●フェイズ64「第二次世界大戦(58)」

 1945年6月7日に英本土近海各所で行われた激しい戦いは、実質一日で終幕した。
 連合軍の正式な海戦名称は、総称で「ブリテン北部沖の諸戦闘」とされた。ただし日本では、主に「北英沖海戦」と呼ばれた。個々の戦いは「フェロー諸島沖海戦」、「ノースアイルランド沖海戦(航空戦)」、「ノース海峡海戦」、「ヘブリディース諸島沖海戦」、「アイラ島沖海戦」、「オークニー諸島沖海戦」と呼称された。枢軸側で違う命名もあったが、命名は特に問題ないだろう。
 そしてこれほど多くの戦闘が行われただけでなく、両軍が投入した戦力も未曾有の規模だった。
 連合軍は高速空母機動群だけで10個群、高速空母48隻。さらに上陸支援と補給や対潜哨戒など間接支援を含めた空母の総数は、実に90隻にも及ぶ。さらに今までの主力であり今回の戦闘の要となった戦艦は、新旧合わせて35隻投入された。しかも、複数の艦隊に分かれていたにも関わらず、作戦参加した全ての戦艦が砲撃戦を経験するという非常に希な状況となった。敵味方合わせて50隻以上の戦艦が、しかもバラバラの場所で砲撃戦を行ったという事は、この事だけでも希有な例であり絶後の例だった。
 空母や戦艦以外にも、非常に多数の艦艇が作戦に参加した。連合軍で作戦に参加した戦闘艦艇は、潜水艦を含む駆逐艦以上の大型戦闘艦艇だけで実に600隻を数えた。上陸部隊の艦船から上陸用舟艇まで加えると、数千隻にも達する。直接戦闘参加したのは、戦艦部隊が4艦隊、空母群が高速空母群が10艦隊、護衛空母群が4艦隊。艦艇数は450隻以上になる。これだけで、それまでギネス・レコードだったユトランド沖海戦を大きく上回る数だ。
 対する枢軸側は、空母15隻、戦艦17隻、水上艦艇約110隻、潜水艦約40隻を投入して、この全てが戦闘に参加した。他にも潜水艦を中心に50隻が支援に当たった。
 航空機の数は、連合軍が約4500機、枢軸軍が約2200機。航空機の差は一見二倍程度だが、連合軍は上陸作戦と海戦に先立って数の上で主力となる空軍機を叩いているので、海戦当日の枢軸軍の空軍戦力は約400機減少していた。だから枢軸側の航空機数は約1800機程度と記される記録の方が多い。
 言うまでもないが有史上最大規模の海上戦闘であり、両軍共に多数の艦隊に分かれて行動していた事もあって、状況は錯綜することとなった。

 戦闘自体は、連合軍の予測以上に混乱した。
 しかし連合軍は、完全に防ぎきれる戦力で作戦を実施していた。でなければ、乾坤一擲といえる非常に大規模な作戦を実施する筈がない。極めて大規模な渡洋侵攻だが賭博性、投機性は低く、連合軍は作戦を何度も兵棋演習(オペレーション・リサーチ)で確認していた。
 だが実際の戦闘は、枢軸側が今一歩及ばなかったと見られるほど混乱した。「もし〜」という前提も含めて、後世にも多くの題材を残した。混乱した原因は、枢軸側が一部突入部隊以外を囮として、自らの損害を省みず船団の撃滅だけを考えた作戦を実施したからだった。だが、枢軸側が船団撃滅のみを目的とした作戦行動は、連合軍もある程度は予測していた。その結果、日独の艦隊決戦となった「ヘブリディース諸島沖海戦」が実施されている。しかし連合軍にとって、枢軸側の異常とも言える積極性と戦意の高さは予測を上回っていた。「アイラ島沖海戦」では、自由イギリス艦隊が不退転の決意で防戦に当たらなければ、フランス艦隊に突破を許していた可能性も十分にあった。同様に「ノース海峡海戦」でも、イギリス本国艦隊にもう少し戦力と運があれば、最終的に撃滅されたとしても、上陸船団までたどり着けた可能性もあった。戦力に関しては、もう1個駆逐隊があればとよく言われている。
 アイルランド島北東部に上陸した連合軍の上陸船団は、もう少し戦闘状況が悪化していたら、上陸戦を半ば放り出して緊急撤退を開始するところだった。船団では出せる限りの戦闘艦艇を阻止に向かわせ始め、上陸作戦を止めて撤退の為の準備すらしていたほどだ。上陸作戦司令部では、命令書の起草も始まっていたほどだ。
 空母機動部隊同士の戦いは一方的だったが、戦艦多数を含む艦隊が、戦略を戦術でひっくり返す潜在力を有している事が、図らずもこの戦闘で証明された形だった。
 しかし枢軸軍の攻撃は完全に阻止され、ごく少数の航空機以外は上陸船団に攻撃することは出来なかった。連合軍の作戦はその後も順調に伸展し、ノースアイルランドに確固とした橋頭堡を作り上げることができた。
 上陸作戦を統括したアメリカ海軍のニミッツ元帥が勝利宣言を出したのは、6月7日夜の事だった。

 なお、単純な損害を艦艇の損失で見ると、連合軍が旧式戦艦1隻、軽空母1隻、護衛空母4隻、その他軽艦艇複数の沈没だったのに対して、枢軸側は空母11隻、戦艦8隻、その他多数の艦艇を失った。しかもイギリスの主力艦隊残余は、連合軍の制空権下にある地域に撤退したため、損傷と合わせて今後戦力として数えることは極めて難しい状況だった。他に生き残った艦艇も、大型艦艇を中心に多数の損傷艦艇を出したので、実質的には文字通りの全滅だった。一方で連合軍も戦闘の主軸となった戦艦と空母に多数の損害が出たが、こちらは沈まなければ修理可能だった。しかも損傷の軽い艦艇が多いので、当面の任務を継続するばかりか、修理も短期間で済んでいた。作戦は予定通り続けられた。
 結果として、海戦は連合軍の圧勝。枢軸側海軍は、二度と大規模海戦が出来なくなるばかりか、まともな艦隊を編成する能力すら失ってしまった。極めてランチェスター・モデル通りの結果でしかなかった。
 つまり枢軸陣営は、ヨーロッパ近海ですら制海権を完全に無くしてしまったのだ。
 連合軍を撃退するための「ラグナロック(神々の黄昏)作戦」は、戦術的にも戦略的にも完全に失敗した。
 これはノース・アイルランドが短期間で陥落する事と合わせて、戦争の帰趨を決定するほどの戦略的敗北だった。今までの戦争なら、講和を求めてもおかしくない程だ。
 だが、第二次世界大戦は、自由主義対全体主義、共産主義対全体主義のイデオロギー戦争だった。加えて欧州対非欧州の戦争でもあった。
 欧州対非欧州の事は少し脇に置くにしても、欧州各国の全体主義政権が倒れて排除される事が、連合軍側としての戦争目的であり、全体主義の総本山であるドイツとしては、決して受け入れられない事だった。
 このため戦争は変わることなく続いた。
 しかし、海戦の結果により大きな変化も起きた。

 6月9日、枢軸軍の空母機動部隊の残存部隊が各国の出撃拠点に戻ってきた時、出撃前とは政治状況が激変していた。イギリス本国の国王エドワード八世が退位を宣言し、そのままどこかに隠れてしまていたのだ。
 エドワード八世は、中立国のスイスやスウェーデンへの亡命も囁かれたが、とにかく玉座から消えて人々の前に姿を見せなくなった。また、姿を隠したのはウォリス妃などエドワード八世の近親者なども同じなので、政治的利用を嫌った上での国内のどこかへの潜伏説が有力だった。
 エドワード八世にとって二度目の退位だが、前とは大きく違っていた。1936年の退位は、即位一年にも満たない果たせぬ恋路に悩んだ末での退位だった。もっとも王室としての記録としては、453年ぶりの未戴冠という程度だった。しかしそれでも、この時もイギリスは大混乱となった。だが今回の混乱は、混乱という言葉すら不足する事態に陥ってしまう。
 戦争遂行中、しかも苦戦からの惨敗の結果、退位してしまったからだ。その上、「イギリス連邦自由政府」という敵の亡命政府には、ジョージ六世が「正統な連合王国の国王」として君臨していた。しかもこの時点で、英本国以外の全ての英連邦、イギリスの植民地は、イギリス連邦自由政府の統治下に治まっていた。この段階での退位と亡命は、昔なら負けを認めたと取られても問題ない政治的行動だった。しかもエドワード八世は、退位に際して敗戦の責を取って退位するいう文書だけを残し、誰を次の王位に据えるかについては何も残していない。
 そして英本国の王位は空位となった。

 ポーツマスなどに帰投した艦隊に対して、イギリス本国政府はねぎらいの言葉をかける余裕すら無かった。
 ハリファックス首相は完全なオーバーワーク状態で、政府と事態の双方をまったく制御できていなかった。そうした中で、イギリス本国内で祖国を「正しい状態」にしようと主に水面下で動いていた人々が、俄に活動を活発化する。彼らは、戦争が本格化してイギリス本国が枢軸陣営となってからも、全体主義を是としない人々を中核としていた。そこにカリブでの戦い、ロシア戦線での敗北以後増えるようになった同調者を加えて、活動の幅を広げていった。彼らの動きは、本来ならイギリス本国政府の諜報組織、警察組織、さらには軍(憲兵組織)からマークされ、そして逮捕されるか、そうでなくても活動できない状態にされていただろう。だが、現状が正しくないと思うイギリス市民の数は多く、見逃されたり、実質的なサボタージュで報告されなかったりした。
 流石にあからさまな利敵行為は摘発されたが、それ以外は概ね活動を黙認された状態だった。これは、多くの者がパブやサロンなどで愚痴をこぼす程度の場合が多かったからでもあった。実質を伴う行動をする者は少数派で、さらに明らかに枢軸軍、イギリス本国に不利益をもたらす者は少なかった。そして不満を持つ者の多くは、いわゆる伝統階級に多かったので政治的にも手を出しにくかった。民衆にとっては、ドイツに負けて従うことは気に入らないが、生活に大きな支障がなければ大きな問題では無かったからだ。それにヨーロッパ全体として、裏切り者(自由英)、植民地人(アメリカ)、東方の蛮族(ロシア)、そして有色人種(日本)と戦うことに対して、肯定的な者の方が多数派だった。この点では、ナチスの宣伝省のプロパガンダは効果を発揮していた。
 こうしたイギリス本国内の状態は、ドイツもある程度掴んでいた。特にゲシュタポの名で有名な秘密警察、ヒムラー率いる一般親衛隊などが、ある程度情報を掴んだ。だが、他の欧州枢軸諸国と違って、イギリス本土の事はイギリス人が仕切っているため、表だって手は出せなかった。イギリス本土には、公的には駐在武官や連絡員として少数の者が送り込まれているだけで、何かをする場合も命令ではなくあくまで要請しか出来なかった。これはヒトラー総統が強く望んだ事であり、イギリス本国を対等の同盟国として留め置くために非常に重要な事と捉えられていた。実際問題として、海の向こうにあるので大軍でも駐留させておかないと、一度反抗的になったイギリス本土を制御することは、ドイツには不可能だったからだ。
 もちろんドイツ(ナチス)もこれで済ませるわけではなく、水面下では多数の人員を派遣して、さらに秘密裏に工作員や諜報員を送り込み、イギリス人の情報収集要員を確保していた。ただし他国へのこうした干渉に対しては、英本土の同種の組織も対抗したり妨害してきたため、ドイツが考えたほどうまうはいかなかった。だが、ドイツが英本土を信頼していないことを伝えるには十分で、英独の表向きの蜜月関係が共通の敵を倒すためだけのものだと両者共に了解していた。
 だからこそ、ドイツは英本土で起きた事件を警戒したのだが、突然の亡命劇で現実のものとして頭をもたげてしまう。

 しかも退位から2日後、連合軍の上陸前から不眠不休だったハリファックス首相が倒れてしまう。そしてその後、英本国政府は新内閣を発足する事は無かった。それが政治的な結果だった。
 ハリファックス首相が倒れた理由は、過労、心労が原因とされた。実際、議場で突然倒れて緊急入院していた。議員を始め、目撃者も多数いた。このため責任から逃れるための雲隠れだという話しは立たずに済んだが、政治的にはもはや彼一人の事はどうでもよい状態に陥っていく。
 新内閣発足まで、副首相だった労働党のクレメント・アトリーが首相代行となったが(※ハリファックスは保守党だが、挙国一致内閣を形成していたため。)、事態が好転することは無かった。むしろ坂道を転がるように、事態は急展開していった。
 英本国を動かすのが政治家ではなく、民衆となっていたからだ。そして民衆を動かしたのは、食べ物が無くなり自分たちが孤立したと考えたからだった。

 英本国は、1940年夏以後、ナチス政権を中核とするドイツ第三帝国の同盟国となった。そしてそれを良しとしない人々が、カナダに亡命して英連邦自由政府を作り、大英帝国は二分されてしまう。
 分裂当初、英連邦自由政府はほとんどカナダだけだった。他は英本国に属し続けていた。しかし戦争が進むと、英本国は次々に植民地、自治連邦を失っていく。そして1944年に入る頃には、英本土以外のほぼ全てが英連邦自由政府の統治下に治まっていた。そして英本国が属した陣営も、ほとんどヨーロッパだけに押し込められていた。
 この事は、英本土にとって極めて深刻な事態だった。政治的にはもちろんだが、生存面で酷く脅かされた状態に置かれたからだ。
 というのも、イギリス本土は世界中に植民地を有したことで、食糧生産の多くを海外植民地に依存するようになっていた。海外の広大な農場で作る小麦の方が、英本土の農家が作る小麦より格段に安かったためだ。そして大英帝国と言われるように、英本土と海外の制海権を維持できる世界帝国が維持されている時はそれで良かった。
 この点で最初に脅威を受けたのは第一次世界大戦だが、辛うじて乗り切ることができた。そして弱点が表面化されたが、特に改善されることは無かった。第一次世界大戦のような事態が、今後起きる可能性は低いと常識的に考えたからだ。また、今までの状態を変更するとなると大きな負担が発生するし、経済的にも大きく変更することが難しかった。
 そして第二次世界大戦が始まっても、しばらくは問題なかった。問題が深刻化したのは、1942年にオセアニアが寝返り、続いてインドが失陥した頃だった。そして1943年秋に大西洋の制海権を失って、問題を目の前に叩きつけられることになる。
 それでも足りない食糧や資源は、少なくとも戦争中は欧州各国からの輸入に頼れば良かった。幸いフランスは農業大国だし、1942年度からはロシアの穀倉地帯であるウクライナから、欧州各地に穀物がもたらされるようになった。
 だが、1944年冬になるまでに、ウクライナの多くがソ連軍を中心とする連合軍に奪回されてしまう。
 これで欧州全土に食糧不足という激震が走る。それでも1944年のウクライナ東部の収穫物の多くは何とか入手できたので、1945年の欧州全土の収穫期までは大丈夫だった。しかし不足するようになったのは間違いなく、英本土では羊の放牧地が次々に畑に姿を変えた。それは第一次世界大戦の頃にも見られた情景だった。しかしそれでは足りないので、さらに各家庭の庭も潰してジャガイモ畑が作られた。また、多数の穀物を必要とする家畜の飼育についても、特に食肉用は大幅に削られた。砂糖の原料となる甜菜(ビート)の栽培も作付けは出来るだけ減らされ、穀物か穀物の代替となる豆などの作物に転換された。乳牛や鶏、アヒルまでもが減らされた。
 それだけしても、英本土単独での食糧自給は不可能だった。
 平和が訪れるまで、ドーバー海峡を維持することは戦争を継続する上での至上命題だった。そうしなければ英本土政府は、敵の攻撃ではなく、食糧を求める市民の声によって瓦解することとなる。ブリテン島の歴史上、今まであり得なかった事態だ。
 また、不足するのは食糧だけではなかった。近代国家の血液と言われる石油事情は、1943年以後悪化こそしても改善されることは無かった。航空機用を含めたガソリンは、採算度外視で石炭から人造ガソリンを精製しているのでまだ不足するほどでは無かったが、重油など安価な石油精製物は備蓄以外はルーマニアのプロエシュチ油田だけが頼りだった。しかしその石油の多くは、まずドイツが消費してしまった。艦隊が行動するための燃料だけは例外とされたが、それですら訓練も十分にできない状態だった。
 そして民間船舶の燃料が大きく規制されると、これもドーバー海峡を越える物資の流れを制約する大きな要因となった。運行される民間船の主力が、石炭を動力とする旧式船に移ったが、既に旧式船は大きく減少していた上に維持管理が大変なので、効率は落ちる一方だった。道路を走る車も、石炭を動力とするようになっていた。
 当然だが、市民生活にも大きな制約が課されており、重要戦略物資の配給は当たり前だった。
 そうした中で、恐れていた事態が訪れたと当時の市民達は考えた。

 連合軍がノースアイルランドに上陸し、英本土の軍人達はもはやそれを追い返すことが出来なくなった。この時点で海軍壊滅の情報は出ていなかったが、戦いに負けた以上、何が起きたのかは子供でも分かることだった。
 今後連合軍は、ノースアイルランドを拠点として英本土を爆撃し、そして海上封鎖すると考えられた。そしてヨーロッパからの増援や援軍、物資の流れを絶った上で、英本土に侵攻して自由政府が全てを奪い返すと考えられた。この場合、連合軍がいつ英本土に攻め寄せるかが問題だった。普通に考えれば、一年後の今頃(46年初夏)だろうと予測された。流石の連合軍も、守りを固めたブリテン島への侵攻は簡単ではないだろうと思えたからだ。
 つまり今後1年間、英本土は連合軍の手によってヨーロッパ大陸から孤立させられることになる。これは援軍や増援だけでなく、食糧を含む全ての物資の流れが止まることを意味している。もちろん英本国軍は、総力を挙げてドーバー海峡の海路を維持しようとするだろうが、ノースアイルランド上陸を阻止できなかった軍に、多くを期待するのは間違っていた。
 そしてさらに、より深刻で直近の問題が横たわっていた。
 今は6月で次の収穫が得られる9月まで、英本土に備蓄されている食糧が足りないのだ。これは噂ではなく事実で、英本土より早く収穫される地域からの穀物輸入が必要不可欠だった。だが、ヨーロッパ中が窮乏しつつある状態で、事前に多くを英本土に持ってくることは不可能だった。食糧を輸出することはどの国も嫌がるし、盟主ドイツですら例外では無かった。むしろイギリスに次いで食糧が足りないのはドイツで、ドイツとイギリスはまるで食糧を奪い合う状態に陥りつつあった。
 ドイツ政府もイギリス本土の窮状は理解していたが、ドイツ自身を差し置いて事前にイギリスに大量の食糧を渡すことは出来なかった。
 そしてさらに、食糧不足の問題は隣国のアイルランドにも及んでいた。
 連合軍がヨーロッパと世界の交通路を遮断し、ヨーロッパ各国は食糧の輸出を渋るようになれば、農業生産力が高いとは言えないアイルランドでも食糧が不足してしまう。アイルランドは中立国だが、連合軍としてはアイルランドの船とヨーロッパ諸国の船を見分けるのは難しいので、買い付けに行かせることもできない。
 この事が、アイルランドが連合軍に参加するかもしれないという理由の一つだった。
 しかし連合軍がノースアイルランドに攻め込んだ事で、逆にアイルランドが連合軍に参加する可能性はほぼ無くなり、この件だけが連合軍のノースアイルランド侵攻の利点だった。
 だが、利点を大きく上回る欠点が横たわっていた。そしてその事を、全てのイギリス市民が感じていた。

 「市民にパンを! ブリテンに国王を!」
 このスローガンを掲げたデモが起きたのは、ほとんど偶発的かつ自発的だったとされる。デモの発生は6月11日朝のロンドン市街の下町からだった。しかしデモは瞬く間に伝染して広がり、昼頃にはロンドン中心部を目指す数万人規模のデモとなった。この時点でラジオが「ロンドン市民がパンを求めて行進中」と放送するとデモは爆発的に膨れあがり、トラファルガー広場を起点として、政府庁舎、バッキンガム宮殿など政府中心部の街路を埋め尽くす規模にまで膨れあがった。
 政府はこれを制御しようとしたが、ほとんど無駄だった。
 デモは食糧を求めたものから現政権への批判へと変化し、そしてファシズム、ナチスへの批判へとなり、ドイツ排除の声となっていった。
 だが、巨大化したデモは、直接的に戦争を止めさせようとしたので無ければ、革命を求めたのでも無かった。人々は、然るべき人々に義務と責務を果たすように求めた。つまり、国王と首相不在の状態の中で、議会こそが役割を果たして、行く末を決めるべきだと訴えたのだ。
 そして民衆の声を受けた議員達は、副首相、議長など全ての者が即日で、緊急議会の開催を決める。会議に間に合わない者は置いていかれる状態だったが、ブリテンの明日を決める議会のために、ロンドンに居なかった議員達も万難を排して議場へと向かった。
 緊急議会は6月13日午後1時開催。
 そこでイギリス本国の命運が決せられる事になる。
 議案は11日深夜に提出されており、形ばかりの各党首代表などによる答弁と演説の後、全てを決する事となる。
 本来なら長い時間をかけて作り上げる議案は、ほぼ即決で決められた「ジョージ六世を君主として認めるか」。
 国民の声の一つを汲んだ形だ。そして一見当たり前の議案だが、認めてしまうと英本国は形式的ではあるが、ほぼ自動的に英連邦自由政府と一つになる事を意味する。何しろ国王は「君臨すれど統治せず」の言葉通り、国家元首だからだ。
 しかもこの場合、英連邦自由政府を英連合王国の正式な政府と認める事とも取れる。そしてそうなると、現在存在している英本国政府は自ら法的根拠を失う。そればかりか、国家や政府ですら無くなってしまう。何しろ英連邦自由政府は、英本土の政府でもあると宣言していたからだ。ジョージ六世を自らの君主と認めてしまうと、現在の英本土政権は不法占拠している勢力でしかなくなる可能性があるのだ。
 もちろん全ては形式的だが、その形式を英本土の人々が進めてしまえば、形式は形式ではなくなり実質を伴う。
 つまり一瞬にして、枢軸陣営としてイギリス(連合王国)は消えてなくなり、唯一英本土自由政府だけが英本土の政府となる。そして英本土は、自動的に欧州枢軸軍から連合軍に鞍替えできる事になる。

 この議決を、ドイツは止めることは出来なかった。実質的にわずか1日で事を起こすとは誰も予測できず、ドイツ大使館からは緊急電文が暗号を組まずに飛んだほどだった。ヒトラー総統は、外務省を通じて「大ブリテンの議員諸君が、理性的判断を下すことを強く期待する」と声明を出すのが精一杯だった。後世の一部から批判されるように、軍事力を用いて阻止する事はどう考えても不可能だった。
 一方連合軍も、イギリス本国の突然の動きに驚いていた。
 連合軍としては、今回のノースアイルランド侵攻は、英本土侵攻の第1段階に過ぎなかった。確かにノースアイルランドを奪うことで、政治的動揺、民心の不安を煽ることは目的としていた。ブリテン島侵攻の前には英本土を封鎖する積もりでもいた。
 しかし、突然エドワード八世が退位して、英本国政府が消えて無くなろうとしている事は予想外というか、想定には全くなかった。しかも英本国政府が降伏という政治的手続きを無視して、英連邦自由政府に合流しようとしている事は、連合軍の戦争の大儀の上であってはならなかった。
 連合軍の全権大使などが集まっているニューヨークでは、短時間の激論が交わされた。そしてその上で英本土時間の13日早朝までに、連合軍の総意として「英本国政府がファシズムからの脱却を図るのは非常に好ましい。そして理性的判断を下すことを強く望む」と声明を出すに至る。
 ドイツ、連合軍双方ともに「理性的判断」の言葉を最後に置いたのが、奇妙な一致であると同時に、両者共に突然の変節は誰も望んでいない証拠だった。
 しかし英議会の議決の結果、ジョージ六世が正統な君主と認められることなった。そして君主制と民主主義に従うことを常とするイギリスとしては、以後はジョージ六世の治世下に治まる事を宣言しなければならなかった。
 そして英本国の変節が一気に動きだす。

 宣言のあったその時から、イギリス本土にいる枢軸諸国の要人、外交官、軍人は身動きが実質的に大きく制限されてしまう。実質的に軟禁状態に置かれた者も少なくなかった。加えて、ドーバー海峡を始めとして英本土とヨーロッパ大陸の交通も実質的に遮断または封鎖された。
 英本国政府は戦争と外交に関して何も宣言もしていなかったが、君主がジョージ六世になったということは、法的には連合軍として立つ事を意味しているからだ。
 そしてその日、前線となっているノースアイルランドで、決定的といえる動きが出た。
 現地英本国部隊が、連合軍に対して臨時休戦を申し入れたのだ。連合軍も受動的ながらこれを受け入れ、合わせて両軍の全軍が半ば戦闘行動を中断してしまう。
 ノースアイルランドの戦況は、すでに連合軍が内陸部、具体的には中心都市ベルファストへの進軍を開始しようとしていたが、もう何もかもが実質的な意味を失っていた。
 イタリアより簡単かつ短期間で、欧州枢軸としてのイギリスが消滅したのだ。

 その後は、政治的のやり取りが連合軍、枢軸軍双方で激しく矢継ぎ早に行われ、6月中には英本国政府と英連邦自由政府は合流し、英連邦自由政府が全ての英国政府となった。
 英本国政府が形式上降伏して政府を解体したのは、1945年6月28日。流石の連合軍も一度降伏させておかないと、政治的に英本土を自陣営に迎えるわけにはいかなかった。また英本国政府の降伏は、英連邦自由政府が強く求めたものでもあった。全ては戦争の大儀のためだ。そしてそれを行わなければ、英本土内にいる全体主義者(ファシスト)、ナチス支持者、信奉者への処罰などが有耶無耶にされてしまう可能性があったからだ。この点だけは、連合軍、英連邦自由政府共に受け入れることは出来なかった。そして英本国政府もスケープゴート、生け贄の必要性は理解していたので、自らが鞍替えする事への供物を用意することも忘れなかった。
 かくして英本土は、本格的な夏を迎える前に連合軍の陣地となっていくのだが、その前に物理的に大きすぎる問題が横たわっていた。
 と言っても、軍事的な問題ではない。

 先にも挙げた、英本土での食糧問題の解決だ。
 この解決のため、以後秋までの連合軍は、軍隊を英本土に入れるよりも、輸送船を総動員して食糧を運び込むことに全力を傾けなければならなくなった。ブリテンに運び込むのは食糧だけでなく、燃料資源にはじまる英本土で不足するありとあらゆる生活物資に及んだ。しかし、連合軍も自分たちが予定していた英本土奪回後に同種の問題が発止することは折り込み済みだったので、既に北米大陸東岸各所にはかなりの物資が備蓄、準備されていた。予定していたより三ヶ月から半年も早く必要になったが、もともと膨大な量が必要なのは分かり切っていたので、既にかなりの物資が準備されていた。輸送船もある程度は手配されていた。問題は今すぐに運び込むことだが、それも上陸作戦を始めとした戦闘が無くなったので、アイスバーグ作戦に参加していた輸送船を動員して物資を運び、作戦参加していた艦艇に護衛させた。何しろ、上陸した兵士達も食糧以外はほとんど消費しなくなったので、輸送船は有り余っていた。
 英本土の当座の防衛は、今まで連合軍に牙をむいていた英本土軍がヨーロッパ方面に布陣しなおせばほとんど事足りたので、連合軍の仕事は彼らにノースアイルランド上陸作戦後に使う予定の物資を渡すことぐらいしかなかった。もちろん、一部では形式的な降伏手続きに伴う武装解除も行われたが、イギリスが一つの鞘におさまった以上、今まで自由政府だった英国政府にさせれば良かった。
 そして7月25日にジョージ六世はバッキンガム宮殿に返り咲き、政府首班だったウィンストン・チャーチルは、7月26日にロンドンの国会議事堂に首相として壇上に登ることになる。
 なおチャーチルは、英本土に再上陸したとき、地面に頭を垂れて祖国の地面にキスをして滂沱の涙を流した。これを政治的パフォーマンスだという意見も強いが、涙は本心だったのではとも言われている。5年近い流浪の歳月は、それほど重く苦しいものだったからだ。

 一方、英本土が枢軸から離脱して連合軍におさまる間、欧州枢軸は呆然と眺めていたに等しかった。戦況が軍事的行動を起こすゆとりを与えなかったからでもあるが、あまりの急展開と変節に呆然としたという事で間違いないだろう。特に「イギリスに裏切られた」ヒトラー総統の落胆とその後の怒りは非常に大きく、以後のヒトラー総統の猜疑心は一層強まる事となる。
 そしてイギリスへの怒りは、二つの作戦の実行へと移された。
 一つは英本土への爆撃。もう一つは、連合軍が英本土に運び込む物資の阻止だ。
 英本土への爆撃は当座の戦力がほとんどないので、夏頃までは全く実施できなかった。その後は世界初の弾道兵器が登場してくるが、それは少し先の話しだ。
 物資の阻止は、壊滅したばかりの海軍に命令された。といっても水上艦隊はほとんど全滅したので、命令は主に潜水艦に命じられている。ここでドイツ海軍は、残存していた潜水艦の多くを、敵艦船や上陸船団ではなく輸送船に向ける事になる。
 本来の仕事に戻ったと言えるが、以前と比べると状況は一変していた。
 連合軍には、無数の護衛空母、護衛駆逐艦、対潜哨戒機、それらが搭載する聴音装置、音波探知機、磁気探知装置、レーダー、各種爆雷、さらには対潜誘導魚雷まであった。
 しかも実戦を経て優れた練度を誇っており、ドイツ海軍が投入した革新的性能を有する「XXI型」潜水艦でも十分な戦果を挙げることは難しかった。同潜水艦は1944年秋頃から戦線投入が始まり、ラグナロック作戦にも動員できる限り作戦投入されたが、連合軍の優れた装備と戦術の前に苦戦を強いられた。
 当時は艦艇が18ノット以上出すと潜水艦の音を拾えなくなるのだが、連合軍は空からの監視を重視して海空連携で制圧にあたったため、水中速力が速い以外で大きな利点が無くなっていた。
 また、水中でも一時的ながら20ノットが発揮できても、昼間だと飛行機が無数に飛び交う状況では魚雷を放つ深度に浮上もできず、実質何も出来ないに等しかった。もちろん戦果は皆無では無かったが、連合軍が受ける損害は全体の1%程度でしかなかった。それに引き替え損害は多く、一月もしないうちに作戦を中止せざるを得なかった。

 そして潜水艦がかつての魔力を失い、洋上の騎士達が潰えたドイツに、海で何かが出来る事はもはや殆ど残されていなかった。


●フェイズ65「第二次世界大戦(59)」