●フェイズ77「第二次世界大戦(71)」

 1946年春の初め頃、冬の終わりを告げるように北大西洋上に連合軍の巨大な空母機動部隊が出現した。
 まずは艦隊の概要を見てもらおう。

・日本海軍・大西洋艦隊
 第一機動艦隊(艦隊司令:伊藤中将)(艦載機:約770機)
 ・第一部隊(伊藤中将直率)
CL《大淀》(全艦隊旗艦)
CV《雲龍》CV《剣龍》(艦載機:約200機)
CV《大鳳》CV《神鳳》(艦載機:約180機)
CVL《龍鳳》CVL《祥鳳》(艦載機:約60機)
BB《金剛》BB《榛名》
CL《鈴谷》CL《熊野》
FA《涼月》FA《初月》FA《若月》FA《新月》
CL《水無瀬》 DD:17隻

 ・第二部隊(城島中将)
CV《赤城》CV《加賀》(艦載機:約150機)
CV《蒼龍》CV《飛龍》(艦載機:約120機)
CVL《千歳》CVL《千代田》(艦載機:約60機)
CL《利根》CL《筑摩》
CL《四万十》CL《九頭竜》
FA《霜月》FA《冬月》
CL《綾瀬》 DD:15隻

 第三機動艦隊(艦隊司令:角田中将)(艦載機:約850機)
 ・第一部隊(角田中将直率)
CL《仁淀》(艦隊旗艦)
CV《黒龍》CV《白龍》(艦載機:約220機)
CV《天城》CV《葛城》(艦載機:約160機)
CVL《龍驤》(艦載機:約30機)
BB《比叡》BB《霧島》
CL《吉野》CL《黒部》
FA《春月》FA《花月》
CL《音無瀬》 DD:16隻

 ・第二部隊(山口中将)
CV《瑞龍》CV《仁龍》(艦載機:約200機)
CV《翔鶴》CV《瑞鶴》(艦載機:約150機)
CVL《瑞穂》CVL《瑞鳳》(艦載機:約90機)
CL《最上》CL《三隈》
FA《秋月》FA《照月》FA《宵月》FA《夏月》
CL《鈴鹿》 DD:16隻

・アメリカ海軍・大西洋艦隊
 アメリカ第28任務部隊(TF28)((艦隊司令:キンメル大将)
  偶数群が所属 第2群、第4群、第6群
 アメリカ第48任務部隊(TF48)((艦隊司令:スプルアンス大将)
  奇数群が所属 第1群、第3群、第5群、第7群

 ・第1群(モントゴメリー中将)(艦載機:約330機)
CVB《ノース・アトランティック》CVB《プエルトリコ》
CVL《ベローウッド》CVL《カウペンス》CVL《モンテレー》
CG《セント・ポール》CG《コロンブス》
CLA:2隻 DD:18隻

 ・第2群(クラーク少将)(艦載機:約330機)
CVB《ヴァリー・フォージ》CVB《アンティータム》
CVL《カボット》CVL《サン・ジャシント》CVL《ラングレー二世》
CL:3隻 CLA:1隻 DD:16隻

 ・第3群(ボーガン少将)(艦載機:約360機)
CV《ヨークタウン二世》CV《ボクサー》CV《サラトガ》
CVL《インディペンデンス》CVL《プリンストン》CVL《グァンタナモ》
CG《ニューオーリンズ》CG《アストリア》
CL:2隻 CLA:1隻 DD:16隻

 ・第4群(シャーマン中将)(艦載機:約420機)
CVB《ジャマイカ》CVB《オリスカニー》
CV《バンカー・ヒル》CV《イントレピット》
CL:3隻 CLA:2隻 DD:18隻

 ・第5群(デヴィソン少将)(艦載機:約360機)
CV《レキシントンン二世》CV《ワスプン二世》
CV《フランクリン》CV《キアサージ》
CG《へレナ》CG《プレマートン》
CL:2隻 DD:16隻

 ・第6群(スプレイグ少将)(艦載機:約330機)
CV《タイコンデロガ》CV《ランドルフ》
CV《ベニントン》CV《ボノム・リシャール》
CG《フォール・リバー》CG《メーコン》
CL:2隻 DD:17隻

 ・第7群(スタンプ少将)(艦載機:約360機)
CV《エンタープライズ》CV《ホーネット》
CV《エセックス》CV《ハンコック》
CG《ロサンゼルス》CG《シカゴII》
CL:2隻 DD:15隻

(各艦搭載機数=CVB:120機、CV:90機、CVL:30機)

 イギリス海軍の空母機動部隊(R部隊)(艦載機:約410機)
CVB《イーグル》CVB《アーク・ロイヤル》CVB《イレジスティブル》
CV《レンジャー》
CVL《コロッサス》
BC《レナウン》BC《レパルス》
CL:4隻 DD:12隻

CVB = 大型空母 CV = 正規空母 CVL = 軽空母
BB = 戦艦 CG = 重巡洋艦 CL = 軽巡洋艦 
CLA= 防空巡洋艦 FA = 防空フリゲート DD = 艦隊型駆逐艦

 最初に1946年4月時点での連合軍海軍・高速空母機動部隊の編成を紹介したが、このうち最後の再建されたイギリス海軍空母機動部隊は、ノルウェー作戦には参加しないので詳細は割愛する。
 順に見ていこう。
 まず、高速空母の総数は、日本23隻、アメリカ32隻の合計55隻。艦艇数は、日本119隻、アメリカ181隻のちょうど合計300隻(※損傷、故障などによる駆逐艦数の変動あり)。艦載機数は常用数で日本約1620機、アメリカ約2490機の約4100機に達する。艦載機の方は補用機(スペア)を加えると、さらに10%〜15%程度増加する。飛行甲板に過積載すれば、通常任務でもさらに10%以上数を増やすこともできた。最大過積載だと、総数6000機以上を搭載可能となる。45000トンクラスの大型空母だと、その気になれば1隻で50機以上を飛行甲板上に過積載できてしまう。
 さらに加えて、巡洋艦などが搭載してきた水上機もあるので、航空機数はさらに増える。一部で言われる艦載機総数5000機という数字も、あながち間違いではなかった。
 しかも艦隊はこれだけではない。後方拠点となるイギリス海軍の拠点のスカパー・フローなどには、日本、アメリカ双方の補給のための支援任務部隊が展開している。陣容は以前よりさらに分厚くなっており、補給と支援の艦隊だけで総数150隻に達する。高速補給艦の数も、初期の頃より二倍近く増えていた。60隻以上が所属している高速タンカーの腹の中には、合わせて100万トン以上の重油や高精度ガソリンが満載されていた。さらに、敵潜水艦を事前もしくは周辺で掃討する護衛空母複数を有するハンター・キラー戦隊が、最低でも4個戦隊が直接支援に当たっていた。さらに哨戒や警戒のための潜水艦が、最低でも3個戦隊20隻以上が展開している。全てを合わせれば、総数は500隻を越える。「宇宙人でも攻めてこなければ、倒すことは不可能」と言われた大艦隊だ。
 そしてこの作戦は上陸作戦なので、全く別に揚陸艦艇群とそれを護衛する艦隊、艦砲射撃で支援する艦隊、上陸地点の近在から支援機を飛ばす護衛空母による小型の空母機動部隊(合計4群)が存在している。
 ここでは、最初に紹介した編成のうちからもう少し見ておこう。

 日本艦隊だが、大きく二つに分かれている。任務のために艦隊を割ったというのもあるが、日本海軍としては第一機動艦隊を一つにまとめる規模が大きくなりすぎたため分散したという方が正しい。何しろ1個空母群だけでも、戦前の聯合艦隊の半分の戦力となるので十分に大艦隊だからだ。そして機動群が今までより1個増えたのだが、指揮官は分けた艦隊の指揮と合わせて角田覚治中将が前線に返り咲いている。誰もが望んだと言われる配置であり、しかも麾下の機動群を率いるのも猛将として知られる山口提督なので、非常に攻撃的な布陣と言える。年功序列を重んじる日本海軍の性格から見ると「奇跡の人事」とすら言われるが、人事の面では戦争中限定とはいえ多少は柔軟性を身につけた結果と判断するべきかもしれない。しかし、少し遅かった人事と言われる事も多い。
 艦艇を見ると、大型空母の全てが「装甲空母」で占められているのが特徴と言えば特徴だろう。しかも3万5000トン以上の大型空母が10隻も属している点は、戦前の日本海軍から見れば信じられないほどの規模とも言える。しかも最新型の6隻の大型空母は、1隻当たり100機以上の艦載機を搭載しており、戦争初期からは考えられないほどの艦載機が運用されている。
 この艦隊が開戦時にあれば、戦争は半分の期間で終わっただろうと言われることもある。もっとも、開戦時の補給能力では、4つのうち1個群しかまともに運用できなかっただろうが。
 なお空母のうち、先の海戦で大きく損傷した《蒼龍》は、ノーフォークでの長期間の修理と合わせて大幅な近代改装が施された。飛行甲板が限界まで拡張され、バルジを太くし、発電能力を強化し、艦橋構造物とマストを建て替え、最新鋭の電子装備を施した。カタパルトと着艦装置も最新鋭のものに付け替えられている。カタパルトと着艦装置を改装したのは準姉妹艦の《飛龍》も同様で、これで《流星》が無理なく運用できるようになっている。
 見慣れない名前の軽巡洋艦は、新型の《吉野型》軽巡洋艦になる。1942年度計画で8隻の大量建造が実施された分のうち半数が間に合った形で、《吉野》《黒部》《四万十》《九頭竜》がそれに当たる。
 1930年代に建造した大型軽巡洋艦の設計をタイプシップとしているが、防御力を増すために機関配置が交互のシフト型とされ、また技術向上で高温高圧缶が搭載できた分だけ機関部を圧縮し、他の配分を増やしている。このため外観は《改秋月型》と少し似ている。基準排水量は1万2600トン。15.5cm(6.1インチ)3連装砲塔4基12門、12.7cm(5インチ)両用砲連装8基16門、機銃多数を搭載する。水上機は設計段階では搭載予定だったが建造中に取りやめとなり、設計も変更して区画も作り替えた。その分、機銃、電子装備が大きく増やされている。またソナーは搭載しているが、爆雷は基本的には搭載しない。また一方で、魚雷兵装は復活しており、5連装発射管を片舷に1基ずつ装備している。居住性についても、遠隔地での作戦行動を前提として今まで以上に改善されていた。
 大きさと排水量は1920年代に整備された《妙高型》重巡洋艦に近く、本来日本海軍が求めた汎用巡洋艦のこの時点での完成型と言われることが多い。対潜装備が少ないが、これは巡洋艦としては大型なので任務に不向きだからだ。一方で対空装備が過剰と言えるほど増加しており、また15.5cm砲も旋回速度、射撃速度を大きく向上した新型を装備している(※《大和型》戦艦の副砲とはまた別のもの)。このため防空巡洋艦と言われることもある。またアメリカの《クリーブランド級》を越えたと言われるが、日本海軍にとっての戦時重巡洋艦的な立ち位置の本クラスから見ると、対抗馬は《ボルチモア級》重巡洋艦にあたるので、この評価は間違っていると言わざるを得ない。そして《ボルチモア級》と比べると、性能を比較する以前にクラスの時点で違ってしまっている。
 また、上記編成表からは分からないが、駆逐艦も新型の前線配備が始まっていた。
 《神風型》駆逐艦がそれで、基準排水量2900トンある大型駆逐艦で、高いレベルで対空、対艦、対潜能力を有する汎用大型駆逐艦だった。100隻以上建造された《夕雲型》が2500トンクラスだったので、より大型化している事になる。排水量的には、日本本土で実験艦や練習艦として過ごしている小型の旧式軽巡洋艦に迫るほどだ。
 1943年度以後の計画艦で、アメリカの《ギアリング級》に匹敵する能力を有しているが、1946年に入って前線配備が始まったばかりなので、遅れてきた駆逐艦と言われる事もある。なお、先代の《峰風型》、《神風型》駆逐艦の名前を多く引き継いでおり、合わせて先代の方は耐用年数が完全に過ぎたものは退役、解体、もしくは後方での運用可能なものは艦名を「00号哨戒艇」として名前を譲っている。また既に退役して解体された艦では、解体した艦の鋼材をわざわざ再利用して本クラスに使うことで「生まれ変わり」も行われている。
 装備的な特徴としては、電子兵装のさらなる発展と12.7cm両用連装砲が改良された点を除くと、魚雷発射管になるかも知れない。搭載されたのは1基のみなのだが、6連装でしかも従来の61cm酸素魚雷のためかなりの重量となるが、船体が大型化しているため特に問題視されなかった。
 また本クラスは遠隔地での活動を前提としているため、《夕雲型》以上に居住性についても配慮されている。このために排水量が、計画より100トン以上増えたほどだった。

 アメリカ海軍の場合、指揮官については十分な手腕を持つ機動群指揮官の不足が指摘されていた。指揮官にはパイロット出身のタワーズ提督を推すもあったが、キング提督、ニミッツ提督、スプルアンス提督など当時の海軍中枢がこの時期に前線指揮官を変更するべきではないなど否定した為、実現しなかった。ただし肥大化したアメリカ海軍を支える人材としてタワーズ提督が必要だったという面の方が、彼が前線指揮官にならなかった主な理由でもあった。中級指揮官の方は、ラドフォード少将など空母戦隊指揮官からの抜擢も考えられたが、護衛空母群で実績を重ねた提督とその幕僚らを充てることで充足された。ただし護衛空母群の指揮官らの質が低下したため、この辺りに肥大化し過ぎたアメリカ海軍の人的資源面での限界が見えている。
 新顔としては、《ボルチモア級》重巡洋艦を数を多く見ることができる。
 《ボルチモア級》重巡洋艦は基準排水量1万4400トン以上で、55口径8インチ砲を3連装3基9門、5インチ両用砲連装6基12門を基本武装としている。魚雷は装備していないが、アメリカ海軍らしい重防御ながら非常にバランスの取れた性能を有している。また非常に多い対空機関砲を装備するため、防空能力も戦艦並に高かった。このため、空母部隊に優先して配備されていた。この時の各艦隊に属している重巡洋艦のほとんどが《ボルチモア級》だった。
 それ以外だと、軽巡洋艦は《クリーブランド級》、防空巡洋艦は《アトランタ級》となる。これら以後の優れた性能を有する重巡洋艦、軽巡洋艦は1945年に入ってから相次いで起工されたが、完成にはまだ1年以上必要なため戦争には間に合わないと言われつつも工事が続けられていた。
 駆逐艦は《フレッチャー級》かそれ以後の新型艦。この時期には連装砲塔を3基搭載した大型の《アレンM.サムナー級》と《ギアリング級》が急速に数を増しつつあった。
 そして空母だが、基準排水量4万5000トンを誇る《ノースアトランティック級》大型空母が6隻も戦列に参加している。だからこそ空母群を7つにも分割しなければならなかった。1個空母群当たりの艦載機数が増えすぎて、円滑な運用に支障がでてしまうからだ。またノースアイルランド沖で大きく損傷した《エセックス級》空母の《バンカー・ヒル》、《フランクリン》も前線に復帰していた。しかも大規模な修理に際して一部近代改装も実施しており、最新鋭の対空装備と電子装備が施されていた。
 歴戦の空母《サラトガ》は、新造艦の充実と旧式化のためこの時期には練習空母にする予定だったが、日本海軍が同時期に建造した《赤城》《加賀》を運用し続けている事への対抗心もあって、再び前線に戻ってきていた。損傷を受けた事を利用して、若干の延命措置の他にさらなる装備の強化も行われている。ただし《赤城》《加賀》が装甲空母として1930年代末頃に最大限の近代改装が施されているのに対して、《サラトガ》は見た目はともかく中身は古いままの場合も多いため、無理して前線を維持し続ける事に疑問もあったと言われる。

 そうして北太平洋東部に姿を見せた未曾有の大機動部隊だが、彼らが相手にすべき欧州枢軸海軍の水上艦隊はもう存在しなかった。約一年前の彼ら自身が葬り去ったからで、今回の相手は陸地、わけてもノルウェーの複雑なフィヨルドの奥に巧妙に建設された各砲台や高射砲、レーダーサイト、そして岩盤などをくり抜いた強固な航空機用防空壕を有する飛行場だった。
 ノルウェー各地の港に作られた砲台は、多くが新旧含めて水上艦艇から狙いにくい場所にあった。逆に砲台からは艦艇は狙い打ちできた。しかもドイツ軍が比較的最近建設したものが多く、上陸作戦時の最大の障害になると見られていた。だからこそ艦載機による精密な爆撃が求められており、そう言う点では空母艦載機の任務と言えた。フィヨルドでの戦いも、時代の変化を向かえていたのだ。
 しかし、連合軍の予測よりも沿岸砲台の数は少なかった。特に大型、長距離の砲はほとんど見られなかった。ドイツにとって生命線の一つといえるナルビク攻撃には大部隊を割いて攻撃したにも関わらず、目標が少なすぎたほどだった。これはドイツが1940年夏に戦争に勝利し、その後も欧州が安全だった事が影響していた。1940年夏以後約4年間にわたって、ヨーロッパは安全だった。戦場はカリブかアジア、そしてロシアで、ヨーロッパ沿岸の防備は海軍と航空隊が必要十分あれば問題なかった。それ以前の問題として、北大西洋側は英本土が陥落しない限り、大陸沿岸各所が脅威を受ける可能性がかなり低かった。このためドイツは、沿岸砲台を建造するよりは他の地域に投入する兵器の生産を優先させた。そして戦況が急速に悪化したため、沿岸砲台を建造するべきだと判断された時には、ノルウェー各所への建設はほぼ不可能となっていた。それでも1944年秋頃から沿岸砲台建設が開始されたが、運搬する船が頻繁に沈められてしまうため、せっかく運搬した大型砲が船と共に沈んでしまう事例も一つや二つではなかった。沈んだ大型砲の中には、大型艦艇に搭載されていた主砲の砲塔なども含まれていた。 
 このため予定の2割程度しか砲台は完成せず、建設が開始されるもコンクリートの掩待壕や砲台の基礎だけの場所が多数あった。そうした場所の多くも連合軍の標的となったが、何度も同じ場所に急降下爆撃で投下される大型爆弾の前に、一つまた一つと破壊されていった。巧妙に隠されていた場所も、レジスタンスや事前潜入した特殊部隊の通報によって場所が特定され、徹底して破壊された。
 沿岸砲台以外の重要目標となると飛行場と高射砲になるが、既に何度か空襲して損害を与えているので、滑走路を短期間使用不能にしてしまえば、航空機自体は大きな脅威ではなかった。脅威はむしろ巧妙に配置された高射砲や高射機関砲と考えられており、しかもさらに増強されていることが確実視されていたため、優先的な攻撃目標とされていた。
 レーダーサイトの方は、基本的には電波を発しているものを「地図の上のシミ」になるまで破壊することが決まっていたが、こちらも周辺に配置された高射砲が最大の障害であり、丸裸にしたあとにじっくり確実に破壊することになっていた。
 そして上陸作戦といえば、上陸する海岸部の陣地の破壊が重要な任務となる。しかしノルウェーのドイツ軍部隊が少ないことは既に判明しており、また重装備、機動戦力も少ない事も分かっていた。
 だが、フィヨルドと山岳部が多くを占めるノルウェーで注意するべきは、機械化部隊ではなく優秀な歩兵部隊だった。山岳歩兵、空挺猟兵などがそれで、ドイツ軍のノルウェー侵攻の立て役者もそうした優秀な歩兵達であり、以前はノルウェー駐留のドイツ軍にもそうした部隊が多く見られた。しかし1940年夏に戦争が一旦終わると、ドイツ軍もほぼ引き揚げていった。その後戻ってきたドイツ軍の兵士達は、多くが一般の歩兵師団や場合によっては練度や装備欠ける国民擲弾兵師団だった。しかも日本列島に匹敵する面積を有する南北に細長いノルウェーの各地に分散しており、その総兵力も僅かに5個師団規模に過ぎなかった。
 通常ならいないも同然の兵力でしかなく、とても全ての海岸線や重要拠点を守る事は不可能で、ドイツ軍も重要拠点にのみ兵力を配置していた。そしてドイツ軍が兵力を置いている場所のほぼ全てが、連合軍が上陸作戦を行う場所だった。
 つまりドイツ軍は寡兵ながら敵を待ちかまえており、連合軍は地形的に不利な場所に敵の正面から上陸作戦を行わなくてはならない不利を負っていた。このためノルウェーの戦いの序盤は、島嶼戦に近いと言われることがある。だからこそ海軍と海兵隊、海軍陸戦隊の出番だとも言われた。
 そして十分すぎる戦力を揃えた連合軍による「デタッチメント」作戦が開始される。この作戦での連合軍の敵は、時間だけだった。次の大作戦が迫っているため、空母機動部隊を投入できる時間が短かったからだ。逆に、だからこそ戦力の出し惜しみはされなかったとも言える。

 1946年3月25日、連合軍の巨大すぎる空母機動部隊がノルウェー沖合に姿を見せた。そして各機動部隊ごとに分かれて、一斉に空襲を開始する。
 しかも空軍部隊は空母艦載機だけでなく、イギリス本土北部の各地に展開を終えていた日本海軍航空隊・第十一航空艦隊の第21、第22の2個航空戦隊が、遠方まで重爆撃機、長距離偵察機などを出して支援に当たった。それだけでなく、ノルウェー南西部への攻撃、スカゲラック海峡の制空権の獲得、デンマーク方面のドイツ軍の牽制など、多くの任務を担った。特にドイツ(ヨーロッパ)とノルウェーの海上と航空の交通路を完全に遮断した事は、作戦上において極めて重要だった。
 空母艦載機の空襲では、空軍基地、レーダーサイトが最優先目標とされ、次にゼーフントなど小型潜水艇の発進基地が目標とされた。ノルウェーの入り組んだフィヨルドは、小型の潜水艇が活躍できる余地が十分にあると考えられたからだ。同様に、魚雷艇基地についても徹底した攻撃が行われた。
 また、現地のドイツ第五航空艦隊の残骸といえる戦力との間の制空権獲得競争が行われた。ここでドイツ空軍は、1個大隊だが南部のベルゲン方面に「Me262」ジェット戦闘機大隊を配置していた。寝返ったイギリス本土への警戒と半ば嫌がらせを兼ねた配置だったが、予想外の戦力に連合軍も不意を突かれることとなった。
 だが双発のジェット戦闘機は、相手が小回りがあまりきかない中型爆撃機や重爆撃機相手で真価を発揮するのであり、相手が対空戦闘すら行う新世代の攻撃機では勝手が違っていた。しかも中高度以下での戦闘であり、ジェット機の得意な戦場ではなかった。さらに、豊富な戦闘機がどこの空にいっても多数随伴しており、しかも格闘戦に秀でた「F8F」か各種「烈風」なので、中高度以下の空で一度速度を失った「Me262」は、並の戦闘機以下の戦闘力しか発揮できないまま落とされていった。しかもパイロットは、ごく一部が超ベテランだった他は8割以上が未熟な若年層なので、日米の熟練したレシプロ機に乗せられて簡単に速度を失って落とされた。あまりの不甲斐なさに、この後しばらくドイツ空軍内で双発ジェット戦闘機の低空での対戦闘機戦闘厳禁の命令が出たほどだった。
 最初は慌てた連合軍の各艦隊だったが、結局手持ちのジェット機を出撃させることもなく、空母艦載機としてのジェット機による戦闘は、次の機会に持ち越しとなってしまった。

 またドイツ軍は、潜水艦を用いた阻止行動にも出ていたが、以前とはまるで様相が違っていた。ノースアイルランドの戦いのおりもそうだったが、連合軍艦隊は空から徹底的に警戒を行っているため、何より洋上に潜望鏡を出すだけで半ば自殺行為となっていた。攻撃のチャンスは航空機の活動が大きく低下する夜だが、夜も地上基地を飛びだった大型機が24時間体制で哨戒活動を行うため、むしろ危険な場合があった。そして水上では、潜水艦狩を専門にした水雷戦隊が複数活動しており、しかも大規模作戦の際には事情の許す限り精鋭部隊を投入する事が多かった。そして長い戦いで消耗する一方のドイツ軍Uボートは、潜水艦が革新的性能を得たとしても操る者が未熟になっている場合がほとんどのため、優位性を活かすことが難しかった。
 ノルウェーの戦いでも、ノルウェー各地を拠点としていた20隻以上のUボートが出撃するも13隻が未帰還となっている。
 海での戦いは、ほぼ完全に決したと言える状況だった。

 しかし一度だけ、連合軍の空母機動部隊がヒヤリとする場面があった。
 脅威は空からだった。
 突如、スウェーデンを領空侵犯して越えてきたと見られるドイツ空軍の「He177」4機が、突如日本艦隊の外縁部に出現。それまで低空を跳び続けていたため、連合軍のレーダーに引っかからなかったのだ。
 念のために配備されていた防空戦闘機隊が、慌てるように迎撃にでた。だが、誰もが予測したよりも遠距離から、つまり迎撃戦闘機がインターセプトする前に各機が高速で飛翔する飛行物体を切り離した。レーダーに捉えられたのも、攻撃のため上昇せざるを得なかったからだった。そして機体もそのまま飛行を続けたので飛行物体は無線誘導と分かったが、切り離された飛行物体は速度を急速に増しているため、誘導ロケット弾だと判断された。
 この時放たれたのは「Hs.294誘導弾」。Hs.293の発展型で、射程距離も伸びて、より洗練された姿を持っていた。しかし無線誘導型なのは変わらず、発射された母機の危険が伴うのは違いなかった。
 4機が2発ずつ放ったので8発が日本艦隊を目指すが、外縁を警戒飛行していた「烈風」隊が旗艦《仁淀》の航空管制に従って「He177」に取り付いて次々に撃墜していった。そして本来なら、これで誘導ができなくなるので、誘導弾の方はそのまま墜落していくか、明後日の方に飛んで行って勝手に落ちるはずだった。しかしうち半数の4発がそのまま飛行を続けていた。そのうち1発は少し飛んだところで故障のためかコースを違えていき、さらに1発は《黒龍》を緊急発艦した「震風」ジェット戦闘機が、進路を交差させすれ違いざまに撃墜に成功。残り2発が艦隊目指して飛行を続けた。
 すぐにも艦隊外周の駆逐艦が、濃密な対空射撃を開始。しかし、想定以上の速度で突進する誘導弾を捉えるのは難しく、2発の誘導弾は駆逐艦の上空を通過していった。その段階より早く、艦隊内周の巡洋艦や直衛艦が猛烈な火蓋を切ったが、それも同じだった。
 すんでの所で、1発はVT信管と思われる砲弾を受けて撃墜。それでも最後の1発が、艦隊中心部の空母もしくは角田提督が座乗する艦隊旗艦の《仁淀》を目指した。
 しかし誘導弾の進路上に、緊急増速した《霧島》が割り込み、残る1発はそのまま《霧島》に着弾。艦中央部で炸裂した。
 攻撃自体はそれだけで、《霧島》も旧式とは言え戦艦なので、若干の死傷者を出したが損害もせいぜい小破でそのまま任務を継続した。だが、少数の敵に簡単に輪形陣の内側にまで攻撃を許したのは大きな心理的衝撃となり、戦後も日本、アメリカ双方で防空手段の開発が進められる原因の一つとなった。
 なお、この時使われた誘導弾の半数は、従来の無線誘導型ではなく半ば試作品の対レーダー誘導型だった。途中までは母機からの無線誘導だが、途中からは弾頭部のレーダー逆探知装置に従い誘導されるタイプで、強いレーダー波に引き寄せられ目標へと着弾する。この時の場合は、割り込んできた《霧島》が多数のレーダーを装備していた事が着弾の原因の一つだったと考えられている。
 しかしドイツ軍の洋上での攻撃はこれきりで、圧倒的な連合軍の前にノルウェーは無防備な姿をさらしていた。


●フェイズ78「第二次世界大戦(72)」