●フェイズ78「第二次世界大戦(72)」

 連合軍の大艦隊は、呆気なく絶対的といえる制空権を獲得するも、その後も連合軍の空襲を続けた。
 短期間ながら徹底的と言える空襲で、ドイツ軍がノルウェー各所に布陣させていた戦力のほとんどが壊滅した。連合軍側は、精密攻撃を得意とする空母艦載機により、ノルウェーの一般施設、民衆への被害を避けるように細心の注意を払ったが、攻撃の規模が大きすぎるため、それでも誤爆などが多く発生した。
 洋上からの未曾有と言える規模の大空襲は3日続いた後でパタリと止み、空母部隊は一旦補給のため後退した。そして3月31日、再びノルウェー沖に姿を見せる。今度は、英本土北部などに待機していた揚陸部隊を伴っての進軍だった。
 この時の作戦は、巨大化しすぎた海軍にとって、来るべき北フランスへの上陸作戦でのリハーサルも兼ねていた為、問題点を洗い出すべく入念に行われた。ノルウェー作戦の連合軍内での一番の目的も、次の大作戦のリハーサルだったと言われることも多い。リハーサルを必要とするほど、連合軍の戦力が巨大化していたからだ。

 上陸地点のベルゲン、トロンヘイム、ナルビクの沖合に巨大な空母機動部隊が陣取り、再び空が黒く染まるような大編隊を繰り出して、今度は上陸予定地点付近を激しく攻撃した。主な攻撃対象は、上陸地点付近にある中小の沿岸砲台と高射砲。その日一日は、のべ1万機もの艦載機が各地を空襲し、目標を虱潰しに攻撃していった。
 ドイツ軍も連合軍のノルウェー空襲はある程度予測していたが、ここまで大規模な攻撃は予想外だった。ドイツ軍は、戦争終盤にノルウェーが攻撃を受けることはあっても、連合軍が大規模な上陸作戦を仕掛けてくるとは本格的に想定しておらず、大規模な空襲も殆ど想定していなかった。
 それでもある程度の時間もあったので、念のため各所に様々な軍事施設がドイツ人的几帳面さで建設されていた。ドイツ軍が想定していた通常の中規模程度の攻撃なら、十分に対抗できるものだった。だが連合軍の攻撃は、容赦がない上に徹底していた。
 爆撃や艦砲射撃を予測して作られた分厚く頑丈な鉄筋コンクリートのトーチカ砲台も、何発もほぼ同じ場所に命中する800kgや2000ポンド徹甲爆弾の前に粉砕されていった。大型爆弾でも1発や2発なら耐えられる頑丈な構造のものもあったのだが、想定以上の攻撃を受けると攻撃時の破壊に加え、自らの自重によって崩壊していった。土嚢を積み上げただけのような砲台相手だと、その中に通常爆弾が投下されるような芸当もほとんど一般的に見られた。巨大な空母機動部隊は、攻撃力の主力となる艦載機を操るパイロットが熟練揃いとなっていたからだ。攻撃を避けるには、森林の中など遮蔽を必要とした。
 しかも、すでにドイツ空軍の姿は見えず、ほとんどがフィヨルドの奥地の合間にある飛行場ごとスクラップとなっていた。ごく一部が、山肌をくり抜いた強固な防空壕の奥に残存していると連合軍では見られていたが、飛行場の滑走路は全て穴だらけで使用不可能なので、戦力価値は存在しなかった。
 事前空襲の効果としては、完璧と称してよい結果だった。
 だが上陸作戦は、これからが本番だった。
 なにしろ上陸するべき場所は、細長いフィヨルドの奥地。外洋から数十キロも奥まった狭い入り江の中にある。しかも海岸は、上陸に適した砂浜などほとんど存在せず、へばり付くように存在する沿岸都市そのものに上陸しなければならない程だった。
 このため上陸部隊を満載した揚陸艦は、危険を冒して狭いフィヨルドの奥へと進まねばならず、しかも上陸する部隊は、今までのように砂浜に上陸する事が難しい場合が多かった。場合によっては、都市部の港湾のにある岸壁に上陸する予定も立てられた。このため上陸の第一波は、どの上陸地点も限られた戦力しか参加せず、しかもどれも精鋭部隊が担当していた。
 英本土北部からも、長時間輸送機にゆられた日本海軍第一空挺団が、ほぼ全力で各地に降下する事になっていた。上陸するより難易度が低いと考えられたからだ。

 4月1日、上陸部隊を載せた艦艇に先立って、小型の魚雷艇、高速艇を四方に放ちつつ、まずは水雷戦隊がフィヨルドの奥へと進んでいった。水雷戦隊は、半年ほど前まで地中海で暴れ回っていた日米の精鋭水雷戦隊で、この時もドイツ軍が魚雷艇部隊をフィヨルドの奥に隠している事を警戒しての布陣だった。
 もちろん上空には多数の艦載機が展開していた。さらに魚雷艇対策として、この日のために作戦に参加した巡洋艦クラスの艦艇は、載せられる限り載せてきた水上爆撃機「彗雲」を放ち、低空に展開させた。「彗雲」のために、沖合には4隻の特設水上機母艦も布陣して、盛んに「彗雲」を発着させていた。
 また十分な戦闘機の随伴を受けた対潜哨戒機も、念のためフィヨルドの奥へと進んで、特に「ゼーフント」と呼ばれるミゼット・サブ(特殊潜行艇=小型潜水艇)が待ち伏せしていないかを捜索した。この予測は一部当たり、何とか事前空襲を逃れた少数の潜水艇がフィヨルドの入り組んだ場所などに伏在しており、その一部が捜索の網にかかって何の抵抗も出来ずに沈められた。小型潜水艇は自らの捜索能力が低く機動性も低いため、潜伏して奇襲することしかできず、見つかれば逃げることもほぼ不可能だった。
 それでも何隻かの小型潜水艇がフィヨルドの隙間に潜伏してやり過ごし、何隻か攻撃に成功している。とはいえ搭載兵器は小型魚雷が2本きりなので、首尾良く2発命中させたとしても1隻の輸送船を沈めるのが精一杯だった。そして数隻のゼーフントが攻撃成功したところで、連合軍の戦力のごく一部を阻止したに過ぎなかった。そうした損害は連合軍にとって想定内でしかなく、連合軍の上陸作戦は予定通り進んでいった。
 一方で、連合軍の事前空襲が大きく功を奏して、上陸予定の街の沖合に至るまで、空と陸からの攻撃はほとんど受けることは無かった。
 しかし空襲によって、全ての砲台や陣地の破壊に成功したわけでもなかった。大型迫撃砲などを搭載した車両が潜伏に成功した場合もあった。
 それでも上陸船団がほとんど攻撃を受けなかったのは、一部では空挺降下や小型潜水艇などで事前に上陸して破壊工作に当たっていた、日本、アメリカ、イギリスのコマンド部隊の活躍のおかげだった。彼らは早い者だと上陸作戦の1週間以上前からノルウェーに潜入し、各地に潜伏しつつ情報収集と攻撃の準備を行っていた。彼らの一部は発煙筒や狼煙をあげるなどして、攻撃の手引きもおこなった。そして一部の者は、空襲での破壊が難しい施設や陣地の破壊工作を行っている。ドイツ軍の通信遮断や、交通網の混乱を起こした者たちもいた。
 そして彼らの攻撃を成功させた要因の一つに、現地の人々の協力が欠かせなかった。

 ノルウェーは1940年5月にドイツに占領され、8月には一応独立を取り戻していたが、実際はその地理的な重要性のためドイツの傀儡状態、属国状態のままだった。このためノルウェー軍はほとんど名目上の存在に留め置かれ、一部ナチスを信奉する者が志願の形で義勇SS部隊に参加して国外に派兵されるのみだった。それでも1944年半ば頃までは、ノルウェー国内限定だが軍隊は一定の活動を許されていた。しかし連合軍がヨーロッパを攻撃し始めると、以前から駐留していたドイツ軍の指揮下に置かれた上にバラバラに配備され、しかもさらに活動を制限されるようになる。僅かな重装備も取り上げられ、重要な場所の防衛や駐留も許されなくなった。首都オスロの駐留も、ごく一部の近衛兵以外は駐留は許されず、首都と王室、政府はドイツの人質に取られたも同然となった。
 それ以外にも、ノルウェーがドイツから受ける仕打ちは年々酷くなり、文明的で穏やかだと言われたノルウェーの人々の心に、ドイツに対する不満、そして憎しみを積もらせていった。そしてノルウェーの人々は、連合軍がノルウェーを欧州本土に先駆けて奪回する活動を始めると、積極的に協力するようになっていた。
 彼らは、連合軍から夜間の空や小型ボートなどで送り込まれた武器や無線機を手に入れ、ノルウェーという国土に対して極めて少ない数でしかないドイツ軍の目を欺き、誤魔化しつつ、連合軍がやって来る日を待った。それでも一部先走った者のためや、連合軍の物資投下に気付いた事もあり、ドイツ軍も連合軍がノルウェーに強い興味を持っていることを知る。しかし46年春になるまでは、鉄鉱石の輸送ルートの妨害や、ドイツ空軍、海軍の動きを調べる為だと考えていた。
 また、核分裂兵器開発のための重水工場がノルウェーにあったので、ドイツ中枢は殊の外この施設の破壊を警戒した。この防衛のために砲台、高射砲が多数設置され、さらに1個中隊以上の精鋭歩兵部隊までが駐留して厳重に守った。
 ただしドイツは、戦争中に重水を有効活用できるまでに核分裂兵器開発は進まなかったので、結果論的には無駄な努力となった。とはいえ連合軍も無視したわけではなく、英本土奪回後は何度と無く空襲を行っているし、破壊工作員を送り込んだ工場破壊計画を立てている。現地レジスタンスによる破壊工作も計画された。結局、破壊工作員を送り込むことは無く、レジスタンスも目立つ行動は取らなかったが、それは連合軍がノルウェー奪回作戦を動かし始めていたからと、既に多くの重水がドイツ本土に運ばれており工場一つ破壊してもあまり意味がないと考えられたからだった。

 話しが少しそれたが、連合軍の上陸前の事前空襲が始まると、ノルウェー住民(レジスタンス)による妨害が本格化する。と言っても、戦闘をしかけるわけではない。標識の向きをデタラメにしたり、電話線を切断したり、空襲を避けるなどの名目でサボタージュをしたりといった行動がほとんどだった。しかしこれを全国規模でされてしまうと、ノルウェー各地に分散配置しているドイツ軍は、ノルウェーの特殊な地形と合わせると陸の孤島で孤立したようなものだった。しかも積極的なレジスタンスは、ドイツ軍の目を盗んで連合軍の先遣特殊部隊の手引きをしたり、発煙筒などで攻撃位置を知らせたりもした。ドイツ軍の戦力や配置も、多くが連合軍に伝えられていた。
 ドイツ軍も、この時点でノルウェー住民の強い反抗には気が付いたが、既に連合軍の侵攻が目前に迫っている状況では、根本的な対応は不可能だった。いくつか、直接的な行動に出たレジスタンスを逮捕して処罰する以上の事はしようが無かった。
 そしてノルウェー住民の行動は、連合軍が上陸する段階になると、さらに積極的になる。
 連合軍上陸部隊の多くは、フィヨルドの合間にある小さな都市の郊外か、場合によっては港湾部に上陸作戦を行わなくてはならなかった。いくら空軍を無力化させ砲台を沈黙させても、沿岸配備のドイツ軍部隊からの激しい抵抗を覚悟しなければならなかった。しかも、上陸する場所として好適な浅瀬から砂浜という海岸はほとんど無く、しかも海水面から一定の高さがある場合が多いため、水陸両用艇でそのまま上陸するのが難しい場合も多かった。
 だが、ノルウェー住民の抵抗活動でドイツ軍の動きが鈍くなり、さらには現地の人しか知らないような場所に連合軍部隊の一部を誘導し、上陸時には連合軍の一部部部隊は無血上陸すらする事ができた。
 そして上陸作戦が始まる直前には、イギリス本土から遠路飛来した空挺部隊が、各都市の郊外や後方に降り立ち、他の地域と街を分断して孤立させていった。さらに一部はレジスタンスと連携して作戦に当たった。

 連合軍の上陸作戦に対して、空挺兵や山岳兵、熟練した歩兵部隊なら十分に対処できる状況だったが、ノルウェーに配備されているドイツ軍はほとんどが二線級の歩兵部隊と、さらに劣る国民擲弾兵だった。国民擲弾兵は、主に徴兵年齢を超えた中年かそれ以上の男性ばかりなので、最新の軍事事情にも疎く少数での行動など論外で、本国内での民兵的な働き以外では警備以上の事はできないに等しかった。徴兵年齢に達していない十代後半の少年兵も若干含まれていたが、未熟なので役に立たないのは中年兵士と同じだった。ナチスの宣伝では少年兵も十分活躍できる筈なのだが、「お話」と違って素人同然の未熟な少年が活躍できるほど戦場は甘くは無かった。しかも相手は、戦争中何度も上陸作戦を行っている熟練兵ばかりの部隊な上に、装備も支援も非常に豊富だった。
 もっとも、国民擲弾兵がノルウェーにいるという事自体が、ドイツが連合軍のノルウェー侵攻の可能性がほとんどないと考えていた事を示していた。戦場にならないからこそ、少年兵まで配属されていたとも言えた。
 そして地上戦にならないと考えられていたので、ノルウェーのドイツ軍部隊には戦車など装甲車両は、ごく少数が首都オスロに駐留しているだけだった。各地には、軽装甲車や訓練に使うような旧式戦車程度しかなかった。各師団の主力部隊に、旧タイプの「III号突撃砲」か「ヘッツァー」が有れば優良なほどだ。中には、初期の侵攻時の置きみやげと言える多砲塔戦車が1両だけ残されていたが(※ドイツ製の「NbFz」と言われることが多いが、ソ連軍から捕獲した何らかの多砲塔戦車の外観を若干改装して、ノルウェーへの宣伝工作に使ったと考えられている。)、実戦にはほとんど役立たずだった。頼みの綱は沿岸砲台だが、それは空襲と破壊工作でほぼ全滅していた。
 そして絶対的な上に圧倒的という以上の数の連合軍航空機によって、各地のドイツ軍は身動きすれば吹き飛ばされるか上空から銃撃を受けるような状況に置かれていた。

 ベルゲン、トロンヘイム、ナルヴィクの各地で連合軍の第一波揚陸部隊が上陸地点の沖合に現れても、ドイツ軍の反撃はほぼ皆無だった。ゼロでは無かったが、砲撃などで位置を暴露した砲台や陣地は、すぐにも凄まじい反撃を受けて壊滅していった。若干奮闘したのは、すぐに陣地を転換できる中型以下の迫撃砲や軽砲、自走式の野砲、ロケット砲(ランチャー)などだが、嫌がらせや「ないよりまし」な反撃が精一杯だった。連合軍が沖合で上陸用舟艇、水陸両用車、水陸両用戦車などが隊列を組む間も、ドイツ軍の反撃は演習より静かなぐらいだった。五月蠅いのは、連合軍の支援航空機が飛ぶ音と艦砲射撃、事前ロケット射撃だけだった。
 それでも連合軍が各港湾都市に上陸を始めると、各地で小規模ながらかなり激しい戦闘が行われた。第一波として上陸する連合軍の数も限られていたし、連合軍も都市部や人の多く住む地域の爆撃は不徹底のため、ドイツ軍の陣地や砲台もある程度生き残っていた。だが、連合軍の方が装備で圧倒しているし、目視で上空の友軍を呼び寄せたり、沖の駆逐艦や揚陸支援艦の艦砲射撃を要請する事ができた。
 艦砲射撃も駆逐艦ばかりではなく、危険を冒して旧式が多いながらも巡洋艦もフィヨルドの奥にまで入り込んでいた。この艦砲射撃任務は、万が一損失しても構わないと考えられた日米英の旧式巡洋艦の同窓会と言われ、退役間際の古い形状を持つ《長良型》《オマハ級》のような旧式巡洋艦が多数顔を揃えていた。イギリス海軍などは、第一次世界大戦を経験した旧式艦まであった。しかも日本の「5500トン級」とカテゴリーされることもある旧式軽巡洋艦の一部は、艦尾にスロープを設けて上陸部隊も運んでいた。
 そして旧式艦であるだけに、古参の乗組員が乗り組んでいる比率が高く、高速発揮や激しい防空戦の必要性もない旧来の任務に近い事から、予想以上の活躍を示した上に損失を出すこともなく無事任務をやり遂げていた。

 艦砲射撃などのもとで、上陸部隊は数はいつもよりかなり少ないながらもいつも通り洋上で隊列を組み、そして海岸をめざした。
 最初に上陸するのはどの地点も精鋭部隊で、アメリカ海兵隊、日本海軍陸戦隊でも選り抜きの部隊ばかりだった。この部隊の一部にはアメリカ海兵隊の特殊部隊と言える武装偵察部隊も多数含まれていた。日本海軍陸戦隊も、この戦争中に実質的に部隊編成された特殊部隊的組織の「特務偵察隊」が作戦参加している。
 そして豊富な支援のもと上陸する兵士達は上陸作戦のエキスパートで、対歩兵戦闘にも秀でており、何より大戦を戦い抜いてきた熟練兵ばかりだった。日本海軍陸戦隊の一般歩兵の主装備の一つが単機関銃(サブマシンガン)だと言うことを示せば、彼らがどんな兵士達だったかが少しは分かるだろうか。
 また揚陸する艦艇の中には、損失覚悟で強引に海岸にランディングを仕掛けて海岸に乗り上げ、載せてきた部隊と兵器、物資を上陸させる事も行われた。そして上陸作戦開始から四半日が経過する昼過ぎには、各所の状況はハッキリとしていった。
 装備が大きく劣り住民からも反発を受けたドイツ軍は各所で海岸や岸壁を明け渡し、早い者だと奥地に向けた後退もしくは敗走を始める者もいた。
 連合軍が最も気にしたのも、上陸時の自軍の損害ではなく、上陸地域の一般市民への被害に対してだった。また、都市部への上陸となる上に場所が限られているので、大規模な火力があまり使えず空襲も機銃掃射が中心となった。火力の問題もあって、速射性能の低い6インチ砲程度の火砲しか持たない旧式軽巡洋艦が艦砲射撃に当たったとも言えた。
 そして一度上陸してしまえば、ドイツ軍に連合軍の上陸部隊を押しとどめることは無理だった。さらに都市部に入ってしまえば、住民の誘導を受けた熟練した兵士達は各所でドイツ軍の裏をかいて、各所で小さな包囲を繰り返し、戦いが大規模化する前にドイツ軍を本格的な敗走に追いやった。そして大勢も一日でほぼ決した。
 早い場所だと、午前中にドイツ軍が大きく後退してしまい、上陸一日目で後続の部隊が上陸を開始している。後続部隊の多くは、比較的軽い補給で済むが進撃速度を重視した軽機械化部隊もしくは自動車化部隊だった。また、雪が残る山間部の細い道の踏破となるので、スキー部隊も続々と上陸していった。雪上車の代わりに「カンガルー」など全装軌式の兵員輸送車もかなり用意されていた。ベルゲン、トロンヘイムの後方では小規模、中規模の空挺降下が何カ所か行われてドイツ軍の後方を遮断したため、早くも降伏する部隊も出た。

 ただし、北のナルヴィクだけが状況はほぼ例外となった。
 同地域に上陸する連合軍は、当面は港を制圧して周辺に降伏を呼びかける予定を立てていた。これはナルヴィクが小さな港湾都市で、スウェーデンからの鉄鉱石の積み出しのためだけにある港だが、春になれば積み出しも無くなるし、ドイツ軍もほとんど駐留していないだろうと予測されていたからだ。1日で戦闘が終わると言われたほどだ。
 しかしその鉄鉱石の積み出し港という点が、この場所を他とは違う戦場とした。
 ヒトラー総統は、連合軍のノルウェー侵攻が確定的となると、ナルヴィクだけは厳重に防衛するように優先命令を出した。ヒトラー総統の悪い癖が出たわけだが、問題は山積みだった。時期がギリギリなので、今から増援を送るにしてもナルヴィクはオスロからすら陸路ではほとんど行けない場所だった。スウェーデンからなら行くことは出来るが、中立国を軍隊が通れるわけが無かった。このため海路か空路となるが、海路はすでに連合軍の潜水艦がウヨウヨしているので自殺行為だった。となると空路しかないが、今更空路で送り込める兵力などたかが知れていた。しかし総統が命令している以上、意味のある戦力を送り込まないといけないため、仕方なくすぐに動かせる空挺部隊3000名を国内の輸送機をかき集めて送り込んだ。
 この空挺部隊は、熟練兵が非常に多く即応待機状態で、本来は連合軍のカレー上陸に備えている部隊の一つだった。しかし、総統の命令によって3月後半にノルウェーのナルヴィクへと派兵されてしまう。そしてナルヴィクに上陸する連合軍の前に立ちはだかり、孤軍奮闘の活躍を示すことになる。

 ナルヴィクには、半ば案内役の英海軍コマンド旅団の1個連隊と、日本海軍陸戦隊の第2特別陸戦旅団、第5特別陸戦旅団が上陸した。第一波は英海軍コマンド旅団と第2特別陸戦旅団で歴戦の柴崎恵次少将が率いていた。
 ナルヴィクはフィヨルドの奥にある天然の良港ながら小さな港町で、スウェーデンの北部山岳地帯にあるキルナ、エリバレなどで産出する鉄鉱石を主に冬に積み出す為だけの港町だった。
 ナルヴィクへの上陸自体は、嫌がらせ程度の反撃しか受けずに済んだ。すでに周辺を含めた砲台の全てが破壊されていたし、現地に駐留するドイツ軍部隊に重装備がほとんど無かったからだ。
 戦闘は連合軍が街の郊外、といっても縦横2キロほどの小さな街の郊外に上陸して少ししてから本格的に始まる。
 現地を防衛していたドイツ軍の空挺兵は、市民の多くが疎開して半ば無人化していた街の要所を少ない資材を活用して陣地化し、一部は都市要塞として連合軍を待ちかまえていた。現地防衛していた指揮官(※かつてシュトゥーデント将軍のもとで戦っていた)は、ヒトラー総統の命令が実行不可能なのを理解していたが、軍人としての義務を果たすべく一日でも長く連合軍に占領させない決意で戦闘に臨んでいた。実にドイツ人的と言えるだろう。
 結果ナルヴィクでの戦闘は、発生しないどころか1日目の時点で全く先が見えなくなっていた。
 ドイツ空挺兵は、市街地での戦いを一週間ほどで切り上げてしまうと背後にある山岳地帯へと逃れ、しかもそこに部隊主力が陣地を作って籠もり、そして無数の小さな陣地から小型砲、迫撃砲、ロケット段などでナルヴィクの連合軍を攻撃した。
 そして少数ながら待ちかまえた山岳地帯への攻撃という、予期せぬ状況を前に連合軍は苦戦を強いられた。主力の日本海軍陸戦隊は市街戦こそ手慣れており、多少手こずるも1週間でドイツ軍を町から駆逐した事は軍事的にも高く評価できるものだった。何しろ相手は、ドイツ軍最精鋭の空挺兵の生き残りなのだ。だが、山岳地帯での戦闘となると勝手が違っていた。沿岸部や市街地での戦い以外で、日本海軍陸戦隊は装備が不足していた。訓練についても十分では無かった。
 結局連合軍は、ナルヴィクに護衛空母による空母群を1つ張り付け続けざるを得なくなり、さらには旧式軽巡洋艦部隊も再び動員しての艦砲射撃も続けた。それでもドイツ軍は、複雑な地形の各所から連合軍を出し抜いてナルヴィクの連合軍を攻撃し続け、そして戦闘を長引かせた。
 この戦闘はドイツ軍の降伏で幕を閉じるが、それも主力が降伏したのは武器・弾薬そして食糧が尽きた上であって、包囲されたり壊滅したからでもなかった。そしてドイツ空挺兵達は1ヶ月以上現地でねばり強く戦い続け、その後一部の兵はさらにノルウェーの北の僻地でゲリラ活動を続けたため、結局ナルヴィクへ上陸した日本兵らのかなりが終戦までこの地に留め置かれることになる。
 3000名の兵士が1万5000名もの兵士と、その他支援戦力を北の僻地に拘置し続けたのだから、ドイツ空挺兵は十分以上に任務を果たし、尚かつ自分たちの勇名に恥じない行動を取ったと言えるだろう。しかし上陸を許した時点でヒトラー総統は一度激怒し、そしてその後ナルヴィクの事を思い出すことも無かったと言われている。

 ナルヴィクでの戦況をよそに、連合軍のノルウェー作戦は次の段階へと移行する。
 予定より早く後続部隊が続々と上陸し、中でも迅速な進撃を行うための機械化部隊の上陸が急がれた。この中で当座の分を除く補給物資の揚陸は後回しにされ、特に弾薬は予定より少なく遅く揚陸されたが、戦闘初日の様相から見て問題ないと考えられた。何よりドイツ軍が立ち直る前、首都オスロなどに籠もる前に全てを決してしまうのが先決と考えられた。
 そして上陸から3日経過すると、さらに次の段階へと進む。
 首都オスロへといち早く進軍し、ノルウェー全土を短期間で解放するのが次の段階だった。そしてベルゲン、トロンヘイムに上陸した主力部隊のうち、主にアメリカ海兵隊第2遠征軍とアメリカ陸軍第24師団が、オスロに向けて進軍する事になる。日本海軍の陸戦隊は基本的に遠距離進撃の能力に欠けているため、引き続きもドイツ軍のいる沿岸各所への攻撃と解放を行うことになっていた。
 北大西洋沿岸の主要な港湾都市からオスロへの道は、後退したドイツ軍が連合軍艦載機の空襲を受けながらの敗走路となっていた。フィヨルドに続く氷河が削り取った峻険な山岳地帯の合間の道なので、場所を選んで防戦に徹すれば大軍相手でも防げる可能性が十分にあった。だが、ノルウェーのドイツ軍には装備も作戦が全く不足していた。基本的に敵の大軍が攻めてきたらほとんど対処のしようがなく、少数のゲリラ的攻撃に対処するのが精一杯だったのだ。しかも住民の妨害や連合軍への協力があるため、敵を待ちかまえていたら密かに回り込んだ少数の連合軍部隊に後ろから攻撃を受けたりした。補給と連絡の途絶も恒常的となり、未熟なドイツ軍兵士の不安を高めた。そこに過剰とも言える戦力で攻め込まれては遅滞防御戦どころか、戦う以前の問題とも言えた。たった1門の対戦車砲が半日も敵を防いだ事もあったが、戦場のあだ花でしかなかった。
 進軍する連合軍は、脱落する中年ドイツ兵(国民擲弾兵)や実質的には少年兵を道々で捕虜としつつほぼ無血で進軍した。このためベルゲン、トロンヘイム双方に上陸した部隊間での、「オスロ競争」が始まってしまったほどだった。これはベルゲンにはアメリカ陸軍第24師団が、トロンヘイムにはアメリカ海兵隊主力が上陸したことが原因していた。陸軍第24師団では、ベルゲンで後続して上陸してきた友軍を見送った形の日本海軍陸戦隊の部隊も進軍競争に参加させ、「オスロ競争」を優位にしようとしたほどだった。(※日本海軍陸戦隊の一部精鋭部隊の方が、敵の抵抗さえなければ重武装の自分たちより早く進める可能性が高かったためだった。)
 「オスロ競争」はほぼ互角で推移したが、オスロ降伏もしくは解放の決定打は、日本海軍陸戦隊の第一空挺旅団がオスロ南部各所に主力部隊を降下させた事となった。これでオスロは退路が断たれて包囲された形になり、連合軍は24時間の猶予を与えて現地に残るドイツ軍に降伏を促す。オスロの南部を連合軍が押さえてしまうと、ノルウェーのドイツ軍のほとんどはドイツに逃れることが完全にできなくなるのだ。
 それでもドイツ本国からは、総統命令で徹底抗戦と市街戦の決行、さらには王族の捕縛とドイツへの移送、オスロの破壊が命令される。これに対してオスロの現地ドイツ軍司令部は、戦術的にこれ以上の抗戦は無意味で、命令の実行は今後のドイツ外交にも悪影響を与えると独自に判断を下し、連合軍に対して名誉ある降伏と武装解除を伝える。枢軸側となるノルウェー政府も、オスロの無防備都市宣言を出す。
 なお、オスロを始めとしたノルウェーには、ごく少数の一般親衛隊以外にドイツ兵と親枢軸派のノルウェー兵はいなかった。ノルウェーの親ナチス派も多くが義勇SSとして国外にいたため、この時の穏便な決着を選ぶことができた。ノルウェーにいた一般親衛隊や親ナチス派の殆ども、司令部が決断すると時を同じくして拘束または軟禁され、強硬手段に訴えることが阻止された。それでもノルウェーに居たドイツの一般親衛隊や秘密警察の一部は逃走したり潜伏したが、ほとんどが短期間のうちにノルウェー人の手によって捕まえられていった。
 また、オスロの降伏と無防備都市宣言を受けて、ノルウェーのドイツ軍への降伏命令がノルウェーのドイツ軍司令部から出され、基本的に士気が低かったノルウェー各地のドイツ軍はほとんどが降伏していった。将兵の中でも、ごく一部の者が抵抗を続けようとしたが、基本的にドイツ本国から切り離された状態で、さらには住民の協力も得られないので、自殺的な戦闘を仕掛けるか、のたれ死ぬのでなければ降伏を選ぶより他無かった。
 ノルウェーでの戦いは、予定よりも早い4月半ばには決着が付いた。

 なお、連合軍のノルウェー作戦の間、ドイツ本国も手をこまねいていたわけではなかった。何とかして増援を送り込もうと考えたし、実際の作戦も発動された。空軍部隊の一部もスウェーデンの領空侵犯という外交的危険を冒してまでしてノルウェーに送り込んだ。連合軍の空母部隊への小規模な奇襲的空襲も増援の一環だった。
 しかし作戦中に行われた事の多くについては、イギリス本土から飛来して制空権を得てしまった日本海軍航空隊の前に阻止された。作戦発動以前に行われた増援については、それまで現地にいた兵力共々呆気なく撃破されていた。スカゲラック海峡の制空権を奪われていた時点で、増援が成功する筈もなかった。
 結局のところ、半ば想定外の連合軍によるノルウェー解放に対して、基本的にドイツ軍は付け焼き刃で泥縄式の対応しかできず、無駄な犠牲と消耗を積み上げただけに終わった。しかもこの時ノルウェーに送り込もうとした兵力の一部は、本来なら近日中に英本土から殺到するであろう連合軍に対抗するための兵力だった。特にスカゲラック海峡を抜けようとして撃墜された空軍部隊は100機以上に上っており、ただでさえ少ない航空戦力の消耗を助長してしまっていた。

 そして、ドイツ、欧州枢軸が恐れる連合軍の北からの大陸反攻作戦が、ついに動きだそうとしていた。


●フェイズ79「第二次世界大戦(73)」