●フェイズ58「第二次世界大戦(52)」

 6月6日に日付が変わった頃、連合軍の巨大な上陸部隊はノースアイルランドの北部沿岸に現れた。
 上陸部隊の第一波として一千隻近い大船団で運ばれたのは、自由英第1軍とアメリカ第2軍、アメリカ海兵隊第1遠征軍の合わせて8個師団と砲兵軍団、海軍コマンド、レンジャー大隊などの支援部隊、合わせて22万人。支援するのは直接的な兵数だけで約30万人以上。総数58万人の大兵力で、モロッコ上陸作戦を上回る史上最大の上陸作戦だった。
 上陸部隊の出撃拠点も複数に分かれており、北米東岸のカナダのハリファックス、同じく北米のニューファンドランド島、アメリカ北東部のボストン、西アフリカのモロッコ、西アフリカのダカール、アイスランド島の前進部隊からの抽出部隊など、6箇所からタイムスケジュールに沿って進んできた。これを守るのは、モロッコ侵攻よりもさらに陣容を増した連合軍の総力を挙げた、史上最大規模の記録をさらに更新した大艦隊だ。
 総指揮官は、アメリカ海軍のニミッツ元帥。アメリカ陸軍のマッカーサー元帥は、この時南フランス方面の指揮をしていた。加えて海軍が重要な役割を果たさねばならないため、海軍の総指揮で作戦が実施されていた。チェスター・ニミッツ元帥は、軍人としての力量、個人としての人格共に非常に優れた人物で、人によっては第二次世界大戦最良の最高指揮官と評する事もあるほどだ(※主にアメリカ海軍評だが、全般的な支持も高かった。)。日米の個性の強い指揮官達も、彼にだけは悪く言うことは無かったとも言われる。
 上陸部隊を指揮するのは、自由イギリス軍のモントゴメリー大将。副将としてアメリカのアイケルバーガー中将(アメリカ第2軍団指揮官でもある)。英本土奪還作戦なので、自由イギリス軍に指揮の優先権が与えられていた。
 上陸船団の直接護衛と支援はヒューイット中将。上陸船団の実質的な統括はターナー大将。そして全般的な航空支援と護衛の機動部隊指揮官は、キンメル大将と伊藤中将。こちらも全般支援に当たる主力艦隊は、リー大将と宇垣中将。海軍は、今まで指揮をしていた人々が入れ替わったり休養中だったりするが、連合軍としては万全の布陣で作戦に臨んでいた。

・「アイスバーグ」第一波上陸部隊:
 ・自由英第1軍団:
 加第3師団、豪第2師団、豪第8師団、英海軍コマンド旅団
 ・アメリカ第2軍団:
 陸軍第1師団、第1騎兵師団、陸軍第23師団、他独立大隊多数
 ・アメリカ海兵隊第1遠征軍(軍団):
 第1海兵師団、第3海兵師団
(※加=カナダ、豪=オーストラリア)

 最初の船団で運ばれたのは以上の師団で、上陸する兵員だけで22万人にも達する。しかも一週間以内に、自由英、米陸軍共に1個軍団、合計6個師団が第二波として投入予定だった。その船団の多くも、すでに各地の出撃拠点を出発していた。主にアメリカが建造した無数の船舶は、他の部署に影響を与えること無く、この巨大な兵団を問題なく輸送できた。
 そしてこの段階で各種支援部隊もさらに上陸予定で、第3波となる全ての上陸部隊を合わせると戦闘部隊だけで50万人を越える予定だった。参加する上陸用艦艇の総数は、上陸用舟艇などの他艦に搭載された「艇」扱いの小型艦船と護衛艦艇抜きで2000隻を越える予定だった。操る水兵の数も、これだけで10万人に達する。ノースアイルランド北部沖合で船団が集合した様子は、水平線の先まで船で埋め尽くされ、壮観の一言に尽きたと言われる。
 最初に上陸するのは、米第1海兵師団、米第3海兵師団、カナダ第3師団、米陸軍第1師団。上陸作戦に慣れた部隊ばかりだった。総指揮のため、海兵隊のヴァンデクリフト大将までが前線に出てくる念の入りようだった。これに自由英海軍コマンド連隊、米陸軍レンジャー大隊などが加わって脇を固める。ただし、連合軍の拠点から遠すぎるため、空挺部隊の作戦参加は無かった。その代わりと言うべきか、試験的に垂直離着陸が可能な新世代の航空機であるヘリコプターが、偵察や観測のために少数機搭載されていた。また日本海軍は、数は少ないがオートジャイロも持ち込んでいた。
 上陸予定地点は、機雷敷設、大規模な上陸妨害の障害物があまりない事が既に分かっていたので、ダカール、モロッコのような事前掃海や排除工作はほとんど行わず、いきなり上陸部隊が沖合に展開した。
 上陸部隊の先鋒は「M11」水陸両用戦車、各種LVT(水陸両用装甲車)、DUKW水陸両用トラック、各種揚陸艇で編成されていた。そして古代の兵士達のように沖合で整列すると、「M11」を先頭にして一気に上陸を仕掛けた。「M11」戦車は、日本の水陸両用戦車同様に自由英にも供与されており、上陸した各師団の戦車大隊は1個中隊が「M11」戦車だった(※「M11」は従来型だけでなく、榴弾砲装備型、火炎放射器装備型など派生型も含む。)。
 上陸作戦自体は、今までの教訓を反映して機材、戦術共に洗練され尽くしていた。現地を守る第一線級とは言えない英本国陸軍部隊は、猛烈という言葉を通り越えた砲爆撃を前にして、壕の奥深くで耐えるより他無かった。反撃しようものなら、撃った百倍と言われるほど激しい反撃を受けた。間断なく無尽蔵なレベルで降り注ぐロケット砲弾による爆発と轟音は、この世の終わりを思わせたと言われる。
 上陸作戦は順調に伸展し、遠い沖合で遠雷のような音が連続して発生するまでに、連合軍は十分な縦深を持つ橋頭堡を確保することができた。英本土空軍の攻撃が若干あったが、全て許容範囲内の妨害でしか無かった。
 結局、上陸初日は連合軍にとって順調に伸展した。夜の間もサーチライトを照らしてまでして上陸が続けられ、翌朝にはさらなる上陸部隊が続々と上陸して橋頭堡も拡大した。懸念された英本土空軍の夜間爆撃も、ごく僅かに行われたに止まっていた。
 この時点で現地英本国軍の反撃は微弱で、すでに内陸に向けた威力偵察が開始されようとしていた。しかし翌7日の午後に入った頃、上陸支援していた艦隊が慌ただしい動きを見せた。
 枢軸軍の反撃が開始されたのだ。
 しかし反撃してきたのは陸軍ではない。艦隊が動いた以上、反撃は海と空からだった。欧州枢軸軍が上陸作戦が引き返せない段階を待って反撃してきたものだと、連合軍では判断していた。

 なお、強襲上陸を仕掛けた連合軍の近辺には、機動力のない歩兵師団4個と沿岸砲兵部隊が守備していた。さらにもう少し離れた場所の沿岸部を含めると、さらに2個師団が展開している。敵の上陸予測地点なので、ノースアイルランドの海岸沿いでは最も分厚い陣容なのだが、部隊は海岸に沿って薄く配備され陣地も貧弱で、とても長時間耐えられる戦力ではなかった。しかも上陸前面には2個師団しかないので、なおさら内陸からの機動戦力の到着が重要だった。比較的早くから沿岸陣地構築や障害物の設置は言われていたのだが、兵器の生産、他の戦線への増援などで、ほとんど手付かずのままこの日を迎えていた。しかも一部間に合った砲台や強固な陣地のかなりが、事前の砲爆撃で破壊されるか無力化されてしまっていた。2000ポンド爆弾や1トンもの砲弾を無数に浴びて無事でいられる陣地は殆ど無かった。
 そして何より、連合軍の上陸部隊は英本国軍の予測よりも多く、当然だが機甲戦力、重砲などの火力も敵に対して十分ではなく、連合軍が戦略的な奇襲に成功したことを物語っていた。
 ちなみに、ノースアイルランド全体では、1個軍12個師団が配備されていた。だが、これも現地の動員した民兵部隊(※ほとんどが連隊または大隊規模で限定的能力しかない。)を含めての事なので、実質は10個師団程度の戦力だった。それにイギリス本国軍全体で戦車や装甲車、トラックが不足しており、機械化部隊も機甲師団と自動車化師団が1個ずつあるだけだった。機動防御部隊全体では1個軍団4個師団があったが、これも十分に移動できてこその戦力だった。そして水際での機動防御戦を仕掛けるには、海空との連携が重要だった。
 しかしイギリス本国が、ノースアイルランドの防衛を疎かにしていたわけではない。先に書いたように、イギリス本国軍は以前から連合軍の英本土侵攻の第一段階は、ノースアイルランドが最も可能性が高いと考えていた。しかし今まで遠隔地での戦争が続いたことから、陣地構築などはあまり進んでいなかった。沿岸陣地の構築が本格化したのは1944年春以後の事だが、この頃になると英本土の生産力が大きく衰え始めていたので、他の兵器の生産などを優先したためさらに遅れた。英本国軍としては、全ての海岸線を守ることは全ての面で不可能なので、海空戦力で連合軍を退ける事を優先したからだ。しかし海空戦力だけではどうにもならないので、重用箇所だけでも水際撃滅とはいかなくても海岸付近で持ちこたえている間に陸海空三軍の総力を挙げて連合軍の侵攻船団を撃滅するという方針に変更された。
 しかしこの段階でも、陸軍が守るべき海岸は多かった。何しろ英本国は島国だ。そして優先度としてノースアイルランドは一番なのだが、ノースアイルランドに大軍を置くわけにもいかなかった。大軍を集結して鉄壁の防御態勢を整えた場合、連合軍がノースアイルランドを無視して英本土にきたら、英本土は陸での守る術が無いという可能性も十分にあり得た。特に北アフリカで猛威を振るったマッカーサー戦法の幻影が、英本国軍首脳の心を惑わせた。
 また政治的に、あまり大軍を置きすぎると、アイルランドが刺激されて最悪連合軍に加わる可能性も考慮しなければならなかった。連合軍のアイルランド参戦の謀略でも、その事は明らかだった。連合軍の意図はノースアイルランドに大軍を置かせない為だが、英本国としても常識的に考えてノースアイルランドに大軍は置けなかった。
 結局、ノースアイルランドに置く戦力は、英本土に残る全軍の3割程度となった(民兵除く)。辛うじて上陸直後に防戦ができる程度の戦力であり、連合軍に安易なノースアイルランド上陸を躊躇させるためであり、アイルランドを刺激しないため配置兵力を限った兵力配置でもあった。
 故に英本国軍、いや欧州枢軸軍が頼りとするのは、海空戦力だけだった。

 欧州枢軸海軍の総出撃は、6月5日に決定した。連動して、英本土空軍、ノルウェーのドイツ空軍部隊の同時攻撃も決定した。敵の動きを若干だが読み違えた分だけ、出撃も後手に回ってしまった。本来なら上陸開始直後に敵の上陸地点に殺到する予定だったが、その予定は崩れていた。
 枢軸側の最優先目標は、連合軍の上陸船団の粉砕。そのために最も脅威なのは、連合軍の空母機動部隊。この空母機動部隊を、枢軸側の空母機動部隊と空軍部隊の総力を用いて封殺。その間に主力艦隊が空軍の援護を受けながら突進して、上陸船団を砲雷撃戦で粉砕するのが作戦の骨子となる。
 この場合、連合軍の空母部隊が主力艦隊に本格的に食いついたら、例え敵空母部隊に大打撃を与えても作戦は失敗となる。そして連合軍が、ここで海軍力の総力を損害に構わず投入してくると予測していた。これ以後の戦いに、強大な海軍はそれほど必要とされないからだ。連合軍としても、上陸作戦が成功するなら海軍主力部隊はすりつぶしても構わない戦力となるのだ。
 ノースアイルランドが占領さた後は、敵空軍が展開したら英本土上空の制空権が奪われ、連鎖的に欧州北部の戦線は短期間で崩壊していくからだ。
 故に枢軸側でも、「いかなる犠牲を払おうとも」という作戦内の文章に表現されたように、何が有ろうとも枢軸の空母部隊は連合軍の空母部隊の動きを抑さえなければならない。空軍と連携すれば撃滅も可能という楽観論もあったが、精々一時的に半壊させるのが精一杯というのが、事前に何度か行われたオペレーション・リサーチの結果だった。しかも最悪の場合は、枢軸側は海空軍が敵空母部隊に各個撃破され、何も出来ないまま一方的に撃破される事も予測された。しかもかなり高い確率で。
 その証拠に、連合軍の空母機動部隊は、5月30日から開始された航空撃滅戦によって、全力を挙げてイギリス本土の北部を猛烈な勢いで攻撃していた。

 空での戦力差が既に3対1、4000機対1400機程度の戦力差のため、防空に徹していても英本土空軍が圧倒的に不利だった。しかも初動で兵力配置を一部誤っていた為、スコットランド方面、ノースアイルランド方面の空軍部隊は、予定よりも少ない戦力で防戦に徹するも、既に猛烈な空襲を受けて壊滅的だった。事前に強固な待避壕などに待避していた攻撃機部隊も、飛行場と周辺の待避壕への攻撃で、既に20%程度が損失または損傷で戦力を失っていた。これを見越して、道路を臨時滑走路として待避壕に非難している部隊もあったが、その数は少なかった。さらに北部の飛行場の半分以上は、短期間で修復不可能な打撃を受けていた。
 しかも南西部からの兵力移動は、急いだ余りかなりが兵力の逐次投入となり、効果的に敵を迎撃するより先に、敵に各個撃破の好機を与える結果になってしまった。また連合軍は、北部にあるコンクリートまたはアスファルトで舗装された滑走路を徹底的に破壊していた。英空軍には、主にアメリカ軍が使う金網の板を張った簡易滑走路はないので、一度破壊されると短期間での修復は不可能だった。言うまでもないが、航続距離の短いジェット機の運用を封殺するためだ。連合軍は、枢軸側のジェット機をかなりの脅威と考えていたからだ。
 もちろん、英本土空軍も懸命に防空戦を展開し、機械力、人力全てを動員して飛行場の復旧に務めていたが、連合軍のD-dayまでに十分に戦力復活できる見込みはなかった。1000機近い数の戦闘機は半数以下にすり減らされ、400〜500機あった攻撃機も30%を出撃前に戦力価値を失っていた。英本土中枢部で待機する重爆撃機部隊はほぼ健在だったが、敵橋頭堡を攻撃するには戦闘機の護衛が必要なため、有効な戦力とは言えなくなっていた。
 対する連合軍空母機動部隊も、1週間以上続いた猛烈な勢いの航空撃滅戦で、すでに全体の20%、800機近い戦力を消耗していた(※純粋に撃墜されたのは、この30%程度。損失の多くは着艦失敗と帰還後の破棄。)。しかし6月2日からは機動群ごとに交代で後方に下がって、補給と共に航空機、航空隊の補給を受けているため、前線で運用される機体数に大きな減少は見られなかった。
 連合軍は、空母の数から第一線に投入できる戦力に限りがあるため、換えのきく補充航空隊を十分以上に揃えていたのだ。その数は、第一線機の2倍もになる。なぜそれほどの数が動員できたかと言えば、答えは意外に簡単だった。大戦中盤以後のアメリカ、日本の空母艦載機部隊は、連戦による疲労や消耗に備えて、航空隊が丸ごと交代できるように部隊数を二倍に増やして、実質二交代で運用するようになっていたからだ。重要作戦で簡単に過積載することができるのも、交代用の航空隊から部隊を一時的に持ってきているからだ。
 そしてこの作戦は乾坤一擲なので、一時的に自分たちのルールを破り、その全てを投入してきたことになる。そして交代として入れ替わってきた航空隊の多くが、ソ連空軍などなら親衛隊と言われるような精鋭部隊だった。日米の航空隊にそうしたものはないが、それでも各機体に施された派手なマーキングなどから、彼らの自信と精鋭度合いを見て取ることができる。 

 欧州枢軸側の出撃拠点は、イギリスが空母部隊はロンドンに近い英仏海峡南東部。主力艦隊だけが、事前配置の影響で少し西のポーツマス。フランスが英仏海峡対岸の各港。ドイツが英本土から500キロほど東のヴィルヘルムス・ハーフェン。
 最初の出撃は、英仏艦隊と合流するドイツ艦隊。次いでフランス艦隊とイギリスの空母機動部隊。最後に少し遅れてポーツマスのイギリス主力艦隊が出撃する。
 北海から北大西洋に出る方が時間がかかるので、ドイツ艦隊の出撃開始は総出撃が決定する前の4日午前中に始まっていた。これは港湾にいて事前空襲を避けるための洋上待避でもあったが、結果としてそのまま出撃することとなった。英仏の空母部隊は、5日になってから出撃している。英主力艦隊の方は、突入の時間調整もあるので半日以上遅れて出撃した。
 そして7日黎明からは、ヘブリディース諸島沖合で史上最大規模の空母同士の戦いが行われる筈で、その日の午後には主力艦隊が連合軍の出撃地点に突入予定だった。
 英主力艦隊だけが単独行動だが、こちらは英本国空軍が総力を挙げて上空を守る予定だった。ドイツの主力艦隊は、空母部隊の前衛として途中まで行動を共にするが、最後に空母達と分かれて、一路敵上陸部隊を目指す。主力艦隊が二手に分かれるのは、連合軍の侵攻場所を見誤った配置ミスと言われることもあるが、この作戦では連合軍の迎撃を混乱させ、作戦を成功させるためだった。
 枢軸側も、連合軍が主力艦隊を複数運用していることは察知していたので、戦艦部隊同士が激突する可能性は十分に考慮していた。机上演習では英独合同艦隊で突撃したが、連合軍も日米が総力を挙げて迎撃したため、二倍以上の戦力差の前に押しつぶされてしまう事が多かった。つまりは押し潰されるのを避けるために主力艦隊を二分したのであり、つまり空母部隊と共にどちらか片方の主力艦隊も「囮」となる予定だった。もちろん戦場では何が起こるか分からない。偶然の一弾などで、格下が格上を撃破する可能性もゼロではない。戦艦の群れならば、戦術で戦略をひっくり返せる可能性もある。しかしそれは「奇跡」に類するものであり、欧州枢軸側も神の奇跡だけに縋るつもりはなかった。
 何があろうとも、例え全滅しようとも、全ての艦が沈もうとも、作戦を完遂しなければならなかったのだ。
 かくして「ラグナロク作戦」は開始される。

 枢軸海軍の総力出撃を知った連合軍は、空母機動部隊と主力艦隊に総力を挙げた「阻止」を命令した。また全航空部隊には、敵の機先を制する意味で英本土空軍へのさらなる攻撃を命令した。このため、敵艦隊が戦場に到着するまで、英空軍に対する攻撃をさらに強めた。
 連合軍は敵の目的が上陸部隊だけで、これを守りきれば勝利だと知っていた。前線の各艦隊司令官も、心情としては敵艦隊との「決戦」を希望していたが、キンメル提督も伊藤提督も、敵の撃滅ではなく撃退、阻止を最優先とした命令を下していった。3つに分かれていた主力艦隊の方は、既に支援で砲弾を使っていたので、交代で補給のために一時下がった。空母部隊の一部も後方に下がり、対艦用装備の受領のため補給を実施した。しかし枢軸艦隊が来るまでに、全ての艦隊が再び前線に戻ってくる予定になっていた。
 全ては作戦通りだった。

 枢軸軍艦隊の出撃は、当初から連合軍に察知されていた。北海やドーバー海峡の西部には、潜水艦が無音潜行で伏在して偵察情報を定期的に送っていたからだ。また敵の迎撃の隙間を突いて、アイスランドからB-29の偵察型の「F-13」が高度1万1000メートルの成層圏から、高性能レーダーの目を光らせていた。特に作戦開始の1週間前からは、24時間体制で空からの監視も行われた。長距離偵察に使う機体数が足りないので、「F-13」以外の偵察型の機体も集められる限り集められた。このためアイスランドのケフラビーク基地では基地の規模が足りないので、滑走路の必要がない大型飛行艇も集められた。日本の「二式大艇」の偵察型は特に重宝され、危険度の低い闇夜の洋上から枢軸軍の監視を受け持った。
 6月5日に出撃した枢軸艦隊には、直線距離で50キロ以上離れた場所からの偵察機が張り付いていた。空母艦載機では、高度1万1000メートルに素早く駆け上がって撃墜する事が無理だった。イギリスの「スピットファイアMk.XII」やドイツ空軍が45年に入ってから新規導入した「Ta 152H」、もしくは両国が有するジェット推進型の戦闘機なら迎撃も何とか可能だが、発進基地からの距離の問題から実質的な迎撃は無理だった。どれも航続距離が短すぎるからだ。夜の飛行艇相手なら、地上配備の夜間戦闘機で相手をできなくもないが、接近した時点で待避してしまうので一時的に追い払う以外の事が無理だった。しかも連合軍は、昼夜を問わず複数機、違う方角からの追跡と監視を行うため、接触を断つことは不可能だった。加えて連合軍は、さらに離れた場所からより偵察と通信に専門化した偵察型の「F-13」を配置して統括的に偵察を行い、逐一司令部と前線各部隊に最新情報を届けていた。
 イギリス本国海軍の主力艦隊への接触は少ないが、どこに来るのか分かっている以上、連合軍に焦りは無かった。
 対して枢軸側は、連合軍の空母機動部隊の正確な所在と布陣を掴めていなかった。上陸作戦を行う以上、おおよその位置は動きようがないが、そこにどれだけの艦隊が展開して、どれだけの艦隊が枢軸側の艦隊に攻撃しようとしているのかが分からなかった。もちろん枢軸側も、多数の潜水艦と空軍の偵察機を出して敵情を探った。だが、英本土北部の空軍は、連合軍の苛烈な航空撃滅戦の前に既に機能を大きく低下していた。そして偵察機は、こちらも艦隊上空に配備された「F-13」と「二式大艇」の探知によって、近づくより前に探知されて、航空管制によってほぼ完全に迎撃されていた。偵察機が敵に近寄るには、大規模な空襲をしかけて連合軍の制空権を混乱させるしかなく、それは実質的に一度しか出来ないことだった。潜水艦による偵察は、ドイツ海軍の新型潜水艦「XXI型」が期待されたが、連合軍は多数のハンター・キラー戦隊、対潜哨戒機を出して封殺と撃破に務めたため、概略海域に入るのはどんな潜水艦でも自殺行為だった。連合軍の対潜哨戒機は、例え深く潜った相手でも八の字運動を繰り返して見つけだし、誘導魚雷すら投下するようになっていたからだ。ヴァルター・タービンと呼ばれる過酸化水素水を燃料として長時間潜行できる新型潜水艦の試作型も投入されたが、戦果を挙げることもなく、そして帰還する事も無かった。
 何にせよ、枢軸側からの奇襲攻撃はあり得ず、攻撃側が枢軸側なのに、イニシアチブは連合軍が握っているに等しかった。
 そして6月7日の早い朝が明ける。

 6月7日黎明、枢軸側の空母機動部隊は、北海を抜けてオークニー諸島とシェトランド諸島の間を抜けて、北大西洋に出た辺りに位置していた。午前3時には既に日ものぼり始め、清々しい北の朝が明けつつあった。
 枢軸艦隊は盛んに自らの偵察機を放ち、アイルランド島北方海上に陣取っていると見られる連合軍の空母群を探した。同時に、英本土北部の頑丈なシェルターに温存されていたモスキートなどの偵察機も飛び立った。そのための滑走路として、カムフラージュしていた滑走路や道路改造の滑走路が使われた。中には、山肌をくり抜いた擬装格納庫から、そのまま目の前の道路を離陸していった機体もあった。
 連合軍の空母部隊の方だが、自分たちの優位は動かないが今日が正念場だと理解していた。そして簡単な戦いでもないとも理解していた。船団と上陸地点を守りつつ、敵空母機動部隊を退けなければならないからだ。ポーツマスを出撃したイギリス主力艦隊に対しては、潜水艦の妨害以外は直前のノース海峡での戦艦部隊による迎撃となっていたが、余裕があれば艦載機でも攻撃予定だった。
 そして10群もある高速空母群だが、うちアメリカ海軍の3群を上陸船団寄りに配置して、今まで通り英本土から飛来する敵機への対処に当たることになっていた。しかも地上に対する攻撃を最低限として、この日は防空に専念する予定だった。自由イギリス艦隊の空母と4群ある護衛空母群も同様で、こちらは総力を挙げて船団を守る事になっていた。こちらの指揮は、護衛空母群との連携もあるのでアメリカ海軍のキンメル提督が担当した。
 残る7群の空母群は、日本海軍の伊藤提督の指揮のもと総力を挙げて反撃してきた敵艦隊を撃退する予定だった。しかも連合軍は、防衛戦が前提なので、事前のキンメル長官と伊藤長官による打ち合わせに従い、「撃退」の為の「後手の一撃」を予定した。つまり、まずは総力を挙げて敵機動部隊の艦載機を落とせるだけ落としてしまい、敵が攻撃力の主力である艦載機を消耗した時点で、総攻撃を実施しようと言う腹づもりだった。
 一見イギリス本国軍のこれまでの戦い方と似ているが、肝心なところで違っていた。イギリス本国軍は、攻撃を成功させるために敵が侵攻するまで攻撃をしなかったが、連合軍がこの戦法を選んだのは基本的に「守りきれば勝ち」だからだ。そしてそれが出来るだけの戦力と準備をしてきていた。古来より「後手の一撃」は非常に難しいが、それが可能なだけの戦力差が開いたからこその選択だったのだ。
 また、連合軍にとって敵艦隊の撃滅は副次的な要素でしかなく、極端に言えばすごすごと逃げ帰ってくれれば戦略目的は達成される。だから目的が「撃退」なのだ。また、消極的と言われることもあるが、空母の威力は艦載機が全てなので、それを落としてしまうことが肝心だと考えられていた。そして母艦数、艦載機数、パイロットの熟練度、どれをとっても連合軍が圧倒していた。枢軸側の艦載機パイロットは、彼らの空軍に比べても練度が低いと考えられていた。と言うのも、カリブでの激戦で一度壊滅しており、再建したばかりの部隊も1年前のアイスランドを巡る戦いで消耗しているからだ。そして空母艦載機乗りは、簡単に育成できない種類の特殊技能に習熟した兵士達であり、1年で再建するのは物理的に不可能だった。
 ただし連合軍は、敵戦力の算定は少し誤っていた。具体的な数字を挙げると、空母13隻、艦載機700機程度と見ていた。本当は空母15隻、艦載機900機以上なので、艦載機数で30%近く見誤っていた事になる。また、ノルウェーのドイツ空軍部隊の遠距離進出可能な約100機の戦力も、出撃する可能性は半々と見ていた。そして連合軍側は、7個群、高速空母34隻、艦載機数2200機で迎撃しようとしていたので、三倍の戦力差で押しつぶす積もりだった。実際は想定が少し違っていたが、それでも2.5倍の差であり、しかも圧倒的有利な連合軍側が初手を徹底防戦という手段に出た事で、実質的な戦力差はさらに広がっていたと言える。海上上空での戦いは特にランチェスター・モデルが反映され易いので、決定的と言える以上の結果は既に約束されたも同然だった。
 「決戦」を求めなくても手抜きはしない。それがこの大戦を戦い抜き、そして着実に進軍を続けてきた日米海軍の方針だった。戦前や戦争初期に決戦ばかり求めてきた海軍とは思えない心理面での変貌ぶりと言えるだろう。
 そして枢軸軍は、真の海軍となった日米海軍という巨大な壁にぶつかり、それをうち破らない限り勝機は無かった。
 また一方、イギリス本国空軍に対してだが、こちらは船団と上陸部隊への制空権維持が最優先されていた。そのためには艦隊自身も守らなければならないが、優先事項としては上陸部隊が上だった。そして作戦目的のために、こちらは防戦のみに徹する予定だった。すでに攻撃は十分に行っているので、敵艦載機の大軍に乱入されない限り戦線は維持できると予測されていた。
 ただし、空軍機の方が高性能な機体が多いし、一部パイロットは熟練者なので、そうした部隊に対しては強い注意が必要だった。このため、最新鋭の「ベアキャット」を搭載する空母または空母群が選抜されていた。そして大型空母《ノース・アトランティック》《プエルトリコ》も多くの「ベアキャット」を搭載していたため、こちらに配置された。このため《ノース・アトランティック》は、ドイツの《アトランティカ》という同じ名前を持つ空母との対決を楽しみにしていたので、乗員が酷く残念がるというエピソードが伝えられている。
 しかし、枢軸側の空軍機の相手は、容易いものではなかった。

 キンメル提督麾下のアメリカ海軍第28空母機動部隊の第1、第3、第4の14隻の空母と1100機の艦載機、スプレイグ提督率いる護衛空母群4群24隻の護衛空母と700機の艦載機、自由イギリス艦隊の2隻の空母と100機の艦載機、合わせて1900機が、侵攻したノースアイルランド北東部と周辺海域の制空権維持のための全ての航空戦力だった。どの艦隊も北大西洋上に展開しており、第28空母機動部隊が最も敵の攻撃が予測されるポイントに位置していた。そして上陸船団と橋頭堡を中心として、戦闘機部隊が上空に布陣していた。また、各水上艦などに搭載されていた日本生まれの「彗雲」も動員できるだけ動員され、100機以上が各種任務に当たっていた。その中には、低空で迫る敵攻撃機の邀撃も任務に含まれていた。
 対する枢軸空軍というより英本国空軍は、この戦闘に500機の戦闘機と350機の攻撃機が動員できた。また、英本土中枢から重爆撃機200機が投入予定になっていた。合わせると1000機以上になるが、全てを合わせても敵戦力の60%程度でしかない。ランチェスター・モデルに従えば、英空軍が全滅しても敵戦力は70%近く残る事になる。しかし勝機は別にある。英本土空軍としては、多少は手薄になったインターセプターを突破して、敵艦隊を一時的に活動不能に追い込めればいいのだ。そして連合軍が、敵は上陸船団と橋頭堡を狙うと思い込んでいる隙をつくのが肝心だった。このために重爆撃機部隊が、危険を冒して橋頭堡への攻撃を仕掛けるのだ。
 しかし戦闘機の配分が問題だった。北部に集中できるのは、配置場所と航続距離の関係もあって約500機。しかも、これを全て敵空母部隊に向けることは難しかった。まずアイリッシュ海を北上してくる主力艦隊の護衛が必要だった。セントジョージ海峡までは中部を防衛する部隊が護衛するが、それ以後の護衛を考えると交代で100機は最低でも必要だった。橋頭堡を爆撃する重爆撃機部隊も、護衛なしで出すことはできない。このため350機程度が限界で、攻撃機もほぼ同数なので約700機が飛び立つことになる。そして飛び立つ場所もそれぞれ別なので、集中攻撃には限界があった。しかも攻撃機パイロットの中には、洋上攻撃の訓練が不十分な者が少なくなかった。何しろ熟練者の多くは、今までの戦いでいなくなっていた。
 そうした中での英本国空軍の希望は、「グロスター・ミーティア」ジェット戦闘機と「ホーカー・テンペストMk-II」戦闘機が含まれていた事だった。
 ただし、英空軍初のジェット戦闘機「ミーティア」は、ジェット機としては最高速度が低いので、ジェット機や双発機としての欠点の方が気になる状態だった。単純な最高速度だと、「F8F ベアキャット」や「烈風改」と大差ないからだ。「テンペストMk-II」はイギリス空軍では珍しい空冷エンジン搭載機で、南方での作戦行動をし易いようにと開発が急がれたが、慣れない空冷機のため1945年に入ってようやく量産配備が始まったばかりだった。それまでも空冷エンジン搭載型の「テンペストMk-V」が1944年春頃から活躍していたが、「Mk-II」の方がより大きな期待が持たれていた。
 とはいえ戦闘機の主力は、英空軍の代名詞とすら言える「スピットファイア」各種だった。「スピットファイア」はドロップタンクを積めば何とか洋上攻撃も行える航続距離となるが、洋上の戦いに向いているとは言えず、航続距離の長い「テンペスト」各種の方が攻撃機パイロットからは護衛として期待されていた。
 そして彼らの目前に立ちふさがるのは、各種の「猫」達だった。「F4F FM2 ワイルドキャット」、「F6F ヘルキャット」、そして切り札の「F8F ベアキャット」だ(※「F4U コルセア」もあった。)。アメリカ海軍では、「ワイルドキャット」は攻撃機を狙い、重爆撃機は20mm搭載型の「ヘルキャット」が、そして多数の「ヘルキャット」と「ベアキャット」で戦闘機を封殺する予定だった。このため高速空母群と護衛空母群の混成航空隊を、航空管制により幾つも編成して敵を待ちかまえた。また、こちらの上空にも、アイスランドより飛来した「F-13」や「B-24」の偵察型が高い高度で陣取り、レーダー情報を提供していた。加えて多数の偵察機が上空に配置されているので、英本土空軍の攻撃隊の動きは丸見えだった。
 そしてこの空で最も存在感を示したのが、やはりと言うべきか「F8F ベアキャット」だった。投入された数は150機程度だったが、最高速度、上昇速度で敵を引き離し、得意の格闘戦で次々に練度で劣る蛇の目を描いた機体を落としていった。「ミーティア」は最高速度で違いが殆ど無いので、単に双発機と単発機の戦いに近い状態でほとんど活躍できなかった。重爆撃機の邀撃などの任務であれば、また違っていただろう。「テンペストMk-II」は流石の性能と活躍を示したが、格闘戦では連合軍最強の座を掴んだ「ベアキャット」に軍配が上がった。格闘戦なら「スピットファイア」も得意なのだが、日本陸海軍ですら降参した「ベアキャット」の格闘戦能力の前には形無しだった。

 アメリカ海軍による迎撃戦は順調に推移したが、予想外の事態により一部が破綻する。空戦の規模が数、空域共に広すぎるため、1隻の艦艇で管制できる能力を超えてしまったからだ。米軍も大型空母に統括的な航空管制施設を設けていたのだが、それでは規模の面で足りなかった。このためアメリカ海軍は、日本海軍の《大淀》のように改装中の指揮巡洋艦の投入を急ぐことになる。しかしこの戦場には間に合わず、英本国空軍の一部突破を許すことになった。
 そしてさらに米軍にとって誤算だったのが、英本土空軍が船団や橋頭堡ではなく空母部隊が主攻撃目標とされた事だった。船団と橋頭堡上空には十分な数の迎撃機を配置していたが、そちらに力を入れすぎていた為、自分たちの艦隊の上空の守りが少しばかり手薄となっていた。ここを英本国空軍に突かれてしまい、迎撃機を突破した英本国機は次々にアメリカ艦隊へと突撃した。
 しかし、そこはアメリカ海軍だった。日本海軍よりもさらに濃密な世界最強の弾幕射撃が敵機を迎え撃った。空が真っ暗になるほどの弾幕を避けて高速空母群の輪形陣に入り込むには、船の甲板より低いところを飛ぶしかないと言われる状態だった。
 ただし護衛空母群は、それぞれ僅かな護衛艦艇しかともなっていないため、2つの空母群が捕捉されて攻撃をまともに受けてしまう。そしてここの護衛空母は艦載機以外で自らを守る術に乏しい為、護衛空母4隻撃沈、2隻大破、護衛駆逐艦2隻沈没、1隻大破壊という大損害を被ってしまう。実質的に1個群が消滅する大損害だった。護衛空母は、商船である高速貨物船や高速タンカー改造の軽防御構造なので、被弾には非常に脆かったのだ。中には1発の被弾で沈んだ護衛空母も出たほどだ。そして護衛空母でも空母なので乗組員数は1000名近く、多くが沈んだため戦死者、負傷者の数も多く出てしまうこととなった。
 また、キンメル提督率いる高速空母群は、護衛空母群以上の敵機の攻撃にさらされた。こちらも2群が集中攻撃を受けることになり、うち1群には期待の《NA級》大型空母が属していた。そして《ノース・アトランティック》《プエルトリコ》共に流石の防御力と対空射撃能力を見せ、《プエルトリコ》が大型爆弾を受けるもその後の優れたダメージコントロールもあって航空機運用を続けた。通常なら最低でも中破で戦線離脱しているところだが、アメリカ海軍初の装甲飛行甲板が活きた形だった。だが、攻撃に耐えきれない空母も少なからず出た。飛行甲板の形が大きく変化するほど改装された歴戦の空母《サラトガ》は、平たく目立つ煙突のため目標とされ集中攻撃にさらされた。被弾して帰投不能となった自爆機を2機も出す猛攻で、全艦に5箇所もの被弾を受けた。しかしそれでも巡洋戦艦生まれたの船体は攻撃を耐えきり、判定中破で生き延びることができた。《バンカーヒル》は、既に敵の攻撃が息切れしていたので自分たちの攻撃隊を準備しているところにこちらも被弾した自爆機が格納庫に突入し、自らのナパーム弾とガソリンで上部構造物が火だるまとなる激しい誘爆に晒された。幸い沈没には至らなかったが、一時は総員退艦が命じられるほど猛烈な火災となったが、他艦の援助もあって何とか沈没は免れた。ただし、損害復旧に1年以上かかると判定され、その後も修理が後回しにされたため二度と戦場に戻ることは無かった。
 攻撃に弱い軽空母は《プリンストン》が被弾したが、幸い飛行甲板、格納庫に機体や各種物資が少なかったため、判定中波の損害で耐えきり、それ以外の軽空母への被弾も小型ロケット弾か至近弾を除いて無かった。
 だが、空母部隊に攻撃が集中したため、上陸船団と橋頭堡はほとんど損害を受けなかった。英本土中枢から飛来した重爆撃機の群れも、難なく撃退して半数近くを撃墜していた。重爆撃機攻撃では、20mm機銃搭載型の各種機体が活躍した。

 かくして、アメリカ海軍は10隻もの空母が沈むか大きな損害を受けたが、英本国空軍各部隊では反復攻撃できない部隊が続出し、攻撃力はほぼ完全に尽きてしまう。健在空母が半数以上残れば、イギリス空軍、いや枢軸軍の敗北は確定的と、オペレーションリサーチでも出ていた。そしてこの地域のアメリカ艦隊は、稼働空母は高速空母だけで11隻健在で、護衛空母群も2群は特に問題もないので、その後の制空権維持は十分にできた。そればかりか、付近の英本土空軍を圧迫し続けた。しかも、少し離れた場所には、主力の空母部隊が戦っていた。
 しかしその日一日は、キンメル提督の部隊は敵空軍との戦いに忙殺されてしまい、余裕があれば行う予定だったイギリス主力艦隊への攻撃が行えなかった。そして他への攻撃が出来なかったのは、もう少し沖合に展開していた日本艦隊を中核とする空母部隊の主力も同じだった。



●フェイズ59「第二次世界大戦(53)」