●フェイズ54「第二次世界大戦(48)」

 1945年2月、連合軍は着実に次の攻略目標に向かっていた。

 この時期の連合軍は、アジアから進んできて地中海に入りアイゼンハワー将軍が指揮を執るようになった地中海戦域軍と、米本土から直接進んできたマッカーサー将軍の部隊に指揮系統が分かれていた。しかも、北大西洋方面の連合軍は、大きく二つに分かれている。
 一つは、モロッコに上陸してフランス南部に進んでいく予定の中部大西洋戦域軍。もう一つは、北米大陸から直接英本土を狙う北大西洋戦域軍になる。このうち中部大西洋戦域軍は、陸軍のマッカーサー将軍が指揮するが、北大西洋戦域軍は英本土または仏本土北西部への上陸作戦が終わるまでは日米海軍と自由英の領分で、前線指揮の総指揮官は大西洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ元帥になる。北米から直接英本土に上陸するには、有史上最大規模の海軍の動員が必要と考えられていたからだ。
 そして各戦域軍は、アメリカ軍を中心とした中に日本軍、自由英軍など連合国各国軍が加わる。アメリカ軍が一番多いので、これは仕方のない事だった。そしてそれぞれの国は、連合軍としての指揮下にありつつも、半ば名目であっても独自の司令系統も有していた。数、戦力でアメリカ軍が中心であっても、それぞれの国内の序列や命令系統として必要だからだ。
 ただし、連合軍の命令系統が、簡単にアメリカ軍中心に集約されたわけではない。アメリカに次いで大軍を擁している日本軍は、欧州まで進軍するまでが「自分たちの戦争」と政府が認識していた事もあって、実際の戦力差から何とか受け入れた。事実、インド、中東に進むまでは、アジア方面の連合軍は日本軍中心に動いていた。
 自由イギリスは、指揮系統面で少し問題があった。英本土奪還では譲れないと声高く言う事が多く、英本土奪還だけでも総指揮権を求めた。さらに自前では十分な戦力がないのに、陸軍は21軍集団司令部を作らざるを得ず、政治調整で日米英以外の雑多な国の部隊を含んだアメリカ軍の1個軍が属していた。イギリス軍のモントゴメリー将軍は日本軍の1個軍を指揮下に置きたがったが、これはマッカーサー将軍が頑として譲らなかった。このため北アフリカから南仏に向かう大西洋方面の第51軍集団(クリューガー大将)は、米軍2個軍、日本軍1個軍の編成だった。英本土奪回を行う第21軍集団(モントゴメリー大将)も、自由英軍2個軍、米軍1個軍という多国籍編成となる。そして現時点でモロッコから北アフリカ西部に進んでいたのが、クリューガー大将麾下の第51軍集団の米軍2個軍だった。
 なお、イタリア以東の欧州戦線を担当しているのが、アイゼンハワー将軍配下の第15軍集団(ブラッドレー大将)になる。他にアメリカ本土では第12軍集団が編成中で、英本土奪還作戦に順次投入される予定だった。また、開かれたばかりのギリシア戦線も、現状の1個軍から2個軍として軍集団編成を取る計画が進められていた。
 そしてアメリカ軍の次に規模の大きい日本陸軍だが、地中海沿岸と北米に33個師団、2個航空軍を中心とする大部隊を展開していた。師団数でいえば日本陸軍全体の半数程度だが、これ以外は二線級の部隊がほとんどで部隊規模も小さく、数の上でも前線の方が主力だった。そして日本陸軍としての名目上の司令部系統として、「遣欧総軍」という軍集団司令部を便宜上開設していた。本来は米軍の第15軍集団とは別に司令部を設立する予定だったが、ギリシア作戦でも戦力が分散されたため、1945年に入った時点での第15軍集団は4個軍編成を取っていた。
 ではここのまま、少し連合軍の地上戦力の概要に触れてから、次に進みたい。

 アメリカ陸軍は、1943年上半期で陸軍90個師団、海兵隊4個師団を編成した。その後は、機甲機甲と空挺師団が一部増設されただけで、歩兵師団(自動車化師団)の数は増えていない。機甲師団は最大14個師団編成され、空挺師団は82と101、11の3個が実働レベルで編成された。加えて、プエルトリコ師団2個、フィリピン師団1個もアメリカ軍所属だった。その他計画された部隊もあるが、実際の編成までには至っていない。それ以上編成する必要がないと判断されたからだ。空軍(=陸軍航空隊)が拡大の一途を辿ったのとは、対照的とも言えるだろう。
 自由イギリス軍は、基本的にカナダ軍とオーストラリア軍を主力としていた。インドなど海外に展開していた英本土出身兵の部隊は、将兵の多くが降伏後に自由イギリスに所属したものが多かった。このおかげで、英本国系の部隊だけで3個師団あった。また南ア軍は4個師団あり、さらに他の植民地の志願兵などの部隊もあった。これに主力となるカナダ、オーストラリアを加えると、合計25個師団にもなる。ただし根こそぎ動員に等しく、兵器、物資をアメリカにほぼ依存している形だった。
 また、連合軍として10個師団以上が編成されたインド軍の師団については、インド側が自主性を求めたため自由イギリスには含まれていない。国歌としてのインドも、戦争中に事実上の独立国として扱われた。ただインド師団は、主にヒンズー系師団とイスラム系師団に宗教で部隊が分けられるなど、早くも問題が出てきていた。
 救国フランスは、当初ほとんど戦力が無かったが、44年6月までに世界中の植民地、移民からの志願兵で2個師団を編成した。その後北アフリカで捕虜にした兵士から、急ぎ5個師団以上が編成されつつあった。そして1945年半ばまでには、2個軍団を編成予定だった。しかし所謂外人部隊は、部隊丸ごと投降してきたりして、そのまま連合軍側で戦ったりもしている。
 以上の国以外でも、タイやイスラム国家の幾つかが連合軍として参加していたが、ヨーロッパにまで進んできた部隊はほぼ皆無だった。
 そして日本軍だが、師団の編成数は以下のようになる。

 ・戦前常設: 近衛第1、第1〜12、19、20 =15個師団
 ・復活師団: =6個師団(※大正軍縮で一度廃止された師団)
 ・各師団の後備兵などから編成: =13個師団(近衛第2、21〜40師団(欠番多数))
 ・第一次戦時動員師団:10個師団(50番番台)
 ・第二次戦時動員師団:10個師団(60番番台)
 ・台湾師団: =6個師団(100番番台・欠番あり)
 ・機甲師団: =6個師団(※旧戦車師団)

 日本陸軍の師団数は合計66個師団で、空挺団など旅団編成の部隊がいくつか加わる。空挺団は旅団から師団編成にする予定だったが、海軍との兼ね合いなど様々な問題があるため1945年半ば以後にずれ込む予定だった。
 また、日本海軍の海兵隊に当たる海軍陸戦隊は、機動的に運用できる部隊として第1〜第5の特別陸戦旅団と第1空挺団があり、後方部隊を合わせると15万近い兵数になる。ただし全体の三分の一は後方警備、軍艦配置などの軽装備部隊で、特別陸戦旅団をまとめた師団編成も取られていなかった。
 陸軍では、ちょうど半数が前線配置で、残りは近衛第一師団などの本土駐留部隊以外の他は、アジア各地の占領地の統治に当たっていた。アフリカに進軍している部隊もあった。そして前線の33個師団のうち、10個が北米に進出して準備中で、23個が北アフリカ又は地中海に展開していた。以下がその編成になる。

・伊太利亜方面軍(第8方面軍):山下大将
 ・日本第7軍(軍団):第2機甲師団、第5師団、第18師団
 ・日本第32軍(軍団):第1師団、第9師団、第24師団
 ・日本第5軍(軍団):第2師団、第6師団、第20師団

・地中海方面軍(第10方面軍):岡村大将
 ・日本第11軍(軍団):第1機甲師団、近衛第2師団、第9師団
 ・日本第13軍(軍団):第3機甲師団、第8師団、第38師団
 ・日本第31軍(軍団):第16師団、第17師団、第19師団

・大西洋方面軍(第11方面軍):本間大将
 予備:第13師団、他
 ・日本第6軍(軍団):第3師団、第12師団、第16師団
 ・日本第9軍(軍団):第5機甲師団、第10師団、第11師団
 ・日本第11軍(軍団):第14師団、第21師団、第23師団

・総予備
 ・日本第1機甲軍(軍団):第4機甲師団、第6機甲師団、第7師団
 ・日本第33軍(軍団):第29師団、109師団
 ・第一空挺団、他
 ・海軍陸戦隊(特別陸戦旅団)

 紹介したのは師団だけで独立戦車旅団、重砲旅団など支援部隊は割愛したが、大きくは以上になる。
 このうち大西洋方面軍が、南仏を攻め上がり最終的には西欧戦域全体を指揮する事になっているマッカーサー将軍の指揮下にあった。第12軍集団所属になり、この時点では多くがアメリカ各所で訓練と装備改変に当たっていた。そして日本第6軍(軍団)だけが、この時期アルジェリアに駒を進めていた。日本第6軍(軍団)は多少の入れ替わりはあるが、中華戦線の初期から戦っている歴戦の部隊で、マッカーサー将軍からの信頼も厚かった。逆に、英本土奪回作戦からは完全に外された形になっている。そしてこの事は、日本軍内での陸海軍の対立も示していると言われる。日本海軍が大きな比重を占めるのが、北大西洋戦域軍だからだ。つまり、地中海は陸軍の担当、北大西洋は海軍の担当というわけだ。このため海軍は、英本土が奪回されれば麾下の空軍部隊(第十一航空艦隊)を英本土に回す予定だったほどだ。
 
 以上の巨大な戦力は、正直なところ暇を持てあましている部隊が多かった。原因の多くは、大きな地上戦線がないからだ。シチリア島攻略の前に、北アフリカの戦場は全て無くなった。残すはヨーロッパだけで、ヨーロッパ以外にあった小さな戦場もほとんど消えて無くなった。世界各地に占領統治や治安維持で駐留している部隊も少なくなかったが、それらは二線級の軽装備部隊の任務だった。日本陸軍で紹介したような重装備の第一線級部隊は、多くが次の戦いに備えていた。装備、編成の変更で忙しい部隊もあったし、移動中の部隊もあったが、多くが次の戦場を求めていた。そして次の戦場とは、ヨーロッパ大陸しか無かった。
 そしてシチリア島攻略の次の侵攻先で、連合軍内で一悶着があった。
 常識的に考えれば、シチリア島を落としてすぐにも追撃の意味も込めイタリア半島南部に上陸するべきだった。
 政治的にもイタリア本土に上陸すれば、イタリア政府が停戦に応じる可能性が非常に高いと考えられた。
 しかし、イタリア半島侵攻となれば、またも地中海戦域軍の戦場となり、チュニジアまで進んできたマッカーサーの兵隊達に活躍の場はない。そして地中海全域での連合軍内での政治的影響力も、地中海戦域軍のアイゼンハワー将軍が強まると考えられた。このためマッカーサー将軍は、地中海航路の早期安定を理由として、サルディニア島攻略を強く提案する。またサルディニア島攻略は、南フランス侵攻の際の近在の航空拠点として有効なので、早期に確保して飛行場を整備するという目的も付加されていた。
 だが、戦略的に見て、のサルディニア島に早急に攻め込む必要性は薄かった。イタリア本土が戦場になれば、イタリア並びに欧州枢軸側が孤立するサルディニア島を守ることは不可能だった。しかもサルディニア島を守る兵力を移動させ、イタリア防衛に使う方が理に適っていた。これは隣接するコルシカ島についても同様であり、イタリア本土が戦場になった時点で枢軸は島を半ば放棄して、連合軍が入れ替わりの形で入ることができると考えられた。加えて、マッカーサー将軍が付け加えた早期侵攻による現地戦力の後退阻止についても、もともと両島の駐留部隊は少ないので、戦略的必要性は低いと考えられた。
 結局、連合軍全体としては出来るだけ早期に、そして大規模にイタリア本土に上陸することによって、結果として早く安全にサルディニア島、コルシカ島に駒を進めることができると結論した。
 ただしサルディニア島、コルシカ島は、南フランス侵攻のために必要なので中部大西洋戦域軍の管轄とされた。
 なお、サルディニア島(サルディーニャ島)は、地中海に浮かぶ二番目に大きな島で、近世以後はイタリア王家のサヴォイア家の領土として発展してきた。資源、人口双方での戦略的価値は低く、駐留部隊も多くないので連合軍が本気で攻め込めば鎧袖一触だったと考えられている。
 コルシカ島は、ナポレオンと昆虫学者のアンリ・ファーブルで有名だが、山(斜面)が多くて飛行場に適した平地が少なく(大規模な基地建設は極めて難しい)、産業拠点もないので軍事的な価値は低い。ただし、フランスの内政的にナポレオンはフランスの政治上ではタブーに等しいため、フランス本土侵攻までは放置する案も強かった。特に救国フランスからは、後回しにするように強い要請が出ていた。このため、この時の作戦でも敵の混乱を誘うゲリラ戦を仕掛けるだけで、侵攻はしない事になっていた。

 イタリア本土に上陸するのは、基本的にはシチリア島と攻略した部隊を先鋒としていた。そして彼らの後ろには、50万以上の兵力が控えて、イタリアへの進撃の順番を待っていた。兵士と武器弾薬を満載した船団は、既にアレキサンドリアなどに集結しており、その数は艦船に搭載された上陸用舟艇を含めると数千隻に達していた。シチリア作戦に参加した艦船に加えて、日本からさらに多くの揚陸艦線が合流していたからだ。そして、日本が多くの艦船を動員できるようになったのは、中東、インドが一定以上に安定した事を意味していた。日本から地中海への海上交通路は、日本で生産された大量の武器弾薬、兵站物資が、アメリカのレンドリースと共にさらにその規模と量を増す事になる。
 なお、イタリア上陸の総合指揮は、カイロに総司令部を置くアイゼンハワー元帥(1944年末に昇進)にあるが、実質指揮は第15軍集団司令官のオマール・ブラッドレー大将で、その下の日本陸軍・イタリア方面軍(第8方面軍)司令の山下大将、アメリカ第3軍司令のパットン大将に委ねられていた。第15軍集団は、さらに日本の地中海方面軍(第10方面軍)とアメリカの第5軍の合計4個軍に司令部直轄を含むので、この時点では非常に大所帯だった。さらに日本海軍の陸戦隊とギリシアにも1個軍(2個軍団編成)があり、以上が大きくはアイゼンハワー元帥の指揮する陸上部隊になる。合計すれば2個軍集団でも編成できる規模になるが、当面は第15軍集団と各軍、軍団に分かれていた。
 そして第15軍集団は、順次イタリア戦線にほとんどの兵力を投入予定だった。その先陣は、シチリア島を落とした部隊であり、すぐにも行動を開始した。

 連合軍がイタリア半島に最初の一歩を記したのは、1945年3月12日。場所はイタリア半島のブーツのつま先にあたるカラブリア。その6日後の18日に、サレルノとタラントに上陸する。
 ブーツのつま先には、日本の伊太利亜方面軍(第8方面軍)の1個軍(軍団)が中小の艦船を用いて正面から堂々と上陸した。ただし枢軸軍の姿はなく、自由イタリア軍に対応した人々とファシズムに反抗的だった住民達が迎え入れた。続いてタラントには、アメリカ第101空挺師団の一部と日本海軍の空挺団が降下。本命のサレルノは、地中海艦隊主力の支援の元で初動で2個軍団の大規模な上陸作戦を決行する。
 当然だが、ブーツのつま先への上陸は陽動作戦で、欧州枢軸も敵が先端部から少し北側のサレルノ近辺に上陸すると考えていた。連合軍の航空機の作戦行動半径から考えると、サレルノ近辺が最も妥当だからだ。ただし、欧州枢軸軍の動きは少し遅れた。連合軍の爆撃のためもあるが、迎撃できる部隊が足りなかったからだ。多数の空軍が支援した上陸作戦で、出撃拠点から近いこともあってか支援艦艇の姿は比較的少なかった。
 それでも、サレルノの沿岸部にはイタリア軍がある程度展開していた為、連合軍は上陸作戦に相応に苦労した。しかし水際部隊しか当面はイタリア軍はいなかったため、連合軍はいきなり敵の機動防御戦に出くわすことも無かった。しかし上陸から3日後には、付近に展開していたイギリス本国軍の2個機甲師団を中心とする機動部隊の反撃を受け、一時はイギリス本国軍が海岸に迫り、上陸したそれぞれの軍団が分断されそうになる。だが、連合軍は艦砲と空襲によって凌ぎきり、1週間後には橋頭堡を固めて増援部隊が続々と上陸するようになる。
 タラントは、イタリア海軍の一大拠点だったが、1944年秋の反抗失敗以後は連合軍の空襲が激しくなったため、イタリア海軍はムッソリーニの命令の艦隊保全に従わされて、ジェノバなどの北イタリア西部に待避した。このためタラントはほとんど蛻の殻で、連合軍は拠点として使うために占領したに過ぎなかった。

 そして4月1日、再び連合軍の大艦隊がイタリア半島沖合に姿を見せる。襲来したのは、シチリア島上陸作戦を支援した地中海艦隊の主力部隊だった。そしてこの上陸部隊こそが、連合軍の対イタリア上陸作戦の本命だった。
 制空権については、護衛空母部隊と空軍の遠距離進出可能な各部隊によって十分に確保され、沖合には戦艦、巡洋艦が何隻も陣取って重厚な艦砲射撃を実施した。間違いなく、大規模な上陸作戦だった。
 上陸部隊は地中海戦域軍の精鋭が選り抜かれており、総指揮は山下大将が執っていた。指揮官と参加部隊については、パットン将軍が選ばれるかに見えたが、山下将軍の方が上陸作戦を何度も行っており、日本軍には上陸作戦に慣れた部隊も多いため、アイゼンハワー元帥とブラッドレー大将の判断により、山下将軍が作戦を任された。
 この作戦で日本軍は、海軍が特別陸戦旅団を2個旅団参加させており、日本陸軍の海兵師団とまで言われた第5師団も、シチリア作戦の疲れが取れないほどの早い転戦で作戦参加していた。上陸作戦は、日本軍の増強1個軍団とアメリカの1個軍団で、合計5個師団。加えて、アメリカ陸軍の独立大隊なども多数参加していた。しかも、1週間以内に重装備の1個軍団が増援予定だった。
 第一波の上陸部隊だけで、5個師団を中心として総数12万3000。シチリア島上陸作戦には数で及ばないが、短期間にイタリア南部各所に上陸していることを考えると、全体としては非常に大規模な上陸作戦だった。作戦参加は日米1個軍団ずつだが、総指揮は日本陸軍の山下大将が執った。
 そして4月1日に、数十万の日本軍を中心とする連合軍が上陸した場所は、首都ローマのほんの少し南に位置するアンツィオ。欧州枢軸軍が、北上してくる連合軍に対して急ぎ防衛線を敷こうとしている「後ろ側」だった。
 大胆であり危険でもあるが、圧倒的と言う以上の制海権、制空権の差が作戦決行を後押しした。どちらかと言えばマッカーサー元帥らしい作戦で、アイゼンハワー元帥らしくないとも言われたが、地中海戦域軍としては勝算十分だった。
 実際、この矢継ぎ早な上陸作戦で、イタリア南部の欧州枢軸軍は大混乱に陥っていた。欧州枢軸軍も、サレルノに上陸した連合軍が少し少ないと考えたが、理由はフランスかイギリスへの上陸作戦を控えている為と単純に予測した。しかし連合軍には、フランスかイギリスへの上陸作戦の準備をしつつ、イタリアで大規模作戦をする事が可能だった。イタリア上陸で日本軍部隊が多く投入されたように、彼らの乗る上陸機材を作ったのも日本だったからだ。つまり欧州枢軸は、日本の生産力を少なく見積もりすぎていたと言える。もしくはアメリカにばかり目を向けすぎていたとも言えるだろう。加えて兵站物資については、余程の大損害でも受けない限り、この頃は常に溢れるほど存在していた。
 そして連合軍の不意と言えるアンツィオ上陸で、欧州枢軸側は大混乱に陥る。そしてこの混乱は、イタリアがいつ降伏するかも重なって、混乱の度合いを大きくした。

 後に発覚した記録だと、ムッソリーニをクーデターで権力の座から追放したイタリア政府は、連合軍がイタリア半島に上陸したら停戦する予定だった。イタリア国王エマヌエーレ3世も、ローマを脱出して連合軍のもとに逃れる予定だった。予定で終わったのは、イギリス本国が介入したからだ。
 イタリアの防衛は、イタリア以外だとイギリス本国が請け負っていた。北アフリカで戦い続けてきたイギリス本国が、そのままイタリアに後退して防衛を担当するのは自然な流れだった。ドイツ軍はギリシアに上陸した連合軍の対応で手一杯で、ロシア戦線から安易に戦力を引き抜くことも出来なかったからだ。そしてイギリス本国は、ローマに司令部を置いてイタリア防衛に当たるが、ここでイギリスの誇る諜報組織の活躍があったと言われる。
 イタリア防衛司令官は、名目上はインドから空路で辛くも逃れた後にイタリア入りしていたルイス・マウントバッテン大将。実質的な指揮は前線部隊に委ねられていたので、マウントバッテン大将の役割はイタリア政界との連絡を密にして、王室とも繋がりを保つことにあった。
 そしてイギリス本国軍自体は、前線で戦う部隊の増援として1個軍団が派遣され、連合軍が上陸した頃にはローマ近辺にまで進んでいた。これは偶然ではなく、イタリアが連合軍と停戦しないようにするための移動で、実際いつでもローマに突入できる準備をしていた。
 そのような中で、マウントバッテン大将はローマ国王エマヌエーレ3世と何度も話し合い、ローマから動くことを引き留め続けた。その効果は十分にあり、エマヌエーレ3世は「私は一人のイタリア人として、また国王として、決して首都ローマを離れることはない」と公式発表し、民衆からの支持を一時的に上げると共に停戦派を抑制することになる。
 また、チアーノ外相ら停戦派に対しても、停戦すればイタリアは枢軸軍と連合軍に分裂して戦うことになり、実質的な独立すら奪われると説得した。特にイギリスは、ドイツ軍がオーストリア方面から北イタリアに進駐してくる情報をリークし、ローマ国王と北イタリアのアルプスのとあるホテルに幽閉されたムッソリーニの警護を厳重にするように伝えた。
 結果として、イタリア王国は連合軍が上陸してきても停戦することなく、戦争は通常のままで続いた。

 そこに連合軍の大部隊が、突如アンツィオに上陸する。
 アンツィオからローマは目の前だったが、周辺には枢軸軍はほとんど存在しなかった。戦線はまだ南部の方なので枢軸軍主力は予定していた防衛線にも後退してないし、そもそもこの時期にアンツィオに上陸してくる事は全く予測していなかった。
 ローマ近辺にはイタリアの近衛部隊に当たる少数の部隊と、ローマに睨みを効かせるためのイギリス本国軍1個軍団がいたが、どちらも本格的な戦闘状態には無かった。それでも慌ててローマ前面に展開しつつアンツィオに上陸した連合軍の迎撃と海への追い落としを図るが、時既に遅かった。
 枢軸軍がアンツィオの連合軍橋頭堡に攻撃を仕掛けたのは、上陸から4日後。すでに連合軍は、機甲部隊を先頭にして戦線の拡大を図っていた。しかもローマとイタリア南部の枢軸軍の補給路遮断に動いていた。
 枢軸側にとっての事態は、上陸部隊の撃退ではなくローマ陥落の阻止と南イタリア戦線の維持であり、南イアリアから後退中の部隊もアンツィオの連合軍の進撃阻止に急ぎ回ることになる。だが南部から進軍してくるのは、かのパットン将軍だった。将軍は機甲師団の戦闘に立って全軍の進撃を指示し、兵站を無視視した前進と言われる猛進を行い、実際に燃料以外で停止することを麾下の部隊に禁じた。
 イタリア半島は東部にアペニン山脈があるので、平坦な地形ではない。しかし南北は行き来が比較的し易く、アペニン山脈もそれほど標高の高い山脈では無かった。このため連合軍は半島を東西で分断して敵を完全孤立させる事は無理だが、サレルノ、アンツィオ間の西部にいたイタリア軍、イギリス本国軍のかなりを包囲殲滅することに成功する。南部の連合軍を指揮したパットン将軍は、持ち前の積極果敢さを見せてイタリアでも電撃的な進撃を行った。
 仮称カエサル・ラインと呼ばれる防衛線は、機能するどころか設営半ばで放置されてしまい、しかも現地枢軸軍の降伏の場となって枢軸側の戦線は半ば崩壊する。
 この段階でドイツが、本来はイタリア単独の停戦に備えてドイツ本国の国境近辺で待機させていた部隊を、増援として投入して戦線を再構築することを決意する。逆にイタリア政府が降伏しないので、秘密裏に計画していたムッソリーニ救出作戦も準備段階で無期延期せざるを得なかった。そして表向きは、イタリアでの枢軸軍と連合軍の正面からの戦いは、1945年4月27日のローマ無血開城で一つの分岐点を越える。
 ローマは早い段階から無防備都市宣言が出されており、イタリア軍は当然として全ての軍隊はローマから退去していた。それでも国王脱出の可能性があるため他国軍によって街道などは封鎖されていたが、エマヌエーレ3世は本当に動くことは無かった。そしてそのまま連合軍がローマに入城してしまうが、ローマから動かないと宣言していたので北への脱出も行わなかった。ローマにいた少数のドイツ人などは強引に脱出させようとしたのだが、国王はローマから動くことを改めて拒否し、警察や王室の警護隊などがいたためドイツ人達も強引な手を使うことができなかった。
 そして1945年4月28日、イタリア王国は進軍してきた連合軍との停戦にサインする。
 これで法的にイタリア王国は連合軍と停戦したが、イタリアでの戦いは終わらなかった。すでにムッソリーニはドイツ軍特殊部隊の手によって救出されており、4月30日にはイタリア社会共和国(=通称サロ共和国)の成立を宣言する。こちらにはムッソリーニ支持派、ファシスタ党員、さらに伝統階級(貴族、騎士など)のかなりの者などかなりの勢力が集まり、ドイツ軍と共に連合軍と戦うことになる。他の枢軸国もイタリア社会共和国を認め、イタリアでの戦いは継続されることになる。しかしイタリア社会共和国は実質的にはドイツの傀儡政権でしかなく、イタリア防衛の多くはドイツに委ねられることになる。イギリス本国は、本国での緊急事態が進んでいる事と、今まで戦っていた部隊が潰走と降伏などで壊滅状態にあるため、一旦本国に帰投して再編後に再びイタリア防衛に参加することになった。そしてイギリス本国が危機に瀕しているのは事実なので、ドイツもイギリス軍の一端の撤退を受け入れざるを得なくなり、イタリアの統制と防衛のためにロシア戦線からなけなしの戦力を引き抜かざるを得なかった。この時点でロシア戦線はまだソ連領内だが、海から迫る連合軍はイギリス本土に手をかけるところまで迫っていたからだ。
 一方で、南イタリア全域は連合軍と停戦し、救国イタリア委員会が合流して、連合軍としてのイタリア王国へと変化する。この間イタリア王国は連合軍に降伏をする事はなく、書類の上ではほぼ一日で欧州枢軸軍から連合軍に鞍替えした事になる。国王が終始玉座に座ったままだったことを、イタリア王国と連合軍の双方が利用した形だった。
 そして枢軸陣営の主要国が降伏ではなく鞍替えしたことは、欧州世界に非常に大きな政治的衝撃となった。イタリア社会共和国の成立も、その衝撃をむしろ増しただけに終わった。
 以上のように、法的にはイタリアでの分立が進んだが、戦線は大規模な戦力を一気に投じた連合軍の優位に進んだ。
 その後も、戦線の建て直しがきかない枢軸軍につけ込み、連合軍も進撃は続いた。そして1ヶ月ほどでしてドイツ軍を中心として戦線は立て直されるが、連合軍はローマ占領後も進軍を続けて一気にフィレンツェ前面まで迫った。
 そこはもう北イタリアの入り口だった。

 なお、連合軍がイタリア侵攻に力を入れたのには、当然ながら理由があった。
 ソ連と自分たちのヨーロッパへの進撃速度の差だ。
 このまま両者が順調にベルリンを目指したとしたら、先にゴールするのはロシア人達なのは明白だった。それどころか、ドイツ全土がソ連赤軍の軍靴に踏みにじられる可能性も十分にあった。後世では、ギリシア侵攻もロシア人の足並みを乱すか、東欧に横入りするための最初の一歩だと言われる事が多い。
 しかし意外と言うべきか、この時期の連合軍のドイツ、中欧侵攻の本命はイタリアだった。イタリアが降伏しなくてもドイツなどが阻止するのは分かっていたので、一気に大兵力を投入してイタリア半島を強引に横断して、そのままオーストリアに迫り、ロシア人がドイツ本土に入ってドイツ軍が瓦解する瞬間を捉えて一気にオーストリア=ドイツへと攻め上がる算段をしていた。
 なぜこのような賭博的な計画を立てたかと言えば、他から進軍してもドイツ中枢には間に合わないと考えられたからだ。
 南フランスは山岳や丘陵など地形障害が多く守る側に有利なので、単独戦線だけでは素早い進軍は不可能だと考えられていた。素早く攻めるには北部平原に上陸して、敵主力を北部に引き寄せて機動戦で撃滅しなければいけなかった。そしてフランスの北部平原に上陸したければ、イギリス本土を奪還していなければならない。だが、そもそもイギリス本土の奪回が短期間で完了するとは考えられていなかった。さらにイギリス本土を欧州大陸進撃のための策源地に作り替えるための時間も必要なので、非常に多くの時間が必要と予測された。
 一方でイタリアにはすぐに上陸できるし、イタリア軍自体は貧弱なので大軍を投じて攻め上がれば、最も短い時間でドイツに手をかけるところまで攻めあがれると考えられたのだ。

 しかし、イタリア進撃に全ての可能性をかけるのは危険だし、イギリス、フランスの奪回は政治的にも至上命題なので、連合軍は西ヨーロッパの全てに対する動きをより加速させる事になる。
 連合軍は、ベルリンに自分たちの旗を掲げるまで、止まることは許されなかったのだ。


●フェイズ55「第二次世界大戦(49)」