●フェイズ55「第二次世界大戦(49)」

 1945年に入る頃から、イギリス本土で一つの噂が飛び交っていた。
 アイルランドの英連邦からの離脱による完全な独立宣言と連合軍への参加だ。

 苦難の歴史を歩んだアイルランドは、第二次世界大戦が始まるまで(1937年)に実質的な独立は勝ち取っていた。だが英連邦には加入しているので完全とは言い難く、イギリスの影響も皆無ではなかった。戦争が始まると中立を宣言して諸外国からも認められたが、害がないから認められたに過ぎないほどの影響力しか無かったからだ。そして戦争が、カリブ海や遠くアジアで行われているうちは存在しないも同然だった。
 しかし、連合軍がイギリス本土に攻撃できるようになってくると、俄にアイルランドが浮上してきた。

 イギリス本土は、近代戦での大規模な強襲上陸に適した場所が少なかった。大陸に面したドーバー海峡側は有名な白い壁のような絶壁が多く、砂浜があってもすぐ先が崖や急斜面の場合が多かった。北海側は、特に南部は逆に気の遠くなるような遠浅が多く、港湾都市も沿岸には無いので上陸作戦どころではない。スコットランドなどの北部は、山岳地帯な上に氷河が削った荒い地形ばかりで、上陸できる場所はおろか人がまともに住んでいない場所が多い。しかも、上陸地点が大丈夫でもその先に進むのが難しい。特に北部は、ロンドンへの迅速な進撃など論外だ。上陸適しているのは、港湾都市の近辺だけとなる。だが、その港湾都市の近辺から内陸そしてロンドンに進撃しやすい場所となると、さらに限られてくる。このためイギリス本国軍は全ての海岸線を守らずに済み、予測される場所にある程度だが兵力を集中させる事が出来た。
 イギリス本国軍が最も沿岸の防衛体制を固めたのは、南西部のコーンワル半島だった。次いでスコットランドのグラスゴー近辺だった。連合軍は、遠く新大陸から船団を出発させて上陸作戦を行わなくてはならないので、大西洋に面した一部だけが要注意と考えられた。そしてこの二カ所には、それぞれ1個軍以上の守備隊が置かれ、空軍の1個航空艦隊が守備していた。
 これほどの防備を固めたら、アメリカ(を中心とする連合軍)でなければ上陸作戦は不可能だっただろう。実際、イギリス本国の国民の多くは、イギリス本土への本格的な上陸作戦はないだろうと、長い間楽観的に考えていた程だった。

 だが、連合軍は着実に迫りつつあった。
 最初は、1944年春から初夏にかけての空母機動部隊の空襲だった。空襲したのはどちらも日本の空母部隊で、軍事基地(主に空軍基地とレーダーサイト、港湾)を狙ったが、市民にも若干の被害が出ていた。さらに同じ年の秋口にもやって来た。
 そしてこの空襲した場所が問題視された。
 スコットランド、ノースアイルランド、そしてコーンワル半島。どこもブリテン島の主な住人が住む場所ではなく、先住民を祖先に持つ人々が多く住む場所だった。そして自分たちが、敵が上陸してくると予測した場所でもあった。
 しかもスコットランド、ノースアイルランドは、連合王国になるまでにブリテン王国が領土化していった場所で、住民達の多くが外国に対してはともかく国内に対しての何らかの不満を持ち続けていた。特にノースアイルランド地域は問題が多かった。しかもノースアイルランドはブリテン島から海を隔てた場所な上に、アイルランドと国境を接するという「危険地帯」にあった。このため大軍を投じて防衛したくても、置くわけにはいかなかった。
 大軍を置けば連合軍の安易な侵攻は防げるが、いまだ完全独立を達成していないアイルランド(共和国)が神経を尖らせるのは確実で、政治的に選択が難しかった。もちろんイギリス本国政府も戦時と言うことで交渉したが、望んだ結果は得られなかった。それでもある程度の兵力を置くことはアイルランド政府とも合意できたが、今度は置きすぎても問題があった。言うまでもないが、ブリテン本島の守りが薄くなるからだ。万が一連合軍がノースアイルランドを無視して海上封鎖すれば、ノースアイルランドの兵力は完全に遊兵、役に立たない兵力となってしまう。
 結局、中途半端な兵力しか置くことができず、その戦力ではノースアイルランド全域を守ることは不可能に近かった。しかしノースアイルランドはノース海峡とアイリッシュ海に面しているので、連合軍がノースアイルランドだけに侵攻してくる可能性はかなり低いと考えられていた。それでもノースアイルランドに一定以上の兵力を置いたのは、ノースアイルランドがブリテンの歴史上で非常に重要であり、簡単に失陥するような事があれば連合王国の存続にすら影響を与えるからだ。ノースアイルランドはブリテン統一の歴史の重要な1ページであり、日本史で例えるならば壇ノ浦と関ヶ原を足したほど重要と言えるほどだった。

 そして話しを最初に戻すが、アイルランドが万が一連合軍で参戦すれば、イギリス本土防衛に致命的影響を与える可能性が高かった。というより確実だった。
 純軍事的に見ると、アイルランドが参戦すると同時に、アイルランドの港に連合軍が上陸して、そのままノースアイルランドを目指せば、イギリス軍に出来ることは殆ど無かった。かといって、イギリスの側からアイルランドに攻め込んだりは絶対にできない。連合軍が口実としてアイルランドに進撃してくるのは確実だし、アイルランド住民が様々な形で抵抗する事も確実と見られていた。ノースアイルランドが大変な自体になる事も、火を見るより明らかだった。つまりアイルランドは、イギリス軍が踏み込んだ時点で敵地となり、そこで戦って敵の侵攻を阻止するのは、ほぼ不可能と言えた。そして長期的に見て、イギリスからアイルランドに攻め込むのも論外だった。百年経っても解決しない政治問題、外交問題を発生させるのは間違いないからだ。
 ドイツなどは、連合軍はまだ攻め込む準備を終えていないので、素早くアイルランドに攻め込み、住民を完全に押さえ付けて連合軍に付け入るスキを与えなければよいと「助言」したが、当然ながら論外だった。
 ドイツが英本土にイギリス本土に援軍を送る打診をしてきもて、完全に断っていた。イギリスとしても祖国にドイツ軍を入れることは単に屈辱なだけでなく、ブリテン(イングランド)国内での不満も噴き出す可能性があったからだ。それでなくても、ドイツが送り込んでいた「武官」や「政治家」、「顧問」などは大きな不満の種だった。幸いと言うべきか、ヒトラー総統がイギリスには殊の外気を遣うため、ドイツがイギリスに強硬な態度に出ることは無かったが、アイルランド問題だけはイギリスとしても対処のしようが無かった。

 そして噂は、瞬く間にブリテン島とアイルランド島に波及した。噂の出所は不明だが、不明なのではなく多すぎて特定しても仕方なかったからだ。それは新大陸からアイルランドに流れ、そこからノースアイルランドを経てイギリス全土に入ってきたからだ。つまり、OSSなどのアメリカが仕掛けた謀略だと、イギリス安全保障調整局は結論した。
 だが、単純に不安を煽るための謀略だと決めつけることも出来なかった。
 実際にアイルランド参戦や侵攻が行われたら、軍事的にも致命的な結果をもたらすからだ。政治的な事に関しては言うまでもない。政権全体の辞任だけでなく、国王の退位に発展すると考えられた。
 しかし希望がないわけでもない。連合軍には英連邦自由政府があり、率いるのはかのチャーチルだからだ。自由英政府とチャーチルが、イギリス連邦どころか連合王国を崩壊させかねないような事をする可能性は低い。これだけは希望的観測ではなく、ほぼ確実と考えられた。
 つまり連合軍の目的は、陽動や謀略ということになる。
 だが、ここまで考えが進んだ時点で、一つの疑問に突き当たる。
 陽動や謀略と分かる事を何故行ったのか、ということだ。
 そしてそこにこそ、連合軍の真意があった。

 イギリス本土が戦々恐々としている頃、連合軍はイギリス本土進撃に向けて着々と準備を進めていた。
 そしてその尖兵となる大艦隊は、1945年春になると再び北大西洋にやって来る。
 1945年3月18日、日本海軍第一機動部隊を中心とする空母機動部隊が、北大西洋上に展開した。アメリカ海軍ではないのは、アメリカ海軍の空母部隊の約半分は少し前まで地中海に展開して、イタリア作戦を支援していたからだ。それでも常時2個機動群を北大西洋に展開したのは、流石アメリカ海軍だった。加えてアメリカ海軍は、新鋭戦艦で固めた主力艦隊も北大西洋に配備していたが、この時期は一旦本土に戻って休養と再編、整備を行っていた。地中海にいた艦隊も、今は次の作戦のための整備と戦力の再編で忙しかった。
 そして日本海軍、アメリカ海軍とも前年秋よりも戦力が強化され、さらに水上艦隊共々戦力の再編成を進めていたので、編成が変化していた。
 以下が1945年春頃の日本海軍の主力部隊の編成になる。

・日本海軍・大西洋艦隊
 第一機動艦隊(艦隊司令:伊藤中将)
 ・第一部隊(伊藤中将直率)
CV《大鳳》CV《神鳳》 (艦載機:約180機)
CVL《龍驤》CVL《龍鳳》CVL《祥鳳》 (艦載機:約90機)
BB《金剛》BB《榛名》
FA《涼月》FA《初月》FA《若月》FA《新月》
CL《大淀》 DD:17隻

 ・第二部隊(城島中将)
CV《赤城》CV《加賀》 (艦載機:約150機)
CV《蒼龍》CV《飛龍》 (艦載機:約120機)
CVL《千歳》CVL《千代田》(艦載機:約60機)
BB《比叡》BB《霧島》
CL《利根》CL《筑摩》
FA《霜月》FA《冬月》FA《春月》FA《花月》
CL《綾瀬》 DD:15隻

 ・第三部隊(山口中将)
CV《翔鶴》CV《瑞鶴》 (艦載機:約150機)
CVL《日進》CVL《瑞穂》CVL《瑞鳳》 (艦載機:約90機)
CG《那智》CG《足柄》
FA《秋月》FA《照月》FA《宵月》FA《夏月》
CL《仁淀》 DD:16隻

 ・第二艦隊(宇垣中将)
BB《大和》BB《武蔵》
BC《高雄》BC《愛宕》BC《鳥海》BC《摩耶》
CG《妙高》CG《羽黒》
CV《天城》CV《葛城》 (艦載機:約150機)
CL《矢矧》 DD:16隻

 艦隊は第二艦隊を前衛として、第一機動部隊は第二部隊を後ろとした逆三角形の陣形をとり、前に大きく突出した崩れた菱形で各艦隊が配置につくことになっていた。2隻の新鋭空母が第二艦隊配備なのは、この時の日本海軍が艦砲射撃作戦を採らない為だが、すぐに次の新造空母などが編入予定だったため、艦隊編成上の混乱を避けるための臨時編入でもあった。
 艦隊総数は約120隻。駆逐艦が修理や損傷その他でその時々で若干の増減があったが、日本海軍の主力が集結していた。
 そしてこの時期に北大西洋で活動していたアメリカ海軍は、主力の第24任務部隊と第28任務部隊から2個群が活動していたが、日本海軍の方が数は多かった。日米共に新鋭戦艦を束ねた強力な打撃艦隊を編成しているのは、春の北大西洋は気象がまだ荒く、深く広い霧が出ることがあるので、不測の事態に備えたものだった。艦砲射撃を念頭に置いていたと言われる事もあるが、そう何度も冒険的な艦砲射撃が出来るわけではない。なお戦艦《長門》《陸奥》は、速力で空母の護衛に相応しくないのものあるが、旧式なので機関など一度徹底したオーバーホールをしなければならないため戦列から離れていた。
 そして、去年の秋から比べると、日本海軍にもいくらかの新鋭艦が投入されていた。
 《秋月型》直衛艦は、これで1939年度計画艦を含めたファミリー艦12隻全て揃った事になる。また《夕雲型》駆逐艦の数はますます増えており、空母の護衛と言えば《夕雲型》になっていた。このため《秋月型》と《夕雲型》は、空母とセットに考えられる事が多い。そして彼女たちが護衛する空母としては、《天城型》航空母艦の《天城》《葛城》が年を越えてすぐから戦列に参加していた。そして長らく新造艦の無かった巡洋艦も、二種類が戦列参加するようになっている。1940年度計画の《綾瀬》軽巡洋艦とアメリカから2隻の貸与を受けた《クリーブランド級》軽巡洋艦だ。どちらも大型の汎用巡洋艦で、水雷戦隊旗艦としての役割が期待されていた。これでようやく前線の水雷戦隊を率いる軽巡洋艦が全て新型に置き換えられ、一部の耐用限界を超えた5500トン級の完全な二線級配置や実質的な予備役配置が進められるようになった。5500トン級は、この戦争が始まってから主に船団護衛、潜水艦狩りに奔走した結果、機関の寿命が迫っていた艦が何隻もあり、速力が30ノットを出せないような艦も珍しくなくなっていた。このため新型艦の戦列参加で、ようやく一息付けた状況だった。
 なお、各艦の概略や要目は、以下のようになる。

 《天城型》型航空母艦
 同型艦:《天城》《葛城》
 基準排水量3万5500トン、全長268メートル、機関は16万馬力、最高速力33.5ノット。搭載機数は通常で約80機。露天搭載で90機以上で、100機程度の搭載も可能。
 1939年度計画の超甲種巡洋艦として計画されたが、船体完成後のあたりで計画が大幅に変更され、航空母艦として就役。空母への建造変更時に船体を20メートルストレッチする大幅な変更を行い、さらに出来る限り飛行甲板を大きくしている。
 格納庫は超甲巡としての甲板を使い、一部開放型の単段式だが、天井が高いためアメリカ海軍の空母と同様の装備と搭載方法が選択できた。また日本の空母としては初めて、アメリカの《エセックス級》同様の舷側昇降機(サイドエレベーター)を装備して艦載機の運用効率を大幅に引き上げている。そして格納庫の天井を走るレールと吊り上げ装置によって、アメリカ海軍同様に予備の航空機などを吊り下げて搭載することもできた。
 飛行甲板の中央部(20m×150m)を75mmの装甲で覆い、それだけでなく飛行甲板全体もかなりの装甲を追加しているため、正規空母として建造された装甲空母よりも重防御だった。また超甲種巡洋艦として用意された一部装甲と弾薬庫も流用しているので、防御力全般はかなり高い。

 《綾瀬型》軽巡洋艦
 同型艦:《綾瀬》《音無瀬》《水無瀬》《鈴鹿》
 基準排水量8600トン、全長180メートル、最高速力34ノット。
 《大淀型》軽巡洋艦がタイプシップだが、《改新月型》直衛艦と同様に構造の一部を簡易構造に変更して建造期間を短縮させ、機関のシフト配置を行って、防御力と戦闘継続能力を強化している。
 15.5cm砲3連装4基、12.7cm両用砲連装4基、61cm4連装魚雷発射管2基が基本武装だが、水偵搭載能力は最初からなかった。水雷戦隊旗艦も務める予定のため、司令部要員用区画が用意されている。また、ファミリー艦の中では最も高温高圧缶を搭載し、機関出力も12万8000馬力あった。ただし、超高速を目指した15万馬力級の機関搭載は見送られている。
 日本海軍で最もバランスの取れた軽巡洋艦と言われるが、アメリカの《クリーブランド級》と比較され、性能が不足していると指摘される事も多い。しかし艦の規模が少し小さいし、用途も汎用よりは水雷戦隊指揮を重視しているので、単純に比較するのは間違っている。比較対象としては、同程度の排水量と武装を持つイギリス本国の《フィジー級》と比較する方が正しいだろう。
 就役した頃に合わせて対空装備を強化しようとしたが、想定以上の装備追加に艦の余裕が足りず、対空装備は不十分にならざるを得なかった。また多数のレーダーを搭載するため艦内では発電能力を強化し、艦上ではマストを増設強化したので、さらに余裕がなくなった。結局主砲を1基降ろさざるを得なくなり、それでも全ての面で満足できる性能に達しなかった。このため時代遅れの巡洋艦と言われることもある。だが、運用に不都合が生じた事はなく、居住性の改善などもあって将兵からの評価は高い。
 艦名は、20年ほど前に《川内型》に続く艦の名前として用意さていた名を引き継ぐ形で命名。《鈴鹿》だけは《由良》の命名時の対抗名から名付けたといわれる。
 なお、42年度計画で改良型が計画されたが、戦訓を反映してより大型の艦として建造されている。

 《クリーブランド級》軽巡洋艦
 同型艦:《十勝》《石狩》
 近代日本の新天地北海道と開拓国家アメリカをかけて命名。
 アメリカで建造された、基準排水量1万トンの大型軽巡洋艦。同型艦は、改良型を含めて50隻以上も計画された。15.2cm砲3連装4基、12.7cm両用砲連装6基を基本武装として、就役時から多数の対空火器を満載。工業先進国アメリカらしい、非常に合理的な設計と配置をしている。日本海軍内では、対空火力と居住性の高さが好評だったが、最高速力の低さは水雷戦隊旗艦としては用いる事が難しいとされた。結局、水雷戦隊に配備されることなく運用され続け、1947年にアメリカに返還されている。
 本作戦時は、まだアメリカから貸与されたばかりのため訓練中で、少し後に地中海艦隊に配属されている。

 艦隊全体の空母艦載機の総数は、第一機動艦隊と第二艦隊を合わせて総数は約1000機。臨時に過積載すれば約1200機に達する。
 そして搭載する艦載機の多くも、新型に更新されていた。1944年12月からこの時の出撃直前まで、交代で換装と訓練に費やしていた事になる。これにより戦闘機、攻撃機、偵察機の三種類となった。戦闘機は「F4U コルセア」を搭載する空母もあるのでそのままの場合もあるが、「烈風」は「烈風改」に変更された。「烈風」との違いは「木星」エンジンが3速過給器付で、エンジンに合わせてプロペラと機体各所を変更していた。武装は20mm4門と12.7mm2門で、最大で500kgの爆弾などを搭載できた。ロケットランチャーも設置可能だった。試作段階では水メタノール噴射装置を搭載した型も作られたが、アメリカ製の超高オクタンガソリンでは過剰すぎてエンジン強度の方が追いつかず、整備やデッドウェイトの問題などからも不要と判断された。
 最高速力は約30キロ以上向上して687km/hとなり、欧州枢軸が大戦後半に投入した新型機にも十分対抗できた。
 偵察機は「彩雲」のエンジン強化型で、こちらは排気タービン過給器を搭載して高速性能を追求し、その気になれば成層圏での活動も可能になっていた。最高速度は通常で720km/hに達したが、それでも速度をさらに増した枢軸側の最新鋭機やジェットに対して不安があるため、強引な使用は控えられた。また速度低下を忍んで、レーダー搭載型もあった。
 そして攻撃機は、今までの攻撃機と急降下爆撃機を統合した「愛知 四式艦上攻撃機 流星」だった。
 同機体は三菱の「ハ42」という大型機用のエンジンを搭載したが、重厚な機体だったためそれほど頭でっかちには見えなかった。それよりも逆ガル型の翼が特徴的で、爆弾の多くもアメリカのアヴェンジャーのように機体内に収納できるようになっており、非常に特徴的な姿をしていた。
 雷撃時は800kg航空魚雷、急降下爆撃時は最大で740kg(胴体内に500×1、翼に60kg×4)だが、最大搭載量自体は1.6トンもあり、今までの日本軍機と比べると破格の搭載量となった。その気になれば魚雷2本が搭載可能で、実際特別製の投下装置を付けた実験も行われた。しかし魚雷を2本も搭載すると鈍重になりすぎたため、実験だけに終わった。急降下爆撃は、熟練者なら800kg以上の爆弾の投下も出来たが、そもそも急降下爆撃用の800kg爆弾が配備頃の日本海軍には殆ど配備されていなかった。そして、800kg爆弾の急降下爆は非常に高い効果が見込めるとして配備が進められるようになるが、この作戦には間に合わなかった。ただし水平爆撃では、性能通り1.6トンの爆弾搭載が可能であり、一昔前の重爆撃機を上回る性能を発揮することができた。
 また、翼に20mm2門、後部に12.7mm1門の機銃を搭載する重武装なので、対地攻撃でも威力を発揮したが、持ち前の高い機動性もあって限定的なら戦闘機以外の航空機の邀撃も可能なほどだった。実際、出撃例もあった。
 本機の性能の高さは実戦でも証明され、愛知製ということもあって一時期アメリカ海軍も興味を示したほどだった。
 なお「流星」は、開発当初は運動性能や雷撃時の軽快さが求められたが、開発中に雷撃よりも対地攻撃を重視する方向に変更され、機体をより丈夫にした上で搭載量を増やす事になった。このため運動性と最高速度は、当初の計画からかなり低下してしまったが、それでもかなりの機動性を有していた。そして、方針と設計を変更したおかげで時代に適応した性能を獲得し、さらには改良を重ねて長く使われる大きな要素ともなった。
 ちなみに、「ハ42」エンジンは、三菱の火星エンジンの14気筒を18気筒にした大型機用のエンジンだが、開発が難航したためようやく「流星」の搭載に間に合ったという経緯がある。そして本来なら「土星」エンジンと命名される筈だったが、既に採用された事もあって「ハ42」のまま変更することは無かった。「連山改」など大戦終盤以後の機体も、この「ハ42」を搭載している。

 日本艦隊については以上で、アメリカ海軍は高速空母10隻を擁する2個機動群を送り込んでいたが、指揮権は日本海軍の伊藤提督が有していた。つまり伊藤提督は6個機動艦隊を指揮する事になるので、この時点では日本海軍最大級の戦力の指揮を行うことになる。しかし今までの日本海軍の指揮統率システムでは、これほどの大艦隊を一カ所で統制することは難しかった。
 この事は日本海軍も早くから予期しており、1944年冬からアメリカの工廠の一角を借りて、そのための準備をしていた。そうして改装されたのが《大淀》《仁淀》だった。1934年度に計画された《大淀型》軽巡洋艦は、艦の後部全てを航空機運用区画とした航空巡洋艦で、長らく日本海軍機動部隊の「目」として活躍してきた。日本海軍は、同級を非常に重宝してきた。だが、レーダーの発達、専門の偵察機の発達、敵機の性能向上で、搭載する水上機の活躍の場はほとんど無くなってしまった。このため1944年頃には搭載機をほとんど降ろして、普通の巡洋艦として運用された。だが今度は、艦隊規模が膨れあがったため全般的な指揮機能の強化が命題となり、空母に機能を組み込むには日本の空母は格納庫の一部を潰さない限り余剰空間に乏しかった。高速の《高雄型》巡洋戦艦のどれかに組み込むことも考えられたが、《高雄型》は空母の護衛以外の任務に使用される可能性もあった。予め通常の司令部施設を組み込んだ《高雄型》の《摩耶》や《金剛型》の《比叡》でも、広さ、設備が不十分だった。新型空母には大規模な設備が組み込まれていたが、いまだ完成していなかった。
 そこで《大淀型》に白羽の矢が立つ。選ばれた理由は、艦中央部の艦載機格納庫にあった。ここに大規模な司令部施設を組み込み、そして発電能力、通信能力、レーダー能力を強化した指揮巡洋艦に短期間で作り替えようというのだ。アメリカ海軍でも、既に重巡洋艦の一部を似た用途で使用していたが、より専門的にした形だった。
 戦訓を反映したため能力は非常に高く、大きな通信指揮施設は米海軍が有するCICをより大規模にしたもので、要員が熟練さえすれば、いかなる大艦隊でも大編隊でも有機的に運用することが可能なだけの能力を与えられた。このため、動く聯合艦隊司令部などと呼ばれたりもした。(※この表現が出てくる辺りに、日本海軍の変化を見て取ることもできる。)
 この改装には、場所と装置の一部を提供したアメリカ海軍も関わっており、アメリカ海軍でもこの時期建造中だった《ファーゴ級》軽巡洋艦のうち2隻を、《大淀型》の改装を踏まえた上でより徹底した指揮巡洋艦として建造していた。
 この作戦が実質的な初陣で、伊藤提督以下司令部は《大淀》に艦隊司令部を置き、《仁淀》は第三部隊指揮官であり次席指揮官でもある山口提督らが使用した。

 そして日本艦隊4個機動部隊、アメリカ艦隊2個機動部隊、艦載機総数1800機以上で構成された巨大な空母機動部隊は、ニューファンドランド島近辺の泊地を出撃し、一路進路をイギリス本土方面へと向けた。
 連合軍の次の大作戦の始まりだった。



●フェイズ56「第二次世界大戦(50)」