●フェイズ37「第二次世界大戦(31)」

 1943年12月6日、南アフリカがイギリス本国からの離脱を宣言し、英連邦自由政府への参加を表明した。
 国内及び近隣にいた少数のイギリス本国の兵士、役人は拘束され、だたちに英連邦軍など連合軍が入った。
 これにより連合軍は、「アーシアン・リング」つまり地球をぐるっと一周する交通路を完成させることになる。地中海方面の交通網がないので完全からはかなり遠いが、これで連合軍はインド洋から南大西洋を経てアメリカを結ぶことが出来るようになった。
 そしてこの事に象徴されるように、戦争は徐々に加速していた。
 特にサハラ砂漠以南のアフリカ大陸とヨーロッパの事実上の分断に成功したので、チャイナ、インドで大幅に浮いた戦力のうち軽装備部隊を中心にして様々な部隊を編成し、これを旧式の巡洋艦程度の艦隊が護衛する攻略部隊に載せて、順次欧州陣営側に属するアフリカ各地の植民地へと攻め入った。この戦闘には南アフリカ軍も連合軍として参加しているが、もとがイギリス、フランスの植民地がほとんどなので、自由イギリス軍、自由フランス軍もかなりの数が参加した。多くの場所で、形だけ抵抗して降伏するか連合軍に寝返る事が殆どだった。大規模な戦闘はほとんど無かったが、中には抵抗を見せる場所もあり、マダガスカル島のように約10万の兵力を投入して制圧に二ヶ月以上かかった場所もあった。
 しかし44年の半ばには、ほぼ全ての勢力図が塗り替わってしまう。
 その中で、ダカール陥落後も西アフリカ戦線は動いていた。

 1943年12月には、一ヶ月前にダカールを落とした艦隊の一部とアメリカ本土から襲来した上陸部隊によって、ダカールから約500キロメートル北上したヌアクショットと、さらに250キロほど離れたスペイン領西アフリカギリギリのヌアジプーが攻略された。西アフリカ沿岸は海岸まで砂漠が迫り、この二カ所ぐらいしか飛行場が作れそうな場所が無かったからだ。
 連合軍の目的は、それぞれの場所に飛行場を開設することだった。目的はモロッコ、ジブラルタル侵攻のためで、同地域自体の価値は無かった。加えて言えば、飛行場としての価値も低かった。というのもモロッコとの間には、スペイン領西アフリカがあり、その沖合にもスペイン領のカナリア諸島が存在しているからだ。このためダカールから直線距離で2500キロのカサブランカには、空路で行くには大きく迂回しなければならず、ごく一部の機体以外では偵察すら無理だった。B-24を軽荷状態で追加の燃料タンクを搭載して何とか往復できるが、有効な大規模爆撃は非常にコストパフォーマンスが悪かった。
 2500キロという距離は、別の場所で例えるとニューファンドランド島とアイスランド島に匹敵し、まともな飛行距離ではない。このため連合軍は、少しでも近い場所を占領して飛行場を開設したのだ。ヌアクショットには重爆撃機の飛行場が即席で造成され、半島部でスペイン領との境界でまともな平地の限られたヌアジプーには、少数の哨戒機と戦闘機用の小さな飛行場が開かれた。後者の占領は、どちらかと言えば枢軸に使わせない為の占領と駐留だった。

 しかし陸上の航空隊は、あくまで偵察と支援が任務だった。枢軸軍の航空機が溢れるモロッコ、ジブラルタルを攻撃するのは、一撃でダカールを粉砕した海軍の空母機動部隊の役目だった。
 ただし編成は、ダカール攻略から一部が変わっている。アメリカの空母がさらに増えたのに対して、《翔鶴》などの日本の空母部隊は戦列から外れていた。というのも、1944年春には日本海軍の主力部隊が日本本国でのオーバーホールと即席の改装を行ってすぐに、地球をほぼ一周して大西洋へと大挙やってくるからだ。このため1942年の夏からカリブ、大西洋で戦っていた日本艦隊は、合流と合同訓練のためアメリカ本土に一旦戻っていた。十分な体制を整えられるだけの戦力が連合軍にある証拠だが、連合軍の思惑としては、日本海軍とアメリカ海軍が交互に戦うことで今後の作戦を連続的に実施しようと言う意図があった。
 これは欧州枢軸の洋上戦力、洋上戦闘可能な航空戦力を侮ったわけではなく、日本、アメリカ双方の空母機動部隊が単独でも敵を粉砕できる戦力が整えられたと考えられていたからだ。実際、1944年2月の時点で、アメリカ海軍の空母機動部隊は、大型空母9隻、軽空母8隻が実戦配備に就いていた。うち1隻が損傷修理中だが、それでも稼働高速空母数は16隻、艦載機総数は1100機に達していた。少し後に再編成される日本海軍・聯合艦隊・大西洋艦隊・第一機動部隊も、大型空母8隻、軽空母8隻、高速戦艦8隻、艦載機総数850機を数える、日本という国のことを考えれば空前の規模に膨れあがっていた。
 その上にダカールでの圧勝があったので、モロッコを攻撃する連合軍は自信満々だった。

 守る側の枢軸側は、モロッコにはフランス空軍、イタリア空軍がそれぞれ1個航空艦隊規模の部隊を置いていた。それぞれ500機程度の第一線機で編成されており、ドイツ、イギリスからの技術支援や機体の供与によってかなりの戦力となっていた。加えて、逃げ場のないダカールで壊滅したドイツ空軍の第5航空艦隊が、配備が遅れて難を逃れた部隊にいくらか増援を付けた上で、事実上の新規編成の形でモロッコに配備されていたので、さらに200機以上が加わる。
 しかし1944年1月ぐらいになると、モロッコに展開するイタリア空軍のうち約半数が他方面への移動を開始する。理由は、インドから進んできた連合軍が中近東で激しい攻勢を行っていたからだ。モロッコも守らなければならないが、圧倒的な航空戦力で現地枢軸軍に極めて不利な航空撃滅戦を継続してしかけ続けていたからだ。イギリス空軍・オリエンタル軍団、ドイツ第3航空艦隊だけでは支えきれず、支援のため今まで派遣規模が限られていたイタリア空軍が大量に派遣されることになったのだ。それにイタリアにとっては、東からの防衛の方が本土防衛に直結していた。
 そして連合軍は、枢軸側の兵力移動のスキを突く形でモロッコへと攻撃の手を伸ばした。
 連合軍というよりアメリカのこの時期の想定では、この攻撃を先駆けとして、春にはモロッコに上陸作戦を決行する予定だった。そして年内には、最低でもイタリアのローマを越えている予定だった。

 1944年2月17日から18日にかけて、「カサブランカ沖航空戦」が展開された。
 この時枢軸軍は、連合軍の大機動部隊がアメリカ東岸を出撃して、再びアフリカ西岸を目指していることを察知していた。動かず潜むことで生きながらえている潜水艦と無線傍受から得られた情報で、かなり正確に情報を察知していた。
 どこを攻撃するのかは分からなかったが、ほぼ確実にモロッコのどこか、ジブラルタル海峡周辺かモロッコの中心都市カサブランカと予測した。
 念のためジブラルタル駐留の小規模な偵察艦隊と、反撃のためにアルジェリアのオランで待機していた中規模のフランス艦隊は、さらに地中海奥地へと待避した。
 そして多数の哨戒機と待機していた潜水艦が出撃して、連合軍艦隊の動静を正確に察知しようとした。モロッコ西部各所の航空基地も臨戦態勢に入り、24時間体制で迎撃準備に入った。

 2月16日、アメリカ軍の4つに分かれた大機動部隊の一部の捕捉に成功。最初に接触した偵察機は直ちに迎撃した加速力を高めた特別仕様のF4U コルセアに撃墜されたが、これで連合軍の目的がハッキリした。連合軍の目標はカサブランカ。上陸作戦ではなく、付近に展開する欧州枢軸軍空軍の壊滅が目的と考えられた。しかし空母部隊は移動が容易くまた高速で移動できるため、目標の変更も容易と考えられた。今までも、欧州枢軸側は何度も煮え湯を飲まされていた。
 このためジブラルタル方面以外の航空隊を安易に動かすこともできず、それぞれの現場で迎撃体勢を整えることになる。
 この時カサブランカ方面は、カリブから後退してきたフランス空軍を主力としてイタリア空軍も少数が残っていた。ドイツ空軍の第五航空艦隊(200機)は、ジブラルタル方面に展開していた。
 迎撃の主力機はフランスが「ドボアチン D520M」。いわゆるイギリス製のマーリン・エンジン搭載型で、この当時は「D521」と呼ばれていた。しかし主な機体の武装は、フランス空軍が戦前から使っていた7.5mm機銃ではなく20mm機銃に強化されていた。カリブで戦ったアメリカ軍機が非常に丈夫なためだ。数が少ないため支援の役割となるイタリア空軍は、「マッキ MC.202M ファルゴーレ」が主力だが、「MC.205」と「フィアット G.55」戦闘機が一部姿を見せていた。双方ともに、本来はイギリスの新型の液冷エンジン(グリフォン・エンジン)を搭載しており、高い速度性能を誇った。しかしグリフォン・エンジン搭載型はエンジン出力が高すぎて操縦性が悪化した上に、エンジンの燃費はマーリン以上に悪いため、航続距離の問題から戦争終結までマーリン搭載型との併用となった。加えて、熟練パイロット専用の向きも強かった。このため、一つ前のエンジンとなる強化型のマーリン・エンジンを搭載したタイプの方が各部隊から好まれた。イタリア空軍がジブラルタルに残したのも、そのためだ。
 また機銃については、イタリア空軍も全面的に20mm機銃を搭載するようになっている。
 またフランス、イタリア共に一部の航空隊が、「スピットファイアMk.V」か「スピットファイアMk.VIII」、他国への大量供与がは始まっていた「フォッケウルフ Fw190A」を装備していた。「Bf109G」については、他国でも似たような性能の機体があるのと、フランスなどが(侵略された象徴として)嫌ったためあまり供与されなかった。「フォッケウルフ Fw190A」は、欧州大戦が終わった後に登場したのが幸いして、「欧州の戦闘機」としての地位を確立できたと言える。
 そしてモロッコでは積極的な迎撃も想定していたので、攻撃機、爆撃機も多数展開していた。国を問わず最も数が多いのは、イギリスの「ヴィッカーズ・ウェリントン」。43年になると旧式化していたが、量産しやすく性能がそれなりに優れ操縦も容易だった。何より航続距離が長く沿岸哨戒任務に向いていた。しかし洋上攻撃だと雷撃が必要なので、イギリスから供与されていた「ブリストル・ヴォーフォート」や「ソードフィッシュ」などフェアリー社の各種雷撃機もあった。新型機の開発は行われていたが、開発の失敗が続いていてなかなか後継機が登場していなかった。
 イタリア空軍は、自国製の「サイボア・マルケッティ SM.84」をかなりの数持ち込んでいたが、既に多くはリビア方面に移動していた。フランスは、爆撃機の自力開発をドイツから事実上止められていたため、イギリスからの供与機以外だとドイツの「ユンカース Ju88」の雷撃機型をかなりの数モロッコに持ち込んでいた。
 大型の4発機がないのは、機体コストが高いのとフランス、イタリア共に殆ど保有していなかったからだ。しかしイギリスもドイツも保有数は限られていたので、欧州枢軸の爆撃機、攻撃機といえば双発機が主力だった。(イタリアは中型の3発機だが、全体として数は少ない。)

 枢軸側に対して、アメリカ海軍単独となる連合軍の空母機動部隊は、稼働高速空母数16隻、艦載機総数は1100機を擁していた。
 以下がこの時の陣容になる。

・第28機動部隊(TF28)(艦隊司令:ハルゼー大将)
 ・第1群
CV:《エセックス》《レキシントン二世》
CVL:《ベローウッド》《カウペンス》
BB:《アイオワ》《ニュージャージ》
CG:2 CLA:2 DD:16
 ・第2群
CV:《エンタープライズ》《ホーネット》
CVL:カボット》《サン・ジャシント》
BB:《インディアナ》《サウスダコタ》
CL:3 CLA:1 DD:15
 ・第3群
CV:《ヨークタウン二世》《サラトガ》
CVL:《インディペンデンス》《プリンストン》
BB:《ワシントン》
CG:1 CL:2 CLA:1 DD:14
 ・第4群
CV:《バンカー・ヒル》《イントレピット》
CVL:《ラングレー二世》《グァンタナモ》
BB:《アラバマ》《マサチューセッツ》
CL:2 CLA:2 DD:16

(CV=空母、CVL=軽空母、BB=戦艦、CG=重巡洋艦、CL=軽巡洋艦、CLA=防空巡洋艦、DD=駆逐艦)
(※保有する高速空母のうち CVL《モンテレー》が修理中)

 圧倒的な洋上戦力であり、辛うじて対抗できるのは日本海軍の第一機動部隊(※この時はフロリダ半島周辺で編成中)だけだった。しかも艦隊はこれだけでなく、後方には戦力補充用の艦載機を搭載した護衛空母群、洋上補給のための高速タンカーを中核とした船団が展開していた。さらに前衛には多数のガトー級潜水艦が布陣して、周辺には敵潜水艦を警戒するハンター・キラーの小規模な艦隊が3つ展開していた。動員された艦艇数は、機動部隊単体の約二倍の200隻に上っていた。
 アメリカ海軍が自信を持つのも当然の大艦隊だった。
 この艦隊の強さは、三ヶ月前のダカールでも実証されたばかりで、日本海軍の1個空母群の替わりに新造艦が多数加わっていたので、実質戦力はほぼ同じだった。

 戦闘は欧州枢軸側から開始された。
 ダカールでの例で見るように、先制で大規模空襲を受けたら一カ所に戦力を集中してくるので、防戦側がじり貧になる可能性が高いからだ。カサブランカ周辺とジブラルタル周辺はそれぞれ航空司令センターが設けられ、レーダーと無線による航空管制網が構築されていたが、空母機動部隊の戦力密度と一撃での集中性は、陸上での航空戦とは次元が違っていた。
 このため欧州枢軸側は、アメリカ艦隊が攻撃する前夜に洋上で攻撃を開始した。攻撃したのはドイツ軍のUボート多数を含む、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの潜水艦約50隻だった。飽和攻撃で、敵のハンター・キラー部隊と各機動部隊の駆逐艦部隊を突破しようとした。さらに敵の混乱を主目的として、レーダー搭載の中型攻撃機による夜間攻撃隊を編成して送り出した。
 この攻撃は、双方に大きな混乱をもたらした。
 夜間攻撃機部隊は、アメリカ軍のレーダー・ピケット任務の駆逐艦に早くに捕捉され、各母艦を飛び立ったレーダー搭載の夜間戦闘型「F6F-N (通称:ナイトキャット)」隊の迎撃を受けてしまう。それでも五月雨式に攻撃したため、かなりの数がアメリカ艦隊に到達し、花火大会と言われた激しい対空砲火の中に飛び込んで攻撃した。この攻撃では、アメリカ艦隊は一部護衛艦艇が損傷しただけで、欧州枢軸の攻撃機約100機は攻撃力をほとんど無くした。夜間なので戦闘機に撃墜された機体は比較的少なかったが、レーダー射撃をしてくる戦闘艦艇の対空砲火は逃れられなかった。しかもかなりの艦でVT信管も使用されているため、撃墜率は枢軸側の予測を大きく上回っていた。帰投した機体もかなり被弾しており、翌朝の攻撃には使えなかった。
 しかしアメリカ艦隊に混乱をもたらすことには成功し、その隙を突いて一部の潜水艦が、アメリカ軍が苦労して作り上げた対潜水艦陣形を突破した。
 だが夜間雷撃は、熟練した潜水艦乗りでも難しい攻撃だった。潜望鏡が使えないに等しいからだ。しかもアメリカ軍の対水上レーダーはマイクロ波なので、潜望鏡を海面に出しただけでも捕捉される可能性が十分にあった。護衛の駆逐艦のソナーだけで十分に脅威だし、この頃にはアメリカ軍の駆逐艦もほぼ全てが日本海軍が発明したものを改良した前方投射型の多連装対潜迫撃砲塔(通称「斜め煙突」)を装備していた。そして潜水艦の多くは、ダカール沖同様に連合軍のハンターキラー部隊に捕捉され、目的達成ができなかった。

 それでも各所で駆逐艦対潜水艦の激しい戦いが展開され、戦場はより混乱した。そうした中、真に熟練した潜水艦乗り達が繰り出したギリギリの攻撃により、全ての中心に位置するアメリカ海軍の大型艦数隻に水柱が奔騰する。
 これが複数の被雷なら、アメリカ海軍が誇る最新鋭の空母や戦艦でも大きな損害を受けてしまう。しかしドイツ海軍がだけがもつ誘導魚雷は、騒音問題から速度が遅くて艦隊攻撃は無理で、夜間雷撃なので集中的な雷撃は至難だった。しかもアメリカの護衛艦は非常に勇敢で、魚雷の航跡を見つけると躊躇無く我が身を割り込ませていった。
 この夜の攻撃で、アメリカ艦隊は大型空母1隻、軽空母1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻が損傷後退を余儀なくされ、駆逐艦2隻が沈んだ。他に、作戦は続けるも戦艦1隻が被雷した。しかしこの戦果の代償として、枢軸側の損害はダカールよりも大きく、出撃したうち三分の二の潜水艦が帰投しなかった。
 だが、攻撃は無駄ではなかった。与えた物理的損害ではなく、早朝前から開始される攻撃隊の発進スケジュールが大きく乱れ、夜間戦闘はパイロット達に大きな心理的負担を強いたからだ。それでも、勇猛な指揮官として知られるハルゼー提督は、一部参謀の仕切直しの声を退けて徹底した攻撃を命令した。

 米空母機動部隊の戦力は10%以上低下(1/8低下)していたが、艦隊各将兵、パイロットの士気は高く、次なる勝利を目指して艦載機は次々に母艦を後にした。
 攻撃隊に参加した艦載機は、「F6F ヘルキャット」戦闘機、「F4U コルセア」戦闘機、「SB2C ヘルダイバー」偵察・爆撃機、「TBF アヴェンジャー」雷撃・爆撃機だ。母艦の一部は「SBD-3 ドーントレス」偵察・爆撃機も搭載していたが、最初の攻撃には参加していなかった。
 「SB2C ヘルダイバー」偵察・爆撃機は、最後のカリブでの大規模空襲が初陣で、この頃にはほとんど更新されていた。だが開発された頃は問題も多く、なかなか実用化には至らなかった。このためアメリカ海軍は、保険として日本の愛知飛行機が開発した「一式艦上爆撃機 彗星」を数機購入して評価試験をしたほどだった。性能自体は多くの面で彗星が高く、一事はつなぎとしての採用すら考えられた。だが搭載に際しての占有面積がヘルダイバーの方が小さく、やはり国産という声に押されて彗星の採用には至らなかった。だが、彗星の水上機型(本来の形の「彗雲」)が非常に気に入られ、愛知飛行機と契約して大戦終了までに約500機購入して艦艇にも搭載されている。
 また「F4U コルセア」の艦載機化が進んだ。当初はコクピットの位置、機体構造、着艦速度などから着陸が難しいとされたが、改良型が生産されることで空母への搭載が行われるようなっていた。しかし、馬力と搭載量を買われて戦闘爆撃機としての側面が強く、戦闘機としては補助的な役割が与えられていた。しかし戦闘爆撃機としては非常に優れており、日本海軍も優秀性を認めて導入したコルセアを戦闘爆撃任務に好んで投入している。また英連邦など他の国にも多数貸与、供与されており、連合軍を代表するアメリカ海軍の戦闘機となっていった。

 アメリカ軍の攻撃隊は、空母艦載機総数が既に1000機を割り込んでいたし、夜襲を受けたことから防空任務にもかなりの数の戦闘機を割かざるを得なかったため、第一波350機、第二波250機となった。これに対して、カサブランカ方面の欧州枢軸軍は、フランス空軍400機、イタリア空軍150機が展開していた。(※ジブラルタル方面はフランス空軍250機、ドイツ空軍150機、オランダ空軍50機)
 アメリカ軍の第一波350機のうち約200機がF6F、F4U戦闘機で、まずは制空権を奪う定石の配置だった。これに対して三分の二が戦闘機のフランス、イタリア空軍部隊は、航空管制に従って戦闘機を抑え込んでいる間に、攻撃機を迎撃しようと試みる。カサブランカはダカールよりも優れた管制能力を有していたし、レーダーを搭載した偵察機、哨戒機の数も多かったため、欧州枢軸側は優位な位置を占めることができた。また、アメリカ艦隊の攻撃隊発進が夜間の戦闘で遅れた事も、展開の段階で欧州枢軸側の優位に働いた。ダカールの時は出遅れた欧州枢軸側だが、今回はアメリカ軍の攻撃が少し遅れたため、有効な迎撃が行えた。
 そこからは、その日一日は潰し合いとなった。
 どちらも決定打はなく、ダカールであれほど猛威を振るったアメリカの空母機動部隊も、果敢な攻撃がかえって裏目に出て望んだ戦果は得られなかった。
 その日の夜も、欧州枢軸の潜水艦とアメリカ艦隊の死闘が展開されたが、ここでは欧州枢軸側が早くも息切れしてしまっていた。初日に沈むか傷ついた潜水艦が多い上に、夜間爆撃機も形だけしか出来なかったため、アメリカ艦隊の受けた損害は少なく、欧州枢軸側は多くの潜水艦を失うこととなった。

 そして翌日。
 夕方に一旦沖に離れ、深夜に反転して再び近づいたアメリカ艦隊は、今日こそはカサブランカの航空戦力撃滅を企図して、大編隊での攻撃を実施した。艦載機数は70%を割り込んでいたが、この日は防空任務の戦闘機も一部攻撃隊に随伴させ、制空力、突破力を高めていた。
 そしてハルゼー提督が目論んだ通り、フランス、イタリア空軍はこの日のアメリカ軍の攻撃を防ぎきれなかった。各所で黒煙が噴き上がり、飛行場は大損害を受けた。しかし連合軍が航空機の撃滅を目的としていたので、枢軸側が予測したレーダーサイトはかなりが稼働しており、配置していた高射砲の多くが空振りに終わった。
 しかしこの日は、枢軸側も昼間に出せるだけの航空隊を繰り出していた。このままではじり貧で、配備している爆撃機、攻撃機が無為に失われる恐れが高かったからだ。加えてこの日は、ジブラルタル方面から攻撃隊を送り込むことになっていたので、攻撃隊を出す必要があった。
 この日の午前8時頃から、アメリカ艦隊外周のアメリカ艦隊が設定した迎撃ゾーンでは、迎撃任務のF6Fヘルキャットと、欧州枢軸側の戦闘機、爆撃機の間で激しい空戦が行われた。空襲はほとんどの場合五月雨式の小規模なもので、艦隊全体での航空管制を取り入れていたアメリカ艦隊は、効果的に戦闘機を配置する事で攻撃を凌いでいた。だが、ジブラルタル方面からの攻撃は予測を上回っており、迎撃網が突破されてしまう。
 突破してきたのは、Fw190Aを露払いとしたドイツ空軍の「ハインケル He177 グライフ」の編隊だった。
 同機体は一見大型の双発機だが、エンジンを並列で2機ずつならべた変わり種の4発機だった。またドイツ初の戦略爆撃機だが、爆撃対象がソ連しかないので空軍からの無茶な要求を受け入れて緩降下爆撃ができるようにするなど、戦術爆撃機要素を強めて完成した機体だった。並列配置からくるエンジンに起因する故障や事故が多く、最後まで兵器としての実用性に乏しかったが、洋上での長距離進出能力が欲しかったドイツ空軍が実戦配備させた。この時ジブラルタルには予備を除いて約50機が配備されていたが、飛び立ったのは38機。さらに6機が往路でエンジン不調で引き返したので、アメリカ艦隊の手前まで至れたのは32機だった。十分に整備した機体ばかりだったので、この時の稼働率は非常に高かった。稼働率が3分の2程度でも非常に高いところに、この機体の問題点を見ることが出来る。
 そして大型攻撃機の存在をアメリカ艦隊は重視し、多くの迎撃機を向かわせる。このためグライフ隊は、攻撃に入るまでに半数以上が撃墜または撃破された。しかし高々度からの緩降下によって戦闘機を振り切れる高速に達してからは、戦闘機による迎撃を振り切ることに成功した。ドイツ側の目論見通りだった。だが、次は高射砲弾の弾幕に突っ込み、「的」が大きいため次々に被弾。しかも高速を出しすぎていたため、せっかく搭載していた誘導爆弾フリッツXまたは誘導ミサイル「ヘンシェルHs 293」を十分に誘導することが出来なかった。それでも10機以上が、抱えていた各種爆弾を投下。うち3発が、艦隊中心部に展開する各空母、戦艦に直撃。さらに2発が至近弾となってすぐそばの海面に着弾して大きな水柱を吹き上げた。その代償として、攻撃したグライフは僅か2機しか帰投出来なかった。
 戦艦の甲板装甲すら貫くフリッツXは、被弾した2隻の空母と1隻の戦艦(インディアナ)に損害を与えた。至近弾を受けた1隻も、ドックでの修理が必要なほどの大損害を受けた。Hs 293も命中したが、これは被弾した空母のうち1隻の損害だと判定されている。そして通常爆弾だったため、十分な破壊力では無かった。
 しかし、タフネスなエセックス級空母を1発で沈めるほどの打撃ではなかった。もともと船体上部の防御力に秀でていたし、アメリカ海軍のダメージコントロール技術が優れていたこと、乗組員の献身的な消火作業があったこと、格納庫や飛行甲板に艦載機や燃料、弾薬が少なかったこともあって致命傷とはならなかった。また被弾した軽空母は、フリッツXが船体を貫いた瞬間に爆発したため、大きく破壊されるも大破に止まった。

 アメリカ艦隊は、空母3隻の戦線離脱を余儀なくされてしまう。二日前の夜戦の損害を加えると5隻の離脱となり、戦闘での損害を加えると艦載機戦力は60%近くにまで低下してしまう。また二日目の空襲ではさらに数隻が被弾しており、うち1隻が空母だった。この空母は艦載機運用能力は維持していたが、戦力は低下していた。
 そして今回の作戦は、上陸作戦ではなく北アフリカ西岸の航空戦力を減らすことが目的だったため、この時点でアメリカ海軍は作戦の終了を決める。本来は最低でももう一日、敵の抵抗が弱まっていれば洋上補給後にさらに2日の攻撃を予定していたが、作戦を中途半端に終えねばならなかった。猛将として知られるハルゼー提督も、作戦中止命令を受けたときの罵声をよそに、全艦隊に反転を命令した。
 一方モロッコの欧州枢軸空軍だが、カサブランカ方面の約600機のうち、3分の2の機体が破壊され、無理な攻撃により攻撃機の機体とパイロットの損害は80%を越えていた。
 ジブラルタル方面も無傷ではなく、稼働機450機のうち150機近くが失われていた。これは二日目に増援としてカサブランカ方面に送り込まれたり、敵艦隊を攻撃したときに発生した損害だった。
 合わせると、機体は半数以上が損害を受けていた。このうち10%程度は修理可能だが、無視できる損害では無かった。パイロットの損害は、撃墜されても落下傘で脱出した者も多いので30%程度だったが、やはり洋上に出撃した攻撃機、爆撃機パイロットの損害が深刻だった。
 カリブやインド洋での戦いでもそうだが、連合軍艦隊の防空能力が大きいため、攻撃すると必ず大損害を受けた。そして洋上飛行ができる攻撃機、爆撃機パイロットはもともと数が少なく、そして育成にも時間がかかるので損害からの回復は容易ではなかった。
 機体の損害自体は、戦時生産のおかげで連日起きる損害でなければ十分に許容範囲だった。機体、パイロットの損害は、この時点で現在進行形で進んでいた中東での激しい航空撃滅戦で受ける損害と消耗の方が遙かに深刻だった。だからこそ、攻撃機パイロットの損失は欧州枢軸軍首脳部からは軽視されてしまった。

 「カサブランカ航空戦」は、双方が勝利宣言した。
 だが戦略的には連合軍、というよりアメリカ海軍の敗北だった。与えた損害に比べて、受けた損害の方が予測よりずっと大きかったからだ。この損害は急速に拡大した艦隊に対して、乗組員、パイロットの育成が追いついていない事も強く影響していたが、やはりアメリカ海軍自身が自らの力を過信しすぎたから被った損害であり打撃だった。
 そしてこの戦いが連合軍の戦略的な敗北なのは、その後の連合軍の戦争スケジュールが変更を余儀なくされたからだ。
 本来連合軍は、カサブランカへの空襲で欧州枢軸側に打撃を与えるよりも、モロッコ侵攻の前段階だと思わせる事が目的だった。そして欧州枢軸軍の増援部隊がモロッコに到着した頃、フロリダで再編成が終わった日本の機動部隊が次の作戦を発動する予定だった。そしてがら空きとなったモロッコに進撃し、海空戦力のないジブラルタルを難なく奪い取る目算を立てていた。
 二つの巨大な空母機動部隊を用いた連続した作戦により、欧州枢軸軍の予測を上回る速度と戦力で連続して攻撃して、一気に戦争のイニシアチブを握って戦争自体を早めようと言うのがこの頃の連合軍の戦略構想だった。この戦略を「カートホイール」と言い、特に日米海軍関係者は大きな自信を持っていた。
 しかし実際は、最初の時点で躓いてしまう。
 このため、4月に予定されていた日本艦隊を用いた大規模な攻撃は延期を余儀なくされた。

 だが戦争に齟齬は付き物なので、より上位の各国総司令部は「別の両輪」の片方を回す、もしくは「万力(バイス)」を強める事とした。

●フェイズ38「第二次世界大戦(32)」