●フェイズ50「第二次世界大戦(44)」

 1944年9月15日、連合軍はモロッコに上陸し、9月末にジブラルタル要塞も降伏した。その頃には、リビアでの戦いも終わりつつあった。欧州枢軸軍の北アフリカ戦線は、枢軸側の想定を上回る総崩れだった。
 しかも建て直しが効かないため、崩壊速度は加速を増していた。

 アジアから進んできた連合軍がチュニジア進撃のための補給線を整えている間に、大西洋を押し渡った連合軍は艦隊と船団の一部にジブラルタル海峡を越えさせ、9月中にオラン、アルジェに中規模の強襲上陸作戦を行って電撃的に占領してしまう。この時点で上陸されるとは考えていなかった現地枢軸軍は、無血上陸どころか銃弾一発撃たないまま連合軍の上陸を許し、何もできないまま無血開城する形で降伏するより他無かった。
 これでモロッコから後退中の欧州枢軸軍の多くが退路を断たれ、絶望的な状況で戦うか降伏の二者択一を迫れた。まさに「マッカーサー戦法」の真骨頂だった。
 一連の戦闘で、モロッコからアルジェにいた約100万の枢軸軍将兵のうち、実に80%の兵力が失われた。同時期、リビア西部でも30万以上の兵力が包囲殲滅され降伏しているので、欧州枢軸軍は100万以上の兵力を短期間のうちに失ったことになる。このうち半数以上が退路を断たれた為の戦わずしての降伏で、それ以外も戦闘での負傷後の降伏なので戦死者は非常に少なかったが、枢軸軍が多くの兵力を失ったのは間違いなかった。しかも降伏した兵のかなりの数が、その後連合軍側の兵士となっている。救国フランス軍の規模が一気に拡大したのも、自由イタリア軍が増えたのも、これ以後の事だった。
 この北アフリカでの打撃により、フランス軍は陸軍と空軍が半身不随に陥った。リビアのイタリア軍も半壊状態となり、イギリス本国軍が受けた損害も深刻だった。そして盟主ドイツの損害が第5航空艦隊の基地部隊だけなので、連合軍への敵意よりも欧州枢軸内でドイツへの批判が一気に高まることとなった。それ以前の問題として、地中海の防衛体制が一気に壊滅どころか崩壊状態に追いやられた事を意味しており、戦争を投げ出さないのなら建て直しが急務だった。
 連合軍は、連合軍側の準備さえ整えばどこにでも望んだ場所に上陸作戦が行えるほどだった。何しろ、地中海沿岸の海岸線の防備は、ほとんど計画書の上にしか無かった。
 だがドイツ軍には、地中海方面にこれ以上の兵力を割くことは出来なかった。バルカン半島の第3航空艦隊の一部をイタリア方面に移動させ、北太平洋で壊滅した第5航空艦隊の残骸を、ノルウェーの航空隊の多くを移動させて再編成する以上の事は無理だった。当時、ロシア戦線の南方方面でソ連軍が全面攻勢に出ていて大敗を喫したため、陸軍は中東から後退してきた部隊以外、一兵も割くことが出来なかったからだ。
 それでも、ドイツ本国に戻っていた再編成や休養中の部隊のいくつかを、フランスとの合意の上でフランス南部に移動させた。しかしそれだけでは全然足りないので、欧州枢軸内で協議が重ねられた結果、イギリス本国から陸軍の増援がイタリアに派兵されることになる。イギリス本国軍も、インド、中東、北アフリカ、リビア、そしてカリブで無為に多くの兵力を失っていたが、この時点で北アフリカ以外の地上戦線を抱えていなかったので若干の余裕があった。また、イギリスで多数生産される兵器が、イタリア、フランスにより多く供与されることも決まり、陸軍力の再編成と再展開が急がれた。
 そして欧州本土防衛の時間を稼ぐための最後の砦となるチュニジアに、最低三ヶ月、敵を押しとどめるだけの兵力増強が急がれた。シチリア島やイタリア南部には、イギリス空軍を中心に航空隊の大幅な増強も実施された。イタリアへの支援も一時的に増やした。
 連合軍は、チュニジアで東西から進んできて握手した後、圧倒的戦力でシチリア島、イタリア半島と順当に進んでくる可能性が最も高いと判断されたからだ。チュニジア国境には、東西から連合軍の大部隊が押しよせつつあった。モロッコを攻撃した大艦隊の主力部隊も、アメリカ東海岸に戻らずモロッコなどで補給し、地中海に入る様子を見せていた。
 だが、思わぬところに連合軍が進撃する事となる。

 連合軍は、1943年夏の首脳会談の際に、ソ連との約束で1944年内にヨーロッパ大陸のどこかに第二戦線を構築すると約束していた。だが、44年2月にモロッコ沖での戦闘でつまづい事を遠因として、フランス南部への上陸は年内にはどう考えても不可能だった。出来そうなのはイタリア半島上陸だが、これもチュニジア、シチリア島と進んだ上でのイタリア半島上陸なので、年を越すことが確定的だった。
 そうした中で白羽の矢がたったのが、意外と言うべきかギリシアだった。
 ギリシアを先端部とするバルカン半島方面には、ドイツ空軍の第三航空艦隊と、ドイツ陸軍の中東派遣軍を再編成した部隊が展開していた。他は現地のギリシア軍(※ドイツ、イギリスからの供与武器で若干強化されたギリシア王国軍)とブルガリア軍がいたが、取るに足らない戦力だった。
 だが、現地ドイツ軍の実状も寂しい限りだった。もともとが、中東から破れて後退してきたぶたいだからだ。
 第三航空艦隊こそルーマニアの油田を防衛するための増強と再編成が急ぎ行われたが、任務の関係上、油田防空のための戦闘機隊が多くを占めていた。しかも部隊の3分の1近くは、次の戦場と考えられたイタリアに派遣されつつあった。空軍の地上部隊は高射砲部隊ばかりで、数千門の高射砲はすべて油田防衛の配置に就いていた。
 陸軍の方は、ロシア戦線への補給と補充が優先されていたため、兵士の補充すら十分では無かった。アルバニアのイタリア軍やユーゴスラビア、ブルガリアなど一部東欧諸国の軍で代替していたが、実質的な兵力は全然足りていなかった。このため防衛が難しいギリシア南部(ペロポネソス半島と首都アテナ周辺)は、若干のギリシア軍がいるだけで戦略的には切り捨てられていた。このため義勇SS部隊を武装親衛隊が編成しようとしたが、バルカン半島南部の各国の反発が強まっていため、結局形だけにとどまった。
 しかもユーゴスラビア王国地域でのゲリラ戦が1944年に入ってから活発化しており、なけなしの兵力がゲリラ討伐に使われている状態だった。ユーゴスラビア王国地域で編成された枢軸側の各部隊(主に義勇SS部隊)も、政治的理由もあって同国内以外では使えない状態だった。

 少し話しを戻すが、バルカン半島南部の情勢を見てから、次に進みたい。
 バルカン半島南部は、長らく大戦の蚊帳の外にあった。というのも、大戦は一度1940年7月に終わり、ロシア(ソ連)を除く欧州全土がドイツの軍門に降ったからだ。その後8月にはアメリカ、日本との戦争が起こったが、それはイギリス本国やドイツの戦争であっても、欧州の戦争では無かった。1941年5月にロシア(ソ連)との戦争が始まっても、国境を接していない小国が出来ることは無かった。このため、ユーゴスラビア王国、ブルガリア王国、ギリシア王国は、常に戦争の外にいた。戦争協力は行ったが、重工業力が無く経済規模が小さいのでほとんど何も出来なかった。それでも戦争がインドに迫ると、三国は連合軍に対して宣戦を布告する。この段階でもロシア(ソ連)とは中立状態だった。軍事力の行使は、中東への支援などでなけなしの船舶を出したが、その程度だった。軍隊を派遣したところで、貴重な補給物資を浪費する存在でしかないからだ。だが人的資源を活用するべきだとドイツ親衛隊は考えて、各国の志願兵を募って義勇武装SS組織に編成し、ロシア戦線などに派遣した。だがこれが、ユーゴスラビア王国で完全に裏目に出てしまう。
 もともとユーゴスラビア王国地域は、様々な民族、宗教、言語がモザイク上に重なり合った地域で、争いが絶えなかった。第一次世界大戦前には、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれた頃の震源地ですらあった。このため義勇武装SSが作られると、少しでも問題を避けるために民族ごとに部隊が編成された。だが彼らは、ロシア人や連合軍と戦わずに、国内の「異分子」との争いを始めてしまう。ドイツにとっては計算外だが、余計な労力を割きたくないし、戦争から外れた場所にあるので、事態は親衛隊に預けられた。そして親衛隊は、ユーゴスラビア王国をドイツ政府も動かして実質的にバラバラに分解して、分割統治という方法に出る。これにより南部では辛うじてユーゴスラビア王国が残ったが、北部のスロベニアとクロアチアは事実上独立し、中央部のボスニア・ヘルツェゴビナが係争地の中心地となる。親衛隊がこのような悪行に手を染めたのは、北部の民族が南スラブ系ながらゲルマン系に近いとされたからだ。彼らにとって、それらの民族が他の民族と一つの国家にまとまることは許されないことだった。だから分裂させたのだ。そして南北対立が激化したのは1943年の頃だったが、既にドイツは余裕を失っていたので、あくまで間接的な干渉しかしなかった。そして近隣のブルガリア、ギリシアに北部のスラブ勢力(ユーゴスラビア王国南部)を監視させ、自分たちは北部のゲルマン系勢力を監視した。おかげで完全な内戦状態に陥るまでには至らなかったが、無駄な努力を投じざるをえなくなる。もっともギリシア、ブルガリアにとっては、ロシア人に戦争を吹っ掛けなくてよい口実ができたので、内心は大いに安心したと言われる事が多い。だがギリシア、ブルガリア共に軍の主力はユーゴスラビアを向いており、連合軍にはほとんど何の準備もしていなかった。
 そうした混沌とした状況に連合軍は目をつけて、一気にギリシアに進軍しようとした。

 一方の欧州枢軸陣営は、連合軍がこの時期にギリシアに攻め込むとは考えてもいなかった。戦略的意味が薄いので、この考え方は健全と言えるだろう。だが連合軍は、ギリシア侵攻に際して政治を優先させていた。
 欧州本土で最初に奪還する場所がギリシアなのは、連合軍内でも都合が良かった。と言うのも、イギリス、フランスのどちらを先に解放するかで議論がされており、どちらを最初に選んでも政治、感情面で禍根が残る。だがギリシアなら政治的には蚊帳の外の国で、何よりヨーロッパ文明の源泉と言えるギリシアなら英仏両国共に文句も言いにくかった。そしてギリシア奪還後なら、イギリス、フランスのどちらに攻め込んでもわだかまりが少なく済むからだ。
 もっとも、口さがない者は、時期的に見てアメリカ大統領選挙を見越したものだと言った。現政権が選挙に勝利するため、アメリカ市民にアピールし易い場所の解放が選ばれた、というのだ。何しろギリシアはヨーロッパ文明の源であり、ロンドン、パリ、ローマそしてベルリンなどの主要都市並のインパクトが期待できた。この点イタリア侵攻の場合は、最低でもローマまで進軍しなければならないので、時間的制約から選択出来なかった。アメリカ市民が知っているヨーロッパなど、当時はその程度だったからだ。
 しかもギリシア侵攻は、作戦の成功確率も非常に高かった。

 連合軍が1944年内のギリシア侵攻を正式決定したのは、1944年の初夏の頃だった。アメリカ政府が決定したのは、さらに早く同年3月だと言われている。そして初夏の頃から作戦に従って部隊、兵力が本格的に準備されていった。また作戦を確実にするため、チュニジア作戦は枢軸軍に見えるようにこれ見よがしに実施されることとなった。二つの大作戦を実施するだけの兵力と物資が、この時期の連合軍にはあった。
 加えて、大西洋を押し渡った海軍の主力部隊も投入されることとなる。アメリカの空母機動部隊が、近隣の連合軍空軍と共にチュニジア、シチリア島への短期間の激しい攻撃を実施する。もちろんこれは牽制を兼ねており、本命となるアメリカ艦隊の主力機動部隊と高速戦艦部隊が西地中海へと入り、現地の地中海艦隊と合流して、一気にギリシアへと攻め込む算段だった。
 連合軍のもう一つの主力艦隊である日本の大西洋艦隊は、この作戦の間モロッコ近辺の海域に展開し続ける予定だった。もちろんだが、欧州枢軸の反撃を警戒しての事だった。腹案として、より電撃的な作戦展開のために日本艦隊も地中海に投入する案もあったが、流石に欧州枢軸海軍を侮りすぎているという意見が過半を占めたため、アメリカ海軍のみの地中海投入となった。もっとも、地中海での戦闘ならば、装甲空母を多数有する日本艦隊の方が任務に向いている。敵空軍からの断続的な空襲の可能性があるからだ。それがアメリカ艦隊ととされたのは、単に戦力が大きいのが理由では無いという意見が、主に政治学者の間では常識となっている。だが、欧州文明の源泉となる場所を攻める事に、アメリカという国家、政府が大きな価値を見いだしていたと考えられたからだ。また、その文明の源泉に他人種である日本人が攻め込むことに強い抵抗があったとも言われる。実際問題、日本軍は地中海艦隊が支援に当たった以外で補助的な役割しか果たしていない事も追記しておく。
 この時期の連合軍は、既に直接的な戦争とは違うものを見るようになっていた証拠こそが、このギリシア作戦だった。

 ギリシアへの侵攻開始が10月20日で、10月初旬からシチリア島などでの航空撃滅戦が開始される。さらに同月中頃からは、半ば牽制を目的としてチュニジアでの本格的な地上作戦が開始される手はずだった。
 アレキサンドリアで準備されるギリシア侵攻部隊は、チュニジアへの増援かシチリア島侵攻のための部隊という欺瞞情報が流された。実際、一部部隊は増援としてチュニジアに移動した。日本とアメリカの最強戦闘機部隊が、あえて揃い踏みで布陣したほどだった。
 さらにクレタ島などに増強された連合軍各空軍部隊も、シチリア島攻撃のための増援という情報を流し、重爆撃部隊の一部がシチリア島とイタリア南部の攻撃を行う予定だった。大規模な上陸作戦部隊が、エジプトのアレキサンドリアとポートサイドに集結していた。クレタ島には、各飛行場から溢れるほどの空軍の大部隊が展開し、敵の目を欺く目的もあって激しい航空撃滅戦をドイツ第三航空艦隊などに仕掛けた。ルーマニアのプロエシュチ油田に対しても、半ば嫌がらせを目的に散発的な空爆が実施された。本来は本命としての攻撃なのだが、枢軸側の目を敢えてバルカン半島に向けさせようと言う意図を見せる欺瞞情報も流された。
 ギリシア作戦の地上部隊の指揮官は、米陸軍のブラッドレー将軍が総指揮権を持ち、実戦部隊はホッジズ大将が指揮する事になる。さらに総司令部は、カイロに総司令部を置いたアメリカのアイゼンハワー大将が最高司令官として陣取っていた。インドからずっと肩を並べて進軍してきたパットン将軍と山下将軍は、チュニジア作戦を指揮することとなる。自由イギリス軍のモントゴメリー将軍は、この時期はエジプト南部のスーダン方面での残敵掃討に当たっていた。モントゴメリー将軍指揮下の自由英軍主力が支援的任務を行っているのは、この後地中海戦線に深入りすると、英本土奪還の準備が出来なくなるからだ。中華戦線の終了と共に日本陸軍の大部隊を引き連れて中東に来た岡村寧次将軍は、この時期は部隊の編成と今後の作戦の準備に追われていた。
 また一方で、モロッコから急速に進軍しているマッカーサー大将麾下のアメリカ軍は、まだ北アフリカ西部を進軍する途上の部隊が殆どのため、チュニジア作戦では補助的な役割を果たすだけだった。主力部隊はまだ作戦中だし、同時に次の作戦の準備に忙しかった。

 これに対する欧州枢軸軍は、連合軍のシチリア島への上陸もしくはチュニジア沿岸部の上陸を強く警戒していた。チュニジアの前線で現地陸軍主力を拘束しているうちに、大規模な上陸部隊がシチリア島または退路となるチュニジア沿岸に押しよせて、チュニジアの枢軸軍の退路を一気に断ってしまうのではないかと考えていたからだ。そしてチュニジアの枢軸軍は、敵の大軍が押しよせつつあるため、回れ右をして逃げるわけにもいかなかった。そんな事をすれば、退路を断たれるより先に追撃を受けて殲滅されてしまうからだ。
 多くの情報が、枢軸側の懸念を肯定していた。中にはギリシア攻撃の可能性を論じる声もあったが、戦略的重要性の低さから懸念は小さいと考えられた。
 そして枢軸側が戦々恐々としている中、連合軍の大艦隊が地中海入りしたという情報が駆けめぐる。地中海に入ってきたのは、アメリカ海軍の空母機動部隊。5つの空母群からなる圧倒的戦闘力を有する艦隊だった。これで枢軸側は、連合軍の目的がはっきりしたと考えた。空母機動部隊を用いる以上、シチリア島に強襲上陸作戦を行うに違いないと考えたのだ。
 この考えは、マッカーサー将軍が敵の後方への強襲上陸作戦を頻繁にしている事で心理面で肯定された。

 1944年10月1日、リビア西部を新たな拠点とした連合軍は、チュニジアへの本格的な進撃を開始する。その1週間前からは、まずは数千機を擁する空軍部隊による猛烈な航空撃滅戦が開始された。
 リビア西部が陥落したのは9月9日だが、わずか2週間で基地の再整備と部隊の進出、補給線の構築が行われ、最前線だけでも1000機以上が活動するようになっていた。
 リビア西部のトリポリからチュニジアの中心都市チュニスまで約500キロ。連合軍の戦闘機なら十分以上に行動圏内だった。それどころか、リビア東部からシチリア島までの片道約800キロの洋上飛行すら日常的にこなしていた。しかし日を増すごとに枢軸側の勢力が減退していくため、連合軍パイロット達は航空弁当を食べるために飛んでいるだけだと愚痴るほどだった。
 また西では、9月25日にマッカーサー将軍率いる部隊の一部がアルジェリアの中心都市アルジェに強襲上陸を敢行し、これを呆気なく成功させた。後方拠点となっていたアルジェにまで一気に攻め寄せるとは予測されていなかったため、現地枢軸軍(ほとんどがフランス軍の後方部隊)は為す術も無かった。飛行場もほとんど無傷で連合軍の手に入り、急ぎ整備が進められていた。10月1日の時点ではまだ飛行場の整備中だったが、二週間後には現地にアメリカ本土から進んできたアメリカ陸軍第3航空軍が陣取り、西地中海の制空権を奪う予定だった。
 陸での最前線は、東では既にチュニジア内に100キロ近く入ったガベス前面にまで、パットン将軍率いる連合軍の1個軍規模の機甲部隊(第3軍)が進撃していた。航空攻勢が開始された時点では補給中だったが、空襲が一段落すればまた進撃を開始すると枢軸側は予測していた。そして東のガベス近辺を抜かれてしまうと、チュニジアでの戦いは中心部であり最後の拠点となるチュニス近辺で行うしか無かった。
 アルジェに上陸した部隊も、枢軸側の防衛がほとんどなされていないため、すぐにも西への進軍を開始していた。しかも西は「丸裸」状態のため、連合軍の進撃は非常に早かった。10月初旬のうちに、先鋒部隊はチュニジアにまで進軍してくると見られていた。この点からも、チュニス近辺での防戦を行うしか無かった。急ぎ増援部隊を送るにしても、連合軍によるシチリア島の強襲上陸が近いと考えられていたので、チュニジアでは持久戦を行う以外の選択肢が無かった。
 ガベスでの戦闘は1週間続けられたが、パットン将軍の戦車部隊が内陸部から大きく迂回突破を図ったことで、現地枢軸軍は遅滞防御戦をしつつ後退を開始。連合軍の迅速な進撃の前に一部が包囲降伏を余儀なくされたが、主力はチュニス周辺に後退する事ができた。その頃には、西から進軍してきたアメリカ軍部隊が迫りつつあり、枢軸軍はチュニス方面に追いつめられた形に追いやられる。
 そしてこの時を捉えて、連合軍は退路を完全に断つべくシチリア島に侵攻すると予測された。

 枢軸側の懸念を示すように、10月18日に西からアメリカ軍の大機動部隊が放った1000機以上の艦載機の群れが、シチリア島とイタリア半島南部を派手に空襲する。連動して、周辺に展開していた連合軍空軍部隊も猛烈な航空撃滅戦を仕掛け、現地枢軸空軍を抑え付けにかかってきた。こうなっては、チュニジアの枢軸軍は海を使った後退は自殺行為だった。
 だがシチリア島への上陸を阻止することが枢軸側の目的なので、チュニジアの軍には固守が命令されるに止まっている。枢軸軍にとっては、シチリア島に連合軍の上陸部隊が見えてからが勝負だった。シチリア島では、全軍が敵の上陸を警戒した。
 しかし、連合軍の上陸部隊は1日過ぎても、2日過ぎてもシチリア島には現れなかった。地上配備の空軍からの激しい空襲は続いているが、空母艦載機の空襲は一回限りだった。
 だが、別の場所で悲報が飛ぶ。
 10月20日、シチリア島を空襲したスプルアンス提督率いるアメリカ海軍第48機動部隊は、枢軸側の予測を裏切りペロポネソス半島とリビア東部の中間海域に展開していた。そして、周辺の連合軍空軍部隊と共にギリシア及び、ギリシアを指向できる地域に展開する全ての枢軸軍空軍に対する激しい空襲を開始する。
 この時点で枢軸側は、敵の意図が読めずに混乱した。それでも、シチリア島作戦をより完全にするため念入りな空襲をしているというのが、一番の意見だった。実際これで、ドイツ空軍の第三航空艦隊はイタリア方面への支援が出来なくなった。
 しかも10月19日には、アレキサンドリアとポートサイドを、連合軍の大船団が出発したことも掴んでいた。そこから逆算すれば、米機動部隊が上陸作戦のために枢軸側の空軍のさらなる撃滅を図るのは理に適っていた。連合軍のシチリア作戦は、敵船団の動きと潮の満ち引きの関係から10月25日と考えられた。
 それまで米機動部隊は、周辺の連合軍空軍と共に地中海沿岸の空襲を継続するものと予測された。そして1個航空艦隊以上の部隊が神出鬼没に暴れ回るので、タダでさえ大きく劣勢な現地の欧州枢軸空軍部隊は、さらなる戦力の消耗の中でのシチリア島上陸阻止という命題を突きつけられたと考えた。

 だが、全てが違うことが、10月22日黎明に判明する。
 しかも破局は、その日の深夜から始まった。
 破局の始まりは、クレタ島からだった。
 クレタ島は、1944年の一時期にドイツ空軍が利用しただけで、同年6月には連合軍の占領下となっていた。
 クレタ島からエジプトのアレキサンドリアの距離は約700キロ、クレタ島から東リビアのトブルクは300〜400キロ程度と好位置にある。また北に転じると、アテネまでは約300キロ、半島の付け根辺りのサロニカ(テッサロニーキ)まで約600キロだった。
 クレタから後退したドイツ空軍は、アテネ周辺には最初からレーダー部隊以外の兵力を置かず、まずはサロニカ周辺に展開した。だが、600キロ程度は連合軍の戦闘機にとって十分に行動範囲内なので、すぐにも飛行場の維持が難しくなり、連合軍のルーマニア油田地帯への攻撃阻止に重点を置くようになった。必然的にバルカン半島奥地へと後退し、主力はルーマニアのブカレストやユーゴスラヴィアのベオグラード辺りに展開した。ギリシア北部やブルガリア、ユーゴスラヴィア南部にも部隊の展開は続けたが、それは敵の偵察の妨害程度の役割のためだった。本来なら徹底抗しなければならないが、主力部隊が距離を置かなければいけないほど彼我の戦力差が開いていたからだ。
 というのも、ロシア戦線が苦況に陥っているため、第三航空艦隊にはルーマニア油田防衛以外の戦力があまり回されなくなったからだった。
 そしてその戦力の空白を、連合軍は突いてきた。
 しかも空からやって来た。

 日付が10月22日に変わった頃から、敵を無視するようにサーチライトで煌々と照らされたクレタ島各地にある飛行場からは、無数の輸送機、重爆撃機、重爆撃機に曳航されたグライダーが連続して離陸を開始した。支援のための戦闘機、攻撃機、重爆撃機も各地の飛行場を飛び立った。空母機動部隊からは、黎明を期して総攻撃が開始される予定だった。
 一大空挺作戦「ジュピター」の開始だ。
 この空挺作戦は、戦争が始まってから各所で空挺作戦を行ってきた連合軍にとって、一つの到達点であり回答だった。
 作戦に参加するのは、アメリカ陸軍の「第82空挺師団」と新編成の「第101空挺師団」を主力として、旅団編成の「日本陸軍第一空挺団」、「日本海軍第一空挺団」と自由英軍を主力とした同じく旅団編成の「連合軍第1空挺団」だった。その他、空挺部隊を持つ各国自由軍も少数ずつだが参加していた。合わせて空挺3個師団規模で、少し後からグライダー降下するレンジャー連隊などを含めると、空から敵地へと降り立つ兵士の総数は第一波だけで4万人に達した。しかもさらに飛行場を占領して運用を再開したら、空輸で2万人の兵士が大量の物資と共に続く予定だった。
 この時点では史上最大規模の空挺作戦であり、それだけの機体と資材が集められた。直接支援するのも3個航空艦隊規模で、しかも空挺部隊は全軍の先鋒でしかなかった。
 同時に動く海上強襲上陸作戦は「ネプチューン」と呼称され、こちらが本隊だった。
 本隊は、まるで古代のガレー艦隊のようにエーゲ海を突き進んで、ギリシア南部のサロニカに対する電撃的な強襲上陸作戦を決行した。
 作戦参加部隊の第一陣は、自由英の海兵旅団、アメリカのレンジャー大隊を先鋒としたアメリカ陸軍第2軍団の第7師団、第25師団だった。どちらも完全な自動車化師団で、ドイツ軍でいうところの装甲擲弾兵師団に相当する。しかもインド作戦の初期から戦い続けている歴戦の師団で、上陸作戦の経験も十分に積んでいた。そして彼らの後ろには、米第5軍団(第3師団、第9師団)、自由英第4軍団(加第2師団、豪第4師団)が続く予定だった。合わせて連合軍ギリシア軍(連合軍第6軍)と呼称され、短期間でギリシア全土を解放する予定だった。
 上陸作戦に、上陸作戦に長けた日本陸軍の第5師団と日本海軍特別陸戦旅団が参加していないのは、欧州枢軸側にシチリア島上陸を行うと見せかけるための欺瞞行動のためと、実際今後のイタリア方面作戦の準備の為だった。しかし、先にも書いたように、日本人には出来る限りギリシアに第一陣として踏み込んでもらいたくなかったと見るべきかもしれない。日本の空挺部隊が参加したのも選択肢が無かったからで、作戦立案段階では参加しない予定だった。

 空挺作戦は上陸に先立つ1日前に決行されたが、上陸部隊がアテネ近辺に上陸するのとサロニカ近辺に上陸するのでは、丸一日の時間差があるためだった。先に上陸船団がエーゲ海を進んでしまうと、空挺作戦の場所が敵に知られてしまうのを避けるためだった。逆に降下した空挺部隊は敵の中で孤立する事になるが、ギリシアには軽装備のギリシア軍以外に欧州枢軸軍はほとんど存在しないことが分かっていたので出来た事だった。当然だが、連合軍空軍が総力を挙げて支援するし、一日1000トン以上の補給物資を空輸する予定だった。これほどの空の輸送力こそが、連合軍の力だった。
 空挺部隊が降下したのは、ギリシア南部の上陸地点のサロニカ周辺部と、中部の空軍基地があるラリサが中心で、その他は主要交通路の橋梁を占領して、友軍が迅速に進軍してくるのを待つ予定だった。
 山がちで複雑な半島で形成されたギリシアは、半島の真ん中を貫く鉄道を押さえてしまえば、交通網を制したも同然だった。しかも守るのが自力での移動手段のないギリシア軍と、ドイツ空軍の基地部隊だけなので、空挺作戦によって孤立するのはむしろ枢軸側だった。その象徴として、空挺部隊が降下しただけで降伏したギリシア軍も少なくないと言われたほどで、ギリシア軍の戦意は総じて低かった。

 連合軍の大規模空挺作戦に際して、欧州枢軸側はほとんど無防備だった。ギリシア領内のドイツ軍は、連合軍がアテネ近辺に上陸することを想定して、南北での遅滞防御戦を前提とした旅団規模の遊撃部隊をアテネ近辺に置いているだけだった。それ以外の場所だと、先述したラリサとサロニカに空軍基地があったが、地上部隊は空軍の軽装備部隊と高射砲部隊だけだった。しかも移動力がほとんど無かった。
 ギリシア軍は、アテネとサロニカの上陸に適した場所にある程度の部隊を置いて、彼らに出来る限りの沿岸陣地は作っていた。しかしそれは、連合軍の物量を前にしては玩具みたいなもので、蟷螂の斧でしかなかった。
 これほど地上部隊が少なかったのは、6月以後連合軍がギリシアを激しく空襲したためだった。アテネはクレタ島から300キロも離れていないので、航空機にとっては1時間程度で飛んでいける場所なので、圧倒的多数の連合軍の攻撃を防ぎようが無かったからだ。インドから後退を続けていたドイツ軍は、空襲の損害を避けるためさらに内陸に布陣するしか無かった。
 枢軸軍南バルカン方面軍と改名された部隊は、空軍の支援が受けられるブルガリアを中心に展開しており、万が一連合軍がギリシア方面に侵攻してきた場合に限り作戦展開する予定だった。もっとも、連合軍が侵攻作戦を企てた時点で制空権はさらに酷くなることが確定的なので、完全に机上の空論でしかなく、ギリシアに対する言い訳でしかなかった。
 それでも連合軍のギリシア侵攻が近いと分かると、移動準備に入ったのだが、それは連合軍の空挺作戦でギリシア国境を越える前に潰えた。鉄道路線、幹線道路は、激しい空襲で短期間で修復不可能な状態に破壊された。しかも降下した空挺部隊が主要な場所を占領したため、これらを排除しない限りギリシアに進むことは無理だった。そしてギリシア、ブルガリア国境は山岳地帯で、ドイツ軍が得意とする機動戦をする余地は無かった。しかも降下してきた空挺部隊は、空挺部隊とは思えないほど重武装で、軽戦車(空挺戦車)すら保有していた。それにも増して、空軍部隊が強大すぎて、ドイツ軍などは夜間にコソコソと移動するより他無かったので、戦場には全く間に合わなかった。
 上陸部隊がサロニカの沖合に現れる10月23日には、連合軍の空挺部隊は初期の作戦目標をほぼ完了していた。サロニカは封鎖され、ギリシアに至る道、鉄道は遮断され、ラリサのドイツ空軍基地はまともに抵抗できずに占領された。ラリサの滑走路は連合軍の機体が降りるようになり、戦力を続々と増強していった。
 ドイツ空軍は、ゲーリング国家元帥の権力志向の赴くままに通常の戦闘ができる地上部隊も強化されていたが、その事が徒となって基地の防衛が疎かになる事が少なくなかった。この時の呆気ない陥落も、それが原因していた。
 空軍部隊は常に空挺部隊の上空を援護し、さらにギリシアに向かう枢軸軍機を手当たり次第に落とした。また移動する敵目標は、怪しければ民間のものでも容赦なく吹き飛ばした。
 そして「ネプチューン」作戦が始まったが、サロニカを守るギリシア軍は空挺作戦ですっかり浮き足立っていた。巡洋艦の艦砲射撃を受けると士気もうち砕かれ、上陸部隊が整然と海岸に上陸してくると、その場で白旗を振る光景すら見られた。

 突然の連合軍のギリシア侵攻に、欧州枢軸は真っ青になった。ブルガリアは、直ちに増援がなければ連合軍に降伏すると悲鳴を上げた。
 この時期に戦略的にあり得ない時期のギリシア侵攻によって、バルカン半島は無防備をさらけ出したからだ。そして何より問題なのは、連合軍が上陸したサロニカから直線距離で300キロメートルほどの地域に、欧州枢軸の生命線と言えるルーマニアのプロエシュチ油田があった。地上からだと山岳地帯の合間を進まなければいけないが、現地の貧弱な部隊を蹴散らす事は連合軍には容易に見えた。このためドイツは、直ちにロシア戦線から1個装甲軍団と2個歩兵軍団を引き抜いてギリシア国境に配備した。さらにドイツ本土で移動準備中だった2個師団も、ブルガリア方面に向けられた。空軍の方では、イギリス本国空軍が1個軍団緊急派遣することを決めた。
 しかし部隊の移動には時間がかかり、制空権は全くないので連合軍のギリシア「解放」は短期間の間に進んだ。最初にサロニカを押さえられたため、ドイツなどの援軍が期待できなくなったギリシアは、連合軍が首都アテネに進軍してくるよりも早く、連合軍と講和しようとした。しかしギリシア領内には、少ないとは言えギリシア軍以外の欧州枢軸軍がいるため、すぐの停戦は無理だった。このためギリシア軍は、連合軍が何も言わないのに手のひらを返して欧州枢軸軍の武装解除を進めていく。
 ギリシア情勢は、11月に入るともはや敗戦処理だった。
 ドイツ軍は、あわててブルガリア=ギリシア国境に増援部隊を展開させたが、それ以上進むことは出来なかった。連合軍は、すでに2個軍団が展開していたし、サロニカなどでは連合軍機が作戦行動を開始していたからだ。現地の枢軸軍では、ギリシアが解放されるのを指をくわえて見ているしか無かった。それ以前の問題として、連合軍がブルガリアに進軍してくる事に備えなければならず、防御陣地の構築が急ぎ行われた。
 枢軸側では、ユーゴスラビアのマケドニア方面からの反撃も考えられたが、これも断念された。大軍を短時間で通過させることも出来ないし、補給線を維持できるかも不確定なので軍を展開させることは無理だった。ユーゴスラビアに進軍しなかったのは連合軍も同じだったが、それは現状でギリシア方面の兵力が不足していたからに過ぎなかった。

 しかし11月半ばになると、ギリシア方面の戦線は少なくとも地上は安定化する。連合軍がそれ以上北上する気配を見せず、陣地固守の体制を見せたためだった。つまりはギリシア侵攻が作戦目的であり、この時期にドイツ軍などの総力を挙げた阻止が確実なルーマニア方面への進軍を行う気が全くなかった事になる。
 そして連合軍の中枢であるアメリカは、ギリシアに価値を見いだしていたのであり、ルーマニアの油田などは戦争経済全体から見たら些末な事とすら考えていた。連合軍にとって戦争は「いつ終わるか」が関心事であり、誰がどこを押さえるかが問題だったのだ。
 この考えがはっきり現れたのが、ギリシア作戦でもあった。
 連合軍にとっての戦争は、すでに政治に移りつつあったのだ。

●フェイズ51「第二次世界大戦(45)」