●フェイズ76「第二次世界大戦(70)」

 1945年6月のイギリス本土の「華麗なる変わり身」と揶揄されることもある事実上の寝返りを当初最も喜んだのは、アメリカ陸軍ヘンリー・アーノルド元帥だと言われる事がある。

 アーノルド元帥は、アメリカ空軍生みの親であり、たびたび心臓発作を起こすという病身をおして空軍を作るために第二次世界大戦を奔走してきた人物だった。しかしアメリカ市民の目から見て、戦争で活躍したのは海軍と陸軍だった。空軍、というより航空機こそが第二次世界大戦の立て役者なのだが、支援や事前攻撃などを行っているだけような印象が強かった。しかも大戦初期は、アメリカ、日本共に小規模ながら本土爆撃を受けて、最も批判されたのは航空隊(空軍)だった。
 そして空軍単体での目立つ活躍の場となると、相手国の重要拠点や本国に対する大規模な空襲しかなかったのだが、第二次世界大戦でそのような戦場はほとんど無かった。1942年初夏から1943年秋にかけての中華民国首都重慶に対する爆撃が一番大規模だが、当時はともかく戦争全体から見れば局地戦程度の規模でしかなかった。それに中華民国との戦いは、1941年夏の平原地帯での地上戦がクライマックスで、あとは敗残処理や消化試合的な見方しかされていなかった。戦い自体も一方的だったので、アメリカ本国では話題にもならなかった。それにアメリカ人の見るところ、極東での戦いはアジア人同士の戦争に過ぎなかった。
 1944年半ば以後になるとヨーロッパに対する爆撃が可能となったが、今までの戦争の経緯から連合軍空軍全体の装備体系と兵力が、大規模な戦略爆撃を行える状況ではなかった。これまでの戦争では、航空機は戦闘機と戦術攻撃機(爆撃機)が重視され、生産の方も戦略爆撃に必要な重爆撃機の生産は常に控えられていた。安価な双発の「B-25」爆撃機が改良型を含めて2万機以上生産されたのに対して、最も生産された4発の重爆撃機「B-24」でも5000機に達していなかった。ボーイング社が熱心に売り込んだ「B-17」の生産数は、アメリカとしては少ない3000機程度だった。しかも4つのエンジンを搭載する大型機である重爆撃機は生産単価が高いため、各国の財務担当者が大量生産を嫌っていた。墜落した時の搭乗員の損失の多さも、政治家からは嫌われた。「B-24」の生産数が比較的多いのは、非常に長い航続距離と搭載量を買われて対潜哨戒機、偵察機として使われたからだ。それでも次世代機として破格の性能の爆撃機の開発が行われたが、政府や軍全体はともかく市民は期待していなかった。

 また、連合軍内にアーノルド将軍の味方も少なかった。
 アメリカ陸軍以外に4発の大型機を多数保有するのは、日本海軍航空隊だったが、日本海軍航空隊は洋上作戦を極めて重視する戦術空軍だった。能力と装備は戦略爆撃(無差別爆撃)にも適していたのだが、運用する当人達にその気がなかった。皆無ではないが乏しかった。日本人の一般的感情からも、一般住民の住む都市の無差別爆撃などは受け入れがたく、戦略爆撃(無差別爆撃)は他に手段がない場合に限り目標を絞って行うものだという認識だった。その際たる例が、中華民国に対する重慶爆撃だった。そして日本海軍航空隊は、重慶爆撃を唯一の例として他では戦術爆撃しか行っていなかった。
 日本海軍航空隊にも戦略爆撃論者は皆無では無かったが、軍の中枢に強い支持者はいなかった。空軍としての海軍航空隊に理解がある当時の日本海軍の重鎮は、山本五十六提督(※開戦時は聯合艦隊司令長官、1943年秋から軍令部総長、1945年に元帥に昇進。)と井上成美提督(※開戦時は海上護衛艦隊司令、1943年秋から軍令部次官)が代表的とされる。だが、山本提督は政治家志向な上に海軍全体の利益を考えていたし、井上提督も空母機動部隊など水上艦隊との連携前提の考えだった。前線で日本海軍航空隊を率いた塚原提督、武部提督、大西提督、吉良提督、寺岡提督らのうち、基地航空隊論者は大西提督ぐらいで、彼も戦略爆撃を推していたわけではない。武部提督と同期の小沢提督も、合理的な一方的攻撃論は展開していたが、基本的には「海の男」で空母機動部隊の信奉者だ。
 日本陸軍航空隊は、どこまで行っても小さくまとまりたがる戦術空軍なので、独自空軍に賛同はしてもアーノルド将軍の同士や支持者にはなり得なかった。それに「日本空軍」を作れるほどの政治力を持つ軍人が皆無だった。自国の海軍と海兵隊は、組織的には「敵」でしかない。
 流浪の身の自由イギリス軍は第一次世界大戦から空軍を有していたが、何かを期待するのは無理だった。空軍の一つのテストケースとされた満州帝国空軍は、爆撃機にも理解が深いドーリットル将軍の半ば私物と化していたが、「借り物」の軍隊と戦場でできる事は限られていたし、ロシアの空でやっていることはあくまで戦術空軍だった。ベルリンへの奇襲的な爆撃は、ドーリットル将軍将軍の考えはともかく例外的な事でしかなかった。
 つまりアーノルド将軍と彼の一派は、孤独な戦いを強いられていたと言ってもよいだろう。同士としてならば、イギリス本国に残っていたハリス将軍などの方が適任だっただろう。加えて言えば、欧州諸国はほぼ全て独自の空軍を有していた。アーノルド将軍にとっては、皮肉な状況と言えるだろう。
 
 1944年半ば、エジプトのポートサイド郊外に重爆撃機用の長い滑走路を備えた空軍基地が設営され、期待の「ボーイング B-29 スーパーフライングフォートレス」超重爆撃機が作戦行動を行うようになった。だが最初の頃は、革新的な新兵器にはよく見られる見るも無惨な稼働率で戦果も少なかった。44年秋に行われたルーマニアのプロエシュチ油田への爆撃も、最初は無惨な失敗をした。そして何より、費用対効果、犠牲の大きさなどを考えた場合、従来どおりの戦術爆撃で十分というのが連合軍全体、アメリカ全体の総意だった。加えて言えば、空軍独立に理解のある人の多くも、前線がヨーロッパにまで進んだとはいえ戦術爆撃を拡大すれば十分だろうと考えていた。今まで多くの発注を受けていた航空機メーカーの多くも、自らの利益のために戦術爆撃論を推した。
 重爆撃機を一度に何百機も飛ばして相手首都を爆撃するのは、成功すれば政治的効果は見込めるし、実際に多くの損害を与えられる可能性もあるとは考えられていた。重工業都市などへの継続的な無差別爆撃も、高い効果は十分に予測された。兵器を前線に配備させない状況に敵を追い込む事こそが、効率的な戦争展開でもあった。しかし、後方の拠点や都市は敵も十分に防衛することは明白であり、戦場がヨーロッパになると敵が守るべき場所は多いが密度が非常に高まるので、激しい迎撃が予測された。実際、何度か行った攻撃では大損害を受けた。
 それでもアーノルド将軍ら空軍信奉者、戦略爆撃論者は、前線で敵と戦うよりも敵国の生産力、国力に直接損害を与える方が、最終的には少ない犠牲と高い効率で勝利できると論陣を張った。
 そして一部の支持もあって、彼らにとっての中規模、300機程度の編隊を週に1、2度編成し、まずは北イタリアから爆撃を開始した。しかしイタリアでの戦いは、連合軍の圧倒的優位で進んだため、戦略爆撃の効果があるのか分からないまま、比較的短期間で決着がついてしまった。効果が認められたのは、鉄道路線、運河、道路網に対する継続的な爆撃ぐらいだった。しかも連合軍側となったイタリア政府からは、無差別都市爆撃は文化遺産を破壊するだけだと非常に強く非難された。
 それでも、続いてドイツ南部への爆撃が開始されたが、どういう経路を通ってもアルプス山脈を越えて進撃しなくてはならないので、山脈を越えるときは中高度の3000メートル以上を飛行する方が望ましく、当然燃費が悪くなり効率という点で不満があった。加えてドイツ南部は、高地や山岳地帯という事もあって目標に乏しかった。加えてドイツも、泥縄式ながら分厚い防空網を構築して対抗した。
 もちろん、効果もあった。一番の効果は、欧州枢軸、特にドイツに防空網の整備のために、非常に多くの戦争資材と人的資源を使わせた事だった。この点は、連合軍が爆撃のために使った人的資源よりも多いと言われており、目に見えない効果は高かったと結論もされている。しかし戦争中には、多くのことまでは分からなかった。犠牲も損害も数字上の事と割り切って、爆撃を続けるしかなかった。そして一旦始めた以上、許可した戦略爆撃論者以外の者達も止めるわけにはいかなかった。

 そこにイギリス本土の、呆気ないほどの降伏という体裁の寝返りが発生する。
 これで十分な出撃拠点が得られたと、アーノルド元帥らは非常に喜んだ。しかし連合軍として、優先してやらなければならないことは、ドイツ本土に攻め込むことでも、爆撃することでもなかった。イギリス本国の国民を食べさせる事だった。国家として、連合軍として、そして自由を旗印をする人々にとしては、それこそが何よりも優先するべきだった。
 それでも秋ぐらいからの中規模の爆撃を計画したが、今度は秋までに欧州本土北部に大規模な上陸作戦を決行するべきだという日米陸軍の一派が立ちはだかった。早期上陸作戦派は、今ならドイツ、フランスの北部沿岸は無防備に等しいので、自分たちが準備不足でも上陸作戦は十分に可能だと熱心に説いた。しかも、本来なら秋口にはブリテン島への大規模な上陸作戦の準備が、ずっと前から進められていたので、揚陸機材や物資の多くは既にアメリカ本土の東部沿岸に準備済みだった。
 しかし双方ともに、願いは叶わなかった。
 イギリス本国の民衆に十分な食糧を届けるという表向きの目的、イギリス本国を戦争に利用するという本当の目的のため、イギリス本土に物資を運び込むことが優先され続けた。そして二つの派閥の対立の間隙を突いて、上陸も爆撃もあまり関係のない日米海軍の艦隊派とでも呼ぶべき攻撃的な人々が、欧州北部沿岸、さらにはドイツ北西部沿岸の大規模な攻撃を実施した。そして大成功を納めてしまい、派手やかな勝利の報道がさらなる攻撃続行を促した。その後イギリス本土からのドイツへの空襲が開始されたが、それは海軍に続いた形でしかなく、しかも戦術爆撃の比率が高いもので、アーノルド将軍らの望んだ形からは大きく外れていた。
 しかも勢いを得た海軍の艦隊波は、海兵隊、陸戦隊を巻き込んで、さらなる攻勢を、他よりも先に実施した。
 それがノルウェー奪回作戦だった。

 ノルウェーは1940年4月8日からちょうど2ヶ月後の6月8日まで行われた戦いで、ドイツ軍の占領下になった。ドイツ軍と英仏軍の作戦開始はほぼ同時だったが、ドイツ軍の方が明確な侵攻意図を持ち作戦も戦力も揃えていたのに対して、英仏軍の対応は後手後手にまわり、さらに西欧正面での戦いも始まったため、なし崩しに撤退するしかなかった。
 その後イギリスに逃れたノルウェー王室と政府は、7月のイギリス降伏を受けて自らも亡命を止め、ドイツの言うがまま本国にもどった。だが王族数人が、イギリスのカナダ脱出の際に同行していた。そして連合軍の助けを受けて、有志をつのって自由ノルウェー政府を樹立した。その後は、新たな国際機関のメンバーとして活動はするが、軍事力は皆無なので大きな活動はしたくてもできなかった。自由軍を作ろうにも、僅かな義勇兵が集まっただけだった。
 しかし1945年6月にイギリス本土が連合軍側となり、夏に連合軍海軍が活動するようになると注目されるようになった。

 ドイツ軍にとってのノルウェーは、基本的にはスウェーデンで産出される鉄鉱石を運ぶために必要だった。本来は、イギリスと戦うに際して北海に封じ込められないための艦艇や潜水艦の出撃拠点を確保する事にあったが、イギリス本土が降伏したのでその必要性もなくなった。必要性が出てきたのは、1944年夏頃に連合軍がヨーロッパにまで攻撃してくるようになってからだった。北アフリカでの戦いに敗北する頃に、大西洋沿岸防衛のための第5航空艦隊が再建の形で配備され、何度か連合軍の艦隊を攻撃した。しかし中途半端な戦力では、強大な連合軍の艦隊相手に消耗するばかりで、大きな働きをする事はできなかった。また、一部港湾施設はUボートの出撃拠点として使われるようになって、こちらはかなり有効に機能した。
 しかし、1945年8月から始まった連合軍空母機動部隊の激しい攻撃で大損害を受けた。その後夏に受けた損害を補充して、さらには増強までしたが、翌年2月までにさらに二回の大規模な攻撃を受けて、損害を積み上げるだけに終わった。
 港と飛行場が何度も攻撃されたので、冬に入ってからの鉄鉱石の輸送効率は前年度と比べると悲惨な状況に追いやられた。しかも連合軍の潜水艦が、常時ノルウェー沖で輸送船狩りを行うため、損害はさらに膨れあがった。ドイツ軍が洋上に哨戒機を飛ばせば、イギリス本土から戦闘機が飛んだ。場合によっては、護衛空母数隻を中核とした小規模な空母部隊が出てきて、商船狩りと哨戒機を追い払う両方をした。水雷戦隊が輸送船狩りに現れた事もあった。
 ドイツ空軍は洋上での作戦能力を殆ど失っていたので、希にしか反撃できなかった。だが一度だけ、誘導ミサイルを搭載した哨戒機数機を飛ばして、連合軍の護衛空母1隻を沈めたため、それ以後は流石の連合軍も貧弱な空母部隊や水雷戦隊を沿岸部にまで派遣しなくなった。その代わり、主に日本海軍航空隊の四発重攻撃機がナルビクなど北部まで日常的に飛ぶようになり、状況はより悪化した。
 こうして冬の鉄鉱石輸送ルートはまともに使えなくなり、ドイツを始めとした欧州枢軸の鉄鋼生産は大きな影響を受けていた。ヨーロッパ各地で鉄鉱石は採掘されていたが、やはりスウェーデンの良質の鉄鉱石が使えないのは大きな痛手だった。

 連合軍内でノルウェー作戦が決まったのは、連合軍内の政治力学では主に日米の海軍が自らの存在価値を売り込んだ結果だった。だが戦略的には、英本土からドーバー海峡を押し渡るに際して、もう一つステップが欲しいと考えたからだ。
 ドーバー海峡を押し渡った先の上陸地点がカレー近辺なのは、誰の目にも確定的だった。ドイツ海軍もそこを第一に防備してくると予測された。実際、急ピッチで沿岸防御工事が行われ、これの阻止が連合軍空軍部隊の日華となっていた。このためノルマンディー海岸などの対案が出て一時は有力視されたが、ロシア人のベルリンへの距離の近さを考えると、多少の危険を冒してでも少しでもベルリンに近い場所に上陸しなければならなかった。そしてカレー上陸の危険度を少しでも下げるため、少し先にノルウェー侵攻することが決まる。ドイツ軍の目を少しでも北欧に向けさせ、カレー正面の戦力減らし、注意を逸らすためだ。
 だが、反対も多かった。カレー正面の戦力を減らす目的と言う点では賛成も多かったが、危険の多い狭く上陸が難しいフィヨルドに上陸することを陸軍が嫌がった。それに陸軍は、総力を挙げてカレー上陸の準備を進めたかった。空軍(米陸軍航空隊)は、表向きの理由はともかく、これ以上海軍に活躍されたくないという点で反対していた。しかしアメリカ海兵隊が海軍に付き、日本海軍は悪く言われることも多い異常なほどの団結を見せて、聯合艦隊、海軍航空隊、陸戦隊が総力を挙げることで結束した。もうこれだけで、作戦に必要な全ての兵力が十分に揃う状態だった。
 そして夏以後の海軍の活躍もあるし、欧州諸国特に北欧諸国(※と言っても、ノルウェーとデンマーク代表だけだったが)の要望もあるため、可能な限り早期のノルウェー作戦が決まる。

 連合軍総司令部のゴーサインが出るが早いか、連合軍海軍共同の作戦案が即座に提示される。随分前から作戦は立案されており、あとはいつ作戦を行うのか、どの程度の戦力を参加させるのかを調整するだけだったので非常に早かった。作戦を一日でも早く実施するため、日本海軍とアメリカ海軍の事実上のトップ(山本軍令部総長とキング海軍作戦部長)がサンディエゴ、ハワイで何度か会議に及んだほどだった。
 上陸支援は連合軍海軍が総力を挙げる。英本土からの航空支援は日本海軍航空隊(第十一航空艦隊)が行う。地上部隊は陸軍部隊も参加するが、上陸作戦はアメリカ海兵隊と海軍陸戦隊が出せる限りの戦力を出すことになっていた。陸軍が懸念とした空挺部隊も、日本海軍陸戦隊の1個旅団(海軍第一空挺団・堀内大佐(連合軍としては准将待遇)指揮)が、遠距離飛行訓練まで既に始めている状態だった。
 作戦名は「デタッチメント」。以下が作戦参加の地上部隊部隊になる。

 ・「デタッチメント」第一波上陸部隊:
 ・アメリカ海兵隊第2遠征軍(軍団)(ホランド・スミス中将)
 第2海兵師団、第4海兵師団、第5海兵師団
 日本海軍陸戦隊第一軍(太田実中将)
 本部直轄:海軍第一空挺団、他
 第1特別陸戦旅団、第4特別陸戦旅団
 第2特別陸戦旅団、第5特別陸戦旅団
 ・英海軍コマンド旅団
 ・アメリカ陸軍第24師団

 旅団は2〜3個で師団級戦力になるので6個師団規模の上陸になり、上陸する総兵士数は13万名ほどになる。
 地上部隊はベルゲン、トロンヘイムに主力が上陸し、オンダルスネス、ナムソス、そしてナルビクに中規模の部隊が上陸する。また、ベルゲン、トロンヘイムからそれぞれオスロに至る内陸部に、空挺部隊が降下予定だった。空挺部隊が少し少なかったが、英本土北部からノルウェーは少し遠くグライダーを使う事は危険と判断されたため、次の大作戦を考えると逆に1個旅団分を運んで補給を行うのがやっとだった。日本海軍は、急いで旧式化していた「深山」重爆撃機を簡易改装して、空挺降下作戦に使える輸送機として20機以上を用意したほどだった。
 また4月のノルウェーはまだ春になっていると言えず、各所に雪が残っているため、冬季装備の他、雪道を素早く進むための準備も行われた。特に用意されたのがスキー装備で、アメリカ軍はアラスカ出身者を臨時に編入し、日本海軍は満州軍から教官を呼んで北の出身者を中心にしてアメリカの北部で訓練を行った。またアメリカ陸軍の第24師団は、44年6月にアイスランドに上陸してそのまま駐留していた部隊で、約2年ぶりに前線に出る出番が回ってきた形だった。そして上陸作戦の経験も豊富で、ハワイで編成された部隊ながら寒い場所に駐留を続けていたため、この作戦にはうってつけの部隊と考えられていた。スキーの訓練も十分に積んでいた。
 上陸作戦の総指揮は米海軍のターナー大将、海兵隊のホランド・スミス中将だが、広く分散した上陸作戦になるため3箇所で別個に指揮官が立てられていた。日本海軍陸戦隊も、部隊の主導権をある程度握るために太田実提督が予定より早く中将に昇進して、大規模作戦用な司令部も用意した上で指揮に当たることになっていた。各旅団指揮官も、柴崎恵次少将、安田義達少将など歴戦の優秀な指揮官がこぞって参加していた。
 空軍部隊の方は、英本土に進出していた日本海軍航空隊、第十一航空艦隊のうち第21、第22の2個航空戦隊が支援する予定だった。そして支援の中核となるのが、再び北の海に戻ってきた連合軍の大艦隊だった。
 1945年6月の決戦の傷も癒え、さらに今まで地中海方面にいた艦隊も合流し、加えて新造艦艇も迎え入れたので、戦力は究極的といえるまでに拡大していた。ただし次の大作戦の準備もあるし、そのために動かせない艦隊もあるため、ノルウェー作戦に参加するのはその中でも反復攻撃がしやすい部隊が選ばれていた。また、海兵隊、海軍陸戦隊専属の揚陸艦艇と護衛艦艇の一部は、次の大作戦への参加を既に断念しての作戦参加だった。
 日米の高速空母機動部隊の数は、あわせて11群に再編されていた。アメリカ7群、日本4群だ。これをアメリカは第28任務部隊、第48任務部隊に分け、日本も2群ずつ第一機動艦隊、第三機動艦隊に再編成していていた。4つ目の機動群と第三機動艦隊の司令官として、角田覚治中将が前線指揮に復帰した。
 高速空母数は総数で53隻。さらに、合流し再編成されたイギリス海軍の空母機動部隊も、今後の各艦隊間の連携を円滑にするために側面支援に当たる予定だった。
 艦隊の大型艦は空母ばかりで、高速戦艦は次の作戦に備えて高速戦艦部隊を編成したままだった。これだけ空母がいても護衛の戦艦は《金剛型》の4隻だけで、上陸作戦を支援する艦砲射撃部隊も重巡洋艦までだった。それだけ航空機に期待がもたれているのだが、そう思わせるだけの陣容になっていた。

 アメリカ海軍の新造空母は、《ノース・アトランティック級》大型空母の3〜6番艦の《ジャマイカ》《オリスカニー》《ヴァリー・フォージ》《アンティータム》の4隻だった。去年の5月からほぼ3ヶ月に1隻就役した基準排水量4万5000トンの大型装甲空母だった。他は、昨年のノースアイルランド上陸作戦に参加した空母ばかりだった。上部構造物が全て丸焼けになるほど大損害を受けた空母が、ほとんど新造といえるほどの大規模修理を行って復帰したのは流石としか言えないが、アメリカ海軍にしては目新しさに欠けていた。しかし搭載する機体は、さらに大きく進化していた。
 量産と航空隊の更新状況のため数が少なかったが、この作戦に2種類の新型機が投入された。「マクドネル FH ファントム」ジェット戦闘機と「ダグラス A1-H スカイレイダー」攻撃機だ。
 しかし「FH ファントム」は、もともとが試作要素の強い機体で、しかもこの時もジェット機を実戦配備した上での空母と艦隊での運用実験が目的と言われ、実際24機しか配備されていなかった。機体の性能自体も今ひとつで、戦闘機の主力はあくまで「F8F ベアキャット」だった。しかし、キレイにまとまり過ぎていた「F8F 」は戦闘爆撃機としては今一つのため、「F4U コルセア」が戦闘爆撃機として活躍しており、この時にはエンジンを強化した改良型が一部空母に搭載されていた。
 「ダグラス A1-H スカイレイダー」の方は、多少急ぎ足ながらも満を持しての登場と言われることが多い。
 開発者のエド・ハイネマンは、愛知飛行機が送り出した「流星」に衝撃を受けて、本機の開発に没頭したと言われる。というのも、流星とほぼ同時期にハイネマンらが開発していた「BTD デストロイヤー」が、性能面で流星に敗北していたからだ。流星は、攻撃機として優秀なだけでなく、場合によっては戦闘機としての任務にまで対応できる一種の万能機だった。
 「A1-H スカイレイダー」の特徴は枚挙にいとまない。まさに傑作、名機と呼ぶべきで、レシプロ攻撃機としては最高峰にして究極的存在とすら言われる事もある。従来の攻撃機よりも小さく、パワフルで、単座で、しかも破格の搭載量を誇る汎用攻撃機が本機の特徴と言えば特徴となる。しかも革新的といえる性能ながら、運用効率や整備性も大きく向上しているなど、兵器としての完成度も非常に高かった。あまりの完成度の高さに愛知飛行機の開発陣も賞賛を惜しまず、エド・ハイネマンに師事したと言われる。そのせいか、流星も単座化、兵装の全機外装備化など行った「流星改」が後に製作されている。

 日本海軍も、アメリカ同様に4隻の大型空母を前線に送り届ける事に成功していた。うち二隻は《改大鳳型》で《雲龍型》と言われることの多い空母の3番艦、4番艦の《剣龍》《仁龍》の2隻になる。そして後の2隻が拡大《大鳳型》空母の《黒龍》《白龍》だった。
 拡大《大鳳型》空母は、第二次世界大戦のタイトルホルダーを持つ大型空母になる。基準排水量4万6500トン、全長298メートルの巨体を有し、日本海軍で初めてジェット機運用能力を付与されていた。それだけでなく、幾つかの新機軸を採用していた。新機軸装備は建造と平行して行われ、模型を使った実験を何度も実施した上で艤装された。新機軸の見た目での最大の特徴は、艦の左側の飛行甲板の張り出しが大きく、斜めに着艦用の塗装(ライン)が施されている事だ。今日では「斜め甲板」や「張り出し甲板」よりも「アングルド・デッキ」として知られ、空母の一般的な装備となっているが、これを最初に行ったのが日本海軍の《黒龍》と《白龍》だった。
 もともと日本海軍の装甲空母は、右側の艦橋と煙突との釣り合いをとるため、飛行甲板の左側が広く取られている。しかも艦橋やマストに装備する電子装備が大きく、高い位置に設置されるとさらに飛行甲板は左に張り出していった。さらに《天城》以後の空母は、艦の左側にサイドエレベーターを備える事で、左側の張り出しが大きくなった。
 そこに自由英連邦、救国フランスの人々からの技術情報、アメリカとの技術交換で大量の技術が入り込んできた。一般的には、ここで自由イギリスの技術情報があったと言われるが、しかしその中に今日のアングルド・デッキの情報は無かった。フランスに概念があり、実は《ジョッフル級》空母の設計段階で検討されたが、これはあくまで大型クレーン設置のための緊急措置であり、実際は採用されなかった。
 日本での採用は、小型軽空母の有効活用の一環としての技術研究の過程で偶然見つかったとか、空母《鳳祥》の改装を巡る会議の中で出た発想だとか、とあるパイロットの「迷」着艦に着想を得たとか、名物人だった小園大佐のアイデアだと言われる事もある。しかし、いかにも日本的と言うべきか、発案者の名はついに見つけることはできない。事実として、日本海軍独自の着艦方法と組み合わせた斜め着陸の方法として1944年中頃に考案された。
 《鳳祥》を使った技術試験も、さらに改装するには旧式で小型過ぎるため、従来の後半に斜めの線を引いた実験しか行っていない。試験の多くは、地上の飛行甲板を模した滑走路で行われている。
 と言っても、今日目にするのと比べると迫力に欠けている。ラインの傾きも5度と少なく、飛行甲板の出っ張りも極端ではない。しかし、設置してみると有効性は明らかだった。着艦時の危険性の低下、飛行甲板上の駐機空間の確保、発艦、着艦の同時進行可能な能力など、空母としての能力を格段に向上させる効果を生む事が分かった。パイロットが斜めに着艦できるのかという問題も、日本とアメリカ双方の長所を既に備えていた着艦システムともマッチし、実際してみると特に問題も発生しなかった。むしろ、着艦時のパイロットの心理的圧迫が減り、着艦が失敗しても再加速してやり直せるなど、効果の方が大きかった。効果が高く、しかも欠点がなく、それでいて設置が比較的容易いという良いことずくめだった。あえて欠点を挙げれば、本来なら最も必要とされる小型空母に設置しても、艦の規模の問題から効果が限定されることになるだろう。
 なお、《黒龍》と《白龍》も当初計画では4万2000トンで計画されたのが、様々な装備の追加と共にアングルド・デッキを採用したことで排水量が10%以上も増加している。(※戦後の近代改装で、さらに大きく増加している。)
 ちなみに、1隻当たりの大型化と予算拡大など様々な要因から建造が中止された3番艦の名は《赤龍》を予定していたと言われる。これで古い伝説で四方に位置する龍の色が空母の名で揃うからだ。そしてもう1つ龍である《蒼龍》は、アメリカ東部での大規模修理のついでに若干の改装を施し、斜めにラインと着艦装置を引き直して、《黒龍》と《白龍》がやって来るまでパイロット達の訓練場となり、さらには実戦にもそのまま投入された。

 また日本海軍でも、この戦闘までにジェット艦載機を前線に送り込んでいた。
 日本軍でのジェット機開発は、早くは1941年頃に本格化したと言われている。技術先進国ドイツと戦う以上、必ず必要になると考えられたからだ。だが、早急に必要というわけでもないので、機体開発は各メーカーに任せて行われた。ただしエンジン開発を行える企業となると限られているし、全く新しい技術のため石川島での統括した開発が行われた。それでも短期間での開発は難しいため、アメリカ企業(GE社)の協力を仰いだり、有償技術供与を受けたりした。ただし陸軍、海軍ではなく軍需省が統括したため、今までのレシプロエンジン開発より混乱や無駄は少なかった。このため石川島のジェットエンジンは、当時の日本軍機全てに供給されている。戦後にアリソン社から有償技術供与を受けた川崎が開発するまで、完全に一本化されていた。
 そして無駄になりかねないながらも、複数種類の機体がほぼ同時に開発された。それは失敗した場合の保険という意味合いが強かったのだが、結果として3機種全てが一応は開発成功している。これはひとえに、ジェットエンジンが取りあえず使い物になる性能だったからだとも言えるだろう。
 開発は海軍空技廠、日本陸軍航空本部がそれぞれ中核となり、設計陣に余裕のある会社、名乗りを上げた会社を選定した上で決められた。また決定に際しては、開発期間短縮のため既存の機体からの改良が可能かも審査された。
 その結果、三菱、中島、そして九州飛行機が選ばれた。

 三菱、中島が共にアメリカと同様のレイアウト、従来の航空機の基本レイアウトに、胴体のほぼ真ん中下部に2基のジェットエンジンを据えたデザインだった。これに対して九州飛行機は、非常に斬新な、ある意味日本らしくない奇抜なデザインを有していた。前翼機やエンテ型と呼ばれる、主翼の前方に前翼を有していたのだ。しかも主翼は先端にいくほど細くなり、僅かだが後方に後退する先進的な形状をしていた。前翼型の形状はともかく、主翼自体の形状はその後の日本での航空機開発に非常に大きな影響を与えたほどだった。
 そして「震電」と名称までもらった九州飛行機の機体は、レシプロ機なのにエンジンと主翼が一番後ろにあり、推力も推進式で、主翼も真っ直ぐではなく少しだけ後ろに傾いていた。さらに垂直尾翼も主翼の中程にそれぞれ付いているなど、非常に奇抜なデザインを有していた。
 もともとは試作機というより実験機で、開発と試作が命じられたのは大戦初期に日本本土が空襲を受けた頃だった。開発も海軍空技廠が実験を行ったのが始まりだった。そして各メーカーがこぞって迎撃機を開発するも、日本本土空爆の危険性はすぐにも遠ざかったため、多くのメーカーの迎撃戦闘機の開発は立ち消えとなった。その中で、突発事態に備えるためという名目で開発が続けられた。そして丁度仕事の少なかった九州飛行機に試作が命じられ、九州飛行機は自らを売り込む格好の機会と捉えて、全社を挙げて開発に勤しんだ。そうして短期間で試作機が開発され、1943年秋には早くも試験が開始されるも、実験結果はあまり芳しくなかった。そこにジェットエンジン搭載の話しが舞い込んでくる。
 ジェットエンジン搭載は空技廠が持ち込んだもので、自分たちが開発に携わった機体を成功させることで、今後のジェット機開発にも発言権を得ようとしての行動だった。
 そしてジェットエンジン搭載に合わせたエアインテークの大型化などの改変が行われ、1944年春には試作機が完成。さっそく試験が開始される。「震電(11型)」とジェットエンジンの相性は良く、レシプロ機で起きた問題もほぼ解消された。しかも試作機の試験段階で、最高時速も900km/時以上をマークし、当時の日本最速を記録した。これで気を良くした海軍は、局地戦闘機「震電改(22型)」の正式名称を与え、増加試作とさらなる試験、そして量産化のゴーサインを出す。三菱、中島よりも早い実用化だった。
 しかし「震電改」には欠点があった。まず、海軍の機体だが、現状のままでの艦載機化は無理だった。レシプロ時代に問題とされた着陸脚の長さの問題はジェットエンジン搭載に伴う改良と変更で解消されたが、空母艦載機としては翼面荷重が大きく着陸速度が速すぎたからだ。また艦載機としては航続距離も短く、単発エンジンなので洋上で故障した場合の危険性も高かった。このため局地戦闘機としての運用が決まり、そして配備が進められた。
 最初の航空隊は1944年10月、四国の松山に開設された。その後1945年3月にはアレキサンドリアに移動して、日本初のジェット戦闘機部隊として実戦配備される。しかし既に欧州枢軸軍が敵後方の拠点を爆撃する余力は無くしていたので、出番はごくたまに飛んでくる偵察機の邀撃ぐらいしかなかった。それに日本軍というより連合軍が欲しかったのは、迎撃用の防空戦闘機ではなく制空権を得るための戦闘機だった。このため三菱、中島のジェット機の開発も継続して進められ、半年ほど遅れて配備が進む事になる。
 だが空技廠は、「震電改」の艦載化もしくは汎用戦闘機化を諦めていなかった。
 当時「震電改」は、技術先進国ドイツですらほとんど実用化していない、エンジンを1基搭載しただけの単発ジェット戦闘機だった。そして局地戦闘機ながら、かなり優秀な格闘戦性能を有していた。これは当時の他のジェット機にはない優れた特徴であり、従来のレシプロ機を圧倒するには必要な要素でもあった。そこで空技廠は、エンジン開発の石川島にエンジンの単なる性能向上よりも、耐久性の向上、故障率の低下を優先するように命令する。
 機体に対してもさらなる改良を加え、機体に適合した自動空戦フラップを開発して搭載し、翼面荷重の低下を図る改良を施す。航続距離に関しては、直接的に大型増槽(ドロップタンク)で対応した。空母に着艦できるフックも、機体構造の特殊さにもめげずに設置された。
 しかしこの開発は流石に失敗と言われることが多く、生産数自体が少ないうえに戦後も母艦搭載はほとんど行われなかった。しかし艦上戦闘機「震風」として、日本海軍艦載機の末席を占めることになる。
 さらに空母の方では、ジェット機に必要な初期加速を得られる高性能のカタパルトが開発され、新造の大型空母に装備された。
 なお、三菱が海軍向けに開発した機体は、艦載機として無理に開発した事がたたって、速度性能は高かったが運動性が低いため、当面は偵察機兼爆撃機として採用され艦上爆撃機「景雲」とされた。ただし46年春の時点での艦載は、最新鋭で大型の《黒龍》と《白龍》にしか無理だった。
 陸軍向けに中島が開発したのは、五式奮進戦闘機「火龍」と命名された。この機体は、当時の各国が開発したジェット戦闘機とほぼ同じような外見を有しており、性能も似たようなところが多かった。失敗を避けるため無難に開発したのだと言われることも多いが、当時の技術と知識では当然の行き着く先という形とも言えるだろう。戦闘機を開発するつもりが爆撃機になった「景雲」や、レシプロ機から一気に当時最高クラスのジェット機へと昇華した「震電改」、「震風」の方が変わり種と言うべきだろう。
 そして1946年春の日本海軍空母機動部隊は、《黒龍》と《白龍》に「震風」戦闘機を各16機、「景雲」偵察機を各12機搭載して戦場に臨んでいた。しかし、使う側も使い勝手が分からないところも多いため、「震風」は艦隊防空用の迎撃機、「景雲」は高速偵察機として運用されている。



●フェイズ77「第二次世界大戦(71)」