●フェイズ23「第二次世界大戦(17)」

 1942年の夏、世界で最も注目された戦場は、ロシアのコーカサスと、カリブのプエルトリコ島だった。この時期インド方面は、航空撃滅戦と通商破壊戦が激しくなっていたが、どちらかと言えば小康状態だった。当時でも、秋には日本軍を中心としたインド本土侵攻があると言われていたが、主に日本海軍で戦力の大きな移動と再編成もあって、インドでは大きく動けなかった。
 そうした時期に、パナマ運河を日本の大艦隊が通過する。

 4月にインド洋の枢軸海軍(東洋艦隊)に致命的と言える大打撃を与え、6月にセイロン島に侵攻できたので、より多くの艦艇が求められるカリブに艦艇の派遣が実施されたのだ。これは日本海軍だけでなく、連合軍全体が海軍の次の主戦場が大西洋だと認識している証でもあった。アラビア半島まで到達してしまえば、海軍の役割は大きく減少するからだ。
 新たに派遣されたのは、高速戦艦と一部の大型空母、そしてその護衛艦艇だった。そしてこの派遣により遣米艦隊、カリブ艦隊が再編成され、さらに上位の組織として大西洋艦隊が設立される。大西洋艦隊は聯合艦隊に次ぐ規模となり、数分の一の規模の日本海軍そのものだった。増援には各種補給艦、母艦、給糧艦、工作艦など支援艦艇も多く含まれており、アメリカの支援が無くてもある程度単独で作戦出来るまでの規模とされた。これは最前線での円滑な活動を考慮しての事だが、将来大西洋を押し渡った後の事まで考えての事だった。
 大西洋艦隊司令は、軍政家としてアメリカでも知られていた野村直邦大将が就任した。比較的近い時期にアメリカに赴任していた事が、この時の人事に影響していた。野村提督は、名目上はマイアミに停泊する巡洋艦《香取》に将旗を掲げ、マイアミとワシントン、ノーフォークなどを往復する毎日を送ることとなる。グアンタナモに行くことは珍しく、部下が動きやすく出来るように腐心した。
 大西洋艦隊の実戦部隊(第五艦隊、第八艦隊)は、三川中将と新着の角田中将が取ることとなった。角田中将は、南雲中将と交代で遣米艦隊司令に就任し、参謀(スタッフ)も今までの対潜作戦の専門家から空母機動部隊指揮の専門家集団となっている。この点から、大西洋での日本海軍派遣部隊の役割が大きく変化したことが見て取れる。また猛将と言われる人物が充てられたのは、カリブ海では激戦が予測されたからで、戦時の日本海軍の人事が柔軟になっていた事を物語っている。
 なお、大将が現地の総指揮官になったのは、アメリカ軍とのバランスを取るためと日本の独自性を保つためであるが、日本がヨーロッパに目を向けた第一歩と考える方が自然だろう。ワシントンの駐在武官の数も合わせて増員されていた。なお南雲中将は、日本本土に帰投する艦隊の指揮を執る形で、慣れない北米での2年近い任務を終えて帰国している。
 新たに派遣された戦力の中核は、高速戦艦《比叡》《霧島》、装甲空母《翔鶴》《瑞鶴》、重巡洋艦《青葉》《衣笠》《加古》《古鷹》で、これに第四水雷戦隊、第五、第八護衛戦隊、第七潜水戦隊などが少し時間をずらしながらパナマ運河を通過した。護衛戦隊はそれ以前にも派遣されているし、パナマ運河近辺だけで活動する部隊もあったり、太平洋航路を念のため護衛する部隊など、多くの部隊が既に日本とアメリカを結ぶ航路に展開していた。1942年になると、メキシコ湾以西のアメリカの航路で日本の海防艦を見かけるのは、もはや日常だった。ただしこれは、アメリカ側の護衛艦艇の整備が遅れている事も影響していた。もうしばらくは、日本が海を支えなければならなかった。
 しかし、1940年秋から2年近く続けた対潜水艦戦で、相応に損害を受けていた第三、第五水雷戦隊と軽空母《祥鳳》《瑞鳳》は、増援と交代の形で一度日本本土に戻ることになる。自らの護衛戦隊とアメリカ側の駆逐艦、対潜専門艦艇の充実も理由だったが、インド洋での活動が広がっている現状では、精鋭の2個水雷戦隊も遠隔地に置いておけないという日本海軍の台所事情もあった。
 そして各艦は、帰国を前に最後のオーバーホールをアメリカ東部沿岸の各所で行っている間、アメリカ議会が対潜部隊への感謝の決議を行い、アメリカ市民の盛大な見送りを受けて日本本土へと戻った。
 なお日本海軍のアメリカへの増援は、第一陣(巡洋艦群)が7月半ば、第二陣(空母群)が9月初旬のため、7月初旬に開始されたプエルトリコ島の戦いの序盤には参加できなかった。

 1942年7月1日から始まったプエルトリコ島の戦いは、まずは制空権獲得競争で欧州枢軸が優位に立った。サン・ファン近辺の飛行場に、上陸4日目に早くも戦闘機隊が展開して制空権獲得任務に就いたからだ。そしてアメリカ軍は、制空権を失ったため付近での潜水艦の跳梁をますます許し、プエルトリコ島への安易な増援も難しくなった。もちろんだが、輸送機による増援や輸送もいっそう難しくなり、現地でのアメリカの窮地は進んだ。
 アメリカ国民は、本土の南端からわずか2000キロメートル先での苦戦に大きな衝撃を受け、政府および軍は早急な奪回を画策する。日本で言えば、マリアナ諸島か台湾での戦闘だと思えばよいだろう。
 しかしこの頃のアメリカ軍自体が、まだカリブ東部での航空撃滅戦の段階で侵攻の時ではないと考えて、カリブでの上陸作戦の準備はほとんど行っていなかった。しかもこの時期は、枢軸側の潜水艦が大西洋とカリブ東部で猛威を振るっていて、プエルトリコ島は半ば孤立していた。アメリカ全体の船舶の損害も酷い状態で、この時期のアメリカ全体での月産造船量より月産損失船舶量の方が大きかった。
 アメリカ軍は潜水艦隊対策では着々と準備を進め、徐々に情勢は改善しつつあったが、潜水艦対策に力を入れすぎていたので、枢軸側の不意の侵攻への対処が出来ないでいた。
 それでもプエルトリコ島への増援は送らなければならないので、まずは「C-47」など輸送機をかき集めて、島の西部に兵器と物資を送り込もうとした。だが、枢軸側もアメリカが大量の輸送機を使うことは十分に予測していたので、優先して輸送機を狙って攻撃した。この輸送と阻止では、阻止する枢軸側が優勢だった。アメリカ軍は大損害を受けて、開始一週間を待たずに空輸作戦の中止を余儀なくされる。特に5日目に歩兵1個中隊を空輸しようとして12機中1機を残して全滅した事件は、大きな衝撃をもたらした。
 そこで今度は、軍用艦を用いた輸送作戦を始める。
 キューバ島東端からプエルトリコ島西端までは約1000キロ。エスパニョーラ島の領海外を迂回しなければならないが、軍艦の巡航速度なら1日半の行程で、燃費を無視してしまえば1日で到達することもできた。そして軍艦であっても、積載量は輸送機よりもずっと多かった。そしてアメリカ海軍には、戦前から旧式の平甲板型駆逐艦の一部を改装した高速輸送船があり、戦争になってからも改装艦が増やされていた。これを輸送任務に当てることになり、護衛の駆逐戦隊と共にプエルトリコ島への輸送任務に当てた。
 だが輸送作戦は、輸送機に固執して時間を失ったアメリカ軍よりも、欧州枢軸側の方が早く確実に行った。さらに枢軸側は、大打撃を受けた輸送船団も補充である程度穴埋めし、アメリカの駆逐艦が輸送を始める頃には本格的な増援部隊の上陸と大規模輸送に成功していた。これを受けて、プエルトリコ島に上陸した枢軸軍は本格的な島の制圧を開始し、沿岸部を中心に島の半分を占領した。アメリカ軍は遅滞防御戦をするにも車両や重装備がなく、慌てて送られたのも迫撃砲、機関銃以外だと小数の75mm野砲や少ない地雷で対処しなければならず、戦車部隊を持つ枢軸側に苦戦を強いられた。
 そしてアメリカは、この窮状を脱するべく物資と兵力を満載した船団をプエルトリコ島に送り届けるための作戦を急ぎ立案、実行する。
 船団は急ぎ集めた4隻の高速貨物船と高速貨客船で、うち1隻は日本船籍だった。これを巡洋艦2隻、駆逐艦6隻が直接護衛する。そして本隊は、空母《ヨークタウン》《レキシントン》と戦艦《ノースカロライナ》《ワシントン》を中心とした空母機動部隊だった。

 1942年7月22日、損害を受けたハルゼーの機動部隊に代わり、空母《ヨークタウン》《レキシントン》を中核とするフレッチャー提督率いる機動部隊がノーフォークから南下してバミューダ海域に入った。これに対して欧州枢軸は、当初から支援任務に付いている空母《イラストリアス》《ヴィクトリアス》の機動部隊を、ギアナでの航空機補充の後に差し向けた。
 プエルトリコ島への増援を巡る戦いでの争点は制空権で、双方共にこの戦場には多数の航空機を持ち込んでいた。アメリカ軍は大量の航空機を配備できるようになっていたが、キューバのグアンタナモから1000キロ先のプエルトリコ島まで随伴できる戦闘機がほとんど無かった。辛うじて「P-38 ライトニング」が可能だが、「P-38」は珍しい双胴型の戦闘機で本来は高々度迎撃戦闘機として開発され機動性は高くなかった。一撃離脱戦をすればかなりの対戦闘機戦闘がこなせるが、護衛戦闘機にはあまり相応しく無かった。
 このためプエルトリコ島に少しでも近い飛行場を確保するため、キューバ東部沖合にあるイギリス領で小数の守備隊がいる事が分かっているタークス・カイコス諸島の占領計画が急ぎ立案されていた。
 プエルトリコ島の西部はまだ自陣営で戦闘機用の飛行場が何カ所か急造されていたが、それまでの戦いではあまり使われていなかった。このため運用効率が悪く、また高射砲、バンカー、シェルターも少なく全ての面での増強が急務だが、その物資に欠けていた。プエルトリコ島には陸軍の「P-40」戦闘機部隊がかなりの数残っていたが、欧州枢軸の特に「スピットファイア」には撃墜率は常に大きく劣勢で、アメリカ側の消耗が続いてパイロット不足にすらなっていた。
 このままでは島の制空権が奪われ、島自体が占領されるのも時間の問題とも考えられた。そして完全占領を阻止する為にも、増援を送り込まなければならなかった。

 純粋に空母対空母の戦いとなると、イギリスが不利だった。搭載機数が少なく、半数程度しか無かったからだ。しかも艦上戦闘機のシーファイアは、着艦事故が多いので離発着を繰り返すだけで稼働機が減っていくという大きすぎる欠点があった。しかもシーファイアは、航続距離が短すぎた。他の機体も問題があった。フルマーはシーファイアの搭載と交代で降ろされたが、「フェアリー・アルバコア」攻撃機は、複葉機の「ソードフィッシュ」の後継機としてようやく搭載されるようになったが、総合性能はソードフィッシュと同程度と評価される性能だった。このためイギリス海軍は、「フェアリー・バラクーダ」の開発と実戦配備を急いでいた。
 そしてイギリスの空母は、飛行甲板と格納庫の舷側部にも装甲を施した重防御空母だが、その分重心が高くなるため格納庫が狭い1段しかなく、搭載機数が軽空母並だった。2隻合わせて通常で72機。各36機しかなく、飛行甲板に過積載しても1隻当たり50機程度が限界で、しかも戦闘機に事故が多いので過積載はほとんど出来なかった。
 これに対してアメリカ海軍は、日本と競い合うように優れた艦載機を開発し、中でも「SBD ドーントレス」急降下爆撃機は優れていた。艦上攻撃機も、優れた新型の「TBF/TBM アベンジャー」が登場していた。「F4F」戦闘機は凡庸といわれる事が多いが、堅牢で故障が少ない点は空母という洋上の孤立した場所で運用するのに向いていた。
 2隻の艦載機総数は約170機で、2倍半近い数を運用していた。その分飛行甲板の防御力は弱いが、アメリカ海軍ではダメージコントロール(損害極限)を重視しているので、損傷しても被害を最小限に止め沈没に至らないように配慮がされている。そして洋上の孤立した場所では、艦載機数が戦闘に最も影響を与えやすい。日本海軍が空母の装甲化を進めたように、飛行甲板の装甲化は地上を攻撃する時に有効な防御手段であり、アメリカ海軍はあまり地上攻撃は考えていなかったし、艦載機数が多ければ全てを解決できるとも考えていた。
 そして一見してイギリス側が不利に見えるが、枢軸側は地上配備の航空隊で優位だし、戦場はプエルトリコ島とその周辺部なので、戦闘の最盛期の時点で最も優位に戦えた。アメリカ側は100機規模の攻撃機、爆撃機の襲来を予測して、各空母には戦闘機を多めに搭載していた。

 7月24日、前日に互いを警戒して発見していた事もあり、その日は早朝から互いを見付け、そしてアメリカとイギリスの空母機動部隊が正面から激突する。枢軸側は小アンティル諸島から攻撃隊を放ったが、距離の問題からまずは空母同士の対戦となった。
 先制はアメリカ側がとった。というよりも、距離の関係でイギリス側の空母は攻撃隊を出すことが出来なかった。攻撃隊を出せたとしても戦闘機の護衛が付けられないので、今までの経験から危険が大きすぎると判断されたからだ。それに攻撃は空軍が行うことになっていた。その代わり、優れたレーダーと航空管制、そしてシーファイアの能力を活かした防空戦で耐え凌ぐことを決める。
 この時点では、幸い搭載してきた32機全てが健在で、航空管制に従って効率的な迎撃戦を展開した。少し間延びした編隊となっていた約80機のアメリカ軍編隊に対して、より高い高度からの逆さ落としを左右両側から仕掛けた。半数が護衛戦闘機を、もう半数が攻撃機を襲撃した。アメリカ軍は一撃で20機以上が撃墜され、その後もシーファイア隊は、速度の優位を活かしてダイブ(急降下)とズーム(急上昇)を繰り返し、そして母艦からの無線連絡に従った戦闘を行った。数が違うので全てを押しとどめることは出来なかったが、70%近くを阻止した。そして残りの30%も、機先を制され編隊が崩れた為、調整の取れない攻撃となってしまう。そしてかなり濃密となった対空砲火の前にあまり成果は上がらず、せっかく直撃した1000ポンド爆弾も、飛行甲板に張られた装甲のため効果は薄かった。
 その約1時間後にアメリカ軍の第二波が襲来するが、ほとんど数の減っていないシーファイアは、最初の同じように統制の取れた迎撃を実施して多くの戦果を挙げた。アメリカ軍の攻撃は、空母への直撃弾2発、至近弾若干を記録したが、イギリス軍の空母は少なくとも飛行甲板がほとんど無傷だった。
 そしてその頃、アメリカの空母機動部隊も、枢軸の空軍部隊からの空襲を受ける。この戦いで初めて戦場に姿を見せたのが、「デハビランド・モスキート」だった。と言っても爆撃をしたのではなく、持ち前の俊足を活かした偵察でアメリカ軍のインターセプターを翻弄した。攻撃隊の護衛はドロップタンクを搭載したハリケーンで、攻撃機は双発機が既存の機体ばかりが複数種類あった。
 この攻撃は飽和攻撃となった事から成功し、空母《レキシントン》に魚雷2発、爆弾3発、空母《ヨークタウン》に爆弾1発が命中した。だが攻撃隊の損害も大きく、都合100機近く出撃したうちの3分の1が未帰還となった。双発機が多いので、人的損害も無視できない数だった。アメリカ海軍の防空能力が大きく向上しつつあった事が、この損害を産んでいた。
 だがこれで、アメリカ側は空母が全てが損傷して戦闘力を喪失する。当然、作戦継続は不可能だった。

 しかしアメリカ軍の不運と悲劇には続きがあった。というよりも、ここからが悲劇の本番だった。
 空母《レキシントン》は、その日の夕方にイギリス軍空母機動部隊から薄暮攻撃を受ける。攻撃機の損耗を嫌ったイギリス軍が、敵が夜間戦闘機を持っていることを想定して送り込んだもので、24機の雷撃機と4機の照明弾搭載機により攻撃は行われた。
 この攻撃はレーダーで察知されたが、低空で接近したため発見が遅れ、既に防空戦闘機は全て収用されていたので、急ぎ対空戦が命令された。だが、目視で捉えるのが難しく、全機低空で進んで来るため有効な迎撃が出来なかった。
 まず第一撃は、横に大きく広がった特徴的な煙突がトレードマークの空母《レキシントン》に行われる。既に3本の魚雷を受けて速度と運動性が落ちていた《レキシントン》は、4機が投下した魚雷のうち1本が命中。そしてそれからが異常だった。まずは魚雷命中の大きな水柱がそそり立ったが、次の瞬間艦の各所から一斉に猛烈な火焔が吹き出したからだ。
 火焔の原因は気化したガソリンで、昼間の空襲により艦載機用のガソリン庫にひびが入り、気化したガスが漏れだして全艦に充満していたのだった。そして空母は常に油臭いのでガス漏れに本格的に気付いた者はおらず、この時一気に悲劇が拡大した。各所で火災と誘爆が発生し、特に格納庫では艦載機などが燃えだして手が付けられなくなった。幸い弾薬庫は大丈夫だったが、魚雷の命中と合わせてこの艦を救うのが不可能なのはすぐに分かり、辛うじて生き残っていた艦長はすぐにも総員退艦を命令した。そして火災と誘爆、そして被雷によって約30ほどで沈没したため、乗員の70%近くが犠牲になった。
 そして《レキシントン》が救えないのは空から見ても明らかなので、残りのイギリス軍機は空母《ヨークタウン》に攻撃を集中した。
 左右から《レキシントン》の分まで攻撃を受けた《ヨークタウン》は、最初は何とか回避したが左右同時に雷撃を受けて1発を被雷。その後次々に被雷し、合計4本の魚雷が命中する。既に爆弾1発が命中したのと合わせて大破で、しかも自力航行能力をほとんど無くしてしまう。
 その後《ヨークタウン》は巡洋艦で曳航しようとしたが、準備作業中に護衛の駆逐艦の警戒の隙を付いたドイツ軍Uボートの雷撃を受けて駆逐艦共々沈没し、アメリカ海軍は空母2隻を一度に喪失する大損害となった。
 そして、アメリカ側は船団をあと半日の距離で引き返した事と、枢軸側が船団よりも空母への攻撃を重視したため、輸送船団は空襲は受けることなくプエルトリコ島近辺から離脱できた。だが無傷とはいかず、その日の夜に枢軸側潜水艦複数による襲撃を受けて、輸送船1隻沈没、1隻大破の損害を被ってしまう。しかも翌日朝、イギリス軍空母機動部隊に捕捉されて3波合計70機の空襲を受けて船団の輸送船4隻は全滅。護衛艦艇も巡洋艦1隻が損傷、駆逐艦1隻が沈んだ。
 アメリカ軍(連合軍)の完敗だった。そして空母2隻の喪失は大きな衝撃で、「アメリカ海軍最悪の日」と言われたほどだ。
 しかし枢軸側も無傷とはいかず、基地航空隊は約50機の損失を出した。イギリス軍空母機動部隊も、修理と補給、補充のためギアナへと後退している。

 翌朝からは、枢軸側はプエルトリコ島への空襲を激化させると共に、攻勢に転じた。アメリカ側の補給作戦が失敗した今が、攻勢のチャンスと見たからだ。そして補給の失敗で明らかに士気の落ちていたアメリカ軍に対して、枢軸側の士気も高かった。
 当時のプエルトリコ島西部を巡る攻防戦では、枢軸側の主力はイギリス軍で、大隊規模でフランス軍の俗に言う外人部隊の1個大隊が参加していた。枢軸軍は歩兵戦車を先頭に立てて進撃し、重砲兵、砲兵、航空機の支援を得て進軍した。この時点での枢軸軍は2万の兵力を島の北部沿岸に集中しており、5000程度の兵力が島の南岸にいた。対するアメリカ軍は、数だけはまだ3万程度いたが、半数以上が現地プエルトリコ島で徴兵された者で、装備を与えても訓練が不十分だった。このため現地アメリカ軍が頼りにできる戦力は、本土出身兵の5000名だけだった。
 欧州枢軸軍の攻勢は、戦車こそあるも装甲車、トラックは十分でないため、機械化戦、電撃戦ではなかった。それにプエルトリコ島は熱帯もしくは亜熱帯のジャングルで覆われており、沿岸部にある道路もかなり破壊されているため、前進速度は十分ではなかった。また迂回できる場所もないので、基本的に正面突破戦になる。そしてアメリカ軍は、防衛線から自分たちの拠点までまだ少し距離があるので、遅滞防御戦を行えばよかった。
 とはいえ欧州枢軸側が火力、兵力、練度、そして士気でも圧倒しているので、アメリカ軍の戦闘は苦戦続きだった。そしてここでも「マチルダII」戦車は、イギリス兵にとって頼りになる戦友だった。
 そして辛うじて敷かれれたいた防衛線が突破されると、アメリカ軍は総崩れとなってしまう。
 その後約10日続いた追撃戦で、枢軸側は島の西の端まで一気に進撃してしまう。9月3日、アメリカ軍最後の橋頭堡だった西部主要都市のマヤグエス市はほとんど無血開城で、逃げ損ねた多くの兵士が降伏した。降伏したのは主に現地で徴兵されたプエルトリコ兵で、本土から送り込まれた兵士のかなりが島の内陸部へと逃れた。特にジャングルでの活動訓練をしていた熟練兵は、ほとんどが島の奥地へと自ら入っていった。内陸部に逃れたアメリカ兵は2000名程度だった。彼らはその後も、空中補給を受けながら偵察活動やゲリラ戦を展開していく事になる。
 そして8月4日、欧州枢軸軍はプエルトリコ島の占領を宣言し、島の全域に降伏と恭順を求めた。これで枢軸側が当時のカリブに求めていた戦術目標と戦略目標の双方を満たすことが出来たと考えた。島の奪回には大部隊が必要で、その準備を寄り大きくさせるために、枢軸側は半ば棄て兵になるのを覚悟でさらなる増援を送り込み、航空隊の増強を行う事も決める。

 この間アメリカ軍は、駆逐艦改造の高速輸送船を用いて、行きは武器弾薬と一部食糧(食糧のかなりは自給されていた)を送り届け、状況が最悪となると帰りに撤退する兵士を乗せられるだけ乗せた。阻止の空襲や潜水艦の襲撃で犠牲はかなり出たが、枢軸側にとっても楽な戦いではなかった。枢軸側は阻止のために艦隊を出そうとしたが、侵攻時に受けた損害が大きいので、これ以上の損害は今後に影響すると考えられたため艦隊を出せなかった。
 そしてプエルトリコ島が呆気なく陥落した事で、アメリカ軍は戦力の出し惜しみをしている場合ではなくなってしまう。アメリカ本土では、植民地同然とはいえアメリカの国土が占領された事に大きな衝撃を受け、市民はまずは本土の防備が大丈夫なのかと政府に問いかけ、それが大丈夫と分かると今度は一日も早い奪回を叫んだ。
 またこの戦いで、日本の《金龍丸》(※排水量約9,300トンで、戦争初期に特設巡洋艦になった事もある優秀船舶)が船団の一員として参加して沈んだことが連合軍内で少し問題となった。
 結果として、危険な輸送作戦で日本が有する優秀船舶が無為に失われた為だが、日本側はそれほど問題視していなかった。上陸作戦での輸送船の損害は、アジアでの戦いで何度も経験していたからだ。しかしアメリカでは、自分たちの戦いで同盟国の船を無為に沈めた事で責任論争となり、査問委員会や軍事裁判すらやりかねない状態となった。一方の日本側は、責任問題より弔い合戦的な考えを持っていた。犠牲を出したのなら、違うアプローチで状況を打破するべきだというのが日本側の提案だった。
 その提案とは、プエルトリコ島北西部のサン・ファン近郊の飛行場に対する艦砲射撃だった。
 だが危険も大きかった。航空機、潜水艦、そしてサンファン沖合に常にたむろする艦隊。これらを何とかしなければ、いかに外洋からの砲撃とはいえ戦艦の艦砲射撃はできないからだ。
 日本軍もその程度の事は理解しており、艦砲射撃は夜間の奇襲攻撃一度きり。枢軸の潜水艦は主に大西洋側にいるので、突入艦隊はカリブ海から海峡を突破して作戦海域に突入する事を提案する。敵艦隊はレーダー射撃で応戦して排除し、航空隊は全力で支援するのも大前提だった。
 もともと日本海軍は(名目上)地上支援重視な上に、アジアでの戦闘で戦艦を用いた艦砲射撃の威力が良く分かっていたので、やる気満々だった。訓練も相応に積んでいた。多数の高速大型艦をカリブに持ち込んだのも、日本の存在感を示すためやアメリカ市民に見てもらうためではないと考えていた。しかも率いるのは、武闘派の三川提督だった(さらに危険な武闘派とも言われた神重徳が参謀だった。)。
 しかしアメリカ軍は、危険だと考え消極的だった。このため、作戦提案した日本側が自分たちの我が儘を押し通す形で艦隊を出すことになる。そしてアメリカは日本側の積極姿勢を誤解し、日本はアメリカの懸念が理解できないまま、時間を空けるのは良くないのですぐにも作戦が実施された。
 艦砲射撃を行うのは高速戦艦《比叡》《霧島》で、重巡洋艦《青葉》《衣笠》《加古》《古鷹》と水雷戦隊が護衛する。作戦発起点はジャマイカ島。ここから密かに出撃し、カリブ海から大西洋に抜け、飛行場沖合に到着したら速やかに護衛艦隊を排除後、一撃で100機以上の航空機が駐留する飛行場を粉砕するというものだった。アメリカ軍には、現地になお残っている将兵に、砲撃の目印となる明かりをともしてもらう事だけだった。

 作戦成功率は20%もないとアメリカ軍では見ていた。アメリカ軍としては、日本側が囮のような役割を自ら買って出た事に首を傾げたが、日本軍の支援準備をしつつも、艦隊につられて出撃してくるであろう枢軸軍の撃破を考えた準備も進めた。アメリカ軍では、日本の意図が囮となって敵を誘い出す事だと考えていた。
 しかし8月13日に実施された艦砲射撃は、拍子抜けするほど完全成功を収めた。
 欧州枢軸側は、島を失ったばかりの連合軍が、これほど大胆で危険な作戦を行うと全く予測していなかった。しかも、日本艦隊の増援部隊がパナマを越えた事を知っていたが、こんなに早く作戦に投入されるとは考えてもいなかった。アメリカ海軍の動向は注意していたが、日本の増援艦隊はノーマークに近かった。
 またサン・ファン沖合に艦隊はいたが、いたのは潜水艦を警戒した駆逐艦数隻だけで、巡洋艦は警戒配置についていなかった。最初の上陸作戦で大損害を受けていたのに加えて、敵が近づくような情報がないので、念のため駐留していた巡洋艦も島内の港に停泊している状態だったためだ。この事を後で知った日本艦隊は、港にも艦砲射撃をしておけばよかったと悔しがったと言われている。
 またこの時の日本艦隊は、戦艦に試験的に電波妨害兵器を搭載していた。この兵器は初期的なものだが出力が高く、枢軸側の水上レーダーの無力化に成功していた。そしてこれで警戒した枢軸側だが、枢軸側がこの時警戒したのは夜間空襲で、急ぎ迎撃準備を進めたのだが、航空機の離陸のために飛行場の一部に照明をともしてしまう。これで日本艦隊は、現地に残っていたアメリカ兵が約束通り灯した照明もあり、基地の位置を正確に把握。すでに十分接近して砲撃進路に乗っていた事もあり、多少時間は早かったが艦砲射撃を開始する。現地枢軸軍にとって、戦艦の艦砲射撃は青天の霹靂だった。逆上陸作戦が始まると、一部では恐慌状態になったほどだった。
 飛行場への艦砲射撃は大成功で、数百発の榴弾、徹甲弾によって、飛行場は完全に破壊された。現地の枢軸軍は右往左往するばかりで、僅かに沿岸砲台が火を噴いたが、護衛の巡洋艦に陣地ごと粉砕された。潜水艦を警戒していた駆逐艦数隻が慌てて迎撃したが、レーダーで警戒をしていた重巡洋艦などの釣瓶打ちにあって、一方的に撃破されただけに終わった。そして飛行場への砲撃での大きな成果は、備蓄弾薬と燃料に大損害を与えた事で、特に燃料の焼失は現地枢軸軍航空機の活動を大きく低下させる要因となった。
 艦砲射撃を終えた日本艦隊は、翌朝迎えのアメリカ軍機に守られながら意気揚々と帰途に就いた。
 そして日本船舶の無為の喪失と日本軍の異常とすら言える積極姿勢を前にして、アメリカ軍部では自分たちこそがこの戦場(カリブ)の主役であり日本人に自分たちの姿と心意気を見せるべきだ、という感情から強い積極姿勢を見せるようになる。

 翌日からは、偵察機により情報が明らかになると、マイアミやグアンタナモなどの米軍航空隊は、慌てて大編隊をしたててプエルトリコ島への可能な限り大規模な爆撃を実施する。そして主要飛行場の一つが大損害を受けた事で、枢軸側の迎撃は激減していた。このためプエルトリコ島各地の飛行場、レーダーサイトを中心にした爆撃の効果は大きく、プエルトリコ島を占領した枢軸軍は占領前よりも悪い状態に追いやられてしまう。
 こうして日本軍の不意打ちといえる艦砲射撃の成功は、プエルトリコ島の戦いを双方予想しなかった乱戦へと導く事になる。枢軸側は、制空権にほころびが出た上に大規模な増援を送り込まねばならなくなり、アメリカ側は敵が弱体化したのですぐにも奪回の準備を始める事となったからだ。
 またアメリカ軍は、艦砲射撃の効果の大きさを実感したので、奪回作戦においては自分たちが艦砲射撃を行う事を決めた。
 だが奪回作戦を始めるには、もう少し時間が必要だった。



●フェイズ24「第二次世界大戦(18)」