●フェイズ66「第二次世界大戦(60)」

 連合軍の対南フランス作戦は、事前作戦の航空撃滅戦が1945年4月半ばから開始された。このタイミングは、イタリアでの上陸作戦(アンツィオ上陸)が一段落したタイミングで始められており、かなりタイトなスケジュールだった。しかし地中海全域での補給体制の充実と共に、作戦専門の空軍部隊は十分な時間がとられていたので、特に問題もなく作戦が開始された。当時の地中海は、連合軍機で溢れかえっていた。

 連合軍空軍の主力は、戦闘機と戦闘爆撃機、そして中型攻撃機だった。そして無数の機体で、目標を虱潰しで爆撃し、しかも何度も反復攻撃することで、攻撃の効果を何倍にも引き上げていった。4発の大型重爆撃機を多数保有するアメリカ第8航空軍と日本海軍第11航空艦隊は、リヨンなど南フランスの地中海沿岸に至るフランス内陸部を攻撃していた。日本海軍の「連山」は、洋上での優れた機動性を有する大型攻撃機だが、大型機は中高度以上を飛んでくると言う固定観念の隙を付くことで、低空での地上攻撃で大きな戦果を挙げていた。しかも遠距離攻撃でも十分な護衛機を連れてきているため、現地フランス空軍では阻止することが難しかった。それ以前の問題として、フランス空軍は既に数が少なく、その少ない戦力も沿岸部に殆どを集中した。そしてリヨンは、内陸部の集結地点や部隊再編成の中間拠点だった。このため連合軍によるリヨン空襲は、フランス空軍の戦略の根幹を揺るがすような攻撃となった。連合軍もそれを期待して大規模な攻撃、夜間爆撃、ハラスメント目的の少数機による奇襲を繰り返し、フランス空軍の能力を効率よく殺いでいった。当然フランス空軍も、連合軍の内陸への攻撃を阻止しようとしたが、地中海沿岸の基地は内陸以上に激しい攻撃にさらされたので、自分たちの上を通過していく4発機と単発機の群れを見送るしかなかった。
 連合軍の主な出撃拠点は、北アフリカのアルジェ、チュニスを日米の戦略空軍が利用したのと対照的に、ほとんどがサルディニア島に展開していた。南仏海岸により近いコルシカ島は、山がちな地形のため大規模な空軍基地が展開できないし、流石に敵に近すぎるためだった。サルディニア島も1万機もの機体が展開するには狭いのだが、大量の土木機械を持ち込んで無理矢理基地を拡張したり、土地を現金即決で買収して畑に飛行場を作った。連合軍がサルディニア島を奪回したのも、イタリア王国に心理的打撃を与えるよりも、拠点として確保するためだった。また規模は小さいながら、コルシカ島南部にもいくつか航空基地が構えられた。
 中距離、近距離戦での空戦、空爆の主力はアメリカ第3航空軍、アメリカ第6航空軍、日本陸軍第3航空軍で、書類上は旅団規模の救国フランス空軍は、犠牲が大きくなってはいけないため簡単な任務以外では形だけしか出撃しなかった。

 戦闘機は既にお馴染みとなっていた「P-47D サンダーボルト」、「P-51D ムスタング」,「川崎 一式重戦闘機 飛燕III型」,「中島 三式戦闘機 疾風」が主力だが、「サンダーボルト」と「ムスタング」、「疾風」はさらなる改良型が戦線投入され始めており、レシプロ戦闘機戦力は個々の性能面でも完全に欧州枢軸を圧倒していた。ただし、それぞれの本国で急ピッチで開発の進んでいたジェット戦闘機は、アメリカ、日本共にこの頃の戦闘には間に合わなかった。
 戦術型の中型攻撃機は、基本的に「ノースアメリカンB-25 ミッチェル」、「マーチンB-26 マローダー」、「ダグラスA-20 ハボック」
「ダグラスA-20 ハボック」が中心で、特に生産性に優れて価格も安いB-25がいまだに数の上での主力だった。
 B-25は戦争の全期間、全ての戦場で全ての国の標識を付けた機体を見ることができるため、「UNボマー」と呼ばれたほどだ。生産数も他を大きく突き放す2万機以上が生産されていた。そしてこの頃は、20mm機関砲、M2重機関銃を満載したガンシップタイプが、低空攻撃で猛威を振るっていた。日本陸軍が非常に気に入った「ダグラスA-26 インベーダー」はなかなか数が揃わず、アメリカ陸軍航空隊にも未だに十分な数は配備されていなかった。このため一部の精鋭部隊が装備する機体となっており、性能と合わせて高い戦果を記録するも、全体としての活躍は低調のままに終わっている。
 また、戦術爆撃の大きな割合を占める戦闘爆撃機だが、連合軍のどの機体でも十分な働きができた。特に丈夫な「P-47D サンダーボルト」が、戦闘機の中では活躍している。
 「F4U コルセア」戦闘機も、アメリカ海軍や海兵隊だけでなく日本陸軍、自由フランスも広く使っていた。特にアメリカ海兵隊の主力機と言ってよく、海兵隊のいる戦場では多くの姿を見ることが出来た。特徴的な急角度の逆ガル翼を持つし上陸戦でよく見かけるため、「ガル(鴎)」と将兵達からも慕われていた。
 また単発爆撃機、攻撃機といえば日米の海軍機になるが、日本海軍航空隊の第十一航空艦隊の一部航空隊も、空母艦載機と同様の様々な小型機を装備していた。日本海軍には4発重爆と飛行艇以外の攻撃機は、艦載機と同機種の単発機しかないためだ。アメリカからのレンドリースも、「F4U コルセア」戦闘機しか見られなかった。
 そして空母以外で急降下爆撃機を日常的に使う空軍と言えば、連合軍では日本海軍(第十一航空艦隊)だけだった。そして日本海軍の艦上爆撃機といえば愛知飛行機の機体なのだが、この頃には空母部隊と同様に「愛知 四式艦上攻撃機 流星」が配備されつつあった。「流星」は単発機ながら最大で1.6トンの搭載量を誇り、大戦初期の中型機に匹敵した。しかも高速で雷撃から急降下爆撃までが可能な万能攻撃機で、相手が攻撃機や爆撃機なら戦闘機のような任務までこなせた。この作戦の頃の数は150機程度だったが、連合軍空軍の一翼として精密爆撃に威力を発揮している。また戦闘爆撃機としても優れていた「烈風」は、長距離進出能力に優れている点を買われて、「連山」の護衛として連日フランス内陸部へ出撃を繰り返していた。

 連合軍の事前空爆は、戦力差1対10以上という圧倒的差で開始され、航空撃滅戦が始まってから僅か2週間で、南フランスのフランス空軍は少なくとも沿岸部では活動不能に追い込まれてしまう。
 ドイツ生まれのジェット戦闘機「ミラージュ」も、掩蔽トンネルなどから懸命に出撃するも、戦果ははかばかしくなかった。主な相手はアメリカのモンスター「B-29 スーパー・フライングフォートレス」と日本の「連山」だったが、まず護衛の戦闘機を突破するのが難しく、さらに「B-29」は全ての面でモンスターといえる性能のため、撃墜や撃破されるよりも故障で落ちる方が多いという状態だった。「連山」も異常なほど丈夫な機体な上に、やたらと運動性が高くしかもジェット機が苦手としていた低空で護衛機に守られているため、ほとんど手が出せなかった。「He162 サラマンドラ」も初戦では連合軍機を驚かせたが、戦果は芳しくなく損害の方が圧倒的に多かった。連合軍パイロットが「勝手に落ちていく」と言ったほどだ。
 ジェット機以外の各種レシプロ機も奮闘はしたのだが、圧倒的な数の差はどうにもならなかった。フランス空軍にもイギリス本国とドイツから導入した航空管制とレーダー網が本国にはあったのだが、レーダーは片っ端から潰され、航空管制をしても意味のない程の戦力差だった。
 つまり南仏の制空権は、連合軍の予定よりも早く連合軍が握ってしまった事になる。このため作戦の前倒し論が連合軍で言われたが、揚陸用艦艇、資材の収集、空挺部隊の準備のため作戦日程を動かすことはできないため、各国空軍は作戦範囲を広げた航空撃滅戦をさらに展開する事になる。
 戦術爆撃の対象も、少し早く内陸に入ったリヨン近辺まで拡大され、重爆撃機はさらに内陸のフランス中部の鉄道と道路を吹き飛ばすようになる。飛行距離は片道で1000キロを越えるが、護衛の戦闘機はサルディニア島から飛び立つため、大西洋を横断できるような重爆撃機にとっては、どうと言うことはない距離でしかなかった。護衛の戦闘機も「ムスタング」なら1000キロもの作戦行動半径を誇るので、その気になればパリにまで飛んでいく事ができた。イタリア方面でも、この時期ぐらいからナポリやローマに戦闘機隊が多数展開するようになっていたので、南ドイツにまで出撃するようになっている。
 そして、枢軸軍機を数で圧倒して空から追い出した連合軍機が主に狙ったのが、鉄道と道路だった。大規模な鉄橋やトンネル入り口、そして操車場は、対空砲などの防備も堅いし、修復できないほど壊してしまうと自分たちが使うときに困るので爆撃対象外とされたが、他は手当たり次第に破壊した。さらにそこを走る列車と車も容赦しなかった。
 このため6月から本格化していた援軍としてのドイツ軍の南仏移動は、ほとんどまともに出来ていなかった。移動は夜間、しかも照明をほとんどつけずに動かなければならなかった。
 そして枢軸側は、守るべき場所が多すぎるので、多くの人的資源を防空に費やさざるを得なくなっていた。これは1944年夏頃まで見られなかった状況で、ヨーロッパの人的資源の運用と戦争経済を一気に悪化させていた。
 連合軍の南フランスへの航空撃滅戦は、そうしたヨーロッパの状況を進めると同時に大きく悪化させる象徴的な出来事でもあった。

 南フランスでの航空撃滅戦から約2ヶ月が経過した。
 いよいよ上陸作戦であり、この時までに英本土のノースアイルランド上陸作戦が成功し、欧州枢軸の主要海軍力は壊滅し、そして英本土では国王が退位して首相が倒れ、議会は連合軍に鞍替えしようとしていた。
 作戦発動直前は、友軍の朗報が矢継ぎ早に飛び込んでくるため、連合軍将兵は自分たちも続こうとさらに意気込み、枢軸軍将兵は士気をより低下させた。
 そうした中で、いよいよ「ドラグーン作戦」が発動される。
 1945年6月13日に予定通り作戦は開始され、南フランスのツーロン東方沖合に既に各地を出発して集結を終えていた連合軍の大艦隊が出現する。出現した大艦隊の支援部隊は、ノースアイルランドに比べると戦艦の数が少ないが、巡洋艦の姿は比較的多く見られた。そしてどの大型艦も、盛んに艦砲射撃を実施した。まずは、空爆で破壊し損ねた、または空爆では破壊の難しい目標を破壊するための艦砲射撃だった。また、いまだ見つかっていない沿岸砲などが艦隊に対して火蓋を切った場合、これを破壊する任務も負っていた。また艦砲射撃と平行して、急降下爆撃を含んだ陣地爆撃も激しく行われた。
 艦砲射撃と空襲は翌日も行われたが、今度は機雷を除去する掃海部隊、上陸障害物を取り除くためのダイバー部隊などが沿岸部に現れ、艦船や航空機の支援を受けつつ上陸予定地点の地均しを行っていった。
 この時点で上陸箇所が明らかになり、全軍に警戒警報が発令され、内陸部の防御部隊が動き始める。しかしフランス軍の動きは、思い通りにはいかなかった。
 上空には、白黒の侵攻帯を描いた無数の連合軍機が飛び交い、連合軍の制空権は絶対と言えるレベルだった。南フランス沿岸の空軍基地は全て活動不能に追い込まれており、場所によっては完全破棄されていた。フランス軍機を見たければ最低でもリヨン付近まで行かねばならず、そこを飛ぶのも少数の防空戦闘機程度だった。既にイギリス本土が事実上寝返ったため、予備部隊を名目に拘束していた北西部の部隊を動かすことが出来ず、あまつさえ既に南部に増援に送り出していた部隊を、慌てて北部沿岸に戻していたほどだった。
 故に空から連合軍を脅かす者はいなかった。上陸作戦前後に上陸地点近くを飛んだ枢軸軍機は、レーダーを搭載した夜間偵察機が少数あるだけだった。

 そして安全な空を通り、14日深夜に1000機を越える連合軍の大編隊がサルディニア島各地からツーロン東部に至る。三個師団規模の空挺降下作戦の開始だ。
 この空挺作戦に参加した将兵は、合わせて2万8000名。部隊は、アメリカ第82空挺師団、アメリカ第101空挺師団、日本陸軍第一空挺団、救国フランス第一空挺旅団、自由オランダ空挺団、自由ポーランド空挺団の多数にのぼる。しかもクレタ島作戦と違って部隊が限られた場所に集中して降下したため、もし空が明るければ非常に壮観な光景を目にすることができただろう。しかし降り立ってきた将兵達は、危険な訓練を積んでこの大規模夜間降下作戦に参加していた。
 フランス軍も、連合軍が上陸作戦に連動して空挺降下部隊を送り込んで来ることは予測していたが、規模が大きく違っていた。
 しかも、夜間という危険を冒して降下してきたパラシュート部隊は、一部が風に流されて散らばった以外、ほぼ所定の場所に降下することができた。重装備や落下降下しない兵士を乗せた無数のグライダーも畑などの平地に強引に着陸していった。
 グライダーの中には新型機も含まれており、かなりの大容量と積載量を持つ機体もあった。そうした機体からは、今までよりも強力な空挺戦車や機動性に長けた軽装甲車、さらには軽い75mm榴弾砲や中型の迫撃砲などが搭載されていた。そうした装備で武装した空挺部隊は、並の歩兵部隊よりも重装備なほどだった。
 そうして使用された輸送機、グライダーの中には日本の中島飛行機が製作した「四式特型輸送機」があった。同機体は、ロシア戦線で満州軍が捕獲した状態の良かったドイツのグライダー「Me321 ギガント」を殆どコピーの形で生産したものだった。さらにドイツ同様にエンジンを装備した輸送機型(※中島製の安定性の高いエンジンを4基装備。)もあり、どちらもこの作戦を初陣として投入されている。しかし同機体は、空挺作戦には向いているが通常の輸送任務に向いているとは言えないため、アメリカ軍を始めとした連合軍内ではあまり有効とは判定されていなかった。また、消耗前提の機体を必要以上大型化することに対しても、否定的な意見も強かった。日本陸軍にとっては、消耗するにはエンジン搭載型は少し贅沢だった。とはいえ大きな積載量は魅力であり、贅沢な空挺作戦では以後も顔を見せることとなった。本作戦でも、「M-24 チャーフィー」軽戦車、「M18 ヘルキャット」対戦車自走砲を空輸している。

 危険を冒して、さらに強い抵抗を予測して降下した連合軍だったが、指揮官のテーラー少将は結ばれたばかりの連絡網からは、「敵影なし」、「抵抗微弱」という報告しか聞かなかった。
 枢軸軍の抵抗はほぼ皆無で、あっても小規模だった。現地のフランス軍は多くが沿岸部に張り付いていたし、僅かな機動防御用の部隊はさらに内陸か別の場所で、降下地点には少数のパトロール部隊と動員された警察ぐらいしかいなかった。
 しかも当時のフランスでは、抵抗運動、パルチザン活動が活発に行われていた為、降下を手引きする人々までいた。中には、連合軍兵が降下してきたのを知っても、友軍に通報するどころか万歳したり国歌を歌って喜んだ者までいた。とある村の開放の時には、食糧やワインで歓待までした。
 そうして、上陸作戦前にまるで敵地のど真ん中と思えぬ場所に降り立った空挺兵達は、主要な街道や橋、トンネルなどを次々に占領し、さらに電話線、送電線の寸断などの破壊活動も行っていった。中には敵の司令部の一部を攻撃した部隊もあった。
 そして空挺作戦の成功によって、ドラグーン作戦の成功は既に決まったも同じだった。あとは、空挺部隊が持ちこたえている間に、上陸してきた部隊が合流すればよいだけだった。
 そうすれば南部からのフランス軍の増援部隊は、ツーロン防衛に間に合わないからだ。

 そして14日の深夜頃から翌日の夜明けまでに、14万名を運んだ上陸船団がコートダジュールの沖合に姿を見せる。
 15日の日の出の頃に上陸体制に入った部隊は、アメリカ第2海兵師団、アメリカ陸軍第77師団、日本陸軍第3師団、日本海軍陸戦隊第2特別陸戦旅団、日本海軍陸戦隊第5特別陸戦旅団、救国フランス軍の1個大隊、アメリカ陸軍レンジャー部隊などになる。
 大規模な4個師団による同時上陸だが、何度も大規模上陸作戦を行ってきた連合軍将兵にとって、もはや日常とは言わないまでもありふれた戦場の一コマでしかなかった。
 沖合に残る日本陸軍第16師団が予備部隊で、救国フランス第1師団も一応は予備部隊だが、ほぼ「お客さん」だった。この作戦に救国フランス軍が参加しているのは、連合軍としてはフランスの「奪回」が目的という政治的メッセージだった。そして今後のフランスにとって大事な局面なので、救国フランス軍最高司令官のド・ゴール将軍も姿を見せていた。
 連合軍が上陸したのは、ツーロン中心部から約15キロ東に移動したイエールと呼ばれる場所を起点として幅10キロほどのリヴィエラ海岸だった。本来ならツーロン港内からでも停泊するフランス軍の戦艦の砲撃を受ける場所なのだが、この時点でツーロンで動ける船は少なくとも連合軍が見る限り存在しなかった。3隻いた旧式戦艦も、地上施設を守るという目的のもとで連合軍の標的となり、すでに全艦大破着底していた。念のため日本海軍の旧式戦艦が西寄りに陣取っていたが、攻撃してきたのはこれまで破壊を逃れていた魚雷艇数隻だけだった。上陸に際して阻止攻撃はそれっきりで、フランス軍というより枢軸軍は、連合軍の上陸作戦を全く阻止できなかった。
 だが、上陸地点のすぐ西側に小さな半島部があったので、その小さな半島に築かれた陣地を事前に破壊しなければならなかった。そこで、それこそ樹木が無くなるほど砲爆撃が行われたため、そこからの阻止砲撃、銃撃もほとんど無かった。また別の地形障害として、上陸場所のすぐ沖合にはイエール諸島という周囲10キロほどの小さな島々があり、さらに少し東側にも島があるなど上陸に適した場所とは言えなかった。このためフランス軍も、この場所の上陸の可能性は比較的低いと判断していた。むしろフランス軍は、もっとツーロン寄りの海岸を上陸地点と予測していた。と言うよりも、ツーロンそのものを狙うか、ツーロンとマルセイユの中間に上陸する可能性も高いと考えていた。
 上陸地点には、装備に劣り事前攻撃で重装備のほとんどを失った2個師団の兵力が守備していたが、一部が奮闘するも数時間程度しか組織的抵抗はできなかった。フランス軍は自らの予測通り、ツーロン寄りの場所により多くの部隊を配置していたからだ。しかも連合軍が上陸した場所は、後に国際空港となる当時の空軍基地のある場所なので、多少狭いながらも平地が広がっていた。加えて言えば、2〜3キロにつき1個師団で上陸した連合軍の戦力は、完全に過密で過剰だった。上陸後に、軒並み「進撃渋滞」が起こったほどだ。そしてフランス軍の抵抗が予測より微弱だったため、連合軍の橋頭堡が広げられた。その日のうちに威力偵察部隊がいくつも編成され、さっそく内陸部や近くの海岸部への進撃を開始する。軍港のあるツーロンにも進み始めた。後続部隊の上陸も続々と進んだ。
 同作戦では、上陸作戦が成功することは折り込み済みで、十分な橋頭堡を確保することの方が重視されていた。短時間で荷揚げ港に使えるツーロン占領が求められていたからだ。
 だからこそ敵が増援を送り込む場所に大量の空挺部隊を送り込み、上陸した部隊の進撃を迅速かつ円滑にするために各要所を占領したのだ。連合軍の作戦としては、ツーロン(と可能ならマルセイユ)という港湾都市をなるべく無傷で占領して補給拠点を確保すれば、その後のフランス内陸部への進撃がより容易くなからだ。
 そして連合軍が予測したよりも、上陸地点のフランス軍の抵抗は微弱だった。理由は単純で、上陸地点い配置された兵力が少なかったからだ。しかも、連合軍が初のフランス上陸と言うことで激しい抵抗を予測して上陸作戦の準備を進めてきたが、その攻撃が貧弱な守備部隊に対して明らかに過剰だったのだ。しかも、連合軍による事前の長期間の空爆で、南仏西部一帯のフランス軍も大きく弱体化していた。
 現地フランス軍は、戦う前から連合軍の常軌を逸したような空爆で多くの装備と物資、そして人員を失っていた。そして補充するための補給路は、ことごとく連合軍の爆撃にあって吹き飛ばされていた。増援の兵士は徒歩で南に進むより他無く、しかも夜間にしか行え無かった。物資の運搬、戦車など車両の移動も夜間にしか出来ず、しかもまともに照明をつけて進むことが出来なかった。夜でも連合軍機は飛び交っており、明かりが見えたら何でも爆撃していたからだ。ロバが引く小さな馬車すら容赦なく銃撃を受けた。

 そして本来なら、フランス軍が水際撃滅を目指し、敵の上陸初期段階で機動防御戦をするのがセオリーだった。しかし上陸地点は平地が少ない地形の為、十分な機甲部隊は配備されていなかった。沿岸に近かったら事前攻撃で破壊されてしまうし、遠すぎても地形が邪魔をして有効な時間に反撃が間に合わないと考えられたからだ。
 このため、この地域唯一の機甲師団のフランス第3機甲師団は、マルセイユの少し内陸寄りに他の機甲部隊、快速部隊と共に隠蔽を施した上で布陣していた。ツーロンやイエール方面には、大隊規模の戦車隊(名目上は連隊編成)しかいなかった。ただしツーロンの郊外には、入念な防御陣地を用意した「S-44重戦車」連隊(実質大隊規模)が布陣していた。
 とは言え、フランス軍による上陸初日の反撃は、したくても無理だった。局所的に戦車を使用した反撃例もあったが、使われたのは歩兵部隊と共に配備されていたマチルダIIなどの旧式戦車だったし数も少なかった。戦車部隊など重装備部隊の主力は、ツーロン方面に集中していた。
 イエール方面で後方を絶たれた上陸地点のフランス軍は、圧倒的火力と物量の上陸作戦の前に為す術もなく崩れ、連合軍はその日のうちに十分な橋頭堡を確保した。場所によっては8キロも前進して、早くも事前に降下した空挺部隊との合流を果たした部隊もあった。
 そうして翌日には、ツーロンへの道が開ける。

 ツーロン方面には、第3機甲師団を中核として6個師団、10万以上の比較的多数の兵力が配備されていた。だが、連合軍と比べるとやはり機動力、火力に劣っていた。港湾防衛用のやや旧式の沿岸重砲はあったが、その多くは既に破壊されていた。施設は破壊されていなかったが、軍港としては殆ど機能していない状態だった。各部隊の重装備のかなりも、事前の爆撃でかなり破壊されていた。頼みの綱の重戦車部隊も、すでに3分の1が撃破されるか動けなくなっていた。だが、フランス海軍の地中海最大の拠点なので、フランス軍は簡単に明け渡す気は無かった。
 そこに空挺部隊と合流した上陸部隊の先鋒が、威力偵察を仕掛ける。その前にフランス軍の方から連合軍の上陸地点に増援部隊を送ろうとしたのだが、激しい空襲と空挺部隊の阻止攻撃によって向かうことが出来なかった。そればかりか、向かった3個師団はただでさえ装備が少なくなっていたのに、大きな損害を受けて防御戦闘すら難しいほど戦力を消耗してしまう。フランス軍としては、連合軍がまだ重装備や物資をあまり揚陸していないと考えての事でもあったのだが、事態は全く違っていた。
 この上陸作戦では、今までの作戦同様に簡単には港湾が使用できないと予測されていたので、当面の物資揚陸で威力を発揮したのは戦車揚陸艦(LST)だった。戦車揚陸艦は、その名の通り戦車などを運んで直接海岸に揚陸する事が出来る。このため海岸に直接乗り上げることができるが、輸送の場合は事前に荷物を満載したトラックを搭載して、そのまま上陸させる事になる。港が使用できるようになるまでは非常に合理的なやり方で、最初こそ臨時措置で行われたのだが、戦争の中盤以後は常套手段とされていた。
 この戦車揚陸艦は当初はアメリカで建造され、各国に供与または貸与されていた。しかし非常に便利なことが分かったので、日本では当初の予定を変更して、かなりの数を自力で建造するようになっている。アメリカから図面を購入しての建造なのでライセンス生産に近いが、特に技術的ハードルが高いわけではないので、日本でもかなりの数が独自建造された。しかしそこは日本軍なので、不要なほどの重火器を搭載するなど不要な面も見られた。日本製のLSTは、シチリア島上陸作戦の頃から見られるようになったが、南仏上陸作戦でもかなりの数が作戦参加して活躍している。
 しかも連合軍というよりアメリカ軍は、今までの上陸作戦で何度も上陸すぐに敵戦車部隊から反撃を受けていたので、比較的初期の段階で「三式重戦車 ジヲ」部隊を上陸させていた。重戦車は突破戦闘と陣地防御戦に優れているので、この時のフランス軍反撃部隊の迎撃でも大きな戦果を挙げていた。
 そして戦力を消耗したフランス軍は、あとはツーロン防衛のための遅滞防御戦しかできなかった。フランス軍、と言うよりフランス政府としては、中規模以上の街で市街戦をする気は全く無かった。しかもツーロンは地中海側唯一の軍港であり、戦争に負けても後のフランスのために残さねばならない場所だった。

 そして連合軍が一度上陸して橋頭堡を確保してしまうと、あとは全て時間の問題だった。
 絶対的といえる制海権と制空権を連合軍が握っているので、フランス軍は陣地固守以外の方法が無理だった。何しろ南フランスの海岸各所に配備された部隊の多くは、トラックなど移動手段が殆ど無く、火力も兵力も十分ではない部隊ばかりだった。しかも南部からの増援部隊は、当面到着する見込みが無かった。
 ツーロンの防衛も、初手で手持ちの戦力を無為に失ってしまったため、時間と共に数を増す連合軍が相手では手の打ちようがなかった。フランス軍としては、あとは地形を活かして連合軍の進撃を可能な限り遅らせる以外に無かった。
 そして連合軍は、十分な戦力を揃えてツーロンへと迫った。しかしそれだけでなく、既に内陸に進んでいた空挺部隊の一部と軽装備の快速部隊が迂回することに成功し、ツーロンの真後ろに出ることにも成功する。フランス軍に残されたツーロンへの道は、マルセイユから伸びる海岸沿いの道だけとなり、その道も空爆と場合によっては艦砲射撃でほとんど使えなかった。

 ツーロン前面では、ダッグイン戦法をとった「S-44重戦車」と正面からの突破戦闘を仕掛けた米軍の「三式重戦車 ジヲ」による重戦車対決が行われた。
 車体の高さが欠点と言えるS-44重戦車に対して、米軍の三式重戦車は攻めあぐねた。相手の火力は48口径75mmなので、余程近距離でないとジヲには意味がないのだが、ダッグインした相手の目標が小さい上に砲塔前面装甲を増したS-44重戦車は、車体を地面に隠してしまうと、ほとんど重トーチカと違いは無かった。
 このため米軍は空爆での撃破を優先せざるを得ず、重戦車対決はいささか期待はずれの展開のまま終わった。米軍が「三式重戦車改 ジカ」を装備していたら違ったとも言われるが、この時期「ジカ」を装備していたのはイタリア北部に進軍していた日本軍の一部だけで、北米経由でヨーロッパに着た本間将軍の日本軍部隊も装備していなかった。
 なお、重戦車対決や正面戦闘は、結局一週間も続かなかった。フランス軍が順当に物量で押し切られ、市街戦を嫌ったフランス軍がツーロンの無防備都市宣言を出し、軍港内の生き残っていた艦艇が自沈することで、戦いは一旦幕となった。
 しかしこれで連合軍は港湾都市を手に入れたことになり、後は物量に任せて押し広げればよいだけとなった。もちろん南フランスは地形が迅速な進撃には向いていないし、フランス軍もまだ戦う力は残していたし、ドイツからの援軍も到着しつつあった。
 だが、連合軍が「アルプスの向こう」に兵力を展開したことには違いなく、戦いは次の局面へと移っていく事になる。


●フェイズ67「第二次世界大戦(61)」