●フェイズ30「第二次世界大戦(24)」

 1943年2月4日、イギリスのインド支配の象徴だったカルカッタは無血開城した。

 インドでの戦いは、開始当初からずっと連合軍の圧倒的優位で進展していた。枢軸軍のほぼ全てを占めるイギリスインド軍は地の利をほとんど活かせず、逆に長年の植民地支配のツケを払うように敗退と後退を重ねていた。
 1943年2月の時点で連合軍は、南部、東部を中心にインドの半分近くを占領もしくは解放していた。最前線は南部がナーグプル前面で、東部はカルカッタを軸としたガンジス川河口部からの枢軸軍の駆逐が進んでいた。
 連合軍の後続部隊も続々と各地から送り込まれつつあり、最終的には10個軍、30個師団(相当)、総数100万人以上の大軍が展開する予定で、既にその80%がインドに進軍していた。アメリカ西海岸やパナマ運河から伸びる兵站物資の流れも、輸送路の長さにも関わらず無尽蔵と言える勢いだった。
 対する枢軸軍は、イギリス・インド軍、イギリス本国軍併せて約150万とドイツ・インド軍団(DIK)約5万があった。だが、既にイギリス軍は兵力の3分の1を失い、空軍戦力は半数以上が撃破されていた。しかも連合軍のインド封鎖は日増しに厳しくなっており、輸送船及び護衛艦艇の不足も相まって、ヨーロッパからの増援や補給は日増しに難しくなっていた。連合軍はまずは護衛艦艇(イギリス、イタリア艦)を狙った為、護衛船団を組むことも難しくなりつつあった。しかも中規模以上の船団を組むと水上艦隊が出撃してくるため、枢軸側の輸送は日に日にじり貧に陥っていた。
 43年1月の時点で、ヨーロッパから送り出された船のうち約70%が沈められていた。ロンメル将軍率いるDIKも、予定していた兵力の80%程度しかインドに入ることが出来ず、インドが勝利の地ではない厳しい戦場であることを、アジアに初めて派遣されたドイツ人達に教えていた。
 そして、イギリス本国など欧州各国では、緊急で輸送船舶の臨時徴用と増産を進めなくてはならなくなっていた。大西洋とインド洋双方で激しく消耗するイギリス本国を中心とするヨーロッパ全体の船舶事情は、急速に悪化していった。
 加えて言えば、植民地での戦いなので現地での兵器生産はもちろん出来ない。

 インド戦線の状況は、カルカッタを追われた形のイギリス・インド軍は、インドで最も大きな戦力を有している事、周辺部からの協力体制が維持されていた事の二つから、現状では十分に抗戦出来た。連合軍が東部一帯を占領した後だと厳しいと予測されたが、それまでに防衛体制を作り上げようとした。だが一方では、南部戦線が総崩れの様相を呈していた。
 南部戦線は、前年の12月以後三ヶ月間敗退続きで、残る主要都市はボンベイぐらいだった。ナーグプルにはインド軍を中心に20万以上の兵力が集結したが、敗退を重ねてきた上に軍を離脱した者達のゲリラや兵士のサボタージュが多く、数の半分の戦力もなかった。対する連合軍は、機甲師団こそなかったが先鋒として進むのは戦車連隊を持つ機械化師団で、他も殆どが自動車化されているため都市を迂回した包囲戦術を取り、イギリス軍が防衛体制を整える前にナーグプルを包囲した。この包囲には15万のインド軍が取り残されたが、その多くは1週間と経たずに降伏する。一部のイギリス本国部隊と将校のイギリス人達は徹底抗戦を行おうとしたが、インド兵からなる将兵達が戦おうとしなかったからだ。その上、都市住民の殆どからもイギリス人は見放されていた。善良な統治をしていた一部個人を除いて、インドの民はイギリス人を見放していた。
 ナーグプルがほとんど戦うことなく開城する頃には、既に連合軍の別働隊がボンベイに迫っており、ボンベイは西海岸ルート以外での鉄道も途絶されてしまう。これでガンジス川中部流域の輸送ルートは絶たれた事になる。しかもすぐにも、ナーグプルの連合軍は北上を開始し、カーンプルを目指した。
 カーンプルで、東から進んでくる友軍と共に、ガンジス川流域に展開するイギリスインド軍主力を挟み撃ちにする予定だった。
 そしてこの時点で、俄然注目を集めたのが派兵当初は現地イギリス軍からあまり期待されていなかったDIKだった。

 DIKが注目を集めたのは、アジアで初見参のドイツ軍という事よりも、枢軸側の機甲戦力が連合軍の包囲作戦の外側に位置していたと言うことだった。DIKは前年秋にカラチに上陸し始め、2月の時点でデリーの南方ジャイプール辺りに集結していた。
 部隊規模は増強装甲軍団で、装甲師団2個(第15と第21)と歩兵師団1個としていた。予定していた自動車化師団は間に合わず、イギリス軍からの供与で歩兵師団を半自動車化して部隊を編成していた。そして部隊が予定どおり進出していない事に現されるように、各部隊の内容も不十分だった。理由の多くは日本軍などによる通商破壊戦の影響で、何度も増援物資を送り込んだにも関わらず戦車を中心に80%程度の戦力しか無かった。だが、まだ連合軍の通商破壊が緩い頃に中心戦力が送り込まれていたので、マシな方だった。そしてDIKは、300両以上の戦車を有する有力な機械化部隊であり、これほど優秀な枢軸側の機械化部隊は日本軍の前面に展開するイギリス第7機甲師団など一部に限られており、すべて前線に展開していた。つまりDIKは、枢軸側唯一の予備の機甲部隊という事になる。このため前線の投入は見合わされ、連合軍の行動を見つつ臨機応変に行動することになる。独自裁量権の多くも追認の形で認められ、DIKを率いるロンメル将軍は、既に優勢となった連合軍に対して機動戦、遊撃戦を展開するつもりでいた。

 ドイツ・インド軍団が最初に接触した連合軍は、最も西を進んでいた南部方面軍の自由イギリス第2軍団に属するオーストラリア第4師団だった。
 豪州第4師団は戦車連隊を持つ自動車化師団で、ほぼ全ての装備をアメリカからのレンドリースで固めていた。他に同部隊は道案内と宣伝、降伏誘導のために自由インド軍を連れていたが、自由イギリス軍が先陣を進むという事の政治的価値を満たすために先頭を進んでいた。
 この時、現地では航空優勢はどちらにもなく、先に敵を発見したのは待ち伏せていた形のドイツ軍だった。そしてドイツ軍は、一部部隊がわざと敵に見つかるように姿をさらし、そして友軍陣地へと誘導するように計画的に形だけ戦いながら引き下がった。
 そしてこのドイツ軍の「醜態」に対して、実戦経験の不足から敵の擬態を見破られなかったオーストラリア軍は、戦車連隊が先頭に立って追撃を開始。追撃の中で陣形も一部が崩れ、追撃した第1旅団は師団司令部に対して増援を要請し、師団司令部は軍団司令部に支援を要請した。
 もっとも、軍団司令部は深追いを避けるように命じ、さらに逃走したエリアの航空偵察を連合軍各部隊に要請した。しかし軍団司令部の判断と命令は少しばかり遅く、豪州第4師団の第1旅団は、気が付いたら狭隘な地形でドイツ軍に半包囲されていた。しかも対戦車陣地が真ん前に布陣していたため、先鋒で進んでいた「M4中戦車」部隊は、この戦争で初めてハトハトこと「88mm Flak36」の餌食とる「M4中戦車」となった。
 同砲は、形式的には1918年に開発された事になっている砲(Flak18)の後継砲で、最初から地上の硬い目標に対する攻撃を想定した徹甲弾が開発されていた。これが図に当たり、1940年5月のフランス戦でロンメル将軍の窮地を救い鮮烈なデビューを飾った。対戦車砲としては当時世界最強で、撃破できない戦車は無かった。ソ連赤軍の「KV-1重戦車」ですら(近距離ながら)撃破され、この時点で戦闘例は無かったが日本の「九九式重戦車」でも十分に撃破可能だった。
 そしてこの時、オーストラリア軍の「M4戦車」連隊は、短時間の間に1個中隊が「アヒルのように」撃破され、その後ドイツ軍戦車部隊の包囲攻撃などもあって壊滅的な打撃を受けてしまう。当然ながら追撃どころではなく、包囲しようとするドイツ軍から逃げるのがやっとで、さらに後方から進んできていたオーストラリア軍部隊も、戦闘にまきこまれて大損害を受けた。結果、攻撃した部隊の約3分の2に当たる3000名の部隊が撃破され、そのうち半数以上がドイツ軍の捕虜となった。第1旅団は壊滅状態だった。
 豪州第4師団は先鋒を務められないほどの損害を受け、部隊の再編成や交代などで連合軍は3日を空費する事となった。
 この戦いが、ロンメル将軍率いるドイツインド軍団の最初の戦闘であり、その後も大軍を擁する連合軍に対して、有効な戦いを展開していく。
 だが多勢に無勢であり、連合軍全体の進軍を止めるにはいたらず、この時ロンメル将軍が稼いだ時間は全てを合わせても最大でも半月程度だったと言われている。戦術で戦略はひっくり返せないと言う言葉どおり、敵が大軍を展開しているため、1個軍団に満たない機甲部隊では出来ることには限界があったのだ。また、現地イギリス軍がドイツ軍に完全に協力的と言えなかった事も、DIKの活動を制約したと言われる事が多い。イギリス本国はともかく、植民地ではナチス・ドイツに対する様々なマイナス感情が強い場合が多く、友軍や同盟軍としての意識が高いとは言えなかったからだ。
 またインド戦線は、ロシア戦線と似た所と似ていない所があった。ロシア戦線と似ている点は、大軍同士が拠点を巡って運動戦とその阻止を行うという点で、違う点は長い戦線を張って対陣する事がほとんどない点だった。運動戦を行うのは殆どの場合が連合軍で、枢軸軍というよりインドイギリス軍は何とかして阻止しようという動きが一般的に見られた。

 1943年3月3日、連合軍の通称「雛祭り(ガールズ・フェスティバル)」攻勢が開始される。
 東インド軍、南インド軍双方が、機械化部隊の総力を挙げて戦線を突破し、そして二つの方向から殺到してガンジス川中流域の50万以上いるインドイギリス軍主力部隊を、長駆包囲殲滅する雄大な作戦だった。

 空の支援には、日本陸軍航空隊の約半数に当たる遣印航空軍(1個航空師団規模)と、アメリカ陸軍航空隊の第5航空軍、さらに英連邦自由政府空軍のアジア解放軍団が当たった。既に日米の戦時生産がフル回転し始めている時期で、さらにパイロットの大量供給が本格化し始めている時期なため、第一線で作戦展開する航空機の数は1500機にも達し、パイロットの三倍と言われる機体(+予備パーツなど)が準備された。
 主な戦闘機は、日本軍が「一式戦闘機 隼二型」、「一式重戦闘機 飛燕二型」、アメリカ軍が「P-40 トマホーク」、「P-38 ライトニング」、英連邦軍が「P-40 トマホーク」、「P-39 コブラ」となる。そしてこの戦いでアジアデビューを果たしたのが、「P-51 マスタング」だった。
 「P-51 マスタング」の原型は、イギリスがドイツに降伏する前にアメリカのノースアメリカン社にイギリスが発注した。だが開発半ばでイギリスは降伏。その後英連邦自由政府が発注者となったが、資金不足のため開発は遅れぎみとなった。それでも開発は短期間で終わり、1941年11月には自由イギリス軍に引き渡しを開始した。しかし初期型は、凡庸な性能しか無かった。主な理由はエンジンで、アメリカで唯一使える空冷エンジンのアリソンエンジンでは、どうしても高い性能は発揮できなかった。
 この時期もアリソンエンジン搭載型ばかりで、液冷エンジン機としては長い航続距離を持ち、低空性能も比較的高いため、支援任務用の機体として蛇の目と侵攻帯を描いて、インドの空ぶ事となる。
 性能が劇的に変化するのは、英連邦自由政府とイギリス降伏前にイギリスとライセンス生産の契約を交わしていた日本から、ロールスロイス製マーリンエンジンのライセンス生産が、自動車メーカーのパッカード社で行われてからだった。1942年夏にはパッカードエンジンと名を変えたマーリンエンジンの大量生産が開始され、自由英連邦政府の強い要望もあって、まずは「P-51 マスタング」への搭載が実施された。そして暴れ馬は、文字通り暴れ馬に生まれ変わる事となる。しかしこのタイプの登場はもう半年ほど後の事で、インドでの戦場には遂に間に合わなかった。ただし、ごく少数だが日本製エンジン(マーリンの日本型)を載せた現地改造の高性能型が飛んでいたという情報もある。

 この時期の連合軍で最強の戦闘機は、日本軍と一部の自由英連邦空軍が装備した「一式重戦闘機 飛燕二型」だった。自由英連邦空軍では「スワロー」と呼ばれ、非常に好評だった。
 このタイプは、マーリンの日本生産型エンジンの改良型である「ハ140」を搭載していた。「ハ140」は、川崎がアメリカのパッカード社との競争に触発されて工場を新設してまで量産開始したエンジンで、もとのマーリンエンジンに準じる性能を発揮した上で稼働率も比較的高かったので、飛燕も初期型とは別物のような機体とすら言われた。最高速度630km/hの快速と持ち前の運動性によって、イギリス本国空軍の「スピットファイアMk.V」、ドイツ空軍が小数だけ派遣した「BF-109G」、イタリア空軍のマーリン搭載型の「ファルゴーレ」と互角以上の戦いを行い、日本製の液冷戦闘機の代表として広く知られるようになる。この時期には「隼」もエンジンを強化した二型が前線に投入されていたが、「飛燕二型」の方がこの時期から日本製の日本陸軍機の主力として、少し後に登場する「疾風」と共に主力を占めるようになっていく。しかし日本陸軍が「大戦決戦機」として開発していた「疾風」の登場は、もう少し先の事だった。
 爆撃機は日米共に新型はあまりなかったが、自由英、日本軍双方にも大量に供与された「B-25 ミッチェル」の各種タイプが、最も多くを占めるようになる。日本陸軍航空隊は、日本海軍が開発した4発重爆撃機の「深山」を採用していたが、重爆撃機の出番があまりない上に国産の中型機(呑龍など)の性能がいまひとつで数が十分では無かったので、アメリカからの供与機が主力を占めるようになっていた。「A-20 ハボック」もかなりの数が配備されていたが、積載量以外は日本軍機よりも劣ると判断され、米軍と自由英軍しか装備していなかった。このため日本陸軍航空隊は、国産の「一式爆撃機 呑龍」などを「B-25」と併用した。
 また日本の空軍戦力の片翼を担う日本海軍航空隊は、セイロン島を中心に活動していたが、1943年春までにインド南部の西海岸に主に進出して、長い航続距離を利用して盛んにベンガル湾の枢軸軍艦船を攻撃していた。この中で「一式陸上攻撃機 深山」が真価を発揮していた。アメリカの「B-17・フライングフォートレス」に匹敵する巨体ながら、低空での運動性が非常に高く、その上雷撃が出来たからだ。通常の航空魚雷(800kg)なら最大で4本搭載でき、この頃の任務では爆弾槽内に2本搭載して、機銃弾を通常よりもかなり多く搭載していた。機銃も武式12.7mm機銃を10門〜14門搭載することで、ガンシップに準じた弾幕すら形成可能で、両軍からは「空の海賊」と呼ばれた。レーダー、逆探知レーダー、探照灯、さらに機体内に追加燃料タンクを搭載した哨戒型の「二式大艇」も数を増して、昼夜を問わずベンガル湾を飛び交って敵を探し、そして友軍を引き寄せていた。

 そしてインドへと至る海上交通路がズタズタにされつつあった枢軸側は、インドへの補給と緊急増援を重視するも、最大で80%が海の藻屑と消えていった。
 インドに展開する枢軸側の陸軍部隊は、まだ100万を越えていた。だが航空隊は、1個航空連隊とはいえドイツ空軍までが派遣されてきたが、稼働機数は既に500機を割り込んでいた。当然だが補充もままならず、部品も不足しているため、日々稼働数と稼働率の双方が低下していた。完全にじり貧だった。しかしまだ士気は高かった。連合軍を泥沼の消耗戦と長期戦に持ち込めれば、戦争全体として十分に「採算」が取れると考えられていたからだ。もはやインド自体は捨て石の戦場な事は理解されていたが、戦い方はまだあると考えられていた。また、インドで生産される物資は戦争に必要なものも少なくないため、一日でも長くインドが保持され、物資をヨーロッパに送り出す必要があった。
 1943年春のインド戦線とは、枢軸側にとってそのような戦場だった。

 そして連合軍だが、枢軸側の思惑どおり動く気はなかった。だからこそ、空軍の支援のもとで機甲部隊の総力を挙げて突進を行い、電撃的にインド・イギリス軍主力を大胆に包囲殲滅しようとしたのだ。連合軍の予定では、1ヶ月で大勢を決して夏までにインド全体での戦いにケリを付ける予定だった。何しろ連合軍は、ヨーロッパにまで攻め上がらねばならないのだから、インドにいつまでも足止めされているわけにはいかなかった。
 そうした連合軍の思惑もあって「雛祭り攻勢」は苛烈だった。
 双方1個航空師団(航空軍)の濃密な支援のもとで、軍団規模の機甲部隊が突進を開始した。
 ナーグプルから依然として快調な進撃を続ける南インド軍は、方面軍直轄の戦車第1師団が戦列に加わり、日本第5軍と共に突進した。カルカッタ周辺からは、「マレーの虎」と渾名された猛将山下大将のもと、東インド軍が敵に突破口を塞がせないよう4つの機甲挺団を作って、点ではなく線もしくは面による大規模な攻勢で強引に戦線を突破した。
 東インド軍では、戦車第2師団を擁する日本第7軍と、第1機甲師団を有するパットン将軍の米第3軍団が突破の先鋒を担った。自由英第2軍団を側面に従えた形のパットン将軍の軍団の進撃速度は凄まじく、上陸すぐの包囲戦での不甲斐なさを払拭するような快進撃を続けた。あまりの進撃速度に、補給が追いつかないほどだった。こうした情景は、一年ほど前のドイツ軍でも見られた光景だが、電撃戦の進撃速度の速さと脆弱性の双方の側面を見せる情景と言える。対する日本第7軍の百武晴吉将軍は通信、情報の専門家で、たまたま日本陸軍内の人事の関係で前線指揮官となった人物だったが、通信、情報を重視する姿勢は米英からも好評だった。
 日本軍の攻撃はパットン将軍の部隊のような派手さは無かったが、敵陣の突破時には重戦車を先頭に立てて、圧倒的な砲兵、航空援護で一気に二カ所以上で突破して、敵に対応する余裕を与えずに戦線を破壊する堅実さだった。しかし電撃戦には拙速が尊ばれる事は理解していたので、アメリカ軍と共同での包囲行動では足並みを乱さない迅速さも見せている。中戦車を中核とする戦車連隊には、マレー半島でも活躍した島田中佐が陣頭で指揮に当たっていた。
 そして連合軍の電撃戦で特徴的だったのが、ドイツ軍のように進撃が早すぎて補給が追いつかずにへたり込む事がほとんど見られなかった事だ。補給が追いつかないほどの進撃も幾つか見られたが、それはごく短時間の事で、敵の方が対応できない場合がほぼ全てだった。またアメリカ製の自動車、装甲車両は信頼性、耐久性、そして何より稼働率が高かった為、突き進んでも兵力がほとんど目減りしなかった。そして後方からは多数のトラックが兵士と補給物資を運んだ為、進撃の停滞という場面もほとんど見られなかった。パットン軍団は、例外中の例外だった。それほど進撃速度は早かったのだ。
 ただしインド戦線は、ロシア戦線と大きな違いがあった。水の問題だ。水は煮沸すれば幾らでも使用できるので、現地での補給不足に陥ることが無かった。またインド自体が大人口地帯なので、米、小麦などの食糧は正価で買い取ればよく、補給の手間も少なかった。それでも100万の大軍が一日に使用する物資の量は1万トンに達するが(※連合軍は機械化率、自動車化率が枢軸側より高く、物資の消費量も枢軸側より多い)、それも大きな問題では無かった。アメリカとインドの距離は地球の反対側と言えるほど遠いが、物資のかなりは日本から運び込んでいた。石油の一部は近場のインドネシアから供給した。そして日本でもアメリカでも、インドの主要港までは船でやって来る。そして連合軍の戦時標準戦の積載量は約1万トンあるので、1隻分で1日に必要な物資をインドまで運ぶことが出来る。海運での輸送コストは陸路の百分の一と言われるので、ロシア戦線での欧州枢軸軍と比較した場合の優位が分かるだろう。しかも主戦線のガンジス川は巨大河川なので、かなりのところまで中型の船で物資を運ぶことも出来た。加えてイギリスが張り巡らせた鉄道網は、この戦いで連合軍に益することが多かった。

 連合軍の春の攻勢は順調に伸展し、最初の一週間でガンジス方面の最前線のインド・イギリス軍20万が包囲された。南部方面は山間部も多いので包囲殲滅戦はほとんど出来なかったが、イギリス軍の遅滞防御戦術に対して、空襲により進撃を容易とさせ、さらには空挺部隊を何度か使用した。
 この時期にインドに空挺部隊を持ち込んでいたのは、日本の陸海軍だった。日本海軍(海軍陸戦隊)までが空挺隊を持っているのはセクショナリズムの弊害の最たる例だが、実質大隊規模とはいえ部隊が二つあるという事は、それはそれで便利だった。日本軍は陸海軍共に設立当初は「挺身団」と名付けていたが、アメリカ軍との共同作戦が進んだ1942年春に「空挺団」と名を変えて、「陸軍第1空挺団」、「海軍陸戦隊第1空挺団」とそれぞれ改名された。この空挺団は、敵の後ろ側に廻る作戦で都合5度インド南部の各地で使用され、それぞれ大きな戦果を挙げた。主に敵の退路を断つ形での友軍との挟み撃ちで、連合軍の各空軍部隊の援護の下で任務を完遂した。先に進撃路を確保した事もあった。
 またアメリカ軍からの貸与で輸送機、輸送用の重爆が多数配備出来たことで、人員規模を拡大出来ただけでなく武装や装備の強化、一度に投下する物資の増加が図られた、さらに降下後の補給も潤沢となったので設立当初からだと非常に強力な戦闘力を発揮できるようになっていた。
 さらに、イギリス軍が主力をガンジス川流域に配備していたので、南部では連合軍を押しとどめることが出来なかった。そればかりか、殆どの場合が立ち止まらせる事すら出来なかった。進撃速度は、南部でも電撃戦と言えた。そしてインド・イギリス軍は、ガンジス川方面で機甲部隊と空軍による派手な電撃戦をする連合軍に気を取られ、また山間部を簡単に突破できるとは考えていなかったので、南部戦線を疎かにしがちだった。こういう点にも、連合軍が空挺部隊を使用できる隙があった。

 ガンジス川方面での戦いが、インド・イギリス軍の敗走で中流地域のパトナに移った頃、ガンジス川上流地域の主要都市カーンプル南方に、連合軍が出現してしまう。ここは東と南から進撃する連合軍が握手する場所だった。
 これほど早い進撃をインド・イギリス軍は予測してなく、対応できる戦力が限られていた。比較的近くにいたドイツ・インド軍団は、半月ほど前の遊撃戦での消耗から少し後方に下がって再編成中で、カーンプルの攻防戦に間に合う状態では無かった。
 そして連合軍がカーンプルに現れた時点で、ガンジス川中流地域で戦う理由がほぼ無くなった。このままでは連合軍の意図どおり包囲される恐れも高いし、唯一の主要港湾である東部のカラチ港と総督府が疎開したデリーを守らなければならないので、そこに新たな戦線を引くより他無かったからだ。
 このため枢軸側というよりインド・イギリス軍は、連合軍の南インド軍が後方を遮断する前に何とか西方に逃れるための行動を早めた。当然だが簡単にはいかず、東から迫る東インド軍は南インド軍よりも強力で積極的なため、気を許すと戦線が突破されてしまい逃げるよりも前に撃破された。悪ければ包囲される部隊もあり、安易に後方に下がることも難しかった。そして東インド軍を押しとどめるためにも多くの戦力が必要なので、南インド軍の進撃を押しとどめるための戦力が不足した。予備の機甲部隊は実質的にドイツ・インド軍だけで、流石に彼らだけでは荷が重かった。しかもこの時点でのドイツ軍は少し後方に下がっていたので、連合軍の初動には間に合わなかった。
 しかもここで、連合軍は新たにインドに送り込んだ新鋭の軍団を南方戦線に投入した。投入されたのはアメリカ第3軍団で、第3師団、第9師団という事実上の機械化師団と豊富な支援部隊で構成された重武装・重編成の機械化部隊だった。同軍団は、独立歩兵大隊複数を持つ上に戦車大隊も軍団予備で持っていた。
 そしてアメリカ第3軍団は、友軍の脇を抜けるように北に向けて突進し、カーンプルの東方を抜けるとそのままヒマラヤ山脈の麓まで抵抗がないかのように前進して、インド・イギリス軍を東西で完全に分断する。そしてカーンプルの東方には、インド・イギリス軍の主力部隊が山下将軍率いる東インド軍と対峙していたので、同部隊は連合軍に事実上包囲された形となってしまう。
 包囲されたのは約60万の大部隊で、食糧以外の余剰供給能力のない場所での抵抗は非常に厳しいと考えらえた。しかも制空権は連合軍のものであり、ロシア戦線でドイツ軍が見せたような空輸による補給はほぼ不可能だった。それ以前に、空輸作戦に使えるほどの輸送機が無かった。枢軸側に僅かに残されたのはヒマラヤ山脈の山道を踏破する一部の山岳道路だが、車両はほとんど通れないので徒歩(馬)での補給と連絡を行うのが関の山だった。
 また、カーンプルから総督府が疎開したデリーまで約350キロほどしかなく、機甲部隊が大規模な突破戦闘を実施すれば、一週間もあれば到達できた。そしてカーンプルからデリーの間には約30万の兵力があったが、ドイツ軍を除いて警備部隊や後方支援部隊が殆どだった。予備兵力も若干あったが、ドイツ軍と併せても10万に届いていなかった。
 アメリカ第5軍団の軍団長だったブラッドレー将軍が、アメリカンフットボールの得点を意味するタッチダウンという言葉で、この作戦の成功を語ったと言われている。

 この時点で、インド・イギリス軍を主力とする在インドの欧州枢軸軍は、決戦と呼べる戦いをしないまま大勢を決せされた事になる。しかし戦いはまだこれからだと考えている人々はいた。連合軍の包囲網を食い破ってガンジス川中流域の主力部隊をデリー方面に脱出させることが出来れば、まだ戦いは仕切直せる可能性があったからだ。
 そして連合軍の包囲陣を突破する脱出作戦を行うのが、東側がドイツ・インド軍団、包囲された西側がイギリス第7機甲師団を中心とするイギリス第8軍だった。これ以上の戦力は、戦線を崩壊させる可能性があるので投入することが出来なかった。またこれ以外の機甲戦力も乏しかった。
 対する連合軍だが、当然枢軸側の好きにさせるつもりはなかった。航空隊は阻止攻撃に重点を置き、東インド軍は敵を押しつぶすために攻勢を強化し、敵に挟まれた形の南インド軍は平野部への戦力増強を急いで包囲陣の強化に務めた。そして南インド軍が敵を遮断するべき距離は平野部だけで総延長300キロに達するため、戦線は薄くならざるを得なかった。そこが枢軸側が付け入ることの出来るスキだった。
 枢軸側は、準備が不十分な中で連合軍の戦力が薄いヒマラヤ山脈に近い方から攻勢を開始する。
 まずは外側のドイツインド軍団が突進して、分厚くなりつつあった包囲の輪を薄くしていった。ここでは運動戦が主体で戦術的要素が大きく、こうした戦いはロンメル将軍の得意とするところだった。だが、ブラッドレー将軍が堅実にねばり強い戦い方で対応したので、この時点で枢軸側が包囲網を突き破るには至らなかった。そればかりか戦力と時間の浪費を強いられ、激しく動くドイツ軍への補給が十分出来ない状態すら出た。このため内側のイギリス第7機甲師団などは予定より早く行動せざるを得ず、各所の部隊も包囲網を突き破るための敵戦力の拘束や、脱出のための移動を開始する。特に東インド軍を突進させないため、残りの重砲弾をありったけ投げかけるような弾幕射撃が実施され、連合軍の前進を許さなかった。流石のパットン将軍、山下将軍も、次の動きを見つつも進めなかった。
 そして東西双方からの激しい攻撃に耐えきれなくなり、連合軍の南インド軍の包囲網の一部が崩れる。崩れたのはアメリカ第2軍団と自由英第1軍団の間で、他の戦線でも激しい戦闘が続いているため、連合軍には穴を塞ぐだけの十分な予備兵力が無かった。対する枢軸側は、穴の空いた箇所への攻勢を強めて回廊を広げ、出来るなら包囲網を崩壊に追い込んで、逆にヒマラヤ山脈側の連合軍(アメリカ第2軍団)を半包囲しようとした。しかし流石に逆包囲するだけの戦力はなく、また連合軍側が制空権を握っているため野心的な攻撃は叶わなかった。また半ば孤立した形のアメリカ第2軍団に対して、連合軍は空輸による補給を行い現状維持ばかりか反撃を行わせようとした。増援としても日本の空挺団が派遣され、枢軸側に付け入る隙を与えなかった。他の箇所でも連合軍の攻撃は激しさを増しており、南インド軍が南部から増援を送り込みつつあるので、包囲網が再び閉じられるのも時間の問題だった。

 包囲網が破られている間にインド・イギリス軍は出来る限り脱出を図ったが、鉄道が使えないので自動車、徒歩に頼らざるを得ず、重装備や補給物資を棄てての退却となった。包囲網の内側では燃料も不足したため、トラック、自動車への使用を優先して戦車、装甲車も破棄された。
 再び包囲の輪が閉じられるまでに約25万の連合軍がデリー方面への脱出に成功し、作戦の為に約5万の死傷者が出た。穴の空いた箇所では終盤にインドでは希に見るほどの血で血を争うほどの激戦が見られ、友軍の脱出を助けるため特にイギリス本国軍に多くの損害が出た。そうした中でもロンメル将軍は自らのDIKを巧みに機動させ、1時間でも多くの時間を稼ぎだした。そうした献身的な働きがあればこその25万人の脱出だった。枢軸側は奇跡の脱出作戦だと宣伝し、活躍したロンメル将軍を称えた。
 しかし一方では、30万以上の兵力は二度と逃げ出せない包囲の輪の中に取り残され、「獲物を逃した」猛将達の激しい攻撃にさらされ短期間での降伏を余儀なくされている。そしてそこからが、連合軍の真骨頂だった。
 狭い場所に追い込んだ包囲したインド部隊を後方から追いついてきた歩兵師団に任せ、東インド軍主力は南インド軍と合流し、枢軸側に戦線を立て直す余裕を与えず一気に進軍したのだ。しかもこの時点で、増援の日本第13軍団(戦車第3師団、第8師団、第9師団)の精鋭部隊が戦列に加入した。これに加えて従来の戦車師団(機甲師団)、機械化師団などを含めた多数の機械化部隊が、圧倒的となった空軍の支援の元でデリーに向けての電撃的な進軍を開始した。
 複数箇所で戦線を突破しにかかる連合軍相手に、既に機甲戦力の多くを失った欧州枢軸側に対処する術はなく、ロンメル将軍のドイツ軍部隊も僅かに戦線の火消しを行う以上のことは出来なかった。
 まさに物量差、補給能力の差がもたらした戦況であり、包囲網からの脱出作戦から僅か9日で、デリーは無血開城せざるを得なかった。
 デリーの陥落は、1943年3月23日。春分の日を過ぎたばかりの作戦開始から僅か三週間の出来事だった。

 それでもインド総督府はさらに東に向けた疎開を行い、取りあえずパキスタン地域北部のラホールに移った。ここからだと陸路でアフガニスタン、イラン(ペルシャ)経由でイラク方面に逃れることも可能だからだ。つまり海路での脱出を諦めたに等しかった。インド洋での戦いが始まってから約1年の間に沈められた枢軸側船舶の総量が400万トンに達すると言えば、少しは状況が分かるだろうか。
 また、インドにいて中東への移動(転進)を命じられた枢軸軍の各部隊も同様に陸路での撤退を選び、こちらは主に南よりのイラン(ペルシャ)のみを通るルートを使うべく移動していた。この中にはドイツインド軍団の姿もあり、未舗装の昔のままの道路を使っての辛く苦しい撤退を行うことになる。
 なお枢軸軍が選んだ道は、アレキサンダー大王の時代から使われ続けてきた道で、第二次世界大戦においても軍隊の移動に使われる形となったものだ。とはいえ未舗装なので車両の通行にはかなりの困難が伴う場所があり、枢軸側も当初から補給路としてすら使わなかったものだ。そして連合軍も、わざわざ苦労を強いられる追撃をしたくはないので、最悪でもパキスタン地域で決着を付けるべく足早に動いた。
 多用されたのは航空戦力で、退路を断つために空挺部隊も何度か使用された。そして機械化部隊が突進することで敵に追いつき、さらには追い越して、半ば敗残兵となっていたインド・イギリス軍を次々に捕捉、撃滅し、そして降伏に追い込んだ。そして兵士にインド兵が多いので、抵抗が難しいと分かるとすぐに降伏する事例が後を絶たなかった。しかもこの降伏にには、宗教問題も絡んだ。というのもインド主要部はヒンズー教徒が多く、デリー近辺にはターバンで有名なシーク教徒が多く、パキスタン地域にはイスラム教徒が多い。このため違う宗教地域に入る前に降伏を選ぶ現地インド兵が続出し、インド・イギリス軍は敵と戦う前の撤退の最中に自壊していった。

 1943年5月、インドでの戦いにはほぼ決着が付いた。
 最後まで逃げようとしたインド総督府は、アフガニスタン地域との境界となるペシャワール直前で空挺部隊に捕らえられ捕虜となった。この中には、無理矢理連れて行かれていたガンジーやネルーらインド国民会議派の有力者もおり、イギリスのインド統治の悪い面を際だたせる結果に終わった。



●フェイズ31「第二次世界大戦(25)」