが、1個軍(方面軍)に匹敵する戦力で、さらに日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドは後方でインドに投入する戦力を準備中だった。そしてこのうち第二師団、海軍陸戦隊第一特別陸戦旅団、第六戦車旅団(一部)、米第7師団、英カナダ第3師団が、第一派としてセイロン島沖合にあった。
 総指揮官には大将が据えられる予定だったが、当時日本陸軍は中華戦線に人材を注ぎ込み過ぎていて、前線指揮ができる大将が非常に不足していた。そもそも大将が実戦指揮を行うという事が、第一次世界大戦以来行われていなかったので、官僚化の進んだ日本陸軍では上級職に就いた先任の中将が大将的な役割に就くか、大将が指揮官となっても後方の司令部に居ることがほとんどだった。戦時昇進がほぼ皆無だった事も、人材不足に拍車を掛けた。
 だが、アメリカ軍と行動を共にして大軍を動かすとなると、そうも言っていられなかった。この事は中華戦線で最初に問題が露呈して、アメリカのマッカーサー将軍(大将)が日本軍の指揮権を得るという珍事を産んだ。このため一部の前線指揮官の階級を、「戦時のみ」と規定して引き上げざるを得なくなり混乱が見られた。
 マレー作戦を率いた山下奉文将軍が実質的に最初の例となり、このセイロン作戦では知米派でマッカーサー将軍とも知己で知られた田中静壱将軍が(日本陸軍内の)予定より少し早い大将昇進を果たして、方面軍司令として日本軍ばかりか連合軍総指揮官としてセイロン攻略部隊を率いることになる。
 なお、これほどの大戦力となったのは、セイロン島を守備するイギリス軍が最大見積もりで第一線戦力が20万、8個師団相当と見込まれていたからだ。
 兵力のほとんどは機動性と火力に劣るインド師団だが、マレーでの戦いでも姿を見せたようにイギリス本国から派兵された師団も含まれていた。中でも第1機甲師団がセイロン入りしているという情報は、連合軍にとって看過出来なかった。このため主に日米は、機甲部隊を予定よりも多く投入している。

 上陸作戦開始当初は順調に推移した。空爆と艦砲射撃の効果が大きく、制空権もほぼ確保しているので、上陸部隊が空襲を受けることもほとんど無かった。空襲があっても小数機による散発的なものに止まった。上陸一日目は順調に推移し、海軍陸戦隊第一特別陸戦旅団、イギリス海軍コマンドが作り上げた橋頭堡に、日本軍の第二師団、アメリカ軍の第7師団の主力部隊が上陸して橋頭堡を拡大した。
 だが、連合軍が上陸した場所は、イギリス軍も予測していた場所の一つでもあった。このため付近にはイギリス軍部隊が伏在して、逆襲の機会を伺っていた。そして島の内陸部に機甲師団が配備され、機動防御戦を展開することで、連合軍を海に追い落とす計画だった。早期に制空権がほとんど奪われた事は誤算だったが、上陸してすぐならば機甲戦力で押しつぶせると考えられていた。
 上陸一日目、主に日本軍が強く警戒したイギリス軍の夜間の逆襲はなかったが、夜明けすぐのまだ朝靄の残る中でイギリス軍の反撃が開始される。
 イギリス軍は「マチルダII」歩兵戦車と「バレンタイン」歩兵戦車を中核とした戦車旅団を前面に立てた一隊と、「クルセイダー」巡航戦車を先陣とした機動旅団による一隊を用いた反撃を実施した。反撃には3個師団近い戦力が参加しており、まだ十分に戦力を展開していない連合軍に対して地上戦力での優位を確保していた。
 これに対して連合軍は、反撃報告を受けると艦砲射撃と空爆で凌ごうと考える。だが、すぐにも前線は両軍で混ざり合ったため、戦艦、巡洋艦の艦砲射撃はほぼ不可能となり、空爆も難しくなった。
 この攻撃の矢面に立たされた日第二師団と米第7師団だが、好対照の結果となった。日本軍は今までの戦闘の経験から、優先して装甲車両の上陸に努めて、師団に属している「一式砲戦車」と高射砲を優先的に現時点の最前線に配備していた。師団戦車連隊唯一だった「九七式中戦車改」中隊も、最初の機甲戦力として上陸していた。
 そしてイギリス軍の快速旅団の逆襲を受けたとき、イギリス軍は日本軍が急造していた対戦車陣地に飛び込む事となった。この戦闘では「一式砲戦車」が陣地防御戦に向いている事が改めて立証されたが、イギリス軍戦車隊にとっては散々だった。二種類の75mmで射すくめられ、さらに榴弾も発射してくるので随伴歩兵にも大きな損害が出た。そして機甲戦力が撃破されたことで突進力を失い、日本軍陣地を突破することが出来なかった。

 一方、アメリカ西海岸のカリフォルニアで編成されたアメリカ第7師団は、この戦いが初陣で既にチャイナで戦っている友軍からの情報はセクショナリズムの関係で限られていた。これは、マッカーサー将軍とアメリカ本土の陸軍関係者の人間関係が左右していたためだ。
 日本軍との間でも情報はやり取りされたが、言葉の違いとやはり人種の違いから、十分な情報を得ていなかった。通訳のために日系兵もかなり配属されていたが、それでも様々な見えない壁があった。そして初日の部隊、物資の上陸では、橋頭堡確保の為に歩兵部隊の上陸と展開を優先して、戦車など機甲戦力は次の突破戦闘で使うので後回しにされた。先に上陸した戦車は偵察大隊用の「M3」軽戦車中隊だけで、アメリカ軍には日本軍のように高射砲を対戦車砲として使う運用方法も無かった。M2重機関銃は歩兵トラックなどと共に多数上陸していたが、重砲も迫撃砲止まりだった。
 そして師団には「M3 グランド」中戦車による戦車大隊が属していたが、まだ輸送船の中だった。「M3」中戦車は、既に満州軍に供与されロシア戦線でデビューを果たしていたが、アメリカ陸軍の戦車として前線に出てきたのはこれが初めてだった。また、自由英連邦軍にも大量に供与され、カナダ師団、豪州師団の戦車連隊も装備していた。戦車の量産能力が低い日本と、何でも支援が必要なソ連にも供与された。次の「M4 シャーマン」中戦車が登場するまでの「つなぎ」の戦車だったが、十分な役割を果たした。だが、戦場にいなければ意味が無かった。
 しかも米軍陣地に突進してきたのは、まだ当時最強級の重装甲を誇る「マチルダII」歩兵戦車の群れだった。
 第7師団も流石に対戦車砲(37mm砲)は上陸して配置についていたが、「マチルダII」の装甲は近距離での側面か後方からでないと撃ち抜けられず、「M3」軽戦車も相手の4ポンド砲は防げる場合が多いが数が少ない上に非力で、第一線の陣地もすぐに蹂躙されてしまった。しかもこの戦いから、2ポンド砲用の榴弾が開発、そして使用されるようになっていたため、歩兵にとっても脅威となっていた。それに「マチルダII」の後ろには、イギリス軍歩兵が続々と続いていた。
 アメリカ軍の陣地は次々に蹂躙され、海岸に築いた橋頭堡の半分が、一時崩壊の危機に瀕した。イギリス軍の先鋒は既に上陸していた第7師団司令部の500メートルまで迫ったと言われる。
 戦線の完全崩壊を救ったのは、隣で防戦に成功した日本軍だった。日本の橋頭堡で上陸後に前進準備をしていた戦車隊が、突進するイギリス軍の横合いから襲いかかった。簡単には撃破されない筈の「マチルダII」の群れを粉砕したのは、日本陸軍がこの戦いで切り札として送り込んだ、この時期日本陸軍唯一の重戦車中隊だった。
 総重量48トンのモンスター「九九式重戦車」12両で編成された部隊は、中華戦線、マレーと度々イギリス軍戦車に苦戦を強いられた日本陸軍が得た回答の一つだった。そして圧倒的重装甲で敵を寄せ付けず、九八式速射砲によって次々に「マチルダII」を撃破した。反撃自体も体制を立て直したアメリカ軍によって何とか食い止められ、イギリス軍は致命的な損害を受ける前に後退していった。
 なお九八式速射砲の元になったヴォフォース社の高射砲は、もともとは当時軍備制限を受けていたドイツがスウェーデンで設計したもので、この大戦で猛威を振った88mm Flak18やFlak38の元になったと言われている。88mmより一回り小さいが、威力が高いのも当然だった。
 「九九式重戦車」はこの戦闘全般で活躍し、特に突破戦闘での活躍は鮮やかだった。というのも、この戦いからイギリス軍は2ポンド砲(40mm砲)に代わる対戦車砲として新型の6ポンド砲(57mm砲)を小数ながら投入していた。6ポンド砲だと「九九式重戦車」以外の当時の戦車は撃破されやすいが、「九九式重戦車」の正面装甲だと近距離で撃たれない限りほぼ大丈夫だった。実際、セイロン戦で完全撃破された「九九式重戦車」は無かった。ただし故障車は半数出たが、これは重戦車なので仕方ないとする意見の方が多く、むしろ半分が最後まで稼働し続けた事が賞賛されている。
 なお、この戦いでアメリカ軍の対戦車砲が威力不足なのが露呈したが、アメリカ軍は対戦車砲の充実は特に行わなかった。野砲も105mm、155mmに移行していたので対戦車砲弾装備も行わず、高射砲も同様だった。旧式野砲の発展型だった「M3」、「M4」初期型に搭載した75mm砲の対戦車砲化の計画も、戦車そのものを増やす方向へと意見が流れた。

 上陸2日目の危機を乗り越えた後は、連合軍は比較的順調に作戦を進めた。制海権制空権の有無の差といってしまえばそれまでだが、限られた地域での戦闘では、この二つは非常に大きな要因となった。それに日が経つごとに連合軍の兵力は増え、イギリス軍は各地に散らばって防備に付いていたので、これを集中して迎撃に当たるのは難しかった。
 それでも一度、イギリス第一機甲師団を中核とした部隊との戦闘が発生する。これがセイロン島での実質的な決戦で、連合軍も日本の第六戦車旅団を中心に機甲部隊を集めて、第一機甲師団に戦いを挑んだ。
 この戦闘は、連合軍にとっても大きな教訓を残す戦いとなり、戦車戦自体は2ポンド砲と75mm砲の戦いで、口径の差がそのまま勝敗の差となって現れた。イギリス軍の戦車は撃破されるが、日本製、アメリカ製の車両は2ポンド砲での撃破が難しかったからだ。だが、随伴歩兵や砲兵との連携ではイギリス軍が高い練度を見せつけ、連合軍は日本軍、アメリカ軍、自由英連邦軍という三つの軍隊の連携がうまくいかず、せっかく戦車戦で勝利しても追撃は徹底できず、あまつさえ友軍が危機に陥る場面も一つや二つではなかった。それが致命傷にならなかったのは制空権を握っていたからで、以後連合軍は日本語と英語の壁の克服と相互連絡、連携に関して大きく改善するようになる。
 そして2週間後に全軍がセイロン島に上陸し、さらに半月の戦いで現地イギリス軍は、降伏するかインド本土へと闇夜などを使って撤退している。連合軍も撤退を阻止しようとしたが、インド本土とセイロン島の間にあるポーク海峡は浅瀬のため艦艇を入れることが躊躇われ、魚雷艇のような船も持ち込んでいなかった為、昼間の空爆でしか脱出を阻止出来なかった。そしてイギリス軍も撤退作戦を精力的に進めたため、10万近い兵士がインド本土への撤退を行っている。逆に、インド兵が5万人以上降伏しており、その後彼らはマレー、ビルマで降伏したインド兵と共に、独立を条件として英連邦自由政府や自由インド軍に属して戦う事になる。

 1942年8月頃、イギリス本国は連合軍のインドへの侵攻があると考え、インドの防備を可能な限り強化するべく、続々とヨーロッパから援軍と物資を送り込んだ。また帰りの船は、戦争に必要な資源、食料を積載した。この船は連合軍の格好の獲物であり、護送船団との間に熾烈な戦闘を何度も発生させる事になる。また、連合軍はセイロン島に展開した航空隊を用いて、インド南部での航空撃滅戦を展開した。そしてセイロン島が連合軍の拠点となった事で、枢軸側もセイロン島に対する航空撃滅戦と通商破壊戦を仕掛ける事になる。


●フェイズ22「第二次世界大戦(16)」