●フェイズ25「第二次世界大戦(19)」

 1942年10月10日、遂に連合軍のプエルトリコ島奪回作戦が開始される。作戦名は「ウォッチ・タワー」。
 作戦はアメリカ軍を中心とするも、日本海軍も大挙参加していた。というよりも、日本海軍が夏から秋口にかけて送り込んできた空母機動部隊なくして、作戦は成り立たなかった。その事は9月24日の海戦でも立証され、この作戦でも装甲空母を持つという優位を活かしての活躍が大いに期待されていた。なお、先の海戦で航空魚雷1発を受けた装甲空母《翔鶴》だったが、マイアミの浮きドックで強引に簡易修理を施して、僅か1週間で戦場に復帰している。修理は後で本格的に行わなくてはならなかったが、主に修理を行ったアメリカ軍の修復能力の高さを見せつける一例と言えるだろう(※潜水艦魚雷を2本受けた《サラトガ》は思いの外重傷で、修理に1年近く要する事になる)。

 10月中旬に入ろうという頃のプエルトリコ島を巡る戦況は、2ヶ月前と大きく変化していた。2ヶ月前にプエルトリコ島が陥落した頃は、連合軍の潜水艦が猛威を振るっていたが、既にその影はプエルトリコ島周辺ですら薄れつつあった。連合軍の集計では、怪しいものを除いてもこの二ヶ月で50隻の敵潜水艦を沈めるか撃破したと判定しており、実際に枢軸軍潜水艦の脅威は大きく低下していた。
 既に「護衛空母(CVE)」と呼ばれる、高速貨物船か高速タンカー改造の簡易改造空母の大量就役の第一陣の実戦投入が開始されており、合わせて建造された大量の護衛艦艇(駆逐艦または護衛駆逐艦)が実戦配備に付きつつあった。これらに加えて、大型機ではレーダーの搭載が進んで、欧州枢軸の潜水艦に対する監視の目をいっそう強めていた。全ては1940年夏の参戦以来、約2年間も苦しめられ続けてきたアメリカが、他を差し置いてまでして揃えた艦艇や装備であり、これから先ヨーロッパに向かう道を切り開いていく為の地味ながら究極の切り札だった。
 しかし彼らの姿はまだ少ない上に、制空権がない場所には投入できなかった。故にプエルトリコ島の攻略には、最強の艦隊を投入しなければならなかった。城門をうち破るには、破城鎚が必要だからだ。
 そして破城鎚とは、日米の有する空母機動部隊であり、破れられた城門から突き進むのがアメリカ海兵隊であり、突破を成功させるための支援として高速戦艦が多数用意された。
 連合軍では、プエルトリコ島の攻略での制空権には大きな不安を抱えていなかった。空母部隊は戦闘機の比率をさらに増やす措置を取っていたが、基地配備の攻撃機隊はキューバ島南部を中心に既に溢れかえっており、その気になれば空の要塞「B-17」を100機単位で送り込むことすら出来るようになっていた。問題は、上陸前もしくは上陸直後の海岸近辺での制海権だった。
 仇敵だった戦艦《ビスマルク》は沈めたが、欧州枢軸にはまだ多数の戦艦が残されていた。このため連合軍は、露払いのためにプエルトリコ沖合の枢軸軍水上艦艇の排除を画策する。空母を用いれば相手が逃げ出すだろうから、あえて制空権の下を水上艦隊に突撃させるという強引な作戦だった。
 しかも一度成功した飛行場への艦砲射撃を行うので、欧州枢軸側を余程不利ではない限り島を保持したければ迎撃するしかない状態に追い込んで戦闘を強要しようとした。戦略条件を満たすために、戦術を優先させた戦闘だった。
 当然ながら危険な任務なので、まずは主軸となるアメリカ軍が水上艦隊を投じることになる。
 作戦のために用意された戦艦は、アメリカが《ワシントン》《ノースカロライナ》《サウスダコタ》《インディアナ》《アラバマ》、日本が《比叡》《霧島》だった。欧州枢軸に対して数の優位は明らかなので、作戦では最悪半数が大きく損傷しても構わないと割り切っていた。それで敵の水上艦隊を壊滅させられれば、プエルトリコ島奪回作戦の少なくとも序盤は成功したも同然だからだ。
 物量を用意できるようになったアメリカらしい作戦で、それに付き合わされた日本海軍も、現地に派遣されていた提督や高級将校の多くが積極性に富んだ人々だったので、むしろ作戦への積極参加を伝えていた。夜間突撃作戦を熱心に説いて回った神重徳大佐などは、あまりの積極性のためアメリカ軍側から「キャプテン・マッド(変人大佐)」とまで言われた。
 そして、後に異常とまで言われたテンションでプエルトリコ島を奪い返しに来ようとしている連合軍に対して、現地枢軸海軍は窮していた。稼働空母は《ヴィクトリアス》1隻だけ。戦艦は、他国の声を無視してドイツ海軍が本国に戻ってしまったので、予備兵力として温存していたフランス艦隊を出すしかなかった。もちろんイギリス本国海軍も、戦艦《プリンス・オブ・ウェールズ》《デューク・オブ・ヨーク》など水上艦隊を出撃させるが、大型艦での劣勢は明らかだった。

 1942年10月10日、アメリカ艦隊が逆上陸地域でもあるプエルトリコ島の西部に突進していった。
 キャラハン少将率いる戦艦《ワシントン》《ノースカロライナ》に、重巡洋艦《サンフランシスコ》《ポートランド》、軽巡洋艦3隻、駆逐艦8隻を中心とした大艦隊だった。目標は、西部マヤグエス市郊外にある飛行場。これを破壊して、枢軸側の制空権を奪い取るのが目的だ。
 これに対して枢軸側は、フランス艦隊がこの日の防衛担当で、戦列艦《ダンケルク》《ストラスブール》、軽巡洋艦1隻、駆逐艦7隻と劣勢だった。重巡洋艦はこの時は東部海岸の防衛担当で、イギリス艦隊は小アンティル諸島の泊地で休養と待機にあった(※連合軍の出撃に対して緊急出撃したが、その日は間に合わなかった)。
 戦闘は夜間戦闘で、双方ともに夜間戦闘を前提とした水上捜索レーダーを装備していた(※フランスはイギリスから供与を受けていた)。だが、夜間にレーダーだけを頼りに戦闘をするには、当時のレーダー精度は高くなかった。特に乱戦になると、使用してもほとんど無駄な程だった。またアメリカ艦隊、フランス艦隊共に夜間戦闘を重視しているわけではないので、艦隊行動に不安もあった。しかもこの日の現地の夜は、時折激しいスコールを降らせている暗雲が星空と月を隠していた。そしてレーダーと目視確認が難しいため、両者共に相手を見付けるのが大きく遅れた。
 両艦隊が気付いた時には接近しすぎており、艦載砲で戦闘を行うには接近しすぎた状態となる。そして一気に乱戦となり、レーダーよりも照明弾や火焔の明かりで敵を探って戦う状態だった。まるで古代の戦士同士の戦いであり、目の前に現れた敵に対する咄嗟砲撃が頻発して、両軍の艦艇に大損害が続出した。戦闘は機銃まで撃ち合うほどで、闇夜の混乱の中で同士討ちも多数発生した。両軍提督が「魔女の釜」と表現したほどだった。
 戦艦《ワシントン》《ノースカロライナ》は、前衛の駆逐艦がどこかに行っている間に敵のど真ん中に入り込んでしまい、先頭を進んでいた旗艦《ノースカロライナ》は主に駆逐艦からのめった打ちにあって、多くの砲弾を被弾してしまう。それでも戦艦なので主要部は全く無傷で、戦闘航行に大きな支障は無かった。だが自らの砲撃と敵から受けた砲撃、そして被弾後の火災で自らの位置を晒してしまう。そこに1万メートルを切る距離にいた戦列艦《ダンケルク》《ストラスブール》が、ほとんど出会い頭で前部に集中している主砲16門を叩きつけるように浴びせかけた。
 《ワシントン》《ノースカロライナ》も咄嗟に応戦したがフランス艦の方が一歩早く、《ノースカロライナ》は僅か3分で高初速の13インチ砲弾を複数を近距離から受けてしまう。13インチということで一見他国の巨砲に比べて威力が小さいように感じられるが、口径の長い砲身から打ち出された重量弾のため、45口径14インチ砲弾よりも威力があるほどだった。
 そしてそのまま《ダンケルク》《ストラスブール》は高速で通過していったが、こちらも16インチ砲弾を数発受けて黒煙を吹き上げながらの転進と後退で、相手が戦艦だったので慌てて逃げたというのが正しい状態だった。フランスの2隻の戦列艦も、カウンターにより小破または中破の損害を受けていた。しかしフランス戦艦は後退中にも見付けた敵艦に発砲を続けたので、アメリカ軍艦艇に損害が続出した。中には一撃で轟沈した軽巡洋艦もあった。前方に主砲を集中した利点が、遺憾なく発揮された戦闘のため、この後のフランス軍艦艇の建造にまで影響したほどだった。
 戦艦同士の戦いをピークとして、混乱した夜間戦闘は終息に向かった。両軍共に損害が大きすぎるので、戦闘継続が出来なくなっていたからだった。そして双方ともに、損害に唖然とした。無傷の艦を探す方が難しいほどで、どちらが勝者か分からないような有様だった。しかも戦艦《ノースカロライナ》は、上部構造物は瓦礫の山となり機関部が全滅するほどの状態で大破し、敵地であるためキングストン弁を開いて自沈せざるを得なかった。そして戦闘で戦艦を喪失したのに加えて、ほとんど全ての艦艇が損傷したため飛行場砲撃も出来なかったので、アメリカ側の敗北だった。

 翌日、今度は日本艦隊がプエルトリコ島西部のカロライナ飛行場に、沖合から一気に近寄り艦砲射撃を実施した。
 行ったのは戦艦《比叡》《霧島》に、重巡洋艦《青葉》《衣笠》《加古》《古鷹》の小柄な重巡洋艦部隊と護衛の駆逐艦4隻で、こちらには重巡洋艦《アルジェリー》《フォッシュ》《デュプレ》を中核としたもう一つのフランス艦隊が展開していた。日本艦隊としては、最初の艦砲射撃以来二度目の攻撃だった。
 枢軸側は、昨日の今日で再び夜間に艦隊を差し向けると考えていなかった為、日本艦隊がほとんど正面から出現したにも関わらず混乱していた。慌てて迎撃の配置につくような状態で、日本艦隊に対艦戦闘準備の余裕を十分に与えてしまう。
 日本艦隊は周辺の捜索以外でレーダーを用いず、当然だが夜間砲撃を行えるほどの装備(=精度)ではないので、この時点で飛行場に落とす予定だった観測機の照明弾投下を命令。落ち着いて、浮かび上がったフランス艦隊に対する砲雷撃戦を開始する。
 そして混乱から立ち直れないフランス艦隊は、回避も煙幕展開もせずに飛行場砲撃阻止を目的として同航戦を挑んでしまう。対する連合軍としては艦隊撃破が目的の一つなので、日本艦隊も受けてたった。そして夜間に砲撃を命中させたければ昼間より接近するより他なく、両者危険な距離まで接近し合っての砲撃戦を展開する。そして距離が近ければ、重巡洋艦の8インチ砲でも戦艦に相応の打撃を与えることが出来た。このため日本艦隊の先頭を進んでいた戦艦《比叡》は、かなり被弾して損害を受けてしまう。だが、やはり戦艦は戦艦だった。相応の距離があれば撃破は難しく、フランス艦隊の重巡の方が次々に14インチ砲弾(もしくは8インチ砲弾)を被弾して戦場からの撤退を余儀なくされた。そして夜間に追撃戦をしても仕方ないので、日本艦隊は敵艦隊がいなくなった海岸に陣取り、慌てて出てきた魚雷艇を駆逐艦に任せて艦砲射撃を行うことができた。艦砲射撃は郊外の飛行場だけでなくサン・ファンの港湾部にも実施され、榴弾で施設や揚陸された物資を破壊し、停泊していた輸送船なども撃破した。
 これでプエルトリコ西部の主要都市サン・ファン郊外にある飛行場は再び大きな打撃を受け、翌朝行われたアメリカ軍の絨毯爆撃で壊滅してしまう。
 飛行場は艦砲射撃だけで完全に壊滅したわけでは無かったが、多数の機体が損傷したうえに飛行場自体の機能が大きく下がったところに「B-17G」が100機単位の大編隊で押しよせた為、迎撃が失敗したからだった。しかも再建途上を狙われた形のため、工作機材、整備車両の多くも破壊された。
 だが、一昨日に艦砲射撃に失敗した東部の飛行場は防戦に成功しており、「B-17G」の損害も多く、爆撃だけでは壊滅に追い込めなかった。

 そして13日夜も、連合軍艦隊はプエルトリコ島に押しよせた。
 先の二度の大規模夜間戦闘は、好対照の結果となった。
 敵の状況が分かっていれば、昼間との戦闘と大きく違わない。しかし混乱した状態だと、常識では考えられないほどの損害が出てしまう。そして雲やスコールがあると混乱が発生しやすかった。11日の戦闘がまさにそうで、逆に晴れて月も出ていれば混乱は最小限で済む。それが12日の戦闘だった。
 そして13日の夜、プエルトリコ島の上に月は輝いていなかった。
 この日の夜、連合軍艦隊は再びプエルトリコ島東部に艦砲射撃を企図した。参加したのは、戦艦《ワシントン》《サウスダコタ》《霧島》、駆逐艦9隻だった。別働隊は陽動も兼ねて再び島の東部を目標として、こちらは重巡洋艦《那智》《足柄》《青葉》《衣笠》《古鷹》を中核とする艦隊が向かった。再び島の東部に向かうのは日米合同艦隊で、日米の今までの合同訓練の成果も試される戦いでもあった。合同となったのは、双方ともに二日間の夜戦で大きな損害を受けたからで(損傷艦が非常に多かった)、消耗戦を前提としていたとはいえ楽な戦いでは無かった。東部に快速艦隊が向かったのは、友軍からの距離が遠いのと、既に壊滅した飛行場への攻撃であり、基本的には陽動任務のためだった。実際、サン・ファン沖合には駆逐艦戦隊が防衛任務に就いており、敵影をレーダーで捉えた日本の巡洋艦部隊に蹂躙されているので、陽動はある程度成功したと言える。
 なお、戦艦《インディアナ》《アラバマ》は、夜間戦闘をするには乗組員の練度がまだ不足していると判断されたため、投入が断念された。
 対する欧州枢軸軍は、フランス艦隊が全ての大型艦が損傷して後退したため、イギリス艦隊が陣取っていた。戦艦《プリンス・オブ・ウェールズ》《デューク・オブ・ヨーク》を中心とする艦隊だった。この2日間の戦闘を受けて、夜間戦闘に備えた訓練も事前に行っての布陣だった。しかし、沖合の空母にも艦艇を割かねばならないので、護衛は軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻だけと心許なかった。
 闇夜のため、両軍共にレーダー情報を重視して相手を捜した。アメリカ軍のSGレーダーはこの戦闘までに突貫工事で出来る限り装備されていたので、巡洋艦以上の艦艇全てが装備していた。日本の艦艇は21号電探(レーダー)、22号電探のそれぞれ改良型を装備していたが、性能はアメリカ製の方がやや上回っていた。このため《霧島》は戦艦隊列の後方に位置していたし、警戒の駆逐艦はアメリカ側が担った。
 しかしこの夜も乱戦となってしまう。
 結果として互いのレーダーはあまり役に立たず、まずは駆逐艦同士が砲撃を始めて双方に被害が出た。そして駆逐艦部隊は仕切直すため戦場から離れたのだが、これで両者の混乱はかえって広まる。両者前衛が戦闘をした後もそのまま前方で警戒していると思い込んでいた為、気が付いた時には戦艦同士が近距離で直接相まみえる状態だった。

 最初に砲撃を行った大型艦は《サウスダコタ》と《プリンス・オブ・ウェールズ》《デューク・オブ・ヨーク》だった。《サウスダコタ》は《プリンス・オブ・ウェールズ》の艦橋構造物に命中弾を浴びせて火災を起こさせるも、自らも2隻の戦艦から複数の14インチ砲弾を被弾して砲撃能力と指揮機能を失い殆ど戦闘不能となってしまう。その後も独自に両用砲などが砲撃をしていたが、《サウスダコタ》は戦艦としての戦力価値を失った。
 次に激しい砲火を受けたのは、火焔を目標にして砲撃した《霧島》の砲弾を受けた《プリンス・オブ・ウェールズ》だった。最初の一撃で防御が弱い艦橋部分を完全に破壊されて指揮機能と統一射撃機能を失い、実質的な戦闘力を失っていた。そして《霧島》は、大きくなった火焔を目標にさらなる痛打を浴びせかけた。だが《霧島》も、その後ろの暗闇に潜んで無傷だった《デューク・オブ・ヨーク》からの砲撃で続けて2発を被弾し、3番砲塔が破壊されるなどかなり損傷してしまう。このまま撃たれ続けたら、旧式の高速戦艦では危うかった。
 《霧島》の危機を救ったのは、意外にも《サウスダコタ》だった。戦場からノロノロと離脱しつつも各個砲撃を続けていたところ、発砲の火焔を見付けた両用砲群による砲撃が《デューク・オブ・ヨーク》を捉えて、装甲化されていない艦橋構造物の多くを破壊したからだ。アメリカ海軍将兵の士気の高さを見て取ることが出来る一例だが、これで《デューク・オブ・ヨーク》はレーダーを使用不可能にされ、両用砲や機銃にも大きな損害を受けてしまう。損傷した《霧島》も、急ぎ猛射を浴びせた。そこに戦場に戻ってきた日本の駆逐艦群が突撃してきて、近距離から砲火を浴びせつつ最短距離約3000メートルで雷撃を行い、多数の酸素魚雷が命中させる。《デューク・オブ・ヨーク》は最低でも5発の61cm酸素魚雷が片側で続けて炸裂し、大きく傾き動力の殆どと戦闘力を喪失。傾きが大きいため、主砲も発射不能となった。その後しばらく漂流を続けるも、応急対策をして間に合う打撃と浸水ではなく1時間も保たなかった。
 駆逐艦を阻止するべきイギリス側の水雷戦隊は、アメリカの駆逐艦群と戦闘をしていたところに、戦場を迷走して敵のど真ん中(=反対側)に誰にも気づかれることなく突っ込んでしまった日本海軍の駆逐艦《夕立》の近距離からの砲雷撃を受けて大混乱に陥り、その後体制を立て直したアメリカの駆逐艦群の奮闘もあって壊滅していた。この時イギリス艦隊は、同士討ちすら発生した中で《夕立》単艦に3隻が撃沈破されたと判定されている(※ただし諸説あり)。この奮闘のため、反撃を受けて戦場で立ち往生するもアメリカ軍駆逐艦に引かれて何とか生還した《夕立》は、この戦闘での一番の功労艦と称えられた。また《夕立》の生還は、アメリカ海軍から取り入れたダメージコントロールが功を奏したからで、《夕立》は二重の意味でアメリカ海軍に助けられた形だった。
 その間、旗艦でありレーダーにも詳しいリー提督が座乗する《ワシントン》は、隊列が乱れた後は少し戦場から離れて状況をレーダーで正確に見定め、既に大きく損傷していた《プリンス・オブ・ウェールズ》に正確な砲弾を浴びせかけていた。《ワシントン》の砲撃は的確で、《プリンス・オブ・ウェールズ》は砲撃してくる相手をつき止めることが出来ないまま、複数の主砲弾を受けて完全に戦闘力を失い、夜のうちにうずくまるように波間に没する事になる。いかに重防御をうたわれても、16インチ砲弾を1万メートル程度の近距離から10数発も撃ち込まれてはどうしようもなかった。
 そしてイギリス艦隊がほぼ全滅という形で壊滅したことで、制海権は連合軍のものとなった。連合軍艦隊は、残敵を掃討しつつ体制を立て直した《霧島》と無傷の《ワシントン》が、マヤグエス市郊外の飛行場を砲撃。飛行場をこの作戦中無力化する事に成功し、「第三次プエルトリコ海戦」は連合軍の勝利に終わった。
 なお、戦艦《ワシントン》は、この戦闘で最も要領よく戦った艦となったが、苦戦を強いられた《サウスダコタ》《霧島》の乗組員からは、恨みに近い感情を持たれたと言われている。

 夜間突撃作戦の成功で、プエルトリコ島にあった飛行場3箇所のうち2カ所が沈黙し、残りの1箇所は島の南部で小規模のため重爆撃機だけでも対処可能で、上陸作戦の障害の多くが排除される事となった。
 小アンティル諸島には多数の枢軸側の飛行場があったが、プエルトリコ島占領で部隊は前進して現地の数は少なく、補充も短期間では間に合わない状態だった。
 あとは空母だが、連合軍はまだ7隻も動員できるのに対して、枢軸側は1隻だけでしかも搭載機数も少ない。艦載機数の差は10倍以上に開いていた。
 この状況を受けて、連合軍は上陸作戦にゴーサインを出す。

 10月15日未明、日米合同の空母機動部隊による激しい空襲が開始された頃、プエルトリコ島西部のマヤグエス市郊外の海岸に、100隻以上の艦船が姿を見せる。戦艦だけで《インディアナ》《アラバマ》《メリーランド》《テネシー》《ウォースパイト》の5隻が参加し、多数の揚陸艦から1個師団の海兵師団が続々と海岸を目指した。
 上陸は沖合から開始され、日本海軍が最初に使い始めたスロープ付きの輸送船から、多数のアメリカ製「DAIHATU」が滑り降りた。この揚陸艇も、日本海軍の発明をアメリカが改良して量産化したものだ。さらに前衛には、日本海軍が開発してアメリカがライセンスを取得した上で、自国製の75mm短身砲の搭載など独自の改造を施した水陸両用戦車が進んだ。
 揚陸作戦は今までにないスピーディーさで、水際で待ちかまえている枢軸軍を驚かせた。先頭を進む戦車は、もとが日本陸軍の九七式戦車のため、2ポンド砲にも耐えつつ敵陣地に砲火を浴びせて上陸時の損害軽減に大きく寄与した。
 事前の空襲と艦砲射撃で抵抗は微弱で、予定より早いぐらいのタイムスケジュールで上陸は成功。島に残留していたアメリカ軍潜伏部隊からの情報があったので、情報に従ってただちに橋頭堡の拡大と別方面への侵攻準備が進められた。
 これに対して現地枢軸軍は、島の占領からわずか2ヶ月で連合軍が反攻してくる事は想定していなかった為、本国からの増援部隊はまだほとんど到着していなかった。ギアナなど近在からの増強も小規模に止まり、島内各所で一斉に始まった島民によるゲリラ活動やサボタージュ、各種妨害活動により兵士が何人いても足りない状態に追いやられた。
 しかも上陸してきたアメリカ軍部隊は、これまで見たこともない新型戦車を後続部隊として揚陸してきた。これが「M4 シャーマン」中戦車で、重量約30トンで75mm砲を装備していたが、その特徴は何と言っても機械的信頼性の高さだった。対トーチカ用とすら言われる速射性能が非常に高い75mm砲は、対戦車戦闘はあまり得意ではないが「マチルダII」以外の当時の連合軍戦車相手なら十分な性能だった。苦手の「マチルダII」も空襲で破壊すればよいと割り切り、特別編成の戦車大隊を有するアメリカ第1海兵師団は、橋頭堡を完全なものとすると続々と島の内陸部もしくは東部を目指して進軍した。
 しかも上陸はこれだけでなく、陸軍の第1師団(ビック・レッド・ワン)が後に続いた。さらに1週間以内に、第2海兵師団と脱出したプエルトリコ兵、本土に移住したプエルトリコ人を多く含んだアメリカ・プエルトリコ(A=P)師団が象徴的意味合いで投入される予定だった。しかも第2海兵師団などは、北西部にある島の主要都市サン・ファン郊外に強襲上陸を予定しており、島内に最低3万人は攻め込んだと見られている枢軸兵を一網打尽にする作戦予定だった。

 上陸作戦に前後して連合軍の激しい空襲が実施されたが、連合軍の予想通り枢軸軍の空での抵抗は大きく減少していた。敵空母の存在を警戒したが、残り1隻となったイギリス軍の空母機動部隊は姿を見せなかった。ヨーロッパから有力な増援艦隊が出たという情報も無かった。このため日本、アメリカの空母機動部隊は、プエルトリコ島の直接の支援作戦が終了すると、直ちに小アンティル諸島北西部の小さな島々に点在する枢軸軍の飛行場を、飽和攻撃の形で襲撃を繰り返した。二つの機動部隊が交互に、そして神出鬼没に現れて、時には全力で攻撃してくるため、各地の欧州枢軸軍部隊は場当たり的な対処しかできず各地で大損害を受けた。当然、プエルトリコ島への支援どころではなく、しかもギアナから小アンティル諸島経由での飛行場づたいの各地の増強がほとんど出来なくなったので、プエルトリコ島の航空隊再建の目処は立たず、小アンティル諸島北西部の飛行場も増強どころか飛行場の修復もままならない状態に追いやられた。
 この状態を、伸びきったゴムが切れたようだと言われる事が多いが、守勢を固めるために限界を超えて進軍した事のツケと見る向きも強い。そしてどちらも正しく、体制を整えた連合軍というよりアメリカ軍は、ゴムを引きちぎるというより鋏で切り刻むような存在だった。
 しかしプエルトリコ島には3万の将兵が展開しており、これを安易に見殺しにする事も出来なかった。出来れば時間稼ぎの抗戦が出来るだけの補給と増強、無理なら撤退の手だてを取らねばならなかった。そして何をするにしても、船を送り込むより他無かった。輸送機では輸送量が限られているし、既にプエルトリコ島の制空権は奪い返されたも同然で、空中輸送自体が危険だった。
 このため、今度は島の東部を舞台として、攻守逆転したような戦闘が頻発することになる。輸送を阻止するのが連合軍ということだ。
 プエルトリコ島の輸送路を切り開くのに際して、欧州枢軸側は何より制空権の回復を図った。制空権さえ確保すれば、たいていの事は何とかなるからだ。だが日米の空母機動部隊が小アンティル諸島まで荒らし回ったため、まずは小アンティル諸島の基地再建をしなければならなかった。小アンティル諸島各地の基地は、数こそかなりあったが、小規模なものが多い上に支援体制が弱い基地も多かった。これからの戦いも考えたら、航空機だけでなく支援体制、修理能力など強化すべき点は多かった。
 だが、ヨーロッパからカリブ海東部は遠かった。多くのことが後手後手に回ることが多いし、ヨーロッパからまずは大西洋を押し渡らなければならなかった。そして今までと違って、自分たちの潜水艦が振るわなくなり、逆に連合軍の潜水艦の脅威が増しつつあった。このためイギリスを中心とした欧州枢軸海軍は、カリブ海東部での激しい戦闘を行うより、現地に制空権を得るための物資や部隊を運ぶための海路維持を優先しなければならなかった。

 何もかもが崩れていくような状況だが、そもそもがベネズエラの石油を運ぶためにカリブでの限定的な制海権が欲しかったのだから、プエルトリコ島へ本格的に手を出したこと自体が本来はやりすぎであり、現実を前にして強制的に本来の道に戻されたと言えるだろう。
 だがそうであっても、プエルトリコ島の友軍は何とかしなければならなかった。
 しかし10月半ばの時点で、欧州枢軸各国海軍は大型艦艇が酷く不足する状況になっていた。盟主ドイツ海軍は大損害を受けた上に出撃禁止で、新造艦の完成や改造艦の戦列復帰にはまだ三ヶ月から半年の時間が必要だった。敵戦艦の撃沈で意気上がるフランス海軍も、沈没こそないが高速大型艦の全てが傷つけられ、建造中の戦艦などもまだ艤装中だった。頼みはイギリス本国海軍だが、流石のイギリスも新鋭戦艦2隻の損失と、空母1隻の一年近い戦線離脱は大きな痛手だった。イギリスは、カリブだけでなくインドも守らなければならないので尚更だった。幸いと言うべきか6月と11月に戦艦《アンソン》《ハウ》が就役したが、増強の予定が戦力補充にしかならず、1940年度計画艦の建造を急ぐことになる。イタリアは6月に戦艦《ローマ》が就役したが、各国の要請を受けて再びインド洋に主力艦隊を送り出したので、カリブへの増援どころではなかった。
 つまるところ、旧式戦艦以外だと巡洋艦までの戦力しかカリブに派遣できなくなっていたと言うことだが、巡洋艦ですらイギリス本国海軍が半ダース程度をギアナや小アンティル諸島に常時配置できているだけで、万が一連合軍の本格的侵攻を受けたらひとたまりもない状態だった。
 だが連合軍は、プエルトリコ島の奪回にかかりきりだった。損害も皆無ではなく、プエルトリコ作戦が終われば空母機動部隊も再編成や修理、大規模整備の必要があった。しかしプエルトリコ島を奪い返して体制を再び整えた後は、カリブでの枢軸の命運は長くないと考えられた。そしてここからも、1日でも長くプエルトリコ島を保持しなければならないという、同じ答えが導き出されていた。

 欧州枢軸側は、プエルトリコ島の保持の為なりふり構っている場合ではなくなった。このためイギリス軍は、駆逐艦による高速輸送を企てる。最初は高速輸送船を多数の護衛艦艇で守った輸送作戦を行ったのだが、9月27日に行われた作戦は大失敗に終わった。枢軸側は、ようやく連合軍の二つの空母機動部隊がマイアミ方面に引き下がったのを確認して輸送作戦を開始したのだが、輸送作戦を始めるとすぐにもアメリカの機動部隊は戦場に引き返してきた。枢軸側も各島から航空機を送り出して防戦に務めたが、空襲で半数の船が沈むか近くの島の浅瀬に乗り上げて損失し、何とかプエルトリコ島東部にたどり着いても空襲で船も物資も全て失ってしまった。
 だからこそ、駆逐艦による高速輸送へと作戦を変更する事になったのだ。しかし夜間に島に接近して輸送を行う作戦も、苦難の連続となった。連合軍は、アメリカと日本が巡洋艦複数を有する有力な艦隊で島の警備をしており、島の各所にまでレーダーを設置して監視し始めていたからだ。島の東部はまだ枢軸側の勢力圏だったが、連合軍の艦隊のため駆逐艦すら満足に近づけない事が多かった。また、保持されている港に長時間接岸するのも危険だし、夜間ですら監視の偵察機が飛ぶようになっていたので、港を使うこと自体が危険となっていた。接岸が分かったとたん、夜間でも重爆撃機が港に飛来するからだ。それに、既に護岸以外の多くが破壊されており、荷下ろし自体が難しくなっていた。こうした教訓から、船内から車ですぐに港に降りて他の場所に移動できるように、船の横にランプウェイを設ける事が研究されるようになっている。
 港を使わないとなると、砂浜まで接近して徒歩で島と船を行き来させたり、海岸に向けて物資を載せたボートを送り出す程度のことしか出来なかった。
 なお、夜間戦闘は各国海軍とも得意ではないが、レーダーの装備によって大きく変化しつつあった。日本海軍が夜戦が得意だと言われる事があるが、これは一部しか事実ではない。確かに日本海軍は、彼らにとって最大の栄光である日露戦争の日本海海戦(ツシマ海戦)で水雷戦隊が活躍したので、夜間戦闘はかなり重視していた。しかし長い間主な仮想敵が存在せず、大海軍国のアメリカ、イギリスが敵になる可能性が低いとなると、肝心の夜戦を挑む相手がいなかった。それに駆逐艦の主な敵は潜水艦と定義されているため、夜間戦闘の訓練は優先順位は低かった。それでも現場の意地で訓練は行われたため、一部の水雷戦隊は夜間戦闘でかなりの練度を持っていた。だからこそ、夜間の艦砲射撃などという危険な作戦を進んで行ったのだ。

 欧州枢軸陣営による駆逐艦による高速輸送だが、一回目は完全な成功を収めた。連合軍としては予想外だったからだ。仮に魚雷と爆雷を全て降ろしても、駆逐艦1隻が運べる物資や兵器の量は極めて限られている。だからこそアメリカ、日本両海軍は旧式駆逐艦を改造した高速輸送艦を用意したりしている。第一次プエルトリコ沖海戦で活躍した旧式駆逐艦の《スチュワート》も、同海戦で損傷したため高速駆逐艦に改装されたりしている。
 島に送るべき物資の多くは武器弾薬、特に弾薬が重要で、食糧は現地での自給がある程度可能な上に両軍共に内陸に隠していたので、数万の将兵が食べる分には殆どの場合は問題無かった。問題が出るのは孤立した場合だが、その時はたいていの場合で降伏が選ばれている。こうした点は、ロシア戦線と大きく違っていた。カリブはまだ文明国同士の戦いだったのだ。
 そして日に日にプエルトリコ島の欧州枢軸は勢力を狭めていき、制空権も日々厳しくなった。しかも駆逐艦による輸送を見付けた連合軍が、島の東部に重点的に艦隊を配置するようになる。
 当然だが枢軸側の輸送作戦は徐々に苦しくなっていった。

 10月末頃、連合軍は日米の巡洋艦艦隊二つが島の西部に進出して、交代で警戒任務についていた。10月30日はアメリカ海軍の担当で、ライト提督率いる艦隊は午後9時頃にレーダーに艦影を確認。敵と断定し、ただちに突撃を開始する。
 この時ライト提督の麾下には、重巡洋艦《ペンサコラ》《ノーザンプトン》《ニューオーリンズ》、大型軽巡洋艦《ミネアポリス》《ホノルル》、駆逐艦6隻が属していた。戦艦や空母はいないが十分に大艦隊で、大型艦の稼働艦が不足する枢軸側に対しての優位を確信していた。
 これに対してイギリス艦隊は、駆逐艦8隻をラプラタ沖海戦の英雄ハーウッド提督が率いていた。
 この時イギリス艦隊は、物資を運ぶため《トライバル級》《L級》《M級》という大型駆逐艦で編成され、念のため魚雷も搭載したままで戦闘力は十分に有していた。それでも巡洋艦群を相手に出来る戦力ではないが、敵を侮るアメリカ艦隊に果敢に突撃を実施。アメリカ艦隊は距離8000メートル付近から砲撃を開始するも、レーダーによる砲撃に慣れていない事とイギリス艦隊の回避が巧みなため殆ど命中弾を得られなかった。
 そして突撃を継続したイギリス艦隊は、最短距離2000メートルから6000メートル程度の距離で32本の魚雷を発射。近距離からの魚雷は避けようがなく、次々とアメリカ軍巡洋艦に突き刺さった。
 結果、《ノーザンプトン》が魚雷3本を受けてほとんど轟沈の有様で沈んだ上に他3隻も重大な損害を受け、アメリカ艦隊は壊滅状態に陥る。アメリカ艦隊は大混乱に陥り、イギリス艦隊は悠々と後退することができた。
 「バージン諸島沖海戦」と命名された戦闘は枢軸側の快勝に終わったが、輸送作戦自体は中止されているので戦略的には敗北と言える。そして一つの艦隊を潰しても、すぐにも日本艦隊がフォローに入ったし、さらに増援の艦隊を送り込むだけの余裕が連合軍にはあった。
 現に11月11日、日本海軍の重巡洋艦《那智》、軽巡洋艦《酒匂》などが警戒中の時に輸送任務に現れた枢軸艦隊は、駆逐艦4隻を失って撃退されている。それ以前にも、空襲、潜水艦、小規模な海戦で駆逐艦の損害が相次いでおり、この日を最後に駆逐艦による輸送作戦は中止となる。
 なお、一連のプエルトリコ島への駆逐艦などによる高速輸送を、連合軍は「ロンドン・エキスプレス(倫敦急行)」と呼んだ。

 局所的勝利では最早プエルトリコ島の戦況を覆す事は不可能で、欧州枢軸軍は1942年11月末日に島からの全面撤退を決定。ただちに撤退作戦に移ることになる。
 しかし撤退作戦も非常に難しかった。プエルトリコ島の戦況は、陸では続々と連合軍の増援部隊が送り込まれて劣勢で、年内の完全陥落すら言われていた。アメリカ軍が実戦慣れしていない事もあって現地軍は奮闘していたが、補給が続かない現状ではどうにもならなかった。しかも撤退作戦となると、連合軍が阻止に出てくるのは確実だし、陸でも攻勢に出る可能性があった。このため敵を欺瞞する必要があるが、欺瞞に使えるほどの手駒に乏しかった。とにかく水上艦艇の不足が致命的なので、イギリス本国海軍は泣く泣く本国艦隊を大西洋上に出して、連合軍を引きつける事にする。
 そして12月に入ると、戦力が十分でない筈の枢軸側の航空攻勢が俄に強くなる。これを増援の予兆と考えた連合軍は、航空撃滅戦と水上封鎖を強化しつつ、後方で機動部隊や主力艦隊の整備、補修、そして艦隊編成を急いだ。現地日本艦隊の一部は、撤退のための一時的攻勢ですぐにも追加の艦隊を出すべきだと意見具申したが、アメリカ軍からはいつもの過剰な積極姿勢を咎められただけに終わった。
 そうした中で、枢軸側の撤退間際、通常通り夜間の封鎖任務に向かっていたアメリカ海軍の巡洋艦を中心とした艦隊が、夕方遅くに薄暮攻撃を受ける。攻撃を受けるとしたら日中か夜のソードフィッシュだけと考えていたので不意を突かれた形となり、複数の雷撃を受けた重巡洋艦《シカゴ》が沈むなど大損害を受け、引き返さざるを得なかった。ただし攻撃したイギリス軍の中型機のヴォーフォートなどは大損害を受けているので、枢軸側にとっては苦い勝利となった。だが、これでアメリカ軍の慎重姿勢は強まった。これで撤退のためのお膳立てが揃い、小アンティル諸島各地に潜んでいた撤退のための駆逐艦などの小型高速艦船が、一斉にプエルトリコ島からの友軍救出に動き始める。
 そして連合軍は、枢軸側の動きをごく常識的に増強作戦と考えて、島の東部に追いつめていた枢軸軍に対する攻撃は控えて防戦準備を取った。また、マイアミかグァンタナモからは有力な艦隊が出撃して、数日後に出現するであろう輸送船団を探した。ただし、中部大西洋上にイギリスの艦隊が展開する為、既に主要な艦隊の半数以上が大西洋上にあった。
 そして連合軍が予想した輸送船は姿を見せず、プエルトリコ島を往復しているのは大きくても巡洋艦で、駆逐艦がほとんどだった。連合軍は枢軸側の行動を疑ったが、それでも増援が送り込まれつつあると考えて慎重に動いた。艦隊が活発に動いているのが、その証拠だからだ。
 この間の連合軍は、敵に対して散発的な空襲を行うだけで、上陸してきた部隊を一網打尽に出来るだけの準備の方を進めていた。

 そして1943年1月2日、連合軍の偵察機が枢軸軍の増援部隊が上陸している海岸を偵察して、初めて連合軍は真意を悟る。海岸には人も物資もなく、対空砲火もなかった。あるのは、うち捨てられた小さな舟艇や筏ばかりだった。連合軍は、枢軸側が同じ事を二度する筈はないと常識的に考えたのだが、またも枢軸軍は軍艦を用いてプエルトリコ島から一兵残らず撤退したのだ。
 ジャマイカ島でされたことを再びされた事に、アメリカ軍内では大きな問題になったほどだった。このため以後の連合軍は、増援であれ撤退であれ、敵の動きにはより積極的に動くようになった。
 こうして1942年7月1日から始まったプエルトリコ島の戦いは、ちょうど半年の期間に渡って繰り広げられる事となった。この攻防戦の珍しい点は、島が奪われて奪い返すというプロセスが半年間で行われた事だった。通常、離れた場所の島への上陸の為には、圧倒的優勢な戦力が必要とされる。この条件を枢軸側は当初満たしたのだが、それを連合軍は僅かな間に覆して見事に一度奪われた島を奪回した。これは日本海軍の増援が絶妙のタイミングだった事もあるが、戦いの主体となったアメリカ軍の前線に出てくる戦力が大きく膨れあがる直前と直後に起きた事が重要だった。この点で、枢軸側が島を奪う機会が「今しかない」と考えたのは正しいが、アメリカ軍の戦力充実と連合軍の積極姿勢は枢軸側の予測を大きく上回っていた。
 その間、海と空では今までにないほど激しい戦いが行われ、中盤以後は戦力に勝るようになった連合軍が押し切る形で戦いが繰り広げられた。特に海での戦闘は、正面からの激突と夜間戦闘が多かったため、双方に被害が続出した。だが戦力が枯渇したのは枢軸側で、以後戦場は小アンティル諸島の南部、ギアナそしてベネズエラ航路へと移っていく事になる。


フェイズ26「第二次世界大戦(20)」