●フェイズ32「第二次世界大戦(26)」

 1943年5月、ロシアの大地は決戦、もしくは決断の時を迎えていた。
 ロシア戦線でのヴォロネジ攻防戦は1943年3月末に終了し、再び戦場は静かになった。しかし両軍共に再編成と再配置に忙しく、5月に動きだすことを想定していた。
 そして、両軍合わせて1000万人以上の巨大すぎる軍団が動き回ったのだが、この時期のロシアは春の雪解けで地面が泥のようになって進軍どころではないので、敵を気にせず移動できるのが唯一の利点だった。そして両陣営共に、戦争の転換を図る為の作戦を練り、そして動いていた。

 枢軸軍の一番の狙いは、昨年から継続されているバクー油田の恒久的な占領だ。ベネズエラ、ペルシャ双方の油田からの移送が危機的状況に瀕しているので、新たな油田の確保は最早一刻の猶予も許されない状況だった。
 対する連合軍、というよりソ連軍の目標はコーカサスに犇めいている枢軸軍200万の大軍を包囲殲滅することだった。それが無理でも、コーカサスから叩き出すことを戦略目標としていた。
 そしてこの両者の目標の場合、枢軸側が不利だった。枢軸側は春に戦線の側面を固める部隊が大打撃を受けた為、その混乱がまだ続いていた。兵力の移動はソ連軍よりも激しく、戦線の側面となる地域の防衛のためにコーカサスから丸々一個装甲軍を呼び戻さざるを得なかった。このためバクー侵攻のための戦力が不足してしまうが、コーカサス方面では主攻勢正面を限ることで戦力の節約を行おうとしていた。前年はコーカサス全域の占領を目指していたが、今回はバクーに絞り込んでソ連から石油を奪うことを第一目的とした。自分たちが石油を使えるようになれば一番だが、それは二の次とした。まずソ連から油を奪い、ソ連が身動きできなくなってからコーカサスの完全占領を目指せばよいと考えが改められたからだ。そして油を失ったソ連の大きな弱体化は間違いなく、翌年モスクワを落としてロシア戦線にケリを付けるつもりだった。
 一方では、枢軸内で持久作戦に転じるべきではないか、という意見も強かった。既にロシア戦線での兵力差、戦力差は、ソ連軍優位に傾いていたので、大規模な攻勢と戦線の維持の双方を行うことが難しくなっているからだ。また石油問題に関しては、統計数字、各種資料から人造石油の生産を大幅に拡大することでガソリン供給の目処は立っているので、バクーにこだわる事もないという意見も強かった。この場合、皮肉なことに世界中の枢軸の勢力圏が縮小しているので、重油の需要が今後大幅に減少する事が確定的なのが、持久派といえる人々の意見を補強していた。
 そして持久派としては、連合軍が戦争を投げ出すまで欧州を守りきれば、この戦争は乗り切れると考えるようになっていた。もはや、アメリカの圧倒的という以上の国力と生産力は明らかな上に、無尽蔵に兵力を用意してくるロシア(ソ連)を力づくで滅ぼすことも極めて難しくなったので、持久戦略こそ正しいと論陣を張った。
 だがドイツ、というよりナチスそしてアドルフ・ヒトラーは持久を否定し、アメリカ人がヨーロッパに来る前にヴォルシェビキ(ソ連共産党政権)を倒し、ヨーロッパを奪いに来る植民地人(アメリカ)と劣等人種(日本)を撃退して戦いに勝利するのだと譲らなかった。ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)にとってソ連の共産党は不倶戴天の敵であり、ヒトラーにとってスターリンは宿敵なのだから、彼らとしてはアイデンティティーとして譲るわけにはいかなかったのだ。ソ連を倒さずに持久戦略を採ることは、自分たちの戦争目的、政治目的、そして精神的目的の放棄だからだ。

 また、現実問題として、コーカサスには42年夏に200万の精鋭部隊が攻め込み、43年春の時点でも170万以上の大部隊が展開していた。しかも機甲部隊の実質3分の2近くが依然としてコーカサス方面にあって、ソ連軍部隊と対峙していた。そしてアストラハンからボルゴグラードを経てクルスク方面まで、1個機甲軍を含む150万以上の大軍を以てソ連軍の反撃を押しとどめる戦線を作り上げていた。南方とほぼ同じ距離となる北方と中央には合わせて120万の兵力しかなく、機甲部隊は少なかった。春の戦いで枢軸側は50万以上の兵力を失ったので、予備と呼べる戦力もヨーロッパ本土で編成もしくは再編中の部隊以外にほとんど無かった。
 つまりは、バクー以外を攻勢の戦略目標とするには、夏の間のほぼ全てをかけて兵力の再配置を行わなくてはならない。補給体勢の事も考えたら、最低でも2ヶ月は必要となる。後世の一部で言われるモスクワ攻略の可能性については、物理的には夢物語レベルで不可能なことだった。加えて言えば、戦力の移動はソ連軍の方がむしろ有利だった。もちろんコーカサス方面の戦力は枢軸側以上に簡単には動かせないが、当時のソ連軍の野戦軍主力はヴォロネジからボルゴグラード(スターリングラード)の東方に展開しており、モスクワ正面への移動も枢軸よりも容易かった。その気になれば、アストラハン方面からコーカサスに突進させることも不可能ではなかった。
 そして43年春頃のソ連軍は、軍属を除いて約800万を数えるようになっていた。しかし練度の低い兵士が多い上に、ロシア語をほとんど理解できないアジア系兵士が激増しているため、攻勢に使える精鋭部隊はせいぜい4分の1程度だった。20才から25才の若いスラブ系ロシア人(白人)兵士は激減していたが、数は力だった。加えてロシアの大地には、連合軍として80万の満州帝国軍がクルスク前面に布陣していた。枢軸との単純な戦力差は約2倍に開いており、41年冬から構築されたモスクワ前面の陣地地帯などの防戦の有利を考えると、この時期に枢軸側がロシア戦線で大規模な攻勢に転じるのは非常に危険だった。後世の評価では、戦争に負けないために長期持久体制の構築に全力を傾けて、連合軍が戦争を投げ出すまで抑え込み続けるのが一番だと言われることが多い。しかしそれは、国家財政の面から見たら破産に向かうのも同じだった。何であれ勝たなければ、ドイツに明日は、未来は無かった。
 戦争をじり貧で終わらせない為にも、枢軸側は「賭け」に出るより他無かった。そして賭けに出ることができる場所は、物理的制約によってバクー油田しかなかったのだ。

 かくして欧州枢軸は、三度ロシアの大地に総力を挙げて襲いかかることを決める。しかしこの決定に不満を持つ国は少なくなく、特にイギリスは大西洋とインドの防衛に力を入れると決めて、ドイツや欧州枢軸との距離を今までよりも取るようになってしまう。そしてイギリスに甘いヒトラー総統が、ロシア人を倒すまでの時間稼ぎをイギリスがするのだと、イギリスの行動を半ば放任してしまう。これではせっかく友軍、構成国家が一つの地域に固まっている優位を棄てるに等しいが、当初から二正面戦争になっている事自体が戦略的に間違っているのであり、今更な状態とも言えるだろう。

 欧州枢軸によるバクー進撃の開始予定は、5月半ばが目指された。5月に入れば泥の季節も終わり、あとは乾いた夏の季節が訪れ、進撃が容易くなるからだ。また、時間が経てば経つほどソ連軍が強化されるので、攻勢を行うなら一日でも早い方が良かった。
 またこの攻勢開始は、ヒトラーの気まぐれが一つ作用していた。
 新兵器を攻勢に投入することだ。
 新兵器とは「V号戦車」と「VI号戦車」だ。「パンター(パンサー)」、「ティーゲル(タイガー)」の名で知られる非常に優秀な戦車の初期型で、新兵器好きのヒトラーが新たな力によって戦局を打開できると考えた。いや、期待した。
 「V号戦車」は、中戦車が究極的に進化した姿の一例だった。45トンを越える重戦車並の重量と巨体、その重量から考えたら十分な機動性、各部が傾斜した十分な分厚さを持つ装甲、そして70口径という異常に長い砲身を持つ75mm戦車砲を有する。しかも様々なギミックが組み込まれており、一部では量産に不向きな装備も見られた。そして開発と量産を急いだため、量産当初は完成度が低かった。また構造が複雑なことが量産の妨げになった。実際、初期型のA型は故障が多く、D型でようやく求められた性能を発揮するようになっている。
 「VI号戦車」は、ドイツ陸軍が初めて保有したと言ってよい重戦車だった。57トンの重量と巨体、100mmに達する垂直に切り立った重装甲、そして何より当時の全ての敵戦車を撃破可能な56口径88mm対戦車砲を装備していた。ただし欠点も多く、特に量産性に欠ける上に、整備が非常に大変だった。足回りが弱いため、運用にも細心の注意が必要で、専門に熟練した戦車兵と整備兵を掛け合わせた特別編成の部隊でしか、まともに運用することが出来ないほどだった。これは他の枢軸国で運用された事がなく、連合軍が捕獲して使用された例がない事からも明らかだ。凝り性と言われるドイツ人以外が運用できない「特別な」戦車なのだ。試供品として、大金をはたいて入手したイギリス本国が、「戦車を買ったつもりが、工芸品を買ってしまったようだ」と論評したほどだった。
 上記二つの兵器は、1943年に入る頃から量産にかかりつつあり、「VI号戦車」の方が量産開始が少し早く、一番最初の実戦部隊(重戦車大隊)は中東へ送られている。そしてヒトラー総統は、量産開始が少し早かった「VI号戦車」が一定数揃ってから攻勢をするべきだと考えていた。「V号戦車」は試験運用と訓練中に問題の多くが露呈したため、流石に5月の投入は断念したが、それでも夏の実戦投入を強く命令していた。そして「VI号戦車」による1個重戦車大隊、4個中戦車大隊が何とか前線に揃う5月22日が作戦発動日に変更された。
 上記二機種以外にも、48口径75mm砲を搭載した「III号突撃砲」、「IV戦車H型」が各部隊に量産配備されるようになり、ドイツの機甲戦力は質の面で大幅に強化されていた。

 バクーを再度攻める枢軸軍は、ソチなど黒海側でソ連赤軍がまだ保持している都市の攻略を取りやめて、同方面の戦力を可能な限り削減した。山岳地帯を圧迫し続けていた戦力も同様で、一部では後退も行って戦線を整理して必要最小限の戦力とした。その上でカスピ海側に戦力を集中し、兵站駅となっているグロズヌイ(コーカサス山脈北東部山麓の都市)を起点として、カスピ海沿岸の都市マハチカラ前面の強固な陣地を強引に突破し、その後都市を包囲しつつ進撃を継続、一気にバクーを目指すこととされた。ただしマハチカラからバクーに至るカスピ海沿岸は、すぐにコーカサス山脈が迫っているため、機甲部隊の進撃に適した十分な平地が無かった。このため機甲部隊による迂回突破は非常に難しく、強引に突破していくしかなかった。山間部では山岳師団などによる牽制攻撃も行われ、空挺部隊の投入も計画されていたが、約350キロの道のりを押し通るより他無かった。
 主に攻勢を行うのは、第1装甲軍、第4装甲軍、第11軍になる。これらでA軍集団を再編成し、第17軍、イタリア第7軍、新着のイタリア第2軍、フランス第5軍で他のコーカサス戦線を支えるC軍集団を再編成した。この移動だけでも大変で、4月丸々が使われた。しかし春に戦闘のあったボルガ川、ドン川方面の戦力が低下しているので、本来コーカサスに向かう予定だったドイツ軍の本国からの増援の多くがボルガ川、ドン川方面に充てられた。加えてイギリス本国からは、多数のバレンタイン歩兵戦車、クルセイダー巡航戦車など多くの兵器が枢軸各国に供与された。
 また空軍については、第2、第3航空師団が支援に当たることになっており、本国にある形だけの第1航空師団、他のロシア戦線を担当する第4航空師団よりも質量共に高い状態とされた。イタリア空軍、フランス空軍も旅団規模の空軍部隊を展開した。
 なお第1装甲軍には大ドイツ装甲師団、第4装甲軍にはSSと通称されるナチスの親衛隊の実戦部隊(武装SS)のうち、第1、第2、第3装甲師団が編成に組み入れられていた。これらの師団は、部隊規模が大きい上に重戦車中隊を持ったり重砲が他より強力など、通常よりも優良な装備を持っていた。そして全部隊の先鋒を担う事になっていた。

 今回も迎え撃つ形となったソ連赤軍だが、2年間の戦いで組織など質の面で大きく変化していた。加えて、主に北太平洋航路とシベリア鉄道によって安全に注ぎ込まれるアメリカ、日本の物資の奔流が、質の面、装備の面で著しい変化を及ぼしていた。アメリカのレンドリース、日本帝国、満州帝国とのバーター取引や供与兵器、物資によって、当時のソ連の戦争は支えられるようになっていた。ソ連は支援に全面的に依存することで、自らの生産を戦車、重砲、戦闘機などの正面兵器の生産に特化し、武器弾薬以外の衣服、食糧の多くを支援に頼った。また、自動車、トラックは多くがアメリカ製となり、無線機など量産が必要な電子機器の多くもアメリカからの貸与に頼った。
 正面装備となる兵器についても、戦車、戦闘機の多くがアメリカ、日本から送られた。日本は主に中華とインドで陸上の戦線を抱えていたので支援は限られていたが、アメリカは国力に比べて地上戦をしているのはインドなど一部なので、この時期に生産された陸軍用の兵器の多くがロシアの大地に注ぎ込まれた。装備の一部はロシアに派遣されている満州帝国軍にも注がれたが、当時のロシア戦線の80%がソ連赤軍のため受け取る装備、物資は膨大な量になっていた。
 もっとも、ロシア戦線向けレンドリースの約20%は満州帝国軍向けとなっていたので、現地満州帝国軍は日を増すごとに強化され、43年夏頃になるとソ連軍の親衛隊並の装備を有するまでに強化されている。
 部隊編成も戦果を挙げたことなどを理由に改変され、紙の上でも戦車師団、自動車化師団による2個機甲軍団が編成上に姿を見せていた。こうした部隊は満州族の伝統にならって「八旗」と通称され、特に精鋭部隊は皇帝直属部隊とされて「禁軍(=近衛軍)」などとも呼ばれた。春前の戦闘で実働60万人まで減少した兵力も、大幅な補充によってもとの兵数を上回るまでに回復していた。満州からロシアへと足を踏み入れた補充兵達は、満州帝国軍の勝利の宣伝によって自ら志願した男達だった。
 そして枢軸軍を迎え撃つ主な装備だが、陸では無尽蔵に量産されるようになった各種「T34/76」中戦車が中心だったが、アメリカ製の「M4」中戦車も急速に数を増しつつあった。満州帝国軍では、全ての師団に戦車大隊を置く事が可能なほど供与が進んでいた。ソ連軍にも配備が進められ、稼働率の高さや操作し易さなどからロシア人達から非常に好評だった。「M4」の防御の難点については、どの戦車でも寿命は一週間と言われたほどの状態だったので、特に不満が出る事はなかった。ただし貸与された戦車のかなりは、無線機が搭載されていなかったと言われている。また現地改造で、タンクデサントがし易いように取っ手が溶接されたりしている現地改造型もあった。
 空軍については、ソ連の機体も「ヤコブレフ Yak-3」、「ラボーチキ La5FM」など優秀なものが量産され始めており、日米の貸与、供与も規模を拡大していたが、状況が好転しているとは言い難かった。戦車同様もしくはそれより酷い比率で撃墜されるため、機体をいくら投入しても満足のいく制空権が取れない状態が続いていた。しかも枢軸側は、ドイツだけでなくフランス、イタリアなども大規模な空軍部隊を派遣しているため、数の優位すら難しい状態が続いていた。このため満州帝国軍で一定規模まで編成されていた空軍部隊については、ロシア戦線への投入が躊躇われる状態が続いていた。この空の優位も、枢軸側が攻勢を決意した大きな理由になっていた。

 1943年5月22日、枢軸軍によるロシア戦線での三度目となる夏季攻勢が開始された。目標はバクー油田。
 狭い戦線で第1装甲軍と第4装甲軍が横並びとなり、濃密な機甲突破部隊を編成して、ソ連軍が待ちかまえるマハチカラ前面の重厚なパック・フロント(対戦車陣地群)へ正面から突撃した。
 ドイツ軍機甲部隊の突破力は、ソ連軍の予測を大きく上回っていた。同時に、ソ連軍の3重に敷かれた対戦車陣地群はドイツ軍の予測を上回っていた。だがこの時は、ドイツ軍機甲部隊の方が上回っていた。よく言われるように「ティーゲル」と愛称の付けられた「VI号重戦車」の力だけでなく、突破を命じられた部隊全体の威力(戦力)が大きかったためだ。
 ソ連軍が一ヶ月は持つと考えていた重厚な陣地群は、1週間で全て突破されてしまう。しかも現地は広い平原ではないので、突破された場合はその都度増援を注ぎ込む他なく、増援が尽きた時点で戦線が突破されることになる。この戦いは、第一次世界大戦の塹壕戦と少し似ていた。この時点でソ連側に機甲部隊の予備はなく、全てがドイツ軍精鋭部隊の鋼鉄のミキサーに細切れにされてしまう。無論ドイツ軍も無傷ではなかったが、まだ十分に突進力を有していた。このために、去年の秋から準備してきていたのだ。
 なおこの一連の戦いを「マハチカラ大戦車戦」と呼ぶ事もあるが、戦車など機甲部隊の密度はともかく絶対数はそれほど多くはない。
 マハチカラ前面のパック・フロント突破後、枢軸軍は機甲部隊をほとんど持たない第11軍の一部にマハチカラ市の包囲とその後の占領を命じると、そのまま突進を続けた。まだ最初の目標を超えたばかりで、時間をかけている場合では無かったからだ。
 ドイツ軍の次の目標は、120キロ先のデルベントの街。地形はさらに平野部が狭くなるため、第1装甲軍と第4装甲軍が交代で先鋒を担って間断なく突進していった。そしてマハチカラ前面でコーカサス方面の戦力の多くを投入していたソ連軍に、これを押しとどめることは出来なかった。出来るのは遅滞防御戦で、これは当初それなりに機能した。
 だが、コーカサス山脈を踏破してきたドイツ軍山岳師団や猟兵部隊、空挺部隊の精鋭が山側から各地に浸透してソ連軍の戦線の側面や後方を脅かすと、遅滞防御もあまり機能しなくなってしまう。マハチカラにほとんどのチップ(戦力)を載せていた現地ソ連赤軍は、戦線を支えながら後退するのがやっとだった。
 このコーカサスの状況は、ソ連軍または連合軍によるカスピ海を使った補給と戦力補充に限界があった事が原因していた。ただでさえ100万以上の軍隊を支えなければならない上に、帰りには石油も運ばねばならず、その上で補充や増援、毎日の補給を行うのは、流石に荷が重かったのだ。東鉄など連合軍もコーカサスの輸送に多くの努力を割いたが、労力と犠牲は許容量を大きく上回っていた。ロシア戦線とは、それほど巨大な陸戦の舞台だったのだ。

 枢軸軍というよりドイツ軍の攻勢は、一ヶ月を経っても継続していた。マハチカラ前面では一日5キロも進めなかったが、マハチカラ通過後は一日10キロ以上進軍できる日もできた。それでも狭い平野の進軍には苦労が多く、山間部を並進する形の山岳部隊は、進撃が順調でも一日に進める距離には限界があった。
 一日10キロ進めるとして、一ヶ月と少しでバクーに到達できる計算になる。ソ連軍は、コーカサスの他の戦線から戦力を引き抜いて防戦に回していたので現状では進軍に影響が出ていたが、このままいけばコーカサス方面のソ連軍の方が先に息切れする事が数字の上で分かると、枢軸側に希望と楽観論が出てくるようになる。戦力が引き抜かれたコーカサスの他の戦線でも、枢軸軍優位の戦闘が各所で展開されるようになった。バクー以外の場所でのソ連軍は、本格的に山岳地帯に追いやられつつあった。そしてコーカサス山脈は鉄道が引けるような山脈ではない上に補給に使える道路も限られているので、徐々にソ連軍は防戦一方に追いやられていった。コーカサス山脈自体に枢軸軍も本格的に進撃できるわけではなかったが、この場合は現地ソ連軍を無力化してバクーを占領してしまえば、現地での戦いは終わったも同然だった。
 バクーは大油田であると同時に、コーカサス方面の補給拠点、しかも策源地ともなっていたからだ。バクーさえ占領してしまえば、コーカサスのソ連軍は根をなくした大木であり、絶ち枯れるより他無かったのだ。

 6月末、ドイツ軍はバクー前面の陣地群に到達した。そこは既に油田地帯の入り口で、望遠鏡で覗くとはるか遠くに油井がそこら中に立っているのが遠望できた。このため、戦闘は慎重を期さなければならなかった。油田を得るのが目的だという理由もあるが、文字通り油の上にいるようなものだからだ。
 だがその景色を見るまでのバクー前面は、マハチカラ前面に匹敵する野戦陣地群となっていた。早くは42年秋から陣地構築が開始され、一時はマハチカラ前面が重視されるも、ドイツがバクーを諦めていないと分かった時点で工事を加速させ、さらにこの一ヶ月の間は突貫工事を進めた。防御力はモスクワ正面を質と密度の面双方で上回り、マハチカラ前面よりも強固だった。そしてここに置いた戦力は、基本的に移動できない張り付け部隊ながら、それだけに重装備を有していた。
 当然だが、ソ連軍は頑強な抵抗を止める様子はなく、先鋒部隊だけではどうにもならないため、ドイツ軍は主力部隊を揃えて本格的な攻略を行う準備を急いだ。
 しかし「ドイツ軍バクー到達」の報告は世界中を駆けめぐり、ベルリンでは早くも祝杯を挙げかねない状態だった。だが、ドイツ軍のバクー襲来はソ連軍にとって反撃の狼煙を上げるべき時だった。
 敵の主力部隊を、最も深いところに誘い込むことに成功したからである。

 1943年7月5日、ボルゴグラード近辺に展開する枢軸軍、主にドイツ軍以外の部隊が比較的高い密度で展開する地域に対して、ソ連軍は大規模な二重包囲戦を仕掛けた。
 第1親衛軍、第2親衛軍、第5戦車軍、第7戦車軍など精鋭部隊を多く含んでおり、彼らは枢軸側のフランス第5軍とルーマニア第4軍の間で最大規模の進撃を開始した。
 攻勢正面の東部に位置するボルゴグラード近辺には精鋭のドイツ第6軍が、ボルゴグラードからアストラハンにかけてのボルガ川にハンガリー第1軍とフランス第3軍いて、特に反撃が予測されるアストラハンにはフランス第3軍の機甲師団を含んだ精鋭部隊が戦線を張っていた。また中央から南寄りに移動したドイツ第4軍が、満州帝国軍を抑え込む場所に位置していた。
 そして各地域の後ろに第3装甲軍に属する装甲軍団が、それぞれ機動予備、万が一反撃を受けた場合の予備兵力として待機していた。

 ドイツ軍以外の同盟国軍が多いため、一見戦力が低いように見える。加えて、ソ連軍は日を増すごとに増強されているのに対して、ドイツ軍以外の枢軸各国の増強度合いは低いと言われる事も多い。しかし主にイギリス本国から、かなりの供与、貸与兵器を受け取っているので、よく言われるほど戦力は低くない。主にイギリスの「バレンタイン」か「マチルダII」歩兵戦車か「クルセイダー」巡航戦車だが、師団単位で戦車隊を持つ事は多いし、ルーマニア以外は差はあるが戦車の自力生産能力も有している。フランスだと、ソ連軍の「T34/76」中戦車ともある程度対等に戦える「S41」中戦車などを自力生産している。さらにフランス軍だと、砲兵の国だけに対戦車砲もかなり優れていたし、ドイツ軍同様の対戦車自走砲(突撃砲)も有していた。自動車、トラックの配備も進められている。欧州枢軸軍の最大の欠点は、基本的に鉄道から離れたときの補給能力の低さだが、動かなければ問題も最小限となる。ソ連軍と比較したら、歩兵師団同士の戦闘力はほぼ五分という評価も多いほどとなる。もちろん、士気の面、兵器の習熟度、兵士の練度などの要素を加味すると評価の下がる事も多いが、後世言われるほど「弱い」わけではない。43年春にハンガリー軍やイタリア軍が蹂躙されたのも、兵力の密度、イニシアチブなどの差が大きい。さらに攻める側は精鋭部隊を用いるので、差が広がるのは仕方ない。
 そして43年に入ってからの一番の問題は、ソ連軍が過半を占めるロシア戦線の連合軍が枢軸側の二倍の数を揃えるようになっている事だった。例えば、クルスクの南方に布陣しているドイツ第4軍は、春に暴れまわった満州帝国軍の遣蘇軍集団との対峙を強いられている。個々の力量差はともかく、単純な戦力差は二倍以上もあった。
 そしてこの時、フランス第5軍とルーマニア第4軍に襲いかかったのは、ソ連軍の精鋭部隊で戦力差は単純な数で5倍以上もあった。このため突破正面の各1個軍団は24時間以内に存在価値を失うほどの打撃を受けて、ほとんど消え去ってしまう。
 しかしここからは、ドイツ軍の動きが早かった。同方面でのソ連軍の反攻、コーカサスから目を逸らすための反攻は折り込み済みであり、そのために第3装甲軍の多くが後方で予備兵力として拘置されていたのだ。
 直ちに比較的近い2個装甲軍団が移動を開始し、ボルゴグラードを包囲しようと次の行動に移りつつあったソ連軍の急所を突いて、敵の進撃を押しとどめた。だが逆に、ソ連軍も同方面でのドイツ軍の反撃は予測していた。このため無理してボルゴグラードへ進撃することなく、進撃路を転じて自分たちに近い方へと旋回していった。しかし、ソ連軍に包み込まれた形となったルーマニア第4軍は残存部隊も完全に包囲された形になり、ボルゴグラード方面に展開していたドイツ第6軍の一部もソ連軍の包囲下に置かれた。そしてドイツ軍の反撃に呼応するように、南部戦線各所が動いた。というよりも、ドイツ軍の機甲予備部隊が動くのを待っていた。
 最も北では、両隣のソ連軍と共同で満州帝国軍が大規模な攻撃を開始して、モスクワ方面のドイツ第4軍(の一部)を牽制しつつ、フランス第5軍を最初に戦線を突破していたソ連軍と共に包囲するべく猛烈な突進を開始していた。満州帝国軍は、二つの軍の一つが重厚な陣地でドイツ軍を押しとどめてもう片方に機甲戦力を集中して突破部隊としていた。このため機甲戦力はソ連の親衛隊や戦車軍に匹敵するほどだった。そして先の勝利の後だけに、将兵の士気も非常に高かった。
 ボルゴグラード東方からアストラハンにかけて展開するハンガリー第1軍とフランス第3軍に対しても、複数の箇所からボルガ川を渡河するための作戦が開始された。ボルガ川を渡ろうとする数は非常に多く、枢軸側が一カ所潰しても別の一カ所で渡河を果たしている状態のため、徐々に対処不可能に陥りつつあった。
 ソ連軍がほとんどを占めるロシア戦線の連合軍は、枢軸側が最も恐れていた恐れていた大規模同時攻勢、しかも物量に任せた力技の攻勢を仕掛けてきたのだ。
 当然だがソ連軍の受ける損害も大きいのだが、それは覚悟の上だった。損害を前提にして、兵力と物資も揃えられていた。また可能な限り枢軸軍の急所を突く攻撃としたため、枢軸側が受ける損害も非常に大きくなった。ボルガ・ドン方面で戦線の穴埋めに奔走するドイツ第3装甲軍は、想定された敵の反攻、限定された場所での機動防御を前提に配置についていたが、想定以上の事態を前に許容量を大きく超えていた。周辺部の全体指揮官としてモーデル元帥が奮闘したが、彼の力量だけでは被害と敵の浸透を最小限に止めるのが限界だった。

 一連の戦闘で、7月に入る頃には枢軸軍の南部戦線は多くの場所で引き裂かれていた。150万の兵力が配置されていたが、僅か一ヶ月で三分の一が姿を消していた。損害を埋めることも出来ず、特に奔走を続けた機甲戦力の消耗が激しかった。
 そしてこの間、欧州枢軸軍というよりもドイツ中枢は大きく混乱していた。
 一刻も早くバクーを落として南方方面に救援軍を派遣するべきか、バクーばかりかコーカサス戦線全てを棄てて、全力で兵力を移動して戦線の再構築を行うか、だ。
 陸軍総司令部(OKH)は総司令官のブラウヒッチュウ元帥から一般の参謀に至るまでほとんどが、今すぐコーカサスから全部隊を転進させて戦線を再構築するべきだと考えていた。前線からも同じ要望が各所から届いていた。42年冬から装甲部隊の再建と拡大に奔走していたグデーリアン上級大将などは、ヒトラー総統に怒鳴り込んでそのまま役職を罷免されてしまっていた。
 アドルフ・ヒトラー総統は、将軍達とは違った意見を持っていた。後世でもよく使われた「あなたは戦争経済をご存じではない」のフレーズそのままの論陣で熱弁を振るい、バクー油田が如何に必要か、重要か、死活問題であるかを説いて、占領後の救援軍派遣を譲らなかった。また、ソ連の燃料源であるバクーを最低でも使用できなくする事は、現状の攻勢を燃料問題から大きく鈍らせる可能性も非常に高いし、今後の戦局に強く影響する可能性も高いのも事実だった。
 そして、この議論によって枢軸軍は貴重な時間を失い、結局ヒトラーはバクーの一日も早い攻略を譲らなかった。

 ボルガでの戦いの間のバクー正面での戦闘は、バクーの主油田地帯に至る一帯が半ば要塞のように野戦陣地化された対戦車、対装甲陣地となっていたため、ドイツ軍の精鋭部隊は攻めあぐねた。
 「VI号重戦車」中隊を前面に立てて強引に突破しようとした強力なSS戦車軍団は、頼みの「VI号重戦車」が正面から撃破される場面にも遭遇した。「VI号重戦車」をこの時点で撃破したのは、アメリカ製のM3 90mm砲だった。もとは高射砲で、1940年冬から41年にかけてアメリカ本土防衛のために高射砲として過剰に生産されたものを、必要なくなったので対戦車砲に改修したもので、かなりの数がロシアにレンドリースされていた(※日本なども同砲を大量に供与されている。)。この対戦車砲ならドイツ軍の88mm砲ともほぼ互角に撃ち合うことが出来たし、「VI号重戦車」を比較的まともな距離から撃破する事もできた。当時の他の戦車なら容易く撃破できた。ロシア人達も複製を試みた程だった(※意外に高額になったので量産はしなかった)。
 そして攻勢開始から3日で、ドイツ軍の進撃は手詰まりとなった。ソ連軍の反撃があまりにも激しく、陣地が強固すぎるため、既に長い進軍で疲れが見えて消耗もしている装甲軍団では、突破は不可能だったのだ。
 それでも攻勢は続いた。ソ連側はバクーに有力な機甲部隊を配備していないので反撃してこないからだが、ソ連軍としてはこの陣地さえ守りきれば勝ちという判断があるため頑健に抵抗した。陣地も非常に重厚に作られていた。このため1メートルを争うという攻防が続いたが、遂にドイツ軍は引かざるを得なかった。
 ボルガでの戦いが、いよいよ容易ならざる事態、つまり反撃に転じたソ連軍が黒海もしくはアゾフ海への進撃を行う可能性が高まったからだ。万が一ロストフで遮断されてしまえば、コーカサスとボルガ河口部の枢軸軍合計250万近い戦力が本国と切り離された狭い地域に押し込められる事となる。そうなってはロシア戦線の全面崩壊は確実であり、ドイツ、いやヨーロッパが戦争を失うことになってしまう(※厳密にはクリミア半島からコーカサスへの経路は残されるが、短時間で重装備を持ったままの大軍を通せる場所ではない)。
 そうならないためには、もはや全面的に下がるより他無かった。流石のヒトラーも自らの意見を下げて、戦線の維持とコーカサスからの「転進」を許可し、さらに前線の将軍達にかなりの自由裁量権まで与えた。全ては戦争を失わないためだった。
 だがドイツ軍は、バクーからの去り際に徹底した重砲による長距離砲撃と、動員できる限りの空軍機による爆撃を実施した。目標は油田地帯とパイプライン。せめてソ連軍が今後使う石油を少しでも減らそうと言う嫌がらせの攻撃で、ヒトラー総統が命じたものだった。
 この攻撃は、軍隊への攻撃を警戒しすぎていたソ連軍の虚を突くことになり、また石油が欲しいドイツ軍が油田を無差別に破壊しないと楽観視していた事も重なって、大きな損害を出すことになってしまう。バクー油田は、一時的に30%の産油量が低下し、パイプラインの完全な再建は戦争中には叶わなかった。他にも油田に連動した製油施設にも大きな損害が出ており、油田全体の4分の1の機能が一時的に失われることとなった。幸いというか皮肉というか、この時点ではカスピ海を経由しての輸送力が限られていたので問題は無かったが、その後のソ連の戦争に小さくない影響を与えることとなる。
 この一事をもって、枢軸側の限定的な作戦成功とする評価もある。

 コーカサスから150万の兵力が移動を開始した。
 撤退は前進より難しいと言われるが、主力が機甲部隊のため撤退も迅速だし、追ってくる敵への対処も比較的容易かった。それに、コーカサスのソ連軍は防戦主体の重装備の歩兵部隊がほとんどで、しかも既に大きく消耗しているため、コーカサス方面からの追撃は厳しくは無かった。
 大変なのは、アストラハンからボルゴグラード、ヴォロネジ前面にかけての前線の維持だった。ボルゴグラード周辺のドイツ第6軍は半ば包囲されており、枢軸側の同盟軍2個軍が編成から姿を消すほどの損害を受けていた。
 それでも枢軸側の撤退と部隊の再配置が進められた。枢軸側が予定した新たな南方戦線は、クルスク前面からロストフ前面にかけてだった。これにより、南方の戦線の長さはコーカサスを含めると一気に4分の1近くに縮小し、戦線を整理して戦力密度を高めることができる。作戦の実質的失敗から自信を失っていたヒトラーは、この撤退案と持久戦略への転換に大きな異を唱えることもなく、前線に裁量権もあったため兵力の移動は比較的うまくいった。
 もちろんソ連軍はドイツ軍に襲いかかったが、5月からの戦闘でより多くの損害を受けているソ連軍に追撃しきる戦力はなかった。さらにはロストフに向けて突進する力も不足していた。唯一の連合軍である満州帝国軍は、戦力の再編成が終わらないと言う理由で、一連の攻勢が停滞した後はおつき合い程度の攻撃しかしなかった。
 しかもドイツ軍は、規模は限られていたが追撃で突出したソ連軍部隊の撃破にも成功しており、コーカサス方面とボルガ河口部に展開していた枢軸軍は大きな犠牲を出すことなく兵力の再配置を図ることができた。
 だが5月下旬から二ヶ月間に枢軸軍が受けた損害は、死傷者100万人に達し、戦車だけで3000両失っていた。
 3000両という数字は、1943年にドイツが生産した戦車の約半数に当たる数字で、無視できる損害では無かった。それ以上に、無理な攻勢と防戦を一度に行った事による人的損害は極めて深刻で、以後枢軸軍は攻勢を取る能力を無くすばかりか、防戦一方に追いやられることになる。

 その後もロシア戦線は、両軍の戦力再配置と戦線の引き直しで大きく動き続けたが、両者の戦力が拮抗していたた事と、主にドイツ軍がソ連赤軍に付け入れさせなかった為、ほぼ欧州枢軸側の思惑どおりの戦線が再構築される事となる。だが、その移動で夏を使い切ってしまい、また移動の労力もあって双方共に能動的な攻勢に出ることは出来なかった。
 そして秋になると戦線が完全に膠着してしまい、どちらも戦力と戦線の再構築を続けたためそのまま冬の対陣となった。
 ロシアの大地の地獄は、まだまだ終わる気配は見えなかった。

●フェイズ33「第二次世界大戦(27)」