●フェイズ51「第二次世界大戦(45)」

 1944年11月7日、アメリカ大統領選挙の結果が出た。
 選挙結果は、共和党候補のトマス・デューイが破れ、民主党候補コーデル・ハルの勝利で終わった。

 世界中は、戦争中は政治的混乱を避けるため共和党政権が続くと安易に考えていたので、大きな衝撃をもたらした。
 もっとも、当のアメリカは平静だった。
 と言うのも、アメリカではハーディング政権以来6期24年も共和党政権が続いていたので、市民達はそろそろ民主党政権が成立するべきだと考えていた。また、共和党に楽観論が強かったことも、政権交代の原因だと言われることもある。
 民主党勝利の原因は色々言われたが、結局のところ4期16年も共和党政権が続いた事が原因だった。これは恐らくアメリカでしか通じない政治的感覚だった。また、ランドン政権は国際協調や融和外交を優先しすぎて、「アメリカ国内」の政治的感情を軽んじたからだとも言われた。というのも、アメリカの外交は常にアメリカ国内、特に選挙を考えて行うのが常だからだ。これは建国以来変わることはなく、極端な言い方をすれば選挙の前には必ず戦争か、それに近い外交が実施されている。これを怠った政権(=政党)は、殆どの場合次の選挙で敗北している。外交担当の省庁が国務省とは、言い得て妙なのかもしれない。
 なお、ランドン政権2期目の場合は、既に世界大戦に参戦していた。42年秋の中間選挙までには、カリブ海で優勢を確保する勝利を得ていた。ここまでは、及第点と言えた。実際、42年秋の中間選挙では、共和党が無難に勝利している。しかしランドン政権は、戦争全般に渡って日本、ソ連、自由英との融和外交と連携を強めた。連合軍が勝利するためには当然の策なのだが、アメリカが譲歩しすぎているとアメリカ市民達には映った。この典型が、1943年8月の「アンカレッジ(首脳)会談」だ。会談の主導権が日本の山梨首相にある事は、粉飾されたアメリカ国内の新聞報道を見ても明らかだった。他にも、主にアメリカ国内で行われる日本、自由英との交渉でも、アメリカが譲歩しすぎている、もしくは存在感に欠けていると見られる向きが強かった。
 この心理的背景には、アメリカは世界最大の工業力と国力を持つという奢りがあったと言われる。これに対して、日本はまだまだ新興国であり「真の一等国」を目指すという国民の意気と熱意があり、自由イギリスは祖国をナチスと国内のファシストから解放するという使命と危機感があった。これらがアメリカ外交の存在感を薄めさせていたと言われる。もっとも、客観的に見ればアメリカは十分以上に戦争に貢献して、外交でも存在感を示していた。多分に感情論が強かったが、その間隙を民主党が突いた。
 その象徴こそが、コーデル・ハルが大統領選挙の出馬だった。

 コーデル・ハルは、フーバー政権の頃から民主党の上院議員を務めていた。また、1932年の選挙運動中に倒れたフランクリン・ルーズベルトの友人だった。30年代から戦争中にかけても民主党で重要な役割を果たし続けていた。特に民主党が行う「外交」の中心的人物で、30年代半ばにはフーバー政権に請われて上院議員を返上してイギリス大使も務めている。
 そして十分な準備期間を挟んだ後に選挙に出馬した。この出馬は、友人のルーズベルトの事実上の遺言があったからだと晩年のハルへのインタビューで明かされたが、その事を知らなくても強い意志を感じさせる姿だった。
 だが、出馬も簡単では無かった。土壇場までウェンデル・ウィルキーと候補者争いをした末での出馬だった。ただしウィルキーは指名選挙で敗北したこの年の10月末の選挙本選の直前に急死しているので、民主党としては「ツキ」が回ってきたと感じさせたと言われている。
 一方の共和党は、フーバー元大統領のかつての言葉通り2期以上の大統領が出来なかった。ランドンが3期をする事に対して、戦時中だから問題ないという言葉も少なくなかったが、今は良くてもその後禍根になると考えられたので、ランドンが続けて出馬することは無かった。
 もっとも、次の候補となるべき人選は決まらなかった。「コレ」という人物がいなかったからだ。候補を決める時も盛り上がりに欠けていた。結局、トマス・デューイに決まったが、かつてのランドン同様にパッとしない人物だった。検事として非常に優秀な人物だったが、政治家としての経験は直近のニューヨーク州知事ぐらいだった。だから共和党は全面的に支援し、デューイも巧みに選挙戦を行った。
 選挙戦は接戦だったが、基本的に共和党優位で進んだ。やはり戦時ということで混乱を嫌った市民も多かったからだ。
 だが最終的な選挙の結果、僅差でコーデル・ハルが勝利した。

 選挙結果に対して、連合国各国は混乱を最低限とするように要請を出した。コーデル・ハルと民主党も、選挙運動の時から自分たちが勝利しても戦争運営の大筋に変更はないし、政府のスタッフのうちに軍関係者はそのまま据え置く事を明言していた。
 だが、軍以外の長官(=大臣)は入れ替えざるを得なかった。
 大統領は当然コーデル・ハルで、副大統領には戦争中に民主党が作った軍事費の使用状況を調査・報告する機関の長を務めていたハリー・S・トルーマンが就任した。トルーマンは副大統領の前の仕事で知名度を急速に高めていたし、戦争にも大きく貢献していたので異を唱える声は共和党からも少なかった。
 国務長官には、数ヶ月前まで駐日大使を務めていたジョセフ・ケネディが就任した。ケネディは民主党だったが、彼は政界への進出を目指していたので、支持していた民主党を様々な手段で説得し、さらに共和党政権へも接近し、そして幾つかの役職を経た末に1938年に、アングロ系から敬遠されがちながら外交的な要職の一つとされていた駐日大使の座を掴むことに成功した。
 そしてケネディは駐日大使として辣腕を振るい、特に原敬系の政治家からは強い信頼を受けた。日本の外交政策にも少なからず影響を与えており、特に日米関係を強固にする事に貢献した。また彼は、赴任前から日本への自分の宣伝を十分に行っていたので、大物が大使に派遣されたと日本人達は思い大いに歓迎されている。大戦中も山科政権とも深い信頼関係を築き、アメリカと日本が連合軍の中核として戦うことに貢献した。
 しかし彼が駐日大使になったのは、モルガン財閥への対抗心と満州への足がかりを得るためだったと言われることもある。1930年代後半は、モルガン財閥に属するプレスコット・ブッシュが日本と満州の経済面で活発に活動していたが、対抗心を燃やしたと言われることもある。
 なお、彼が国務長官に選ばれたのは、彼がアイリッシュ系移民だからという説が強い。つまりヨーロッパ、中でも英本国との戦争を見据えての事だった。その代わりと言うべきか、副長官には同じジョセフの名を持つ親日家のグルーが選ばれた。こちらは、日本を疎かにしないという姿勢を見せるためだ。
 財務長官には、ヘンリー・モーゲンソーが就任した。彼もハル同様にルーズベルトの友人で、民主党の経済、財務関係の重鎮としての役割を果たしていた人物だった。彼はケインズ派に否定的な正統派の経済学者のため、戦時の財政家としては相応しくなかったという意見もある。総力戦を行う時の戦時経済は、典型的なケインズ型経済の姿をとりやすいからだ。それは当人も分かっていたのか、共和党時代の政策を踏襲することが多かった。しかし旧中華民国の実質的な産業解体をより強固に進めた事で、彼は一部で悪い評価を受けることもある。

 そして明言したとおり、政府内の軍関係者は変更されなかった。
 しかし軍人にも共和党と民主党の支持者がそれぞれいるし、政治家と繋がりのある高級軍人も少なくなかった。このため幾つかの人事異動は、やはり行われることとなる。それ以上に、翌年1月の政府の再編成までに内閣を中心とした政府中枢は共和党から民主党に衣替えしていく事になり、アメリカの政治と外交は停滞を余儀なくされた。
 もっとも、アメリカ市民が大統領を変えた事に象徴されるように、戦争自体の大局はすでに決したに等しかった。もはや欧州枢軸に戦争をひっくり返す力はなく、後はいつ降伏するか、いつベルリンに連合軍が進撃するかの前段階だった。
 何しろ戦場は、欧州で行われていた。
 新しい政府は、戦後の外交も見据えて選ばれたといえるだろう。だからこそのコーデル・ハルだった。
 そして第33代大統領となったコーデル・ハルは、この後外交面での活躍が大きく評価されるが、彼がこの時期のアメリカ大統領でなければ連合国(U.N.)の成立は遅れるか、少し違った形なったと言われることが多い。
 だが、アメリカの政治と外交が新たに動きだすには少し時間が必要で、その間を日本を中心とした連合国各国が支えなければならなかった。
 そして一時的に役割の真下日本だが、日本の戦争中に少なからず変化しつつあった。

 1940年夏の参戦以後、日本帝国は国家の総力を挙げて戦争に邁進した。
 しかし、米英など本当の列強、いや先進国に比べて、様々な面で足りない面があった。このため国家体制の強化が急速に図られ、所謂「戦時体制」に移行していった。その際たるものが「国家総動員法」だった。これを以て、日本も軍国主義だったというリベラル派(左派)の意見もあるが、このような法制度を整備しなければ、当時の日本は国家の総力を挙げた戦争を遂行することは不可能だった。真の先進国だったアメリカに比べて、近代国家として大きく劣っていたからだ。だが総力戦体制は、戦争経済を維持するために国民の最低限の生活も守らなければならなかった。民衆が疲弊しすぎたら、戦争を継続できないからだ。
 このための法律の多くは、今までしたくても出来なかった「民主的」な法律が多かった。最低賃金法につながる「賃金統制令」、「小作料統制令」がその際たる法で、これらの平和になっても有効な法律は、戦争が終わっても一部を改めただけでそのままとされている。他にも、労働者を守る法律がいくつも作られている。
 また、随分前から懸案だった大規模な省庁改革も進んだ。
 巨大だった内務省の実質的な分割が行われて、厚生省、労働省、建設省が誕生した。内務省の肥大化は1920年代から言われて、すでに庁という形での分裂が始まっていたが、戦時の挙国一致内閣でなければできない荒技と言われた。
 また、地方自治にも大きなメスが入れられ、市町村の合併が押し進められた。この中で首都と非常時に臨時の首都機能が担える大都市の合併と特別市が法律として制定される。この結果、周辺の市町村を飲み込んだ東京特別市と大阪特別市が誕生する。名称は東京都、大阪都となり、市長を置かずに知事が直接治める大都市とされた。また都市整備、行政府整備のため、戦後に都市改造を行うことも決められた。また大阪には、商工省、鉄道省、建設省など主に経済部門の省庁の正式移転も決定した。
 戦時に移転しないのは、施設建設のための鉄鋼やコンクリートなどの資材不足、労働力不足のためで、したくても出来ないからだった。そして大阪市中心部にあった大阪造兵工廠は、戦争初期に僅かだが爆撃を受けたことで危険性も分かったため、他の軍事施設のほとんどと共に全て郊外に移転することが決まる。そして跡地は、緑地帯(公園)と行政地区としての再開発が決められる事となった。首都東京でも、軍の施設の郊外移転の多くが決められた。
 これらの改革、特に中央での数々の法制度整備によって、戦争中に日本の民主化は一気に進んだと言われることも多い。一方では、「国民徴用令」や「価格統制令」など、国民に無理を強いる法も少なくなかった。貴重物資の配給は欧州諸国でも行われたが、日本でもかなり強く行われた。
 もっとも、戦時中の方が食糧は溢れていた。
 これには同盟国の事情が強く関係していた。

 戦前のイギリスは本国の食糧自給率が低く、食糧の多くは英連邦諸国で生産し、さらに足りなければ南米のアルゼンチンやアメリカから輸入していた。他の欧州諸国の一部も、アルゼンチンなどから食糧を輸入していた。だが戦争で英本土(と欧州全体)が敵となると、カナダなどの食糧が一気に余ってしまった。これをアメリカなどが買い上げて、一部を無償で解放し、それ以外の多くもレンドリースとして食糧の不足する連合国にばらまいた。俗に言う「小麦攻勢」の始まりだ。中立国のアルゼンチンなども、欧州からの船が滞り始めると牛を育てすぎて採算割れしたり腐らせるよりマシなので、安価で各国に営業をかけた。中立国の物資なら欧州枢軸も何とか買えたが、43年半ば以後になると欧州と他の地域を結ぶ航路が連合軍によって断絶させられたため、これも連合国が買い上げねばならなくなってしまう。一方で、食糧流通のアメリカへの一極集中が一気に進み、所謂「穀物メジャー」が躍進する最大の切っ掛けともなった。
 そして食糧の多くは、レンドリースで穀倉地帯を奪われて困窮するソ連に流れたが、それでも多くが余剰していた。その余剰のかなりが日本に流れてくる。
 戦争中の日本では、農業の担い手の多くが徴兵または招集されていたし、窒素肥料の工場の多くは火薬の原料を作っていたので、食糧生産力が衰えていた。徴兵と燃料問題で、漁獲高も大きく落ちていた。このため日本政府としても、アメリカや自由英からの供与は有り難かった。とはいえ、流れてきた食糧は、膨大の量の小麦と牛の冷凍肉だった。日本でも小麦は麺類などで食べられていたが、とてもではないが消費と活用が追いつかなかった。このためアメリカなどから多数の職人が招かれて、日本の「臨時主食」としてのブレッド(パン)の普及が大規模に開始される。42年からは、小学校の給食を全てパン食としたが、それも焼け石に水だった。日本中の婦人会は、小麦料理について頭をひねらせる事になる。連動して、インドを解放した事で紅茶が、紅海を越えた段階でコーヒーが大量に流れてきたので、これを切っ掛けとして日本で広く飲まれる事にもなる。牛肉料理も、一気に庶民化した。
 日本の食糧事情を根底から変えたと言われる変化の始まりであり、前線でもアメリカが補給を担当した場合も、日本人将兵などにはパンなどアメリカの食料が供給された。
 日本人は米(ジャポニカ米)を好んだが、無いものはしかたないので、目の前に溢れるパンに手を付けた。そして好むと好まざるとパンの味、小麦の味、さらに肉の味を覚えていく事になる。
 しかし英本土が奪還されれば食糧の流れが再び変化する事が確定的なので、日本政府は過度の食糧流入を警戒してもいた。結局、日本政府の警戒は杞憂に終わったが、日本人の食生活が戦争中に大きく変化し始めたのは間違いなかった。
 そして変化は食糧面だけではなかった。
 とにかく総力戦を遂行するため、重工業を中心に増産に次ぐ増産が実施された。可能なら工場の建設も行われ、その際足るものが製鉄所と造船、航空産業、自動車、火薬用の化学工場などの軍需産業と軍需と直結する産業だった。影響で、被服などの軽工業生産が大きな犠牲になるほどの弊害が出たほどだった。

 重工業の指標とされる粗鋼生産力は、1940年時点で最大生産力が1000万トン(※生産実績は800万トン台)と推定されていた。アメリカ(6000万トン)、ソ連(2000万トン)、ドイツ(1800万トン)、イギリス(1300万トン)、フランス(1200万トン)に次ぐ数字で、この点では十分列強と言える。しかし1930年代に入るまで中間資材となる銑鉄が十分に生産できなかったため、代替手段としてアメリカなどから屑鉄を輸入していた。これは1932年の八幡製鉄所の拡張、1934年の広畑製鉄所の全面操業で解消されたが、日本が急速に発展している証拠であると同時に、工業新興国の現れでもあった。
 そして戦争に入りつつある頃でも、拡張は続いていた。1930年代になると、大阪の堺、千葉の君津の大規模な埋め立て造成が実施され、そこに巨大な鉄鋼コンビナートの建設が実施された。これは共産主義国や全体主義国の五カ年計画を真似た「重要産業五カ年計画」によって計画されたもので、一気に英仏を越える粗鋼生産力を達成する為の施設だった。また三重の四日市、岡山の水島には、同じく埋め立て地を作り製鉄所と少し遅れて石油化学コンビナートの建設が開始された。二つの科学石油コンビナートは、満州帝国での巨大油田の発見に伴った需要に応えるために建設が開始されたもので、満州、日本でのモータリゼーションに対応するためでもあった。
 埋め立ては工場建設から10年近く前から開始され、多数の労働者、各種重機、運搬用トラック(ダンプカー)の需要を産んだ。そして埋め立て土を取った後の場所は整地されて、未来の郊外住宅地としての整備が行われた。
 他にも、重工業地帯に水と電力を供給する大規模なダム開発、水力発電所の安価な電力を利用したアルミニウム・プラントなどの建設も行われた。

 関連して道路網も整備され、アスファルト舗装の道が大幅に増えた。これらの産業だけで、膨大な労働需要と社会資本の投資が発生した。
 そしてこれら四つの巨大工業施設は、戦争が開始されると最優先で建設工事が進められることになり、一部ながら戦争中に次々と操業を開始するようになる。この結果、日本の粗鋼生産量は、1945年度には1400万トンを記録。戦前のイギリスの数字を追い越すまでに拡大する。なお、鉄鋼生産量は、おおむね粗鋼生産量の3分の2程度になり、実際に鉄鋼は850万トン生産されていた。
 そしてその鉄を、武器、弾薬の生産が猛烈な勢いで消費した。それでも粗鋼生産は足りないが、この時期の満州帝国も40年近い発展と拡大のお陰で、600万トンの粗鋼を生産するようになっていた。この生産量はイタリアを超える量で、工業国として十分に連合軍の一翼を担っていたと言える。日本と合わせればソ連の生産量を超えており、日本が生産面でも連合軍の重要国だったことが分かる。

 満州帝国は、陸軍装備と弾薬ばかり生産しており、平和なときは満州の国土を開発するトラクターや各種自動車を生産していた工場で、戦車や軍用トラックを生産した。航空機の多くも戦車を作るより楽なので、ライセンス生産が殆どだがかなりの航空機も作った。
 ただし、戦車も航空機も一貫生産するだけの工業力はないので、エンジンなど重要パーツの多くを日本かアメリカから輸入していた。それでも、東鉄系列の財閥と1920年代に日本から進出した日産財閥が、増産に次ぐ増産を重ねていた。ロシアの大地では、いくらあっても足りないからだ。
 日本国内での車両生産は、日本陸軍の陸軍工廠と三菱重工、豊田、小松などが生産していた。日本での重機、トラックの大幅な増産は1930年代に入ってからだったが、戦争になると規模をさらに拡大して生産された。このため戦車、装甲車の年間生産台数は、1940年度は1000両にも届かなかったが、1945年度には5000両を記録した。戦争中の生産台数は1万5000両ほどで敵だったイギリス本国に劣る数字だが、満州での生産がさらに5000両ほど加わるので、イギリスを越える数字となる。もっとも、ドイツは4万両以上、米ソは共に9万両以上を生産しているので、戦場で見られた日本の戦車は比較的少ない。連合軍の代表的重戦車となった三式重戦車系列は例外だが、この重戦車生産を重視したことも日本の戦車生産数が少ない原因だった。

 もっとも、弾薬以外で一番鉄を消費するのは造船だった。おおよそ鉄鋼生産量全体の4分の1が造船に回されるので、粗鋼生産量が1000万トンだと鉄鋼生産量は660万トンになり、165万トン分の鉄が造船に回される。この数字をさらに2割り増しほどした値が商船建造量になるので、約200万トンの商船が建造されていたことになる。1945年の最大値だと粗鋼生産量はさらに40%増えるので、最大数値は280万トンとなる。ただし粗鋼も造船も総力戦状態になったのは1942年度からなので、それまでの生産量は最大数値の精々80%程度になる。
 これらを踏まえて計算すると、日本帝国は戦争中に約1400万トンの商船を建造した事になる。1940年9月時点での商船保有量が約1000万トンなので、それ以上の量の商船を建造していた。実際の数字もそれを示している。
 そして欧州枢軸は、北大西洋以外での通商破壊戦は比較的低調だったので、日本が失った船舶量は以外に少なく(※最終的な日本の損失は全体の10%程度)、戦後の日本はアメリカに次いで世界第二位の商船保有国になっていた。日本が地中海まで難なく進撃できたのも、この豊富な商船量のおかげだった。
 なお、日本の本来の建造能力だと、さらに五割り増し程度の商船が建造可能という数字があるが、造機(エンジンなど)の製造能力と工員の数の問題もあって現実は不可能だった。そしてさらに、民間造船所のかなりが戦闘艦艇(軍艦)を多数建造していたので、作りたくても作れなかった。

 戦闘艦艇(軍艦)の建造についてもう少し詳しく見ていくと、日本海軍はあまり誉められる状態では無かった。
 日本は1941年3月からアメリカのレンドリース(貸与)法の対象国となって、連合軍として十分な活動を行うために、多くの武器、弾薬、その他様々な物資のレンドリースを受けた。レンドリースは文字通り借り物なので戦後に返さなくてはいけないが、日本政府は戦争中の日米双方特に日本でのインフレを勘案すれば、アメリカから借りた方が安上がりだと開き直った。加えて、日本では生産できないもの、生産しても非効率なものの多くをアメリカに頼った。反面、アメリカからは多数の高性能の工作機械を購入したりもしている。これは非常に正しい決断であり、豊富なレンドリースは日本の軍事力を大きく高めた。ただし日本の陸海軍は、アメリカから大量生産の兵器を貸与されることで、自国で生産する兵器については「作らなければならない兵器」ではなく彼らが「作りたい兵器」を優先して生産した。「作りたい兵器」は、確かに戦場で必要だった兵器も数多いが、だからといって一概に誉められなかった。
 日本陸軍は、多少の強迫観念はあっても必要に迫られて重戦車の生産に狂奔したが、日本海軍の場合は年々必要性が低下していった大型艦艇を好んで建造した。

 日本では、最大で大型艦が9隻同時建造可能だった。中型艦を含めると、最大で16隻の同時建造が可能となる。そして準戦時計画と言える1939年度計画では、このうち8箇所で戦艦か大型空母を作り始めた。残る1箇所と中型艦が建造できる造船所7箇所と共に、直衛艦と呼ばれる巡洋艦級の中型艦艇を建造していた(※戦争までは、一部ではタンカーなどの大型船が建造されている。)。
 そして戦争が始まると1940年度、1942年度にさらなる建造計画が実施される。1940年度の緊急と銘打たれた計画では、戦争が勃発したので不足が分かった軽巡洋艦4隻と艦隊型駆逐艦を40隻、《大鷹型》特設空母と多数の対潜水艦用小型艦艇、戦時型潜水艦を多数計画する。そしてさらに、本命としての《改大鳳型》航空母艦が4隻も計画された。また、民間造船所を圧迫する高速給油艦も多数計画された。ただし高速給油艦だけは、遠隔地で戦争を遂行するためには是非とも必要なので仕方ない面もあった。さらに1939年度計画の1年前倒しの予算が盛り込まれた。海軍はもっと大型艦を建造したがったが、予算と建造施設の問題からやむを得ず見送った。この計画は、《改大鳳型》以外は妥当な計画だった。
 そして贅沢で必要性に疑問が付く事が多い《改大鳳型》航空母艦だが、それでも戦時建造型とも呼ばれるほど量産性と早期建造が重視されていた。排水量は2000トンほど増えて基準排水量3万8000トンとなったが、大きさは船体幅が50センチほど増えただけだった。幅が増えたのは、船体各所の幅を出来る限り均一にして建造を簡易化して建造速度を早めるためだ。これはアメリカの《エセックス級》と少し似ているが、日本の場合はブロック工法を行いやすくするために行われた設計変更点だった。他にも《大鳳型》からの小さな改良点はあったが、建造の簡易化が最大の特徴だった。このため図面を見ると、かなりの違いを見つけることができる。こうした努力から、《改大鳳型》も設計面では戦時に適応した空母と言えた。だが、1940年秋の計画成立時点では日本の大型艦建造施設の多くが埋まったままのため、建造がすぐにできたわけではない。また、早期建造できるように設計を改めたと言っても、排水量4万トンに迫る正規空母の建造は非常に手間と時間がかかった。このため《改大鳳型》の就役開始は、1945年下半期が予定されていた。計画された時点で、戦争が既に終わるか海軍の役割が低下している可能性を指摘されながらの建造だった。

 そしてレンドリース対象となった後に計画されたのが、1942年度の「改第五次補充計画」になる。
 すでに大型艦のほとんどは、この計画が動きだすまでに船台やドックから出て擬装岸壁に移動するので、全ての大型艦用建造施設が使えた。これを全て再び大型艦の建造で埋めていく。
 そして計画では、大型戦艦2隻、大型装甲空母3隻、防空能力を高めた1万トン級の汎用巡洋艦を8隻計画した。何隻あっても足りない大型駆逐艦もさらなる増産が決まり、日本の建造施設は引き続き多数の戦闘艦艇を建造していくことになる。
 だが今までと違って、対潜水艦用の艦艇、中、小型の揚陸艦艇はほぼ計画されなかった。これら全ては、アメリカからのレンドリースが決まったからだ。
 大型戦艦は《大和型》の改良型で、大型装甲空母は当初計画は3万9000トン程度の《改大鳳型》の改良型だったが、戦訓を反映して一回り大きくなり4万5000トン級に拡大された。この規模は、アメリカの《ノース・アトランティカ級》大型空母とほぼ同じだが、能力を合わせるためにこの数字になったのではない。その代わりに、建造計画数は3隻から2隻に削減されている。
 なお建造計画数が3隻なのは、純粋に建造施設の問題だった。予算検討の頃は、まだ連合軍が優勢とは言い切れなかったし、欧州枢軸が大規模な艦隊拡張していたので、本来ならもっと多くを建造したかったが、一度に建造できなければ戦争には間に合わないので、仕方なく中小の量産が容易い艦艇などにシフトしたという経緯がある。
 汎用巡洋艦は、戦前の最後に計画した《利根型》の船体を基礎設計として排水量が1万トンを越え、今までで最も大きな軽巡洋艦だった。ただし《利根型》のような特殊な兵装配置ではなく、常識的な装備を施す予定だった。

 なお、改第五次補充計画は、大型艦の建造は平時だったら達成は1947年までずれ込んでしまうので、内閣特に大蔵省から強い反発が出た。どうせ作るならば、戦争に間に合う艦艇を作るように求めた。これに対して海軍では、造船施設のさらなる近代化と強化、3交代24時間体制を行うことで、時間的に戦争に間に合うとした。さらに海軍は、大型艦の全ては《大和型》の建造でより有効性が立証されたブロック工法をさらに大規模に進めることで、さらなる工期圧縮と予算削減が出来ると論陣を張った。しかも海軍は、1940年度計画で一部工事の準備を進めているので、さらなる工期の圧縮可能とした。
 結局、戦後までを考慮すると中型艦の数を揃えても仕方ないという意見まで出て、海軍の計画は若干の修正を加えるだけで予算通過した。
 なお《改大和型》戦艦は、ドイツが同時期に計画していた「H級」戦艦の改良発展型の計画と、イギリス本国の1942年度計画が漏れ伝わったために無理を押して計画承認されている。
 ドイツが計画した「H42級」は排水量10万トン、20インチ砲8門という巨大戦艦を2隻で、イギリス本国は18インチ砲搭載の6万トン級戦艦2隻(仮称《ヴァンガード級》)を計画していたので、日本海軍の懸念もある程度は理解できると思う。
 もっともドイツの計画は、設計担当者の熟練度を維持するための基礎設計のみの研究に過ぎず、イギリス本国は他の艦艇や兵器の生産を優先して計画を中止した。1944年夏頃にそれらが判明してからは、《改大和型》戦艦の建造は一気にペースダウンしてしまう。その時点で《改大和型》戦艦2隻の船体は完成していたので、そのまま長らく造船区画の片隅で放置に近い状態に置かれてしまう事になる。
 拡大《大鳳型》装甲空母については、一応は代替艦でもあった。就役する頃には《赤城》《加賀》が艦齢のため第一線の維持が難しくなるからだ。また就役する頃にはジェット戦闘機の搭載が始まる事が計画されていたので、機体の大型化、ジェット化に対応した新世代の空母が必要となるため計画された。
 拡大《大鳳型》装甲空母は、基準排水量4万6500トン、全長298メートルの巨体で、飛行甲板の主要部を装甲で覆い、さらにジェット機の噴射に耐えられる耐熱甲板とされる予定だった。船体構造、格納庫など多くの面でさらに完成度が高められており、設計面でアメリカを越えたと言われることもある。
 完成については、1番艦、2番艦は1946年中が目指されていたが、既存艦艇の修理などもあって1944年の時点でも工期通り行くかは微妙だった。

 一方で、こうした新規艦艇の人員確保のため、国内にいた旧式艦の整理が進められた。加えて、いきなり新規装備を搭載するわけにもいかないので、試験装備する艦艇もあった。
 軽巡洋艦《夕張》は、もともと実験的に建造された小型巡洋艦だった。建造当初は世界を驚かせたが、武装に対して余裕のない船体規模と構造のため大規模な改装を受けられなかった。第二次世界大戦では初期の頃に少し前線に出ただけで、その後は呉近辺にあって小型艦用の装備実験艦に指定されて、様々な装備を載せ換えて実験する任務に就いていた。しかし大型装備を搭載することができないので、そこが悩みの種だった。
 そこに、戦場で大破した《扶桑》が日本本土に戻ってくる。当初日本海軍は、機関の半分が破壊されたのを理由に機関換装を含む大改造を予定した。しかし旧式すぎる戦艦を時間をかけて改装しても戦力価値は知れているし、何より欧州枢軸の大型艦は減少するか《扶桑》では対抗が難しい新型艦に置き換わりつつあるため、改装の理由も薄れていた。そこで、大きなプラットフォームを利用して、様々な装備実験艦の任務に就くことになる。破壊された機関の半分はディーゼルに置き換えて人員を大幅に削減し、主砲、副砲もほとんど降ろして、様々な新規装備を搭載した。
 このため《夕張》《扶桑》は、二度と前線に出ることは無かった。また練習空母となった《凰祥》なども同様で、実験艦隊と練習艦隊に分かれて、主に瀬戸内海の呉、柱島近辺で行動した。
 また旧式艦の整理だが、対潜作戦や船団護衛に酷使されていよいよ旧式化して機関の寿命などがきた旧式駆逐艦が主な対象とされ、乗組員達は新造されたり貸与された艦艇に乗り換えていった。巡洋艦以上だと、軽巡洋艦《天龍》《龍田》が1944年に入って予備役に入れざるを得なくなった。船体や機関の寿命もあるが、小型すぎるため機関を換装して延命しても使える場所が限られてしまうからだ。このため両艦は練習艦とされて、増え続けた水兵の教育に当たった。このため魚雷発射管の一つを降ろして急造の居住区を作るなど、練習艦としての簡易改装も行われている。
 それ以外の旧式化だと、《金剛型》戦艦も平時なら1944年から順次予備役の予定だったが、戦前の機関換装を含む近代改装のおかげで、1949年までは運用可能と判定されていた。ただし、使い勝手のいい旧式の高速戦艦なので酷使されたため、1946年内の運用が限界となっていた。運用を続けるには機関の換装を行わなければならないが、予算ばかりでなく時間がかかるため、余程の事が無い限りさらなる改装予定は無かった。

 そして計画の中で最も巨大で最も長期だったのが、特殊な潜水艦建造計画だった。この計画のために、多くの大型艦の建造が見送られたほどだ。ただし同計画は、潜水艦建造に止まらず多くの応用研究が含まれていた。計画の中核が、世界に先駆けた「原子炉」の開発だったからだ。
 日本海軍は、遠隔地での作戦が一般的となった第二次世界大戦で、少しでも長く活動できる潜水艦を求めた。その中で行き当たった一つの回答が、当時最新の核分裂反応の応用研究だった。
 計画は海軍だけでなく、陸軍、商工省から果ては内閣全体まで巻き込んだ大きな計画として立案されていった。それでいて秘密性は高いため、「秘密の計画」とされた。計画名称は「ゲ号計画」、通称「G計画」と呼ばれ、原子力の総合的な研究と開発を行うもので、理化学研究所と日本中から集めた最先端の物理学者、数学者が参加していた。同時に新兵器の運搬手段についても、研究と開発が行われるようになっている。
 しかし、海軍が一番に求めたのは動力機関で、商工省は戦後を見据えた発電装置であり、初期の計画中には不思議と「爆弾」の項目が無かった。意図的に隠されていたと言われることが多いが、後年関係者からの話を集めると、海軍は当初は爆弾のことはほとんど念頭になく、無限の航行能力を求めてて研究、開発が始まったのは確からしい。もちろんその後の研究で爆弾の研究も始めているが、それは大型攻撃機とセットの開発計画で、アメリカで同時期に始まった計画の後追いに近かった。
 研究、開発が始まったのは1941年末頃で、本格化したのが1942年度の予算からだった。海軍では潜水艦動力としての研究、開発が第一項目とされ、新たな動力装置を搭載する潜水艦も計画された。当初から動力装置が大型化するのは避けられないと考えられたので、潜水艦自体も多少の余裕を見越して空前の規模に拡大された。これが「特型」と呼ばれる潜水艦の始まりであり、1951年に世界初の原子力潜水艦《伊401》潜水艦が就役するまで、約十年もの歳月を掛けて建造される事になる。《伊400》潜水艦の船としての形状が古くさいままだったのは、試作型3隻がこの時計画されたためだった。また、就役当時でも特殊だった主搭載兵器の巡航ミサイルも、計画当初は航空機を搭載予定だったので、潜水空母という呼び方を行う場合もある。実際、通常動力艦としての実験用に1隻が戦中に建造されているが、同潜水艦は艦橋とセットになった大きな格納筒を船体上部に装備して、2機の水上偵察機を搭載できる姿で完成している。そしてこの通常型は、第二次世界大戦で建造された世界最大級の潜水艦というタイトルホルダーを得ている。

 なお、日本で極秘に開始された原子力潜水艦開発は、途中から一部がアメリカとの共同開発となった。そしてアメリカ側からの架け橋となった人物が、「原潜の父」とも言われるハインツ・リッコーヴァーだ。彼はアメリカ海軍の機関科の将校出身で、フィリピンやハワイで勤務していたため、日本海軍の同種の関係者とも親しい人脈を作っていた。そしてアメリカ海軍が電気推進先進国であり彼が電気に詳しい人物のため、日本側からも技術指導として呼ばれたこともあった。その経緯で、双方の極秘開発となった原子力潜水艦開発に携わり、彼自身の強い希望もあって最も開発が進んでいた日本での開発に携わっている。国としての初の原潜保有は日本海軍だが、彼の活躍無くして早期の原子力潜水艦建造は無かったとも言われる。そしてその後の彼は、晩年までアメリカの原子力潜水艦開発と建造に携わることになる。日本海軍でも、第一人者であり唯一の人材といえる彼に師事する者が多かった。

 なお、「ゲ号計画」の研究成果は、その後アメリカにレンドリース数億ドル分(詳細不明)を対価として1943年秋頃に有償提供され、アメリカでの急速な原子爆弾開発に応用されている。また日本でも研究開発は続けられたが、開発に成功したのはアメリカからの有償技術供与があった戦後しばらく経ってからの事となる。
 


●フェイズ52「第二次世界大戦(46)」