●フェイズ33「第二次世界大戦(27)」

 ロシア南部で激戦が開始された頃、カリブ/大西洋戦線、アジア戦線も大きく動いていた。そうした中で、ヨーロッパが忘れかけていた戦線が遂に終わりの時を告げた。
 1943年9月8日、中華民国政府は連合軍に対して降伏した。

 枢軸陣営の中華民国と日本を中心とした連合軍の戦いは、1941年10月に中華地域の平野部での戦いが実質的に終わったと見る意見が多い。連合軍にとっては、平野部を占領したことでむしろ自分たちの陣営内の問題の方が大きくなった。というのも、満州帝国が自分たちこそが中華地域を統治する正当性があると言い始め、一部の軍隊が「占領」ではなく「統治」を独自に開始し始めたためだった。日本、アメリカは慌てて満州帝国の動きを止めさせ、近代国家同士の戦争及び外交という枠内での行動のみを許した。
 おかげで、張作霖首相を実質的な首班とする満州帝国の動きは、表向きは沈静化した。だが水面下では、中華各地の軍閥が張作霖や満州帝国と関係を求めて動くなど、予断を許さない状態が続いた。満州帝国皇帝の溥儀も、自らはいつ紫禁城に戻れるのかと毎日側近に問いかけたと言われている。
 また、42年春にソ連が東トルキスタン(ウイグル)に独自に侵攻したことも、頭の痛い問題だった。理由は言うまでもないが、ソ連も勝手に動く傾向が強く、しかも共産主義政権を作りかねないので、戦後の中華地域の事を考えるとこちらも非常に厄介だった。
 だが、満州帝国とソ連の動きに最も過剰に反応したのは、当時は鉄道すら引かれていない中華奥地の四川盆地に逼塞する、中華民国の独裁者蒋介石だった。
 蒋介石は、自分たちの戦争に勝負が付いた時点で、条件付きの降伏を考えていた、と言われる。だが、中華世界を奪う者とバラバラにしようとする者が現れた以上、徹底抗戦するより他無かった。幸い欧州枢軸諸国、特にイギリスは支援継続を約束しており、実際にビルマ方面から兵器、物資の支援を行った。そして、より多く運ぶため、ビルマ、インド奥地、中華地域の雲南地域に大量の労働力を投入して、道路の建設も行った。これが俗に言う「援蒋ルート」だった。
 しかし戦争は、蒋介石にとってさらに悪い方へと転がっていく。日本軍を中心とした連合軍が快進撃を続け、1942年春にはインド洋にまで進軍したからだ。これでイギリスに余裕が無くなり、支援は少なくなった。さらに1943年1月25日、ガンジス川河口部に連合軍が強襲上陸作戦を決行した事で「援蒋ルート」は物理的に遮断され、枢軸陣営は物理的に中華民国を支援する事が出来なくなった。
 その間、中華戦線はどうなったのか。1941年秋から翌年春までは、連合軍は沿岸部の平定(占領)と安定化に力を入れた。実質的な占領統治で、この間に沿岸部、平野部の70%以上が連合軍の軍門に降った。戦闘地域以外の軍閥達が、続々と連合軍への恭順を示したからだ。それでも欧州枢軸の援助があるので、蒋介石側に止まる者も少なくなかった。特に奥地には多く、連合軍も準備を整えた上での侵攻を行う事を決めた。

 そして1942年春になると、連合軍は中華民国が首都を疎開させた重慶への爆撃を開始する。重慶に通じる鉄道が当時はないので、十分な数のトラックがないと侵攻は不可能だった為、代替手段として爆撃が選択されたのだ。しかも陸路侵攻しようとしたら、北の奥地の西安方面から進まねばならず、同地域への侵攻から始めなければならなかった。要するに、非常に面倒くさかった。
 そしてこの状況を利用したのが、日米、主にアメリカの航空関係者だった。爆撃により航空機の威力を為政者達に見せて、自分たちの独自軍建設の布石にしようと言うのが狙いだ。つまり重慶爆撃は、主に日米の軍内部での内政の要求によって発生したと言っても過言ではないだろう。

 爆撃機の出撃拠点は武漢と呼ばれる地域で、そこは揚子江を遡った先にある内陸の要衝で、鉄道も十分に引かれていたし7000トン級の船舶でも遡上できるので、爆撃拠点としては最適だった。
 そこに日本陸海軍航空隊とアメリカ陸軍航空隊の重爆撃部隊と長距離侵攻可能な戦闘機隊のうち、有力な部隊が続々と集結した。
 1942年春だと重爆撃機は「三菱 一式重攻撃機 深山」、「ボーイングB-17 フライングフォートレス」が主力で、主に航続距離の長い「三菱・零戦」艦上戦闘機が護衛することになった。「P-39」や「P-40」戦闘機も中華地域には大量に進出していたが、航続距離の問題、空戦能力の問題から重爆撃機の随伴は「零戦」とされた。後に日本兵も着用するようになるボマージャケットに身を包んだアメリカ軍爆撃機乗り達は、最後まで随伴する「零戦」を「リトル・フレンズ」と呼んで頼りにした。
 武漢から重慶までの直線距離は、おおよそ800キロメートル。戦闘機隊の基地は武漢より少しだけ重慶に近い岳陽に置かれ、日米共に装備する「B-25 ミッチェル」中型爆撃機の基地もここに置かれた。加えて、日本陸軍航空隊も「中島 一式戦闘機 隼」を「B-25」と共に岳陽に展開して、同様に爆撃をする手はずとなっていた。
 対する中華民国空軍は、既にインドに退いたイギリス・チャイナ派遣軍が残した「ハリケーン」戦闘機を主力としていた。徐々に増えつつある「スピットファイア」など他の機体もあったし、ソ連製の旧式機もまだ若干残っていたが、全てを合わせても300機程度だった。1942年秋頃まで続いたイギリスの供与は、毎月50機程度で「スピットファイア」戦闘機と「ウェリントン」爆撃機が殆どだったが、爆撃機はパイロットが足りない上に数も少ないので限定的な偵察以外でほとんど役に立たなくなっていた。そして戦闘は重慶だけでないので、日々の消耗に供給が追いついていないのが現状で、さらにパイロットが最初から不足していたので、パイロットの不足から飛べる機体の方が余り始めていたのが1942年春頃だった。
 航空機の自力生産力がない国では、小規模でも航空撃滅戦を相手にされてしまうと、取り返しのつかない消耗を強いられるしか無かったのだ。中華民国空軍は、まともな練習機もないので訓練から試練を強いられていた。

 なお、重慶爆撃の開始が春とされたのは、四川盆地は秋から春にかけての冬の間は靄のような霧が出やすくて爆撃に不向きな季節だったからだ。一帯を霧を覆い尽くす事も珍しくはなく、偵察すらままならない時もあった。このため連合軍は、爆撃は気象条件が整う5月から10月と決めていた。そして42年になると日米の戦時生産が大きく向上して、育成されたパイロットの数も増えていたので、最初から100機単位の「戦略爆撃(ストラテジック・ボンバードメント)」を行うことを決めていた。
 なお「戦略爆撃」もしくは「都市爆撃」、さらには「無差別爆撃」と呼ばれる戦術は、古くは第一次世界大戦から行われていた。無差別爆撃としては、第二次世界大戦直前にあったスペイン内戦のゲルニカ爆撃がピカソの絵画によって有名となったが、第二次世界大戦ではこの時まで大規模な戦略爆撃はほとんど行われていなかった。ヨーロッパの戦争が一度呆気なく終わったのが主な理由で、1941年初夏に始まったソ連との戦いでは枢軸側に戦略爆撃を行う機材と余力がない上に、ソ連が異常な数の高射砲でモスクワなどの守りを固めるため、行いたくても行えなかった。枢軸側が日本に行った爆撃もせいぜい中規模で、戦略的には嫌がらせの域を出ていなかった。
 このため重慶爆撃が、大戦初の大規模な戦略爆撃だった。

 連合軍の戦略爆撃に対して、中華民国空軍は場当たり的に対処するしかなかった。
 中華民国を積極的に支援していたのがイギリス本国なので、レーダーと無線機による航空管制を思い浮かべるだろうが、中華民国空軍にまともな航空管制の設備と能力、人材が無かった。レーダー(RDF)は対空監視用のものが供与されていたが、大量の真空管が必要となる航空管制が出来るほどの無線機は、結局中華民国に供与されなかった。まずは自ら、そして次に欧州諸国への供給を行い、世界各地を防衛すること考えると、中華民国の分まで無かったからだ。それでもレーダーを有したことで、中華民国首脳部は空襲(爆撃)を楽観視していた。有ると無いでは大違いだからだ。だが彼らは勘違いしており、レーダーと戦闘機さえあれば迎撃は出来ると思い込んでいた。近代戦争というものを理解していなかったが故だが、そのツケは大きかった。
 5月25日に現れた連合軍は、重慶からは日米各1個大隊の重爆撃機が飛び立ち、岳陽からは零戦2個大隊とB-25が1個大隊の編隊が飛び立ち、途中で合流して合わせて約250機の大編隊となって重慶に迫った。護衛戦闘機の多さが、連合軍がこの戦争で学んだ事の多さを物語っていた。
 対する中華民国空軍は、約150機の戦闘機を各所から随時迎撃に出撃させたが、レーダーで捉えた段階から戦闘機の緊急発進が始まり、編隊ごとに迎撃に向かった。上空で事前に待ちかまえるというような事は、この時はあまり考慮されていなかった。と言うよりも、今まで偵察機以外飛んでこなかった事で油断しており、突然大編隊で襲来してきたので大きく動揺していた。
 そして各所で中華民国軍機と零戦の空中戦になったが、練度の差から殆どの場合一方的展開となった。それでも中華民国軍機の方が数が多いので、全体の3分の1程度が重爆撃機部隊の迎撃を行った。ところが日米の重爆撃機は、10〜12門のM2重機関銃で武装し、しかも4機編隊を4組で16機の1個中隊単位による重厚な陣形(ボックスフォーメーション)を組んでおり、死角のない濃密な弾幕を形成した。
 そしてハリケーン、スピットファイアというあまり丈夫ではない戦闘機では、重爆撃機の濃密な弾幕を抜けることがかなり難しかった。その上、中華民国のパイロットは多くが未熟なため、重爆撃機に到達する前に距離を誤って機銃掃射して無駄に弾をばらまくだけで、なかなか命中させられなかった。相手が大きいため、経験がないと距離感が掴めなくなるからだ。しかも中華民国に供与されている機体は全て7.7mm機銃搭載型のため、たとえ命中しても重爆撃機の主要部を撃ち抜く事自体が難しかった。加えて言えば、機銃の射程距離でも完全に負けている事になる。
 かくして中華民国の迎撃は失敗し、最初の爆撃で重慶は700トンもの爆弾が絨毯爆撃の形で投下された。
 これが重慶爆撃の始まりだった。

 当時の重慶は市街地はそれほど広くはないため、連合軍が入念に準備した重慶及び周辺部の爆撃計画は、都合6回の爆撃で一ヶ月もするとほとんど消化されてしまう。つまり、目標が無くなるほど破壊されたということだ。市街地はほぼ全滅の更地か瓦礫状態で、計画されていた焼夷弾投下は不要だった。
 このため次の目標として、同じ四川盆地の奥地にある成都などを爆撃した。同地の爆撃は、戦闘機の随伴が不可能なので重爆撃機隊のみで行われたが、小数の旧式機以外の戦闘機は配備されていなかったため、1つの都市に対して一回の爆撃で十分な成果が出た。そしてこれで、中華民国政府に安全な場所がない事を教え、さらに疎開することを抑止する事もできた。
 しかしこれでも具体的な効果がないので、占領していない奥地の主要都市全域に爆撃を広げる事となった。主な爆撃対象は、武漢から広東の間にある華南内陸部の都市と、華北奥地にある西安などだった。この時西安の爆撃は、日本軍側から中止することが提案されている。と言うのも、歴史的にあまりにも重要な都市だからだ。とはいえ日本が中華民国の士気を気にしたのではなく、歴史的重要性を考えての事だった。唐の時代の長安の都と言えば、日本の歴史でも習う場所だからだ。そしてアメリカも日本及び満州国に配慮するという形で、西安には警告的な意味の爆撃以外は行わない事とした。華南地方の爆撃では、爆撃してすぐにも現地の軍閥が続々と連合軍に降伏していったので、夏の間に爆撃する対象もほとんど無くなってしまった。
 これでも、中華民国が音を上げる素振りを見せないので、9月からは別の手段が講じられる事となった。別の手段とは、四川盆地に至る全ての道路を爆撃することだった。と言うのも、重慶には生産施設が乏しく、四川盆地全体を見ても同様で、武器弾薬は他から運んでくるより他無かった。そしてインドから伸びる道こそが、中華民国の生命線だった。連合軍はこれを爆撃で、道路ごと吹き飛ばしてしまおうと考えたのだ。
 そして道路攻撃、輸送部隊攻撃は戦術爆撃で、戦術爆撃は日本陸海軍が戦前から(ソ連相手に)想定していた爆撃だった。また、主力となるB-25にも向いた任務でもあった。大型のB-17では微妙だが、道路をトラックを狙うならともかく道路を破壊する事ぐらいわけなかった。

 かくして体制を整えた1942年8月末頃から、四川盆地、重慶に至る道路の戦術爆撃が開始される。この爆撃は順調に成果を挙げ、ジリジリと重慶の中華民国軍を締め上げていった。道の方は人海戦術で何とか復旧したたが、輸送による損害で輸送のかなりを受け持たざるを得なかったイギリス本国にも、相応の負担と損害を与えることも出来た。戦略的な意味でも十分な成功だった。しかし10月に入ると四川盆地は霧が出ることが多くなりはじめ、視界が悪くなるので低空に降りての爆撃の危険性が増してしまい、中途半端な状態で爆撃を中断せざるを得なかった。
 一方の中華民国は辛うじて一息ついたが、事態は時間が経てば経つほど中華民国の不利に傾いた。インドからのイギリス本国の援助は、インド洋での連合軍の通商破壊戦の影響などによりさらに減少していたが、それでも為政者達の上に爆弾が落ちてこなくなっただけマシだった。
 だが、連合軍が冬の間何もしないわけではなく、着実に中華沿岸部での統治を安定化させ、奥地への侵攻もしくは降伏を進めていった。1943年春までに中華民国領内の人口のうち80%以上が連合軍の占領下もしくは影響下となる。しかし蒋介石率いる国民党が降伏もしくわ講和を求める事はなく、頑なに徹底抗戦を唱えていた。
 もちろん蒋介石にも徹底抗戦の理由はある。ドイツなど欧州枢軸がソ連を打倒すれば、陸路での連絡と援助が期待できたし、戦争自体がドローになれば支配を取り戻すチャンスがあるからだ。と言うよりも、自分たちの戦局がここまで悪化した以上、中途半端な降伏や講和は、蒋介石や国民党の命運が尽きる事を意味すると考えていた。実際、中華の歴史を紐解いても、その通りだった。彼らは、他力本願とは言え、自分たちが生き残るために戦い続けるより他無かったのだ。
 しかも連合軍は、中華民国とその指導部を「裏切り者」と定義し、特にアメリカが強い怒りを向けていた。今までのチャイナシンドロームがあっただけに、その反動は大きかった。
 なおアメリカの怒りは、中華民国が国家として敵というだけでなく、漢民族敵視にも発展していた。1941年には、1882年に制定されるも既に形骸化して久しい中国人排斥法が戦時と言うことで事実上復活さらには強化された。中華系は、全ての公職から追放され、大学にも入れなくなった。さらには、多くのことでも強い制約が課せられた。当然だが中華地域からの移民は無条件禁止され、この中国人移民禁止法は戦後も長らく維持されることになる。戦争直前にアメリカを逃げ出したチャイナ系もかなりおり、その中には開戦時に渡米していた蒋介石の妻宋美齢も含まれていた。
 また一方では、中華系アメリカ人の青年の一部は軍に志願して、中華戦線での通訳などで活躍し、ヨーロッパにまで進んだ中華系独立大隊も存在した。つまり中華系アメリカ人は、日系人と並んでアメリカ軍として戦った有色人種でもあった。
 だが、事態はさらに悪化し、一部で中華系の暴動が起きたり、新聞を使ったロビー活動などが行われ、結果として政府による中華系排斥が大きく強化される。そして1942年には、中華系住民の殆どを敵性民族だと法律上定義して、国籍剥奪の上に財産没収をして荒れ地に作られた収容所に強制収容してしまう。その数は30万人を越えた。
 これは当時の白人至上主義の結果でもあるが、現代になりアメリカの汚点の一つともされている。

 1943年に入ると、中華民国にとっての戦局はますます悪化した。
 連合軍がインドに上陸し、1月には援助ルートが完全に切断されてしまった。イギリスは口では援助する意志を表明していたが、当のイギリスが援助してもらいたいぐらいの状態で、実際中華民国への援助は完全に途絶えた。昨年のうちに運ばれた兵器や物資では、とても戦争は戦い抜けそうに無かった。特に5月から再開される事が確実視された戦略爆撃を前に、もはや抵抗は無意味と言える状態だった。今度重慶、成都が爆撃を受けたら、地図の上から歴史有る都市が完全に消えて無くなると考えられた。その証拠に、武漢の連合軍基地は大幅に拡張され、数百機の重爆撃機が配備されていた。
 そうして1943年5月15日、連合軍による四川盆地への爆撃が再開される。しかも規模は前年を大きく上回っていた。戦時生産が完全に軌道に乗っていたのもあるが、日本陸海軍、アメリカ陸軍の戦略爆撃通じて空軍力を為政者に認めさせようと言うアーノルド将軍などのエア・フォース・マフィア達が、チャイナでの戦争の決定打として戦略爆撃を位置付けていたからだ。例え弱小国とは言え、戦略爆撃で敵を降伏に追い込むことが出来たのなら、為政者達や他の同業者も空軍力を認めないわけにはいかないという考えだ。そしてアーノルド将軍は、切り札としてカーチス・ルメイ大佐を中華奥地に送り込んだ。
 ただし日本の「戦略空軍」を運用する日本海軍は、特に自分たちの航空隊を独立空軍にしたいとは考えていないため、足並みは今ひとつ揃っていなかった。当初から海軍航空隊を指揮する塚原二四三提督(当時中将)も、現場でのアメリカ軍との協力には労を惜しまなかったが、意見や思惑に違和感を持ち続けたと言われている。

 そして前年より大規模かつ苛烈な爆撃が開始された。
 一回の爆撃には、重爆撃機6個大隊、約300機が基本で、これに1個大隊の戦闘機が随伴した。随伴の戦闘機が大きく減ったのは、それだけ中華民国空軍の抵抗力が低下したからだった。また「B-25」「B-26」などの中型爆撃機は、引き続き四川盆地へと向かう交通網の破壊、移動する地上目標の破壊を、より大規模に開始した。このため中型爆撃機は、地上襲撃型が増えていた。
 もはや中華民国にとって絶望的で破滅的な爆撃であり、高射砲などによる僅かな抵抗も「蟷螂の斧」の状態だった。既にイギリス本国からの援助はなく、援助がなければなけなしの戦闘機が飛び立つことも難しかった。液冷エンジンを搭載した戦闘機は、エンジンの整備が面倒で故障も多いため、整備も重要ながら交換用のエンジンが必要不可欠で、供給できなければ飛ぶことが出来なかったからだ。供与されたレーダーも既に全て破壊されており、連合軍の為すがままだった。
 このため一ヶ月もすると、「目標を探すのに苦労する」と連合軍の爆撃機乗りが不平を漏らすほどで、戦闘機も地上すれすれまで降りて機銃掃射を主な任務とするようになっていた。あまりにやることがなくなったので、民衆蜂起や降伏を促すビラを蒔いたりもした。
 日本陸海軍の指揮官からは、「もったいない」から爆撃を一旦停止してもよいのではという意見も出た。
 だがルメイ大佐は、特に気にした風もなく部下達に命令を下し続け、日本軍には連合軍として歩調を合わせるように求めた。
 敵が降伏するまで全てを吹き飛ばすのが、戦略爆撃だからだ。

 もはや戦争の末期症状だった。
 そして、連合軍はあまり気にしなかった。中華民国は連合軍からすれば「裏切り者」であり、不用意に戦争を長引かせた原因の一つとなっていたので、容赦する理由が無かったからだ。アメリカなどは、中華民国のことを「サンドバッグ」と呼んだ。日本も余計な戦線を作らせ自分たちの国費を目減りさせた元凶として、中華民国に対して悪い感情を強く持っていた。
 そして枢軸陣営の戦争もさらに悪化した。中華民国が期待したロシアでのドイツ軍の攻勢までが失敗するに及び、最早これまでだという雰囲気が防空壕や山間部への疎開で何とか生き延びていた中華民国首脳部を支配した。
 独裁者の蒋介石だけが例外だったが、中華民国にとってもはや害悪でしかなかった。

 1943年7月25日、蒋介石が総統の座から引きずり降ろされた。しかしそこからは事実上の内戦状態に陥り、四川盆地は重慶の残骸を中心に血で血を争う抗争状態に陥ってしまう。蒋介石の親衛隊や秘密警察の忠誠度は意外なほど高く、また蒋介石に連なる人々が全てを失うまいと足掻いたからだ。ただし蒋介石は、内戦初日に半体制派に拘束され、厳重に軟禁されてしまっていた。
 混乱が沈静化するのに約一ヶ月を要し、1941年に重慶を脱出した後に連合軍と接触を持ち、そして連合軍の支援で再び重慶に戻った汪精衛(汪兆銘)らが政権をなんとかまとめあげる。
 そして9月8日、中華民国は連合軍に対して降伏。政府も軍隊もまともな組織を成していないため、全面的な降伏を約束せざるを得なかった。いわゆる「無条件降伏」だ。
 降伏調印は連合軍占領下の上海で行われ、中華民国は戦争から完全に脱落する。
 アジアの一角とは言え枢軸陣営から降伏した国が出た事は、政治的にそれなりの意味を持っていた。欧州枢軸諸国は、表向きの言葉はともかく「所詮は劣った有色人種の国」が降伏したことに、あまり衝撃は受けていなかった。連合軍では、チャイナの降伏は一応戦争の転換点の一つと捉えられた。何より連合軍にとって、東アジアが完全に安定化し、中華地域に展開していた大軍が他に転用できるようになったことに大きな意味があった。

 中華での戦いは、1941年秋に実質的な陸戦にケリが付いたが、その後も約2年近く軍隊は中華地域に展開していた。戦略爆撃部隊以外は小競り合い以上の戦闘をする事は珍しく、主な任務は治安維持と降伏した軍閥地域への進駐、そして占領地全体での占領統治だった。戦車は必要ではなく、移動のためのジープとハーフ・トラックが重宝された。
 占領統治は、1941年11月に上海で最初の「中華地域・連合軍総司令部(C-GHQ)」が置かれ、ダグラス・マッカーサー大将を総司令官、今村均大将を副司令官とした。
 最終的な実戦部隊は、日本陸軍が約20個師団、アメリカ軍が5個師団、満州帝国軍が7個師団相当の30万、自由英連邦軍が1万人程度で、合計約120万に及んでいた。またビルマ方向の雲南方面国境には、タイ王国の部隊が日本軍と共に少数が参加している。
 この戦力で、中華民国の残存部隊を圧迫しつつ、降伏したり恭順した部隊や軍閥、合計約300万人を統治した。支配領域の人口は戦争中に2億人を越え、軍政による統治は当初から難しかった。このため今村均将軍が中心となり、実戦部隊を預かる本間雅晴将軍、岡村寧次将軍(両者共に戦時昇進で少し早く大将に昇進)、アメリカ陸軍のジョセフ・スティルウェル将軍らと進めた。
 そうした中での中華民国、というより中華地域の占領統治の方針が決められていったが、アメリカ政府から多くの権限を与えられた総司令官であるマッカーサー将軍の独善的要素が強く、日本側にも水面下で不満が出ていた。と言うのも、アメリカはトップダウン型の組織で、日本がボトムアップ型の組織形態をとることが殆どだからだ。それでも日本側の代表となる今村将軍の尽力と人徳双方のお陰で、少なくとも連合軍内での問題が表面化したり、関係が悪化することは無かった。マッカーサー将軍も、今村将軍を高く評価してかなりの配慮を見せていた。
 占領される側の不満については、少なくとも戦争中はあまり見られなかった。と言うのも、主にアメリカから連合軍に供給される物資(衣料・食品)の一部が、慰撫のため中華民衆にも配給されたからだ。チャイナでは仕事が少なかった野戦病院による無償医療提供も大好評だった。また、連合軍が現地のものを購入する場合も、正価もしくは少し高いぐらいで購入した。この場合ドルが好まれたが、円でも特に気にされなかった。中華民国の紙くず同然となった紙幣と比べるべくもないからだ。また連合軍も、軍票などをは使わず、必ず正規の紙幣で決済を行い、出来る限り為替は使わずに現金決済を心がけた。
 また占領地には大量の憲兵、MPが派遣されたが、連合軍としては治安の安定による占領コストの低減を目指したものだったが、民衆からは非常に好評だった。軍政としての法制度も日米の基準に沿ったものが暫定的に取り入れられたので、非常に公正だった。各地のマフィア(結社)、連合軍の「恩恵」を受け損ねた中小の軍閥からは不評もあったが、それでも治安は大幅に向上した。そして占領地での税制についても、各地の地方政府(軍閥)をアメと鞭で統制することで、戦前の最も良い時期以上の公正さが実現された。
 マッカーサーは、民衆から「皇帝」と呼ばれたりもした。

 しかし中華地域全体の国家として良い面は、以上の基本的な点だけだった。
 何より、独立を一度剥奪されていた。まともな中央政府が無くなっているのだから当然だが、連合軍は中華民国に対して悪い感情ばかりを持っていた。
 マッカーサー将軍(※実際にまとめたのはスティルウェル将軍とその配下)からアメリカ本国に送られてくる報告書、通称「マッカーサー・レポート」を分析したアメリカ合衆国の中華占領統治準備委員会は、将来の中華地域について今後の混乱の元凶となる全ての要素を排除し、まずは文明国による統治を徹底しようと考えるようになっていた。
 自由主義に基づく民主共和制を敷くアメリカ合衆国から見たら、中華民国の統治は「中世ヨーロッパ並」もしくはそれ以下の中世国家だった。地方政府は暴力、軍事力とセットで支配しているように見えた。中央からの支配・統制も緩く、当然中央政府の統治能力も低かった。これでは確かに全体主義的な独裁政治が必要になるわけだと、納得がいったほどだった。中央政府自体も、「問題」が多すぎて話しにもならなかった。特に全般的に賄賂で物事が運ぶ状態は、官僚制度として最悪と考えられた。
 また中華民国は連合国にとって「裏切り者」であり、単なる敵よりも制裁と罰を与えるべきだと強く考えていた。この点は、裏切られた感情が強い日本も違いは無かった。首相の山梨や外相の幣原は、長い目で見た場合の事を考えてもう少し穏便であるべきだと考えていたが、アメリカと日本国内の世論には逆らえなかった。
 このため連合軍による占領統治は、中華民国の独立を停止(剥奪)した上での長期間の軍政が前提とされた。統治には、中央からの強い命令とそれを物理的に可能とする軍事力による抑止が必要と判断されたからだ。そして軍政により地方軍閥を解体して近代的な地方政府に作り替え、同時に中央政府も連合軍の指導で民主的政府の再構築を目指すこととされた。
 また、独立復帰後は外交や軍事力など国家の基本的な能力は与えるが、近代産業(重工業、先端産業)については多くを与えないことが基本方針とされた。下手に自力生産能力を与えると、勝手に武器を作り始めて再び内輪で対立し、それが解消しても外に向けて軍事力を行使したがる傾向が強いと考えられたからだ。しかも中華民国は、満州地域(満州帝国)を「取り戻す」事を国是の一つにしていたのだから、連合軍としては中華中央の国家に力を与えてはいけないという考えが強かった。この点は、中華統治にある程度の温情を考えていた日本も同様だった。だが、全ての工業を取り上げてしまうと、新たな植民地統治だとリベラル派に言われてしまうので、段階的に軽工業を中心にある程度は認めることとされた。しかし重工業については、長期間支援や技術供与の停止状態が続くことになる。

 なお、国そのものに大きな制裁を加えるので、国家要人に対する処罰は比較的穏便となった。
 総統(首相)の蒋介石と一部大臣、軍指導部の要人など、一部の処刑は実施される事となったが、中枢以外の者は穏便なものとされた。刑罰も禁固刑が中心で、その後恩赦された者も少なくなかった。この処置は、連合軍が文明国である証を世界と後世の歴史に見せるためでもあったが、全ての有力者を処刑してしまうとその後の中華国家の屋台骨全てをへし折ってしまうからだった。
 しかし連合軍が受けた人的損害が少なかったことも、裁判に影響したことは間違いないだろう。中華民国は面倒な敵ではあったが、基本的に弱い敵でしかなかったのだ。
 その他の国民党、軍人、財界関係者についても、各種国際条約違反者、人道にもとる行為をした者以外は、ごく一部を除いて当初の予測よりもずっと穏便な処置で済まされた。ただし、殆どの者が一度は公職から追放され、社会的な制裁も十分以上に実施されている。国民党を支援した財閥も徹底的に解体された。不正蓄財も没収の上で、税金の足しとされた。それを免れたのは、当面必要な汪精衛らの一派だけだった。
 そしてこうした裁判は、1944年春から「上海国際軍事裁判」として戦争中に実施され、戦時中と言うこともありあまり注目される事はなかった。
 蒋介石は、反体制派に拘束されてそのまま連合軍に引き渡され、その後獄中から出ることもなく絞首刑に処され、戦争終結までにこの世を去った。正確な没年は、記録が曖昧という事とされて今日に至るも明らかにされていない。1920年代から中華情勢を左右した人物としては、寂しすぎる末路といえるだろう。

 なお、占領統治後の新たな中華民国像についてだが、アメリカの理想主義が大きく影響した。理想主義とは「民主主義」や「自由主義」とも連動する「民族自決」だ。そしてこそが、チャイナ全体に科した最も思い「罰」だった。
 中華地域には、既にモンゴル人民共和国と満州帝国の例が存在する事も影響して、占領した各地でも小数民族調査がかなり詳細に実施された。この調査はアメリカだけでは短期間でできないので、満州帝国(東鉄)と日本からも膨大な資料が求められた。中華と長い関わりのある英連邦からの意見も求められた。
 基本的に中華民国は、蒋介石を中心とする独裁国家、全体主義国家なので、少数民族が抑圧されていると考えられていた。混乱を避けるため統一国家としての再スタートの方が正統だとして、清朝の事を持ち出した者もいたが、清朝こそが前近代的な帝国主義だと断じられてしまい、最低でも民族自治を大幅に認める連邦制、出来る限り民族ごとの分離独立が相応しいと考えられた。中華民国内からの声はほぼ完全に無視された。
 そしてこの案に、日本なども特に異を唱えなかったが、ソ連が積極的に賛意を示した。そして1942年春先に民族自決の考えが出てすぐに、ソ連は中華民国への宣戦布告と東トルキスタンへの侵攻を行う。これでアメリカに警戒感が出たが、当時ソ連は窮地に立たされた同盟国なのでそれほど強い警戒感では無かった。また日本、満州、そしてアメリカで動く団体が、中華の「民族自決」を求めて強いロビー活動を展開した。彼らは中華地域を牛耳ってきた漢民族に抑圧されてきた人々で、主に満州国に住む人々だった。
 そして占領統治の中で、内モンゴルでの国民党軍の非道、以前から独立を訴えていたチベットへの高圧的な態度などが明らかになると、中華地域の民族自決が基本方針として強く前面に打ち出されるようになる。
 そして戦争中なので、事態は急速に進められていった。
 また、連合軍各国でそれぞれの地域の占領統治と自治政府、後の独立政府作りを手助けすることが決められた。
 基本的には、東トルキスタンがソ連、内蒙古(プリ・モンゴル)が満州(+日米)、チベット地域全域が日本とアメリカ(+英連邦自由政府)の担当とされた。問題となったのは、インドシナ国境に近い南部と雲南地域を中心とする南部奥地だ。様々な少数民族は多いが、歴史的に中華国家に含まれている事がほとんどの地域だからだ。しかし、連合軍に敵対した懲罰的意味合いを持たせる事も考慮された結果、中華中央から切り離す事が決められた。またこれらの地域の独立を補助する目的もあって、海南島の主権が連合軍(後に国連)に移管され、各国により共同占領統治されることになる。
 戦中の計画として中華民国に残されるのは、10〜11世紀にあった宋朝の領域にかなり近い地域だけだった。
 なおチベット、内蒙古によってソ連の「取り分」とされた東トルキスタン、モンゴルは中華中央から切り離された形となり、これも日本、アメリカの戦略だった。そしてソ連も東トルキスタンを得ることで、取りあえずは満足しており、連合軍の勝手な都合で中華地域は切り刻まれることが内定していった。
 この中華分割を、第一次世界大戦の時のオスマン朝トルコと比較する事もある。または、阿片戦争から約百年かけて、ついに分割されたという意見もある。このため連合軍の方がよほど帝国主義だという意見は、今日においても根強い。

 なお、降伏直後の汪精衛率いる中華民国は、内乱後になんとか再編成した政府だったため非常に能力が低下していた。また、戦争中に官僚や軍人の多くが失われるか離散している事も、統治能力の低下を助長していた。このため連合軍が強い軍政を敷くしかなかったのも事実だった。現地政府を立てた上での間接統治が理想だが、したくても出来なかったのだ。しかも中華の多くの者が職業意識ではなく賄賂で動き、賄賂を渡さないと簡単にサボタージュするという酷さのため、連合軍による強い統治が進められる事となる。公正な税制と相応の経済安定があっても変化がなかったので、この点で中華社会に対する連合軍の態度は厳しかった。
 だが戦争はまだ継続中で、これから連合軍はヨーロッパに進軍して行かなくてはならなかった。このため中華地域の統治に多くの労力、兵力を割くことはできず、120万の大軍のうち戦闘力の高い部隊を中心に半数の60万がすぐにも他方面に転用され、当面は残り60万で占領統治を実施する事になる。また残る60万も、順次警備用の軽装備部隊と交代していく。
 しかし60万では十分な数では無かったので、C-GHQ(中華地域・連合軍総司令部)は統治に軍閥など中華既存の軍事組織を、連合軍による再教育と訓練、そして監視のもとで利用せざるを得なかった。必然的に統治能力は低下したが、既に中華地域で連合軍に敵対する国家、政府がない事と、戦時と言うことで許容された。だが統治の一部を現地に任せた事は、その後の中華地域での混乱の呼び水になってしまう。

 また部隊の移動に伴って、人事も大幅に変更された。
 C-GHQ総司令官は、1943年11月に今村均大将に交代した。ダグラス・マッカーサー大将は、アメリカ政府からヨーロッパに進む陸軍を率いる総指揮官に指名されたため本国に戻ることになり、長らく過ごした東アジアを離れた。その際、中華戦線で長く行動を共にした本間雅晴大将を、アメリカ軍が日本軍を指揮下に置く際の総指揮官とする事をマッカーサーが望み、日米協調を考えた日本政府、陸軍もマッカーサーの要望を叶え、本間はマッカーサーと共に大西洋からヨーロッパに進んでいく事となる。
 以後、中華地域の占領軍総司令官として長らく過ごすことになる今村均大将は、アメリカというよりマッカーサーが引いたアメリカ的統治の道筋に東洋的統治を巧みに織り込み、また現地の人々とよく話し合う事で比較的穏健な占領統治を行った。このため連合軍内、日本陸軍内での評価よりも、元中華民国の政府、軍人からは非常に高く評価され、「仁将」と尊敬されたほどだった。
 とはいえ、これ以後の中華地域は混乱の時代へ突入し、新たに成立していく世界的な対立構造の中での最前線の一つとなっていく事になる。



●フェイズ34「第二次世界大戦(28)」