●フェイズ69「第二次世界大戦(63)」

 「バグラチオン作戦」と続く大攻勢の間、満州帝国遣蘇総軍は何をしていたのか。バグラチオン作戦が有名なため、かすみがちになることが多い。
 もちろん、休んだり遊んでいたワケではなく、ソ連軍と連携して次の作戦の準備を粛々と進めていた。彼らは前年冬までソ連軍と共に前進を続け、ルーマニア国境あたりまで進軍した。この間特にドラマチックと言うべき変化はなかった。ドイツ軍を物量差でジリジリと押して後退させていっただけだった。
 そしてルーマニア国境あたりで冬営し、南部戦線のソ連軍と共に東ヨーロッパ「解放」作戦の為の配置につき、戦力を再編成しつつ物資を備蓄にはいる。1945年夏の攻勢は、遣蘇総軍にとってクルスクの戦い以来の積極的な攻勢作戦だった。それまではソ連軍との横並びでの進撃を行うも、戦力密度が高い上に前面に強敵(ドイツ軍)がいないので、ただ前に進むだけの状態だった。しかも前面の半分ほどは、戦力に大きく劣る東欧各国の軍隊だった。この頃にはイギリス本国からの供与武器が無くなったため、東欧各国軍の戦力は大きく落ちていた。

 南部戦線は各ウクライナ方面軍の管轄だが、北寄りの第1ウクライナ方面軍はバグラチオン作戦に参加しているので、3個方面軍と遣蘇総軍が作戦参加する予定だった。
 並びに変更はなく、北から順番に以下のようになる。

 ・第4ウクライナ方面軍(戦線正面軍)
 ・満州帝国遣蘇総軍★
 ・第2ウクライナ方面軍(戦線正面軍)★
 ・第3ウクライナ方面軍(戦線正面軍)★

 ★印付きが、部隊数や精鋭度合いから軍の主力となる。例えば中央の第2ウクライナ方面軍は6個軍が所属している上に、第4親衛軍、第6親衛戦車軍、第7親衛軍という歴戦の精鋭部隊が全体の半数近くを占めていた。第3、第2ウクライナ方面軍を合わせると実質的に軍集団規模で、100万以上の兵力を擁する遣蘇総軍に匹敵するほどだった。
 遣蘇総軍も、クルスク戦の時からさらに戦力を充実させていた。兵数は将校の不足からもうほとんど増やせなかったが、その代わりにシベリア鉄道を通じて途切れることのないレンドリースを用いて、各部隊の強化に余念がなかった。
 所属師団数は1個師団増えて28個となったが、それで打ち止めだった。満州本国には、まともな部隊は残っていなかった。
(※満州帝国軍は、大損害を受けたとしても師団自体が本国に戻ることはなかった。将兵の一時帰国なども、最大で大隊単位でしか行われていない。ただし一時帰省は、報償や負傷以外にも、一定期間の従軍期間ごとに定められていた。)
 禁軍(近衛隊)とされた重機甲師団、機甲師団は、皇帝溥儀の求めがあっても増やせなかった。何しろ通常師団の1個半の兵員と、二倍以上の装備が必要となるからだ。それに兵士も精兵でなければならない。そんなものは満州帝国には、もう無かった。その代わり、6個だった機械化歩兵師団は改変で8個に増えて、歩兵師団は少なくとも名目上は全て自動車化師団となった。また、軍直轄の戦車旅団、重砲兵旅団など支援部隊も可能な限り強化された。そしてほとんど全ての部隊も自動車化された。戦車や装甲車など各種装備も、出来る限り新型に更新された。これで総軍としての総合戦力は、大きく向上していた。
 変わったところでは、クルスクなどでのドイツ軍を見た影響か、独立重戦車連隊が供給量が増えた事もあって3つ編成されていた。満州帝国内での戦車生産が順調なおかげではあるが、「三式重戦車 ジヲ」または「三式重戦車改 ジカ」はドイツの重戦車や重駆逐戦車ほど整備や運用に問題がないので、あえて独立部隊を編成する必要も無かったと言われることが多い。しかし、重戦車部隊を持たない禁軍以外からの将兵からは、非常に好評だったと言われる。一般機甲師団も、最低でも1個中隊は重戦車を装備するようになっていた。この頃の満州帝国遣ソ総軍は、備蓄のおかげもあって重戦車だらけだった。
 もっとも、1945年夏の東ヨーロッパ南部に無数の重戦車が相手にするべき敵がいるのかというと、当人達は疑問符を付けざるを得なかったと言われる。
 この時、満州帝国軍などが進むべき地域は、東ヨーロッパのルーマニアとハンガリー。地域としては一度の電撃戦で進める距離の限界に近い広さだが、そこにいる枢軸軍は大きく戦力を減らしたドイツの南ウクライナ軍集団(※9月以後は南方軍集団に改名)とソ連領内の戦いで重装備の殆どを失ったルーマニア、ハンガリーの弱小な軍隊だった(※この時点でイギリス本国の供与兵器もほぼ失っていた。)。今までとの違いは、ルーマニアには1年ほど前からドイツ第三航空艦隊がいて、ギリシア国境で連合軍と向かい合うロンメル将軍の1個軍が展開している事だった。また数は少ないが、ドイツ空軍所属の地上部隊(※高射砲部隊以外の地上戦力)もいくらか展開していた。
 これらのうちルーマニア国境に展開するのは、ドイツ南方軍集団の第6軍と第8軍、ルーマニア第2軍、第3軍という機動性に欠ける部隊だった。
 それまで南方軍集団の主力だった第1機甲軍と第4機甲軍は、ドイツ軍が予測したベラルーシでの大規模な攻勢に備えて北部に移動しているため、南方軍集団に属し辛うじて戦闘に参加できそうなのはスロバキア国境付近に展開する第1機甲軍の一部だけだった。このためルーマニア国境地域には有力な機甲部隊はほとんどなく、歩兵支援の自走砲と突撃砲がある程度配備されているだけだった。ハーフトラックを装備した装甲擲弾兵部隊も殆どなかった。歩兵の持つ簡易ロケットランチャーはかなりの脅威だが、多数配備されているのは満州軍も同じだった。
 これとは別に、ブルガリア国境やユーゴスラビアの南東部は、ロンメル将軍率いるドイツ第7軍が展開していた。これはギリシアの連合軍と対峙するため、かなり有力な部隊が含まれていた。さらに第三航空艦隊配下の空軍地上部隊も、予備兵力として各所に展開していた。どちらもかなりの精鋭部隊だったが、満州軍から離れた場所にいるのは確実視されていたので、ギリシアの連合軍かルーマニア南部を進むソ連軍の相手と考えられていた。
 満州帝国軍は、かつてのモンゴル帝国のように圧倒的優位でルーマニア、ハンガリーを蹂躙できると見られていた。「猛将」牟田口上将も、非常に張り切っていたと従軍記者の記事に記されている。

 ソ連赤軍の作戦は、最南端の枢軸軍を短期間で撃破後、北のルーマニアとハンガリー国境の辺りを軸点として、ルーマニアの国土を南回りで大きく旋回そして縦断し、外周はユーゴスラビア地域のベオグラードなどを攻略しつつ、最終的にはほぼ全軍がハンガリーの都であるブタペストを目指すものだった。言い方を変えれば、ドナウ川沿いを電撃的に進軍する作戦といえる。
 満州帝国の遣蘇総軍は軸になる北から二番目の配置なので、旋回はほとんどせずに友軍と歩調を合わせつつカルパート山脈を越えて一気に西へと進み、ハンガリー領内のデプレツェンを経由してブタペストを目指す進路を取る。
 主な役目はハンガリー軍の誘引と撃破だが、北に位置するドイツ第1機甲軍が万が一機動防御戦を仕掛けてきた場合の側面防御も重視されていた。SS機甲軍を含むドイツ第1機甲軍自体は、多くは北部の対応に追われていたが、それでも一部が南部に来ると見られていたので、第4ウクライナ方面軍が正面から動きを押さえる事になっていた。だが、相手は精鋭の機甲部隊なので、細心の注意が必要と考えられていた。そして最低でも1個装甲軍団程度は、南下してハンガリー防衛に当たると見られていた。このため遣蘇総軍の役割も、状況によっては非常に重要度を増すと見られていた。
 そして遣蘇総軍にとっては、この戦争で一度に進軍する距離としては最も長い進撃距離なので(※攻勢発起点から目的地のブタペストまで約400キロ)、彼らにとっては最後の試練と考えられていた。
 しかしここで、連合軍が一つの要請を出した。それは遣蘇総軍の位置を配置換えして、一番南のブルガリア国境にも達するように変更できないか、というものだった。
 このソ連の作戦では、連合軍も呼応してギリシア国境に展開する地上軍を動かしてブルガリアに進む準備を進めていたので、その方が何かと都合がよいと考えられたからだ。
 なお、ブルガリアに連合軍が進むことは、既に1944年内にソ連も了承していた。スターリンは内心では全く了承していなかったとも言われるが、ブルガリアはソ連に宣戦布告せず連合軍にだけ宣戦布告していたので、国際法上でも連合軍が進むのが正しかった。それにギリシアには連合軍の1個軍が1944年秋から展開して、あえて進軍せずに進撃準備だけを進めているとあっては、流石にソ連も我が儘を言えなかった。
 なお、ギリシアの連合軍の作戦開始は、ソ連軍よりも少し早い8月6日。そして連合軍が8月6日にしたため、ソ連は15日頃開始予定だった作戦を前倒ししていた。そうした微妙な政治的取引が行われる状況なのが、当時の東ヨーロッパ情勢だった。
 そうした中での要請だったが、100万の大軍を簡単に配置換えできるわけもなく、また余計な警戒感をソ連に持たせることにもなり、配置換えは行われなかった。満州総軍の馬元帥も東欧の「田舎」に進軍する気は無く、「現実的ではなく物理的にも難しい」という言葉で謝絶している。(※実際は、馬元帥はウィーン進軍を目標としていたので、アメリカの勝手な言葉に怒り狂ったとも言われる。)

 ソ連軍と満州軍の夏季攻勢は、1945年8月9日に開始される。
 ソ連軍第2、第3ウクライナ方面軍と満州帝国遣蘇総軍は、それぞれ前面に展開する敵のうち、ルーマニア軍に対して攻勢を開始した。と言うよりも、遣蘇総軍の前には実質的にルーマニア第3軍しかいなかった。遣蘇総軍とルーマニア第3軍の戦力差は、単純な数で3倍以上、戦車、重砲などの重装備と空軍を含めた総合的な戦力差だと10倍以上の差があった。ルーマニア軍には、英本国が供与した旧式の戦車と対戦車砲が少し残されているだけだった。途中から標高の低い山岳部が戦場になるといっても、ルーマニア軍が満州軍を止めることは不可能な戦力差だった。
 このため先鋒となった第三軍は、最前線からの報告通り順調に進撃することが出来た。
 主攻勢を担当する第2ウクライナ方面軍は、ルーマニア第2軍をほとんど一瞬で突破すると一気に進撃し、側面のドイツ第6軍ともども包囲してしまう。あまりにも短時間に行われた包囲戦のため、機動性のないドイツ軍は何も出来ないまま大軍の包囲を許した。
 このモルドバで行われた包囲殲滅戦で、枢軸軍は13個師団もの戦力を殆どが降伏で失い、ドイツ軍だけで20万もの兵力が失われ、ルーマニア戦線は一瞬で瓦解する。しかしソ連軍も、続くルーマニアの大旋回のための戦力と補給に少し不安を抱えるようになっていた。何しろ、鉄道路線の規格が違うので、短期的な補給に鉄道が使えないからだ。
 しかし戦況はソ連軍に優位に進んだ。
 攻勢開始から僅か3日で戦線が崩壊した事を知ると、ルーマニアでは25日に政変が発生した。そしてミハエル国王を中心としたクーデター勢力は親独政権を倒すと、単独で連合軍と講和を図ろうとする。講和自体はソ連と連合軍の密約があるので成立する余地はなかったのだが、こうなっては現地のドイツ軍はルーマニアから撤退するより他無かった。
 空軍部隊などを用いて機動防御戦を企図していたドイツ空軍のケッセルリンク元帥も、総統大本営からの命令もあって殆ど戦う事無くハンガリーへの後退を余儀なくされた。ロンメル将軍の第7軍も同様で、一部をルーマニア国境に移動していた彼の戦線にソ連軍は牽制攻撃しか仕掛けてこなかったが、彼が敵主力側面に対する機動防御戦を仕掛けようとした時点でルーマニアで政変が起きた為、攻勢未発のまま枢軸ではなくなったルーマニアからの後退を急がなくてはならなくなった。実際、プロエシュチ油田などを守っていたり、守るために移動していたドイツ軍部隊は、突然寝返ったルーマニア軍の攻撃を受けて為す術もなく瓦解し、5万もの捕虜を出す大損害を受けていた。
 呆気なくルーマニアはソ連赤軍により蹂躙され、ドイツ、ヨーロッパ枢軸は最後の油田地帯を失う事になる。
 一方のブルガリアでは、戦闘らしい戦闘は殆ど無かった。1945年の春にルーマニア国境までソ連軍が迫った段階で、ギリシア国境のドイツ軍は殆どルーマニアに移動するか、別の方面に移動してしまった。残されたのは申し訳程度の1個師団と、駐留していたドイツ軍が少しだけ残した兵器だけだった。他は、ドイツが無理矢理配置につかせたブルガリア軍がいただけだった。
 そしてブルガリア自身は、8月6日に連合軍の攻撃が開始されると、早くも7日に政府が連合軍への停戦を打診。8月10日には、停戦と引き替えにドイツへの宣戦布告で交渉が成立して、15日には正式に調印してブルガリアは枢軸陣営から呆気なく脱落して連合軍側となった。
 しかし、一つだけ印象的な光景が見られた。
 ギリシアから進駐してきた連合軍(アメリカ軍)とルーマニアを大旋回中のソ連軍が、ドナウ川ではないルーマニアとブルガリアの国境で握手した事だ。本当ならベルリンなどドイツで行えたら、より劇的だったと言われるが、ついに東西の連合軍が握手したことは、戦争が終幕に向かっていることを世界中の人に印象づけた。
 そして東ヨーロッパでの戦いの焦点は、すぐにもハンガリーへと移った。

 遣蘇総軍の攻勢は、当初は順調に推移した。
 カルパート山脈の手前にはルーマニア第3軍がいたが、ほとんど鎧袖一触だった。ドイツの機甲部隊を警戒しつつも、第一機甲軍を一番北に置いて突進させ、残る2個軍が南側から進み一気にルーマニア軍を各所で分断して、各個に包囲してしまう。相手が戦力、機動力、火力に大きく劣る相手だったので、演習のように成功した。参謀達が「演習のようで面白み欠ける」と愚痴ったほどだった。ルーマニア軍の殆どは、簡単に戦線が突破されると次々に降伏したので、討ち取った敵の十倍以上の捕虜を得た。そしてそのままルーマニア自体が寝返ったので、ルーマニアの案内を受ける形で進撃は迅速となった。
 先鋒はそのまま緩やかな山並みのカルパート山脈を、殆ど抵抗を受けることなく越えて、当時はハンガリー領となっていたルーマニア北部へと進軍する。そして1940年末にドイツの威を借りたハンガリーがルーマニアから割譲した形の地域なので、抵抗は微弱だった。満州軍がロシア人の軍隊ではないので、現地のルーマニア系住民からは解放軍と見られたほどだった。実際満州軍は、将兵による掠奪や暴力を厳しく禁じていたので、ロシアの大地以外でも基本的には歓迎された。この時の記憶があるため、その後ルーマニアと満州帝国の友好関係が作られたほどだった。
 そして約200キロを進撃した時点で補給と小規模整備のために一旦停止し、南方を旋回中のソ連軍が迂回しきるのを少し待つことになる。このまま単独でのハンガリー領内侵攻を行うべきだという後世の見方もあるが、遣蘇総軍が進撃してきたルートに補給路となる主要な鉄道路線はなく、しかも緩やかとは言え大きな山脈を越えていた。ルーマニア軍が予想以上に脆かった事もあって当座の武器弾薬、そして燃料は持っていたが、次に進撃するためにはどうしても補給路を確保しなければならなかった。でなければ、燃料のない状態でドイツ軍精鋭部隊の反撃を受けて、100万の大軍が瓦解する可能性があったからだ。
 しかし遣蘇総軍の自発的な一時停止は、枢軸側に貴重な防戦準備の時間を与えることとなった。
 そして9月末に、南部に展開したソ連軍と東部から進む遣蘇総軍によるハンガリーへの進撃が開始される。
 そしてここに、短くも激しい「デプレツェンの戦い」が始まる。

 ドイツ側は、フリースナー将軍が率いる南方軍集団の第8軍、ロンメル将軍の第7軍、ケッセルリンク元帥の空軍地上部隊、それにハンガリー第2軍、第3軍があった。また第一機甲軍の一部も駆けつけつつあった。かつての南方軍集団の面影がないほど弱体化していたが、装甲師団、装甲擲弾兵師団だけで6個師団あり、決して侮ってよい戦力では無かった。
 ハンガリー東部への攻撃に際しては、北部を遣蘇総軍が担当し、南部はルーマニアを大きく旋回してきたソ連軍の第2ウクライナ方面軍、第3ウクライナ方面軍が担当した。また途中からは、連合軍側となったルーマニア軍が、ドイツの威を借りて領土を奪ったハンガリーへの恨みもあって戦闘に参加している。
 南部からの進撃は当初順調に伸展したのと対照的に、ハンガリー入りしていた第一機甲軍の装甲軍団は、ある程度の防御陣地を構築して展開していた北部での進撃が芳しくなかった。
 北部を担当する遣蘇総軍は、攻勢の準備を南部のソ連軍より入念に準備していたが、それでもドイツ軍機甲部隊の正面からの撃破が非常に難しいことを物語っている。制空権も得ているし、圧倒的な物量を有しているが、だからといって防御に徹した相手を正面から突破することは難しかった。しかもこの時期の満州軍は、かつてと違って消極的傾向が強かったので、よけいに攻勢は巧くいかなかった。
 そこで遣蘇総軍は一旦無理な進撃を止め、空軍による攻撃と重砲の砲撃の強化を行いつつも体制を立て直そうとする。これをドイツ側は、北部の進撃を一時的に止めることに成功したと考えた。ドイツ軍は満州軍の能力と戦力を、依然として実際よりも低く見ていたからだ。

 一方南部では、当初はソ連軍がハンガリー第3軍を一方的に、「バターを熱したナイフで切り裂くように」と表現されるほどの勢いで撃破した。ここでもソ連軍は、強敵のドイツ軍をあえて相手にせずに、弱体な敵を突破することで戦線を突破して、そのままドイツ軍を包囲殲滅しようとした。しかし、ルーマニアとは勝手が違っていた。
 ハンガリー軍が完全崩壊する前に、素早く側面と後方から後詰めのドイツ軍が阻止に出て、各所で規模は限られるも激しい戦闘が発生した。防戦全般の指揮はドイツ空軍のケッセルリンク将軍がとったが、空軍の将軍とは思えないほど巧みな指揮でソ連軍の進撃をうまく防いだ。また、彼の直接指揮下にある空軍装甲師団は、「VII号重戦車 ティーゲルII」中隊を持つなどかなり優良な装備を有していた事もあって、ソ連軍の突破を許さなかった。各所には、俄作りとはいえよく考えられた防御陣地が構築されていた。
 そしてソ連軍が手をこまねいている予想外の方向から、ドイツ軍の装甲部隊が突進してくる。ロンメル将軍指揮下の第15装甲師団を中心とする機動防御戦用に待機していた機甲部隊だった。
 「V号G型中戦車 パンター」を中心としたインド戦以来の歴戦の部隊は、「VII号重戦車 ティーゲルII」装備の第508重戦車大隊を先鋒として、ソ連軍の後方を熟練した兵士にしかできない素早さで突破すると、その後は巧みな機動と優れた練度でソ連軍の先鋒部隊(機甲軍団)を一気に包囲してしまう。そしてさらに後方からも予備部隊が殺到して包囲を分厚くし、持てる火力を投入して先鋒部隊を短時間で撃破していった。
 この時、まだ主力部隊が前線に到着していないソ連軍に、包囲された先鋒部隊を救う手だては無かった。何しろ周辺で一番強力な部隊は、包囲された先鋒部隊だからだ。空軍の進出も間に合っておらず、重砲はある程度あっても砲弾が足りなかった。また、包囲された部隊も、既に突破戦闘で物資を消耗していたので、補給の欠如などのため内側から突破する事が出来なかった。加えて言えば、例え大部隊がいたとしても、補給の問題から活発な活動が不可能だった。攻勢の時でも、包囲された機甲部隊を維持するのが精一杯だったほどだ。
 そしてソ連軍が急いで救出部隊を前線まで持ってきて包囲を破ろうとするまでに、6日間の激闘の後に包囲されたソ連軍先鋒の機甲軍団は降伏し、ソ連軍の攻勢は一時とん挫してしまう。ソ連軍は大軍だったが、前線を突破できる精鋭部隊となると限られており、その再編成はかなりの手間だったからだ。また一度攻勢が止まってしまうと、ドイツ軍が防衛体制を固めてしまうため、簡単に進撃再開とはいかなかった。

 なお、この包囲の間、久しぶりと言うべきか、ドイツ軍とソ連軍の重戦車が包囲網の攻防をめぐって激突していた。
 ドイツ軍の装備は、第508重戦車大隊の「VII号重戦車 ティーゲルII」と第4SS装甲擲弾兵師団の重戦車中隊が装備したばかりの「ヤクートパンター駆逐戦車」、それに空軍の「VII号重戦車」、「VI号重戦車」だった。さらに数両だが「ヤクートティーガー重駆逐戦車」も戦闘に参加していた。「フェルディナント」の生き残りがいたという情報もある。また捕獲された「三式重戦車」が、鍵十字を描いてドイツ軍の手によって運用されていたという記録も残されている。
 対するソ連軍は、主力重戦車の「IS-2 ヨシフ・スターリン2型」に混ざって、最新鋭の「IS-3 ヨシフ・スターリン3型」重戦車が含まれていた。「IS-3」は45年春頃に前線配備が開始されたばかりの重戦車で、「IS-2」の改良型ながら非常に洗練された外見を有しているのが印象的だった。重量や主砲など基本的な点は「IS-2」とほぼ同じだったが、見た目に反映されているとおり被弾径始と呼ばれる被弾に強い形状を有しており、足回りも全く別のサスペンションを搭載するなど多くの点が改良されていた。またこれも外見に影響を与えた構造だが、大胆に主装甲の上を空間を開けた薄い装甲で覆い、内部空間を設けることでロケット弾対策としていた。そして外観の形状が非常に洗練されているので、人によってはSF作品に登場しそうな姿だと評するほどだった。
 もっとも実際の戦闘力は、「IS-2」と比べて極端に優れているという事はなかった。強力にはなっていたが、ドイツ軍の重戦車の方が性能面では優れていた。ドイツ軍の長砲身88mm砲は、新旧を問わずソ連軍重戦車の装甲を貫いた。127mm砲の前には、全ての防御が無力だった。
 なお、重戦車は突破戦と防御戦に秀でていると言われるが、それを互いに証明する戦闘となった。しかし機材と兵士の質の面でドイツ軍に軍配が上がり、この時は数が少ないこともあってソ連軍はドイツ軍の包囲を突き崩すことが出来ず、ソ連軍の重戦車部隊も大損害を受けてしまう。またこの時の戦闘では、ドイツ側が最初の包囲に成功して以後が防御戦闘だったため、欠点である各車両の足回りをあまり気にする必要がなかったことが、勝敗に大きく影響したのではないかとも言われている。特に「ヤクートティーガー重駆逐戦車」は、70トンもの車体に250mmの砲塔前面装甲と長い砲身の127mm砲を搭載するモンスターながら、動けばすぐ故障するとすら言われるほど重くて使いにくいため、とても突破戦闘には投入できないような常識を疑うような車両だった。

 その後も、まだルーマニア領内での補給線が伸ばせず(※ソ連領内と線路幅が違う)、前線にも主力が到着していないソ連軍に対して、ドイツ軍が優位に戦闘を運んだ。
 そしてソ連軍の苦戦を見た満州帝国遣蘇総軍も、慌てて北部から再度の大規模な攻勢を開始。ここでは補給の問題から第一機甲軍が十分に使えないので、第二軍がソ連軍の支援をして、第三軍の機械化部隊が主攻勢を担うことになった。
 遣蘇総軍の前には、ドイツ第3装甲軍団の第1装甲師団、第23装甲師団を中心とした戦力が展開していた。重戦車部隊の第503重戦車大隊などを含む、非常に強力な装甲部隊だった。
 ここで遣蘇総軍は、第三軍がある程度進撃したところで防御態勢にさせた上で、敵が防戦に出てくるタイミングを見計らい、第一機甲軍の一部を他から物資を回すことで強引に進軍させ、重機甲師団を並べて進撃する体制を整える。
 クルスクの戦い同様に、相手を側面に回り込ませず密度の高い物量戦で押しつぶすという目論見だった。前衛には、贅沢に重戦車編成の独立重戦車連隊も持ってきた。
 かくして突進する「三式重戦車」または「三式改重戦車」と守る第503重戦車大隊の「VII号重戦車」が激突したが、正面からの撃ち合いだと流石に「VII号重戦車」の方が格上だった。何しろ「ジカ」でも重量で10トン以上の差があった。しかし専用の徹甲弾を持つ改良型の90mm砲ならば、相手の間合いに少し入るだけで砲塔正面以外なら十分に通用した。この事はドイツ軍の重戦車乗りにとっても脅威だった。特に「ジカ」の砲は改良型なので、簡単に撃破できないばかりか通常砲戦距離で十分にドイツ軍重戦車と渡り合った。しかも満州軍は、自分たちが重戦車でも2対1以上の数的優勢で戦うことを常道としていたので、ドイツ軍にとって厄介な相手だった。
 それに戦車は装甲を打ち抜かれなくても、砲弾命中時の衝撃で故障することも多々見られる。重戦車は、撃破が難しい代わりに故障が多かった。そして戦線が後退する一方の側の重戦車は、故障で放棄されるのが日常的光景ですらあり、この時も例外では無かった。乗車を棄てざるを得ないのは、殆どの場合ドイツ軍だった。

 この時の戦闘そのものは、要塞陣地の突破戦のようにジリジリと進んだが、ドイツ軍が絶妙のタイミングで予備兵力を投入して側面からの速攻をしかけて来たため、遣蘇総軍の攻勢もとん挫せざるを得なかった。側面から攻撃してきたのは、北部でソ連軍先鋒を包囲殲滅したロンメル将軍の部隊の一部だった。北部をケッセルリンク将軍に任せたロンメル将軍が、取りあえず引き連れていけるだけの戦力で、素早く遣蘇総軍の弱い側面見抜いて突いたのだ。
 そして戦争に慣れて熟練者も増えたとは言え、満州帝国軍はこうした突発事態には弱かった。一部前線では、混乱して戦線が綻ぶ状況も発生した。空軍を呼び寄せ全軍規模で急いで自らの守りを固めたので、戦線崩壊などと言うこともなく事なきは得たが、勢いは失ってしまい攻勢自体は中断せざるを得なかった。
 そしてその後のハンガリーでの戦いは、ソ連軍が後方から主力部隊を集め、そして補給線が構築されるまで待たなければならなくなってしまう。満州帝国軍も、後方部隊の到着と補給路の整備にしばらくは時間を割かねばならなかった。
 総軍を率いる馬元帥が目指したウィーンへの道のりは、予想以上に遠いことが痛感された。マスコミへの宣伝を常に重視していた参謀長の石原大将が、「参った参った。流石、天下の独逸軍。こりゃぁ、あと一年は続くな」と禿頭を撫でながら従軍記者の前でぼやいたほどだった。猛将と謳われた牟田口上将も、従軍記者達にせかされる形で「独逸軍今だ侮り難し」とコメントを残した。

 ハンガリーでの戦いの影響は、その後のロシア戦線にも大きな影響を与えることになるのだが、それはもう少し後の事だった。
 1945年の夏から秋にかけて、ロシア戦線が東欧戦線へと移りつつある頃、世界の新たな姿の青写真ができつつあった。


●フェイズ70「第二次世界大戦(64)」