●フェイズ75「第二次世界大戦(69)」

 1945年冬は、連合軍にとって停滞の冬となった。
 翌年春の攻勢のための準備期間だったとも言えるが、相手が天候と冬山(※アルプスなど地中海世界を分けるライン)とあっては、進撃したくてもできないのが実状だった。ソ連軍は得意の冬季反抗を行う気でいたが、12月から1月にかけて逆にドイツ軍の総反抗を受けて大損害を受けていた。このためソ連軍も、春までは身動きが取れなかった。
 南フランスとハンガリー方面ではジリジリと連合軍が進軍していたが、枢軸軍が地の利を活かして効果的な防戦に務めているため、どちらも決定的な進撃はできないでいた。
 そして1946年春になると俄に北の海が騒がしくなり始めるのだが、1945年の冬になるまでの初夏以後も北の海が静かになる事は無かった。

 連合軍海軍の反撃の立て役者、進撃の表看板といえば空母機動部隊だった。空母機動部隊は常に勝利と共にあり、カリブ海、インド洋、北大西洋は空母機動部隊の戦場だった。しかし、イギリス本土が連合軍側になると、連合軍の上層部では空母機動部隊どころか海軍全体の役割が実質的に終わったと考えるようになっていた。残る最大級の上陸作戦でも、必要な海軍力は敵爆撃機と潜水艦を封じるための補助的な艦艇で、戦艦や空母は無用とまでは言わないまでもコストに合わない贅沢な兵器と考えられるようになっていた。
 そこで、日本とアメリカの「心ある人々」の中でも好戦的な人々が中心となって、1945年夏頃から積極的な作戦を次々に提出し、そして多くを実現させていった。
 このため日米海軍は、自分たちのために戦場を作り出したと言われることがあるが、アメリカ陸軍のアーノルド将軍のようにアメリカに独立空軍を作るためだけに動いた人もいたため、それほど多くの非難を浴びることが無かった。そればかりか、1945年6月以後は連合軍全体の進軍が停滞を続けているため、国民に戦っている事をアピールするためにも、海軍が派手動き回ることに肯定的な人が多かった。
 そして連合軍海軍は、作戦準備としてまずは全ての主要戦力をイギリス本土を中心とした北大西洋側への集結を実施する。しかしこの段階で、連合軍の慢心から主に日本海軍で多くの損害が発生した。

 1945年7月24日、日本海軍の重巡洋艦《加古》が、地中海からブリテン島北部への回航中にドイツ海軍の《XXI型》Uボートの雷撃を受けて、呆気なく沈没してしまう。魚雷3本が相次いで突き刺さった《加古》は、魚雷命中から5分で横転沈没。ダメージコントロールの暇もない沈没で、機関室を真ん中で仕切るという日本海軍の旧来型巡洋艦の欠点が露呈した形での沈没だった。幸い被雷すぐに総員退艦命令が出されたため、乗組員の90%以上が助かった。
 雷撃した潜水艦は、同伴していた駆逐艦によって撃沈されたが、大型艦の沈没に慣れていない日本海軍内では小さくない衝撃となった。
 しかも悲劇は続いた。
 翌25日、深夜の戦闘で複数の《XXI型》Uボートの素早い動きにハンターキラーの護衛駆逐艦が翻弄され、その末に護衛空母《安土》が魚雷2本を受けて沈んだ。しかもUボートは取り逃がしており、夜間に熟練した艦長達が操る《XXI型》の強さを見せつける戦闘となった。(※昼間だと、対潜哨戒機の敵ではなかったが。)
 そして同28日、さらなる衝撃が日本海軍を襲う。
 地中海から、今度は北大西洋を横断してアメリカ東海岸での徹底したオーバーホールのために移動中だった日本海軍地中海艦隊の主力部隊が、これも夜間にドイツ海軍潜水艦群の襲撃を受けた。
 可能な限り哨戒機の活動中に危険地帯を抜けようとしたのだ、時間的制約からそれが叶わなかった。そしてこの当時の護衛空母では、夜間の発着は余程の熟練者でもない限り無理だった。そのため夜間飛行可能な陸上配備の大型哨戒機が警戒する中での航行だったが、運悪く《XXI型》Uボート3隻が哨戒網を張っていた海域に踏み込んでしまう。そして偶発的に対潜水艦戦闘が繰り広げられ、その隙に主力部隊が戦場からの離脱を図ったのだが、その事がかえって仇となった。速度を少し増したことで護衛の駆逐艦のソナーの感度が下がり、回り込んでいた別の《XXI型》の雷撃を許したのだ。この雷撃で艦隊中心にいた戦艦《山城》が被雷。これも3本の潜水艦魚雷を受けたが、当初はダメージコントロールのお陰でその場は耐えたが、旧式化と酷使で劣化していた主要水中隔壁の一部が水圧に耐えきれず破壊。これで機関部に海水が大量に流れ込み、夜明けまで乗組員ばかりか接舷した友軍の艦艇や乗組員が加わってダメージコントロールに徹するも、ついに総員退艦が命じられる。
 そして日本海軍にとって、そこからが大問題だった。
 損害と戦術的な問題は、アメリカ海軍などと協力して対策をとっていけばいいが、人事の問題は日本海軍内で対処しなければならなかった。

 第二次世界大戦に入ってからの日本海軍は、不思議なほど大型艦の損失が無かった。相対した敵が相対的に弱かった事、戦場での幸運が主な原因だが、それでも損害が少なすぎるとは戦争中もよく言われていた。一方で日本海軍は、海軍兵学校に代表されるように、閉鎖的な組織であるだけに「身内に甘い」ところがあった。また逆に、一度の失敗で経歴全てが終わるような側面もあった。一つの失敗で実質的に粛正された者も、一人や二人では無かった。
 大戦中、それまで日本海軍内で一番問題視されたのは、大量の輸送船が沈められた場合の護衛担当の指揮官などに対してだが、政府や陸軍、軍需省の厳しい追及に対しても、海軍は身内を庇う姿勢を変えなかった。一番の目立つ損害を受けた指揮官の武部提督も、他に人材がいない事もあってか後により高位の指揮官に返り咲いている。
 また、1945年に入るまでの艦艇での最大の損害は旧式軽巡洋艦か借り物の護衛空母だったが、どれも激しい戦闘中の損害なので特に大きな問題とはならなかった。人材不足から中佐で護衛空母の艦長を務めていた者も、次々に就役する他の艦に乗り換えて戦い続けた。他の中小艦艇でも、状況は似たり寄ったりだった。それに護衛空母程度の艦艇ならば、当時の日本海軍にいくらでもあったので、艦長や乗組員を左遷や罷免する必要すら感じていなかった。
 1945年6月の北アイルランド上陸作戦で軽空母《日進》が奮闘の末に沈んだ時は、艦長は被弾時に戦死していた事もあり、少将に特進した上で勲章を遺族に贈って事は済んだ。戦死した艦長や乗組員は、艦を沈めた事を非難されるよりも勇敢に戦った事を賞賛された。
 しかし、7月に連続して起きた大勝利のすぐ後の続けざまの大型艦の沈没は、流石に日本海軍内でも大問題となった。護衛空母のほうはまだ問題は小さかった。戦闘中だったし、新型Uボートに対して夜間戦闘が不利なのは既に十分分かっていたので、艦が沈んだのは残念だが当事者を処罰するほどの事とは考えられなかった。むしろ貴重なダメコン経験者として、重用しなければと考えられた。
 だが、重巡洋艦《加古》の沈没は問題だった。随伴する駆逐艦は一応の対潜陣形を取っていたが、艦隊全体は対潜運動を行っていなかったからだ。しかも、行程の遅れを取り戻すため18ノットとかなり早い速度で航行していたので、駆逐艦のソナー感度も少し鈍っていた。つまり、危険性の比較的高い海域にも関わらず、敵はいないという前提で航行していたに等しく、油断の最たる例と考えられたのだ。それでも戦艦《山城》が沈むまでは、そこまで深刻に考えられてはいなかった。だが《山城》沈没で、日本海軍内部での考えが悪い方に傾いた。臭い物に蓋をしようとしたのだ。
 《山城》艦長は自身に過失は無かったが、戦艦を沈めたこと自体が問題視されて、最低でも事実上の左遷は確実と見られていた。また、北米に着いてからは、主に後方で活動する参謀や将校などから《山城》艦長は白眼視された。当人も、自主的に謹慎に入った。
 だがここで、一方の《加古》艦長と第八艦隊司令官の鈴木中将に対して、既に内示の形で処罰した事が影響してくる。《加古》喪失は慢心から艦を失ったのでやむを得ない措置だったが、《山城》喪失を同列に扱う事が疑問視されたのだ。《山城》が属していた第七艦隊司令官の阿部中将も指揮の面では大きな落ち度はなく、こちらも処罰するのが躊躇われた。そして信賞必罰の形で、最終的な処分がくだされた。
 結局、《加古》艦長、鈴木中将は解任の処分が下される。その他、第八艦隊司令部は対潜参謀、航海参謀をはじめ処分の嵐が吹き荒れた。多くの者がその後の出世の道を絶たれるか昇進、出世が大きく遅れ、中には自殺者まで出たほどだ。しかも、ちょうど艦隊再編成の時期に入ったため、役目を終えたとして第八艦隊そのものが解体されてしまう。またこの時の損失に関しては、アメリカ海軍なども交えた徹底した調査も実施される事となった。
 一方で《山城》艦長と乗組員は、乗艦を失ったため本国への帰還となったが、休暇もそこそこにすぐにも新造艦への乗り組が命じられた。艦長も少し畑違いながら新造の大型空母の艦長を拝命し、捲土重来を期すことが許された。阿部中将は、そのまま艦隊を率い続けた。
 結果、日本海軍としては勝利で緩んだ綱紀の粛正も兼ねた重い処分となったが、一方では重要な艦を沈めても責務を果たしていれば責任が問われず、船にも乗り続けられる大きな前例が出来たと言うことで、第二次世界大戦時ばかりか戦後の日本海軍の人事にも大きな影響を与えたと言われる事もある。(※護衛空母は基本借り物なので、人事上では問題視されていなかった。)
 なお、海軍中枢で信賞必罰を最も主張したのは当時海軍次官だった井上成美大将と言われているが、その点では海軍は黙して語っていない。また、逆に必要以上に処罰してはならないと言ったのも、井上成美大将と言われている。

 綱紀粛正と再編成を終えた日本海軍は、きたる1946年初夏の大作戦より先に、自らの存在意義を他者に認めさせるべく、攻撃的な活動を開始する。アメリカ海軍も同様であり、日本海軍以上に強大な艦隊を再編成して、日本海軍と二人三脚の親密な体制で作戦にあたった。日米の海軍が、これほど意気投合して歩調を合わせたのは、大戦が始まってから初めてだと言われたほどだった。そして自らの組織の生き残りが架かっているため、全員が懸命だった。
 そしてこの時の指揮官は、日本海軍が伊藤中将、アメリカ海軍がスプルアンス大将とキンメル大将になるが、伊藤中将とスプルアンス大将は伊藤中将の駐米武官時代から親交があったため非常に良好だった。キンメル提督も和を乱すことのない紳士的な提督だったので、戦争の終幕まで三人の提督は息のあった作戦行動を展開していく事になる。
 艦隊は機動部隊だけでなく、戦艦部隊も依然として編成されたままだった。宇垣提督率いる日本第二艦隊と、リー提督率いる第24任務部隊だ。どちらもアイルランド上陸作戦の艦隊決戦の立て役者であり、世界最強の戦艦部隊の双璧だった。この二人は、というより二つの艦隊はどちらかが作戦行動を取っている間は、もう片方は後方だったため連携や協力はあまり無かったが、宇垣提督が残した私的な日記にはリー提督を高く評価する記述が何度も登場している。

 連合軍海軍のヨーロッパ北部沿岸での作戦開始は、1945年8月に開始される。
 主な目的は、欧州枢軸軍の沿岸防衛能力の低下を図る事。同じ事はイギリス本土から空軍が行う予定だったが、8月時点ではまだ連合軍の空軍部隊はほとんど進出していないし、ブリテン島への生活物資輸送が先決なので、連合軍の進出も進んでいなかった。
 そしてドイツ軍も、イギリス本土の状態を見て多少は油断していると考えられたので、奇襲的かつ野心的な攻撃計画が立てられた。
 しかし、6月初旬の大海戦から2ヶ月弱しか経っていないので、先の海戦で大きく損傷した艦艇はまだ第一線に復帰していなかった。
 日米両海軍軍とも、戦艦部隊は損傷した艦艇がほとんどで修理途上も多いため作戦には不参加だった。それどころか、年内の再編成と戦列復帰も無理と見られていた。空母機動部隊の方は、アメリカは大型2隻、小型1隻が戦列から離れていたが、大小20隻の空母を5群に分けて運用していた。日本は軽空母1隻損失の他に4隻の損傷艦を出しており、どれも雷撃を受けていたので戦列復帰は最低でも三ヶ月後だった。それでも15隻の高速空母を3群に分けて運用していた。また一部の無傷だった戦艦や重巡洋艦は、この作戦のために臨時に空母部隊に編入された。
 作戦には3つの艦隊全てを投入予定で、作戦は2段階に分けられていた。戦略的にはドイツを休ませない事にあり、戦果はどちらかと言えば二の次だった。

 8月6日、まずキンメル提督率いる第28任務部隊麾下の2個機動群が、フランスのブレスト軍港を空襲。さらに翌日、近在のサン・ナゼール工廠を襲った。2個群とはいえ超大型空母《ノース・アトランティック》、《プエルトリコ》を含む強力な艦隊なので、現地フランス空軍を圧倒するのは容易だった。
 この頃フランスは、ほぼ全ての戦力を地中海方面に注ぎ込んで南部の山間部で防戦に務めており、北大西洋側の防備は非常に希薄になっていた。それでもブレスト軍港、サン・ナゼール工廠が襲われる可能性が高いと予測して、100機以上の戦闘機を配備し、哨戒機を飛ばして、レーダーで警戒網を作っていた。だが、圧倒的な攻撃に対しては、損害を軽減させる程度にしか役にはたたなかった。
 アイルランド沖の海戦後、残存するフランス艦隊が逃げ込んだままだったブレスト軍港では、損傷修理中の艦艇や修理を待っている艦艇が港内各所でさらに損害を受けた。沈められた艦艇こそ小さな哨戒艇程度だったが、ますます窮地に追い込まれてしまった。軍港施設も、少なくない損害を受けた。
 サン・ナゼール工廠では、装甲空母《ガスコーニュ》が艤装中だったが、ブレスト空襲で大きく減った防空部隊では、連合軍の攻撃を防ぎきれず被弾が相次いだ。被害は艦艇と周辺の工廠施設(主に艤装施設)に及び、大量にばらまかれた小型爆弾やロケット弾によって、小さな被害ばかりが無数に発生した。施設破壊のための大型爆弾は使用されなかったが、それは既に連合軍が戦後を考えていたからだった。
 8月9日、次に日本軍の空母機動部隊が、ノルウェー北部のナルヴィクを襲撃した。同港は、冬の間凍るバルト海に代わり、スウェーデンで産出される良質の鉄鉱石をヨーロッパに運び込む輸送ルートに使われていた。鉄鉱石は、スウェーデン国内からデンマークまでを鉄道で運ぶことも可能だが、当時は、結局最後は船を持いねばならない。それにコスト問題を考えると、鉄道より船舶を使う方がはるかに安く付いた。加えて中立国のスウェーデンは、国内の鉄道輸送を嫌った。そして連合軍もすべて熟知しており、クレーンや倉庫、鉄道路線など積み込みに使われる施設を中心に激しい攻撃を行った。その代わり、護岸などを破壊する大型爆弾は使用しなかった。ナルヴィク攻撃は翌日も行われ、2日間で7波のべ1500機が空襲した。
 同地域にはドイツ空軍が150機の航空機を配備していたが、奮闘虚しく壊滅状態に陥った。新型の「Ta152」もジェット機の「Me262」も数が少なくては役に立たなかった。また、ナルヴィク周辺の軍用飛行場、レーダーサイト、沿岸砲台も一通り空襲を受けて大きな損害が出ていた。
 そして最後に、スプルアンス提督の艦隊がノルウェー南部沿岸のベルゲンを中心として、ドイツ軍の空軍基地、レーダーサイトを激しく叩いた。
 一連の攻撃で、ノルウェーに展開していたドイツ空軍第5航空艦隊は半身不随の状態に陥った。それでなくても、6月の戦闘で洋上作戦可能な機体のほとんどを失っていたため、作戦能力のほとんどを失った事になる。
 ノルウェー各所のレーダーサイトも反復攻撃を受けた上に、こちらは建物の基礎から破壊する大型爆弾が多数使われたため、損害は深刻だった。ほとんどが短期間での修理は不可能で、修理するには本格的な建設部隊の投入が不可欠だった。各地の空軍基地も、基地施設もかなり破壊され、基地にあった土木機械の多くも損害を受けたため、単に航空隊を補充するだけでなく本格的な建設部隊が必要だった。それでも一部に作られていたドイツ的丈夫で作られた飛行機用トーチカなどは無事だし、滑走路も取りあえず埋め戻せば使えた。ただし使える機体が短期的には僅かで、滑走路を埋め戻すための土木機械もほとんど破壊されたので、少ない人員で行うしかなかった。
 ドイツ空軍は現地の陸軍に全面協力を依頼したが、現地陸軍と言っても度々兵士を引き抜かれた歩兵師団が5個師団ほど、細長いノルウェー各地に分散して配備されているだけだった。兵士の多くも国民擲弾兵レベルの質の低い兵士が多く、使える若者と将校のほとんどが他の戦線に引き抜かれていた。加えて工兵部隊の能力も低かった。
 しかも連合軍が一連の激しい空襲をしたことで、連合軍のノルウェー侵攻の可能性が高まったと判断せざるを得なかった。イギリスが一夜で寝返った以上、敵は目と鼻の先にいるのも同義であり、警戒しすぎてしすぎるという事はなかった。北大西洋の北部でも、無理をすれば9月なら上陸作戦は可能だし、自分たちは春になったばかりの4月にノルウェー侵攻を成功させていた。連合軍が本気になれば、簡単に攻め込めるだろうと考えられていた。このためタダでさえ少ない兵力を空軍に貸すことはできないと、普段の空軍の横柄な態度もあって非協力的だった。
 しかし連合軍の目的は、この時期のノルウェー侵攻ではなかった。今は兵士を敵の目の前まで運ぶよりも、ブリテン人に小麦とベーコンを運ぶ方が大切だった。
 連合軍の目的は、一連の攻撃が止んで3日後に明らかとなった。
 作戦の第二段階の発動だった。

 1945年8月15日黎明、ドイツ北西部最大の都市ハンブルグに空襲警報が鳴り響いた。
 8月12日までに北大西洋上に集合した連合軍の3つの空母機動部隊は、一旦はブリテン島の影に入るように移動。一見、一連の攻撃を終えたように擬態した。その後、ドイツ軍の哨戒潜水艦を欺く進路をとって、振り切るか他のハンターキラー戦隊で行動を封殺したのを確認すると、一気にブリテン島北部寄りに旋回して南下する。そして北海に入ってすぐ、ハンブルグから約500キロも離れた洋上から、黎明前を期して一斉に艦載機を発進させた。
 8個空母群、大小35隻の高速空母から放たれた攻撃隊の数は、2波合わせて約2000機。6月の海戦よりも巨大な規模の攻撃隊であり、6月の戦闘がなければ艦隊将兵、パイロットもこれほどの大規模な攻撃隊を一度に送り出すことは技能面から不可能だった。
 攻撃隊のうち60%が各種攻撃機になり、残りが戦闘機だった。このため艦隊を守る戦闘機は400機程度となるが、万が一ドイツ空軍が大規模な反撃を行った場合の不足分は、イギリス本土の戦闘機隊が補うことになっていた。
 この時の1200機の攻撃機の平均搭載量は約1100kgとされている(※流星は最大1.6トン搭載できるし、アメリカの攻撃機は2000ポンド(約900キロ)が通常。)。つまり総量で1300トンの各種爆弾が、洋上を高速で移動する艦艇に命中させる手腕を持った熟練したパイロット達によって投弾されていった。しかも戦闘機隊の3分の1は翼にロケット弾を満載していたので、攻撃力はさらに高まっていた。艦載機による攻撃としては最大規模であり、ハンブルグとその周辺部は大混乱に陥った。
 連合軍の主な目標は港湾部で、特に海軍用の工場地区が狙われた。特にUボートをマスプロ的に大量建造している施設を集中的に攻撃対象とした。それ以外にも、港に浮かぶ船舶は大小を問わずに狙われ、甚大な被害が発生した。鉄鉱石用の港湾施設にも、かなりの規模の攻撃が行われた。
 戦略的には奇襲といえる攻撃に際して、ドイツ空軍は周辺から飛び立たせることの出来る戦闘機を全て緊急出撃させた。不利を承知で、配備が始まったばかりの双発の夜間戦闘機も飛び立たせた。間に合うのなら、爆撃機型のジェット戦闘機も飛び立った。
 敵が飛行してきた位置から空母部隊と言うことは分かっていたし、連合軍艦載機の航続距離が異常なほど長いので、場合によってはベルリン空襲すらあり得ると考え、ベルリン周辺部の航空隊までが慌てて迎撃体制を取った。
 しかし、連合軍の第一目標はハンブルグの空襲で、ベルリン手前で迎撃体制を取った航空隊は、遠く立ち上る煙を見ることしかできなかった。そして主力の「Bf109」系列の戦闘機は航続距離が短いので、助太刀に向かうのも難しかった。

 連合軍の攻撃は、一度で終わりではなかった。
 その日だけでも、第二次、第三次と次々にドイツ北西部沿岸に攻撃隊が送り込まれた。だが攻撃目標は、もうハンブルグではなかった。連合軍の本命といえる目標は、ドイツ海軍の一大根拠地のヴェルヘルムス・ハーフェンと、ユトランド半島を跨いだバルト海側にあるキール軍港だった。
 ヴェルヘルムス・ハーフェンはUボートの出撃拠点で、今までは北海の奥地ということで連合軍の攻撃はあり得ず、Uボートの楽園だった。だが、一瞬でイギリス本土が敵となったので、無防備なまま敵の目の前にさらされる状態に陥った。軍港自体は沿岸砲台、高射砲の追加設置などは急ぎ進んでいたが、直接的な防衛体制としてはほとんど丸裸だった。潜水艦用の強固な防空桟橋(ブンカー)も建設計画が急ぎ立てられたが、まだ基礎工事にも入っていなかった。
 このため、臨時措置としてUボートはキールなどに分散するようにしていたが、大戦中に施設をここに集中していたため、作戦を行うためには利用せざるを得なかった。
 そこに連合軍の攻撃機が集中し、軍港施設、停泊中のUボート、港の作業船泊など手当たり次第に攻撃し、壊滅的な打撃を与えた。潜水艦は華奢な構造なので、大型爆弾の水中爆発による衝撃波や爆弾の爆風、小型爆弾の命中でも、港に停泊した状態であるなら簡単に損傷していった。
 キール軍港には、6月の海戦を生き残った艦艇の多くがいて傷を癒していたが、再び多くの艦艇が損害を受けた。幸いと言うべきか沈められた大型艦艇は無かったが、施設にも人員にも大きな損害を受けたので喜べる状況では無かった。難を逃れたのは、ソ連軍の攻勢に対応するためバルト海に出動していた重巡洋艦《プリンツ・オイゲン》や装甲艦《シェーア》など一部の艦艇だけだった。

 次も敵艦載機がハンブルグに殺到すると考えて次の迎撃機を布陣させたドイツ空軍は、連合軍が洋上で二手に分かれるのを目にする。慌てて迎撃網は変更されたが、最初のハンブルグ空襲の時点で混乱していたのを立て直そうとしていたところなので、二度目の奇襲に際しては建て直しがきかなかった。
 それにドイツ本土の防空を担当するドイツ空軍第1航空艦隊は、基本的にはベルリンの防空と、地中海側からの膨大な規模の攻撃を防ぐ体制を中心にしており、イギリス本土方面の防空体制は構築が始まったばかりだった。北海からの艦載機の空襲などはある程度想定はしていても、僅か二ヶ月の時間では机の上にしか十分な防空計画は無かった。
 加えて、空母機動部隊の空襲と連動する形で、地中海方面からのドイツ南部への戦術爆撃の密度が高まりを見せており、北海側に十分な迎撃機を配備するのは、物理的に不可能だった。
 そこに2000機もの小型単発機の群れが押しよせたのだから、どれほど努力しようとも防ぎきるのは無理だった。ハンブルグなど北海方面で防空戦闘ができる機体は、合わせて200機程度。敵がベルリンにまで踏み込んでくれればさらに200機程度が迎撃に参加できたが、連合軍はハンブルグから内陸に200キロほどしか離れていないベルリンをこの時は無視していた。流石に危険が大きすぎると判断していたからだ。
 そして最初の戦闘では、約400機の制空戦闘機が迎撃に出動したドイツ空軍機に勝負を挑んできたので、連合軍の攻撃機を迎撃するどころではなかった。攻撃機の迎撃は高射砲に頼るしかないのが実状だった。その高射砲についても、今までは北海側は後回しにされていたので、8月半ばだと敵の進撃路となる場所に陣地が作られはじめた所だった。レーダーサイトはまだマシだったが、それでも効率的な迎撃管制が出来るほどの密度は無かった。当然ながら、そうした数少ない高射砲やレーダーサイトも、目に付く限りは破壊された。
 第二次攻撃隊の時には、連合軍側がほとんど減っていないのに対して、ドイツ空軍機は目に見えて減っていた。
 そして予測以上にドイツ空軍の防空体制が甘いことを確認した連合軍の空母機動部隊は、その日さらにもう一度攻撃隊を送り込んだ。そればかりかさらに翌日も攻撃を続行し、自分たちの各母艦の弾薬庫と艦載機燃料庫が空っぽになるまで攻撃を続けた。攻撃対象は、ブレーメンハーフェン、リューベックにも拡大され、各都市の海軍施設、軍港施設を激しく攻撃した。
 ブレーメンハーフェンはハンブルグと並ぶドイツ有数の港湾都市なので、停泊する船舶と港湾施設が狙われた。リューベックはバルト海側の工業都市だが、海軍用の工場が多数有り中でも大規模な魚雷工場があったので、これが集中的に狙われた。

 空母機動部隊の3人の指揮官は、いずれも紳士的だという評価を得る人物だったが、この時の攻撃は同じ連合軍のハルゼー提督や角田提督のように攻撃的だったと言われる。だが彼らに言わせれば、好機を捉えるのは軍人の常であり、指揮官としての義務でしかなかった。
 そして、突然猛攻を受けたドイツ海軍が受けた損害は極めて大きく、懸命に迎撃したドイツ空軍も大損害を受けた。潜水艦は向こう三カ月ほどはほとんど組織的に出撃できなくなり、現地ドイツ空軍の稼働機は一時的ではあるが50機以下にまで激減した。
 しかも寝返ったばかりのイギリス本土空軍が、この後の攻撃を引き継ぐ形でドイツ沿岸部の空襲を開始したので、迎撃体制の再構築に手間取り損害復旧は遅れた。
 まさにドイツを休ませないための作戦であり、作戦は大成功だった。連合軍の空母部隊は意気揚々と引き揚げ、その後も頻繁に出撃を繰り返すことになる。
 だがドイツもやられっぱなしではなかった。
 イギリス本国の変節に怒り狂っていたヒトラー総統の報復計画が、イギリス本土に牙をむいたのだ。
 フランスやオランダ沿岸に基地を設置した「V-1(報復兵器1号)」こと「Fi 103」飛行爆弾が、9月頃からブリテン島に向けて発射されるようになったのだ。既に説明したとおり、同兵器は命中率は期待できないが敵を混乱させる効果が十分にあった。しかも時速600キロで飛行するので迎撃は難しく、どこに落ちるか発射した側ですら分からないので、連合軍は苦労して迎撃せざるを得なかった。
 「V-1」による攻撃は最初は散発的だったが、イギリス本土が攻撃を受けたので迎撃しないわけにはいかず、イギリス本国はドイツ本土への攻撃よりも自分たちの迎撃体制の充実に力を入れざるを得なくなる。
 おかげでドイツ沿岸部の攻撃は低調となったが、連合軍空軍も報復として夜間爆撃を行うようになったため、両者の攻撃と迎撃合戦は急速にヒートアップしていくようになる。
 だが、1945年の時点では「V-2」ミサイルはイギリスには使われなかったので(※対ロシア作戦のため備蓄に務めていた)、しばらくはイギリス本国とドイツ軍の攻防が北海、ドーバー海峡を挟んで繰り広げられる事になる。
 しかし、連合軍の強大な空母機動部隊は例外だった。ドイツ北西部の攻撃も、イギリス本国空軍の援護を受けて北海に入ってくるし、潜水艦で迎撃しようにも前衛として多数の対潜水艦部隊を進軍させてくるので、対処のしようがなかった。それ以前の問題として、最初の一撃で潜水艦基地と潜水艦に大打撃を受けたので、1945年内は洋上でまともな迎撃手段がないのが実状だった。

 連合軍空母機動部隊によるヨーロッパ北部沿岸の空襲は、10月になると再開される。しかも新造空母の新たな戦列参加や損傷艦艇の復帰も進んだため、全体としての戦力はさらに向上していた。ドイツ軍にとっての僅かな慰めは、3つの空母部隊が一度に攻撃してくることはなくなったぐらいだった。
 しかし今度は、機動部隊が2週間ごとにヨーロッパ北部沿岸のどこかを、局地的かつ集中的に攻撃するようになる。重要拠点以外は薄く戦力を配置せざるを得ないドイツ側としては、重要度の低い場所が攻撃を受けた場合は迎撃を諦めるしかない状態だった。
 攻撃はドイツ北西部だけでなく、オランダの港湾にも行われるようになり、港湾施設の損害こそ意図的に警備だったが、船舶は多くが破壊された。
 同じように攻撃を受けたフランスも同様で、サン・ナゼール工廠の装甲空母《ガスコーニュ》は建造続行がほぼ諦められた。その他の艦艇も同様で、用意されていた高射砲や機銃も基地の防衛に使われた。《ガスコーニュ》など移動可能な大型艦は、可能な限り安全な場所に待避させ、さらには沈没しないように座礁用の平らにした浅瀬を用意する事さえ行われた。ブレスト軍港も、さらに一度大規模な攻撃を受けて、艦艇の修理ができなくなるばかりか、多くの艦艇が行動不能に追い込まれた。中には港内で大破着底して、事実上撃沈された艦もでた。
 そしていつしか、欧州枢軸側は沿岸部での防空戦を半ば諦めて、戦力を内陸に温存するようになる。例外は敵が上陸する可能性の高いドーバー海峡の沿岸部では、物資の不足と空襲によって砲台や陣地の構築は予定取り進まないながらも、精力的な活動が行われた。

 1946年2月になると、連合軍の空母部隊は姿を見せなくなった。代わりにイギリス本土からの連合軍空軍の爆撃が激化したが、空母が来なくなったと言うことは長期の整備と補修、乗員の休養に入ったという事を示していた。
 そして春になれば、彼らが再び戦場に戻ってくることを誰もが確信していた。



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