●フェイズ45「第二次世界大戦(39)」

 1944年5月から7月にかけて、ヨーロッパ周辺へと移動しつつあった3つの戦線は激しい動きを見せた。戦争の大転換期と言われることもあるほどの変化だった。
 全て連合軍の攻勢の結果であり、連合軍はアイスランド島とクレタ島を陥落させ、ソ連軍を中心としたロシア戦線は南部の要衝クルスクを奪回し、さらなる前進を続けていた。ナチスドイツを盟主とした欧州枢軸は防戦一方に追いやられ、国力差、生産力差から押しとどめる以外の戦略的手段が無かった。従来の戦争ならば負けを認めて講和を求めるという手段もあったが、「イデオロギー・ウォー」でもある第二次世界大戦ではそれも通用しない。その事は、中華民国の悲惨な末路が全てを物語っていた。
 「戦争を終わらせるための戦争」とすら言われた第一次世界大戦よりも過酷で容赦のない戦争こそが、第二次世界大戦だった。

 そうした中、戦争の大転換期から取り残された欧州枢軸の牙城こそが、ジブラルタル海峡を抱えるモロッコ戦線だった。
 当時モロッコ戦線は、ダカールに陣取る連合軍が航続距離に優れた重爆撃機を少数ずつ定期的に飛ばすだけの戦場だった。間に中立国スペインの植民地があり、海と砂漠で大きく隔てられているので、地上侵攻も不可能だった。連合軍の侵攻は海からの渡洋侵攻と強襲上陸以外なく、それは1944年2月の航空戦の失敗でとん挫していた。
 連合軍がモロッコに本格的に侵攻して確固とした足場を確保すれば、欧州枢軸の北アフリカ戦線の全面崩壊を意味していた。そうなれば、戦場はいよいよ欧州本土となる。しかし最初の戦場はイタリアがほぼ確定しており、不安定な政治状態にあるイタリアが徹底抗戦するかが不透明だった。地中海に面するフランスも、動揺が広がると予測された。それ以前の問題として、欧州世界は地中海が丸裸となり「柔らかい下腹部」を連合軍にさらしてしまう事になる。
 その予兆のような攻撃がアメリカ軍の手によって行われる。

 1944年6月16日、アイスランド、クルスクでの戦いが終わったすぐ後、今度は南から連合軍がやって来た。
 エジプトのポートサイドを離陸して成層圏から飛来したのは、第8航空軍に属する「ボーイング B-29 スーパーフライングフォートレス」超重爆撃機63機の編隊だった。
 「B-29」は、第二次世界大戦後半を代表する戦略爆撃機だった。同時にアメリカでしか作り得ない、時代を超越するほどの革新的な超兵器だった。
 全長30メートル、全幅43メートル、自重32トンの巨体ながら、最高時速576キロで飛行することができる。航続距離は最大で6600キロメートルで、最大爆弾搭載量は9トンにも達するなど、全ての面で従来の重爆撃機の常識を凌駕していた。この性能を知って、日本軍は自らの重爆撃機の開発計画を大きく上方修正するか、最悪白紙撤回したほどだった。
 しかも、単にカタログスペックが高性能なだけでなく、随所に最新技術が投入されていた。遠隔操作の防御銃塔、余圧式の乗員区画など優れた装備を持ち、その上成層圏を飛行することが出来た。
 当時成層圏は、いわば「神の領域」だった。空気が薄くなり酸素が必要なエンジンの出力が大きく落ちるため、普通の飛行機では例え高性能でも飛ぶのがやっとだった。飛ぶためには、エンジンに圧縮された濃厚な空気を送り込む排気タービン過給器(ターボチャージャー)を搭載する必要があった。これは当時アメリカだけが量産化に成功した装備で、B-29はこれも装備して成層圏で活動できる世界初の重爆撃機だった。

 「B-29」の編隊は枢軸側のレーダーに捉えられたが、すぐにも混乱が起きた。
 まず、巡航速度が今までの重爆撃機よりも速かった。今まで最も速い巡航速度を持つ重爆撃機は、やや旧式化したとはいえまだまだ現役の日本の「深山」だった。だが未確認機は「深山」より50キロ以上速かった。しかも高度を測定するレーダー情報が正しければ、高度9000メートル以上という今までにない高々度を飛行していた。今までは、高くても8000メートル程度だった。酸素マスクや電熱服があっても、人としての限界を超えてしまうからだ。
 つまり、生半可な迎撃では全く対応できない状態だった。
 この時期の欧州枢軸側も、遠からず連合軍の本格的な都市無差別爆撃(=戦略爆撃)が始まることは予測していた。そのための準備も、限られたリソースを割きつつ少しずつだが進められていた。特に矢面となる可能性が高い地中海方面では、今までおざなりにされていた対空レーダーサイト、迎撃機、迎撃機の飛行場、高射砲が整備されつつあった。そしてこの時まともに機能したのは、レーダーサイトだけだった。
 目標が高度9000メートル以上では、数の上で多かった旧式の高射砲(※新型はほとんど対戦車砲として前線にあった)では真上を飛んでも届かなかった。機械式過給器(スーパーチャージャー)を搭載しなければ、液冷戦闘機でも同じ高さに登るだけで精一杯の空域だった。しかも上昇するためには多くの時間が必要なため、従来通りの迎撃タイミングでは全く間に合わなかった。
 「B-29」は進撃途上で編隊から脱落する機体もあったが、それは自らの故障による脱落・後退だけだった。その「B-29」の編隊が爆撃したのは、イタリア南部の主要都市ナポリ。爆弾投下量は、約230トン。高々度から爆弾を絨毯爆撃で投下してから、悠然と去っていった。
 高々度からの爆撃のため実質的な被害は軽かったが、受けた心理的衝撃は非常に大きかった。何しろまともな迎撃が出来なかったからだ。ナポリとその周辺には、既に多くの高射砲とレーダーサイトが配備され、迎撃専門の飛行大隊も展開していた。ナポリに至るルート上にも、レーダーサイトや飛行場があった。しかしイタリア軍は、ほとんどまともに迎撃出来なかった。飛行進路に近かった少数のドイツ製88mm高射砲が何とか成層圏近くまで届いたが、爆撃時の「B-29」は巡航時よりさらに500メートル上昇していた事もあって有効とは言い難かった。敵機が真上にこないと、射程距離の面でほとんど意味がないからだ。
 空の騎士となるべきイタリア空軍もほとんど迎撃に失敗し、接触した戦闘機も「B-29」の猛烈な対空砲火と高空の厳しい環境のため、実質的に何も出来なかった。
 そして衝撃の大きさは、迎撃の難しさだけではなかった。航続距離ではなく、作戦行動半径が2000キロメートルを越えることがこの攻撃で証明されたからだ。つまり、東欧全域が作戦行動圏内であり、欧州枢軸の生命線となっていたルーマニアのプロエシュチ油田もその中に含まれていた。それでなくても、先月(5月)末にクレタ島が陥落した事でギリシア方面では通常の航空撃滅戦が開始されつつあり、予断を許さない状態だった。その上高々度迎撃を強いられるとあっては、現地を守るドイツ第三航空艦隊の負担は増すばかりだった。さらに言えば、「B-29」は枢軸側が掴んでいる情報より高性能な可能性も高く、最悪全ヨーロッパが「B-29」の作戦行動圏内という可能性も十分に予測できた。
 登場当初の「B-29」とは、性能上はまさに超兵器だった。

 これ以後ドイツは、慌てて防空体制の整備と高々度迎撃機の開発に狂奔することになる。連動して、今まであまり重視されていなかったジェット戦闘機、ロケット戦闘機の開発速度を大幅に早めることとなる。そして多くの資源、人材を防空のために浪費するようになり、そのしわ寄せは他の兵器生産、前線へと影響した。加えて、ルーマニアのプロエシュチ油田を守る第三航空艦隊への迎撃戦闘機の配備を急ぎ、当然他の部隊にしわ寄せがいった。
 そしてドイツが懸念したように、この爆撃を始まりとして、連合軍の欧州大陸に対する戦略爆撃が開始される。
 爆撃に参加したのは「B-29」だけでなく、当初はむしろ旧式の「B-17」、「B-24」が主力だった。「B-29」の数が少なく、加えて恐ろしく稼働率が低かったためだ(※暑さと砂漠の砂、潮風などもあって、稼働率は20%程度だった)。日本軍も「深山」か「深山改」を有していたが、この頃の「深山」はかつての任務を思い出したように、地中海を低空で飛び回ってシチリア島近辺での活動を活発化させていたので、戦略爆撃には形だけしか参加しなかった。
 なお、1944年中の戦略爆撃は、枢軸側の防衛体制と連合軍の航続距離の関係もあって、イタリア南部やバルカン半島の一部に限られていた。一度ルーマニアのプロエシュチ油田も100機編成の編隊で爆撃したが、枢軸軍の抵抗が激しいため多くの損害を出して、それ以後無期延期とされた。この迎撃で第三航空艦隊指揮官のケッセルリンク元帥は、その後の爆撃機迎撃の基本となる迎撃戦を実施し、しかも押しよせる爆撃機より多い数の迎撃戦闘機によって撃退に成功している。

 そして連合軍は、一連の戦略爆撃によって一つの事を再確認する。
 今更、戦略爆撃という迂遠な方法を大規模に進めるよりも、一日も早くヨーロッパに進軍しなければならない、と。
 そしてその最初の準備は、既に整っていた。

 1944年夏、アメリカ海軍の空母機動部隊(TF.48)が、約半年ぶりにモロッコ沖合に戻ってきた。2月のTF.28の時に受けた損害は、雷撃を受けた一部艦艇の修理が遅れている事を除いて癒され、それだけでなくさらなる新規兵力を数多く加えていた。特に《エセックス級》空母が44年の前半に集中して就役しており、その実戦配備が急ぎ進められた。
 枢軸側にとって幸いと言うべきか、8月の時点では初夏にアイスランドと英本土北部沖合に現れた日本海軍の空母機動部隊の姿は無かったが、それは慰めにはならなかった。連合軍は着実に戦力を増やしていたが、迎撃する現地欧州枢軸軍の戦力は十分に回復していなかった。戦時生産がフル回転しているので機体の数だけはむしろ増えていたが、パイロットが不足していた。特に洋上飛行が出来る攻撃機パイロットは激減していた。
 と言うのも、2月のモロッコ沖、5月末からの英本土北部での洋上航空戦と連合軍の空襲によって、欧州全体で洋上飛行が出来る攻撃機パイロットの多くが撃墜されていたからだ。しかも洋上で撃墜されているので、パラシュートで機体から脱出しても助かる者は多くは無かった。その上、そもそも欧州枢軸では洋上飛行が出来る攻撃機パイロットは、戦争初期からずっと希少種だった。慌てて大量育成も行われたが、欧州沿岸で戦う前にカリブ海とインド、中東の各線戦に逐次投入されて消耗していた。しかも盟主ドイツ(空軍のゲーリング国家元帥)は、洋上作戦パイロットの育成を軽視し続けていた。そして44年2月と6月の戦いで、せっかく回復途上だったパイロット達の多くが失われてしまった。教導部隊まで出撃させたため教官にすら事欠く状態で、時間も長く見ても半年しかないため回復する事は物理的に不可能だった。
 例外はイギリスを中心とした空母機動部隊で、各国海軍が頑としてパイロットの拠出を拒んだので、来るべき時に備えて温存されていた。しかしそれも、5月の強大な日本艦隊との海戦で戦闘機隊以外は壊滅的打撃を受け、夏の時点では補充兵の再訓練が本格化したばかりだった。
 だが、米機動部隊の出現は、来るべき時が訪れたことを伝えているように思えた。
 もっとも、夏に現れた米機動部隊は、2月と違って辻斬りのように一通り空襲するとあっさりと去っていった。これは連合軍にとっては一種の威力偵察と、限定的な航空撃滅戦の一環でしかなかった。もちろん多くの資源を消費する貴重な空母機動部隊なので、何度もそのような任務に投じることはできない。言ってみれば、本番の前のリハーサルのようなもの、もしくは役者が揃う前の前座のようなものでしかなかった。(※戦略上の実際は違っていたのだが。)
 そして9月に入ると、アイスランド作戦後の休養と再編成を終えた日本海軍の空母機動部隊が大西洋へと出撃する。当然ながら、アメリカ海軍の空母機動部隊も補給を終えて再出撃した。しかもアメリカ本土では、膨大な数の艦艇、船舶が続々と出撃、もしくは出撃体制を整えつつあった。
 本番到来、というわけだ。

 実質的な第二次モロッコ作戦に際して、連合軍はモロッコへの強襲上陸作戦という直接的目標とは別に一つの戦略的実験を行った。その実験とは、一度にどれだけの艦隊を有機的に運用でき、その後方支援体制を維持できるか、ということだ。この実験は、来るべき欧州本土もしくはブリテン島への大規模作戦の際の実証データの一つを取るという側面があった。そして実験をしておかねばならないほど、北大西洋に犇めく連合軍海軍は規模を拡大させていた。何しろ、アメリカ海軍のほぼ全力と日本の主力艦隊、自由英連邦海軍の主力が集結していたのだ。
 「トーチ(ともしび)」と名付けられた作戦に参加する艦隊は、大きくアメリカ第4艦隊、アメリカ第6艦隊、日本第一機動艦隊、連合軍第1艦隊になる。それぞれの艦隊が複数の艦隊を指揮下に置き、大海軍の総力に匹敵する戦力を有た。多国籍艦隊となる連合軍第1艦隊は、自由英連邦とアメリカ海軍、日本海軍、自由フランス海軍などの艦艇が属している。そしてアメリカ第6艦隊、連合軍第1艦隊に護衛される形で、ダカールと北米大陸東岸の二カ所から出撃する攻略部隊が続く。
 強襲上陸作戦を実施するのは、いち早く戦場に到着するダカールに集結していた部隊で、この部隊だけで5個師団を基幹とした17万人に達する。そしてダカールの部隊が橋頭堡を確保した段階で、北米大陸から本隊の第一陣が到着する。第一陣というのは、この後続々と北アフリカに上陸する予定だからで、当面の規模だけでも軍集団規模に膨れあがるからだ。また地上部隊だけでなく、空軍部隊も3ヶ月以内だけで1個航空軍(米第3航空軍)が展開予定だった。
 またアメリカ本土からの部隊は、第一陣の規模だけで2波で30万人を越える。つまり、50万の将兵が短期間で上陸作戦を展開することになる。支援する艦隊、艦艇、船舶の乗員だけで20万に達し、さらにダカール方面の空軍部隊などが支援する。作戦参加する将兵の数は、直接的なものだけで75万人に達し、ダカールと北米東岸の支援要員を加えると100万人を越える。
 これら膨大な兵力のため、作戦準備段階から「史上最大の上陸作戦」と言われていた。そしてさらに「史上最大」の言葉は、今後何度も用いられるだろうとも言われた。連合軍の戦力は、まだまだ拡大中だったからだ。
 まずは一連の作戦のために集められた艦隊を見てみよう。


 ・「オペレーション・トーチ」連合軍海軍・戦闘段列

(CV=空母、CVL=軽空母、CVE=護衛空母、BB=戦艦、CG=重巡洋艦、CL=軽巡洋艦、CLA=防空巡洋艦、FA=直衛艦、DD=駆逐艦、DE=護衛駆逐艦)

  ・アメリカ海軍・第4艦隊(艦隊司令:スプルアンス大将)
・第48機動部隊(TF48)(艦隊司令:ミッチャー中将)
 ・第1群(ミッチャー中将)(艦載機:約330機)
CV《エセックス》CV《レキシントン二世》CV《ワスプ二世》
CVL《ベローウッド》CVL《カウペンス》
BB《アイオワ》BB《ニュージャージ》
CG:2隻 CLA:2隻 DD:18隻

 ・第2群(モントゴメリー中将)(艦載機:約330機)
CV《エンタープライズ》CV《ホーネット》CV《ハンコック》
CVL《カボット》CVL《サン・ジャシント》
BB《インディアナ》BB《サウスダコタ》
CL:3隻 CLA:1隻 DD:15隻

 ・第3群(ボーガン少将)(艦載機:約250機)
CV《ヨークタウン二世》CV《サラトガ》
CVL《インディペンデンス》CVL《プリンストン》
BB《ワシントン》
CG:1隻 CL:2隻 CLA:1隻 DD:14隻

 ・第4群(シャーマン少将)(艦載機:約250機)
CV《バンカー・ヒル》CV《イントレピット》
CVL《ラングレー二世》CVL《グァンタナモ》
BB《アラバマ》BB《マサチューセッツ》
CL:2隻 CLA:2隻 DD:16隻

 ・第5群(デヴィソン少将)(艦載機:約300機)
CV《タイコンデロガ》CV《ランドルフ》CV《フランクリン》
CVL《モンテレー》
BB《ミズーリ》BB《ウィスコンシン》
CG:2隻 CL:2隻 DD:16隻
 ※第5群は8月時点では訓練中。9月より作戦参加予定
 ※第二艦隊と第四艦隊は、司令部が違うだけ。

・日本海軍・大西洋艦隊 第一機動艦隊(艦隊司令:小沢中将)
(※9月より作戦参加予定)
 ・第一部隊(小沢中将直率)
CV《大鳳》CV《神鳳》(艦載機:約180機)
CVL《龍驤》CVL《龍鳳》CVL《祥鳳》(艦載機:約90機)
BB《金剛》BB《榛名》
FA《涼月》FA《初月》FA《若月》
CL《仁淀》 DD:15隻

 ・第二部隊(西村中将)
CV《赤城》CV《加賀》(艦載機:約150機)
CV《蒼龍》CV《飛龍》(艦載機:約120機)
CVL《千歳》CVL《千代田》(艦載機:約60機)
BC《鳥海》BC《摩耶》
CL《利根》CL《筑摩》
FA《霜月》FA《冬月》
CL《阿賀野》 DD:14隻

 ・第三部隊(角田中将)
CV《翔鶴》CV《瑞鶴》(艦載機:約150機)
CVL《日進》CVL《瑞穂》CVL《瑞鳳》(艦載機:約90機)
BB《高雄》BB《愛宕》
FA《秋月》FA《照月》FA《新月》
CL《大淀》 DD:16隻

 ・第二艦隊(栗田中将)
BB《大和》BB《武蔵》
BB《長門》BB《陸奥》
BB《比叡》BB《霧島》
CG《妙高》CG《那智》CG《足柄》CG《羽黒》
CL《矢矧》 DD:16隻

  ・アメリカ第6艦隊(艦隊司令:キンケイド大将)
 ・TF61-1(オルデンドルフ少将)
BB《コロラド》BB《メリーランド》
BB《テネシー》BB《カリフォルニア》
BB《ニューメキシコ》BB《アイダホ》
BB《ネヴァダ》BB《オクラホマ》
BB《アーカンソー》
CG:3隻 CL:2隻 DD:16隻

 ・TF62-1(スプレイグ少将)(艦載機:約450機)
CVE《サンガモン》CVE《サンティー》CVE《スワニー》
CVE《シュナンゴ》CVE《サギノー・ベイ》CVE《ペトロフ・ベイ》
DE:7隻
 ・TF62-2
CVE《ナトマ・ベイ》CVE《マニラ・ベイ》CVE《ケイマン・アイランズ》
CVE《オマニー・ベイ》CVE《ヴァージン・アイランズ》CVE《カダシャン・ベイ》
DE:8隻
 ・TF62-3
CVE《ファンショー・ベイ》CVE《ホワイト・プレインズ》CVE《カリニン・ベイ》
CVE《セント・ロー》CVE《キトカン・ベイ》CVE《ガンビア・ベイ》
DE:7隻

  ・連合軍第1艦隊(艦隊司令:フィリップス大将)
 ・自由英・大西洋艦隊(フィリップス大将)(艦載機:約100機)
BB《ウォースパイト》BB《クィーン・エリザベス》
BC《レパルス》
CV《フェーリアス》CV《レンジャー(米艦)》
CG:《シュロップシャー》
CL:2隻 DD:12隻

 ・救国仏・大西洋艦隊(ミュズリー中将)
BB《リシュリュー》
CG《シュフラン》CG《コルベール》CG《デュケーヌ》CG《トゥールヴィル》
DD:5隻

 ・日本・第八艦隊(五藤中将)
 (旗艦:CL《香取》)
CG《青葉》CG《衣笠》CG《加古》CG《古鷹》
CL《酒匂》 DD:16隻 他多数

 ・米・TF63-1(メリル少将)
CG:1隻 CL:2隻 DD:12隻 DE:23隻 他多数

※上陸作戦指揮官はターナー大将が担当し、実質的に第6艦隊、連合軍第1艦隊を指揮する。

  ・アメリカ海軍 支援任務部隊
 給油艦:33隻、補給艦:6隻、CVE:11隻 DD:18隻 DE:27隻 

  ・日本海軍 大西洋艦隊支援部隊
 戦闘補給艦:4隻、補給艦:2隻、給油艦:13隻、CVE:6隻 DD:6隻 DE:14隻

 ※ハンターキラー部隊(対潜水艦部隊)は、護衛空母を有する常時6個戦隊、有しない8個戦隊が、任務如何に関わらず常時北大西洋上に展開。
 ※潜水艦は、日米海軍の潜水艦約120隻が、3交代のローテーションで北大西洋に常時展開。最低でも40隻が任務に従事。
 ※ハンターキラー部隊、潜水艦隊共に、大規模作戦時には展開数を増加。さらに日時が経つごとに規模が拡大。
 ※各種揚陸艦船、ハンターキラー部隊、潜水艦隊などの詳細は割愛。

 以上のように、数を数えるのも億劫になるほどの規模の艦隊に膨れあがっていた。しかもアメリカ東海岸では、刻々と多数の艦艇が建造されつつあり、一ヶ月違えば規模はそれだけ増えた。日本でも多数の艦艇が建造されていたが、大西洋に来るだけで一ヶ月以上かかるので、常にアメリカよりワンテンポ遅れている。
 また、最後に掲載した支援艦隊は、交代でダカールなど前線近くに進出している前線補給部隊で、大規模作戦では戦闘部隊の後方に待機している場合もある。同部隊の護衛空母は、ほとんどが戦闘のためではなく前線に航空機と交代のパイロットを迅速に供給するためのものだ。さらに、アメリカ本土東岸には、無数のタンカーや支援艦艇が待機している。重油備蓄のための拠点すら新設された。この潤沢な補給体制が、連合軍の巨大な艦隊の有機的運用を可能としていた。そして連合軍は、この時最大で3ヶ月の連続作戦行動が可能だけの物資を準備していた。つまり11月末までが、この巨大な艦隊の秋の活動期間だった。作戦参加する将兵達は、積み上げられる膨大な量の物資を見て、このまま一気に欧州大陸に上陸するのだと噂し合ったほどだった。
 そしてもちろんだが、一度に記載した全ての艦隊が動くわけではない。作戦、任務に応じて動き、そして戦闘に加入する予定になっている。特に上陸部隊と共に行動する連合軍第6艦隊は、上陸作戦の段階で作戦行動予定だった。また、幾つかの艦隊は練成中だったので、編成表の上だけで組み込まれている状態に近いものもあった。特にアメリカ海軍は規模が肥大化の段階に達しているため、徴兵された水兵の練度が不足している場合があり、また下士官、将校の経験値も足りていない事があった。日本海軍も同様の問題を抱えており、第一線以外の大佐(=※連合軍戦時特例で准将扱いの指揮官級)は八八艦隊時代に将校となった老大佐が指揮官だったりした。

 上記した艦隊のうち、西アフリカのダカールに常駐していたのがアメリカ第4艦隊の旧式戦艦部隊と連合軍第1艦隊の一部、護衛空母群のうちの1つで、他は北米東岸で訓練や待機などとなっている。そしてノーフォーク近辺の長大な岸壁には、主に日米の無数の艦艇が接岸し、人々の度肝を抜いていた。これだけ多数の艦艇が存在するとは、流石のアメリカ人でも想像の外だったからだ。だが記載された以外にも、多数の艦艇が作戦行動予定だった。
 割愛と記載したうち、潜水艦隊だけで日米合わせて常時40隻以上が何らかの任務で北大西洋上やヨーロッパ近海に展開しいた。そして常時40隻を洋上に展開するためには、最低でも120隻が必要だった。
 潜水艦を狩るハンターキラー部隊は、駆逐隊1隊のみか、駆逐隊1隊に護衛空母1隻〜数隻を伴った部隊の二種類あったが、常時複数が展開していた。また大規模作戦の際には、多数の部隊が事前に出撃して、所定の海域で前線に殺到しようとする枢軸側の潜水艦狩りを実施する手はずになっていた。
 そしてこれらの艦隊に守られながら強襲上陸部隊を運ぶ揚陸船舶は、ダカールに進出しているだけで大型の兵員輸送船48隻、貨物輸送船47隻あった。他にもドック型揚陸艦、ランプ型揚陸艦、戦車揚陸艦、中型揚陸艦、歩兵揚陸艇、戦車揚陸艇、旧式駆逐艦改造の高速輸送艦、さらに各種揚陸艦、揚陸艇を改造してロケット砲などを搭載した火力支援艦など、合わせて380隻に達する。これらの艦船が搭載する上陸用舟艇まで数えると1000の単位になり、もはや「無数」といえる。これで約17万名、約5個師団と膨大な兵器と物資を運ぶ。そして大型の輸送船、揚陸艦が多くを占める船団がアメリカ本土東岸に位置しており、第二派以後の上陸部隊をピストン輸送で運ぶ手はずになっていた。この後発部隊だけでも大型輸送船など150隻になる。それ以外にも、第二弾の上陸作戦のため多数の揚陸艦船があった。
 モロッコの海岸に最初に上陸するのは、アメリカの第2海兵師団を先陣として、陸軍第1師団、第1騎兵師団、第32師団、第77師団になる。その他独立大隊、レンジャー大隊など多くの支援部隊が付属する。加えて、フランスの植民地に攻め込むので、救国フランス軍の部隊も半ば形だけ属していた。陸軍部隊の多くが、中華戦線から移動してきたいわゆる「マッカーサーの兵士達」で、上陸作戦の総指揮官もダグラス・マッカーサー大将が務めることとなる。さらに海軍各部隊の一部が、基本的にはマッカーサー将軍の命令で動く。
 なおマッカーサー将軍は、中華戦線からアメリカ本土に移動してきた日本軍部隊も、一部でよいので作戦参加させるつもりだった。彼らも彼の兵士達だからだ。
 だが、日本側の準備不足のため無理だという知らせを受けて、やむを得ず断念していた。
 この時期の北米の日本陸軍は、戦国時代から続く大名家にして現侯爵家当主の前田利為大将を総指揮官として、本間雅晴中将などを実戦部隊の司令官とした1個軍が移動しつつあった。400年近く続く名家の前田将軍はアメリカ上流階級から大人気で、軍務よりも実質的な外交に奔走させられることになる為、実務は本間将軍らが行なっていた。しかし準備不足というのは日本側が水面下で政治的配慮を示した結果で、実際は既に1個軍団程度は実戦投入可能だったと言われている。彼らはアメリカ南部各地の駐屯地で、部隊の編成と装備受領、そして訓練を行っていた。この時日本人達は、アメリカの人種差別の強さを知ることになったと言われるが、逆にアメリカ(南部)では人種差別を改める大きな一歩になったと言われている。
 なお、アメリカ国内に他国の兵士が友軍として多数入り込んだのは、独立戦争時のフランス軍を除くと建国史上初めてといえる事件だった。すでに日本海軍の大部隊が東海岸に陣取っていたが、彼らは主に人気の少ない沿岸部にしかいないので、日本陸軍の米本土移動はアメリカ国内で非常に注目された。
 また、各艦隊の現場での指揮権だが、海軍全般はアメリカ大西洋艦隊司令長官のニミッツ大将が持っていた。ちなみに、当時の海軍長官はノックス提督が急死したため次官だったフォレスタル提督が昇進の形で役職に就き、作戦本部長はスターク提督、合衆国艦隊司令長官は開戦前からずっとキング提督だった。日本海軍で言えば、海軍大臣、軍令部総長、聯合艦隊司令長官にあたり、この三職は合衆国海軍3長官と言う事がある。
 そして実戦部隊のほぼ全てを預かるニミッツ提督、ワシントンかノーフォークの司令部にいて総合的な運営などの裏方に徹して前線指揮は現場に任せる向きが強かった。そしてスプルアンス大将が、第28機動部隊だけでなく日本の第一機動艦隊の実質的な指揮権を有していた。これは小沢提督が中将だからではなく、有機的な作戦実施のため日米共に了解の上で取られた措置だった。また小沢提督は日本海軍での正規階級は中将だが、連合軍内での艦隊指揮上では大将待遇で同格とされている。これに対してアメリカ第6艦隊、連合軍第1艦隊は上陸支援任務が主なので、上陸作戦部隊の総司令官であるターナー提督を介するも、マッカーサー将軍が優先的な指揮権を有することになっていた。

 この大艦隊が実施する「トーチ作戦」は、主に三段階からなっていた。
 最初に米機動部隊が半年前同様にモロッコを強襲して、短期的な航空撃滅戦を展開する。これは敵情を探る意味もあり、モロッコの抵抗力で作戦の方向性が決まることになる。抵抗が大きい場合は、日本海軍の機動部隊も投入した徹底した航空撃滅戦が次に予定されていた。次に、モロッコでの抵抗が想定範囲内、米機動部隊で十分に相手に出来る程度の場合、作戦を本格発動させる。そして必然的に攻略部隊が動き始めるが、この段階で欧州枢軸海軍が迎撃のために動くと予測された。そこで先手を取るため日本艦隊が欧州北西部に進み、イギリス海峡両側のイギリス、フランスの軍港を強襲し、艦隊がいる場合は艦隊を、いない場合は港湾と他の船舶を狙う。特に補給艦艇の撃破と、港湾機能の一時的低下を図ることが目的とされていた。これにより敵艦隊を動きを抑え、実質的な活動もさせにくくする。
 最後に日米の機動部隊を先鋒として、モロッコに対する強襲上陸作戦を決行する。
 敵の拠点を正面から攻略するに当たり、冒険的要素、賭博的要素を可能な限り排除した堅実な作戦だった。物量を全面に押し出しすぎている、贅沢すぎるという意見もあるが、敵を圧倒できるなら圧倒できるだけ戦力を投入して味方の損害を極力少なくするのが戦争というものだ。勝ち易きに勝つ作戦こそが、戦争で最も優れた作戦だからだ。
 それにこの時は、「欧州の城門」を突き破るには、それだけの戦力が必要だと考えられていた。

 対する枢軸側だが、洋上戦力は大きく不足していた。
 原因は幾つかある。
 まず、欧州枢軸各国が戦争中に建造開始した大型艦艇が、まだ完成していないものが多かった。大型空母、大型戦艦は建造に手間がかかるので、どうしても3年以上、できれば4年程度の時間がかかる(※アメリカはほぼ唯一の例外)。3交代24時間体制などのような突貫工事を実施しても、手間のかかる事に変化がないので1年程度の短縮が精一杯だ。最も大規模で高い効率を持つ造船業を有するアメリカですら、時間のかかる事なのだ。アメリカですら《モンタナ級》戦艦の大量建造には苦労していた。
 次に、今までの戦争での消耗で洋上作戦行動が可能な航空機パイロットが、大きく不足していた。特に1944年に入ってからの連合軍の二度の攻勢で、攻撃機、爆撃機のパイロットの消耗が激しく、半年や数ヶ月では補充や穴埋めはできず、各地の部隊は実状で壊滅状態のままだった。それでも機体は新型機を含めて揃っていたので、上層部はそれなりの戦力があると考えていた。だが、この考え方自体が間違っている。欧州沿岸での戦いが始まるまでに、カリブ、インド洋で激しい戦いをして消耗した後で、さらに最近に大きな損害を受けているので実状は非常に悪かった。幸い継続した航空撃滅戦が行われていないので、現場では多くの時間を訓練に充てていたが、そもそも基礎訓練ですら十分ではないパイロットでは、急速な能力の向上は難しかった。パイロットとは、2〜3年かけて育てるものなのだ。加えて洋上作戦となると、飛ぶ以外のことも学ぶとなるのでさらに時間がかかる。
 それでも数があるだけ、航空隊はマシだった。艦隊の方は、まだ新鋭艦が揃わないばかりか、6月半ばの「アイスランド沖海戦」で受けた傷がまだ癒えていない艦も少なからずあった。艦艇用より威力の低い航空魚雷とはいえ、まともに雷撃を受けると修理には最悪で半年もかかった。
 また前の海戦から二ヶ月程度では、新鋭艦を迎えることは殆ど出来ていなかった。イギリス海軍の16インチ砲搭載戦艦の《ライオン》と、フランス海軍期待の中型高速空母の《ジョッフル》、《ペインヴェ》が突貫工事の末何とか完成したが、まだ訓練中で就役に至っていなかった。そしてこの3艦を加えても、欧州枢軸海軍は連合軍海軍に対して大きく劣勢だった。

 1944年3月に改訂された欧州枢軸側の迎撃計画「V作戦」のモロッコ方面への侵攻に備えた「V-1作戦」では、現地航空隊が制空権を維持している間に、大西洋と地中海側双方から欧州枢軸海軍の総力を挙げた艦隊が殺到し、迎撃に出るであろう連合軍艦隊に艦隊決戦を挑むと同時に、侵攻してきた船団を撃滅する事になっていた。
 しかしこの作戦は、実施が1945年春頃と想定されていた。その頃にならなければ、十分な数の大型艦艇が揃わないからだ。それまでにモロッコ方面に侵攻があった場合は、44年2月の時ように航空機と潜水艦による迎撃と陸上での水際防御に重点が置かれることになっていた。そして6月のアイスランドを巡る戦闘で、事態がさらに悪いことが確実視されたため、海軍を除く兵力による迎撃に傾倒することとなる。
 モロッコへの増援部隊、陣地構築のための資材が優先的に供給され、工兵部隊も大幅に増強された。
 モロッコの地上部隊は、基本的にフランス軍だけだった。もとがフランス領なのもあるが、半年ほど前までいたイタリア軍がリビア、チュニジア方面に全て移動した為だった。イギリス本国軍が増援に来ることが決まっていたが、リビアの方が火急で英本土の防衛体制も急ぎ整えないといけなくなったため、本格的な到着は1944年秋以後の事だった。
 しかしフランス軍自体も、数は十分ではなかった。
 この戦争でのフランス軍は、1940年春にドイツ軍に惨敗を喫した。それ以前の問題として、第一次世界大戦からの人口学的な打撃から、まだ完全には立ち直れていなかった。このため見かけの人口に比較して、動員能力が大きく低下している。しかも1940年に一度敗北したことによる混乱もあった。国力も大きく減退していた。敗戦時のドイツからの賠償金こそ少なかったが、その時設定された強引な為替取引の為だ。為替操作でフランスは多くの資金、資産をドイツに取られていた。特に支払いには、ドイツの「強い要望」によりフランス銀行にあった金塊が多く充てられていた。加えて、鉄鋼産業の3分の1を担うアルザス・ロレーヌ地方を割譲されたことも、フランス経済の有機性を著しく阻害していた。総合的な評価では、戦前の工業生産力の60%程度しか発揮できない状態だった。単純に鉄鋼生産力で見ると、戦前での総力戦最大数値が1200万トンであるのに、700万トン程度しかない事になる。その分ドイツの鉄鋼生産力が400万トン増えたが、フランスにとってはマイナスばかりが目立っていた。この大戦でフランスが低調だったのも、経済的には仕方のない事だった。
 それでもロシア戦線に3個軍を投入し、欧州枢軸軍としての責務を果たした。そしてロシア戦線では、日々の消耗への補充と交代があるため、派兵する実数以上の兵士が必要だった。そして43年に1個軍が壊滅的打撃を受けて2個軍体制に縮小するが、それも連合軍の攻勢に対抗するため、ほぼ全てを引き揚げた。そして休養と再編成の後に、順次モロッコ方面に派兵された。
 1944年春以後のフランス軍は、兵力の3分の1が北西部を中心としたフランス本土にあり、残りの殆どがモロッコかその周辺部にあった。数にして総数100万以上であり、ドイツ占領から復帰後に一度退役するも祖国の危機を前に現役復帰したアンリ・ジロー大将が指揮した。この軍団は「フランス・西アフリカ軍集団」と呼称され、実質的にフランス陸軍の主力部隊だった。麾下の戦力としては、機甲師団3個、機械化師団2個、自動車化師団3個など30個師団以上があった。フランス軍伝統の砲兵も出来る限り動員されており、カサブランカなど沿岸部の主要都市には沿岸重砲兵も展開していた。もっとも、装備の半分以上はイギリス本国からの供与品であり、「S-41D中戦車」、「S-44重戦車」などの国産兵器は十分では無かった。しかも戦前から兵器開発に失敗したり停滞していた影響から、有力な兵器が不足しているのが実状だった。このため額面通りの戦力とは言えなかった。しかも兵力の3割程度は、戦力も士気も劣る植民地警備部隊や老年兵を中心とした予備部隊なので、前線配備はできなかった。またカサブランカ方面、ジブラルタル海峡方面に兵力を集中しているとはいえ、モロッコは広いので戦力も十分とは言えなかった。
 ジブラルタルにのみイギリス本国軍がいたが、ジブラルタルは非常に狭いので象徴的意味合いで海軍の海兵隊と陸軍の守備隊が若干いる程度だった。例外は要塞の沿岸砲兵だが、それも戦力は限られていた。ジブラルタルが近代戦で本格的戦場になることなど、通常想定されていなかったからだ。

 モロッコの枢軸空軍の方も、フランス空軍が主力を務めていた。44年春まで居たイタリア空軍は、激戦が始まったリビア方面に全て引き揚げた。このためモロッコには、フランス空軍以外だと再建されたドイツ空軍の第五航空艦隊だけになっていた。しかもドイツ空軍は、航空艦隊と言っても編成上は半個航空艦隊で、さらに戦力は限られていたので実働150機程度しかなかった。当然他方からの増援を求めたが、初夏に英本土北部が空襲を受けたことで、欧州全体が混乱していた。当のフランスも、海軍拠点のブレストがあるブルターニュ半島など北西部の防衛に力を入れざるを得なかった。
 最も期待されたイギリス本国空軍も、リビア方面への展開と当面の戦力建て直しに懸命で、約束した派兵は秋以後の予定だった。既に戦局は、本国の防備が急務だった。加えて、イギリス空軍は、実質的に圧倒的不利なリビア方面の空も支えている為、本土防空と合わせて他に手が回らない状態だった。英本土での兵器の生産は比較的順調だが、カリブ、インドでの激しい消耗が響いて、パイロットなどが大いに不足しているのだ。
 そして盟主ドイツの空軍だが、ただでさえ消耗している上に、春まで比較的安定していたロシア戦線が大変な事になっているので、他に構っている場合では無かった。
 そして欧州枢軸各国の軍事力が分散されている事そのものが、欧州枢軸が戦略的に追いつめられつつあることを示していた。そして攻撃の選択権を持っているのは、常に連合軍だった。
 その連合軍の未曾有の大艦隊が迫りつつあった。

●フェイズ46「第二次世界大戦(40)」