●フェイズ46「第二次世界大戦(40)」

 1944年8月23日、アメリカ軍の空母機動部隊がモロッコ沖合に出現した。艦隊の規模は、先の2月の時とほぼ同じだった。機動部隊は4つの輪形陣を形成しており(※第5群は新鋭艦ばかりで練成途上のため戦闘不参加)、艦載機総数は定数で1150機を越えていた。しかもこの時の各母艦は、戦闘機または戦闘爆撃機を中心に過積載をしており、稼働艦載機総数は1300機を越えていた。
 対するモロッコ駐留の欧州枢軸空軍は、フランス空軍第2航空艦隊が800機、ドイツ第5航空艦隊が150機で、合計950機と敵の七割程度の数しかなかった。しかもフランス空軍は、哨戒機や輸送機も含むので、単純な戦闘力としてはさらに50機程度差し引かねばならない。しかも、稼働率は米機動部隊が90%以上なのに対して、枢軸側は70%程度だった。また、春までいたイタリア空軍は、既に全部隊がリビア西部に移動していた。

 アメリカ艦隊は小型の艦載機ばかりで、各母艦1個中隊(12機)の戦闘機を過積載しているので、「F6F ヘルキャット」、「F4U コルセア」両戦闘機が合わせて800機近くあった。
 枢軸側は約半数が戦闘機で、「ドボアチン D520M」、「スピットファイアMk.V」、「ホーカー・タイフーン」、「フォッケウルフ Fw190A」がほとんどだった。若干数だが、イギリスの強化型マーリンエンジンを搭載した「スピットファイアMk.IX」とさらに少数だが強力なグリフォン・エンジンを搭載した「スピットファイアMk.XII」もあった。またグリフォン・エンジン自体がフランスにも供与されたので、「ドボアチン D520」に搭載してみたり、ほぼ試作器で終わった「アルゼナル VG.33」に搭載したタイプも少数配備されていた。質の面では、枢軸側有利と言えた。ただし上記したように、稼働率が少し低かった。
 そうした中でのフランス空軍の切り札は、グリフォン・エンジン搭載機ではなかった。切り札は「ハインケル He280 F」。世界でほぼ初めてとなる、実用ジェット戦闘機だった。
 名前の通りドイツの航空機メーカーハインケル社が製作した機体だが、もともとは試作機の枠を出ることが無かった。1942年頃はドイツ全般でジェットエンジンがまだ未熟だったのと、ハインケル社がナチスから嫌われていたからだ。また、メッサーシュミット社の意図を受けた政治的圧力もあった。ハインケル社の社長がナチスに批判的だった為で、ドイツでは差別対象のユダヤ人呼ばわりされる事まであった。このためドイツでの航空機開発が困難になったので、1941年以後のナチス化したフランスからの誘いを受ける形で同国の戦闘機開発と生産に携わり、その一つがHe280 Fだった。
 He280 Fは「アルゼナル VG.43」とも呼ばれ、形の上ではフランス空軍の航空工廠が製作した事になっている。He280 Fの「F」もフランスの「F」になる。これはハインケル社がフランスへ敬意と感謝を示した証ともされている。それを示すように、フランス空軍の爆撃機の多くは、40年にフランスを爆撃した「He111」系列の機体だった。
 とはいえ、ジェット戦闘機の実戦配備は難航した。機体は既に十分な性能だったが、とにかく心臓部となるジェットエンジンが十分な性能を発揮できるものが当時は無かったからだ。エンジンの寿命も極端に短かった。導入当初はVG.39というフランスでの名称も与えられたが、研究機や試作機程度ならともかく量産配備するとなると問題が山積みだった。
 結局、ドイツ空軍が同時期に正式採用した戦闘爆撃機「メッサーシュミットMe262」と同じエンジンが搭載されて一部改良も施した上で「VG.43」として量産が開始されることとなった。ただしエンジンのドイツからの供与が少なかった為、図面と金型、工具を取り寄せ、苦労してフランス国内でライセンス生産したのだが、ドイツ製よりも性能の不足と寿命の短さに悩まされる事になる。他にも当時のジェット機特有の欠点は抱えていたが、それでもフランス空軍の期待の星だった。
 2月のモロッコ空襲の後に量産と配備に全力を傾けるようになり、この時は1個大隊の特別編成のミラージュ飛行大隊がカサブランカ唯一のコンクリート舗装の滑走路を持つ飛行場に配備されていた。フランス本国でも、数は限られていたが部隊の練成が進められていた。ちなみに最初の飛行大隊の通称名から、He280 Fは「ミラージュ」と呼ばれることもある。

 戦場に姿を見せた「He280 F」は、十分に加速した上で後ろから戦場へと飛び込んだ。そしてレシプロ機が到達できない時速800キロを越える速度を活かして護衛の米軍機を振り切り、攻撃機、急降下爆撃機への一撃離脱戦を敢行する。初期のジェット戦闘機の一般的な戦闘方法だ。
 ジェット機の実戦投入に一事米軍は騒然となったが、米軍パイロットはベテランも増えていたので、冷静に敵を観察する事ですぐにも沈静化していった。He280 Fは少し後に出現するMe262(の戦闘機型)よりもカタログデータで少し劣るし、ジェット機と言えども格闘戦に不向きな双発機だった。エンジンを初期型とは違うものを乗せて高速が発揮できるようになったが、当時のジェットエンジンでは空戦機動などで一度速度を失うと、あとは脆かった。航空管制で待ち伏せて逆さ落としで迎撃すれば、かなり簡単に撃墜できた。所詮は双発機なので格闘戦も弱く、対戦闘機戦闘には不向きな機体だった。離着陸の時は特に脆弱で、その事は最初の戦闘でアメリカ軍パイロットの手で証明されてしまっていた。
 そして何より数が少なく、戦場を制するほどの力が無かった。このため「カサブランカのあだ花」と呼ぶこともある。
 しかしその後各地の戦場で姿を見せるようになり、連合軍を少なからず苦しめていく。そしてこの活躍を見て、ドイツ空軍もようやく戦闘機型のジェット機配備に真剣さを見せるようになった。また、連合軍のカサブランカなどの占領時に、何機かがほぼ完全な形で捕獲されたことは大きな失点だったと言われることもある。

 8月23日〜24日にかけて行われたカサブランカでの空中戦は、今度はアメリカ軍が押し切った。敵の二倍近い戦闘機を集中的に投入して制空権を強引に奪い、地上撃破を含めて多数の枢軸軍機を撃破した。丈夫な事しか取り柄のない凡作とも言われる「F6F ヘルキャット」だが、集団戦と格闘戦の優位、数の優位を活かして、ジェット戦闘機のミラージュなどに苦戦を強いられ犠牲を払いつつも十分に任務を果たした。丈夫なことでパイロットの生還率が高く、しかもアメリカ軍はパイロットを非常に大切にするので、熟練者が多いことも戦闘の結果に大きく影響していた。ある程度以上の熟練者が操るF6Fは、敵がなんであれ侮りがたい存在だった。
 フランス空軍が大きな期待を寄せたジェット戦闘機、グリフォン・エンジン搭載機も数が限られていたので、活躍も限られたものとなった。
 ドイツ空軍は、半年前の再来を期してHe177 グライフなどの攻撃隊を送り出したが、アメリカ艦隊が十分な対処法を構築していた為、フランス空軍との合同攻撃でもほとんど通用しなかった。
 枢軸側の多くの攻撃機が、艦隊前面に展開する無数の戦闘機隊の有機的なインターセプトに撃退され、何もしないまま大損害を受けるだけに終わった。ドイツ軍自慢の誘導爆弾と誘導ミサイルも、艦隊に接近しなければ使うことが出来ず、アメリカ軍が優先して搭載機を攻撃したこともあって殆ど損害を与えられずに部隊ごと壊滅した。また、ドイツ軍攻撃機のパイロットの練度が、先の戦闘での損害を直接の原因として低下していた事も、前回との対象をなした原因となっていた。
 その後米機動部隊は、半年前のように執拗な攻撃はせずにいったんは洋上に待避していった。しかしそれはダカール沖で補給をしていただけで、4日後には再び姿を現した。そして既に戦力がガタガタな現地枢軸空軍に対して、圧倒的な戦闘力を発揮して蹴散らしていった。米機動部隊が本当に去ったのは、さらに3日後の事だった。
 なおこの戦闘では、カサブランカ近辺上空での連合軍の制空権が十分なものとなっていたので、ダカールなど西アフリカ各所の連合軍の飛行場からも重爆撃機「B-29」、「B-24」多数が飛来して、飛行場を中心に大型爆弾をばらまいていった。この爆撃は、途中に中立国スペインの植民地(西サハラ)を縫うような空路を通って行っても航続距離的に厳しい為、流石の重爆撃機群も軽荷状態で燃料を追加で積み込むような事をして爆撃を行っている。それでも横合いからさらなる攻撃を受けたため、枢軸側は対処に苦慮し手痛い損害を受けた。

 欧州枢軸陣営が、連合軍のモロッコ侵攻が近いと考え、現地の戦力建て直しと増援の派遣で混乱しているとき、今度はイギリス海峡方面で一大事が起きた。この攻撃は、戦略的に連合軍がモロッコに本格的な侵攻をすると考えていた欧州枢軸軍の不意を突くことになった。
 しかも、歴史と伝統のある港でイギリス海軍の拠点の一つであるプリマスが、事も有ろうか戦艦複数による艦砲射撃を受けた。

 1944年9月5日深夜11時、栗田健男中将率いる日本帝国海軍大西洋艦隊所属の第二艦隊は、イギリス軍の不意を突いて深夜にプリマス沖合約10キロメートルにまで接近した。その遙か沖合には、第一機動艦隊も展開していた。
 この時イギリス軍も、何もしなかったワケではない。
 第一機動艦隊のヨーロッパ北西部への接近を察知していたので、厳重な警戒態勢下にあった。欧州大陸の沿岸も例外ではない。プリマスのあるコーンワル半島方面には念のための増援部隊も送り出し、哨戒機、偵察機も多数洋上に解き放った。潜水艦の哨戒網も二重、三重にして、連合軍のハンターキラーに全てが撃破されないように布陣していた。当然だが、日本海軍の大艦隊が欧州沖合に迫りつつあることは、十分に察知していた。
 しかし空母機動部隊への攻撃は、一度に多数で行い、しかも戦闘機の護衛が必要な事は先の戦いで痛感させられていた。だから、相手が接近してから全力で攻撃する手はずを、ブルターニュ半島のフランス空軍と共に整えた。また、プリマスなどの軍港からは、敵潜水艦を警戒しつつ、可能な限り安全圏への待避が実施された。このため、連合軍のモロッコ侵攻に備えて待機していた巡洋艦を中心とする警戒艦隊が、ドーバー方面への移動を余儀なくされた。
 そして翌朝黎明の日本艦隊の空襲に備えた。敵が空襲中に襲いかかるのが、作戦の常道だからだ。
 だが、接近しつつある日本艦隊に対する直接の偵察は不調だった。哨戒機、偵察機は、全てが敵を目視する前に撃墜された。ハンターキラーも別に展開していた事もあり、哨戒潜水艦も沈むか近寄れなかった。沈まなくても、友軍に通信を送るのに酷く時間をかけなければならなかった。日本艦隊前衛に展開するハンターキラーチームは日本海軍が特別に派遣したもので、開戦頃にアメリカ救援に参加した歴戦の城島提督が率いた潜水艦キラーの最精鋭部隊だった(※3群を護衛空母(米国製)3隻、旧式軽巡洋艦1隻(那珂)、各種駆逐艦13隻で編成)。
 このためイギリス軍は、友軍機が消息を絶った概略位置から、敵の位置を推定するしかなかった。
 そして日本艦隊は、敵の目を封じている間に第二艦隊が空母部隊からの突出を開始する。艦隊速力の限界である速力24ノットという高速で一気に東へと進み、ハンターキラーの脇を高速で通過し、その日の深夜にイギリス本土を目視出来る沿岸までの接近に成功する。
 この作戦は、大西洋艦隊の作戦参謀となった神重徳大佐が立案したもので、彼はカリブでも同種の作戦を立案し続け、成功してきた「キャプテン・マッド」の異名を持つ札付きの攻撃的な人物だった。危険で難しい任務を実行しなければならない第二艦隊にとってはいい迷惑だが、直接指揮にあたる栗田提督は普段の演習のように淡々と任務に当たったと言われる。また第二艦隊の将兵は、この作戦に乗り気な者が多かった。というのも、この戦争で喝采を浴びるのは空母機動部隊ばかりで、この時も「空母のお守り」に飽き飽きしていたからだ。艦砲射撃は、もはや日本海軍のお家芸とすら言われていたので、敵艦が相手でなくても気にしなかった。大艦巨砲主義者とされる第一戦隊指揮官の宇垣提督も、戦争全期間の事を記した日記の中で、欧州中枢を初めて攻撃する野心的な大規模艦砲射撃作戦を「快事」と喜んでいる。

・第二艦隊(栗田中将)
BB《大和》BB《武蔵》
BB《長門》BB《陸奥》
BB《比叡》BB《霧島》
CG《妙高》CG《那智》CG《足柄》CG《羽黒》
CL《矢矧》 DD:16隻

 以上が参加した艦艇で、戦艦、重巡洋艦がそれぞれ隊列を作り、水雷戦隊は2隊に分かれて、主力部隊を挟むように沿岸と沖合に展開して周囲を警戒していた。
 この時の接近では、ギリギリまでレーダーを使用せず、相手に悟られる要素を極力減らしての接近なので、特に見張り員はレーダー登場以前の活躍を期待され、参加した将兵はかなりの緊張を強いられた。
 その甲斐あって、世界最大最強の戦艦が沖合に姿を見せても、イギリス人は全く気づく事はなかった。彼らの常識では、目視できる近さまで敵艦が近づく筈がないからだ。また各種対空レーダーは無数にあっても、対水上レーダーがほとんど無かった事が、イギリスの油断と言えるだろう。逆に日本海軍が大胆過ぎたと言えるかも知れない。
 午後11時13分、最初の斉射が行われた。それとほぼ同時に《妙高型》4隻からなる重巡洋艦群は、戦艦部隊から少し離れてより近い目標への艦砲射撃のための位置へと向かった。
 戦艦群が最初に狙ったのは、入り江内の少し奥まった場所にある軍港地区(デボンポート)。重巡洋艦群は、外海に面した港湾部とそこに停泊する艦船を狙った。日本艦隊は市街地や民間地区は可能な限り避けたが、そもそも艦砲射撃自体が大ざっぱなものなので、被害はプリマスの港湾地区一帯に広がった。停泊を続けた艦船の多くは潜水艦を警戒して入り組んだ港の奥にいたが、その事も被害拡大につながった。古くから使われている港なので近代的な艦艇が多数停泊できるわけではなく、軍港の規模も限られていた。このため戦艦6隻が破壊するのに時間はかからず、燃え上がった炎と照明弾の明かりにによって目標を見つけると破壊を広げていった。世界最強の46センチ砲による艦砲射撃は、歴史と伝統の港町に対して完全に過剰攻撃だった。
 また、街郊外(内陸部)にある飛行場にも、ある程度の砲撃が実施された。重巡洋艦群も軽快に機動し、手当たり次第に目標を破壊していった。
 艦砲射撃は約1時間続けられ、各戦艦は50斉射程度の砲撃を実施した。重巡洋艦と合わせて、2500トンから3000トンの砲弾がプリマスの港湾部に降り注いだ事になる。
 第二艦隊は、6日零時30分頃にはプリマスからの離脱を開始し、往路と同じように速力24ノットの高速で離脱していった。

 9月6日午前5時半頃、怒り狂ったイギリス空軍が、沿岸まで接近された失態を取り返すためにも、大挙出撃して第二艦隊を目指して出撃していった。攻撃隊はフランス空軍からも出され、ブルターニュ半島各所からフランス軍攻撃隊も日本艦隊を目指した。フランス軍としては、自分たちも同じ攻撃を受けるかも知れないと言う恐怖心からの出撃でもあった。
 この時点で第二艦隊は、プリマス沖から既に約200キロ離れていた。既にケルト海と呼ばれる外洋で、ブリテン島から最も近い場所からも100キロほど離れていた。そこは、第二艦隊が昨夜日が沈んだ頃に通過した場所だった。
 緊急出撃したイギリス空軍部隊は、偵察機を含めて総数400機以上になり、一部は戦闘機も随伴しているため十分な体制と言えた。いかに世界最強の戦艦とはいえ、集中攻撃ができれば撃沈も可能だと考えられた。というより、イギリス空軍総司令部は英本土を大規模に艦砲射撃された雪辱を晴らすため、敵の巨大戦艦の撃沈を厳命していた。
 だが、第二艦隊の上空手前には、日の丸をつけた艦載機の群れが溢れていた。
 1944年9月6日、小沢治三郎提督率いる日本帝国海軍大西洋艦隊第一機動艦隊は、第二艦隊を迎え入れるべく栗田艦隊からさらに200キロほどの沖合から、黎明を期して多数の戦闘機を発進させていた。
 部隊の編成はアイスランド侵攻と同じで、アメリカ海軍同様に戦闘機の過積載で戦闘に臨んでいるため、機動部隊全体が抱える戦闘機の総数は500機を越えていた。
 イギリス空軍は、第二艦隊上空に多数の戦闘機がいることは地上の長距離対空レーダーで察知していたが、構わず攻撃させた。距離が近いので戦闘機も随伴していたし、何としても汚名を注がなければならないからだ。
 この攻撃では、新型艦上雷撃機の「フェアリー・バラクーダ」、ロケット弾を8発積んだ「デハビラント・モスキート」、既に旧式化するも次世代機のない「ブリストル・ヴォーフォート」、旧式化するも信頼性の高さからいまだ現役を務める「フェアリー・ソードフィッシュ」、ロケット弾を搭載した「ホーカー・タイフーン」など、意外に多くの機種を見ることができる。これはイギリス空軍が、カリブでの消耗戦の後でも洋上で艦艇を攻撃できる有力な機体の開発に失敗していた事を示している。国内のライバルである海軍の艦上機すら導入せざるを得ないのが、イギリス空軍の窮状を示していた。そして機材がない事については、重爆撃機の「アブロ ランカスター」が艦艇攻撃にかり出されている事が示している。
 「アブロ ランカスター」は大戦中に開発された4発の重爆撃機で、航続距離よりも積載量に重点が置かれた優れた重爆撃機だった。モスクワ爆撃のために開発されたという説もあるが、単に後継機として開発されただけだった。もっとも、この戦争ではあまり使いどころがないので、大量生産は行われなかった。それでも、既存の重爆撃機部隊への機体更新用として整備された。地中海方面では、既に実戦も経験している機体だった。
 とはいえ、地上爆撃用の重爆撃機としては非常に優れた性能を有するが、逆にそれ以外での使い道に乏しかった。これはアメリカ、日本の重爆撃機との大きな違いといえる。特にアメリカ陸軍航空隊の重爆撃機が、日常的に洋上作戦を行ったのと対象をなしている。しかしイギリス空軍には、旧式機以外でこの機体しか無くなってきていたので、この機体にも対艦攻撃の任務が割り振られるようになる。爆撃方法は集団での水平爆撃と、比較的少数機によるスキップ・ボミングだった。だがどちらの攻撃方法も、高速で機動する艦隊に対しては、牽制以上の効果はないと考えられていた。つまり輸送船団、もしくは上陸してきた敵船団への攻撃が本来の任務だった。
 しかしこの時は、約30機が対艦用の大型(反跳)爆弾を抱えて離陸している。当たって爆発すれば、超大型戦艦でもただでは済まない大型爆弾だ。

 小沢艦隊は、栗田艦隊を迎えるためにピケット(斥候)の駆逐艦を先行させていたし、周辺海域には友軍潜水艦も展開していたので、情報を掴むのは容易だった。それ以前に、敵が逃げる栗田艦隊に空襲を仕掛けてくるのは作戦のうちだった。
 このため夜明け前から戦闘機隊の発艦が始まり、艦隊自身も出来る限り栗田艦隊に近づくべく前進を続けていた。栗田艦隊は全速力で待避を続けつつ、陣形を輪形陣へと変化させていた。高速で移動しながらの陣形変更は非常に高い練度を必要としているが、それを難なくこなせるところが精鋭艦隊の証でもあった。
 そしてイギリス、フランス両空軍が栗田艦隊に達する20〜30キロメートルほど手前の空には、烈風とコルセアの群れが十重二十重で布陣していた。
 「三菱 三式艦上戦闘機 烈風」は、登場から既に1年が経過した戦闘機だった。このため、日本海軍の戦闘機の多くが烈風に更新されていた。一部に零戦53型などが残っているが、主に烈風運用が難しい護衛空母用の部隊だった。またそれ以外では、夜間戦闘機部隊が別の機体を運用していた。日本本土では、改良型の量産も進みつつあった。アメリカから供与された「F-4U コルセア」は、基本的には戦闘爆撃任務用だったが、こういう時にはコルセアも迎撃任務として積極的に活用された。また日本に着いてからの改造型として、20mm機銃搭載のコルセアも一定数あった。
 そして無数の烈風とコルセアが、あまり統制の取れないままそれぞれの飛行場から殺到しつつある英仏の攻撃機部隊を、旗艦《大鳳》などからの高度な無線管制に従って脅威度の高い順番に迎撃していった。
 だが、現代ほどレーダーや無線が発達しているわけではないし、そもそも日本は電子技術では列強の中ではやや遅れていた。迎撃システムも、アメリカ海軍が作り上げたものを改良して導入した面が強かった。それを小沢提督は、自らの艦隊将兵に徹底して訓練させて精度を高めていった。そうさせるだけ、日本海軍もこの戦争で敵からの攻撃を受けていたからだ。
 そして迎撃システムは有効に機能し、枢軸軍機を次々に撃墜もしくは撃退していった。制空権を日本側が握っている場合がほとんどなので、迎撃は非常に容易だった。日本海軍はあまり意図していなかったのだが、英仏空軍は不利な洋上に敵の策に乗って誘い出されたようなものだった。
 しかも攻撃機のパイロットは未熟な新米パイロットが多く、ロクに回避できないまま烈風やコルセアの餌食となっていった。
 それでも迎撃網は完全では無かった。当時のレーダーは低空を飛ぶ機体を捉えることが難しいし、敵味方識別装置を使っても誤認も多かった。
 そうした中で迎撃網を突破したのが、低空を高速で突進したモスキートの編隊の一部と、護衛機が懸命に守ったランカスターの編隊の一部だった。また、レーダーに映りにくいソードフィッシュの編隊も、幾らかが迎撃を受けないまま突破に成功していた。
 もちろん全てではないが、かなりの数が戦闘機の迎撃網をくぐり抜け、戦艦6隻を中心に置いた栗田艦隊へと殺到した。

 攻撃する英仏機にとっては、艦隊が見え始めた段階からが次なる試練の始まりだった。全ての艦艇が打ち出す濃密な両用砲の弾幕に突っ込まねばならないからだ。
 栗田艦隊の駆逐艦は、16隻中8隻が対空戦闘能力に秀でた《夕雲型》だった。残り8隻は強力な雷装が残されたままの《陽炎型》《朝潮型》だが、どちらも両用砲の96式12.7cm砲を連装3基6門を装備しているので高い防空能力を有していた。(※《朝潮型》のかなりが戦争中に大改装を受けている。)
 まずはその両用砲の弾幕を抜けなければいけないのだが、日本海軍はアメリカから供与されたVT信管の多くを栗田艦隊に持たせていた。通常VT信管の装備率は2割程度だが、この時の栗田艦隊は約5割の砲弾の信管がVT信管だった。当然命中率は非常に高く、電探連動射撃もあって次々に敵機の至近で炸裂してバタバタと落としていった。しかも木製のモスキート、旧式で鈍足のソードフィッシュは、ごく近距離で炸裂する高射砲弾に対して脆かった。
 そして輪形陣の外周にさしかかる頃には、無数のヴォフォース40mm機関砲の射撃が各所で始まる。《妙高型》重巡洋艦は、連射速度に劣る砲架型の両用砲しか搭載しないが、最後の改装で針鼠のように機関砲、機銃を搭載していた。そして駆逐艦の輪を抜けても、戦艦の側面に位置する《妙高型》を抜けなければいけなかった。
 しかも《妙高型》が布陣するあたりは、機関砲の「キル・ゾーン」だった。輪形陣の内と外から有効射程が4000メートルから5000メートルある40mm機関砲の猛射が降り注ぐので、ここでも多くの機体が撃墜された。しかし一部のモスキートとソードフィッシュは《妙高型》を目標と定めたので、《妙高型》各艦も回避運動を強いられていた。
 そうした犠牲の上で、戦艦6隻が2列になって進む隊列まで接近できる。だが各戦艦も、最後の改装で両用砲と無数の機銃を装備していた。最新鋭の《大和型》などは、副砲までがVT信管を付けた対空砲弾を撃ちかけていた。この副砲の射撃は砲弾重量が大きいだけに威力が高く、スキップ・ボミングを仕掛けようと危険を冒して低空を突き進んできた勇敢なランカスターを一撃でバラバラにするほどの威力で撃墜している。なおランカスターは、重爆撃機なだけに加速に限界があるし運動性能も劣るため、機体が大きく目立つ事もあっていい的にされてほとんど全滅した。

 午前中いっぱい続いた対空戦は、英仏空軍が息切れする事で尻窄みとなり、夕方を待たずして終了した。英仏空軍部隊の一部は、危険を承知で小沢提督の空母部隊にも攻撃隊を送り込んだが、戦闘機の随伴が出来ないため、そちらに向かった数十機の攻撃隊は何もできないままほぼ全滅していた。
 枢軸側の攻撃は完全に失敗であり、日本艦隊は損傷艦艇を数隻出しただけだった。そうした中で注目された攻撃が、モスキートとタイフーンが行ったロケット弾の攻撃だった。雷撃に近い形で行われた攻撃は、発射後の速度が速く発射数が多いので命中率が高かった。そして、ロケットの弾頭は榴弾なのだが、意外に無視できない損害が出た。装甲部分には全く効果がないのだが、非装甲部分、特に露出している箇所に命中すると小型爆弾として考えると意外に大きな損害が出た。そして露出箇所には機銃が設置されている場合が多く、一撃で対空能力を殺がれる艦艇が少なからず出ていた。
 「ケルト海航空戦」または「ブルターニュ半島沖航空戦」と呼ばれる戦いは、連合軍の圧勝に終わった。枢軸側は出撃した400機以上の航空機のうち、攻撃機の過半が撃墜されるか撃破されて帰投後に破棄された。しかも洋上で撃墜されているので、再建途上だった攻撃機パイロットが再び壊滅状態となってしまった。
 しかも日本艦隊の攻撃は、これで終わりではなかった。

 9月8日、洋上に去っていった筈の日本艦隊が急速反転し、今度はブルターニュ半島先端部にあるフランス海軍の拠点ブレストに全力で襲いかかった。
 小沢艦隊は、ビスケー湾のスペイン寄りの海上から全力で攻撃隊を放っており、互いに援護する予定のイギリス空軍が対応し辛かった。それ以前に、長距離レーダーが日本軍編隊を捉えた段階から戦闘機隊が発進するので、英本土から飛来するイギリス空軍の援護は後手後手に回らざるを得なかった。
 このため迎撃は、現地フランス空軍だけで対応しなければならない状態だが、1個航空艦隊に匹敵する空母艦載機の群れを迎撃するのは至難だった。しかも2日前の攻撃で空軍部隊は大損害を受けており、想定通りの調整の取れた迎撃が無理だった。それでも無数の戦闘機が飛び立った。フランス本土を守るフランス空軍は、主力部隊をブルターニュ半島に置いているので航空機の数は十分あった。また付近の部隊には、モロッコにも進出していた「He280 F」部隊もいたので(※エンジン故障を恐れて洋上への出撃は禁止されていた)、無視できない戦力だった。
 だが、予期せぬ場所から集中的に襲いかかる空母機動部隊の威力は非常に大きかった。空母機動部隊は空母の数だけ滑走路があるので、空母の数が多ければ短時間で戦力を集中的に投入することも出来る。これに対して基地航空隊は、そもそも守るべき場所が広いので飛行場が分散している場合が多い。そして滑走路の数も限られている。陸上なので連続発進は簡単だが、それでも空母機動部隊のような過密な連続発進の訓練はしていない場合が多い。そこまでパイロットの訓練が追いつかないからだ。期待のジェット戦闘機も例外ではなかった。
 それでもブレスト近辺では激しい空戦が行われ、ブレスト軍港内には多くの日本軍艦載機が殺到して多数の爆弾を落として帰っていった。しかも、この混乱を突いて日本軍潜水艦が近づいて、機雷をばらまいて去っている。
 そしてこの時は、日本艦隊は2波分かれた一度の攻撃だけで、洋上へと待避していった。既に現地フランス空軍の洋上攻撃部隊が壊滅しているので、追撃すら受けない余裕の待避だった。フランス軍が恐れた巨大戦艦の艦砲射撃も無かった。
 日本艦隊が引き揚げたのは作戦予定通りで、この作戦では枢軸側が固執した第二艦隊への攻撃とそこでの大戦果(大量撃墜)の方が予想外だった。そして想定以上の勝利を得たことと、迎撃戦での消耗もあったので攻撃を一度で切り上げていた。
 もっとも、小沢艦隊が第二次攻撃隊を送り込んでいたら、駆けつけたイギリス空軍とも戦わねばならず、かなりの損害が出た可能性も高いので英断だったとする説も多い。

 そして欧州北西部沿岸への攻撃成功によって、全てのお膳立てが揃った。


●フェイズ47「第二次世界大戦(41)」