●フェイズ56「第二次世界大戦(50)」

 1945年4月1日黎明、スコットランドのハイランド地方北西部の沖合、北大西洋に面したイギリス本国空軍のレーダーサイトの一つが、アイスランドからの「定期便」ではない敵性のレーダー反応を探知した。
 しかし反応1つでは無かった。大きく3つの集団を構成していた。一つは、アイスランドのケフラビーク基地を飛び立った「B-29 スーパーフライングフォートレス」の飛行大隊だ。数は2個大隊と多いが、この程度の数がアイスランドに駐留する連合軍のほぼ総力だった(※ただし稼働率の問題があるので、配備数は定数の二倍あった。)。これ以外には対潜水用、哨戒用の「B-24」大隊が駐留しているが、1945年に入ってから英本土に飛んでくることは無くなった。「B-29」は1月に初めて飛来したが、それも偵察だけだった。最初の爆撃は2月11日に実施されたが、1個大隊が飛来して迎撃が難しい成層圏から殆ど見当違いの場所に爆弾をばらまいただけだった。
 以後は偵察、強行偵察などでイギリス本国空軍の力を図るような動きをする事が多かった。それでも週に1度程度で、どこかの空軍基地、レーダーサイトなどを高々度から爆撃した。偵察機の中にはノルウェーに向かったり、大胆にも北海を横断してドイツ本土に近づいたものもあった。だが偵察の場合は、迎撃はほぼ不可能だった。迎撃戦闘機を成層圏に上げるだけでも大変なのに、「B-29」は素早くしかも搭載レーダーで迎撃戦闘機を避けるからだ。加えて枢軸側の戦闘機は航続距離が短いものが圧倒的多数なので、成層圏に駆け上がった上で遠距離に進撃することが無理なので、空軍基地の近辺を避けられると対処が難しかった。
 かといって、無視するわけにもいかなかった。敵機が我が物顔に飛んでいることは、市民達を不安にさせるからだ。

 変化があったのは、3月10日からだった。
 「B-29」は初めて2個飛行大隊で襲来して、英本土北部の主要都市のグラスゴーを爆撃した。グラスゴーの造船区画を目標とした爆撃だったが、高々度爆撃だったため大きな損害は無かった。だが以後は、3日に一度のペースで英本土北部のどこかに1ないし2個大隊で飛来するようになった。配備当初に悲惨だった稼働率も大きく改善しており、数が増えた証拠だった。そしてさらに言えば、2個大隊が常態的に活動できるほどの補給が実施されている事を示していた。冬のアイスランドは流氷で閉ざされるが、氷の結界が解かれ船がレイキャビクに入るようになった証拠だった。そしてそれは、ヨーロッパに春が訪れつつある何よりの証拠だった。

 そして4月1日、最初はいつも通りの昼間爆撃かとレーダー担当官は考えたが、それにしては時間が早かった。春分の日を過ぎたといっても、離陸できるのは朝5時頃なのに、時間を考えたら4時頃に爆撃機はケフラビーク基地を飛び起ったことになるからだ。
 さらに前日夜半から偵察機が飛来し始めた事も、いつもと違っていた。
 違っていて当然だったのだ。
 ニューファンドランド島近辺に集結していた連合軍の空母機動部隊は、謀略情報として地中海に向かうと発信されていた。地中海の南フランスでも大規模な作戦が動いていたので、欧州枢軸は敵の動きは当然の措置と考えた。連合軍艦隊の進路も、大西洋の中央海嶺を越えるまではジブラルタル海峡を目指していた。加えて、連合軍艦隊の行動開始に合わせて、いつもより激しい潜水艦狩りと哨戒艇による封殺も実施された。そして艦隊は、欧州枢軸軍が哨戒に神経を使うアイルランドの影から忍び寄り、潜水艦が封殺されている事を確認し来て一気に燃費無視で増速していた。
 そして4月1日黎明に、イギリス本土北西部を艦載機の射程圏に納めた。
 欧州枢軸も、念のため南西部のコーンワル半島近辺、フランス北西部双方の防衛体制は強化したが、北部に関してはアイスランドからの飛来する以外は通常体制に近かった。まだ4月で北大西洋北部の気象条件が悪いことが多いので、連合軍が活動するなら早くて4月半ば以後、恐らくは5月に入ってからと考えていた。さらに言えば、5月になるとアメリカ、日本が新たな艦艇をかなり艦隊に編入する可能性があったので、欧州枢軸の艦隊主力の居る北大西洋の欧州沿岸への攻撃は、早くてもそれからだと考えられていた。それより先に南フランスの方が危険だし、フランスなどは迎撃の準備に大わらわだった。
 だがしかし、連合軍艦隊は4月1日にイギリス北西部に駒を進めてきた。

 レーダーに映る光点もしくは光の塊は、重爆撃機群がいつも通り現れると、すぐにもその数を増した。しかも近い場所で2箇所の群れが確認された。しかし探知当初は、連合軍がアイスランドに密かに重爆撃機を大量に持ち込んだのではと考えられた。
 遠距離を捉えるレーダースコープの情報だけでは、光の塊が重爆撃機が密集編隊を組んでいるのか、大量の艦載機が密集しているのかが分かりにくいからだ。しかも連合軍艦隊の襲来ではないと言う先入観があったので、多数の重爆撃機と考えたのだ。
 しかし重爆撃機の高度は、どれも3000メートルから6000メートル程度なので、この時点で疑問がおきた。しかしアイスランドの戦闘機行動圏内だと、戦闘機の迎撃が激しくて偵察機が落とされるか撃退されてしまい、情報が手に入れられなかった。潜水艦も哨戒機などで封殺されている。アイスランドと英本土北部の中間近くにあるフェロー諸島は、いちおうはイギリス本国の支配下にあるが、すでに軍事的価値はゼロになっていた。それでも情報を手に入れないと話しにならないので、モスキートなどの高速偵察機が次々に迫り来るある敵編隊に向かった。
 そして決定的情報が、最も北西にあるレーダーサイトから約100キロにまで光の塊が進んできたところで入ってくる。
 情報はレーダーを搭載した重爆撃機の哨戒機で、平文で届いた無電情報は、「艦載機の大編隊を認む」とあった。それ以上の情報は届けられなかったが、哨戒機が撃墜された事は間違いなかった。そしてモスキートが撃墜されると言うことは、高性能の戦闘機が編隊に含まれている事をこれ以上ないぐらいに教えていた。
 再び、連合軍の艦載機がやって来たのだ。

 大編隊の巡航速度は、平均して350キロメートル/時。一番近いレーダーサイト、つまり海岸線まで僅か20分の距離にまで迫っていた。一番近い空軍基地までは、さらに100キロメートルの距離があったが、それでも迎撃の時間はあまり無かった。そしてさらに100キロメートル南には、スコットランド主要部があった。
 スコットランドからノースアイルランド方面は、以前よりも多い2個航空艦隊約2000機の機体が防衛任務に就いていたが、全てを一カ所に集中して配備はできない。これに対して連合軍の空母機動部隊は、自分たちの目標とする場所を集中攻撃できる。しかも自在に移動することまでできる。前年秋同様に、酷い事になるのは間違いなかった。だがその事は既に織り込み済みで、イギリス本国の「国王陛下の空軍」も次に始まる「バトル・オブ・ブリテン」を戦い抜く覚悟でいた。しかし、一つ改訂された事がある。洋上の敵艦隊に対する迎撃は、必ず海軍と連携して集中攻撃を行うという取り決めだ。過去の戦いから、圧倒的すぎる連合軍空母機動部隊に対して、個々に戦っていては歯が立たない事は既に思い知らされていたからだ。それにイギリス本国空軍は、前年秋までに受けた攻撃機の損害による打撃から立ち直れていなかった。攻撃機パイロットはごく一部のベテラン以外は、ほとんどが急速育成された素人に毛が生えた程度ばかりだった。洋上作戦を行うためには海での航法を学ぶなどが必要なので、育成には余計に手間がかかった。雷撃訓練や急降下爆撃訓練なども、通常より手間と時間のかかる訓練が必要だった。しかも海軍の方も状況は似たり寄ったりで、パイロットの質の低下は酷い状態だった。
 それでも空軍だけで2000機配備されており、敵が中枢を襲ってくれば一度に1000機の戦闘機を迎撃に出せた。しかもグラスゴーには当時世界最高の航空管制司令部が作られていた。新鋭のスピットも配備されていた。ジェット機もいた。だからこそ連合軍は、今まで高々度で飛来する「B-29」しか送り込めていなかった。
 同様の防衛網と兵力は南東部にも配備されており、二枚の楯でイギリス本土を守れるよう、大幅に強化されていた。この防衛網は、円卓の騎士物語にちなんで「湖の盾」と呼ばれていた。

 だが今回の連合軍の空襲は、多数の護衛戦闘機を従えた重爆撃機が先陣だった。
 「烈風改」に守られた「B-29」は、400キロ以上の快速で空を切り裂き、一気にスコットランド中枢部に切り込んでいった。戦闘機に邪魔され迎撃は一部しか間に合わず、グラスゴーに昼間の低空爆撃を許すことになる。幸い爆撃の損害は限られていたが、それでも港湾部を中心にして、今までの高々度爆撃では考えられないほど正確で深刻な損害を受けた。
 だが、グラスゴー攻撃は、ほとんど囮でしか無かった。
 都市防空のため多数の戦闘機が迎撃に向かったが、快速で迎撃があまりうまくいかなかった上に、多数の「烈風改」のため予想外の損害が出た。パイロットの質の差も、損害に大きく比例した。個々の空戦では王立空軍が劣勢だった。そして多くの機体が、迎撃に忙殺された。
 イギリス本国空軍は、グリフォン・エンジン搭載型の「スピットファイアMk.XII」、イギリス軍初のジェット戦闘機「グロスター ミーティア」まで投入したが、威力は十分では無かった。「Mk.XII」は最高速度は素晴らしいが、エンジンに機体が追いつかなくなっていたので操縦が難しく、そして熟練したパイロットが不足していたので十分に働けなかった。また、航続距離のあまりの短さのため、洋上迎撃などがほとんど無理だった。「ミーティア」はこの頃のジェット機の中では低速でレシプロ機の「烈風改」にも劣り、航空機としての性能も凡庸なので対戦闘機戦闘では活躍の場があまり無かった。

 そして混乱する空に、本命の航空隊が彼らの目標に殺到する。
 艦載機の群れが攻撃したのは、スコットランドの辺境に多数建設されたレーダーサイトだった。一部は北部の飛行場も襲撃したが、あくまで敵の迎撃を鈍らせるためだった。本命はあくまでレーダーサイトだった。
 対空砲しか迎撃手段のないレーダーサイトは、1つまた1つと攻撃を受け、そして沈黙していった。しかも、連合軍の攻撃は徹底していた。小さなレーダーサイトでも漏らさず全て攻撃した。今までの「B-29」の空襲と偵察も、多くの目的はレーダーの場所と性能を探り出すためだった。
 しかもレーダーサイトへの攻撃は、何度も入念に行われた。急降下爆撃、散布爆弾、大型爆弾、徹甲爆弾、ナパーム弾と施設に応じて投下され、一時的な破壊や使用不能を目的とはせず、再建できないほどの破壊を実施した。徹甲爆弾、大型爆弾の投下はそのためで、すでに破壊され守るべき兵士もいなくなった廃墟に対して、鉄筋コンクリートの基礎を破壊する一撃を何度も見舞った。酷い場所だと、クレーターのようになっていた。
 艦載機の襲撃は、北から順番に少しずつ着実に進められ、イギリス本国空軍が敵の徹底した意図に気づいた時には、すでに複数箇所のレーダーサイトが再建不可能なまでに破壊されていた。小説的表現を用いるなら、攻撃目標の全てが「地図のシミ」にされていたのだ。
 しかも、空母艦載機のレーダーサイト潰しは、その日一日だけでなく、翌日も続いた。その上、着実に南に向けて進んでおり、レーダーサイトは次々に破壊されていった。
 当然ながらイギリス本国空軍も懸命に迎撃したが、多数の戦闘機に阻まれて阻止できなかった。それに「B-29」の空襲も連日行われ、都市の防空も疎かには出来なかった。
 だが3日目は、ピタリと空襲が止んだ。
 補給のために下がったのは間違いないと考えられたが、とにかく状況の確認と迎撃体制の再構築を行わなくてはならなかった。そして連合軍が、予想以上にレーダーサイトを破壊している事が判明した。ほとんどの基地で、再建は最初から作り直さないといけない事が分かった。孤島のレーダーサイトなどは、基地のために作った桟橋や岸壁まで破壊しており、再建に少なくとも三ヶ月程度はかかると考えられた。中には再建不可能なものもあった。そして英本土北部のレーダー哨戒網は、穴だらけとなった。
 そして連合軍は、作り直すのを待つことはなかった。

 4月5日、先日と全く同じような状況で、連合軍の編隊が出現した。連合軍艦隊に対する捜索も行われたが、全く無益だった。向かった潜水艦が手当たり次第に沈められ、長距離偵察機も落とされてしまうため、追跡もままならないまま次の襲撃を許した事になった。また、空襲された時に艦隊への攻撃を行わなかった事も、後世非難されることが多い。英本国空軍側の攻撃機が壊滅しても、連合軍艦隊に一定の損害を与えておけば、連続した攻撃を防ぐことが出来た可能性があるからだ。
 そして英本国空軍が高度な航空管制を行おうとも、迎撃とは受動的で攻撃する側にこそイニシアチブがある。航空管制は、効果的な迎撃と兵力の効率的な運用は行えても、基地が固定されている以上、兵力集中には限界があった。
 そして連合軍空母機動部隊は、兵力を局地的に集中して、イギリス本国空軍の力を「タマネギの皮をむくように」着実に殺いでいった。
 攻撃はまたも2日間続いて、これで英本土北部(スコットランド北部)とノースアイルランド北部のレーダーサイトはほとんど壊滅した。
 そして今度は4日後に戻ってきた。今度の攻撃対象は北部の空軍基地で、これも徹底的に攻撃してきた。鉄筋コンクリート製の重シェルターも、2000ポンドや800kg徹甲爆弾の急降下爆撃の多重攻撃で破壊し、地下の弾薬庫、燃料タンクも同様に破壊していった。滑走路も一通り破壊されたが、滑走路がコンクリート製の場合は、徹底して大型爆弾を投下していった。「流星」の名を与えられた日本海軍の新型機は、流星ではなく隕石が落下するように各地にクレーターを量産していった。

 次は4月12日にやって来た。そしてこの時点でようやく欧州枢軸も突き止めたのだが、連合軍の巨大な空母機動部隊はアイスランドで補給を実施していた。アイスランドのレイキャビクとその近辺には連合軍のこれまた巨大な前線補給艦隊が物資を満載して待機しており、波の静かな場所で迅速に補給を実施した。また北米大陸からは、いくらでもタンカー、弾薬補給船が到着しており、無限の補給を実施していた。これを欧州枢軸側は、判明するまで単にアイスランドへの兵力増強と補給の強化と考えていた。前線補給艦隊は洋上で補給するという固定観念を突かれた形だった。
 それなりに消耗しているはずの航空機とパイロットについても、輸送空母となっている護衛空母が次々に補給していた。入り江や泊地を利用しているので補給は素早く、最短で2日で前線に戻ってきていたのだ。
 そしてこの事は、ブリテン島の沖合に移動する空軍基地が作られたも同然だった。
 これで分かる連合軍の目的は、大きく2つ。
 一つは、英本土侵攻の準備としての短期集中型の航空撃滅戦。もう一つは、欧州枢軸艦隊と欧州空軍に対する挑発だ。そして欧州枢軸が機動部隊の攻撃に出てこない限り、延々とイギリス本土を好き勝手に攻撃する事になると予測された。いずれスコットランド、ノースアイルランドに軍事目標は無くなるが、そうなればそれすらも陽動と考えられた。北部が終われば、次はコーンワル半島やウェールズで同じ事を繰り返して、英本土上陸の地均しを終えると考えられたからだ。秋までに、イギリス本国の空は丸裸になると予測された。
 そして欧州枢軸、というより英本土空軍に出来ることは、その場しのぎの防空戦でしかなかった。しかも、防空戦を最大効率で実施できても、空母機動部隊に対しては限定的にしか通じないことは、今までの戦闘で何度も立証されていた。システムを構築した時に想定された敵戦力、状況が現状と大きく違う事も、迎撃を難しくしていた。もちろん、迎撃システムの改良、改善は行われていたが、連合軍の方が上手だった。
 また、この頃のイギリスの迎撃が不調だったのは、これまでの戦況が非常に大きく影響していた。

 大英帝国と呼ばれる世界帝国は、第二次世界大戦が始まった時点で既に黄昏だった。かつての繁栄の残滓を浴びているに過ぎなかった。そしてその残滓とは、世界各地に存在する植民地と自治州(国)からもたらされる各種資源や原料と、逆に輸出できる市場だった。そして移出移入を行うためには船舶が必要で、だからこそイギリスは海軍と海運を殊の外重視していた。
 しかし第二次世界大戦が進むと、手足をもがれるように植民地や自治州を失っていった。カナダ、オセアニアを失った事で農作物と一部工業生産が失われた。ベネズエラ、イランからは、近代国家の生命線でもある石油がもたらされていたが、これも断ち切られた。しかし食糧は欧州大陸から、石油は備蓄の促進によってかなりが回避されていた。
 致命的だったのは、インドの失陥だった。
 インドは大英帝国の力の根元と言われることがある。単に綿花や紅茶の産地というだけでなく、イギリス経済はインド抜きには語ることが出来ない。ごく単純な数字だと、突然インドが失われた場合、イギリス本土の経済力や生産力が半減する事になる。もちろん他の植民地や欧州枢軸との繋がりもあるし、代替手段で補うこともできるものもあるので、致命傷を受けることはない。しかしインド失陥は、イギリスに大きすぎる打撃を与えた。それでも戦争継続は可能だったが、1944年秋以後だと生産力は最盛時予測の70%程度にまで落ちていた。武器弾薬の生産は優先されたが、何事にも限界があった。
 しかもイギリス以外の欧州枢軸の戦況悪化が、さらなる致命傷をイギリス本土にもたらす。
 最初に結論を言うと、食べ物が不足し始めたのだ。
 そもそも欧州枢軸の盟主ドイツは、自国での食糧生産が足りていなかった。浪費ばかりの戦争をすれば尚更少量は不足する。第一次世界大戦でも、餓死者を出すほどの食糧不足が革命の呼び水の一つとなった。だが第二次世界大戦では、フランスは農業国なので、ある程度は代替ができた。さらにソ連に攻め込んだが、占領したウクライナ地域は「ヨーロッパのパンかご」と言われることほど肥沃な土地だった。だが、1944年秋までにウクライナの東部を奪回されてしまう。ウクライナ西部での農業生産も混乱した。さらには欧州各国も、徴兵などによる労働力不足などで農業生産が落ちていた。このため欧州枢軸内の食糧自給体制は大きく揺らぎ、各国での配給は厳しくなっていった。その中でも、食糧自給率の低いイギリスが受けた打撃は大きかった。フランスなどから輸入するにしても、そもそも欧州枢軸内での余剰食糧が大きく減っているので、輸入できる食料に限りがあった。これがドイツなら強制的に輸出させることができたが、盟主でもないイギリスが強引な事はできなかった。ドイツのヒトラー総統はイギリスに配慮したが、それにも限界があった。
 しかもイギリスは、ドーバー海峡で欧州本土と離れていた。1944年秋以後になると、船の運航に支障が出るようになっていた。それは連合軍が、重爆撃機や潜水艦を使ってイギリス本土近海に機雷をばらまくようになっていたからだ。
 そして必然的に配給制が強化し、そして配給量が減少し、国民の不満と不安は徐々に高まっていた。秋になれば収穫があるが、それまで食糧備蓄が保つのかという不安が渦巻いていた。このため政府は、牧草地などでのジャガイモ栽培などを全国規模で進めさせるなどの緊急対策を実施したが、それだけ追いつめられている証拠と国民に映った。

 そして食糧より深刻なのが、燃料問題だった。石炭は当時のイギリスでも豊富に採掘されていたが、石油が問題だった。
 1943年秋の時点で、欧州以外の油田が全て失われた。そしてルーマニアのプロエシュチ油田やハンガリーの小規模な油田だけでは、ヨーロッパ世界の石油は到底足りなかった。最低でもイランの油田が必要で、イギリスの巨大な海運を支えるにはベネズエラの油田がなければならなかった。皮肉にも、遠距離海運が壊滅したのでベネズエラ油田を失った失点はある程度補えたが、すでに海運がガタガタだった。もちろん欧州各国では、石炭から化学的に作る人造石油の生産を急ピッチで拡大したが、コストの問題でガソリンの精製以外には使えなかった。船などのボイラーを動かす重油は、完全に不足していた。このため、旧式の石炭動力の船が重宝されるようになった。しかもガソリンは厳しい配給制になったので、自動車は政府か軍の車ぐらいしか動かないと言われた。民衆の間では、馬車の運用が日常化しつつあった。
 多くの重油を必要とする欧州各国海軍が大きな悲鳴を上げていないのは、油田が保持されている間に効率を無視して大量に持ち帰った石油の備蓄がまだかなり残されていたからだ。だからこそ、石油割り当ての少ないイタリア海軍でも、地中海なら活動できたわけだ。欧州各国海軍も、1945年内なら何とか通常の作戦行動が出来る程度の石油は残されていた。
 ただし、それ以後の石油については、ルーマニア油田に頼るしかなく、それだけでは地上の戦線を支える燃料資源の供給すら足りないほどだった。
 そして石油が無くなれば、武器弾薬の生産も大きな制約を受けるし、生産できなくなるものも少なくなかった。
 石油と食糧以外でも、産出または生産地域が限られている錫、生ゴムなどの不足も深刻で、兵器生産に大きく影響していた。

 以上のように、イギリス本国は既に国力を十分に発揮できない状態となっていた。70%という数字も、石油がまだ多少は残っているおかげだ。それ以前の問題として食糧の不足が迫っており、配給は減る一方で、暴動すら懸念されていた。そしてそれは、政府に対する不満となり、イギリス本国の戦争運営自体が大きく揺らぐようになる。
 そうした中でついに連合軍の攻勢が本格化し、遅くとも年内秋までに上陸してくると予測された。しかも、アイルランドが連合軍に参戦するかも知れないと言う噂が加わり、イギリスの動揺は大きくなる一方だった。
 そして連合軍は、手加減する気はまるで無かった。
 
 4月12日、13日と空襲した連合軍空母機動部隊は、またも2日で後退した。イギリス本土の近くでは欺瞞進路を取っていたが、アイスランド近辺に戻ったのは確実だった。しかし無数の対潜哨戒機と護衛艦艇のいるアイスランドに、潜水艦で攻撃するのは自殺行為だった。戦闘機の護衛が付けられない空襲も論外だ。アイスランドの基地防空隊だけでも強敵なのに、空母の戦闘機が加われば、落とされに出撃するようなものだった。
 そして4月17日、再び連合軍空母部隊が英本土沖合に戻ってくる。しかし今度は、南西部のコーンワル半島に襲いかかり始めた。4月1日と同様に、まずはもっとも遠い場所のレーダーサイトを破壊し始める。
 最初に襲いかかったのは、半島の先にあるシリー諸島。
 小さな島に似つかわしくない大規模なレーダーサイトがあって、イギリス空軍も総力を挙げて迎撃を行ったが、その日の昼まで保たなかった。連合軍の空母機動部隊は、この小さな島だけでなく、コーンワル半島各地に大編隊で侵入し、各所のレーダーサイトを破壊した。このため迎撃も分散せざるを得ず、各地の飛行場から管制を受けながら効率的に迎撃しようとする動きは、100機単位の大編隊を局所的に投入する空母部隊の空襲には、やはり対処が難しかった。そして各所で防空網が飽和状態になったところで、各地のレーダーサイトが集中攻撃を受ける。攻撃を受けた場所は数カ所だけで、他は半ば囮だった。そして囮の場所には、艦隊の防空隊を割いた戦闘機部隊が待ちかまえており、イギリス本国空軍の戦闘機を多数で撃破した。
 連合軍艦隊は、枢軸側が決定的瞬間まで艦隊攻撃を行わないことを、遂に逆手に取ってきた形だった。当然ながらイギリス空軍内にも敵艦隊への攻撃論が台頭するが、現状こそが連合軍の挑発だという論法の方が勝り、迎撃に専念する方針とされた。しかし北部では、依然として重爆撃機の嫌がらせともいえる爆撃が続いているため、戦力をすべて南西部に回すわけにも行かなかった。しかもアイスランドの連合軍重爆撃機の一部は、主に高々度偵察機だがブリテン島南西部にまで飛来していた。
 対岸のフランス空軍に救援要請を出したが、フランスは自国領の北西部の防空は最低限まで減らして、残る戦力の過半を地中海沿岸に回していた。しかもフランス空軍は、既にモロッコで壊滅状態のため、圧倒的という言葉以上の連合軍空軍の前に、地中海側で細切れに分解されつつあった。
 盟主ドイツは、ロシア戦線とルーマニアの油田防衛から動くことができず、枢軸側に残った方のイタリア空軍はまだ機能していなかった。
 
 連合軍の空母部隊は、またも2日で去っていった。
 そして4月20日、またコーンワル半島沖合に、練度の高い空母艦載機部隊しかできない緊密な編隊を組んだ大編隊が姿を現す。
 だが、今度は数が違っていた。
 少し前まで地中海で作戦をしていたアメリカ海軍の空母機動部隊の主力部隊が、補給と整備の後に北大西洋側にまわって合流していたのだ。
 アメリカ海軍の空母群の数は、これで5群。空母20隻以上の大艦隊だった。この戦闘は、《エセックス級》航空母艦が全艦14隻全て揃った初めての戦闘であり、大型空母をこれほど容易く、しかも多数揃えたアメリカの工業力を象徴すると言われている。しかも、さらに巨大な航空母艦群が東海岸で続々と誕生しつつあった。
 そしてコーンワル半島方面のイギリス本国空軍は、前回と同程度の攻撃を想定していたので、日本艦隊と合わせて3000機に達した連合軍の艦載機の前に押しつぶされてしまう。
 しかもアメリカ海軍は、この戦場に最新鋭機を持ち込んでいた。英本土攻撃が初陣となった航空機は、第二次世界大戦最強のレシプロ戦闘機の一つと言われる「F8F ベアキャット」だ。アメリカのグラマン社が開発した、無駄を徹底的に取り除いて完成させた艦上戦闘機だ。最高速度は日本の「烈風改」と同程度だが、非常にコンパクトなサイズにまとめられており、運動性能は「零戦」をも大きく上回っていた。
 開発では日本の「零戦」を参考にしたと言われるが、グラマン社が対抗相手として見ていたのは、ドイツの「Fw190」だった。「零戦」も参考程度にしたし、「零戦」、「烈風」などとの模擬空戦も何度も実施されたが、それは性能を確かめるために過ぎない。「ベアキャット」は、アメリカ海軍がヨーロッパの空を征するために送り出した戦闘機だった。ただ、コンパクトにまとめすぎた上に完成度が高かったため、その後の発達余裕が無かった。ライバルとされる「烈風」、「Fw190」が改良型や発展型が生まれたのと対照的に、本機は完成時からアメリカ海軍の空冷型レシプロ戦闘機の終末点に位置しており、それ以上発達することが出来なかった。このためジェット戦闘機が登場すると、比較的早い時期に第一線から姿を消すことになる。
 しかし1945年春の空では、最強の戦闘機の一つだった。機種改変が十分進んでいないので数は少なかったが、「烈風改」よりも高い戦果を記録し、その後も活躍していく事になる。
 そして、イギリス本国空軍は大打撃を受けることになる。
 日本が「あ号作戦」、アメリカが「オペレーション・エース(A)」と名付けてた作戦は、完全な成功だった。
 イギリス空軍は、目となるレーダーサイトの多くを短期間で回復できないまでに破壊され、前線となる空軍基地も大打撃を受けた。迎撃戦での損害も大きく、本国上空での戦いにも関わらず、戦死者の数も多かった。パイロットの損失は許容範囲だったが、機体はかなりが撃墜されるか、損害のため破棄された。英空軍の力は、向こう数カ月は戦力半減の状態に追い込まれてしまった。
 そしてこれ以後のイギリス空軍は、受けた損害に応じて敵が本格的侵攻をしてくるまで空での迎撃をより消極的なものに変更する事となる。
 それは連合軍の思惑通りであり、連合軍にとってはイギリス本土侵攻の第一段階の完了に過ぎなかった。
 そして強大無比な空母部隊の後方では、またも空前の大侵攻部隊の準備が完了しつつあった。



●フェイズ57「第二次世界大戦(51)」