●フェイズ24「第二次世界大戦(18)」

 「プエルトリコ島の戦い」は、戦争の転換点の一つだったと言われる事がある。攻防戦の末に途中で攻守が逆転した戦場のため、そう見られる向きが強い。確かに、激戦が繰り広げられ枢軸と連合の攻守が完全に逆転したキーポイントの戦場だったが、これは戦略レベルでの状況変化が大きく影響している。要するに、アメリカの戦時生産がフル稼働を開始して、産み出された兵器と開戦後から訓練された兵士達が戦場に続々と送り込まれるようになったからだ。
 だがアメリカの大軍はスタートラインで準備中で、連合軍はもう少し現有兵力で踏ん張らなければならなかった。プエルトリコ島が奪われた事そのものが、踏ん張れなかった場合の結果であり、踏ん張らなければそれだけ不利になると同時に、戦争が長引くことになるからだ。逆に枢軸側から見れば、無理をしてでも敵の反攻を抑え込む価値のある戦場だった。

 プエルトリコ島の戦いは、アメリカを中心とする連合軍が逆上陸作戦を決意した時点で一気にヒートアップする。
 上陸部隊を送り込むには制空権と制海権を限定的でも得なければならず、大量の洋上戦力、航空戦力が必要不可欠だったからだ。そしてアメリカ海軍は、まだ十分な数の艦艇を有していなかったし、最前線の飛行場から戦場まで1000キロメートルあるため、どうやっても戦闘機が送り込めず洋上での戦いが重要となった。
 しかし1942年9月、戦況は明らかに連合軍に優位になりつつあった。アメリカの各所で建造されていた護衛艦艇、護衛空母が続々と姿を現し始め、生産と実戦配備が先行していた艦艇や部隊が続々と戦場に姿を見せ始めていたからだ。対潜航空隊でも、航空機搭載のレーダーの搭載が始まり、夜間でも活動を本格化するようになる。また日本軍も大規模な増援艦隊をカリブに注ぎ込んだ事で、一気に戦力も増した。
 まずはアメリカ本土近辺、制空権のあるカリブ海南部、西部で各種部隊の配備が開始されたが、特に対潜水艦部隊の効果はてきめんだった。欧州枢軸軍の潜水艦は、8月後半からドイツ、イギリスなどの国を問わず損害が増え始めて9月、10月でほぼ1日1隻のペースで撃沈された。海の狼たちは、狩る側から狩られる側へと転落したのだ。
 そして優位を確信した連合軍が、対潜部隊を徐々にカリブの最前線へと投入するが、枢軸側は一度中止して体制を立て直すべき潜水艦作戦を続けざるを得なかった。制海権を維持するために必要だったからだ。しかし8月は、まだ連合軍にとって苦しい時期だった。このため、日本海軍による艦砲射撃の成功は貴重な時間を稼ぎだし、さらには連合軍が防戦一方に追いやられるのを阻止した。特にアメリカで、三川提督率いる《比叡》《霧島》による艦砲射撃が評価されるのは主にこのためだ。戦術的な一撃が、戦略に大きく影響を与えたのだ。
 そしてアメリカ軍は時間を無駄にせず、夜間爆撃を中心とした攻撃機による空襲を継続しつつ、その合間合間に島の内陸部に逃れた兵士への小規模な空中補給を実施した。また、プエルトリコ島の主要積み出し港には、常時夜間爆撃を行って枢軸側の荷揚げを阻害した。さらに、日米合同で多数の潜水艦も配置し直したので、枢軸側の船舶が島に至るまでの移動阻止率もあがった。この中で《伊19》潜水艦は、大型輸送船2隻、駆逐艦1隻を一度に撃沈する殊勲を上げた。この時の輸送船は、それぞれ1個大隊の歩兵と戦車など多数の重装備を満載していたので、この後の攻防戦に大きな影響を与えた戦果だった。
 そしてプエルトリコの枢軸側は、島の内陸部の完全制圧に手間取るばかりか、小規模な逆襲を受けることが多く小さな損害を積み上げた。また多くの兵力が、内陸部に拘束される事となった。そして増援や物資の輸送は遅々として進まなかった。
 さらにアメリカ軍は、キューバに近いバハマの東、エスパニョーラ島の北にある、イギリス領のタークス・カイコス諸島を海兵隊を用いて電撃的に占領する。同諸島は、かなり前から占領計画はあるも延び延びとなっていたものだが、プエルトリコ島が占領された事で急ぎ占領計画が進められたものだった。
 占領に使った戦力は合わせても旅団規模に届かず、敵に近いためほとんど何の防備も出来ていなかった同諸島を2日間で完全占領した。欧州枢軸側がプエルトリコ島への攻撃か侵攻と予測して同地域でのみ警戒を強めたのを利用したため、戦闘らしい戦闘はなく鮮やかな勝利となった。
 そして占領後は、ただちに工兵部隊を送り込んで飛行場を整備し、一週間を待たずして戦闘機用の飛行場が開設される。
 同諸島はプエルトリコ島主要部から直線距離で700キロ程度で、ここからだと「P-38 ライトニング」が随伴出撃可能だった。「P-38」は対戦闘機戦闘だと一撃離脱戦以外は苦手だったが、直接の護衛があるのと無いのとでは大違いだった。また、アメリカ第3(もしくは4)の軍隊として急速に規模を拡大しつつある海兵隊の航空隊は、新鋭機として「F-4U コルセア」を投入した。海賊(正確には地中海のイスラム海賊)というカリブに相応しい名を持つコルセアは、この大戦初の2000馬力級空冷エンジン(ダブルワスプエンジン)を搭載した戦闘機の実戦投入となった。もともとは空母艦載機として開発されたが、機体の形状などから着艦が難しいため、まずは海兵隊に配備された。戦闘機としての評価が今ひとつと言われることもあるが、この時期に高性能な機体が登場したことは大きな価値があった。初陣は散々だったが、「P-40」などよりずっと良い機体で、その後練度、運用の向上により評価も覆されていった。なお「F-4U」は、開発途中から日本海軍が採用を決めていた。これは久しぶりの海外機導入だった。日本海軍は、日本の航空会社の開発力不足を補うため、自前の局地戦闘機(重戦闘機)として様々な資料や実機を検討した上で、加えて東鉄(モルガン財団)を経由したヴォート社からの熱心なロビー活動で決まったものだった(※他に、満州帝国、自由イギリスなどの戦闘機としても採用されている)。しかし日本海軍は、重戦闘機というより「支援戦闘機」として同機の採用に踏み切っており、上昇力と高空性能の高い別の機体を本当の意味での局地戦闘機として採用している。同機は、基本的に日米友好を演出するために日本海軍で採用されたと見るべきで、古くから日米海軍の関係が良好だったため実現したものだった。
 またこの戦場で珍しいのは、アメリカが日本から戦闘機の直接供与を受けていたことだ。これは陸軍航空隊が航続距離の長い戦闘機を欲したからで、「零戦32型」を日本人教官を迎え入れて訓練を積んだ一部の部隊が運用して、主に爆撃機の随伴機として活躍を示すことになる。もっとも、本来ならアメリカ海軍のF4Fでも良かったのだが、アメリカ陸海軍の勢力争いと面子の結果、日本海軍機が選ばれたと言われている。
 そうした努力がされたように、この小さな島々の確保は8月下旬からのプエルトリコ島での空中戦を優位に展開する大きな要素となった。

 プエルトリコ島奪回作戦に際して、連合軍は大西洋で投入できる全ての高速空母、高速戦艦の投入を決意する。そして日本が大規模な増援艦隊にパナマ運河を越えさせていた事、枢軸側の高速戦艦の近代改装がまだ完了していない事から、カリブ海近辺での洋上戦力差は連合軍が優勢だった。
 アメリカ海軍は、空母《サラトガ》《エンタープライズ》《ホーネット》《レンジャー》の保有空母全ての投入を決意。日本は、カリブに到着して現地での慣熟訓練も終わった装甲空母《翔鶴》《瑞鶴》を投入する。またこの作戦のため、本来は帰国予定だった軽空母《瑞鳳》が、対潜任務用として戦闘に参加する事になる。さらにカナダ方面の防備担当だった自由英艦隊も、空母《フェーリアス》、戦艦《ウォースパイト》を中心とする艦隊を支援任務に出すことになった。連合軍にとって総力戦だった。
 戦艦も《ワシントン》《ノースカロライナ》に加えて新型の《サウスダコタ》《インディアナ》《アラバマ》までが作戦のために用意され、日本海軍も高速戦艦《比叡》《霧島》を今度は空母の護衛に投入する事を決める。また日本が2隻持ち込んだ防空専門の直衛艦(秋月型)と似た用途の防空巡洋艦3隻が、アメリカ艦隊に編入されていた。日米共に駆逐艦の多くが両用砲を装備しているので、艦隊防空はこの時点では考える限り最良の状態にまで高められていた。
 そして連合軍は、大量の空母と艦隊の強固な防御力を武器にして、枢軸軍から島の制空権を一時的に奪い、師団規模の部隊を強襲上陸させようとした。
 空母は主に三つに分けられ、アメリカ海軍は《レンジャー》が船団の護衛、残りの空母3隻が全部隊の主力として枢軸側空母機動部隊に備える。自由イギリス艦隊も船団護衛に組み込まれた。日本の空母部隊は、防御力の高さを活かして初手の枢軸軍航空基地への強襲を担うことになっていた。ただし日本艦隊は一種の囮で、日本艦隊の迎撃に枢軸艦隊が出てきたところを一網打尽にして制海権を得た上で、一気に航空撃滅戦と上陸作戦を行うつもりだった。奪われっぱなしだった戦闘のイニシアチブを奪うのも、この作戦の大きな目的だった。
 対する枢軸側は、イギリス本国海軍が多少損傷した《イラストリアス》《ヴィクトリアス》を応急修理して強引に出撃させ、ドイツがようやく派遣してきた《ペーター・シュトラッサー(フォーミダブル)》《マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(インドミダブル)》を加えて、さらに基地航空隊と連携して連合軍の反攻を挫こうと構想していた。戦艦もイギリスが《プリンス・オブ・ウェールズ》《デューク・オブ・ヨーク》、ドイツが《ビスマルク》《テルピッツ》、フランスが《ダンケルク》《ストラスブール》を迎撃のためにギニアと小アンティル諸島南部に集めた。こちらも総力戦体制だった。
 ただし枢軸側には不安要素が多かった。一つは占領したプエルトリコの基地機能が大きく低下している事。一つは、イギリス軍空母の艦載機部隊が損害から復帰できず、空母自体も小さな傷を抱えたままな事。一つは、ドイツ空母機動部隊の戦闘力が未知数な事。そして何より、イギリス、ドイツの空母部隊、さらには基地部隊の連携が取れるのかという事。特に、洋上での素早い戦闘展開に際して、日米よりも英独の方が明らかに連携で劣ると考えられていた。合同訓練をしたことがないのだから、不安になるのも当然だった。
 連合軍の作戦開始は9月22日。大規模作戦のため、準備には流石に一ヶ月が必要だった。

 キューバ島南端からフランス領ギアナまで約2500キロメートル。その中間となる地域に、プエルトリコ島と小アンティル諸島の北部が位置している。そして枢軸軍にとって、戦闘機が溢れかえるキューバ島はもはや手が出せない場所となっていた。もちろん長距離偵察機や重爆撃機を使えば行くことはできるし、偵察機は出されていたが、もはや攻撃は不可能だった。さらに外郭となるジャマイカ島、タークス・カイコス諸島は連合軍の手にあった。そして周辺の制空権、制海権は連合軍のもので、潜水艦の接近すら極めて難しくなっていた。そんな場所が俄に騒々しくなった。大艦隊の出撃の予兆だった。
 まずは対潜戦隊、対潜航空隊が濃密な潜水艦制圧を実施して、欧州枢軸側の潜水艦を閉め出した。日本海軍だと静止状態で潜む術(自動懸吊装置)を持っていたが、当時の欧州枢軸にはないので潜み続けるには人間の方が心身共に持たなかった。
 そしてマイアミからは、続々と艦隊が出撃してきた。
 それより前に高速補給艦を含んだ艦隊と、大型空母、高速戦艦を含む大艦隊の出撃も確認されていた。これに対応して、欧州枢軸側も自らの艦隊に出撃命令を下していた。連合軍も次なる艦隊を繰り出した。そして双方から多数の偵察機が各島々から出されたが、この時アメリカ軍は、機体内に追加の燃料タンクを増設して航続距離を伸ばした「B-24 リベレーター」爆撃機や「PBY カタリナ」、「マーチンPBM マリナー」飛行艇を多数送り出していた。欧州枢軸も偵察機は多数出したが、アメリカに数で大きく負けていた上に、アメリカ軍機は幾つかの偵察機に試作段階だったレーダーを装備しての出撃だった。
 そして敵味方合わせて4つの巨大な空母機動部隊と多数の偵察機、潜水艦が大西洋中部海域で活発に動き回ったが、この時は戦闘のイニシアチブを握った連合軍の作戦が図に当たった。
 戦闘当日の9月24日に偵察で優位に立った連合軍は、連携を密に取りつつ自分たちの艦隊を動かした。そして欧州枢軸より先に敵機動部隊発見に成功する。この時「カタリナ」が発見したのは、イギリス海軍の空母機動部隊だった。発見はレーダーによるもので、上空を舞う護衛戦闘機のエコーから発見していった。この偵察機は戦闘機に撃墜されてしまうが、周辺から続々と偵察機が集まり、ついには空母艦載機の小型機、日本海軍の「二式艦上偵察機」までがイギリス艦隊上空に至ってしまう。スマートな高速偵察機の接触は、日本の空母機動部隊がイギリス艦隊を攻撃できる距離だと言う現れだっだ。だが、日本側はすぐには攻撃隊を放たなかった。これは先の戦闘で、アメリカ軍が圧倒的優位な状況で先制したにも関わらず、防戦に徹せられて反撃を受けたため大きな損害を受け、戦果を得られなかったからだった。
 そして艦隊の防空力、防御力に自信を持つ日本艦隊は、さらなる突進を続ける。艦隊指揮を新たに任せられた角田提督(当時中将)は、「敵に接近せよ」と全艦隊に伝えたのみだった。だがさらに偵察機を放ち、近くにもう一つの空母機動部隊がいないかを探った。しかし自らはまだ発見されていないので、無線封鎖を守っての突進だった。

 欧州枢軸側は、先に発見された事に焦りを持つと同時に、まずは迎撃に専念しようとする。先の戦いでも防御力の高さは立証されていたし、敵艦隊が分からないからだ。偵察機は概略位置に向けてさらに放たれたが、未帰還機が相次いだ。明らかに敵の迎撃を受けているが、相手がよく分からなかった。日本艦隊だけなのか、アメリカ艦隊も近くにいるのかすら分からなかった。しかも日本艦隊が攻撃してこないので、焦りを強めた。
 このため、互いの機動の結果50海里以上離れていたドイツ艦隊に連絡を行うが、ドイツ艦隊は沈黙を決め込んでいた。イギリス艦隊と違い、見つかっていない以上無線封鎖は当然だが、かえってイギリス側の焦りとドイツに対する不信を強めさせてしまう。
 このためイギリス艦隊は、接近するよりも出来る限り離れることを選んだ。これ以上接近されることがないまま防戦に務めれば、前の海戦のように後手の一撃で勝機が得られるかも知れないからだ。
 だがこの時、一つの報告がイギリス艦隊に舞い込む。
 ドイツ機動部隊の偵察機が、敵を発見したという報告だった。しかも位置は自分たちを見付けている艦隊とは全く違う場所で、ドイツ艦隊はすぐさま攻撃隊を放ったという報告まであった。そしてドイツ艦隊、新たな敵艦隊の位置が分かったが、敵の位置は連合軍の機体なら枢軸側の艦隊を攻撃可能だった。この時点で時間はまだ午前9時前半。戦闘はまだまだこれからの時間だった。そしてそのすぐ後、ドイツ艦隊が自分たちも発見されたという報告を送ってきた。ドイツ艦隊は共同攻撃を求めていたが、イギリス艦隊の位置だと自分たちの艦載機の航続距離では攻撃機でギリギリ、シーファイアでは話しにもならない距離だった。しかも日本艦隊の位置は、まだ正確には分かっていなかった。だがドイツ艦隊が動いた以上、イギリス側も逃げている場合ではなかった。危険を承知でアメリカ艦隊の方に進路を取った。
 10時半頃、イギリス艦隊に次に届いた電報は悲報だった。ドイツ機動部隊が、二つの方向から敵大編隊が接近しつつあり、直ちに救援を求めたものだ。
 この攻撃隊は、ハルゼー提督のアメリカ艦隊と自分たちを見付けた筈だった角田提督の日本艦隊が放ったものだった。日本艦隊の位置だと、航続距離の長さからイギリス、ドイツ双方の艦隊を攻撃可能な上に、ドイツ艦隊はアメリカ艦隊を自分たちが攻撃できる位置まで接近していた。このドイツ艦隊の積極姿勢は、後年批判される事が多い。だが成果を挙げることを、海軍はレーダー元帥とヒトラー総統から、艦載機の空軍部隊はゲーリング元帥から半ば強制されていた。つまりドイツ艦隊の動きには、合理性が欠けていた。
 そしてドイツ艦隊は、自らの行いの報いを受けることになる。

 この時ドイツ艦隊は、空母《シュトラッサー》《リヒトホーフェン》、戦艦《ビスマルク》《テルピッツ》を中心に重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦7隻で編成されていた。軽巡洋艦2隻と駆逐艦のうち4隻がイギリスからの賠償艦で、空母を含めた艦隊の半数近くがイギリス製というところにドイツ海軍の本来の規模を見て取ることが出来る。
 艦載機総数は、2隻で合計約90機。《リヒトホーフェン》は《イラストリアス級》の改良型で、防御を減らして格納庫を1段のみから一部2段として搭載機数の増加を図っていた。そしてドイツ艦隊は「Fw190 T」戦闘攻撃機、「Ju87D」急降下爆撃機の海軍型を搭載していたが、「Fw190 T」は32機、「Ju87D」は60機搭載していた。初期の日本海軍並に攻撃重視で、このうち40機を第一波としてアメリカ艦隊に向けて飛び立たせ、防空にはわずか8機しか配置していなかった。慌てて、次の攻撃隊用に待機していた残りも防空のため飛び立たせたが、それでも16機しかない。これに対して、アメリカ艦隊の第一波だけで約120機もあった。しかもアメリカ艦隊の第二派80機、日本艦隊の第一波70機、第二波40機と続いていた。いかに「Fw190」が優れた戦闘機でも、どうにもならなかった。防空任務の「Fw190」は制空戦闘で数の優位に押し込まれ、最初からフリーハンドとなった各攻撃隊は思い思いの場所からまずはイギリス生まれの丈夫な空母に殺到した。
 また敵の大規模な空襲に際して、ドイツ艦隊の陣形は不十分だった。艦隊前面に「囮」もしくは「盾」となる大型艦を並べ、空母の脇に巡洋艦や駆逐艦を置いていたが、陣形としては「T字」状で防空に適した輪形陣とは言えなかった。
 連合軍が行う輪形陣を取らないのは、知らないからではなく、取れないからだった。というのも輪形陣は当時としては特殊な陣形で、一般的にはアメリカ海軍が艦隊用に開発した対潜水艦用の陣形の一つだった。そしてアメリカ海軍と日本海軍は、対潜水艦用の陣形として輪形陣の訓練を古くから実施していた。そして半ば偶然に、防空陣形として優れていることを発見し、実戦へと取り入れていった。だが、ここ20年ほど大規模な艦隊陣形を組んだことのない(組みたくても組めない)ドイツ海軍では、輪形陣というのは未知の陣形でしかなかった。しかも訓練自体が出来なかったので、したくても出来なかったのだ。加えて言えば、輪形陣の訓練は専門的に行う必要があるので、短期間で修得することが難しかった。
 加えて、対空射撃自体はそれなりに優れていたが、各艦の連携が甘かった。何よりドイツ海軍自体が大規模な艦隊運用の経験が乏しく、高速での空襲回避運動の経験が不足するため、攻撃が始まるとすぐにも陣形が乱れてしまった。ドイツ艦とイギリス艦を合わせて運用していた事も、微妙な旋回半径、速度変化などの問題で艦隊運動に影響していた。
 これに対してアメリカ側は、先の戦闘の教訓を反映していた。
 まずは「ドーントレス」急降下爆撃機が、空母の側の護衛艦へのダイブを実施する。本来なら輪形陣の外周を潰す積もりだったが、ドイツ艦隊には外周も何もないので空母の側の艦艇を潰せば良かった。そして約40機の爆撃機は任務を果たし、空母の両脇にいた艦艇のうち3隻に命中弾を浴びせて、うち1隻をすぐにも艦隊運動から脱落させる。1000ポンド爆弾をほぼ同時に2発も受けては、駆逐艦ではどうにもならなかった。
 そして隙のできた陣形の脇を縫って、低空から頑丈さで定評のある「アヴェンジャー」雷撃機が強引に突進していく。ドイツ側も懸命の防空砲火を浴びせるが、20mm機銃程度では新型の雷撃機に致命傷を与えるのは難しかった。37mm機銃だとかなり有効だが、この時は敵機の速度を誤って訓練していたので(旧式のデバステーターに合わせていた)、ほとんど追随出来なかった。
 そして重防御でトップヘビーなドイツ人が初めて持ったイギリス製空母の両脇に、魚雷が次々に命中した。命中したのは《シュトラッサー》が3発、《リヒトホーフェン》が1発で命中率は10%を越えているのでかなり優秀だった。
 この間、敵を引きつける筈の戦艦や重巡洋艦は、アメリカ軍編隊が無視したため、高角砲で空母上に不完全な弾幕を張る以外で役に立たなかった。

 そして約30分後、アメリカ軍の第二派が襲来する。第一波が去りつつある段階で、航続距離に余裕のある戦闘機はまだ制空戦闘を続けている状態だった。このため第二派は、余裕をもってドイツ艦隊上空へと至り、空母に止めを刺すべく陣形を組み直していった。
 この攻撃を、速力が大きく落ちていた《シュトラッサー》は全く回避出来ず、次々に魚雷が命中して攻撃隊が去る頃には総員退艦が命令され、その後1時間足らずで横転沈没した。最初の攻撃で魚雷1発の被弾で済んだ《リヒトホーフェン》も逃れることは出来ず、さらに魚雷2本を受けて大破し航空機運用能力を失った。
 急降下爆撃機隊は、損傷の大きな護衛艦艇と前衛で横陣を組んでいる戦艦をターゲットにする。《ビスマルク型》はアメリカ海軍にとって恨み昔年の戦艦の一つであり、苛烈な攻撃が行われた。《ビスマルク》《テルピッツ》は同じ外観でこの時は塗装も統一していたので、見た目での違いは分からなかった。だが、急降下爆撃の洗礼を受けたのは何の因縁か《ビスマルク》の方で、「ドーントレス」は次々に1000ポンド爆弾を見舞った。
 《ビスマルク》は直撃4発、至近弾3発を受けて小破。しかも直撃を受けた3番砲塔が旋回不能になり、艦中央部の直撃と至近弾で防空能力がほぼ半減した。破片と爆風でレーダーの半数も使用不能になった。
 そしてアメリカ軍の第二派が攻撃の最中、日本軍編隊が到着する。日本軍編隊は直ちに攻撃体形を取り、速力が落ちて大きく傾いた《リヒトホーフェン》と、米編隊が集中爆撃を行っている《ビスマルク》へと殺到した。この時、アメリカ軍編隊の攻撃隊長と日本軍編隊の攻撃隊長が合流して近距離無線で連絡を取り合い、現状の報告と攻撃のアドバイスを日本側は受けている。その最後にアメリカ軍隊長は、「出来れば、あの《ビスマルク級》は残しておいてくれ。多分あれには借りがある」と伝えた逸話が残されている。
 頼まれたからではないが、日本軍攻撃隊はまずは空母へ集中攻撃を実施した。他の姉妹3隻に比べて防御の軽い《リヒトホーフェン》は、既に3発の航空魚雷を受けていた事もあり、《シュトラッサー》同様に次々に被弾した。最終的に魚雷8本、爆弾5発が命中し、日本軍攻撃隊が攻撃中に総員退艦が命令された。
 これでもまだ半数が魚雷や爆弾を残していたので、黒煙を吹き上げる《ビスマルク》へと殺到する。アメリカ人には悪いが、日本海軍としては航空機による作戦行動中の戦艦撃沈が欲しかった。4月のインド洋のアッズで旧式戦艦《ラミリーズ》をめった打ちの形で沈めたが、これは環礁から出たばかりのところだったので、作戦行動中とは言い切れなかった。このため、今度こそという気持ちがあった。しかも獲物が1年前の5月に暴れ回った《ビスマルク》とあっては尚更だった。
 だが、空母の完全撃破を優先したため、《ビスマルク》への攻撃は中途半端となってしまう。《ビスマルク》と両脇の艦艇からの激しい対空砲火もあり、魚雷を2本、爆弾の直撃3発、至近弾多数で攻撃を終えなければならなかった。このため日本側は第二波40機に期待をかけたいところだが、他の艦艇からの砲火が激しく十分な打撃は与えられず、攻撃機24機による攻撃は命中率15%以上、魚雷2本、爆弾2発を追加で浴びせるも撃沈には至らなかった。このため日本軍の攻撃隊長は、「予定通り《ビスマルク級》1隻を大破せり」と打電した。

 そして午後3時、約90機のアメリカ軍第三波攻撃隊が殺到する。目標は損傷した《ビスマルク級》戦艦。既に空母を失ったドイツ艦隊は、損傷した《ビスマルク》を中心に置いた陣形を組み直していたが、対空砲火をものともせずに突撃し、かなりの損害を受けるも《ビスマルク》に遂に致命傷を与えるに至る。
 戦艦《ビスマルク》が最終的に受けた命中弾は、魚雷14本、爆弾13発で最後は行き足が止まったため速度差から護衛もうまく出来ず、めった打ちの状態になった。しかも攻撃の最中にアメリカ軍の第四波攻撃隊が到着し、護衛の駆逐艦1隻が直撃弾1発を受けて大破し、その後沈没する損害を受けている。またそれまで無傷だった《テルピッツ》も、魚雷1本、爆弾1発の直撃を受けて小破。魚雷による損害が意外に酷く、ギアナにいる工作艦(特設工作艦)の修理では間に合わず、本国に回航される大損害となった。
 これで日本軍の第三波、第四波攻撃があれば、ドイツ艦隊の全滅も夢では無かったかも知れないが、昼以後の日本艦隊はイギリス艦隊との戦いに忙殺されていた。
 イギリス艦隊は、とにかくドイツ艦隊を救援するため危険を承知で、攻撃機のみによる攻撃を日本艦隊に差し向ける。その様子は張り付いている偵察機から続々と送られてくるため、日本側は自らのレーダー情報などで微調整しつつ万全の体制で迎撃戦を展開した。この結果、イギリス軍攻撃隊は80%以上が撃墜される事となる。だが、低空で侵入した布張りの「ソードフィッシュ」6機を見逃してしまい、しかも機銃ではなかなか落とせないため《翔鶴》が雷撃を受けて1発を被弾し、小破の損害を受けてしまう。
 これが日本軍の攻撃隊が帰ってくる前で、攻撃を受けたことで日本艦隊はイギリス艦隊の総攻撃を決意。「シーファイア」と航空管制の脅威をアメリカ軍から耳にたこができるほど聞かされていたが、日本側はマレーやインド洋の対戦でたいした相手はないと考えていたので極端に恐れはしなかった。ただし相手が装甲空母なので、空母の攻撃は雷撃によるものと決め、アメリカ側の攻撃ドクトリンを採用することとした。
 
 空母《イラストリアス》《ヴィクトリアス》、戦艦《プリンス・オブ・ウェールズ》《デューク・オブ・ヨーク》を中心としたイギリス軍空母機動部隊は、攻撃隊からの伝えられてくる無線に絶望していた。そして自分たちが殴りかかった以上、自分たちより優勢な空母3隻、戦艦2隻を有する日本艦隊の苛烈な攻撃を予測する。だが先の戦闘でのアメリカ艦隊との対戦から、防戦なら大丈夫という雰囲気もあった。それに「シーファイア」は、36機のうち33機が飛行可能だった。
 日本側は、相手の攻撃を完全に防いだと考えていたので、防空任務の戦闘機隊も最初に随伴させることとする。この時《翔鶴》《瑞鶴》は、それぞれ戦闘機36機、急降下爆撃機18機、攻撃機18機、偵察機3機、軽空母《瑞鳳》は、戦闘機9機、急降下爆撃機9機、攻撃機12機、合計で戦闘機81機、急降下爆撃機45機、攻撃機45機、偵察機6機、総数180機を定数として搭載していた。しかも《翔鶴》《瑞鶴》用に、交代用の同数の航空機とパイロットがアメリカに渡って訓練していたので出し惜しみする気もなかった。そしてこの時はまだ80%以上が戦闘可能で、戦闘機隊は無傷だった。
 一度に飛行甲板に並べられる機体数は1隻当たり40機程度なので、2隻から一度に送り出せるのは80機程度となる。この時日本艦隊は、戦闘機45機、急降下爆撃機18機、攻撃機24機をイギリス艦隊への第一波として送り出した。軽空母《瑞鳳》も攻撃隊を出すので、規模自体はドイツ艦隊に対するより大きくなっていた。
 午後2時半頃、日本軍攻撃隊がイギリス艦隊に接近した。日本軍攻撃隊は、様々な偵察機からの情報を得て案内まで受けていたので、イギリス側が不意打ちすることは不可能だった。自然、正面からの激突となるが、日本側はまず27機が制空権獲得競争のため突出する。これに対してイギリス側は21機が対応したが、やはりここでもイギリス軍機は日本軍の「零戦」に対して果敢に格闘戦を仕掛けた。アメリカ軍機相手なら正しい戦法だが、アジアからの情報を得て危険と分かっていても、彼らはまずは自分たちの得意とする戦いを仕掛けてしまう。そして相手が熟練者が多く数が多い上に改造型の「零戦」だったこともあり、ほとんど一方的展開となった。多くのシーファイアがダイブして逃げるしかなく、挑んだうち半数以上が最初の10分程度の戦闘で撃墜された。
 そして残りの防空隊と護衛戦闘機隊との戦闘もイギリス軍の不利のまま推移して、日本側は90%以上の攻撃機が突破に成功する。数に勝る相手と正面から祟ってしまうと、航空管制の魔力も効果は殆どなかった。
 日本攻撃隊は、定石通り急降下爆撃隊が護衛艦艇を狙い、雷撃機が空母を狙った。空母で狙われたのは《イラストリアス》で、外周の艦艇を抜けた20機近い雷撃機の攻撃を左右から受け、全てを避けきることが出来ずに2本を受ける。1発はそれほど大きな損害を出さなかったが、もう1本は艦首近くに命中したため、高速が発揮できなくなってしまう。
 そして約50分後、午後3時も回って帰投後の着艦を考えるとこの日最後の攻撃隊が、イギリス艦隊上空に現れる。
 戦闘機同士の戦いは、やはり格闘戦を仕掛けた「シーファイア」の敗北に終わった。奇妙なので、この時も日本軍のパイロットが首を傾げたほどだった。とはいえ第二波は攻撃隊の機体数自体が少ないため、相手に致命傷を与えるには至らなかった。
 《イラストリアス》にさらに魚雷2発を与えて大破状態に追い込むが、護衛艦艇の奮闘もあってこの日の攻撃はこれで終えなければならなかった。

 しかし24日の戦闘はこれで終わりではなく、枢軸側が多数展開していた潜水艦による戦闘が日米機動部隊で終日展開されていた。この結果は、日本艦隊が午前中に1隻を完全撃沈し、1隻を撃破した。軽空母《瑞鳳》航空隊の対潜戦闘の熟練度合いは、流石としか言いようがなかった。これに対してアメリカ艦隊では、空母《サラトガ》が魚雷2本の雷撃を受けて中破。航空隊を強引に比較的近かったタークス・カイコス諸島の飛行場に送り届けている。
 なお、朝に飛び立った筈のドイツ軍攻撃隊は何をしていたのか? 答えは単純で、空で迷子になっていた。当然ながら攻撃どころではなく、何とか燃料切れ前に友軍艦隊まで帰投するも、母艦が全て傷ついて離発着不能だった為、何もしないまま全機失われていた。全ては地上目標のない洋上での航法が全くなっていなかったからで、洋上戦を空軍パイロットに行わせた弊害が如実に現れていた。大型機や偵察機なら洋上訓練も積んでいたが、島影一つない場所での遠距離戦闘は全く初めてだった事もこの時の戦闘に影響したと言えるだろう。この時は誘導に偵察機を用いなかった事も大きく原因していた。
 そしてその後ドイツ空軍の空母艦載機部隊では洋上航法の訓練を強化したかというと、そうではなかった。実戦どころか訓練に使える空母すら無くしてしまったからだ。しかも今後1年近く空母を持つことはなく、戦場も変化したため結局洋上航法は重視されないままだった。この単発小型機の洋上航法訓練不足は、その後も度々ドイツ空軍を悩ませる事になる。そしてドイツ海軍はともかくドイツ空軍は、最後まで洋上での戦闘の特殊な技術について本当に理解することも無かった。これは中佐以上の高級将校が、作戦行動中の空母に乗ったことがないためと言われている。

 9月24日「中部大西洋海戦」の結果、欧州枢軸側は空母2隻撃沈、1隻大破、戦艦1隻撃沈、他撃沈、損傷多数という大損害を受ける。これに対して連合軍側は、空母1隻が戦線離脱をしたのみだった。ドイツ艦隊が大損害を受けたのは、結果として連合軍の集中攻撃を受けたからだが、ドイツ海軍の艦隊行動、機動部隊運用の訓練不足が大きく原因していると言わねばならないだろう。
 そして戦略的には、拮抗していたはずの制海権は完全に連合軍優位となり、しかも圧倒という形で連合軍に傾いた。
 だが、補給と補充、可能なら修理を行うため、連合軍艦隊は一旦根拠地まで引き返す。これほど欧州枢軸艦隊が食いついてくるとは考えていなかったからで、上陸作戦についても予定が繰り延べされた。
 対して欧州枢軸側は、ドイツ海軍が主に政治的に大混乱に陥っていた。
 理由は言うまでもなく、空母2隻に加えて昨年5月に欧州各国が全力を挙げて救った戦艦《ビスマルク》を、殆ど無為に失ったからだった。その他、随伴した艦艇の損害も加えたら、ドイツ海軍の洋上作戦部隊は壊滅状態だった。カリブに艦隊として駐留させ続けることすら難しい状態で、以後ドイツ海軍は本国で改装中の艦艇、建造中の艦艇が揃うまで大型艦の出撃が禁止されてしまう。この時のヒトラー総統の怒りは非常に激しく、一時は大型艦全てを解体してソ連との戦いに役立てるとまで言ったほどだった。だが、大西洋の戦いに大型艦が必要だという理解もあったので、冷静さを取り戻した後に出撃禁止だけを改めて命令している。
 だが、海軍のレーダー元帥は、大敗の責任を取る形で辞任せざるを得ず、後任にデーニッツ提督(当時大将)が就任した。デーニッツ提督の就任には、多分にヒトラー総統が影響していると言われ、潜水艦作戦がまだ順調だったことが後押ししていた。だが、その9月のドイツ海軍の潜水艦の損害は極めて深刻で、海軍のトップに就任した時点でのデーニッツ提督は、得意とする潜水艦による作戦のピークが過ぎてからの就任という、かなり皮肉な人事交代でもあった。


●フェイズ25「第二次世界大戦(19)」