●フェイズ22「第二次世界大戦(16)」

 プエルトリコ島は、この戦争での転換点となる戦場だった。
 カリブ海にあるプエルトリコ島は、コロンブスの時代にスペイン領となり、その後長らくスペインの植民地として過ごす。島の名前もスペイン語で「豊かな港」という意味だった。しかし1898年に起きた「米西戦争」の結果、1900年にアメリカ領となる。しかし1898年の戦争原因になった自治をアメリカから名目上与えられているので、名目上は植民地ではなくアメリカの自治領だった。
 このため第二次世界大戦でのプエルトリコの住民は、一応はアメリカ市民だった(ただし、大統領選挙権が無かった)。
 島の面積は約9000万平方キロメートル。日本だと、四国の半分ぐらいになる。住民はヒスパニック系と白人で、歴史的に黒人奴隷を使った砂糖栽培が行われなかった為、黒人は全体の一割程度しかいない。
 そして第二次世界大戦の中盤、この島は激戦地の一つとなる。

 プエルトリコ島が俄に激戦地となった理由は、ベネズエラに連合軍(イギリス)の最大級の油田があったからで、もしベネズエラに石油が無いかヨーロッパ世界にとって重要性が低ければ、欧州枢軸軍はカリブ海全体から既に引き揚げていただろう。
 しかしベネズエラの石油を運ぶルートを一日でも長く維持するため、カリブ海東部での限定的な制海権が必要だった。そしてタンカーがベネズエラの領海を出ると、隣はイギリス領ガイアナ、オランダ領ギアナ、フランス領ギアナと並んでいる。このため欧州枢軸は、戦争初期からこれらの地域に軍を派遣してて拠点化し、大西洋を押し渡る船団の集結地にしていた。しかしジャングルばかりのギアナ地域は、沿岸部に限られた都市があるだけで孤島も同然だった。
 そして小アンティル諸島には欧州諸国の小さな植民地が並んでいたが、ここをアメリカ軍に占領されるとカリブ海に出入りできなくなるばかりか、ギアナが空襲を受けるようになる。なによりアメリカ軍のすぐ横のベネズエラ領海内を、丸腰のタンカーが抜けなければならなくなる。ギアナに入る場所に艦艇を待機させたとしても、非常に危険が大きくなる。このため小アンティル諸島の維持は欠かせなかった。そして小アンティル諸島の北端の先に、アメリカ領プエルトリコがあった。
 当然だが、プエルトリコ島が最低でも軍事的に無力化されている方が好ましかった。なぜなら、プエルトリコ島の隣にあるエスパニョーラ島のドミニカ、ハイチの二つの国は戦火を避けるためとアメリカ、欧州双方への嫌悪感から局外中立を宣言しているため、連合軍の次の拠点となる島はキューバ島になる。そしてキューバからだと、プエルトリコ島が戦闘機の行動圏外となるからだ。つまり一度プエルトリコ島まで奪ってしまえば、大船団を仕立てて奪回しなければならず、いかにアメリカでも船団を揃えるまで多くの時間が必要となる。ベネズエラからの石油輸送を長期間安定かさせるために、出来ればプエルトリコ島が欲しかった。
 そして1942年春から夏にかけて、プエルトリコ島の抵抗力が大きく低下していた。
 原因は欧州枢軸海軍が総力を挙げている通商破壊戦の影響で、無数の潜水艦による海上封鎖がカリブ海での連合軍の勢力を減退させていた。アメリカ本土沿岸は、護送船団と哨戒機によって1941年春には通商破壊戦は出来なくなったが、大西洋各所、カリブ海は勢力が拮抗し、特にアメリカ軍の制空権がない場所は欧州枢軸潜水艦の狩り場だった。
 プエルトリコ島への補給はアメリカ海軍が行っていたが、アメリカ海軍の対潜艦艇はまだ不足がちで戦術も不十分だった。精強な日本艦隊は、他の場所に必要だった。制空権のない場所では哨戒機は危険で、護送船団も頻繁に攻撃を受けて大きな損害を出していた。情勢は、明らかに欧州枢軸側が優勢だった。
 その春に欧州枢軸軍は、ジャマイカから撤退しているので奇異に感じる事もあるだろうが、プエルトリコ島は小アンティル諸島共々両軍の制空権獲得競争の場であり、航空機による潜水艦の制圧が難しい場所だったのが大きな原因だった。これがパナマからメキシコ湾を守護する日本海軍なら、話しは少し違っていたかもしれない。
 そして欧州枢軸軍は、ジャマイカの意趣返しと戦線の安定化という二つの目的を満たすプエルトリコ島への侵攻を俄に決める。チャンスは今しかなかった。
 航空撃滅戦とプエルトリコ島への通商破壊戦をより強化しつつ、急ぎ攻略船団と上陸部隊、支援艦隊が用意された。
 作戦に参加可能な空母に不安はあったが、小アンティル諸島からの航空支援で賄うことになった。この時期には、基本的にドロップタンクを搭載するようになっていたので、航続距離の短いスピットファイアでも300から400キロメートルぐらいの進出は可能だった。

 欧州枢軸軍の航空基地は、プエルトリコ島に最も近い場所だと英領ヴァージン諸島だが、島との距離は約100キロ程度しかないので流石に近すぎ、緊急用、不時着用の基地としてしか使用されず、移動式のレーダーサイトが最も重要な施設でもあった。戦闘機の主な基地は、少し南東の小アンティル諸島のセントネッツ島、バーブーダ島、アンティグア島などに展開されていた。これより南だと、スピットファイアがプエルトリコ島を行動圏内に入れられなくなる場所だった。一番北西のグスタビアには、無理矢理開設した小さな飛行場と共に水上機用の基地もあった。
 爆撃機基地はさらに南東にあり、フランス領グアドループやさらに南東の比較的大きな島で平地が確保できる場所に存在した。1940年秋から42年秋にかけて、小アンティル諸島各所には大量の土木機械を入れた工事で急造の飛行場が無数に設置され、多数の欧州枢軸軍機が展開した。その飛行場の多くは、今日も民間飛行場として使用されている。
 カリブでの欧州枢軸空軍の主軸はイギリス本国空軍だったが、フランス空軍、イタリア空軍、オランダ空軍も展開していた。使用される航空機は、ドイツがロシア戦線に全力でかかりきりな為、必要な国に対しては主にイギリスが供与もしくは貸与していた。特にエンジンはイギリスが無ければどの国も話しにならず、この時期カリブを飛んでいた欧州枢軸機は、高性能機のほぼ全てがイギリス製エンジンを搭載していた。特に戦闘機用のマーリンエンジンは欠かせず、イギリスの「スピットファイア Mk.V」、イタリアの「マッキMC.202M」、フランスの「アルゼナル VG33M」は同じエンジンを搭載した。そしてマーリンエンジンは、戦闘機との相性が非常によいエンジンで、エンジンを換装するだけで性能が飛躍的に向上した例が多々見られた。あまりの優秀さに、日本、アメリカでもイギリス本国が降伏前に結んだ契約を自由政府と結び直した上で大量生産したほどだった。
 もちろん液冷エンジンは南方での使用に難点があったが、アメリカ陸軍航空隊も条件は同じなのでマーリンエンジン搭載機は非常に強力だった。

 欧州枢軸によるカリブ侵攻は、当初は夏の占領を目指して5月初旬に予定されていたが、4月8日に一旦無期延期となった。インド洋で東洋艦隊が全滅したからだ。このため世界の海軍バランスが大きく変化し、欧州枢軸は戦力の再編成と再配置を迫られた。そしてイタリア海軍の再編成とインド再派兵、イギリス東洋艦隊の増強で対処し、大西洋、カリブ方面を今まで通り重視する事になった。インド戦は陸戦でまだ十分対処できると考えられていたし、ベネズエラの石油の重要性が高かったからだ。
 なお、侵攻に使う洋上戦力だが、やはり上陸戦当初は空母の投入が必要だった。このためイギリス、ドイツの有する合計4隻の装甲空母が動員される事になる。しかしドイツ海軍は3月の作戦が不十分な結果に終わると、ギアナから本国へ帰投して機種改変の混乱に突入してしまう。このため最低でも3ヶ月、出来れば半年の時間が必要となってしまう。しかしこれでは枢軸の盟主としての立場がないので、ドイツ海軍は当時の総力を挙げた水上艦隊を出すことを決める。1年前の1941年5月に沈みかけた戦艦《ビスマルク》も、修理と徹底した対空装備の増強が終わり、姉妹艦《テルピッツ》との初めての共同出撃となった。半年前に損傷した《リュッツォウ》《アドミラル・シェーア》も戦列復帰し、修理の際に旧式化した装備の刷新を行っていた。
 しかし約1年前から大規模改装中の《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》はまだ出撃出来ないので、総力と言っても戦艦2隻、装甲艦2隻、重巡洋艦1隻、大型駆逐艦6隻から抽出された戦力だけだった。実際出撃した艦隊規模で言えば、ギアナで頑張っているフランス・カリブ艦隊とあまり違いはなかった。
 攻略の中心となるのは、やはりイギリス本国海軍だった。
 1942年6月時点で、重巡洋艦7隻(3隻沈没、2隻離反)、大型軽巡洋艦8隻(2隻離反)、条約型軽巡洋艦9隻、旧式軽巡洋艦15隻(多数沈没)、防空巡洋艦4隻(5隻沈没)、戦時型大型軽巡洋艦3隻(4隻がドイツ海軍に賠償で移管)を保有していた。
 このうち旧式軽巡洋艦は、アジアでも散々に沈められたように前線には出せないと考えられたし、就役の続く戦時型のそれぞれ2隻は訓練中で出撃はまだ早かった。それを差し引いても、稼働巡洋艦数は40隻を越えていた。(ただし、開戦時からだと勢力は実質半減している。)
 この巡洋艦を大きく三つに分けて、本国(予備)、カリブ、インドにほぼ均等に配備していた。つまりカリブ方面に直接投入可能な巡洋艦数は10隻程度で、さらに本国からの増援が期待できた。この作戦でも、空母機動部隊に属する4隻の巡洋艦がカリブ方面に派遣されている。
 戦艦も《キングジョージV世級》3番艦の《デューク・オブ・ヨーク》の完全戦力化が春には終わっているので、これで42年秋に《フッド》の大規模改装が終われば、高速戦艦には少し戦力に余力が出る。ただし旧式戦艦はインドで全て失ったので、戦艦の投入には慎重だった。この作戦にも《レナウン》《プリンス・オブ・ウェールズ》が出撃していたが、基本的に空母機動部隊の護衛としてだった。
 フランス艦隊は通商路防衛が最優先任務とされていたので、プエルトリコ作戦では後詰めもしくは支援任務で、戦列艦《ダンケルク》《ストラスブール》と重巡洋艦2隻を中心とする艦隊が、ギアナで待機していた。また旧式戦艦が大規模船団の護衛に就くようなり、護衛の主力となるイギリスとの合同艦隊が増えた。
 これらの艦艇から抽出された艦艇によって、船団護衛部隊、砲撃支援艦隊、空母機動部隊の3つが編成され、7月1日をXデイとしたプエルトリコ侵攻作戦を開始する。本来はもう2週間早かったのだが、6月初旬のインドのセイロン島に連合軍が侵攻したので、調整のために作戦決行がさらに遅らされた為だった。
 なお、プエルトリコ島の占領は、1942年秋中に完了しなければならなかった。各種統計資料から、アメリカ軍が海での体制を立て直す可能性が非常に高いからだ。このためプエルトリコ作戦は、欧州枢軸海軍最大の賭けと言われることもある程だ。

 1942年7月1日、プエルトリコ島はいつもより激しい空襲に見舞われた。その空襲はいつもと違って途切れることなく、ただでさえ疲弊していた現地のアメリカ陸軍航空隊に想定以上の消耗を強いた。
 当時プエルトリコ島は、欧州枢軸陣営の通商破壊戦と航空撃滅戦により、戦力が著しく低下していた。しかも開戦からずっと、アメリカは欧州側からの上陸作戦はあり得ないと考えていたので、島の規模に対して守備隊も少なかった。プエルトリコ島には1個師団を置くも、島内の各所に分散配置していた。しかも州兵師団型の第96歩兵師団で、1941年春以後にプエルトリコ島配備されたが、陣地構築は一般的なものしか行わず、敵の上陸を阻止するよりも島内の治安維持に力を入れていた。また島内住民の徴兵で3万人が徴兵されたが、これも警備部隊程度の軽い装備しかなく、実際島内の治安維持に投入された。この島の「戦力」はあくまで航空隊で、中心都市サンファン周辺などに飛行場を複数建設していた。
 しかし航空戦力は急速に低下した。航空機はキューバから飛んでくればよいが、燃料、弾薬、交換用エンジンなどの補充部品などは、基本的に船で運ばなければならない。ある程度は空輸も可能だが、輸送力が限られた空輸には限度もある。まだ当時のアメリカは、唸るほどの輸送機は持ち合わせていなかった。それでも輸送機も島への補給に使われたが、航空撃滅戦の中で優先攻撃対象となって、かなりの数が撃墜されていた。
 ヨーロッパに比べれば本土からの距離は近いし、戦時生産も軌道に乗り始めていたが、パイロットが大量に誕生するにはもう1年程度が必要で、この時のプエルトリコ島の苦境は、ひとえにパイロット不足のためだった。
 そしてプエルトリコ島の侵攻を許したのは、アメリカ軍の「敵は来るわけない」という先入観だった。欧州枢軸が艦隊と陸軍部隊を用意しているのは各種情報からある程度掴んでいたが、小アンティル諸島かギアナへの増援と、大西洋での船団護衛の強化程度にしか考えていなかった。アッズで大艦隊を失ってインドで防戦一方に追い込まれた枢軸が、このタイミングで攻撃してくるわけがない、というのがアメリカ人達の考えだった。
 同盟国で大規模な艦隊を派遣している日本(遣米艦隊またはカリブ艦隊)は、念のため防衛措置を取るべきだと考えてはいた。だが、自分たちは船団護衛以外の能力はなく、使える戦力は常に持ち込んだ戦力の半分までなので、カリブの西の航路維持で手一杯だった。インド洋での勝利とアメリカの要請から追加の戦力派遣が決まったが、その戦力はまだ到着していないし、アメリカ軍に注意を促す助言をするに止まっている。そしてアメリカ人は、日本人は心配性だと軽く笑って肩をたたくだけだった。
 激しい空襲が始まってもアメリカ人の考えは変わらず、一週間後枢軸の大艦隊がプエルトリコ島沖合に現れて、初めて自らの考えの愚かさを悟ることになる。

 7月7日、欧州枢軸の大艦隊がプエルトリコ島沖合に現れた。
 その日も南東後方からの大編隊が姿を見せたが、アメリカ軍はどうやって邀撃するか以外は考えていなかった。そして水上にはあまり注意を払っていなかったので、海岸部の監視哨から目視報告があっても、最初は誤報や冗談と思ったほどだった。しかし艦砲射撃が始まると、全てが現実である事を思い知らされる。
 アメリカは、自身の思いこみから実質的な奇襲攻撃を受けたのだ。
 艦砲射撃はドイツ海軍の戦艦《ビスマルク》《テルピッツ》、重巡洋艦《プリンツ・オイゲン》が最初は行い、主に上陸予定の海岸と、沿岸部にあるカロリーナ(カロライナ)飛行場を砲撃した。
 カロリーナ飛行場は大型機と飛行艇を運用する飛行場で、プエルトリコ島主要部で最も大きな飛行場だった。プエルトリコ島は、かなりの規模の島だが平地は少なく、島は緩やかとは言え多くの山岳部とジャングルに覆われていた。このため人が住める場所は沿岸部各所に点在していたが、カリブの島でありがちな広大なサトウキビのプランテーション農場は見られなかった。農場は一般的なもので、それぞれの面積は限られていた。効率の悪い農業しかできないから、奴隷を使ったサトウキビのプランテーション農場が作られなかったので、この島の黒人人口は少なかったのだ。
 島の産業はともかく、島には平地が少なく飛行場や拠点となる場所も一部の沿岸部に限られていた。
 その後砲撃はイギリス艦隊に交代して、10時頃には上陸作戦が開始される。そして現地アメリカ軍は、まともに阻止する戦力がないばかりか、地上戦が出来る戦力も殆どなかった。中心都市のサンファンには師団司令部と一部直轄部隊に1個連隊が駐留していたし、半数程度は海岸に陣地を置いていた。重砲連隊も港湾部を中心に沖合を睨んでいた。しかし戦力の主体は飛行場やレーダーサイト、重要施設付近に展開する高射砲、高射機銃の部隊で、地上部隊はMP(憲兵)もどきの無駄飯喰らいと見られていた。
 そして無駄飯喰らいも、そうでない者も、上陸してきたイギリス兵に同じように撃破された。

 「プエルトリコ島に枢軸軍襲来!」。
 この報告が大西洋方面の全連合軍に知らされたとき、対処できる連合軍の戦力は限られていた。すぐに対処したのは、サンファン以外に駐留していた陸軍航空隊と、グアンタナモに駐留していた「B-25」隊と、マイアミに展開する「B-17G」隊だった。島の南部、東部さらにサンファン近辺の航空隊は、折からの空襲と敵艦隊襲来時の空母艦載機の攻撃でほぼ戦力を失っていた。残っているのは、少し内陸にある戦闘機基地の僅かな機体だけで、それも最初の戦闘後に島内の別の場所へと待避している。このため島の東半分の制空権は、完全に欧州枢軸側のものとなった。残る西半分も、連合軍の劣勢だった。
 「B-17G」、「B-25」の護衛には、遠距離進出訓練を積んでいた「ロッキード P-38 ライトニング」戦闘機隊が当たったが、一撃離脱戦用の双胴機に護衛は難しかった。このため「B-25」隊はかなりの損害を受け、攻撃は不成功となる。マイアミから護衛なしで飛んだ「B-17G」は、持ち前の重火力とボックスフォーメーション(箱形陣形)と言われる防御陣のおかげで損害は少なかったが、水平爆撃の効果は限られていたし2000キロも離れた拠点からの爆撃は、そもそも無理が多いうえに1日1回しか出来なかった。
 上陸作戦の阻止は最初が肝心なため、航空機以外の攻撃手段が求められた。とはいえ現地軍では、逆襲どころか現状維持すら難しかった。このため海軍に出撃要請が出る。
 当時キューバ東部の連合軍カリブ最大の拠点の一つであるグァンタナモには、アメリカと日本の艦隊が駐留していた。ここ以外だと、パナマとアメリカ本土のマイアミに艦隊が駐留しており、これらを合わせて連合軍・カリブ艦隊を編成している。アメリカ海軍だと、太平洋艦隊が形だけとなっていたので大西洋艦隊に次ぐ大きな艦隊でキンケイド中将が指揮にあたっていた。日本もアメリカ派遣艦隊が増えた前年秋にカリブ艦隊(第八艦隊)を新設しており、この二つを合わせて一つの艦隊司令部とされていた。艦隊司令長官はアメリカ軍の海軍大将で、当時はニミッツ提督がマイアミに将旗を掲げていた。
 戦艦を含む主力部隊はマイアミにあり、当時グアンタナモには巡洋艦中心の艦隊しかなかった。そして空襲を警戒してと、現地の防衛と船団護衛が主な任務だったので、本国の軍港ほど大きな戦力は配備されていなかった。そして現地を同じく根城としている日本のカリブ艦隊主力は、護衛任務で当時パナマのため頼りの《那智》《足柄》はいなかった。しかし主力となる《ミネアポリス級》は《改ブルックリン級》で、防御を強化して副砲を5インチ両用砲(連装4基8門)とすることで能力が向上していた。
 以下が、当時グアンタナモで即時動ける艦艇だった。

 ・アメリカ海軍カリブ艦隊(第62任務部隊)
重巡洋艦   :《アストリア》
大型軽巡洋艦 :《ミネアポリス》《サンフランシスコ》《クインシー》《ヴィンセンス》
旧式軽巡洋艦 :《リッチモンド》《コンコード》
平甲板型駆逐艦:《スチュアート》

 防衛用に使える巡洋艦は多いが、様々な護衛任務で駆逐艦が出払っていた。これ以外は、水上戦闘は難しい小型の対潜艦艇だけだった。グアンタナモに残余している日本艦隊も似たようなもので、最大で1000トンの《大鷹型》海防艦が数隻だった。
 現地での最高指揮官はキンケイド中将だが、実戦部隊で最高位はアメリカのスコット少将で、迎撃命令を受けたキンケイド中将はスコット少将に稼働全艦艇での出撃を命令する。
 作戦は簡単で、まずは友軍制空権が保てる場所は巡航速度で突進するが、敵哨戒機、爆撃機が出てくる可能性のある地域では速度を増して、夕方前に上陸地点に突撃して護衛艦隊を撃破し、さらに船団及び橋頭堡を攻撃して破壊し、闇夜に乗じて一気にプエルトリコ周辺から離脱するというものだった。
 艦艇数は8隻だが、それぞれ別行動取っていた戦隊や艦ばかりで統一行動はこれが初めてのため、単縦陣で常に行動する事となっていた。
 連合軍の懸念は枢軸側の空母と潜水艦だったが、潜水艦は途中までは対潜哨戒機で警戒してあった。敵空母の行方は、ようやく配備が進み出した「コンソリデーテッド B-24 リベレーター」と、同じコンソリデーテッド 社の「PBY カタリナ」飛行艇、「マーチン PBM マリナー」飛行艇が濃密で広範な範囲で行っていた。

 プエルトリコ島北東部のサンファン東部に上陸した欧州枢軸軍は、イギリス本国軍の海軍コマンド(連隊規模)、1個師団、1個戦車旅団が第一波だった。この後ろにはさらに2個師団が投入予定で、島を一度は完全占領する積もりだった。その後陣地構築に努め、島全体を強固な陣地とする事でアメリカ軍の侵攻を躊躇させ、一日でも多く時間を稼ぐつもりだった。
 侵攻には力が入れられており、沖合で航空支援をする空母《ヴィクトリアス》《イラストリアス》を中核とするイギリス機動部隊、既に沖合に待避した戦艦《ビスマルク》《テルピッツ》を中核とするドイツ艦隊、そして船団の護衛と上陸支援の主力となる支援艦隊から構成されていた。
 支援艦隊には、主力を投入できないフランス海軍も艦艇を出しており、英仏合同艦隊となっていた。
 支援艦隊と船団は、上陸開始以来プエルトリコ島西部からの散発的な空襲を受け続け、作戦の遅延が積み重なっていた。このため物資の上陸は、夜を徹して行っても29日夕方までかかる予定だった。しかもこの船団の半数以上は、ギアナに戻ったら再び兵士や物資を載せて、プエルトリコ島に戻ってこなければならなかった。欧州枢軸も、外洋航行できる大型高速船は十分な数が無かったからだ。
 船団全体の指揮官はサイフレット中将で、護衛の戦闘部隊の指揮はバロー少将がとっていた。護衛艦隊は、海岸部の船団を囲むように大きく三カ所に配備され、連合軍を一番警戒するべき西側、北側に主力を配置していた。別働隊は東側のヴァージン諸島との海峡部に配置され、敵がカリブ海側から来るのを警戒していた。
 こちらが欧州枢軸の配置になる。

 西側・北側:
 英
重巡洋艦:《ベリック》《デヴォンシャー》《シュプロッシャー》《サセックス》
《ダイドー級》軽巡洋艦:《ユーライアス》
 仏
重巡洋艦:《フォッシュ》《デュプレ》
軽巡洋艦:《マルセイエーズ》
駆逐艦:8隻

 東側:
大型軽巡洋艦:《サウザンプトン》《グロスター》《マンチェスター》
駆逐艦:4隻

 この艦隊が守るのは約30隻の輸送船で、半分近い船が中に荷物か兵士が乗っていた。海岸にも物資が山積みで、断続的に続く空襲の前に兵士は消耗していった。
 連合軍艦隊についても、「ショート・サンダーランド」飛行艇やウェリントン爆撃機の哨戒飛行で、比較的早い段階で察知していた。この事も艦隊の警戒を強めさせる要因になったが、発見されると反転したので7日中に艦隊への警戒は解かれた。それに枢軸軍では、万が一連合軍艦隊がプエルトリコ島にきても、島の西側の自軍勢力圏までしか進出しないと考えていた。制空権の無い場所に艦隊を送り込む愚かさは、この戦争で両陣営とも既に深く知っている事だからだ。
 この段階での欧州枢軸軍の懸案は、島の西側へいかに素早く進み、全島を占領するかだった。予想以上に現地アメリカ軍が貧弱だったので、早期に進撃を開始する方がよいと考えられた。だが、島の北側を走る鉄道は、すぐにも現地アメリカ軍が破壊し始めており、空襲も考えたら輸送路、進撃路としては相応しく無かった。となると車で進むしかないが、車両の揚陸にはまだ時間がかかる。それに沿岸部の道だけでは、十分迅速な進撃は難しいと見られた。当然だが、ジャングルが多う起伏の激しい内陸部を通る案は、最初から却下された。
 そしてこの時点でのプエルトリコの欧州枢軸軍は、中心都市サンファンを落とす準備で手一杯だった。

 7月8日朝、枢軸軍の哨戒機は、アメリカ艦隊がプエルトリコ島北東部沖合まであと半日の距離まで接近しているのを発見する。しかし発見されると、アメリカ艦隊は反転した。しかし前日に反転したのがさらに進んできたので、哨戒機は交代で距離を置いて張り付くこととなった。
 その日もプエルトリコ島から「B-25」爆撃機、「P-38」双胴戦闘機、マイアミから「B-17G」重爆撃機のそれぞれ編隊が飛来し、それに合わせて小アンティル諸島各地からも迎撃機が飛び立った。この日は、プエルトリコ沖合に艦隊によるレーダー網を作り、サンファン沖合の巡洋艦から航空管制を実施しているので、効率的な防空戦が展開できた。沖合で作戦行動中の空母機動部隊は、出来る限り出撃は控えて不測の事態に備えた。というのは半ば建前で、着艦事故による損耗を少しでも防ぐ方便だった。2隻の空母には36機のシーファイアが搭載されていたが、すでに7機が事故で失われていた。
 そして午後に入ってすぐ、不測の事態が発生する。
 島のない方位の洋上から数十機の大編隊が飛来したのだ。
 飛来したのは予想通り空母艦載機。「F4F ワイルドキャット」戦闘機、「ダグラスSBD ドーントレス」急降下爆撃機、それに小数の「グラマンアTBF/TBM アベンジャー」攻撃機だ。第一波約80機、第二波約60機で、アメリカの空母は艦載機が多いが、最低でも2隻の空母から放たれたものだった。
 突然プエルトリコ島を攻撃したのは、欧州枢軸海軍の動きを警戒して大西洋上で作戦行動中だったハルゼー中将麾下の第17任務部隊だった。空母《エンタープライズ》《ホーネット》を中核として編成された、この時期だと世界で二番目に規模の大きな空母機動部隊だった(※1番は日本の第一航空艦隊)。
 ハルゼー提督の空母機動部隊は、もともとはイギリスの空母部隊、ドイツの主力艦隊が出撃したという情報を受けてノーフォークを出撃したが、欧州枢軸側の欺瞞情報に惑わされて、枢軸側の目論見通り大西洋を彷徨っていた。しかし枢軸側の予定よりも早く、プエルトリコ侵攻が始まる前に進路をカリブ海に向けていた。これは単にハルゼー提督の「勘」で、カリブで何かあるに違いないという根拠のない思惑で南下したものが、予測が適中した形だった。
 そして枢軸側が予期せぬ行動と無線封鎖によって、友軍からも位置が分からない状態となった上で、突如プエルトリコ島沖合へと突撃して、航続距離の短いデバステーター攻撃機以外の機体が出せるギリギリの距離で攻撃隊を発進させたものだった。しかも編隊が飛び立ってからも、機動部隊本隊もプエルトリコへの接近を続けた。
 ハルゼー提督の攻撃は、敵味方全てにとって不意打ちとなった。攻撃隊指揮官のマクラスキー少佐は「奇襲成功」と、高らかに勝利を打電している。実際はレーダーに察知されて迎撃を受けていたが、完全に敵味方の間隙を突き、小数の空母艦載機のインターセプトを受けただけなので、戦術的にも奇襲といえるタイミングだったのは間違いない。
 攻撃隊は急降下爆撃で輸送船を狙い、新型攻撃機のアベンジャーが海岸を爆撃した。この空襲は、大西洋の欧州枢軸軍が初めて経験する空母艦載機による大規模空襲で、攻撃対象が停泊もしくはゆっくりしか移動できない輸送船が中心のため、大きな損害が出た。護衛艦艇も、撃沈こそ無かったが少なくない損害が出ていた。
 しかし幸いな事に、ハルゼー機動部隊が次の攻撃隊を送り出すと帰投が夜になってしまう為、空母艦載機による攻撃は一度きりだった。流石のハルゼー提督も、夜間攻撃を命じることはしなかった。

 だがその夕方、引き揚げたと思われたアメリカの巡洋艦艦隊が上陸地点めがけて突撃してくる。ほとんど連絡無き連携で「スタンド・アローン・アタック」とも言われるほどだったが、空母艦載機の空襲で誰もが忘れかけていたので、奇襲効果は非常に大きかった。水上捜索レーダーに捉えられたのは、外周に展開する警戒駆逐艦から距離25キロ、上陸地点から約40キロの地点だった。
 欧州枢軸側は慌てて迎撃体制と、生き残りの輸送船の待避を開始するが、混乱して多くが間に合わなかった。また損傷艦艇が出ていた事が迎撃を遅らせた。
 重巡《アストリア》を先頭にしたアメリカ艦隊を最初に迎撃したのは、警戒配置の駆逐艦2隻だが船団を守るため煙幕展開など遅滞行動を取ったのが徒となり、砲戦距離に入るやいなや巡洋艦にとっての近距離から集中砲火を浴びて瞬く間に大破炎上してしまう。
 次に迎撃に出たのは、次に近くにいた英重巡《ベリック》と仏重巡《フォッシュ》の隊だった。戦いは単縦陣で突撃するアメリカ艦隊に、T字を描いてから同航戦に持ち込もうとする枢軸艦隊の戦いとなる。ここで枢軸側は、再び周辺の友軍艦隊が駆けつけるまでの時間稼ぎの戦いを行おうとする。また既に夕方なので時間稼ぎをしていれば夜になり、夜ならレーダーで優れる自分たちに有利だとも考えていた。
 戦闘は、枢軸側が待避と牽制攻撃に終始したためまともに組み合わず、アメリカ艦隊は主力艦艇に雷装がないので、砲撃戦を行いつつ突破を図ろうとする形になる。そして数が多いこと、戦場から守るべき船団の場所までの距離がないことから、欧州枢軸側の時間稼ぎの戦闘は不十分にならざるを得なかった。
 しかし時間を稼いだ効果はあり、イギリスの重巡洋艦《デヴォンシャー》《シュプロッシャー》《サセックス》が、少し距離は離れていたがアメリカ艦隊砲撃戦を開始する。
 これで8対5となり、大型艦の数では同数となった。
 それでも火力ではアメリカ艦隊がまだ勝っており、敵艦隊を押し切って輸送船団への攻撃を行おうとした。船団攻撃で夜になっても、《アストリア》には新型のSGレーダー(水上捜索レーダー)が他艦に先駆けて搭載されているので、作戦続行は可能と考えられていたからだ。
 このためアメリカ艦隊は接近を続け、最終的には砲戦距離1万メートルを切る距離での砲撃戦となる。そしてこの距離まで近づけば、8インチ砲、6インチ砲でも十分命中を期待できる距離で、両者の砲弾が命中しあう事になる。ここでもイギリス海軍の重巡洋艦の火力、防御力の不足が露呈した。砲撃戦しか考えていないようなアメリカ軍の巡洋艦に比べて明らかに劣勢だった。しかも昼間の空襲で、すでに小破程度に損傷している艦もあった。
 このまま戦闘が推移すれば、日が完全に落ちるまでに戦線突破に成功して輸送船への攻撃も可能と見られた。だが枢軸側は、さらに仏重巡《デュプレ》、《ダイドー級》軽巡洋艦《ユーライアス》の隊が戦列に加わって数の不利を補い、加えて東側を警備していた大型軽巡洋艦《サウザンプトン》《グロスター》《マンチェスター》を中心とした艦隊を呼び寄せ、さらに防御を分厚くした。
 しかも、優勢に戦いを展開していたアメリカ艦隊も無傷とはいかず、相次いで被弾してそれぞれ小破程度の損害を受けていた。この時点で脱落艦は無かったが、イギリス側の激しい砲撃で進路を逸らされてしまい、しかも単縦陣だった陣形も途中で二つに分かれてしまう。混乱すれば、アメリカ側が警戒する雷撃を受ける恐れもあった。
 スコット提督は、これ以上の突撃は困難と考えて艦隊に進路反転を命令する。そして欧州枢軸艦隊が深追いしなかったので、事実上「第一次プエルトリコ海戦」は幕となった。

 もっとも、ハルゼー提督は翌朝の再攻撃を予定していたし、スコット提督も翌朝の空襲を期待しての一時待避だった。空母が護衛艦隊さえ粉砕すれば、今度こそ船団を蹂躙できると考えていたからだ。
 だが欧州枢軸側もやられっぱなしではなく、その日の深夜にイギリス軍の空母艦載機がハルゼー機動部隊の夜襲を決行した。空母の攻撃に驚いた枢軸側も、送り狼で偵察機を送り込んでハルゼー艦隊の位置を突き止め、迎撃機を凌ぎつつ接触を保ち続けた。
 「ソードフィッシュ」雷撃機の夜間空襲は相変わらず鮮やかで、目暗撃ちの対空弾幕をものともせず、照明弾の明かりだけでアメリカ軍の空母2隻ともに命中弾を浴びせ、ハルゼー提督に再び無念の後退を強いている。この夜間戦闘は「第一次プエルトリコ海戦」とは別に、「バハマ沖海戦」と呼ばれる。
 そしてアメリカ側の空母が後退したため、プエルトリコ島の制空権も欧州枢軸側に残った。

 戦闘の総決算は、アメリカ軍の逆襲は今一歩及ばず、欧州枢軸軍は上陸船団が半壊に近い損害を受けた。しかし上陸部隊自体は既に陸地にあり、現地での水や食料の調達も可能なので、取りあえずではあるが徹底するまでには追いつめられなかった。だが船団の半壊により輸送計画は大きく狂い、護衛の巡洋艦にも大きな損害が出たため、その後のプエルトリコ島での混乱と激戦を呼び込む大きな要因となってしまう。
 なお「第一次プエルトリコ海戦」は、アメリカ海軍単独としての戦術的な勝利だったが、アメリカ領に侵攻された事の方がはるかに大きなニュースとなって、もっと徹底するべきだったと現在に至るも言われることが多い。



フェイズ23「第二次世界大戦(17)」