●フェイズ27「第二次世界大戦(21)」

 1942年12月7日、連合軍はインド本土に第一歩を記した。
 10月末のソコトラ攻略からの方針転換から極めて早い戦略レベルでの作戦変更だったが、この侵攻はもともとアラビア作戦に準備されていた部隊と物資を転用したため迅速に行えた。だからインド全体への侵攻ではなく、まずはインドに橋頭堡を築くための侵攻でもあった。そして好機を捉えてという補足付きで、全面的な侵攻を行うことになっていた。
 というのも、航空撃滅戦の最中に行われた偵察で分かった事は、枢軸軍のインドの防備が非常にまばらで隙だらけだったからだ。総督府のあるカルカッタ方面の沿岸部はかなりの部隊が展開して、沿岸部にも陣地が作られたりしていた。だが、そもそも「こんなに早く」連合軍がセイロン島を奪取するとは予測していなかった枢軸軍(現地イギリス軍)は、インドの全ての海岸線を守ることは現実問題として不可能で、まともな防衛準備はしていなかった。イギリス本国自身も、使える戦力と兵器、物資はまずは中華、そしてマレーにまわして、インド防衛の準備を進めていたと言っても二の次にせざるを得なかった。
 それでもシンガポールが陥落した辺りからは防衛準備を本格化させたが、それでもインド全土を満たす戦力を注ぎ込む事は不可能に近かった。本気で全てを守りたければ、兵力が何百万あっても足りなかった。侵攻するイニシアチブを連合軍が握っている以上、全ての箇所で十分な防備を固めるのは不可能に近かった。
 このためガンジス川河口部とインド半島南部の防備を優先したが、それでも海岸部を全て守るのは無理だった。特に半島南部は、連合軍がその気になればどこにでも上陸できる状態だった。
 そして連合軍も、セイロンに有力な戦力を進めていた事もあり、まずは南部に侵攻して橋頭堡を固めることとした。

 なお、連合軍がインド侵攻に際して、一つの宣伝が実施された。その宣伝とは、英連邦自由政府と連合軍にインドが荷担することを決意すれば、正統な地位を取り戻した後のイギリス国王と政府は、インドに完全独立を約束するという内容だった。しかもこの決定を、全ての連合軍参加国が保障、承認するとされた。さらに公の場での公文書の交換も実施するとしていた。イギリスが得意とする二枚舌、二重外交の対局とも言える宣伝だった。
 この事を決定したウィンストン・チャーチルは、イギリス帝国主義の権化であり帝国主義者として広く知られていたため、世界中が大きな衝撃を受けた。特にイギリス本国での衝撃は大きく、チャーチルを民族の裏切り者と罵った。チャーチルは亡命政府とはいえイギリス政府の首班であり、イギリス政府自身がインドを手放すと言ったことになるからだ。
 つまり英連邦自由政府が、いかなる手段を用いてもイギリス本国を全体主義者から取り戻すという決意表明であった。だがこの背景には、どちらにせよ戦後はアメリカによってインドは独立を強いられるのが分かっていたので、少しでも政治的影響力を残すために自らカードを切ったという、背に腹は代えられない理由があった。規模は小さいが、自由オランダ委員会と蘭領東インドの決断と同種のものだった。本国を失った悲哀と言えるだろう。
 またチャーチルにとっては、大英帝国が崩壊することよりも、イギリス本国がドイツの傀儡となった全体主義によって統治されることが何より許せなかった事がこの決断を促した。この事は彼の回顧録やインタビューなどで後年になって多くの言葉が残されており、人生最大の苦渋の決断だったと語っている。加えて、ヒトラーへの憎悪をさらに募らせたとも書かれていた。
 しかし彼は老獪な政治家であり、宣言の翌日はアメリカに亡命しているインド代表とにこやかに握手する姿がアメリカや日本の新聞の一面を飾った。さらには日本にも飛び、山梨首相にインド「奪回」への協力を強く要請している。
 ファシズム(全体主義)という劇薬が、時代を大きく動かした瞬間だった。

 連合軍のインド侵攻だが、亜大陸と呼ばれるほど広大な地域に対する侵攻には、大げさではない表現でも100万の地上戦力が必要と考えられた。具体的には、東部と南部にそれぞれ軍集団規模の陸軍部隊が必要で、当時の日本軍の編成だと合計30個師団を投じて1年の時間が必要と算定された。
 枢軸側はインド兵だけで最低でも200万は動員可能で、鉄道労働者約65万人も後方要員として数えることもできた。イギリス・インド軍の弱点は、機械化戦力、航空戦力の不足だった。加えてどれだけの武器弾薬をインドに送り込めるかが、インド兵の兵数に大きく左右した。またインド師団(部隊)は、ほぼ全ての場合で将校はイギリス人だが兵士がインド兵で、これがインド防衛の主力だった。42年夏までにイギリス本国から、総数で1個軍規模の兵量が送り込まれていた。
 当然だが、有色人種が白人を指揮する事は一切無かった。この点は、日本と同盟関係にあるアメリカの方が、まだマシだった。
 指揮官には、陸軍はクルード・オーキンレック将軍(派遣と共に大将就任)を送り込んだが、海軍の名目上の指揮官としてルイス・マウントバッテン将軍が就任した。マウントバッテン将軍はヴィクトリア女王の曾孫に当たる名門貴族出身の軍人なので、インド全軍の実質的な指揮はオーキンレック将軍が当たることになる(しかも当時のマウントバッテン将軍は、まだ40才を越えたばかりだった)。しかしマウントバッテン将軍は、こういうときこそ高貴な者が前線に出なければならないと、自ら志願してインドに赴いたとされている。オーキンレック将軍は、軍歴の多くをインドで費やしているため、今回の任務に打ってつけと考えられた。

 なお師団、軍団、軍、軍集団の日本と欧米諸国の区別だが、日本では明治以来軍団の事を軍、軍の事を方面軍と呼ぶ。軍集団は本来存在しないが、総軍がこれに当たる。英語表記だと軍団は「corps」、軍が「army」、軍集団が「army group」などと呼ばれる。軍団の下位は、戦略的編成の基本単位となる師団(Division)で、旅団、連隊、大隊と下位に続いていく。そして分隊が兵力の基本単位になるが、上位になるにつれて3つの下位単位をまとめるので、軍団は師団が3個、軍は軍団が3個、軍集団は軍が3個で、合計27個師団で軍集団は編成されることになる。もちろん例外も多く、各単位で支援部隊を含むことも多い。また国によって師団や旅団、連隊の規模が違うことが多く、特に師団編成が小規模なソ連軍において顕著で、ソ連軍の場合15〜20個師団で軍を編成してドイツ軍の軍と互角程度の場合がある。師団規模が大きいのは機械化の進んでいる国の陸軍に多く、アメリカ軍が顕著に多い。アメリカ軍と日本軍の場合でも20%程度兵力量で差がでており、戦争中の日本陸軍はレンドリースで兵器のかなりを賄って、編成が徐々に強化、巨大化している。
 1942年冬頃の日本陸軍の場合、戦前からの常設師団、戦車師団はほぼアメリカ軍と同規模の編成とされていた。だが、全体の40%の数に当たる戦時動員師団のほとんどは後方警備や固定配置が前提のため、部隊編成も軽ければ機械化率も低かった。後者の師団は、内地(国内)と中華戦線に多く展開していた。

 インド解放(侵攻)を決めた連合軍は、10月末からインドでの戦力編成を開始し、日本軍3個軍団、アメリカ軍2個軍団、自由英連邦2個軍団に部隊を編成していった。各軍は2〜3個師団から編成される予定で、自由英連邦軍はアンザックが多数の兵力を拠出する予定になっていた。
 当時オーストラリアの総人口は710万、ニュージーランドが160万で、合わせるとカナダより少し少ない程度の人口となる。そしてオーストラリアは、英連邦自由政府と連合軍に加わると俄然積極姿勢を示した。大英帝国の中で自分たちこそが一番の存在だという自負からで、この戦争中は何かとカナダと張り合った。ジョージ六世が訪問したときも、国民を挙げて熱狂的に歓迎している。とはいえ、国力としては微妙だった。
 工業化率は高いとは言えず、オーストラリアは工作機械とエンジンなどの供与を受ければ戦車の生産も一応可能だった。だが装備の過半はアメリカからレンドリースされ、連合軍に荷担してから急速に兵力を整えていった。オーストラリアは9個師団を編成し、ニュージーランドは旅団編成で3個を当面準備した。これにカナダからの派遣部隊を加えて、自由英連邦アジア方面軍が編成されている。しかし海軍、海運の双方が貧弱なので、輸送は日米が主に担う予定だった。
 アメリカは、特に陸軍が大規模な地上戦ができる戦場を欲していたので、以前からかなりの積極姿勢を示していたし、「インド解放」の準備を進めていた。インド作戦が迅速に進んだ一番の原因は、アメリカ陸軍といえるほどだ。アメリカ陸軍としては、自らが戦場で活躍しないと国内での海軍との競争に後れをとるという気持ちが強かったため、こうした行動に出ていた。このため日本本土にアメリカ陸軍の高官が何度も渡り、日本陸軍のみならず政府にも強く働きかけたりしている。陸軍長官のスチムソンも、何度も日本へ渡っている。この中で親日家になったと言われることもあるが、知日家という評価の方が正しいだろう。またスチムソン長官の場合、アメリカを積極的にさせるために陸軍が動かねばならないと考えてのことだったとも言われている。
 だが、当時のアメリカ陸軍には問題があった。既に東アジアで盤石の地位を築いているマッカーサー将軍は、まだ中華戦線に関わっている為、仮に当人が望んだとしてもインドの指揮を任せるわけにはいかなかった。それに中華とインドは離れすぎているので、別戦区を設定する必要もあった。
 このためセイロン島攻略の1942年6月の時点で、アメリカ陸軍内に東アジア戦域と南アジア戦域が設定される。そして皮肉なことに、かつてフィリピンでマッカーサーの副官を長期間務めたドワイド・アイゼンハワーが、中将に昇進した上で南アジア戦域の指揮官としてシンガポールに赴任する。アイゼンハワー将軍は調整型、政治型の軍人と言われるが、アメリカ陸軍としてはインド戦線でキャリアを積み上げさせ、きたるべきヨーロッパ作戦に備えさせようと言う考えだった。
 そしてインド侵攻でも主力とならざるを得ない日本軍だが、東インド方面軍(軍)と南インド方面軍(軍)の双方で指揮官を務めねばならなかった。南はセイロン島攻略の田中静壱将軍が務め、東はマレーで活躍した山下将軍が務めることとなる。そして二人の上には、当時の日本陸軍でほぼ最年長ながら前線指揮が出来る力量を持つ軍人として、梅津美治郎大将が選ばれた。そして梅津大将の下に、アメリカ軍は猛将ジョージ・パットン将軍、自由英は亡命した反骨の戦士バーナード・モントゴメリー将軍などがそれぞれ軍団を率いた。アメリカ、自由イギリス共に非常に個性的な将軍ばかりで、シンガポールに在陣した梅津大将はアメリカ軍を後方から率いるアイゼンハワー将軍や別の軍団を率いるブラッドレー将軍を殊の外頼ったと言われている。
 以下が、1942年12月から翌1943年3月までにインドへと進むことになる連合軍の布陣となる。

 ・連合軍インド軍集団(主将:梅津大将・副将:アイゼンハワー中将、モントゴメリー中将)

 ・総予備:近衛第2師団、第38師団(再編成中)、陸軍第1挺身団(空挺旅団)、海軍陸戦隊 第1特別挺身団(空挺旅団)、第11戦車旅団、ほか第1重砲兵旅団など多数

 ・南インド軍(田中大将)
・方面軍直轄:戦車第1師団、海軍陸戦隊第2特別陸戦旅団
・日本第5軍(軍団):第2師団、第6師団、第20師団
・米第2軍団    :第7師団、第25師団
・自由英第1軍団  :加第3師団、豪第2師団、豪第8師団

 ・東インド軍(山下大将)
・方面軍直轄:米第4師団、海軍陸戦隊第1特別陸戦旅団
・日本第7軍(軍団):戦車第2師団、第5師団、第18師団
・日本第15軍(軍団):第15師団、第31師団、第33師団(ビルマ方面)
・米第3軍団    :第2師団、第1機甲師団
・自由英第2軍団  :加第1機甲師団、豪第3師団、豪第5師団

 ・後続部隊(※1943年春以後投入予定)
・日本第13軍(軍団):戦車第3師団、第8師団、第9師団
・米第5軍団    :第3師団、第9師団
・自由英第4軍団  :加第2師団、豪第4師団、他(ニュージーランド旅団、自由インド旅団など)

 ※重砲兵旅団など支援部隊の多くは割愛。
 ※加=カナダ、豪=オーストラリア

 以上の戦力のうち、まずは既にセイロン島攻略に参加したかセイロン島に進出している部隊が、南インド軍としてインド半島南東部に上陸する事になる。そして翌年2月には、ガンジス川河口部にカルカッタ方面攻略を中心とした上陸作戦が予定されていた。
 上陸作戦に先立って航空撃滅戦が強化され、セイロン島への航空兵力の増強も次々に行われた。既に中華戦線での航空機の役割が重慶への爆撃だけとなっていたので、同方面展開していた部隊も半数以上がインド作戦に参加するべく移動や編成、改変作業を行った。陸軍部隊の一部も、後詰めでインドに移動した。
 また、主にソコトラ島攻略戦に従事した艦隊は、シンガポールでの修理や整備、補給、休養を実施し、さらに兵力を加えた上で上陸作戦に備えた。損傷した艦艇は、工作艦《明石》などが全力で修理に当たった。このためシンガポール(+リンガ泊地)には、日本海軍の後方支援部隊も全力で出動していた。
 作戦開始は非常に早く、1942年12月5日に決行される。1ヶ月前にソコトラ島侵攻で躓いてから僅か一ヶ月だが、雨期が来る前に最初の勝負を決してしまいたいという連合軍の思惑と、ソコトラ作戦での枢軸側のアラビア海での疲弊を見ての事だった。
 加えて、6月からの航空撃滅戦の成果によって、上陸作戦には全く問題ないと考えられていた。制空権、制海権は、連合軍の手にあった。
 なおソコトラ作戦は、インド侵攻を欺瞞するための陽動作戦だと宣伝され、戦後もかなりの期間信じられ続けることになる。ソコトラ攻撃からインド侵攻は、それほど短い流れで発生していたからだ。

 1942年12月1日、シンガポールに集結していた日本艦隊が一斉に動き始めた。戦艦《長門》《陸奥》を中核とする第一艦隊と、ソコトラ島を空襲した第3艦隊だった。さらに巡洋戦艦《レパルス》を中心とする自由イギリス東洋艦隊、アメリカ・アジア艦隊など、連合国各国の艦隊も活発な活動を開始した。アッズ環礁に進出している戦艦《高雄》《愛宕》を中核とする第二艦隊も、他の艦隊の動きに合わせて動き始めた。
 インド侵攻作戦の開始だった。
 インド侵攻は枢軸側の予想通りだが、10月末のソコトラ島戦があったため、枢軸側は1943年初めを想定していた。しかしセイロン島に集結していた輸送船団が動き始めており、上陸作戦発動は間違いなかった。
 だが上陸地点で、枢軸側に混乱が見られた。
 高速戦艦4隻を中核とする日本の第二艦隊が、軽空母を中心とした遣印艦隊、セイロンの航空隊の支援を受けつつ、インド半島南部の西岸に出現し艦砲射撃を開始したからだ。だがインド半島西岸は西ガーツ山脈があり、上陸はともかくその後の進撃が難しい地形が殆どだった。しかし無視も出来ないため、東岸に上陸すると想定していた方針を変更して、慌てて防衛体制の一部変更を行った。この時点で、枢軸内でも陽動の声は強かったが、万が一上陸されたら恐らくは東西から挟撃され、南端部の兵力が包囲殲滅されるので対応せざるを得なかった。
 そして枢軸側も考えた通り、連合軍の大上陸部隊はセイロン島からも距離が近いインド半島南部の東岸に出現した。だがこの位置も、枢軸側の予測が外れた。枢軸側が予測したのは、支援も受けやすいし上陸もしやすいセイロン島のほぼ対岸だったが、連合軍はもっと北に出現した。
 連合軍の上陸船団が現れたのはカッダロールの南岸。インド半島西岸は上陸に適した地形が少なく、平野部は海岸線はともかく平野部は池や湖が多くて、大軍の戦闘には向いていない。カッダロールの街の南は少しマシなので、この場所が選ばれた。しかしこの場所は枢軸側(英インド軍)も相応に警戒しており、1個旅団のインド旅団が展開していた。
 上陸作戦を行ったのは、インドに最初にイギリス人が上陸するべきだという事でカナダ第3師団と、上陸作戦に特化している日本海軍陸戦隊・第2特別陸戦旅団だった。これを、戦艦《長門》《陸奥》、巡洋戦艦《レパルス》などが艦砲射撃で支援し、上空は第3艦隊とセイロン島の連合軍空軍部隊が守った。
 なおこの戦いから、自由イギリス空軍が本格的に戦列に参加しており、機種は違えど蛇の目(ラウンデル)を描いた機体が戦い合う事になる。しかし同じ蛇の目ではなく、自由英の蛇の目には十字のマーキングが重ねて施されていた。また自由イギリス空軍機は、敵味方識別のため翼と胴体後部にマークとは別に白黒の帯(□■□■□)を描いているが、これは後に全ての連合軍機が大規模侵攻作戦の際に「侵攻帯」として使うようになり、進撃の象徴とされるようになっていく。

 上陸作戦自体は、数時間の遅れが出ただけで殆ど何の支障もなく進展した。インドの海岸部を全て守るのは不可能で、しかも既にインド国民議会の大規模なサボタージュが始まっていたため、鉄道運行にも支障が出ており、インドを守る英インド軍の動きは低調だった。
 そしてインドでの戦いは、鉄道路線と都市の奪い合いが中心となる。野戦軍の撃破は連合軍にとっては二の次で、迅速な進撃なよって各地を分断、孤立させ、イギリス本国のインド支配を奪うのが目的だった。そうしてしまえば、各地で孤立した英インド軍は根無し草となり、孤立した軍隊だけを野戦で殲滅すれば、労せずして勝利できる筈だからだ。インドの戦いは所詮植民地での戦いなので、軍隊に協力する民衆は希少で、戦闘も迷惑でしかなかった。
 侵攻計画も比較的単純で、まずは南端部を制圧したらその後は内陸部の主要都市を一直線に攻略しつつガンジス川流域を目指すことになっていた。
 第一攻略目標は南部最大の都市マドラス(現チュンナイ)。マドラスから内陸へと進んでバンガロールを落とし、その後一気に北進して内陸部のナーグプルを目指す。そしてガンジス川流域のカーンプルを落とす時点で、遅れてカルカッタ方面から上陸する東部軍と握手する手はずになっていた。
 侵攻は時間との勝負で、侵攻のために連合軍は大量の輸送車両を戦場に持ち込んでいた。これにインド独立で連合軍に傾いた現地インド民衆の協力を受けて鉄道を押さえてしまえば、インドでの戦争は勝ったも同然だった。
 既にインド洋での制海権獲得競争、インドでの制空権獲得競争では連合軍が圧倒的に優位なので、連合軍が戦略的に敗北する要素はほとんど見られなかった。注意すべきは、インドを守るべく死に物狂いになる可能性のあるイギリス本国兵と、1942年夏に突如インドへとやって来た「ドイツ・インド軍団(DIK)」だった。

 「ドイツ・インド軍団(DIK)」は、1942年4月に突然のようにドイツ中枢で派兵が決定された。インド洋での枢軸軍の制海権が根底から崩壊して次はインドでの戦いが予測され、この戦いが戦争の焦点のひとつになると考えての政治的行動だった。
 これまでドイツは、アジアでの戦いには不干渉状態で、全てイギリス本国政府(+イタリア海軍)に任せっきりだった。有利な段階ではこれで良かったし、ドイツにはチャイナにまで派兵できる戦力は無かった。だが話しがインド防衛となると、様々な意味で「盟主」であるドイツが何もしないわけには行かないと言うのがドイツ中枢、わけてもアドルフ・ヒトラー総統の考えだった。インドがイギリスの力の源泉であることは、ヨーロッパでは周知の事実だったからだ。
 そしてイギリスからのインドの状況を考慮した結果、戦場自体は温かい(暑い)以外はロシア戦線と似ていると結論する。同時に過密な戦力は双方ともに投入しないので、塹壕戦や陣地戦ではなく機動戦が主体になるとも考えられた。このため歩兵部隊を多く派遣しても仕方ないし、有象無象のインド兵の中で埋もれてしまう可能性も高いので、機動性に優れて戦力も高い装甲部隊の派遣が決まる。しかし、広大な戦場なので小数では意味がないので、軍団規模の派遣が決まった。
 だがドイツ陸軍内では、ドイツから遠く離れれたよく分からない土地への派兵に反対する意見が強かった。またドイツ空軍からも、派遣するならアラビア半島への空軍派遣が、様々な点から見ても妥当ではないかという意見も出された。補給のための海路維持の方が陸軍部隊の派遣よりも妥当なのは道理で、この点はゲーリング国家元帥の意見が(珍しく)正しかった。
 しかし、インドにドイツ兵が居ることが重要だとヒトラー総統は決定を下し、地上部隊の派兵となった。そして決定の経緯から陸軍からの志願者が出るのか心配されたが、ちょうど率いる部隊が休養と再編成のため本国に戻っていたエルヴィン・ロンメル将軍(当時中将)が志願し、彼のもとで「ドイツ・インド軍団(DIK)」は編成される。
 部隊規模は増強軍団とされ、装甲師団2個、自動車化師団1個、歩兵師団1個、他支援部隊から編成する予定だった。インドでの戦闘は大規模なので、この程度の機甲戦力がないと戦場での存在感すら発揮できないと考えられたからだ。しかし、ロシアにかかりきりなドイツ陸軍が、一度にこれだけの戦力を用意するのは難しく、まずは国内での再編成が済んだばかりの第21装甲師団が急ぎ派遣される。他はおって派遣される予定という泥縄式だった。それでも秋までにはほぼ2個師団の戦力がインド北西部(カラチ方面)で揃い、その状態で連合軍の侵攻を迎える事になる。
 しかし移動や輸送は、当初は紅海から海路で直接インドに向かったが、42年夏以後は危険が増したため、中東のベイルートまで海路で行き、そこからペルシャ湾のバスラに陸路で移動して、さらにそこからペルシャ沖合を哨戒機に守られつつ進む航路が取られた。このため、部隊の移動と集結は予定より遅れることとなる。

 1942年12月6日に上陸してから、連合軍の進撃は順調だった。上陸から3日後には早くもマドラスに向けての進撃を開始した。これに対して枢軸軍は、周辺に約30万の戦力を配置していたが、マドラス近辺には4個インド師団、2個本国師団を中心に15万を配置していた。だが、侵攻前後からインド民衆のサボタージュが強まり、鉄道での移動は困難さを増した。それでなくても連合軍の空襲によって鉄道はあまり使えないので、機動力に欠ける部隊の多くが遊兵、つまり実質的な戦力に数えられない兵力と化してしまった。例外はイギリス本国から派遣された部隊だが、インドに配備された枢軸軍150万の5分の1程度しかいなかった。戦力価値は半分近いと算定されていたが、本国部隊は基本的に機動性を用いた反撃や突破阻止のために使う予定だったが、当初から積極的に動かざるを得なかった。
 そしてマドラスは、呆気なく連合軍に包囲される。自動車両を大量に装備する連合軍は、鉄道を使うことなく友軍制空権下を突き進み、僅か1週間で防備体制の整わないマドラスを包囲し、同時に15万の兵力も包囲下に置いた。
 その間も、上陸地点からは続々と後続部隊が上陸しつつあり、30万名を越える南インド軍(方面軍)は全戦力を発揮するべく部隊を整えつつあった。一方の枢軸側は、各地のインド師団の移動がままならない場合が多く、南部防衛の本来なら機動予備だった本国部隊(軍団規模)がマドラス郊外で包囲下に置かれた為、これを救出するべき戦力が無かった。鉄道で続く内陸部のバンガロールには、本国師団を中心とした10万の兵力があったが、空襲のため移動がままならなかったし、包囲網を破るには歩兵以外の戦力が足りなかった。
 しかも連合軍は、すぐにも内陸への侵攻も開始して、バンガロールへの侵攻すら開始していた。
 そしてマドラスで、枢軸側というよりインド総督府が恐れていた事態が起きる。インド民衆の蜂起だ。蜂起を促したのは、事前に入り込んでいた連合軍側の工作員と、インド独立の闘士として知られていたチャンドラ・ボーズ率いる自由インド軍の工作員だった。蜂起した人々は、連合軍が空中投下や潜水艦の隠密輸送で渡した武器を手にしていたし、英軍に属していた大量のインド兵も合流した。このためマドラスの枢軸軍は、連合軍と戦う前から戦力の半数近くを蜂起の鎮圧に投じざるを得ず、それすら焼け石に水の状態だった。現地インド兵も、続々と自らが仰ぐ旗をかえてしまったからだ。
 ここで連合軍は、マドラスに対して24時間の猶予を与えて降伏を勧告。配下のインド兵の統制も難しい為、マドラスは戦うことなく開城した。
 なおチャンドラ・ボーズは、日米と欧州が戦い始めた時点で中立国経由で日本へと亡命し、主に日本からの支援を受けながら活動を続けていた。この亡命でチャンドラ・ボーズは、ソ連へと亡命した後に満州経由で日本に至っており、ここに欧州を見つめる当時のソ連の思惑も見えてくる。
 そしてボーズは、活動の中で英連邦自由政府のチャーチルなどとも会談や交渉を持ち、自らの活動と戦後の独立を確認している。もちろん戦中は、連合軍に全面的に協力することを約束していた。そして彼らの存在と活動があったからこそ、連合軍のインドでの工作は円滑に進められた。

 マドラスが上陸から僅か9日で降伏したことは、インド全土を揺るがした。カルカッタにあったインド総督のリンリスゴー侯爵(本名:ヴィクター・ホープ)は、国民議会を通じてインド民衆の協力を重ねて要請したが、マハトマ・ガンジーやネルーら国民議会は強い反発を示した。
 なお当時のリンリスゴー侯爵は、イギリスの総督にありがちな慎重で臆病な人物だと言われるが、こうした人物は中央からの命令に弱くそして忠実であり、彼は現地の実状を知らない本国が言うままに強権を振るって弾圧ばかりしていた。このためインド国民議会、民衆、さらには各地の藩王の多くからの支持はなく、結果として枢軸陣営としてのインド崩壊を最も助けた人物とすら評される事がある。
 そしてこの時も、強い反発にでたインド国民議会などに対しても、投獄などの厳しい措置に出た。結果、ガンジーやネルーなど1万人以上が大量投獄され、インド総督府に対するインド民衆の反発はより強まった。この行為は、オーキンレック、マウントバッテン両将軍など現地インド軍から反対が出たほどだ。
 当然だが、枢軸側のインドでの戦いはより不利になり、連合軍は各地で歓迎され、特に有色人種の日本軍は大歓迎の様相を呈するようになる。この中で、解放戦争に赴いたと考えていたアメリカ兵達が、「ジャパニーズばかり狡い」とぼやいたと言われる。

 連合軍は、マドラス陥落後すぐにも内陸部のバンガロールの攻略を開始する。基本的には正面からの侵攻だが、デカン高原という地形障害の多い地域への侵攻になるため苦戦が予測された。だが、枢軸側のイギリス人達はインド民衆の支持を失い、古くからイギリスへの反発が強い南部はこぞって連合軍に協力したため、もはやまともな戦争にならなかった。形ばかりの自由インド軍を含んだ前進した連合軍は、各地で「解放軍」として歓迎されたほどだった。
 枢軸側は、とにかく信頼できる兵力と地盤が確保できる場所まで後退するより他無く、早すぎる連合軍の進撃は敵の抵抗よりも自らの補給を心配しなければならなかった。その補給についても、食糧など現地で調達できるものは幾らでも民衆が持ってくるので、タダで貰うわけにいかない連合軍は、特にアメリカが大量に持ち込んでいた現金(ドル)で決済を実施せざるを得なかった。そしてこの現金決済は民衆の間にさらに噂を呼んで、無尽蔵と言えるほどの物資が連合軍の手元に自らやって来た。このため連合軍の主計(補給)将校は、「麦が歩いてやって来る」と目の回るような忙しさだった。
 軍隊並の結束を見せるインドの鉄道労務者も、連合軍によるインド「解放」と独立の約束の前に揺れ動き、情勢が連合軍に有利になった地域では続々と離反者が出た。宣布活動では、各地に浸透した自由インド軍が大活躍した。枢軸側のインド兵も同様で、戦う前にイギリス人将校を拘束するなどして連合軍(自由インド軍)に合流する部隊が後を絶たなかった。中には、最新兵器を携えて部隊ごと合流した例も見られた。逆に、連合軍占領地での抵抗活動、ゲリラ活動はほとんど起きず、長く続きすぎたインド統治の実態をさらけ出す事になる。
 こうして枢軸軍の戦力は戦わずして目減りし、連合軍は1943年を迎えるまでにバンガロールを落とし、さらに約400キロ先にあるハイデラバードまで一気に進軍した。このためこの戦争最初の「クリスマスまでに〜」という賭けでのバンガロール陥落は、慌ててハイデラバードに変更されたほどだった。あまりに早い進撃に率いるモントゴメリー将軍は苦言を呈したが、好機を捉えた拙速こそを重視した日本軍とアメリカ軍に押される形で、自らの意見を下げざる得なかった。もっともモントゴメリー将軍が常に慎重だったわけではなく、後に大胆な作戦も立案、実施している。
 なお、バンガロールが陥落すると、南部から北部に伸びる鉄道の全てが遮断された事になり、年内にインド半島南部の制圧という希望的観測上での目標もほぼ達成された。この間、連合軍に投降もしくは合流した枢軸兵は20万人に達した。そしてその約半数が、自由イギリス政府が設立した形の自由インド軍に属した。
 上陸から約一ヶ月後、年を越す頃には既にマドラスに連合軍の大型輸送船が接岸するようになり、航空隊もセイロン島などからマドラスなどへ急ぎ進出しつつあった。
 そしてハイデラバードの包囲と陥落をもって、一旦進撃を停滞させる。補給路の確保と、あまりにも放置していた地域の制圧と降伏手続きのためだった。しかし補給路の確保は、インド民衆の協力もあって予想以上に簡単だった。それにマドラスが使えるのなら、ここに大型輸送船で各種物資などを送り込んで兵站拠点と出来るので、ロシア戦線での枢軸軍と比べると補給の負担は著しく軽かった。海と陸の輸送負担の差は1対100と言われる事もあるが、まさにその通りだった。しかも鉄道も使えるので、イギリスが放り投げたものを再利用するだけで済んだ。
 このため1月半ばには、次の攻略目標のナーグプル目指した進撃が始まる。そしてナーグプルへの道を三分の二ほど消化した頃、ベンガル湾に再び連合軍の大艦隊が溢れる。

 1943年1月25日、ガンジス川河口部に連合軍が強襲上陸作戦を決行した。
 連合軍の東インド軍は、基本的にガンジス川流域の広大なヒンドスタン平原を突進するため、南インド軍よりも機動性の高い部隊が多く配備されていた。指揮官も総指揮官がマレーでの電撃戦を実施した山下将軍で、その配下にもインドでの戦いで猛将で知られる事になるパットン将軍が配置されていた。戦車師団(機甲師団)と戦車、装甲車の数も多く、全体の編成自体もより強力で、平原での野外決戦も想定した編成となっていた。
 だが、上陸最初の攻略目標が総督府のあるカルカッタ(現コルカタ)であり、枢軸軍の激しい抵抗が予測された。実際、カルカッタ周辺にはイギリス本国兵が多く配備されており、全体でも50万の兵力が配置に就いていた。
 しかし、連合軍の上陸作戦自体は止めようがなかった。
 上陸作戦には、前年12月の上陸作戦と陽動作戦に参加した全ての艦艇が参加していた。基地航空隊はビルマのアキャブが拠点となるので少し遠かったが、アメリカが爆撃機部隊を大幅に増強するなどしていたので、兵力に遜色は無かった。
 上陸は、カルカッタ西部のガンジス川河口部西岸で、上陸作戦に特化している日本陸軍の第5師団と海軍陸戦隊第1特別陸戦旅団、さらにアメリカ第2師団、オーストラリア第3師団、自由イギリス海軍コマンドなどが順次上陸した。
 激しい抵抗が予想されたので一度に多数の部隊が上陸し、第一波は上陸戦に慣れた部隊が特に選ばれたが、ここでも連合軍の予想よりも抵抗は少なかった。理由の多くは、全ての海岸を守るのは不可能だからで、それでもインド師団1個が現地を守備しており、南部よりも激しい水際迎撃が実施された。だがそれでも、連合軍の予想よりも少ない抵抗で、上陸作戦そのものを阻止するには至らず、上陸作戦は1日の遅れを出したに止まった。
 なお上陸するのは3個軍の予定で、残りの1個軍は上陸した部隊に呼応する形でビルマからそのまま陸路を進撃して、カルカッタ北西部での握手する事でガンジス川一帯の枢軸軍を包囲殲滅する予定だった。そして包囲殲滅後に軍を一気に西に向けて、カーンプルで南インド軍と握手してデリーを目指す予定だった。

 カルカッタを中心としたガンジス川河口域は、古くからイギリスの植民地だった事もあって、比較的イギリスの統治が強いまま保持されていた。また、南部よりもイギリス本国部隊が多く配備されていた。中には第7機甲師団などの有力部隊もあり、戦車、装甲車、自動車の数も今までで一番多数が配備されていた。これらはイギリス本国での戦時生産が順調な証拠であり、まだインド航路が機能していたときにインドに運び込まれたものだった。カルカッタ周辺には、そうして運ばれた約20万のイギリス本国兵が配備されていた。この数字は本国兵の3分の2に達しており、カルカッタがどれだけ重視されていたかを示している。インド師団も、装備がよく忠誠度も高い部隊が優先的に配備されていた。残念ながらドイツ・インド軍団はまだ北西部におり、最初の戦場には間に合いそうにもなかった。
 そしてイギリス本国兵はインド師団よりもずっと優秀であることを示し、連合軍が上陸後にすぐにも周辺の兵力が迎撃のために移動してきた。
 だが連合軍は、既に橋頭堡は十分に確保していたし、沖合には戦艦多数の大艦隊が展開し、さらに洋上には空母機動部隊が濃密な航空支援を提供していた。対して連合軍は、依然として継続されていた航空撃滅戦での消耗のため、十分な航空支援は出せなかった。連合軍の空襲のため部隊の移動も大きく遅れてしまい、イギリス・インド軍が計画していた防御計画は半分も出来なかった。連合軍が上陸した沿岸部では、日本軍艦載機、日米の爆撃機が激しい空襲を行った為、鉄道輸送はほとんど機能せず、道路を進むのも昼間は危険な状態で、移動中に多くの戦車やトラックが撃破された。
 それでもかなりの兵力がカルカッタ西部に集結し、上陸して占領地を拡大しつつある連合軍と対峙した。
 この時点で連合軍は、先鋒部隊と占領地拡大のための機動戦力が上陸していたが、まだ全体の3分の2程度しか上陸していなかった。そのうち実質的に戦闘可能なのは半数ほどで、戦力を十分に発揮できる状態では無かった。だが軍司令官の山下大将、アメリカ第1軍団を率いるパットン中将らは拙速を重んじる決断を下す。
 既に日本戦車第2師団、アメリカ第1機甲師団という機甲戦力の中核部隊が戦闘可能だったことが大きな理由とされ、連合軍は本来なら防備を固めるべきだと言われる段階で、大胆にも敵主力部隊の包囲殲滅戦を企図した。敵を水際に落とそうと動いている敵を逆手に取ったわけだ。
 包囲するべく機動戦を仕掛けるのは、日本戦車第2師団、日本第18師団、アメリカ第1機甲師団、アメリカ第2師団で、自由イギリス第2軍団などは橋頭堡付近での敵の迎撃と拘束を果たすことになった。作戦に参加する通常師団も全て自動車化師団で、戦車部隊(大隊または連隊)も有していた(※まだハーフトラックの配備が十分進んでいなかったので、機械化師団とは言い難い)。
 そして海岸の橋頭堡破壊を目的に前進していたイギリス・インド軍に対して、積極的な行動を開始した。
 連合軍の予期せぬ動きに、当初イギリス軍は連合軍が積極的な防御戦闘を仕掛けてきたとしか考えなかった。それが常道だからだ。そして橋頭堡の多くの箇所での攻勢は、最初はほぼ同じように感じられたため、イギリス軍は通常以上の対処はせずに自らの橋頭堡の対する攻撃のための動きを続けた。自分たちの方が反撃を行おうとしているという固定観念も、イギリス軍の行動を心理面で拘束していた。
 だが、約1時間後に飛来した沖合から飛来した空母艦載機による集中爆撃を作戦開始の合図として、連合軍の大胆な攻勢が開始される。

 最初に突破戦闘をしかけたのは、岡田中将率いる日本戦車第2師団だった。同師団は、戦車連隊2個を抱える戦車旅団を2個と重戦車連隊1個、機械化捜索連隊1個、機動歩兵連隊1個、機動速射砲大隊1個、機動砲兵連隊、機動工兵大隊、などから編成されていた。戦車連隊は通常58両の戦車から編成され、部隊の基本は中隊となる。中隊をまとめて連隊として運用するのは騎兵の名残で、イギリス、フランスなどが同様の編成を取っている。
 日本の機甲師団(戦車師団)の最大の特徴は重戦車連隊で、連隊と言っても定数で36両しか持たないが突破戦力として編成に組み込まれていた。この戦闘でも、全部隊の先頭に立って突進していた。ただし今までの「九九式重戦車」ではなく、エンジンをより大きな馬力のものに換装し、トランスミッション、キャタピラーなど多くの箇所に改良を加えた「九九式重戦車改」だった。総重量は1トン増えたが、機械的信頼性や稼働率も相応に向上していた。ただし日本での生産力に限界があるため、1942年だと専門の工場を一つあてがっても月産10〜15両の希少種だった。
 だが数は少なくても、衝撃力は依然として大きかった。イギリス軍は新開発の速射砲(対戦車砲)の6ポンド砲(長砲身の57mm砲)を前線に持ち込むようになっていたが、通常砲戦距離で「九九式改」を撃破することはほとんど無理だった。逆に戦車相手なら徹甲弾、対戦車砲なら榴弾を撃ち込んで撃破していった。ある程度の機動性を得た重戦車は、強引な突破戦闘には最適だった。新たに投入された6ポンド砲搭載の「クルセイダー Mk. III」巡航戦車も例外ではなく、車内のシステム工学の不備もあって日本の「九七式中戦車改」などとの戦いでも依然として不利を強いられた。だが例外が出現する。「チャレンジャー Mk. III」歩兵戦車だ。
 「チャレンジャー Mk. III」歩兵戦車は、約40トンの巨体を重装甲で覆ったイギリス陸軍伝統の重戦車で、「マチルダII」の後を継ぐ存在だった。主砲も新型の6ポンド砲装備で、相応の対戦車戦闘力を有していた。ただし、独特の無限軌道の形状が示すように歩兵戦車のため、「マチルダII」同様に足が遅く不整地だと時速13kmととにかく遅かった。「九九式改」が不整地でも時速20km以上を発揮したのと大きな違いだった。しかし初期型でも車体前面で102mmと非常に重装甲で、「九九式改」に匹敵した。このため「九九式改」でもかなり接近しなければ撃破は難しく、突破戦闘での一番の障害となった。ただし足の遅さが災いして、戦場に間に合わない場面が多々見られた上に、連合軍の頭上を舞う日本軍艦載機の餌食となる場面も多く見られた。
 ちなみに戦車の名称決定に一悶着があり、当初は士気高揚のため首相の名前(ハリファックス)にしようとしたが、反対が意外に多いため別の戦車の候補から選び直されたという経緯がある。このため歩兵戦車らしくない命名となった。またこの命名により、巡航戦車にだけ「C」の頭文字を冠する流れが崩れ、戦車の全てが「C」の頭文字で始まる名前を持つようになっている。

 連合軍の攻勢は、空襲と重戦車部隊を先陣とした敵陣の突破戦闘が成功すると、後は機動力に優れた「九七式中戦車改」部隊の出番となった。重戦車の役割は、敵陣の正面突破であって機動戦ではなかったからだ。そして日本の戦車第2師団、第18師団は一丸となってイギリス軍の前線を完全に突破し、前進速度の許す限り突進した後は迂回を始める。そしてその脇を、パットン将軍が率いる第1機甲師団、第3師団がより早い速度で駆け抜け、日本軍とバトンタッチするような形でイギリス軍を大きく包囲していった。アメリカ軍機甲部隊の進撃速度は、誰もが予想したよりもはるかに速く、一日で70キロも前進していた。このため最初の突破戦闘を行った日本軍は、包囲陣を敷くためにアメリカ軍の過ぎ去った場所を固めなければならなかった。パットン将軍は、1兵でも多くの敵兵を包囲殲滅するため、本来は包囲のために残す予定の第3師団も全部引き連れて行ってしまったからだ。
 そして、連合軍が大規模な逆襲、しかも逆包囲戦を仕掛けるとは予測していなかったイギリス軍は司令官のオーキンレック以下将兵の多くが混乱し、これをパットン将軍の迅速すぎる進撃が拍車をかけさせた。それでも各所で激しい戦闘、戦車戦が行われたが、制空権を持ち戦場のイニシアチブを握り続けた連合軍が優位に戦闘を展開した。
 なお、アメリカ軍の先頭と突き進んだのが「M4 シャーマン」中戦車で、この後連合軍の事実上の主力戦車、標準戦車としてどの戦場でも見られるようになる傑作戦車だった。この作戦で見せたように、特に稼働率の高さは高く評価された。加えて、人間工学を考えた高い居住性も長期作戦には非常に有効だった。そして何より、操縦が簡単な事が全連合軍への供与、貸与の際に効果を発揮した。「猿でも操縦できる」と言われたほど、誰でもすぐに操縦できるようになったからだ。
 インド作戦全般でも、日本軍部隊のほとんどを除く全連合軍部隊に「M3 グランド」中戦車などと共に配備されており、様々な国旗を描いて戦っている。そしてこの時の戦場では、30トンある中戦車(巡航戦車)は「M4」だけで、威力がやや低くても75mm砲を搭載して必要十分な装甲と速度を備え、何より高い機械的信頼性を持つ事から大いに活躍した。
 だがイギリス軍も、やられっぱなしではなかった。連合軍の包囲戦の終盤近くになって戦線のやや後方にいたイギリス第七機甲師団が、機動防御戦を仕掛けてた。空襲などで移動に手間取ったことが幸いした形だったが、抵抗が微弱だった前進中に連合軍の側面から襲いかかったため、先陣争いのように少し無秩序に突き進んでいたアメリカ軍部隊の側面を突くことに成功した。
 そして戦い慣れていないアメリカ軍部隊は、敵の抵抗が微弱で攻勢をとっている間はよかったが、一度守勢に回りしかも友軍が次々に撃破される事態に陥ると、あっと言う間に壊乱してしまった。戦車戦でも、イギリス軍に6ポンド砲装備車両がかなり含まれていたため、「M4」戦車もかなり撃破された。「M4」戦車は側面が大きく垂直な上に内側に砲弾が搭載されているため、側面が大きな弱点だった。この弱点は長らく改善されず、現場では様々な涙ぐましい努力が行われる事となる。

 この時の戦いは、連合軍が無謀な反撃を仕掛けたことが原因だとか、進軍を急ぎすぎたと言われることもあるが、イギリス軍の反撃のタイミングが的確だった事も評価するべきだろう。もっともイギリス軍も、こうも容易くアメリカ軍が崩れるとは考えておらず、追撃戦は少しばかり泥縄式となってしまった。だが敵の機甲戦力の多くを撃破するチャンスを逃すわけにもいかず、イギリス軍は橋頭堡より先にアメリカ軍機甲部隊の撃破を優先した。
 連合軍の予期せぬ窮地を救ったのは、急速な進軍から半ば置き去りにされた格好で、少し後ろから側面を固めていた日本戦車第2師団だった。師団のうち1個戦車旅団と支援部隊は包囲のための前進を続けていたところ、アメリカ軍の潰走に出会い、近くにいたパットン将軍の支援要請もあって、ただちにイギリス軍への反撃を開始した。
 そして潰走する敵を追いかけ、有力な反撃をあまり考慮していなかったイギリス軍の先鋒部隊は、俄作りながら防御陣を敷いた日本軍の反撃を受けて大損害を受けると共に前進が停止してしまう。そしてパットン将軍の強い激励で戦意を回復させたアメリカ軍部隊も反撃に加わり、イギリス軍部隊はこれ以上の前進は叶わず後退するより他無かった。そしてかなりの損害を受けたため、その後も継続した連合軍の包囲行動を止めることはできず、イギリス軍部隊のかなりが橋頭堡を攻撃する筈が逆に包囲下に置かれてしまう。
 だが、イギリス第7機甲師団師団の奮闘は無駄ではなく、連合軍橋頭堡の撃破に向かっていたイギリス軍の約半数が連合軍の包囲から脱する事ができた。しかしそれでも、カルカッタ周辺でイギリス軍が連合軍の進撃を止めることに失敗したのは間違いなかった。
 なおこの戦いは、橋頭堡を半包囲で攻撃しようとした側が逆に包囲殲滅戦を仕掛けようとして、さらに逆襲と反撃が行われるという目まぐるしい戦闘となった。こうした乱戦にこそ、少し後に枢軸側の戦列に参加するロンメル将軍の手腕が発揮されただろうと言われたほどだった。
 その後連合軍は、さらに部隊を上陸させて包囲の輪を縮め、3日後に10万近いイギリス軍が降伏した。そしてその翌日には、体制を整えた機甲部隊が進軍を開始してカルカッタへと向かい、上陸から9日目の1943年2月4日にカルカッタは無血開城。デリーに逃げ出したインド総督府のポールに日本軍、アメリカ軍、そして英連邦自由政府の旗がはためいた。

●フェイズ28「第二次世界大戦(22)」