●フェイズ74「第二次世界大戦(68)」

 1946年に入った頃、多く戦線は「階段の踊り場」だった。
 ロシア方面のポーランド東部では攻防戦が続いていたが、ドイツ軍の作戦は山場を越えていた。主にドイツに対する、各方面からの戦術爆撃は、冬の短さと悪天候が多い事から停滞気味だった。ポーランドでドイツが大規模な作戦をしたところで、何か大きなリアクションができる状態ではなかった。
 一方で、この時期のロシア方面を除く連合軍の地上部隊は、大きく以下のような陣容になっていた。

・北大西洋戦域軍(ニミッツ元帥) 《イギリス方面》
  第21軍集団(モントゴメリー大将):英2個軍、米1個軍
  第12軍集団(クラーク大将):米3個軍、英1個軍(予定)
・中部大西洋戦域軍(マッカーサー元帥)《フランス方面》
  第51軍集団(クリューガー大将):米2個軍、日1個軍、仏1個軍
・地中海戦域軍(アイゼンハワー元帥)《イタリア方面》
  第15軍集団(ブラッドレー大将):米3個軍、日2個軍、伊1個軍(予定)

 このうち第12軍集団は、半数以上に当たる2個軍がアメリカ本土からイギリスに移動中、または移動準備中、もしくは本国での待機状態のため、全く戦局には寄与していなかった(※英本土の受け入れ能力がない上に、投入できる戦場自体が無かった。)。連合軍を代表して地上戦を戦ってきた第15軍集団は、イタリアとバルカンを抱えるのでもう一つ別の軍集団を編成するべきだと言われていたが、バルカン南部の戦いが実質的に終わった事と、1個軍が移動中という事もあり大所帯を抱えたままだった。ただし、東欧に進軍する予定があったので、新たな軍集団の編成も視野に入れられていた。またイギリス本土では、旧イギリス本土軍を再編成した軍集団規模の部隊編成が進んでいた。
 アメリカ軍の次に軍を派遣している日本軍指揮官の名が見られないが、日本軍は自軍の中で遣欧総軍の司令部一応を持っていたのと、中華戦線から転戦してきた形の第10方面軍を南フランスに移動させ、第11方面軍と合わせて連合軍としての軍集団編成を取る予定になっていた。
 また、アメリカ海兵隊(5個師団=2個軍団規模)、日本海軍陸戦隊(6個旅団=1個軍団規模)の全てがイギリス本土に移動して、部隊の編成と訓練に励んでいた。各国の空挺師団についても、多くがイギリス本土に移動した。
 春もしくは初夏になれば、連合軍はイギリス本土から侵攻する予定だったからだ。

 1945年の夏から冬にかけての各戦線はどうだったのだろうか。基本的には、6月頃に大規模な作戦をしたため、その後始末と次の準備に多くの時間が割かれていた。
 南フランスでは、夏までにマルセイユが陥落し、連合軍がローヌ川下流地域に溢れた。だがフランス軍は、南東部の中央高地を中心とした地域で地の利を活かしてねばり強い防戦に務め、いまだリヨンを守っていた。このため連合軍は内陸部中央へと真っ直ぐ進むのではなく、西部に大きく迂回する進撃作戦を準備していた。このため秋になると、イタリア方面から日本の1個軍が移動しつつあった。アメリカ軍が人材面で手一杯なため、新たに日本軍による軍集団を編成して事態を早期打開しようと言う動きがでたのだ。
 イギリス本土では、戦いそのものは呆気ない幕切れとなったが、その後のイギリス本国自体の物流網の再構築と物資供給の円滑化に思いの外手間と時間を要した。この事一つをとっても、ナチスドイツにとってイギリス本土を抱えることが、実質的に不可能だった事が証明されている。だからこそ連合軍は欧州北西部に進撃できなかったのだが、秋には連合軍が大挙ドーバーを越える可能性が高いと恐れていたドイツにとっては、大いに皮肉な状況と言えるだろう。
 そして連合軍は、英本土の面倒を見ているうちに秋を越えて冬に入ったため、イギリス本土からのヨーロッパ本土への早期反攻作戦は、一部の積極論者の言葉通りには行かなかった。
 その代わりと言うべきか、連合軍海軍の整備と再編成が終わった1945年夏頃から、3つに分かれた巨大な空母機動部隊が、入れ替わり立ち替わり、ヨーロッパの北部沿岸を激しく空襲するようになる。スプルアンス提督の司令部が復帰した事で、アメリカ海軍は空母部隊をキンメル提督麾下のTF28(第二艦隊)とスプルアンス提督麾下のTF48(第四艦隊)に分けて運用し、日本海軍は伊藤提督麾下の第一機動艦隊のまま運用していた。
 加えて、イギリス本土からも支援の航空機が飛ばせるようになったので、残された欧州枢軸軍は空母機動部隊の攻撃を防ぎようがなかった。ドーバーの対岸あたりだと、連合軍の空母部隊がイギリス本土の空軍部隊と連携作戦をとることもあった。
 そして1つ1つの機動部隊が1個航空艦隊に匹敵する上に、殆どの場合が奇襲的かつ局所的に戦力を集中的に投入してくるので対処のしようがなかった。辛うじて重要拠点の防備を分厚くすることで凌がれたが、守れるのはドイツ北西部沿岸地帯など、極めて限られた場所でしかなかった。
 フランスのビスケー湾からイギリス海峡沿い、北海沿岸、そしてノルウェーに至る沿岸部の全てが連合軍の攻撃対象となり、空母機動部隊の餌食となっていった。
 ドイツは、イギリスが脱落したことでイギリス海峡やドーバー海峡沿岸部の防備強化を慌てて開始したが、既に物資不足に陥っていた事と、英本土と空母部隊の空襲によって思うに任せなかった。

 北イタリアでは、1945年4月末日にできたドイツ傀儡のサロ共和国は、7月半ばから開始された連合軍の大規模な北イタリア進撃の前に踏みつぶされた。ドイツ軍とサロ共和国軍は、平野の中央を流れるポー川での防戦を考えていたが、拙速を求めるパットン将軍が、枢軸側の予想より早く、そして連合軍の予定よりも早く、手持ちの兵力と物資だけで突進した結果だった。
 それ以前の問題として、5月末頃に一旦攻勢限界に達して自然停止したイタリア方面の連合軍だった。だが、その二週間後の6月10日に、パットン将軍率いるアメリカ第3軍の一部部隊が、手持ちの物資だけで突進して目前となっていたフィレンツェを無血開城させ、さらにアペニン山脈を越えることにまで成功した。欧州枢軸側はまだ北部に敗走しきっていない時期なので、防衛計画すらまともに立案されていない状態での出来事だった。
 近代戦の補給と計画を無視した攻撃のため、戦史家や研究家の中にはパットン将軍を非難する声が少なくないが(※兵站上は薄氷の上の成功であり、成功も偶然に過ぎないと言われている。)、潤沢な物量を誇る連合軍、特にアメリカ軍は万事慎重すぎる場合が多いため、パットン将軍のような人材は不要などころか極めて有用だと言えるだろう。これは結果論ではなく、攻勢で慎重すぎたらかえって勝機を逸し、さらに手間と時間がかかりすぎる事が多いからだ。それにパットン将軍が停止したときだけが、本当に燃料が無くなっただけで、連合軍が補給不足に陥ることは末端においても極めて希だった。
 なお、5月末に連合軍の進撃停止線となったすぐ先にあったフィレンツェは、水面下で連合軍と交渉したうえで事実上の無血開城をしている。イタリア統一前の長い分立時代を生き抜いてきた都市の、賢明すぎる判断だと言えるだろう。
 そしてフィレンツェの奇襲的陥落とアペニン山脈突破で、成立したばかりのサロ共和国の人々士気は大きく落ちてしまった。唯一の防壁が破られたに等しく、チェスで言えばチェック・メイトに等しいからだ。
 そして枢軸軍の予測より早く、8月に連合軍の大規模な攻勢が始まると、貴族や富裕層を中心としたサロ共和国の人々は総崩れだった。基本的に南部の庶民への嫌悪感から抗戦を続けるため分かれた者が多く、ムッソリーニやファシスタ党に忠誠を誓う者は限られていた。加えて言えば、軍隊としてもほとんど何の役にも立たないまま敗北し、ドイツ軍の救援も間に合わないと見ると簡単に両手を挙げてしまった。
 北イタリアでの攻防戦は、「蹂躙」や「戦闘に値しない」というような言葉で表現される事が多く、しかもサロ共和国軍の人的損害は極めて少ないというのが一般的だった。攻めかかった当人達が「戦闘に値せず、進駐に似たり」と表現したほどだ。パットン将軍に至っては「演習」と酷評していた。
 助太刀に入った形のドイツ軍1個軍(第10軍)は、それでもポー川を利用した河川防御戦を実施しようとしたが、現地の北イタリアの人々が協力的ではなくなっていたため、ほとんどが机上の空論に終わってしまった。あまりにも呆気ない戦線崩壊なので、ドイツ軍はかえって兵力を損ねることは無かったのがせめてもの救いだった。
 そして9月までにはパダノ=ベネタ平野の平野部での戦闘も終わり、日本の山下将軍、アメリカのパットン将軍にインドから続く勝利の1ページをわざわざ献上しただけに終わった。

 1946年に入ってもアルプス山脈のイタリア側麓で踏ん張っているのは、ほぼ全てドイツ軍だった。しかし、ドイツ軍の北イタリア投入も泥縄式だった。最初は2個軍団規模の投入予定だったが、連合軍の進撃が早すぎて展開が遅れた。そして機甲師団(装甲師団)を含んだ本隊が到着した頃には、殆ど何も出来ないまま後退に後退を重ねざるを得なかった。そして機動戦の難しい山間部に追いやられたため、慌てて交代の形で 山岳師団を投入することで、何とか連合軍の進撃を防いでいた。
 それでもムッソリーニらは、ドイツ軍がイアリア北東部のアルプス山岳地帯の谷間にあるボルツァーノに政府を疎開させ、抵抗を続けさせた。
 一方で、1945年11月には、それまでアレキサンドリアにあったアイゼンハワー元帥の地中海戦域軍の司令部が、ローマに前進してきていた。イタリア戦線の状況を物語る、典型例と言えるだろう。
 地中海方面の連合軍空軍部隊のかなりも、イタリア半島に基地を前進させるか、させつつあった。チュニジアのチュニスを根城にしているのは、大型爆撃機の部隊ぐらいだった。エジプトのアレキサンドリアの爆撃機部隊も、ドイツまでの距離が遠すぎるのでチェニスなどに移動していた。そればかりかナポリやローマへの進出計画も進んでいた。
 しかし欧州枢軸にとって一番の問題だったのは、北イタリアのパダノ=ベネタ平野を僅か1週間で蹂躙した連合軍の地上部隊だった。ジョージ・パットン大将率いるアメリカ第3軍と、山下大将率いる日本伊太利亜方面軍(第8方面軍)は、圧倒的な圧力と速度で平野部を瞬く間に蹂躙し尽くすと、すぐにも周辺部への進撃を開始した。
 だが、パダノ=ベネタ平野は北部一帯にアルプス山脈がそびえ立ち、その向こうのドイツ(オーストリア)進むのは極めて難しかった。山間部の道を封鎖するだけで進軍は不可能になるからだ。そこで連合軍が選んだのが、沿岸部を東に進むことだった。
 中華戦線から転戦してきた岡村大将指揮下の地中海方面軍(第10方面軍)は、少し遅れて進んできた上に当初の予定を変更してフランス方面に所属が変わりそうなため、二人の司令官とは別行動を取り、南フランス方面に上陸した友軍と握手するべく西のニースを目指していた。
 ホッジス大将の第1軍は、遅れてイタリアに進軍した事から、アルプス山脈でドイツ軍と睨み合うように薄く布陣した。しかしそこは、距離的には最短でドイツに至れるので、ドイツ軍としては守りを固めざるを得なかった。だが連合軍もぬかりなく、圧倒的な空軍でイタリア北東部の山岳地帯からオーストリア西部のチロル地方、さらにはドイツ南部バイエルンにかけて制空権を奪うように作戦を展開し、ドイツ軍が隙を見せればすぐにも進軍できる体制を日々強めていった。
 そしてパットン将軍の米第3軍と山下将軍の第8方面軍は、ベネツィア湾を右手に見つつイタリア西部を縦断していった。

 パットン将軍と山下将軍の目標は、当面はイストラ半島だが、本当の目的はその先にあった。パットンと山下の目的は、イタリア東部からスロベニアに入り、そのまま素通りしてオーストリアへと進軍する事だった。このため第8方面軍は、45年9月の時点で伊太利亜方面軍は南欧方面軍と改称していた。また改変に際して、日本陸軍総予備から1個軍(軍団)を編入して4個軍(軍団)編成を取っている。4個軍団に拡大したのはパットン将軍の第3軍も同じで、軍直轄などを加えると2人の指揮する部隊は、実質的には軍集団規模に膨れあがっていた。
 つまりは、連合軍の期待の大きさを現していると言えるだろう。特に1946年の春から初夏にならなければ北の海での上陸作戦が気象的にできないため、南部で進撃するしかなかった。でなければ、ソ連により多くの占領地を渡してしまう事になるからだ。
 その彼らがイタリア北東部入りしたのは、1945年8月頃だった。総司令部は、兵站拠点となるヴェネツィアに構えられたが、二人の司令官はヴェネツィアを簡単に観光するとすぐにも共に前線に幕僚と共に向かっていたので、ヴェネツィアは兵站と後方の連絡場所程度にしか使われなかった。二人の司令官の関心は、ほとんど無防備な地域をどれだけ早く、遠くまで突き進めるかにあった。
 実際、1945年9月15日には、イストラ半島だ西端部にあるトリエステ市まで進軍していた。トリエステは港湾都市で、ここの港湾施設を無傷で押さえてしまえば、スロベニアへ迅速な進撃が可能だった。ヴェネツィアからトリエステに至るまで抵抗はほとんど見られず、むしろイタリア人の多くは敗北を受け入れて従順になっていた。ドイツ軍、イタリア軍は、半島南部や山間部に追いやられていた。

 一方のドイツ軍だが、連合軍に想定以上に攻め込まれたことで窮地に陥っていた。1945年9月の段階だと、ポーランド東部ではソ連軍の大攻勢によって陸軍主力が窮地に陥っていた。またルーマニア方面でも、連合軍(ソ連軍+満州軍)の大規模な侵攻が始まっていた。南フランスも、予断を許さない事態が続いていた。
 つまり、簡単に増援できる戦力はどこにも無かった。
 それでも、ドイツ本国やフランスなど各地で再編成や休養を取っていた部隊を集成して新たに第14軍を編成し、慌ててオーストリア経由でスロベニア方面に送り込んだ。当座の第14軍は2個軍団、6個師団編成で、しかも1個師団当たりの戦力差も大きいので、正面からでは連合軍に太刀打ちできる戦力では無かった。だが、イストラ半島内陸部は、カルスト地形で有名な多少緩やかながら山岳地帯で、アルプス山脈とバルカン半島のジナルアルプス山脈に挟まれていた。このため、谷間に当たる鉄道と主要街道の守りを固めれば、防衛は比較的容易だった。
 とはいえ、単純に師団数だけで4倍の差があり、1個師団当たりの規模、兵士数の差、装備や航空支援を合わせると5倍どころか10倍以上の戦力差となるので、短期間の足止め以上のことを求めるのは難しい戦力差だった。その事はドイツ軍の上層部も理解していたが、最も近在のハンガリー方面の方が強い攻勢を受けていたので、そこから兵力を引き抜くのは自殺行為だった。仕方ないので、秋に入って安定しつつある東ポーランド方面から、装甲師団(機甲師団)を含んだ1個軍団が一時的に移動することになる。だがこの戦力も冬の攻勢作戦の支援に必要なので、11月にはスロベニアから引き揚げさせなければならなかった。その代わりドイツ本土で再編成した部隊を投入する予定だったが、この部隊は歩兵師団1個と国民擲弾兵師団2個だった。
 国民擲弾兵は歩兵の一種だが、普通の歩兵は少なく本来は徴兵されない徴兵不適合者、傷病兵、老人、少年兵、それでも足りない場合は陸軍以外から調達した兵士が過半を占めていた。率いる将校の質も一部傷病兵などの例外を除いて総じて低い。当然戦闘力は高くないのだが、「ラング」や「ヘッツァー」など以前と比べると格段に優良は装備を与えることで、十分に戦えると判定されていた。
 とはいえ国民擲弾兵は、戦況の悪化と度重なる敗北で人的資源が枯渇したことの現れだった。特にソ連のバグラチオン作戦発動以後に部隊編成されたものが多く、戦力の建て直しのために編成された穴埋め用の部隊でもあった。しかし戦局悪化は日に日に増すため、最終的には50個師団以上が国民擲弾兵師団編成されている。
 この時配備されたのは、その最初期の部隊なので定数一杯の「ラング」や「ヘッツァー」を有するなど、確かに表面上の戦力はかつての歩兵師団より強力だった。歩兵にも、簡易の対戦車装備(パンツァーファウスト)が多数配備されていた。
 それでもともかく、秋以降は3個軍団で1個軍を編成して、スロベニア、オーストリア南部を守ることになる。

 そして緩やかとはいえ山岳部突破を目指す現地連合軍だが、攻め込む地域に比べて部隊規模が大きすぎた。

・日本南欧方面軍(第8方面軍):山下大将
 ・直轄:第二空挺団、第二重砲兵旅団、他
 ・日本第7軍(軍団):第2機甲師団、第5師団、第18師団
 ・日本第32軍(軍団):第1師団、第9師団、第24師団
 ・日本第5軍(軍団):第2師団、第6師団、第20師団
 ・日本第33軍(軍団):第29師団、109師団 (後方警備)

・アメリカ第3軍:パットン大将
 ・直轄:第11空挺師団、他
 ・米第2軍団 :第7師団、第25師団、第45師団
 ・米第3軍団 :第1機甲師団、第2師団、米第32師団
 ・米第7軍団 :第2機甲師団、第4師団、第34師団
 ・米第15軍団 :第5師団、第44師団、第86師団

 以上が、1945年10月頃の日本第8方面軍とアメリカ第3軍の編成になる。合計24個師団、前線配備の兵士だけで70万人を数える大部隊だった。これに対して現地ドイツ軍は、当初は6個師団8万ほど、後に3個師団増えて11万になるが、その差は圧倒的だった。
 しかも、アメリカ陸軍航空隊の第5航空軍と日本陸軍第三航空群軍の、合わせて約2500機の作戦機が全面支援する予定だった。ドイツ側の航空機は、出せても300機に満たなかった。
 連合軍の心配事は、激しく動き回るであろうパットン将軍への補給だが、攻勢発起点は兵站港のトリエステ(+ヴェネツィア)に近く、北イタリアの他の軍が停滞気味なので、その分の補給車両を根こそぎ同方面に集中して対応する事になっていた。
 連合軍の攻勢は、内陸部のゴリツィア方面から日本第8方面軍が、沿岸部のトリエステ方面からはアメリカ第3軍が押し出す。途中で街道が合流するが、主力はそのまま数に任せて押し通る予定だった。また、敵戦力を分散するためとトリエステ全土解放の為に、アメリカ1個軍団がイストラ半島東部からアドリア海沿岸部を進み、状況が許せばクロアチア内陸部を目指す予定だった。攻勢にはそれぞれ2個軍団が進み、1個軍団は予備とされていた。このためクロアチア方面への増援も考えられていた。
 なお、日米の歩兵師団は少なくとも前線配備されている師団は、全て自動車化されていた。加えて戦車連隊(又は大隊)、軽機械化捜索(偵察)連隊を有する。そしてさらに、日本陸軍では近衛と第1〜第12師団までは歩兵連隊の移動がハーフトラック(米製M3系中心)になるなど、機械化師団化されている。他の装備も非常に重装備となっていた。その師団を、第8方面軍は5個師団も抱えていた。部隊内に機甲師団が1個なのを弱点とする研究者もいるが、十分に機械化軍団だったと言えるだろう。しかも第1師団、第2師団、第5師団、第6師団、第9師団と言えば、日露戦争以来その名の知られた師団ばかりだった。第2機甲師団も、機甲師団の中では一番の歴戦部隊であり、重戦車部隊を編成に持つ重編成師団だった。他にも独立重戦車部隊など、重装備も多く有していた。
 アメリカ軍の場合は、戦争初期から戦っている部隊の機械化師団率が高いが、第3軍の場合は半数以上がインドから戦っている歴戦の強者揃いなので、半数以上が機械化師団化されていた。そしてアメリカ軍の師団といえば、日本陸軍以上に大所帯の部隊だった。実働の車両数で比べると、ドイツ軍だと軍団規模の車両を1個師団が有している事もあった。
 そしてパットン将軍以下の将兵達は精鋭揃いであり、2年以上の長い戦歴もあってアメリカ陸軍最強の軍と言われていた。

 イタリア北東部からの連合軍の攻勢は、ある程度兵站が整い物資が集積されるのを待って、1945年11月6日に開始された。目標では、本格的な冬が来るまでにハンガリーとオーストリアの平野部まで突破している予定だった。パットン将軍は、ブタペストでの満州軍との握手まで考えていたと言われる。しかも、少し前までハンガリー正面でソ連軍が攻勢をかけていたので、同方面のドイツ軍は疲れ切っており、同方面からの増援もあり得ないという絶好の機会を捉えての攻勢だった。
 連合軍がまず進んだ先には、先の攻勢では進出限界のため取り損ねたイストラ半島に隣接するイタリア北東部の領土あった。
 同地域は近代イタリア成立の前後から「未回収のイタリア」と言われて、イタリア王国建国頃にイタリアが獲得目指し、第一次世界大戦後にようやく手にした地域だった。しかし民族構成を見てみると、イタリア人も多いがクロアチア人、スロベニア人が住人のかなりを占めている。長らくイタリアの領土として歩んでいたとはいえ、イタリア語の強要などでイタリアに好意的とは言えない地域でもあった。
 連合軍もそれを見越しており、1944年頃から隠密に反イタリア的な民族主義グループに使節を送り込んだり、飛行機や小型潜水艦を使って武器弾薬を供与したり、さらには工作員を送り込んでパルチザンや、ゲリラ兵の育成も行った。住民に対しても、戦線が近づくに連れてビラの散布、工作員による宣伝工作などが行われた。
 そして連合軍の動きが無かったとしても、現地住民は現地のイタリア軍、ドイツ軍に対して好意的とは言えなかった。さらに言えば、イタリア領を抜けた先のスロベニア、クロアチアも、親ナチス政権とはいえ「外の敵」に対して徹底抗戦までは考えていなかった。スロベニアやクロアチアが欧州枢軸なのは、基本的には国家にすらなれない弱小勢力故であり、少し南のセルビアへの対抗心からだった。クロアチアでは義勇武装SSにかなりの者が志願していたが、彼らがロシア人と戦ったという記録は数えるほどしかかなく、ほとんどはユーゴスラビア中部から南部で活動していた。43年頃からは事実上の内戦状態で、彼らにとってはセルビアこそが敵だった。そしてセルビアに勝つために、ナチスドイツの力が必要だった。
(※神の視点より:この世界では1941年春のナチスのユーゴ侵攻は行われず、政治的にバラバラにされただけです。チトーも無名か小物のままです。(※フェイズ50参照))
 だが戦局の進展で、1944年秋に連合軍がギリシアに侵攻すると、事態が大きく変化する。セルビアは東ヨーロッパの盾として連合軍と対峙しなくてはならなくなり、ドイツの調停もあって内乱状態も若干安定化した。そしてさらに1945年8月からソ連軍のルーマニア侵攻が始まると、セルビア(ユーゴスラビア)の首都であるベオグラードが呆気なく陥落して、ユーゴ南東部にソ連赤軍が溢れた。これは親ナチス政権を立てて事実上独立していたスロベニア、クロアチアにとっては由々しき事態だった。共産主義政権を立てたセルビアが、ロシア人を連れて攻めてくる可能性が極めて高くなったと考えたからだ。近年の戦況を見る限り、ドイツ人ももうアテには出来なかった。
 そして全ての問題を連合軍が解決してくれるというのなら、ドイツにこれ以上義理立てする必要性はなかった。しかもイタリアには、かつて領土を奪われた恨みもあった(※厳密には違うが、民族的には同義と言える。)。そしてここで連合軍側に立って戦えば、イタリアに奪われた国土が奪い返せるのではないかという考えに至っていた。
 ただし総意ではなく、一部にそうした意見や主張があるというレベルで、枢軸として戦っている以上、国家的視点から見れば連合軍は敵に違いなかった。

 そして連合軍の進撃が始まると、簡単に地図が塗り変わっていった。平地では、枢軸軍がいてもいなくても同じと言わんばかりだった。しかも連合軍は周到で、進撃路の予定地域に対して山間部では空挺部隊、沿岸部では海兵隊や海軍陸戦隊の中小規模の部隊を各地に送り込み、協力的な現地住民(民兵またはゲリラ兵が主)と合流して、戦う前から大勢を決していった。
 枢軸側にとって防戦の要だった山岳防御は、ほとんど機能することなく連合軍に短時間で突破されていった。1週間後の11月13日には、トリエステ地域は完全に解放される。もう一山、この地域で最も高い山々を越えればスロベニアだった。
 これにはドイツ軍も慌て、急ぎ対処しようとした。そして泥縄式ながら、二つの作戦を実施した。一つは、無理をしてでもハンガリー方面から1個軍団を抽出し、スロベニア方面の兵力を増強する事。もう一つが、少数の部隊を用いてオーストリア南部のケルンテン地域からイタリア北東部のウディネ方面に牽制攻撃をかけることだった。
 連合軍の後ろから牽制攻撃を仕掛けたのは、連合軍がほとんど配備されていない事を見抜いての事だった。これは連合軍の慢心ではあるが、やはりこの時期にドイツ軍が攻勢に出るわけがないという先入観故だった。
 そして攻撃したのがドイツ山岳師団と、現地人を中心にした(士気の高い)北イタリア兵、さらに山に慣れたドイツ南部やオーストリアの国民擲弾兵だったので、予想以上の効果を発揮した。連合軍の気付かない短期間で、攻勢発起点まで進出する事に成功していたからだ。しかも、山を抜けてすぐにも平地での進撃にもなるので、突撃砲、自走砲ばかりながら機甲部隊も1個大隊以上装備していた。
 現地の防衛は、内陸寄りを進んでいた日本陸軍の予備軍だった、日本第33軍の担当だった。だが主力の第29師団は、牽制作戦を兼ねてトリエステ方面のドイツ軍を攻撃していたので、ドイツ軍の前には第109師団しかいなかった。しかも守備範囲が広いため広く薄く分散しており、ドイツ軍の攻勢が1個師団以上の戦力なのに対して、支隊(=連隊戦闘団)程度の部隊しか攻勢正面にはいなかった。

 第109師団は台湾で編成された部隊の一つで、兵士のほとんどが台湾出身者だった。しかしそれでは将校、特に高級将校が足りないため、将校の多くは日本人から派遣されていた。諸外国で言えば、イギリスのインド軍やフランス外人部隊に少し近いだろう。師団長も日本陸軍の栗林忠道中将で、台湾人は戦時特例でも大尉が最高位だった。
 このため数合わせの後方警備用の部隊としか見られておらず、この時も敵の攻撃がないであろう場所に薄く配置されていた。欧州に派遣されたのも、戦うためではなく台湾兵が戦場に行ったという「実績」を作ってやるためだった。それでも前線に出られるという事で、台湾兵の士気は非常に高かった。
 そして師団長の栗林将軍は、この作戦の配置が決まったときから現地の危険性を感じていた。加えて、第8方面軍さらにそれ以外の現地連合軍全体に漂う、「ドイツ軍などもはや恐れるに足らず」という楽観的ムードにも危ういものを感じていた。
 そこで栗林将軍は、第8方面軍とアメリカ第3軍から建設専門の機械化工兵部隊を借り受け、また重いとか扱いにくいからとヴェネツィア港やトリエステ港などで余っていた対戦車砲(※自走砲ではない)、小型で威力が低く射程距離が短い重砲(75mm砲)、重ロケット弾(四式奮進砲、四式重臼砲)などを引き取って自軍に臨時に配備した。また、接近戦の可能性も考慮して、軽機関銃、擲弾筒などの歩兵火力の強化も、集積所や倉庫から半ば奪い取るように集めていった。戦車や自走砲は得られなかったが、迅速な移動用にトラックも十分に確保した。
 こうした栗林師団長の動きは、師団内の高級将校から半ば呆れられたが、将校不足から応召された年かさの将校、下士官からは好評だった。また栗林将軍は、台湾兵も分け隔てなく接するので兵士からの人気も高かった。
 第109師団に与えられた時間は長くはなかったが、9月末から次の攻勢が始まるまで、ほとんどを陣地構築と装備の習熟に費やした。

 ドイツ軍の牽制攻撃は、11月15日に山のすそ野のジェモナに対して開始される。そこはアルプスに流れ込む川があり、山と平地の境目に位置しており、連合軍側からは防備には向いていなかった。栗林将軍もここが守れるとは考えておらず、哨戒拠点程度しか置いてはいなかった。連合軍が最初に守るべきは、鉄道路線のあるウディネ。第一次世界大戦ではイタリア軍の司令部が置かれた歴史のある街で、ドイツ軍の攻勢発起点から30キロもない場所だった。そして連合軍としては、最終的にはドイツ軍を沿岸部にまで進撃させなければそれでよかったが、栗林将軍はウディネまでで止めるつもりで防戦準備をしていた。
 とはいえ、周辺には1個連隊が散らばって布陣しているだけで、陣地戦をしつつも遅滞防御戦をするのが精一杯だった。そして敵の進撃を遅らせている間に、西のヴィットリオ・ヴェネト手前まで薄く広がっている自らの師団部隊の集結を急ぎつつ、各方面への援軍要請、さらには空軍の支援を要請する。援軍要請は、ヴィットリオ・ヴェネトから西側を守るアメリカ第1軍(ホッジス大将指揮)にも出された。
 しかしドイツ軍も連合軍の空襲は予測していたので、昼間は派手には動かなかった。また、ちょうど現地の天候が悪化していたため、空軍も活発な活動は難しかった。
 結局第109師団は、一部の戦力だけで当初はドイツ軍と戦わねばならなかった。だが幸いと言うべきか、敵が攻勢を仕掛けると予測していた場所でもあるため兵数に対して防備は分厚くそして縦深もあり、有線無線も充実させていたので指揮も師団長以下師団司令部が直接下すことができた。
 そして栗林将軍は、歴史のある建造物も多いウディネを戦場にする気は無かったので、陣地は敵の進撃路となる街道沿いなどの郊外に構築された。だが、平たい農地がひろがるばかりの比較的単調な地形なので、農地を借り上げて土木機械で盛り土するなどして、陣地の構築を事前に行っていた。

 予想に反して頑健な現地連合軍に対して、もともと牽制攻撃しか考えていなかったドイツ軍は、山からいくらも出てこないうちに進撃速度は鈍った。今まで道案内や山での活動を指導していた一部の熟練した山岳兵はともかく、兵士の多くが未熟なため進撃速度はいっそう緩やかとなった。だが、枢軸側の攻勢で連合軍は大きく動揺していることが飛び交う無線からも明らかだった。そして牽制攻撃としては大きな成功だったため、事態を楽観した総司令部から進撃の強化と増援派遣の約束が伝えられると、進まざるを得なくなってしまう。
 そして「ラング」や「ヘッツァー」を前面に押し立てて進軍したのだが、山を出てすぐは非常に快調に前進できた。このためさらに楽観して進軍したのだが、10キロも進まないうちに激しい反撃を受ける。対戦車、対装甲車両に対応する考えられた陣地帯に阻まれて、先鋒の装甲車両はあっと言う間に撃破されていった。当然ながら、以後の進撃速度は停滞したままとなった。しかも、最初は連合軍の数は少なかったが、時間が経つに連れて数を増しており、進撃は尚のこと難しくなっていった。
 またドイツ軍は「ラング」や「ヘッツァー」など優れた装甲車両はかなり持っていたが、ハーフトラックやトラック、自動車はあまり有していない部隊ばかりなので、徒歩で進軍する以外だと「ラング」にへばり付くように乗るぐらいしか手が無かった。だが「ラング」は、ソ連戦車のように掴まる取っ手が付いているわけではない。しかも、連合軍の攻撃で砲弾の破片をあびたら、突撃砲が無事でも上に乗っている歩兵は簡単に吹き飛ばされてしまう。ソ連軍だとお馴染みすぎる悲惨な光景ではあるが、それ以外ではこの時期以後のドイツ軍でも度々見られる情景となっていく事になる。
 加えて言えば「ヘッツァー」は見た目は小さな突撃砲だが、本来は対戦車砲を旧式戦車のシャーシに載せて薄い装甲で囲っただけの自走砲だった。なまじ見た目が突撃砲に似ているので友軍からも誤解されており、この時も最前線で突撃に参加して大きな損害を出している。

 攻防戦は3日3晩以上連続したが、結局11月21日までにドイツ軍は撤退。もともと牽制が目的なので、本来ならもう少し早く撤退予定だったのだが、後方の司令部から支援を行うので公正を続けるように命令が下り、無理をした攻勢を続けることになる。そして未熟な兵士が多いため、同日の最後の攻勢では周辺から戦力を集めた連合軍の水際だった反撃を受け、ちりぢりにアルプスの麓へと逃げることになった。
 この反撃では、日本第33軍(軍団)直轄の予備部隊だった第26重戦車連隊(西竹一少佐指揮)が、進撃先の東部から慌てて転進してきて、横合いから他の部隊の先頭に立って進軍し、勝敗を決定づける一撃となった。「三式改重戦車」は、重戦車ながら短期間での機動戦でも役に立つことが、図らずもこの戦いで立証された事になる。こうした活躍もあるため、重戦車ではなく主力戦車の先駆けだったと言われることがあるほどだった。
 なお、この戦闘を後に知ったパットン将軍が栗林将軍の防戦指揮と西少佐の部隊を激賞し、部隊装備の強化の上で「ウィーンに共に進撃しよう」と最前線に引っ張っていってしまうという後日談がある。
 
 結果として大失敗したドイツ軍の小さな局地攻勢は、牽制攻撃としては大きな効果を上げていた。このため戦略的には、ドイツ軍の勝利だった。
 スロベニアに向かう山脈を越えようとしていた連合軍は、後方が危機に瀕したため一時的に進軍どころでは無くなり、さらに後方に援軍を送るために部隊を一旦停止させた。部隊の一部を後方に増援として送り、今まで無視していたアルプス沿いにも兵力を分散配置せざるを得なくなった。そうして配置換えを行っている間は進撃を続けるわけにもいかず、貴重な時間が浪費された。
 そして後方での危険が去った頃には、ドイツ軍が山岳部の防御をある程度固める時間を得ていた。しかもハンガリー方面からの増援が間に合い、防戦の指導をハンガリーにいたケッセルリンク将軍が的確に指示したため、数日前とは比較にならないほど防衛体制が強化された。おかげでこれ以後は、余程の準備と時間がなければ山間の街道は進めなくなった。
 このため短時間でスロベニアに進軍する事ができなくなり、少し後にパットン将軍に「あと10マイルが遠い」と嘆かせた。
 結局、連合軍の野心的とも言えるイタリアから東欧への短期間での進撃は失敗し、敵が防備を固めた冬山を強引に進軍するわけにもいかないため、「カルスト戦線」とも言われた戦線はいったん停滞する事となった。
 だが、枢軸軍はギリギリで数ヶ月を稼ぎ出しただけで、戦略的な不利が覆されたわけではなかった。しかも連合軍は、春までの数ヶ月を攻勢のための準備に費やすし、空からの攻撃が衰えるわけではないので、枢軸側としては春になったら状況がより悪化しているのは確実だった。
 欧州枢軸、ナチスドイツとしては一日も早く連合軍と停戦しなければならない事に何ら変化はなかった。
 しかし連合軍としては、戦局がここまで進んだ以上、敵の反撃を受けようとも進撃を緩める気はなかった。



●フェイズ75「第二次世界大戦(69)」