●フェイズ26「第二次世界大戦(20)」

 1942年7月にセイロン島を占領した日本軍は、ビルマ方面と合わせて航空撃滅戦を仕掛ける。同時にセイロン島、アッズ環礁を拠点として、アラビア海、インド洋西部での大規模な通商破壊戦を仕掛けた。通商破壊戦といえば潜水艦による無制限通商破壊戦だが、日本軍を中心とする連合軍は水上艦も多く戦場に投入したし、航続距離の長い航空機も積極的に投入した。この通商破壊戦では戦力の出し惜しみもせず、最新鋭戦艦の《高雄》《愛宕》までが出動してドイツ海軍のように敵商船を狩った。ただし費用対効果を見るのも目的のため、戦艦が出動したと見るのが正しいだろう。
 それでも日本軍の積極的な攻勢で、半年前まで比較的静かだったインド洋東部は、一気に戦争のホットゾーンとなった。

 イギリスは戦前のインド洋で、自らの保有する船舶の約30%に当たる約600万トンを運用し、インドから資源と富を吸い上げイギリス本国などから商品を送り込んでいた。インドこそは、「イギリス帝国」の根幹だった。そして戦争になるとアジアに向かう船が増えたので、行き交う船舶量はさらに増加した。イギリス以外の欧州枢軸の船もかなり入って、まずは東アジアに兵力と物資を注ぎ込んだ。また逆に、戦争に必要な資源を過剰なほど吸い上げた。
 だが1941年末には、東南アジアの戦況が枢軸側にとって一気に悪化した。翌年2月にはシンガポールが陥落し、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ領東インドが連合軍に加わった。そして4月、アッズ環礁の枢軸海軍東洋艦隊がほぼ全滅して、インド洋の制海権までが一気に塗り代わってしまう。
 主にイギリス本国軍は、戦線の立て直しに必死になった。だが、当時はカリブ海でも激しい攻防戦が続き、大西洋の西部での通商破壊戦にはまり込んでいた為、日本軍が短期間のうちにインド洋中部まで進出してきた事にうまく対応できなかった。日本軍に対する通商破壊戦のための潜水艦を投入するにしても、現状で大西洋に投入してる分をまずは本国まで戻して整備と補給、乗組員の休養を行い、その間にインド洋の東側やインドに拠点を構えなければならない。これだけで最低3ヶ月は必要で、待っている間に9月になってしまう。しかも日本軍の方が41年秋頃からインド洋での大規模な通商破壊戦を開始しており、42年春になるとインドに通商破壊の拠点を構える事が難しくなっていた。インドへは航空機と関連する兵站物資の補給が最優先で、次が陸軍関連、そして最後が海軍関連となるからだ。アフリカ東岸や紅海出口付近を拠点とする通商破壊戦の準備は進められたが、水上艦の投入は早々に断念された。紅海の出口付近のアデンには再建されたイタリア東洋艦隊が進出していたが、この戦力は日本軍の中東侵攻を阻止するために必要な抑止戦力だった。

 インドへの物資輸送は、アデンとボンベイを結ぶ航路が生命線で、東部のカルカッタ方面に向かう航路は42年春のうちに全て遮断された。南部も連合軍の空襲があるので危険だった。ボンベイ航路も、アラビア海の両軍の制空権が及ばない場所は、連合軍の通商破壊艦艇と潜水艦が多数出没しており、連合軍のインド侵攻が近いことを教えていた。
 そしてインド東部の気候は、秋が終わる頃に亜熱帯性の激しい雨期も終わって侵攻に適した気候となる。このためイギリス軍は、早ければ10月、遅くとも12月に日本軍を中心とした連合軍のインド本土上陸がありうると予測し、ガンジス川河口部とインド南部の防衛体制を整えることに躍起となった。イギリス本国では、インドへの大規模な増援部隊の準備が急ぎ進められたりもした。
 そしてイギリスの予測を肯定するように、秋口になると連合軍の大艦隊がシンガポールに入り、無線など各種情報が大量の地上部隊の集結を伝えていた。

 なお、1942年初夏から秋は、主に日本の側から日本とアメリカの往来が頻繁になった時期でもあった。理由の多くは、インド洋の制海権で優位となった事と、カリブ海での激戦と大西洋での激しい通商破壊戦だった。また、連合軍が太平洋の制海権を完全に掌握したことも大きな理由だった。日付変更線を挟んで、西側が「エンペラーのバスタブ」、東側が「プレジデントのバスタブ」と呼ばれたりもした。中継拠点となるハワイ、オワフ島の真珠湾、アリューシャン列島東部のダッチハーバーは、規模の拡大に次ぐ拡大が重ねられ、戦争期間中ずっと港湾部の拡張工事が行われたりもした。アメリカ太平洋艦隊司令長官は、「太平洋運行管理長官」と皮肉られたりもした。
 太平洋が安全になったので、護衛を付けずに航行する船舶が大きく増えた。そして船団を組まないで良いのなら、船団を組むよりもずっと経済性は向上する。特にアメリカからソ連、日本、ANZAC諸国向けのレンドリースは、42年春以後は単独航行の船舶が激増し、ニーズにあったレンドリースが行われるようになった。逆にアメリカには、東アジア、ANZAC諸国などの原料資源、日本で生産された安価な中間資材などが運ばれた。生ゴム、錫など北米大陸で不足する資源もあるので、アメリカにとっても重要だった。
 またアメリカの側からは、中華地域での戦線拡大とインド作戦を見越しての移動が活発化していた。この移動では、多数の人間が長期間航海を強いられる為、客船、貨客船が大いに活用された。このため日本やアメリカなど各国が保有する多くの客船と貨客船が動員され、輸送力や速力を競い合った。
 もう少し話しが逸れるが、20世紀に入ってからの北太平洋航路は日本とアメリカの独断場で、アメリカの満州進出によって非常に活発となった。このため日米双方ともに豪華客船を就航させて、国威の宣伝に務めた。満州に地盤を置く東アジア鉄道も、各社と提携した航路を作り、アメリカの為のアーシアンリング形成に一役買ったりもした。しかし輸送量の面では北大西洋航路には全く及ばないため、大西洋ほど巨大な客船は経済的要求から求められず、第一次世界大戦の頃でも1万トンクラスだった。アメリカから満州への移民が量の面での客船の乗客だが、大西洋に比べると数は限られていたからだ。
 客船の建造競争は最初はアメリカが圧倒しており、日本は巻き返しを図るべく1920年代に入ると日本で初めて2万トンを越えた豪華客船の浅間丸、龍田丸、鎌倉丸を送り出す。この建造には、国の援助まで出された。しかしアメリカは、すぐにもプレジデント・フーバー、プレジデント・クーリッジを送り出して日本に対する質的優勢を維持した。そしてカナダのイギリス系船会社も、より巨大なエンプレス・オブ・ジャパン(日本皇后)を送り出している。
 そうした中で1930年代半ばに登場したのが、これまた日本初となった3万トン級豪華客船の橿原丸と出雲丸だった。当然アメリカも対向しようとしたが、日本が商工省ばかりか軍までが助成して建造したのと違い、経済的な面から建造が遅れてそのまま戦争となったため、第二次世界大戦勃発時の北太平洋の女王のタイトルは日本が保持したままとなった。これは、1949年にアメリカが5万トン級の次世代型を建造するまで10年以上続く事になる。そして橿原丸と出雲丸は、戦争中は地味な戦時迷彩と無粋な武装を有するも、日本最大の客船として日米の将兵に記憶される事となった。ただし第二次世界大戦中は、クイーン・メリーなど大西洋から疎開してそのまま輸送任務についた北大西洋航路の巨大な豪華客船や大型客船が多数あったため、それほど目立つ存在では無かったとも言われている。
 なお日本軍が客船の建造に助成金を出したが、出したのは日本陸軍の方だった。陸軍は第一次世界大戦で、遠方への兵力輸送に大型客船が有効な事を知った。そして次の世界大戦でもヨーロッパに大軍を派遣する事になると考えて、戦時に兵員輸送船として徴用する事を前提として外航洋客船の建造に助成金を出していた。また病院船としての必要性も考えていたので、なおさら客船助成に力を入れた。一方海軍の方は、戦時に各種特設母船や仮装巡洋艦として使用する目的で、優秀な貨客船への助成を熱心に進めた。海軍内には、客船にも助成金を出して有事に徴用して航空母艦へ短期間で改装する構想もあったが、結局実現しなかった。特設艦ならまだしも、改装して軍艦として使うのなら、建造段階から軍艦としての構造を盛り込まないと、改装にはかなりの手間がかかるからだ。それに海軍には、多数の輸送用空母を作る理由があまり無かった。当時は1万トン以下の空母には制限がないので順調に整備が進んでいたし、有事に際しても改装を前提とした高速水上機母艦の計画も進んでいた。何より、日本海軍より強力なイギリス、アメリカは友好国で敵になりようがなく、ヨーロッパに航空機を運ぶにしてもわざわざ空母を使うのは贅沢だと考えられたからだ。そしてその後、海軍が特設空母用のベースとして目を付けるのは、自前で揃えようとした高速タンカーだった。
 かくして1942年に存在した日本の客船のほぼ全てが、北太平洋航路で主にアメリカ兵を運び、優良貨客船は各種特設母艦や仮想巡洋艦、病院船に改装されて活躍していた。北太平洋の中間地点にあるハワイ諸島は、アメリカ西海岸やパナマ運河の中継点として活況を示し、軍港地区にも徴用船舶が溢れていた。
 だが活況は42年春に始まったばかりで、その夏頃は最盛期に向かう最中だった。

 そして輸送力を増しつつあったインドで、日本軍、いや連合軍が選んだ侵攻先は、インド本土ではなくソコトラ島だった。
 ソコトラ島。アフリカ大陸の東部、ソマリア半島の沖合に位置し、アラビア半島からも比較的近い場所にある。紅海の出口にあるアデンからは約900キロ離れ、一番近い陸地となる東アフリカのソマリア半島先端部からでも約400キロ離れている。島の面積は約3700平方キロメートルで東西約70キロ、南北約20キロと細長く、島の中央が山岳地帯になっている。
 孤立した島で厳しい自然環境のため、独特の生態系を持つ。主要都市ハディポだが都市とはいえない規模で、島内全体で人口は少なく現在でも約4万人に止まる。飛行場も戦争が始まってから急造されたものがあるだけで、港湾の能力も低かった。ソコトラ島は、世界の果てのような場所だった。
 周辺同様に気候は厳しく、降水量の殆どは12月から2月からにかけてモンスーンの湿った風によって発生した霧がほぼ唯一となる。そして5月から9月はモンスーンの強風がほぼ一方向から吹いて最悪で、波も大荒れとなり島に小型の船では近寄ることすら難しい為、ほとんど孤立状態となる。風が強いため、飛行機による往来も難しい。当然だが、上陸作戦は自殺行為に等しい。
 逆に10月から3月は一番過ごしやすい季節となり、戦争をするならこの時期しかない。
 一方では、いかにキーポイントだとしても、半年しか利用価値のない場所を占領しても意味はないと考えるかもしれないが、連合軍としては翌年春まで使えれば十分だったし、既にインド洋で一度奪われた離島を欧州枢軸側が奪い返すだけの力がないと考えていた。この考えは、カリブ海での戦闘が進むにつれて深まり、カリブの戦況が作戦発動を後押しした。
 そして連合軍は、準備を整えつつ秋を待っていた。

 日本海軍を中心とする海上戦力の主力は、6月末頃から再編成と大規模な移動に入って前線から姿を消した。そして航空撃滅戦と通商破壊が続く中、セイロン島やアッズ環礁に日本艦隊が出現し始める。
 これに対して連合軍も行動を起こし、主にイタリア海軍の潜水艦部隊が各国からの技術や情報の支援を受けた上で通商破壊戦を仕掛けた。だが、連合軍も妨害を受けることは折り込み済みで、カウンター部隊を投じた。投じられたのは、特設空母《大鷹》《雲鷹》と旧式駆逐艦、海防艦によって編成された二つの対潜水艦専門部隊で、大西洋での経験を反映した上での作戦を展開した。また《大鷹》《雲鷹》の航空隊の一部は、夏前にアメリカから日本本土に戻ったばかりの軽空母《祥鳳》の航空隊が一部参加していた。《祥鳳》航空隊は、日本海軍でほぼ最初に設立された母艦用の対潜航空隊で、優れた技術と経験によって大西洋、カリブ海では大きな戦果を挙げた。そしてほぼ無傷で帰投したのだが、航空隊は帰国と共に解散され、パイロットの3分の2ほどが膨れあがりつつある対潜航空部隊の教官に就任し、残りの者が既に配備されている航空隊へのテコ入れとして編入された。
 一方で手持ちの航空隊を失ったことになる《祥鳳》だが、42年に入る頃には日本海軍自体が航空母艦と航空隊を分ける制度を導入していたため、ほぼスムーズに新たな航空隊を迎え入れている。そして新たな航空隊は通常編成の部隊で、《祥鳳》自身も《龍驤》《龍鳳》の航空戦隊に臨時編入され、3隻合わせて約100機の艦載機を運用する攻撃的な編成となっていた。
 それまで対潜水艦用とされていた軽空母だが、下位互換とも言える特設空母(護衛空母)の実戦配備に伴い攻撃的な編成と任務へとシフトした形になる。ただし空母機動部隊や水上艦隊での軽空母の立ち位置は対潜、防空任務が中心なので、役割が全く変わったわけでは無かった。そして軽空母が重編成の航空隊を搭載したように、日本海軍を中心とするソコトラ島攻撃は秋に入ると発動される。
 以下が、動員された艦隊戦力になる。

・第3艦隊 :武部中将
第1航空戦隊 CV《赤城》CV《加賀》
第2航空戦隊 CV《蒼龍》CV《飛龍》
第10戦隊  FA《涼月》FA《初月》FA《新月》FA《若月》
第3戦隊  BB《金剛》BB《榛名》
第12戦隊  CL《大淀》CL《仁淀》
第4水雷戦隊 CL《矢矧》 DD:15隻
 
・遣印艦隊:小沢中将
第4航空戦隊 CVL《龍驤》CVL《祥鳳》CVL《龍鳳》
第8戦隊  CL《利根》CL《筑摩》
第21戦隊 CL《球磨》CL《多摩》CL《木曾》
第6水雷戦隊 CL《神通》 DD:7隻

・第7艦隊:栗田中将
第2戦隊  BB《伊勢》BB《日向》BB《扶桑》BB《山城》
第7水雷戦隊 CL《川内》 DD:9隻
第6護衛戦隊 他

 この艦隊のうち遣印艦隊は、枢軸軍にソコトラ攻略を気取られないように陽動作戦を担う。ソコトラ島への攻撃は、第1航空艦隊から再編成された第3艦隊が担い、第7艦隊が船団護衛と上陸支援を実施する。なお少し早いが海軍の人事異動が9月に実施され、開戦から率いていた提督などが多く交代している。
 上陸するのは、海軍陸戦隊の第3特別陸戦隊(旅団規模)と陸軍の第38師団と第58混成旅団で、第3特別陸戦隊はアメリカの海兵隊にならった攻撃的な編成の部隊としてさらに編成が強化されていた。敵の防衛体制に対して陸軍師団の投入は過剰とも考えられたが、短期間での占領を目的としていたので許容された。また第58混成旅団は後詰めのため攻略部隊には含まれず、侵攻後の駐留のみが予定されていた。
 艦艇面では《秋月型》直衛艦の《涼月》《初月》が新顔だが、どちらも1939年度計画艦で厳密には《改秋月型》となる。しかも船体規模、見た目から大きく違った。それもその筈で、船体は1930年代末に建造された《大淀型》軽巡洋艦の設計を簡易化したものだったからだ。そこに8基の連装両用砲と4基の高射装置、多数の機関砲、機銃を搭載していた。レーダーも新型となり、日本海軍で初めてPPIスコープの画面表示ができる対空捜索電探「21号電探 改3型」を搭載していた。同電探はアメリカ、自由イギリス連邦からの技術供与と協力で完成したもので、日本は特に自由イギリス連邦に対して多くの対価を支払ったものだった。そして以後の《秋月型》直衛艦は、全て同《改秋月型》が基本となっている。そして、命名も本来なら軽巡洋艦に準拠するべきだという意見もあったが、防空専門艦艇については排水量や装備に関わらず、この後も長らく「月」の名を冠するようになる。

 対する欧州枢軸側は、連合軍の予測よりもソコトラ島の防備が不十分だった。
 当時ソコトラ島は、もう一つの対岸となるアラビア半島のイエメン地域を保護領としていたイギリスの実質的な統治下にあった。だが自然環境が厳しいため、戦争が始まるまでは軍事施設ばかりかイギリスの統治に関わるものすら何も無かった。
 第二次世界大戦が始まっても、島自体が航路標識程度の価値しかないと考えられていたが、1941年秋頃から徐々に注目されるようになる。初めてイギリス軍が上陸したのもこの時期だった。だが、島の施設建設や増強は遅々として進まなかった。はるか後方に位置しているソコトラ島よりも、まずはチャイナへの援助、マレーの防衛、そしてインドへの兵力増強が急務だったからだ。その上日本軍のインド侵攻が予想以上に早かった為、モンスーンが激しくなる42年春までに哨戒機用の小さな飛行場が作られ、港湾機能が若干強化され、1個中隊規模のインド兵が送り込まれただけだった。そしてその時点でインド洋のアッズで東洋艦隊が全滅し、ソコトラ島の本格的な強化が叫ばれるようになる。だが小型の船しか接岸できる港はない上に、小型船では気象のせいで接岸できなかった。大型船を使うしかないが、大型船が接岸できる場所がないので浜辺を使うしかないが、この季節に浜辺を使って小型船や艀で荷下ろしすることはほとんど自殺行為だった。
 このためイギリス軍が取った措置が、空輸による増強と補給だった。風が強いと言っても24時間吹いているわけではなく、慎重に気象を見極めれば航空機を飛ばすことは可能だった。それでも夏の間は順調とはほど遠かったが、秋になると輸送も捗っていった。そして幸いと言うべきか、この頃のイギリス本国空軍の輸送機部隊は、比較的ゆとりがあった。他の欧州枢軸国はロシア戦線で忙しいどころではなかったが、生産力にも余力があったイギリスは他国に輸送機を供与する余裕すらあった。
 主に使われた機体は、世界中で使われているアメリカ生まれの「C-47」のライセンス生産型で、一部で旧式化した爆撃機が使用された。また航空機は近在の飛行場から直接乗り入れたが、これには一悶着あった。
 スピットファイアを代表として、欧州の戦闘機は総じて航続距離が短かった。ドロップタンクを付けても短いことに変化はなく、孤島であるソコトラ島への移動ではソマリア半島を使おうとした。だが最も近いイタリア領の半島先端部には、何も無かった。文字通りの意味で、荒涼たる大地が広がるだけで軍事力は沿岸部に僅かな警備部隊があるだけだった。飛行場は皆無で、沿岸部で飛行艇を使う程度のことしか出来なかった。このためイギリス軍は、予定を変更して少し遠くなるが自領のソマリランドからの移動を実施している。しかもイタリア空軍の増強されることになったが、結局イタリア空軍の戦闘機もイギリス領内の飛行場から移動した。
 一見イタリア軍の怠慢と取れるが、ソマリア半島の先端部はそれだけ辺境の荒れ地で利用価値がなく、その先にあるソコトラ島も世界の最果てだっということだ。

 だが努力の甲斐あって、風の合間の空輸と空中移動によって約100機の航空機と1個連隊規模の陸軍部隊が配備された。しかし陸軍部隊に重装備はほとんどなく、送り込まれた労働者と現地住民を動員して拡張された飛行場には、不十分な数の機銃があるだけで施設も貧弱だった。レーダーは何とか設置したが、数は限られている上に無線による航空管制できるような施設はなかった。加えて航空隊も、燃料と弾薬を多く消費する爆撃機はほとんど配備されず、配備されている1個中隊も哨戒用だった。こうした兵力配置から、欧州枢軸側がソコトラ島への攻撃で警戒していたのは、空母艦載機による哨戒機基地の撃破を狙った奇襲的な空襲や、小数部隊による嫌がらせ程度の上陸だった。インドへの上陸を狙っていると考えられる筈の連合軍が、この時期にソコトラ島に本格的侵攻しないというのが大前提だったからだ。
 そして日本軍がセイロン島に準備している部隊が最低でも1個師団以上、最大で軍団規模と判断されたため、尚のことインド南部への侵攻の予兆と考えられた。
 だが1942年10月20日、ソコトラ島のレーダースコープに100機以上の大編隊が投影される。

 ソコトラ島攻略の開始時点で、日本海軍はソコトラ侵攻での抵抗に強い警戒感を示していた。紅海の出口に蓋をするのが目的なのだから、枢軸側が頑強に抵抗するのが当然と考えていたからだ。そのため抵抗を少しでも減らす手だてを立てた。インドでの航空撃滅戦がそうだし、インド侵攻の準備という欺瞞も行った。通商破壊戦もインドに向かう船を優先的に狙った。セイロンの重爆撃機部隊を使って、インド西岸の要衝ボンベイへの空襲という陽動作戦も実施した。
 それでもアデンにはイタリア海軍の主力艦隊とイギリス海軍の有力部隊が展開していたし、アラビア海西部の各航空基地には多数の航空機が展開していると考えられていた。しかも偵察情報や物資の流れから、欧州枢軸軍が航空輸送でソコトラ島への緊急増強を実施していることもある程度分かっていた。
 そして第3艦隊の出撃も、まずは枢軸側の監視を欺くためにシンガポールを出撃後にインド洋を大きく迂回して姿を一度眩ませた。その上で、遣印艦隊を使ってセイシェル諸島の空襲まで実施した。
 これで欧州枢軸側は連合軍の目標が絞れなくなり、ソコトラ島に戦力が集中される可能性がかなり低下されると予測した。それでも激しい抵抗を予期して、自らの唯一にして最大の切り札である空母機動部隊をそのままソコトラ島攻撃へと向かわせた。
 この時点で第3艦隊は、アッズやセイロン島攻撃よりも高い緊張感と決意をもって作戦に望んでいた。

 実際に始まったソコトラ島の空での戦いは、その初日において「牛刀をもって鶏を割く」という表現が似つかわしい戦闘となった。日本軍単独で実施されたソコトラ島侵攻は、枢軸軍にとって奇襲攻撃となったからだ。
 日本軍の第一次攻撃隊約100機が島の上空手前にさしかかった段階で、枢軸側は50機程度の戦闘機しか上空に上げていなかった。その上、さらに上空で待ちかまえる事もなく、むしろ飛行場から慌てて空を駆け上がるような有様だった。飛び立った機体は、緊急出撃で飛び立ったものだった。
 約100機いた航空隊だったが、「スピットファイア」と「Mac202」の戦闘機隊は半数程度が編隊を組まずに各個に戦い、まともな管制を受けている風もないまま半ば自滅していった。インドとカリブに精鋭部隊を送り込んでいたので訓練が不足していたのに対して、日本側の空母機動部隊は今まで通り最精鋭部隊なのだから、結果としては仕方がないだろう。
 しかし制空権を失った事で、唯一の飛行場とレーダーサイトは攻略開始初日にほとんど破壊された。ブルドーザーなどの機械力がほとんどない(空輸では運べなかった)ため、翌日から飛行場はほぼ機能停止に追いやられた。
 だが二日目、ソコトラ島に日本の艦載機は現れなかった。もちろん一過性の攻撃のためではなく、日本軍が別の目標を見付けたからだ。そしてその目標こそが、日本海軍が想定していた「敵の強靱な抵抗」だった。

 ソコトラ島が枢軸側から見て奇襲的な大規模攻撃を受けてすぐ、アデンに駐留していたイタリア東洋艦隊、イギリス東洋艦隊はすぐにも稼働艦艇全てを動員して緊急出撃していた。アデンからソコトラまでは直線距離で約900キロ。18ノットで進めば、出撃時間を含めても最短1日半で到着できる。つまり侵攻開始の2日目の夕方にソコトラ島に到着できる事になり、巡洋艦主体のイギリス艦隊はその通りにした。イタリア東洋艦隊は戦艦を含む規模の大きな艦隊のため、イギリス艦隊より進撃速度が少し遅かった事もあって少し後から沖合の敵艦隊を目指して進撃した。
 しかし二日目の午前早く、イギリス艦隊は日本軍の小型機の接触を受ける。こんな場所で日本の小型機が来るという事は、近くに日本の空母がいるという証だった。だがこの艦隊に、日本の空母機動部隊による空襲はなかった。日本が探していたのは空母か戦艦を含んだ艦隊だったからだし、他を攻撃している場合では無かったからだった。というのも、出撃したのが艦隊だけでなく、アデンからは航空隊も多数出撃し、イギリス艦隊が発見された頃には、日本の空母機動部隊も枢軸側に発見されていた。そしてインドを荒らし回っている大機動部隊だと分かると、アデンにあった航空隊が全力で空襲を開始したのだった。
 だが、アデンは基本的に後方拠点で、大部隊が駐留しているわけでは無かった。航空機の中継基地としての機能もあったが、爆撃機は地中海側のベイルートからペルシャ湾のバスラなどを経由してインドに飛んでいた。戦闘機もほぼ同様だった。アデンは航空機以外の荷物を積んだ船がインド洋に出るための拠点であり、実戦的な航空隊は対潜航空隊や哨戒機部隊だった。防空戦闘機隊も一応駐留していたが、数は1個大隊程度だった。アデンもソコトラ同様に、まだ後方拠点と考えられていたからだ。しかし後方だからこそ訓練拠点の一つと考えられ、特にインド洋(アラビア海)洋上飛行の訓練を行う為の部隊がかなり駐留していた。
 このため日本艦隊の攻撃に飛び立ったのは、意外に多くの機数となった。100機以上の機体が第3艦隊を襲ったため、日本海軍はかなりの苦戦を強いられる事となった。
 だがこれこそが、日本艦隊が「想定していた」筈の枢軸側の「強い抵抗」だった。このため第3艦隊は、他の艦隊の存在を濃密に探しつつも全力で迎撃戦を行った。
 そして枢軸側には訓練中の部隊も多かったため、枢軸側が甚大な被害を被ることになるが、一度に多くの機体が襲いかかった為、日本側の迎撃網を突破することにも成功していた。
 第3艦隊は、大戦が始まってから培ってきた優れた防空能力をフルに活用して、100機以上の枢軸軍機(イギリス機、イタリア機)を撃墜もしくは撃破する。だが、自らにも空母《赤城》の小破(爆弾2発を飛行甲板に被弾)、《加賀》《蒼龍》の軽微な損傷(至近弾)など致命傷はないものの少なくない損害を受けてしまう。艦載機の一部は飛行甲板上で破壊され、艦の損傷のために艦載機の運用にも若干支障が出た。それでも全空母が稼働可能で戦闘力の80%以上を維持し、枢軸側は一日を待たずして息切れしてしまう。アデンからの距離が遠かったことも、枢軸側の反復攻撃が出来ない大きな要因となった。洋上目標を攻撃するには、枢軸側の戦闘機は航続距離が短かすぎた。枢軸側は帰投時、着陸時に失われた機体も多かった。
 また、枢軸側は日本の大艦隊がいきなり敵地深くに攻め込んでくるとは予測していなかったし、アデンは部隊が多数展開しているとは言え後方の基地だったので、攻撃を行うにしても限界があった。それにソコトラ島沖数百キロを移動しながら展開する第3艦隊は、アラビア半島北西部のアデンから攻撃するには遠すぎた。実際、3つのエンジンが特徴なイタリア軍の爆撃機がかなりの数展開していたが、多くが地中海での戦闘を想定して航続距離が足りないものばかりで、戦闘にほとんど参加出来なかった。枢軸側の損害が多かったのも、護衛の戦闘機が付けられなかった点も見逃せない。本来枢軸側は敵が近づいてからの迎撃を考えていたが、連合軍というより日本海軍の攻撃半径が広すぎる上に、空母機動部隊という神出鬼没な「洋上移動要塞」を前にして、枢軸側の構想はほとんど機能しなかった事になる。
 何よりアデンの航空隊では、ソコトラ島を守るには遠すぎた。日本艦隊はアデンを出撃した艦隊に気を取られて西に進んだが、その事がアデンの航空隊に無理な攻撃を行わせ、戦力を一気に消耗させる事となっていた。

 そして半ば忘れられていたイタリア東洋艦隊だが、戦艦5隻、重巡洋艦2隻を中心とする大艦隊で、日本軍(連合軍)の偵察網をすり抜けてソコトラ近海まで出ることに成功する。日本の機動部隊の偵察機は、ちょうどイタリア艦隊が雲の下にいたときに交差していた。潜水艦の哨戒網も、情報収集で日本軍の配置を見抜いた上ですり抜けていた。そしてその時点で夕方となり、日本側は攻撃の機会を失うどころか発見すらしない状態で夜を迎える。日本の機動部隊とイタリア東洋艦隊は、入れ違った形だった。この時のイタリア艦隊にはツキがあった。
 そしてその夜の海で、夜間遭遇戦が発生する。
 この時、イタリア東洋艦隊が装備されたばかりのイギリス製レーダーで探知したのは、12ノットで移動する大船団だった。つまり日本軍のソコトラ島攻略部隊を載せた船団だった。そしてイギリス側レーダーの方が当時日本が装備するレーダーより高性能だった為、イタリア艦隊が若干だが早く相手を発見した。だがレーダーを用いた夜間射撃は出来ないので、まずは接近するしかなかった(※当然だが、射撃用レーダーは装備していなかった)。だがこの時イタリア艦隊が接近したのが後方を進む船団の方だったため、日本側の護衛が小型艦ばかりでレーダーによる敵の発見が遅れた。このため距離2万メートルを切るまで、日本側は敵の接近に気付かなかった。護衛にはアメリカ、自由英の駆逐艦も参加していたがが、イタリア艦隊とは逆の位置にいたしレーダーについては似たり寄ったりだった。
 戦闘は、日本側の海防艦に搭載されたばかりのレーダー(13号または21号の大幅改良型)が敵影を捉えた段階で実質的に開始される。その14秒後にイタリア艦隊の戦艦が星弾(照明弾)を発射する発砲炎を出し、日本側が明確に敵の接近を確認したからだ。
 この時イタリア艦隊は、日本船団のほぼ真横に位置していた。日本側は、護衛と支援の為の第7艦隊主力が5海里ほど前方に展開して対潜警戒陣を敷いており、約50隻の船団を軽巡洋艦《五十鈴》と18隻の旧式駆逐艦、海防艦などが囲んでいた。このためイタリア艦隊が最初に砲撃した目標の多くが、側面で隊列を組んでいた小さな海防艦だった。戦艦《ローマ》だけが中で隊列を組む輸送船に向けて砲撃したが、どちらにせよレーダー照準射撃ではない夜間砲撃では、遠距離射撃が当たるはずも無かった。
 だが日本側の海防艦はディーゼル機関の為、煙幕を展開することができない。反撃するにも旧式か軽量型の5インチ砲しか持たないので、よほど接近しなければ何も出来なかった。しかしこの時、イタリア艦隊に近い位置にいた海防艦は、勇敢にもイタリア艦隊に向けての突撃を行った。自らに敵の意識と砲火を向けさせ、できれば敵を混乱させるためだ。夜間戦闘なので、混乱させてしまえば高速での突撃は難しくなり隊列も乱れ、船団が逃げられる可能性が高まる。
 そして船団の5海里(9キロ)前方に展開していた日本の第7艦隊主力は、第一報を受けると出しうる限りの最大速度で転進を行い、イタリア艦隊と船団の間に割って入ろうとした。だが距離が開いている事と対潜陣形を取っていた事から、戦闘の初期には間に合わなかった。
 なお、以下がこの時の両軍の編成になる。

・イタリア東洋艦隊
BB:《ヴィットリオ・ヴェネト》《ローマ》
BB:《ジュリオ・チュザーレ》《アンドレア・ドリア》《カイオ・デュイリオ》
CG:《トレント》《トリエステ》
CL:3隻 DD:9隻

・第7艦隊(主力)
第2戦隊  BB《伊勢》BB《日向》BB《扶桑》BB《山城》
第7水雷戦隊 CL《川内》 DD:9隻(《陽炎型》《睦月型》)
・第7艦隊(護衛隊)
第6護衛戦隊 CL《五十鈴》 海防艦10隻 旧式駆逐艦2隻
アメリカ駆逐艦2隻、自由イギリス駆逐艦1隻 他
 
 戦力は、自らの海軍のほぼ全力を投じているイタリア艦隊が優勢だった。そのイタリア艦隊は戦艦の隊列と水雷戦隊に分かれ、水雷戦隊が船団内部めがけて突進し、戦艦部隊は十分に接近した後は同航しようとした。さすがにイタリア艦隊の思惑通りにはいかず、各所から船団の外周を守っていた海防艦が不利を承知でイタリア艦隊に戦闘を仕掛け、そして夜間で情報が少ない事から、イタリア艦隊の多くもまずは護衛艦艇の排除を優先した。
 この時日本側のほぼ全ての艦艇が魚雷を持たず、少数の5インチ砲しか装備していないと知っていたら、イタリア側はもっと積極的な戦闘が出来ただろう。だが、夜間で情報そのものが乏しいため、20ノット以上で走れない海防艦を駆逐艦と判断した戦闘を各所で実施した。このためイタリア艦隊の戦艦隊列は、雷撃を警戒して一時船団から離れなければならないなど、戦闘にかなり影響した。だが、海防艦は基本的に対潜水艦艦艇であり、水上艦との戦闘はほとんど考慮していなかった。だが、艦としてではなく船としての完成度が高かったため意外に被弾には強く、簡単には沈められなかった。それでも1隻、また1隻と燃え上がって停止し、イタリア艦隊は逃げまどう輸送船への攻撃へと移っていった。そのうち、日本の海防艦より有力なアメリカ、自由英の駆逐艦が臨時の隊列を組んで戦場に急行し、雷撃によってイタリア艦隊に少なくない混乱をもたらした。

 戦闘開始から30分が経過すると、船団の前方に回って砲撃と雷撃を実施していたイタリアの水雷戦隊は、遠距離からの砲撃を受ける。しかも複数で水柱は大きく、日本側の戦艦部隊がレーダー情報を頼りに実施した遠距離砲撃だった。
 もちろん牽制が目的で、命中する事も無かった。それでも全く見当違いではなく、レーダー観測射撃の効果もあって日本艦隊の砲撃は旧式戦艦だからこその腕前を見せた。イタリア艦隊の周囲に至近弾が何発も着弾し、このためイタリアの水雷戦隊はいったん日本艦隊から遠ざかり、自らの主力艦隊との合流を図ろうとする。輸送船への攻撃も一時中断された。
 そしてイタリアの水雷戦隊が引き寄せた形になった日本の第7艦隊主力は、船団を好き勝手に砲撃しているイタリア艦隊主力に距離2万3000メートルで砲撃を向ける。
 この時までにイタリアの5隻の戦艦と2隻の重巡洋艦は、10隻近い輸送船を最低でも炎上させていた。中には積載弾薬に誘爆したのか、大爆発を起こした船もあった。だが、一方的な砲撃にはまり込みすぎていたため、日本艦隊の反撃への対応が後手に回ってしまう。
 そして日本側の砲撃は、先ほどの水雷戦隊に向けた砲撃よりも正確だった。なぜなら、イタリア主力艦隊と日本船団との距離が最短で5000メートルほどで、燃え上がる船の炎が一部の艦艇を闇の中から浮かび上がらせていたからだった。
 そしてレーダー観測に加えて光学照準が加わるのだから正確になるのは当たり前で、イタリア艦隊は数発の主砲弾を浴びてからようやく炎の照り返しに気づき、慌てて日本船団との距離を取って日本艦隊との戦闘を本格化させる。
 だがその後の戦艦同士の砲撃戦は、あまり激しくはならなかった。互いにレーダーを用いた正確な射撃はできないし、星弾(照明弾)の効果は限定的なので、距離が1万5000メートル以上離れた状態では正確な砲撃戦が難しかったからだ。この時両者の距離は常に2万メートル以上離れていたので、当たれば大きな損害を与えられるが、幸運か偶然に頼るほかないのが実状だった。戦闘では日本艦隊が船団を守るため、敵との間に割ってはいるべく前進したのに対して、結局イタリア艦隊主力は距離を開け続けたので、両者が接近することは無かった。それでも双方数発の命中弾を得ていたが、相応の距離での戦いで運不運も無かったため、互いに致命傷を与えるには至っていない。最大でも小破の損害を受けるに止まっていた。
 一方で水雷戦隊同士の戦いは、近接戦へと移行していた。再び船団の中に入り込んでいたイタリア水雷戦隊を駆逐するべく、日本の第7水雷戦隊が劣勢を意に介さず果敢に接近戦を挑んだからだった。
 しかも日本側では海防艦の一部も戦闘に加入しており、自らの損害を省みず探照灯照射をするなどして、イタリア水雷戦隊を不利に追いやった。またこれまでの戦闘で、イタリア水雷戦隊の隊列はかなり乱れていた。このため統制の取れた戦闘が取れず、一気に突撃してきた日本側水雷戦隊に後れをとった。
 たまらずイタリア水雷戦隊は船団からの離脱を行うが、離脱した瞬間を日本側に突かれてしまう。旗艦《川内》と同行していた駆逐艦5隻が実施した最短4000メートルからの統制雷撃戦によって、速度調整で雷速50ノットを超えたと言われる酸素魚雷の槍ぶすまに晒されたイタリア水雷戦隊は、半数近い数が一度に被弾して脱落艦を残して待避するより他無かった。
 そしてこの雷撃を最後として、戦闘は終幕となった。
 戦艦同士の戦いだと、強引に押していればイタリア艦隊が順当に勝利したと言われることが多いが、相手も戦艦複数なので大損害は覚悟しなければならず、戦力に穴を開けることが出来ない枢軸側としては傷が大きくなる前に待避せざるを得なかったからだ。

 その後、面子を潰された形の日本の第3艦隊は、翌朝早くに全周囲に偵察機を飛ばしてイタリア艦隊を探し求めた。一方の枢軸側は、半ば偶然ながら大殊勲を上げたイタリア艦隊を守るため、総力を挙げて付近の航空戦力が日本の第3艦隊を攻撃した。このため第3艦隊は、全速力でアデンへと逃れるイタリア艦隊を偵察機で捕捉するも、自らの防戦のために有効な攻撃を与えることが出来なかった。攻撃隊を出す余裕がない上に、護衛用の戦闘機まで防空戦に投入せざるを得なかったからだ。しかもイタリア海軍と思われる潜水艦からも複数の襲撃を受けるに至り、日本側は追撃を断念する。そもそもソコトラ島攻略が目的なのに、「強大な敵」と「激しい抵抗」の幻想に半ば惑わされて目的を失っていたので、ようやく本来の作戦に戻ったとも言えた。
 しかし、ソコトラ島攻略は中止される。
 一番の理由は、船団の約半数が被害を受け、全体の3分の1が沈められるという大損害を受けたからだ。攻略部隊約2万5000名のうち8000名が海に投げ出されるか船と共に沈み、そのうち半数以上の5500名が犠牲となった。一度にこれほどの大損害は日本軍全体としても初めてのため、大本営を始め日本軍各所に極めて大きな衝撃となって伝わった。一時的に陸海軍の関係が悪化したため、山梨首相をはじめ陸海軍の重鎮達が奔走しなければならなかったほどだった。そして第3艦隊司令部は、そろそろ人事異動するべきだという次期でもあったため、実質的にほぼ全員が実質的には懲罰人事の形で艦隊を去っている。そうしなければ、日本陸海軍内に不和が広がるからだ。護衛の第7艦隊も、予期せぬ事態に奮闘した護衛艦艇はともかく、陸軍へのお詫びを含めて同様の人事を行わざるを得なかった。このため日本海軍内では、司令官、幕僚クラスの移動と昇進が少し早まっている。
 話しが少し逸れたが、枢軸側が主力艦隊を危険な夜戦に投入するほど激しい抵抗を見せた事もあって、作戦継続は危険だと判断された。
 実際は船団の残存戦力だけでも十分攻略は可能だし、この時点で枢軸側の現地航空戦力はほぼ枯渇していた。少なくとも、ソコトラ島に投入できる戦力は無くなっていた。だがやはり「強大な敵」と「激しい抵抗」という前提で動いていた日本軍は、作戦発動3日目に作戦を中止して全戦力の帰投を命じる。

 そして連合軍によるソコトラ島攻略の失敗と無期延期は、インド洋での戦いに非常に大きな修正を強いることとなった。
 日本海軍は、大きな戦力が揃うようになる1943年夏頃まで、遠隔地への大規模な攻略作戦を全て無期延期してしまう。本来ならソコトラ島に続いてペルシャ湾方面、アラビア半島への侵攻が三カ月ごとのタイムスケジュールで予定されていた。これにより、インド洋を完全に遮断し、ペルシャの油田を枢軸から取り上げてしまう予定だった。だが全ては流れてしまい、別の大作戦が大きく首をもたげてしまう。
 言うまでもないだろうが、「インド奪還」だ。
 インドへの侵攻は早くから検討されていた。しかし日本陸軍単独では難しく、最低でも80万、余裕を見れば120万以上の陸兵が必要と考えられた。しかしまだ中華戦線も抱えていた日本陸軍に、それだけの戦力がなかった。かき集めればあったが、それでは他のことが出来なくなってしまうからだ。
 しかし戦時生産の回転による兵器の増産と、何よりアメリカ陸軍の積極姿勢、そしてインドを取り戻すことで自らの正当性を強めようとした英連邦自由政府が、インド奪回の意見を日に日に強くさせた。特に42年春の日本海軍の鮮やかな勝利は、明日にでもインドに進めるという考えを自由イギリスに持たせてしまう。それでも日本軍全体としては、インド侵攻には反対だった。日本政府も外相の幣原が北米に飛んで、吉田全権と共に英米の外相などと何度も折衝を重ねた。
 それがソコトラ島攻略失敗と遠距離侵攻の無期延期により、俄にインドに向かう道筋が出来る。日本陸軍内でも、山下奉文将軍(当時中将)などが当時上海にいたマッカーサー将軍(当時大将)などと結託し、日本をインド侵攻へと傾けさせた。
 なお山下将軍は、1939年代春に日本陸軍がアメリカに軍事視察団を派遣した際の団長を務めていた。豪華客船橿原丸での事件をを扱った映画「豪華客船殺人事件」でご存じの方もいるかもしれない。映画の話しはともかく、山下将軍は戦争前の緊迫した時間のかなりをアメリカで過ごし、アメリカ陸軍の当時の中枢の人間と多く接触を持ち、かなりの親交を深めている。マッカーサー将軍はフィリピンに居たので開戦後に知り合っているが、彼の下にいた将軍や高級将校との関係も、日本軍をインド侵攻に傾かせる大きな要因になったのだ。

 いっぽう欧州枢軸側だが、結果としてソコトラ防衛に成功したが、アデンとソコトラの航空戦力が壊滅した。特に洋上作戦の出来る爆撃機パイロットを酷く消耗したことは、短期的には致命的といえる損害だった。それでも防衛に成功し、輸送船団を壊滅させるという勝利を飾ることが出来た。イタリア艦隊はかなりの損害を受けたが、イギリスはイタリア海軍の活躍を絶賛した。
 だがイタリア海軍は、今度はインドでの本格的な戦いにも関わらなくてはならなくなった。
 またインドでの陸戦がいよいよ始まると言われるようになると、今までアジアで何もしなかったドイツが、主に政治的な発言権と言い訳を目的に、インドへの兵力派遣を決定する。
 インドでの戦いは、様々な思惑と錯誤の末に始まろうとしていた。



●フェイズ27「第二次世界大戦(21)」