●フェイズ31「第二次世界大戦(25)」

 インドでの戦いが終わろうとしている時期、各国では新規の大型艦の迎え入れが進んでいた。

 1943年6月、インド最後の要衝カラチが強襲上陸作戦とパットン将軍らのデリーから南下した機甲部隊による挟み撃ちで陥落した。これでインドでの戦いは、残敵掃討を残して終了した。ガンジス川中流域での戦い以後の戦況推移は、戦略、戦術双方で彼我の差が大きく開いたため非常に早かった。インドでの戦いは、結局の所植民地での戦いであり、補給路が無くなった枢軸側は、民心の離反もあって自壊の形で溶けるように消えていった。もちろんその後も、奥地に潜んだ小規模兵力による抵抗や小規模なゲリラ戦は行われたが、インドでの大勢は決していた。
 120万も溢れた連合軍は、半年後には連合軍側の自由インド軍を除けば10万程度にまで減少している。
 その後インドでは、主に宗教を原因とする内部での対立が激化していくが、それは戦争自体にはほとんど関係のない事だった。戦場としてのインドは、既に「終わった場所」となったのだ。

 そしてカラチが落ちた事で、連合軍の爆撃機はアラビア半島北東部を作戦行動圏内に入れたので、欧州枢軸側はペルシャ湾を通過する海上ルートがほぼ途絶されてしまう。実際6月には、カラチからペルシャ湾口のホルムズ海峡付近の欧州枢軸陣営の基地に対して、「深山」爆撃機を用いた大規模な爆撃が実施された。
 これはペルシャのアバダン油田の輸送ルートが一つ閉ざされただけでなく、ペルシャ湾からイラク、そしてイランからバクー油田方面への攻撃を行っていたイギリス本国軍の補給ルートの一つと閉ざすことにもなった。
 もちろん地中海からペルシャ湾岸まで陸路の鉄道を使うルートは活用出来るが、このルートは基本的に石油を運ぶことにしか使えない。なぜなら、当時は中立国のトルコ領内を通過するルートしかまともな鉄道が無かったからだ(※オスマン帝国時代の影響で、本格的な鉄道ではない軽便鉄道が敷設されている地域もある。)。トルコも一般貨物扱いできる石油ならともかく、軍隊、軍需物資の輸送は拒んでいた。戦局が徐々に連合軍有利に傾いているので尚更だった。それでも欧州枢軸側は、トルコにアメと鞭双方を見せて何とか鉄道の軍事輸送を認めさせようとしたが、トルコに戦争も辞さずの態度を見せられては、これ以上強い態度には出られなかった。戦争状態になって鉄道運行が滞れば、アバダン油田の石油輸送すら危機に瀕するからだ。既にベネズエラ油田からの輸送も危機的状況なので、これ以上の危険は犯せなかった。
 このため軍事面で地中海からペルシャ湾やコーカサス山脈方面へ向かうには、途中まで道路を使うしかなく、鉄道はイラクの一部でしか使えなかった。このため中東のイギリス軍を中心とする枢軸軍は、車両不足と深刻は補給不足に陥ってしまう。当然だが、イラク北部からのバクー方面、コーカサス方面の空襲は規模を大きく縮小し、イランからソ連国境を脅かしていた部隊は、引き揚げざるを得なかった。当時はロシア戦線も正念場だったが、補給のない軍隊には価値が無かったからだ。
 また、インドから陸路ペルシャ経由で苦難の撤退をしてきたイギリス本国軍、ドイツ・インド軍団に対しても、イラク領内での再編成もままならなかった。これを憂慮したのはイギリス以上にドイツの方で、ドイツは43年6月に急いでトラックと物資そしてドイツ軍用の装備を満載した船を中東に出した。イギリスも同じように船団を出したが、このドイツ、イギリスの中東への補給強化は、当然だが他の戦線にも影響を与えた。
 一番影響があったのはロシア戦線で、ただでさえ十分な数ではない輸送トラックが大きく減少してしまう。また期待の重戦車大隊の一つが、ヒトラー総統の鶴の一声で中東に回されてしまい、他にもIV号戦車の新型(48口径75mm砲装備型各種(G型またH型の初期型))も、かなりの数が中東に優先的に回された。インドで奮闘してドイツの存在感を示したロンメル将軍(※インドでの功績を評価され上級大将に昇進)には、いち早く補給と補充が必要だと判断されたからだ。現実問題として、イランの油田を守るためにも、兵力の増強は必要だった。イギリス本国も、かなりの努力を中東に注いでいる。危険を承知で、紅海からアラビア半島沿岸を通る海路も使われ、多大な犠牲を出しつつ補給が行われた。

 なお、インドを巡る攻防戦では、1942年春から約1年の間に損害を省みず枢軸側の船舶が行き交ったため、インド洋だけで毎月平均40万トン(月間の最大で53万トン)、合計約400万トンの輸送船舶が失われた。
 しかも失われた多くが、ヨーロッパではイギリス以外があまり保有していない外航用の中型以上の貨物船で、イギリスが多数建造した《エンパイアー級》の戦時標準船(※アメリカの《リバティー級》、日本の「A型」と同規模)も多数犠牲となった。また、船団護衛のために出撃を繰り返した駆逐艦など護衛艦艇の損害も酷く、駆逐艦だけで40隻以上が失われた。さらに連合軍が空襲、潜水艦と併用して水上艦艇を艦隊規模で運用して大規模な通商破壊戦を行うため、小規模から中規模の水上戦が発生した。加えて、双方の空襲による艦艇の損害も大きく上積みされた。
 同時期のカリブ海は巡洋艦など高速大型艦の墓場、アイアン・ボトム・シー(鉄底海)とも言われたが、アラビア海は駆逐艦など護衛艦艇の墓場だったのだ。主にイギリスが受けた巡洋艦の損害も小さくなく、4隻が沈みその倍の数が深い損傷を受けた。連合軍も巡洋艦の損害は出たが損失はなく、しかもアッズやセイロン島など進出した大規模な修理・整備部隊(大型工作艦や浮きドックなど)で迅速に修理するため、戦力の補充と維持という点で連合軍が圧倒的に優位にあった。そして数の上で枢軸側は当初から数の上で不利なのに、時間が経つほど不利は大きくなっていった。

 一連の戦闘ではイタリア海軍も何度か小規模、中規模の海戦を展開したが、イギリス本国海軍同様に損害を受けると、大型艦の損害を恐れて紅海入り口のアデンに引き篭もり状態になってしまう。それでもアデンに高速戦艦多数がいれば連合軍は安易に侵攻できないので、艦隊保全にはある程度意味があった。アデンなどには、イタリア空軍もかなり増強された。
 また1943年春には、イタリア海軍待望の《ヴィットリオ・ヴェネト級》戦艦3番艦の《インペロ》が戦列に加わった。外見がイギリス艦のようになるまで徹底改装された豪華客船からの改装空母《アクィラ》も、ようやく完成を見て地中海での訓練に入っていた。同様の改装工事に変更した空母《スパルヴィエロ》も、急ぎ大規模な改装中だった。
 大型艦以外だと、小型の巡洋艦ながら防空能力も期待できる《カピターニ・ロマーニ級》の大量建造を急いでいた。1941年秋頃から巡洋艦の大量喪失が、質より量の戦略をイタリア海軍に採らせたためだ。駆逐艦についても、イタリア海軍らしい瀟洒なデザインの《ソルダティ級》は計画半ばで中断され、小型の対潜型コルベット(《ガッビアーノ級》)の建造に変更された。ただしコルベットは地中海運用が前提の艦艇のため、イタリア海軍が何を考えていたのかが良く分かる例と言えるだろう。
 そしてイタリア海軍が新規戦力を迎え入れたように、1942年秋頃から、列強各国は大型の新鋭艦を多数就役させつつあった。
 これには理由があり、戦争直前の1938年、1939年に建造計画がスタートした場合が多いからで、加えて1941年の改装計画が実を結んだからでもあった。
 枢軸側から順に見ていこう。

 まずは枢軸の盟主ドイツだが、ドイツ海軍の新鋭大型艦は航空母艦《グラーフ・ツェペリン》がようやく完成を見たばかりだった。
 1936年の年末に起工された同艦は、就役まで7年の歳月をかけたように、試行錯誤と設計変更の連続だった。そもそも当時のドイツに航空母艦の建造ノウハウが全くないので、イギリスの《フェーリアス》を参考にして、他国から得た僅かなスパイ情報と各国が保有する艦艇の外観から推測した設計、建造が進められた。関係の薄い日本にまで、有償技術供与の打診や協力要請があったりもした。そしてどこからの支援も受けられなかった。当然というべきか、そのままではまともな空母になるわけがなかった。空母は現代においても建造のための特殊な技術と経験が必要とされる特殊な艦艇だからだ。
 しかもドイツ海軍は、同艦を一種の通商破壊艦として使用することも考えていたので、単艦で作戦行動して遭遇戦があっても対応が出来るように、空母に多数の火砲を装備しようとした。
 基準排水量が2万トンを越えながら搭載機数が少ないのは、初期の火砲を多数搭載する設計を引きずっている為だ。また同艦は、イギリスを倣って飛行甲板にある程度装甲を施すことで、さらに搭載能力を減らした。
 また初期設計では、火薬を連続して爆発させる方式の危険なカタパルト、構造が複雑すぎるエレベーターなど、常識を疑うような艤装予定の装備もかなり見られた。
 同艦にとって幸いだったのは、1940年7月にイギリス本国との戦争が終わったことだった。事実上降伏したイギリスから、多数の賠償艦と関連する技術が得られたからだ。しかもイギリスは、アメリカとの戦争が本格化するとドイツに対する全面的な協力をドイツに打診し、同艦の仕様は大幅にイギリス方式を導入することとなる。火砲を両用砲と機銃のみとし、カタパルト、エレベーター、着艦装置などをイギリスから輸入するなど装備面でも大きな変更が見られた。
 とはいえ簡単に変更できたわけではなく、まずは頓珍漢な部分が多かった設計図をまともな形に書き換え、資材、装備を揃えながらの建造工事となった。
 その後も、ソ連戦勃発に伴う建造優先度低下などの困難を乗り越えて、ようやく1943年2月に就役を見た。
 完成した姿は、ドイツとイギリスの折衷的なイメージが強く、ドイツの独自色はかなり薄れていた。しかし空母としての基本的なシステムはイギリスのものをそのまま取り入れた為、完成度は依然として過剰な武装を差し引いても及第点となった(※接近戦の可能性があるとして、副砲は全廃されなかった。)。
 そして《グラーフ・ツェペリン》に続く重巡洋艦からの改装空母《ザイトリッツ》など、その後の空母の雛形になったほどだ。
 とはいえドイツ海軍にとって当面は唯一の航空母艦でしかなく、しかも北大西洋での制海権が怪しくなったので北海、バルト海での訓練以上の行動はしばらく取ることは無かった。
 他に空母は客船からの改装が2隻進んでおり、44年半ばの改装完了が予定されていた。加えて1940年に計画された海軍計画の2隻の大型空母は、日本、アメリカへの対抗という名目で建造が押し進められており、早ければ44年内の完成を目指していたが、ソ連との戦争のため完成の遅れがこの頃は懸念されていた。

 空母以外だと、巡洋戦艦《シャルンホルスト》《グナイゼナウ》の大規模近代改装が終了していた。船体を延長して主砲を55口径28cm3連装砲塔から47口径38cm連装砲塔に変更するのが主な改装点で、その他では副砲を減らして対空装備の充実が図られていた。排水量も2000トン以上増えたため、最高速力は約1ノット低下した。しかし防御力はほぼそのままため、名実共に巡洋戦艦となったと言えるだろう。
 これ以外の艦は、アメリカ、日本に対抗するための1940年度計画で、16インチ砲を搭載する大型戦艦2隻を中心として巡洋戦艦3隻、空母2隻などが計画され、この頃だと大型戦艦以外の船体が完成した段階だった。
 大型戦艦は計画時は「H級」と呼ばれていた《フリードリヒ・デア・グロッセ級》戦艦で、基準排水量5万2600トン、47口径40.6cm砲連装4基8門を主武装とする。基本的には《ビスマルク級》の拡大改良型だが、主機関がポケット戦艦と同じオール・ディーゼルという特徴を持っていた。非常に長い航続距離を誇り、ドイツ海軍が本艦に何を期待していたのかを想像する事ができる。戦艦としての火力は、発射速度の速さもあってアメリカの《アイオワ級》に匹敵する程だが、防御力には建造中から疑問も多かった。ヴォータン鋼と言われる性能の高い装甲を使用しているので重防御だと言われ、装甲配置は欧州での戦闘距離に合致したものだったが、日米の海軍関係者は首を傾げる事が多い。
 巡洋戦艦は、建造するか悩まれたが、建造にかかる時間を考慮した結果、建造が決まった。能力、性能は改装後の《シャルンホルスト級》とほぼ同じだが、各所が簡易化されて面倒な部分も省略された戦時建造型と言える設計になっている。
 新型空母は、イギリスから図面を貰い受けた上で《グラーフ・ツェペリン》の経験を踏まえて急ぎ設計されたもので、見た目には《グラーフ・ツェペリン》を一回り大きくしたイメージだが、内部は空母としての完成度を高めているため、日米の空母に準じる能力を有している。艦名は《アトランティカ》と《パシフィカ》とされ、ドイツが世界の海に出る意志を見せたが、これは多くの面で宣伝要素が強かった。空に関連のある人名が当てられなかったのは、空軍がゲーリングの名を強引に押し通そうとした為で、海軍側の反撃でこの名に落ち着いたと言われている。
 そしてソ連との戦いに資源を取られがちなため建造は遅れ気味だったが、1942年夏から秋にかけての大敗以後、「イギリスを助ける」という政治目的の総統命令によって最優先での建造促進が命令され、3交代24時間体制での建造が進められていた。だが戦艦は基準排水量5万トン級、巡洋戦艦、空母は共に3万トン級の巨体のため、近年の建造経験が豊富とは言えないドイツでは、就役には1944年を待たねばならなかった。そして《シャルンホルスト級》を軽装甲にして簡易化したような内容の巡洋戦艦については、他の艦の建造を急ぐため43年秋の時点で建造計画が凍結され、建造途中だった船体や完成済みだった各種装備など他の艦に回されたり、解体されて他の兵器や弾薬となった。
 それ以外に関しては、巡洋艦以下の水上艦艇の建造が遅れがちな上に数も少なかった。装甲艦、重巡洋艦については、資材と建造施設の関係もあって1隻も計画すらされていない。潜水艦の建造は別格の扱いを受けて多数建造されていたが、それも連合軍の反撃による大量の消耗の前に虚しい状況になりつつあった。しかも1942年内までは、戦場が遠方のカリブ海やアメリカ沿岸なので、建造に手間のかかる大型潜水艦の整備を中心としていた為、一度消耗してしまうと回復が難しかった。そして1943年に入ってからは、中型や小型潜水艦の建造に力を入れるようになった。

 フランスは、1番艦が亡命した《リシュリュー級》戦艦の《ジャン・バール》《クレマンソー》の建造が進んでいたが、1943年前半ではまだ就役していなかった。
 空母も、イギリスから技術を導入して《ジョッフル》《ペインヴェ》の建造が進んでいた。《ジョッフル級》空母は、計画当初は全長200メートル、基準排水量1万8000トン、最高速力33ノット、艦載機数40機だったが、イギリスからの技術導入により大幅に強化された。防御力を高めるために飛行甲板への装甲を厚めにし、飛行甲板自体も前後に伸ばして艦首をエンクローズ(閉鎖型)として、全長を越える210メートルとなった。しかし重心低下のためバルジを付けることとなり、基準排水量は2万トンを越えて最高速力も31ノットに低下した。また火砲は当初予定の6インチ砲を止めて、当初から両用砲として機銃の装備も非常に強化される事となった。
 《リシュリュー級》戦艦4番艦の《ガスコーニュ》は、1941年に急ぎ建造が開始されたが同艦は船体がほぼ完成した段階で、カリブの戦いを踏まえて飛行甲板に装甲を施した重防御空母としての設計変更がこの時期急ピッチで行われていた。
 そしてその後計画された《リシュリュー級》拡大型とも呼べる4万5000トン級戦艦は、建造施設のスケジュール、資材不足などのためついに計画以上に発展することは無かった。
 巡洋艦などの建造についてもドイツよりも熱心で、《ド・グラース級》の建造再開及び改良型の追加建造が進められ、その他連合軍に対向できる優秀艦艇の整備を進めていた。しかし、数が必要となる対潜水艦用護衛艦艇など戦時艦艇の建造は低調なままだった。だがフランスの場合は、建造力などの問題から多数整備をするにも限界があるので、大型艦、高性能艦に特化したのも仕方のない一面もあった。

 イギリス本国では、1937年、38年の計画だと合わせて戦艦5隻、装甲空母6隻を中心とする計画され、このうち装甲空母2隻が1944年就役予定の他は全て就役していた(※既に戦没艦も多数出ていた)。そして1940年秋の戦略状況の激変に伴い、大型戦艦4隻、大型空母4隻の建造を中心とした非常に大規模な艦隊整備計画が開始された。
 新型の16インチ砲を搭載する4万トン級の《ライオン級》戦艦4隻、3万6000トン級の《オーディシャス級》装甲空母4隻、1万5000トン級の《コロッサス級》中型空母3隻、大型軽巡洋艦6隻が中心だったが、他の枢軸各国との大きな違いは小型の護衛艦艇の多さだった。また、日米同様の商船改造の小型低速空母(護衛空母)多数の整備も盛り込まれており、イギリスが海上交通路防衛を重視している事を見て取ることが出来る。しかし43年秋以後は、戦況の悪化で航路の多くを失ったので、大型艦、高性能艦の建造重視へと転換している。海上護衛を最大目的としていたイギリス海軍が、何百年ぶりかで艦隊決戦を目的とした海軍へと変化した瞬間だった。この一事だけでも、連合軍の戦略的優位が分かるだろう。
 なお、1942年に大規模な建造計画が持ち上がったが、カリブでの激戦によって計画は大幅な変更が加えられて、予定していた6万トン級の巨大戦艦(※18インチ砲搭載と言われるが詳細不明)と基礎計画ができていた4万トン級の大型空母を中心とした雄大な計画は、現行の計画の達成促進に変更された。
 そして欧州近海での制海権確保と沿岸防衛を主軸に据えた為、小型の潜水艦など沿岸部の防衛に適した艦艇の整備に力が入れられていた。
 またこの時期で注目したいのは、大規模な近代改装を行った巡洋戦艦《フッド》だった。機関の換装は工期の関係で諦めたが、水平甲板の張り替えと配置変更による大幅増厚、主砲の仰角の増加、主砲塔の装甲強化、両用砲を含む対空火器の全面刷新、艦橋構造物の刷新、電子装備の充実、これら重量増加を緩和するバルジの装着など多岐に渡り、新造戦艦とよく似た外観に生まれ変わっていた。この結果排水量は一気に5000トン以上増えて、最高速力も29.5ノットにまで低下した。それでももとが巡洋戦艦なので、防御の強化には限界があった。

 一方連合軍だが、艦艇の新規建造能力を持つのは実質的に日本とアメリカだけだった。とはいえアメリカは、世界の半分以上と言われるほどの造船能力を持つ工業大国であり、大型艦が建造できる船台だけで16箇所、重巡洋艦などを建造できる造船船台も11箇所を保有し、さらに新たな船台を作って、多数という表現すら不足する艦艇の建造を押し進めていた。軽巡洋艦、駆逐艦などの建造可能数に至っては、目を疑うレベルだった。しかも建造速度も、他国の追随を許さないほど速かった。
 日本はアメリカよりも劣るが、造船能力では1930年代半ばにはイギリスを追い抜いて世界第二位で、平時だった1937年〜39年は世界一の建造量すら誇っていた。近代的な施設も次々と誕生し、建造技術も大きく向上した。
 1930年代は日本の造船業の躍進期でもあり、北太平洋航路の活発化、日米交流の親密化が造船量を大きく伸ばす要因となっていた。そして造船力は鉄鋼生産力を伸ばす大きな要因となり、経済全体も大きく拡大したため軍事予算も大きくなった。そして経済の拡大、利権の拡大に伴って海軍のさらなる拡充、本格的な概要海軍の建設を政府も理解するようになり、海軍工廠の増強、戦時に軍艦が建造可能な建造施設の増加に多くの努力を割いた。
 1920年代までの日本は、大型艦建造施設は4箇所しか無かった。大型軽巡洋艦以上の艦艇のほぼ全てがこの4箇所、つまり呉海軍工廠、横須賀海軍工廠、長崎三菱造船所、神戸川崎造船所の大型艦建造施設で建造された。だが1930年代になると、主にタンカーや大型貨物船を作る民間の尾道船台、今治船渠が建設され、特に今治船渠では海軍呉工廠の全面的な協力のもとで電気溶接によるドック建造、ブロック工法の研究も行われた。
 そして1937年に海軍休日が終わると、横須賀では整備、修理用を兼ねた巨大な建造ドックの建設が始まった。民間でも、三菱が長崎に、川崎が泉州にそれぞれ巨大な建造用ドックの建設を開始した。民間施設は日本経済の拡大に応じたものだったが、全て有事を見据えたものでもあった。このため海軍予算から多くの助成金も出されていた。その他、戦時建造計画を前にして、佐世保工廠の機能を強化して中型艦用建造ドックが建設され、辺境とすら言える大湊にも中型艦の建造も可能なドック(主に入渠用)が作られた。さらに5箇所の民間造船所(大阪鉄工所、玉造船所、浦賀船渠、播磨造船、鶴見製鉄造船)を有事の際には重巡洋艦や中型空母まで建造可能なように能力を強化した。これらを合計すると、最大で大型艦9隻、中型艦7隻が同時建造可能だった。

 実際の建造だが、まずは数の多いアメリカを見ておこう。
 アメリカはヴィンソン上院議員が中心となった「ヴィンソン・トランメル法」に従い、1937年から海軍拡張を開始した。同計画は第一次から第三次まで矢継ぎ早に行われ、多くの艦艇が建造された。第二次世界大戦で活躍した大型艦艇のほとんども、この計画内の艦艇が占めている。
 第一次から第三次の間に、戦艦は《ノースカロライナ級》2隻、《サウスダコタ級》4隻、《アイオワ級》4隻の合計10隻も計画されている。空母は《ホーネット》《ワスプ》と《エセックス級》4隻で戦艦に比べると少なく、アメリカ海軍の戦艦重視な姿勢を見ることが出来る。
 しかしこれで終わりではなく、ここからがアメリカの真骨頂だった。
 1940年夏に第二次世界大戦へ参戦すると、ヨーロッパ全てを敵とした新規計画の策定が行われ、1940年頃から錬られていたスターク案を拡大した「両洋艦隊法」が1941年2月に可決される(※世界の両側からヨーロッパを押しつぶす雄大な戦略を立てている)。
 両洋艦隊法の素案の概要は、6万トン級の《モンタナ級》戦艦5隻、《アイオワ級》戦艦2隻、《エセックス級》航空母艦7隻、駆逐艦115隻、潜水艦43隻など合計135万トン(7割増)の艦艇建造と、15,000機の航空機製造となる。
 しかも正式に通過した計画はさらに拡大され、《エセックス級》航空母艦の3隻追加に始まり、護衛空母、駆逐艦など無数といえる艦艇の建造計画が決められた。さらに1942年にも、他国を突き放すような巨大な戦時計画が動きだしていた。
 そして巡洋艦以下の陣容が、もはや異常と言えるほどの規模だった。戦争中の追加計画を含めると他国に供与した分を含めて、駆逐艦の建造数は護衛駆逐艦を含めて1000隻を越えていた。《ボルチモア級》などの重巡洋艦も24隻、《アトランタ級》《クリーブランド級》《ファーゴ級》などの軽巡洋艦の計画総数は70隻を越えている。潜水艦は、計画だけなら大型の《ガトー級》とその改良型ばかりながら300隻を数えた。
 そしてヨーロッパに押し渡るために必要と考えられた空母については、1942年度計画で4万5000トン級の《ノース・アトランティック級》大型装甲空母が一度に8隻も発注されている。ネームシップの《ノース・アトランティック》は第二次世界大戦に入ってからの戦場名ではあるが、「北大西洋」というストレートすぎる名にアメリカの強い意志を見て取ることができる。ただし同級の建造のため、41年計画の《アイオワ級》戦艦2隻の建造を取りやめている。そして調整の結果、1944年頃には《モンタナ級》とその改良型の船体を使用している《ノース・アトランティック級》が最大で13隻も大型建造施設を占有することとなった。この状態は、流石のアメリカ人も驚いたと言われる。
 さらに、航路防衛や航空機輸送用のため護衛空母も130隻以上が計画・建造され、このうち4分の1が日本、自由イギリスなどに貸与された。
 全ての数字が他国と桁の違うものであり、アメリカという大国の国力を見せつける一例と言えるだろう。

 アメリカの異常さに対して、日本はまだ常識的だった。
 先にも書いたように、1940年頃からの日本では重巡洋艦以上なら最大で16隻の建造が可能となっていた。
 そして建造施設が向上した造船能力を踏まえて、1939年以後の軍備計画が策定された。
 日本海軍の軍備計画のうち1939年のものは、1938年のドイツによるズデーデン併合によって加速したものだった。本来は1940年に開始予定の計画だったが、この時点で戦時計画と認識されたため莫大な予算と雄大な計画に大幅改訂され、しかも前倒しで実施された。そして1940年にもさらに大規模な海軍拡張計画が策定され、主にこの2つが第二次世界大戦での日本海軍の海軍拡張計画になる。1942年などにもさらなる計画は立てられたが、多くの大型艦艇は戦争には間に合わなかったからだ。
 1939年の計画は、新型の大型戦艦となる《大和型》戦艦2隻、《改高雄型》巡洋戦艦2隻、超甲種巡洋艦2隻、《大鳳型》航空母艦(装甲空母)2隻を中核としていた。他には《改秋月型》直衛艦(防空巡洋艦)8隻、《夕雲型》艦隊型駆逐艦32隻などとなる。その他、潜水艦、護衛艦艇、補助艦船も多数計画された。そして1940年には、《改大鳳型》航空母艦(装甲空母)4隻、《大鷹型》(特設)航空母艦8隻などさらに大規模な計画となった。しかし1940年の計画は、主に消耗が予測された艦艇、しかもイギリスを敵として策定されており、量産性に優れた《改夕雲型》駆逐艦や、規格を統一した潜水艦など小型量産艦艇が目立つ内容だった。

 そして1941年夏になると、戦場での教訓を踏まえて計画の一部が改訂された。
 超甲種巡洋艦として建造が進んで進水式まで終わっていた《天城》《葛城》を、時代の変化に対応するため装甲空母に改装する事になったのだ。
 もとの《天城型》超甲種巡洋艦は、全長240メートル、基準排水量3万2000トンで建造されていた。巡洋艦という艦種ながら船体構造は戦艦とほぼ同じで、新開発の50口径30.5cm砲を3連装3基9門搭載する少し小型の巡洋戦艦だった。この超巡洋艦こそが、遂に条約型重巡洋艦を計画しなかった日本海軍がたどり着いた「理想の重巡洋艦」だった(※《妙高型》ですら計画時は偵察巡洋艦だ)。一部で言われる、ドイツの《シャルンホルスト級》、フランスの《ダンケルク級》への対抗という要素は、本クラスの任務のごく一部に過ぎない。しかし《高雄型》と任務内容が似ている事、彼我の戦力差、空母が重要性を増したことから計画を変更して、《翔鶴型》に準じた装甲空母に計画変更する事となった。
 新たな計画では船体を20メートルほど延長して、さらにバルジを装着し、平たくした超甲巡の甲板を半開放型の単段ながら広い格納庫にし、飛行甲板を可能な限り装甲で鎧うという内容になる。全長は、エンクローズと艦尾への飛行甲板の延長で270メートル近くになり、バルジの装着もあって飛行甲板の幅も《大鳳型》ほどではないが《翔鶴型》より広く取った。外観は《大鳳型》と《翔鶴型》の間ぐらいで、格納庫の天井を高くしたことから搭載機数は意外に多く、露天搭載を含めて80機以上を予定した。
 そして本命の空母となる《大鳳型》航空母艦だが、基本的には《翔鶴型》航空母艦の拡大改良型だった。基準排水量3万6000トンと一回り以上大きいが、全長は8メートルしか違わず(265メートル)艦幅が大きく違っていた。そのお陰で広い飛行甲板と格納庫が確保できており、多くの機体が搭載可能となっていた。また2段だった格納庫の天井も高められているので、今後出現するであろう大型機にも対応可能となっていた。搭載機数は、露天搭載を含めて初期計画で約100機。実際は、航空隊の定数もあって80機程度を運用する事が多かったが、逆に露天搭載を限界まで行うと当時の新型機でも100機以上搭載できた。
 艦名は1番艦は《大鳳》とされたが、2番艦の命名で一悶着あった。日本海軍では大型艦の命名は天皇が決めることになっており、基本的には本命と二番手の名前を見せて選んでもらう形が取られていた。そして2番艦として《海鳳》と《雲龍》が候補に挙げられ、普通なら《海鳳》が選ばれる筈だった。しかし天皇に聞く直前になって、《大鳳》と《海鳳》がアルファベットにすると「T」と「K」の一文字が違うだけだと気づいた。このため現場で混乱しやすいのではという事になったが、名前はすぐに決めなければならなかった。名前を決める時間が既に迫っていたからだ。候補としては《鳳》がついて吉祥に関わればよいのだが、すでに《鳳》の名の付いた空母は複数在るため要するに「ネタ切れ」だった。候補として《天鳳》《神鳳》《雄鳳》などが挙げられたが、《天鳳》は遊技(麻雀)に出てくるとして却下されるなど陳腐な理由で意見がまとまらなかった。《雲龍》の対抗馬なのだから《白鳳》でもよいのではないか、という意見まで出る始末だった。
 結局候補名は《神鳳》とされ、昭和天皇は1番艦と同じ文字を持つ《神鳳》を選んだ。

 《改高雄型》巡洋戦艦の《鳥海》《摩耶》は、防御構造の変更、機関の強化、発電力の強化など細々した改良に加えて、副砲を全廃して載せられる限りの防空兵器を満載した。排水量も1000トンほど増えて、3万8200トンとなった。防空戦艦とも言われ、艦の規模が条約型戦艦ながらワンランク上の大型戦艦に匹敵する防空能力を有していた。もとから速力も高く航海性能にも優れているため、空母を中心とする新時代の海軍に相応しい戦艦と言われることが多い。
 そして日本海軍の本命中の本命が、《大和型》戦艦の《大和》と《武蔵》だった。
 軍縮条約に従い、戦艦の基準排水量は3万5000トンに制限されていた。だがドイツの膨張によって平和は崩れた為、事実上フリーとなる。だが1938年秋から設計していては、1939年の建造計画には到底間に合わない。実際日本海軍は、《高雄型》巡洋戦艦の設計の最終段階ぐらいから《大和型》の建造計画を開始している。これは軍縮条約違反になりかねないが、日本海軍は「設計研究」とした。他国でも似たようなことが行われているので特に問題はなく、日本海軍では4万5000トン級の戦艦の設計もダミーで進めることで、「研究」に真実性を持たせていた。
 そして軍縮条約が御破産になった新規計画で、4万5000トン級の戦艦と偽った建造計画を開始する。
 第一次世界大戦以後の日本海軍の性癖として、「あらゆる状況に対応できる艦艇と戦術を準備する」というものがあり(※「準備万端・八方美人」と陰口を言われた)、その戦略の行き着いた先こそが、自らの限界に挑んだ巨大戦艦だった。巨大戦艦の仮想敵は実質的に存在せず、敢えて言うなら今後予測される「全ての敵」に対抗できる艦を求めた末でたどり着いた究極の姿だった。
 つまり《大和型》戦艦は、対抗すべき仮想敵が実質的に存在しないという、兵器としては希有な存在という事になる。
 全長268メートル、全幅38.9メートル、基準排水量6万8000トン。この巨体に45口径46cm砲を3連装で3基9門を主武装として搭載する。ボイラーは可能な限り高温高圧缶が選ばれ、機関はタービンのみで18万馬力。最高速力はカタログスペック上では28.5ノットとされたが、海面状態が良く少し軽い状態で、さらに機関のリミッターを解除した場合(※最高20万3000馬力を記録)は30ノットを超えることも可能だった。こうした性能を越える能力は他の戦艦も有している場合があり、アメリカの《アイオワ級》戦艦は21万2000馬力の大出力で最高速力33ノットとされるが、その気になれば35ノットを超えることも可能だったほどだ。
 話しを戻すが、《大和型》は空前の巨体を持つが、世界最強の巨砲を有することを考えるとコンパクトにまとめられている。これは日本の《高雄型》、アメリカの《サウスダコタ型》などにも見られた集中防御方式と呼ばれる装甲と配置によるもので、その完成型と呼べるものこそが《大和型》だった。3連装3基9門という数字も、最も合理的だから各国でも選ばれているのだ。
 主砲の威力は折り紙付きで、全ての距離で安定した破壊力が発揮できる事もあって、世界最強の座は揺るがない。発射速度も発砲初期なら30秒に1回可能で、アメリカの新型16インチ砲にひけは取らないほどだった。戦艦の優劣に大きく影響する照準性能に関しても、光学装置は世界最高水準で、《大和》就役頃には日本の電子技術も世界標準に達したため他国に対して遜色も無かった。
 主砲以外の装備だと、副砲を搭載するかどうかで設計段階から揉めた。だが、主力となる戦艦は防空艦ではなく多くの事態に対応できる装備を搭載するべきだという意見が通り、大型軽巡洋艦に搭載されているもものの発展型の60口径15.5cm3連装砲塔を搭載した。同砲は、従来のものより仰角を高めて砲塔の旋回速度も動力を強化して早めているため、対空砲としての能力が大きく向上している。装填装置も改良され、発射速度も若干速くなっている(分発5発→分発6〜7発)。しかし、両用砲といえるまでの性能はなかった。だが、VT信管が導入されると効果を発揮するようになり、特にゼロ距離射撃は威力が大きい分だけ敵から恐れられた。しかし高価になり、構造もより複雑になったため、本クラスのみの採用となった。
 対空装備については、標準的とされる連装8基16門の96式12.7cm両用砲を搭載しているし、多数の機関砲、機銃を搭載したので、射撃統制装置、レーダーによる制御によって高い防空能力を有していた。
 攻撃力だけでなく46センチ砲に対応した防御力も破格で、舷側のバイタルパートで20度傾斜させた400mmの分厚さを誇り、防御甲板は主要部で200mm、舷側近くで少し傾斜させた220mm、さらに爆撃機対策で主甲板には50mmの装甲が施されていた。水中防御も充実しており、バイタルパートだと舷側装甲を薄くしつつ艦の下まで到達して魚雷防御とされ、艦底は基本3重にされていた(弾薬庫直下は4重)。さらに浸水対策として緻密な水密区画が設置されており、ハッチも減らされたため人の移動に支障が出ると言われたほどだった。煙突部分にも特殊な防御構造が取り入れられており、防御対策は考え得る限り万全だった。しかも完成までに、アメリカ海軍から導入したダメージ・コントロールに配慮した配置や装備が施された。
 航続距離は16ノットで7200海里な事を少ないと非難する声もあるが、航続距離としては標準的だし、味方の拠点から遠く離れることは少ないと想定されていたので特に問題でも無かった。しかも想定より燃費の良い機関だったため、実際の航続距離は9000海里近くあった。
 この時代から最も重要となった電子装備についても、就役当初から日本での最先端が搭載され、マストの形状も電探を搭載することを最初から考慮して立てられていた。電探用の電力に付いても配慮され、今までにない大馬力発電用ディーゼルが設置された。

 1番艦《大和》の竣工は1943年6月。8月には訓練も終えて実戦配備された。2番艦《武蔵》は、起工日の関係と船体のブロック工法をあまり行わなかった事から竣工が遅れたが、それでも同年12月に竣工して年内に実戦配備につき、《大和》と共に再編成された日本海軍聯合艦隊の第一戦隊を編成した。
 竣工を祝う式典では、アメリカ、自由イギリスなどの政府、軍関係者も来賓として呼ばれ、戦時なので質素ながらも新たな海の覇王の誕生を祝うに相応しい式典となった。ただし《大和型》戦艦の詳しい情報は敵に対して秘密とされたため、戦争中に枢軸側が詳細を知ることは無かった。特に主砲口径については日本海軍内ですら秘密にされ続けたため、日本海軍内でも誤解している者が多かった程だった(※50口径41cm砲と思われていた。)。しかしアメリカ海軍内では静かな衝撃となり、建造が進められていた《モンタナ級》戦艦の後期3隻については工期の遅れを受け入れて新たに開発した48口径18インチ砲を搭載するように設計変更をしている。
 なお、《大和》または《武蔵》が、新たに聯合艦隊旗艦の任務に就くことは無かった。なぜなら、1942年4月から聯合艦隊旗艦は陸に上がって横須賀に建設された地下司令部に設置されるようになったからだ。巨大化し世界規模となった戦争を指揮するためには、いかに巨大でも1隻の船から指揮する事が出来なくなっていたのだ。

 なお1943年は、1939年度計画の大型艦の就役ラッシュだった。装甲空母《大鳳》《神鳳》も、3交代24時間の突貫工事で春と夏に完成を見ている。《鳥海》と《摩耶》は、《大和》より少し早く誕生した。ただし《天城》《葛城》は、改設計による工期の遅れのため完成は1944年にずれ込んだ。
 そして日本の建造施設は合計16箇所で、1939年度計画だと大型艦は8隻になり、まだ大型艦1隻と中型艦7隻の建造が可能な事になる。この建造枠のうち、2箇所では大型客船、2箇所では海軍用の大型戦闘補給艦が建造され、残り4箇所はこの頃は民間船舶(大型タンカー)を連続して建造していた。《改秋月型》直衛艦8隻は中型以下の造船所でも建造可能なため、そちらで量産と言える建造が実施された。
 加えて、幾つかの改装艦艇が艦隊に編入されていった。これは平時は高速水上機母艦として整備された艦を、計画に従って短期間で軽空母に改装していくもので、計画通り3ヶ月から半年程度の短期間で使い勝手の良い軽空母へと生まれ変わった。アメリカ海軍は、機関も換装して30ノット以上にするべきだと日本海軍にアドバイスしたが、カタパルト装備なうえに艦隊中央で基本的に行動するので、実戦で大きな問題が出たことは無かった。
 日本海軍は1934年度、37年度計画で都合5隻の高速水上機母艦を建造した。水上機母艦の《千歳》《千代田》《日進》《瑞穂》と準同型艦の飛行艇母艦《秋津州》だ。このうち《秋津州》は、飛行艇の使用がまだ続くため飛行艇母艦のまま据え置かれ、水上機母艦の4艦が、《祥鳳》に準じた軽空母へと改装された。この結果日本海軍の軽空母は、一気に二倍の8隻となる(※《鳳祥》はすでに練習空母化)。これら軽空母は、空母機動部隊や水上艦隊など第一線任務の艦隊に編入されて、主に限定された制空任務や対潜水艦活動に従事する事になる。攻撃隊はほとんどの場合、搭載されなかった。
 この点は、軽巡洋艦を改装した軽空母を主戦力の一部としたアメリカ海軍と大きく違っている。このためか、日本海軍の軽空母は「艦隊随伴型護衛空母」という呼ばれ方もしている。

 また1943年下半期に入る頃から、以前の日本海軍では考えられない変化が見られた。アメリカから大量に貸与された艦艇の艦隊編入だ。主に護衛空母と護衛駆逐艦で、その後は戦車揚陸艦などにも広がっている。
 日本がアメリカから貸与を受けた艦艇数は、当初計画で各8個戦隊分の護衛空母24隻と護衛駆逐艦64隻が基本で(その後さらに30%ほど増えた)、これらの貸与艦艇と酷使で旧式化がさらに進んだ旧式軽巡洋艦を旗艦とした対潜水艦部隊、船団護衛部隊を多数編成した。従来の護衛戦隊との違いは、任務に応じた編成の部隊が増えたことで、《大鷹型》海防艦や旧式駆逐艦も依然として多数が部隊に属していたので、日本海軍は未曾有の規模に膨れあがる事になる。
 このため一時は、聯合艦隊とは別に海上護衛専門の艦隊を設立する動きが見られたが、戦略及び兵力の分散と柔軟性の欠如に繋がるとして採用はされず、アメリカなどからも苦言があったため完全に立ち消えとなった。だが一方で日本海軍実戦部隊である聯合艦隊の規模は、戦前の規模が嘘と思えるほど拡大してしまい、3桁の戦隊番号が並ぶようになった。
 なお、貸与艦艇に対しては別の命名基準が設けられ、排水量1万トンに満たない護衛空母は、従来の吉祥の動物では名前が追いつかないので新たに城跡の名称が、護衛駆逐艦には木の名称が充てられる事となった。このため護衛駆逐艦は「雑木林」とも言われたが、それは守ってもらう側の船舶員からすれば親しみのこもったものだった。護衛空母の方は、旧国名とかぶらない名称が充てられたが、ある意味吉祥動物よりも立派で「ご当地」名でもあるため、こちらは乗り組む将兵からの評判はまずますだった。

 そして大量の貸与艦艇を受けた事で、日本海軍内で建造計画が消えた艦種や、逆に建造が促進された艦、さらにはアメリカの艦艇を倣って建造した艦など様々な状況を生んだ。
 建造計画が消えたのが、アメリカの護衛駆逐艦よりも少し性能の高い護衛駆逐艦と海防艦の後継艦、そして護衛空母になる。また戦車揚陸艦の建造は貸与で代替され、ランプウェイを持った輸送艦の後継艦は船体内に浮きドックを持つドック型揚陸艦の計画へと昇華された。

 最後に、連合軍で自力で艦艇を建造できない国だが、順に英連邦自由政府、フランス救国政府、自由オランダ政府、自由イタリア委員会となる。これ以外に参戦国で一応海軍を持つ国としては、満州帝国、タイ王国があるが、有力艦艇を保有しないので割愛する。
 英連邦、救国フランス、自由オランダ、自由イタリアのうち、自由オランダ以外が戦艦を保有していた。しかし主砲口径が微妙に違うため、救国フランスの有する戦列艦《リシュリュー》は、アメリカで主砲の内筒を0.1mm削る改装を行っている。そして15インチ砲弾については、アメリカで統一規格として生産が実施された。そして各国の戦艦は弾薬庫の規格も統一した改装も合わせて実施している。また、その他の砲弾も、同様にアメリカで片手間に生産されている。これらの改装や艤装により、連合軍としては合計6隻の戦艦を運用できるようになった。もちろん最前線に出すのが難しい艦ばかりだが、数は力だった。
 改装という点では、既存艦艇の全てが対空兵装の大幅な強化とレーダー設置を主にアメリカで実施している。
 また英連邦はカナダ、豪州などから根こそぎの動員をかけて兵力をかき集めたので、海軍についても主にアメリカからの貸与で大幅に増強された。護衛空母、軽巡洋艦、各種駆逐艦など、ほとんどの艦艇が供与同然に貸与された。また救国フランスも、世界各地からフランスに忠誠を尽くすことを条件に兵士を集め、アメリカ国内、カナダのケベック、連合軍勢力のフランス領などから兵力を集めて、その一部を海軍に振り向けたので小数ながら貸与艦艇を受け取って艦隊を増強していた。

 そして大幅に増強された戦力をもって、連合軍はヨーロッパに向けての歩みを早めるようになる。
 だが、戦場は海だけでは無かった。


●フェイズ32「第二次世界大戦(26)」