●フェイズ79「第二次世界大戦(73)」

 1946年春から初夏にかけては、北大西洋方面の連合軍にとって総反抗の季節だった。
 4月のノルウェー奪回作戦は、その嚆矢だった。
 もちろんそれだけでなく、来るべき大反抗を前に幾つもの事前作戦が行われた。

 最も大規模だった事前作戦は、イギリス本土南部に展開した連合軍空軍による、3月頃から本格的になったフランス北東部からドイツ南西部を目標とした大規模で継続的な空襲だった。
 爆撃の主な目的は、上陸地域の制空権を完全に奪うことと、ドイツ軍の地上での移動手段を奪うことだった。移動手段を奪うと言っても、鉄道やトラックを空襲で破壊する事ではない。もちろん路上を移動する目標があれば、それがロバの引く小さな荷馬車でも躊躇無く破壊されたが、主な目的はトラックが通る道そのものを一時的に使えなくする事だった。しかも道だけでなく、鉄道、西欧北部一帯に張り巡らされた運河網のほぼ全てが攻撃対象となった。運河は特に近世以後に発達したもので、産業革命が始まるまでは現代で言えば大型トラックが往来する幹線道路のような重要な役割を果たしていた。
 例外は、破壊すると復旧に長期間かかる大規模な鉄橋と運河の門扉、鉄道の操車場などで、破壊しない理由はその後の自分たちの進撃の為だった。また、ドーバー海峡近辺の港湾もほぼ全て爆撃対象外とされたが、これも上陸作戦後の補給を考えての事だった。
 空襲に動員された機体数は、輸送機を除いた約1万1000機。当時、フランス南部で4000機、イタリア、バルカン方面で3000機が活動中だったので、約60%が集結していたことになる。これに加えて、連合軍の稼働機は東部戦線の総数1万2000機のソ連空軍と1000機以上の満州空軍が加わる。
 これを東部以外の航空軍(艦隊)で示すと、以下のようになる。

 英本土方面(稼働機:約1万1000機 ※輸送機除く)
米・第3航空軍
米・第6航空軍
米・第8航空軍(戦略空軍)
米・第15航空軍
日・海軍第十一航空艦隊
英・第1航空軍(自由英系)
英・第11航空軍(旧本国系)

 南仏方面(稼働機:約4000機)
米・第20航空軍
日・陸軍第五航空軍
仏・第1航空軍団

 東地中海方面(稼働機:約3000機)
米・第5航空軍
日・陸軍第三航空軍

 上記のうち、アメリカ軍は部隊編成が他国より大きくなっており(第8航空軍は例外)1個航空軍で2000機以上の稼働機を有している場合もあった。またイギリス空軍の第11航空軍は、まだ部隊編成(=再編成)が完了しているとは言えず、作戦にはあまり参加していなかった。また日本の第十一航空艦隊は、3月、4月は主力部隊がノルウェー作戦にかかりきりだったため、3分の1程度しか大陸には部隊を向けていなかった。初夏の頃にはこの二つも大陸を指向できるようになるので、作戦機はさらに1000機以上増える予定だった。
 しかも場合によっては、海軍の空母艦載機4000機以上も各戦線に動員可能だった。何しろ空母は移動する基地そのものであり、沿岸から攻撃可能な場所ならどこにでも移動、出現が可能だった。もっとも空母艦載機の方は、春にノルウェー作戦にかり出されたので、状況は日本海軍航空隊と似通っていた。
 だが、英本土に陣取る1万1000機は十分以上に強力だった。
 このうち約1200機が、贅沢な4発重爆撃機を装備したいわゆる「戦略空軍」だったが、米800機(ほとんどが第8航空軍所属)、日300機、英100機に分かれており、日本(海軍)が戦略爆撃に消極的で、しかも主力がノルウェー作戦に投入されていたため、海岸から遠い場所の遠距離攻撃、つまり戦略爆撃はほとんどアメリカ陸軍航空隊(空軍)の担当だった。
 しかし100機を継続的に出撃させるには、稼働率などの問題から150%の機数が必要だった。このため多数の予備機が用意できない場合の実戦力は500機程度で、恒常的に爆撃に出撃できる機数となると、日々の機械的消耗と損害を考えれば300機程度の編成の編隊による戦略爆撃しか行えなかった。そしてこれを補完する他の連合軍は、日本海軍は大型機の戦術爆撃を好んでおり、しかも成果を挙げているため戦略爆撃に向けさせることは出来なかった。英本土奪回後の英空軍は戦略爆撃に積極的となっていたが、機材は貸与するにしても人材が不足していたので、小規模な爆撃が精一杯だった。
 このためアメリカ陸軍航空隊を率いるアーノルド元帥の目標にはほど遠く、目標もドイツ沿岸部の都市か最大でもルール工業地帯の一部に限られていた。
 そして戦略爆撃機とその護衛機を除く9500機の航空機は、沿岸部とその後背地帯の戦術爆撃を徹底して行い、同時にドイツ軍機を見れば手当たり次第に落としていった。

 対する欧州枢軸は、フランス空軍はほぼ全力が南フランス戦線にかり出されており、しかも南仏で1対5以上の戦力差という北西部のドイツ空軍より多少ましなだけの連合軍を相手に、日々戦力をすり減らしていた。
 このため、ロシア戦線から移動してきたドイツ第二航空艦隊が主な相手だった。ハンブルグなどドイツ沿岸部はドイツ第一航空艦隊の担当になるが、第一航空艦隊は都市部の防空が主な任務として編成され装備も防空戦に特化していたため、戦術空軍としては第二航空艦隊が相手をすることになる。しかも第一航空艦隊は、実質的にドイツ全土の防空を担当していたので、北西方向に戦力を向けられない状態だった。
 また、ドイツの第三航空艦隊はアルプスからバルカン方面、第四航空艦隊はポーランド正面の防空を担当していたので、動かす事は不可能だった。ノルウェーの第五航空艦隊は、もともと数が少ないので航空軍団程度の戦力しかないのだが、4月の連合軍の攻勢で消滅といえるほどの打撃を受けて壊滅している。

 両軍が前線に投入する航空機材だが、ジェット機が姿を見せるようになったとは言え、レシプロ戦闘機が数の上での主力だった。そして連合軍では、各機体の最終発展型といえる高性能レシプロ機が急速に数を増していた。
 アメリカだと、陸軍航空隊軍の「P-51H ムスタング」、「P-47N サンダーボルト」、海軍の「F8F ベアキャット」がそれに当たる。どれもレシプロ戦闘機最強と呼んでよい高性能機で、それぞれ優れた特性を備えていた。しかも「P-51D」、「P-47G」、「F4U コルセア」、「F6F ヘルキャット」、「F4F ワイルドキャット」など在来機も数を減らしつつも十分に活躍していた。
 日本は半年から一年前と大きな変化はなく、「三菱 三式艦上戦闘機 烈風改」、「中島 三式戦闘機 疾風改」、「川崎 一式重戦闘機 飛燕III型」が主力を固めていた。アメリカ同様護衛空母に旧式の「零戦」が運用されていたりする場合もあったが、ほとんどが三種類で占められていた。しかし「隼III型」(※現地改造型と推定されている)が飛んでいる記録写真もあり、前線ではもう少し多い種類の機体が飛んでいたと見られている。ただし日本の場合は、国力の限界から新型機の導入が下火になっているという側面もあった。また、各メーカーの開発失敗も、新型機導入の遅れに影響していた。
 完全に連合軍側となったイギリスは、米日の貸与機を使いつつも主に本国が開発していた新型機の導入を進めていた。「スーパーマリン スピットファイアMk.XII」は一年以上前に既に登場していたが、数をかなり増やしていた。しかし日本の「飛燕」同様に流石に限界が見られてきていたため、空軍は「スーパーマリン スパイトフル」を海軍は「ホーカー シーフューリー」の導入を進めていた。「スパイトフル」はスピットファイアの後継機的な立ち位置にあたるが、ジェット機開発の間の「つなぎの機体」として急遽量産が進められた。「シーフューリー」は、大戦中盤から自力開発に力を入れた英本国海軍期待の新型機で、艦上ジェット戦闘機に不安があるためかなり力を入れた開発が行われた機体だった。性能も日米の終末期に登場したレシプロ機に匹敵し、もう1年早く登場していれば英本土を巡る海戦の様相が変わったのではないかと言われる事も多い。

 そして連合軍は、新世代の航空機であるジェット機の開発と配備も手抜きはしなかった。その裏には、次々に革新的な航空機を開発しているドイツへの強い警戒感と恐怖心があり、尚更開発と配備が急がれた。そうして開発された機体が続々と前線に送り込まれ始めたのが1946年春頃の事だった。
 アメリカは1944年に実戦配備した「ロッキード P-80 シューティングスター」、1945年海軍機として配備された「マクドネル FH ファントム」以外に、1946年春に陸軍航空隊が「リパブリック P-84 サンダージェット」、海軍が「ノースアメリカン FJ-1 フューリー」を導入した。どちらも単発ジェット機で、戦闘機本来の格闘戦を重視した本格的なジェット戦闘機だった。しかし、技術の発展途上の機体ため翼は従来の直線翼で、機体構造も開発期間の短縮などのために、各社が有する機体の設計をそのまま流用していた。基礎設計は優れており、その後後退翼を持つ改良型が登場して、広く運用されることになる。しかし戦争に間に合ったのは直線翼を持ち、さらにエンジンもまだ未熟だったため、あまり活躍は期待されていなかった。
 日本のジェット機は、最初期の「九州飛行機 五式戦闘機 震電改」、その改良型の「九州飛行機 五式艦上戦闘機 震風」、「三菱 五式艦上爆撃機 景雲」、「中島 五式戦闘機 火龍」と試作機でも作るようにバラバラで、半ば迷走していた。心臓部となるエンジンの開発も遅れていた。見るべきものがないわけではないが、国力と技術力の限界が見える状態だった。そうした中で登場した機体は、ある意味奇跡的だった。
 「三菱 五式艦上戦闘機 旋風」の名を与えられた機体は、海軍が全面的に支援して三菱の戦闘機開発部門が総力を挙げて完成させた機体だった。
 単発エンジンで機体設計には「烈風改」が流用された点は、同時期のアメリカ軍、イギリス軍の最新ジェット戦闘機と似ていた。エンジンもアメリカのコピー品といえるもので、しかも技術面、量産面の限界からアメリカのものより総合性能は若干低かった。だが特徴的なのは、同時期に登場したドイツ軍機と同様に後退翼を持っている点だった。これは空技廠で開発の始まった「震電」の開発経験を応用したもので、空技廠ではその後も大規模風防実験、模型などで試行錯誤を重ねて、後退翼の有効性をドイツに次いで発見していた。同じ情報は少し時間をあけてアメリカにも技術交換の形で伝えられたのだが、当時のアメリカ軍、航空業界は内心は飛行機後進国の技術情報だと感じて懐疑的だったと言われる。ドイツ軍の「Me-262」を見ても大きな変化はなかった。このため「震電」と「旋風」だけが、連合軍機の中で後退翼を備える機体として大戦中に完成した。
 そして完成した「旋風11型」は、様々な機械的な点でアメリカ製の新型ジェット戦闘機に劣っているが、模擬戦をしてみると優勢を占めることが多かった。ここで初めてアメリカ人も後退翼に着目するが、既に1946年の春を迎えていた。
 しかし艦上戦闘機ながら、最初の実戦配備は海軍の基地航空隊で、艦載機部隊への機種更新はタイミングの関係で1946年初夏の頃まで行いたくても行えなかった。また、陸軍向けの開発が旋風ほど進んでいないため、仕様変更した改良型が「三菱 六式戦闘機 狗鷲」として陸軍にも急ぎ導入された。三菱の戦闘機が導入されたのは初めての事で(※双発の高々度戦闘機として開発が始まった「キ83」は、結局司令部偵察機として採用されている)、導入には大きな物議を醸しだしたが、戦時と言う事とどうしても必要と考えられたため導入が断交された経緯がある。
 日米以外だと、イギリス本国が半ば意地でジェット機を導入していた。イギリス本国空軍としては比較的早い時期に「グロースター ミーティア」が実戦配備されていた。そして1945年内にエンジンをアメリカ製に換装することで一定の性能に達したが、それでも戦闘機としては問題があるため、戦争終盤は迎撃専門機や戦闘爆撃機として運用された。そして新たに開発されたのが「スーパーマリン アタッカー」だった。スーパーマリン社が開発したように、名機「スピットファイア」の後継機として開発が始まった。機体設計には「スパイトフル」が流用され翼が同じものが使用されたため、「スパイトフル アタッカー」と呼ばれることがある。
 1946年の初夏の頃に量産配備が始まり、来るべき反攻作戦には何とか間に合った。性能は同時期の日米の機体とほぼ同程度で、レシプロ機譲りの直線翼を持つなどアメリカ軍の機体に似ていた。ドイツ軍の最新鋭機には少し劣る性能となったが、数の違い、パイロットの優秀さ、後方支援体制の充実さなど別の面でのアドバンテージが大きいため、特に問題視されるほどではなかった。

 対する欧州枢軸というよりドイツ空軍だが、遂に革新的と言えるジェット機の実戦配備が1946年春頃に相次いで始まっていた。
 それまでのドイツ軍のジェット戦闘機と言えば特徴的な後退翼を持つ双発の「メッサーシュミット Me262」だが、次に登場したのは2機種のどちらも単発ジェット戦闘機だった。しかも大きく後退した翼を持ち、どちちらも後ろに細く伸びた先に尾翼を持つ特徴的な姿を持っていた。どちらの機体も、戦後の世界中の戦闘機の開発に大きな影響を与えたほどだった。
 「メッサーシュミット Me P1101」、「フォッケウルフ Ta183」がそれぞれの名称で、ドイツを代表した航空機メーカーが送り出した切り札とも言える機体だった。
 どちらも40度から60度という非常に大きな後退翼を持ち、連合軍の同時期のジェット機よりも小型だった。機体の完成度は「Ta183」の方が高かったが、小さくまとまりすぎていたためか、やや発達余裕を欠いていた。
 戦闘機としての性能は、連合軍機よりも高かった。熟練パイロットならレシプロ機でも何とか対抗することは出来たが、それでも今までの双発機相手のようにはいかなかった。対等に戦うには同程度のジェット戦闘機が最適であり、連合軍各国が新型機開発に心血を注いだのも妥当な判断だったと言えるだろう。戦争末期にソ連空軍(+満州空軍)が空の戦いで局所的な劣勢に立たされる事があったのも、高性能な単発ジェット戦闘機の存在があればこそだった。
 量産命令自体は、まだ開発半ばだった1945年春には出されたのだが、各種技術面での問題を消化に手間取り、細かい機体設計の変更もあったため、量産は1946年に入るまで本格的には始まらなかった。また量産の遅れは、連合軍が戦術爆撃中心ながらドイツ本土にまで爆撃を行うようになって、爆撃と疎開で生産現場が混乱した事も影響していた。
 さらにパイロットの訓練自体も、連合軍がドイツ本土に迫り本土上空でも安全な空が減ったため、訓練に事欠くことが多くなって未熟なまま出撃せざるを得ない場合が増え、せっかくの高性能を活かせないまま落とされる例が後を絶たなかった。
 本土上空の制空権喪失に伴う訓練の減少は、ジェット機だけでなくレシプロ機を含めた全てに言えることで、1945年初夏以後のドイツが急速に空での威力を低下させていった。特に1946年に入ってからは、連合軍が容易く制空権を奪えるようになった事に極めて強く影響していた。単に物量の差だけではなく、ソフトウェアの面での劣悪な状態がドイツ空軍をじり貧に追い込んでいったのだ。そうした中での希望の星だったジェット機も、様々な劣悪な環境と連合軍が対抗手段(=兵器)を用意していたため、ヒトラー総統やゲーリング国家元帥らが期待したほど、戦争を逆転させるような活躍は出来なかった。それでも熟練パイロットを多く含んだ幾つかの精鋭航空隊(ガーランド将軍の部隊など)は、連合軍に局所的ではあっても優勢な戦いを演じ、ドイツ空軍の勇名を後世にまで伝えた。パイロットの腕が互角ならばジェット機同士の戦いで優位に戦うことが多く、爆撃機の迎撃では連合軍が色を失うような大損害を与えたこともあった。このため登場が半年、できれば1年早ければ戦争の様相が大きく変わったと言われることも多い。また逆に、ドイツの新兵器を恐れたため、連合軍が物量に任せたなりふり構わない進撃を行ったと言われることもある。
 
 1945年秋頃から始まった連合軍による、イギリス本土南東部からの欧州北西部地域への空襲は次第に規模を拡大しつつ、さらには遠隔地、ドイツの深部へと伸びていった。
 当初ドイツ本土を空襲していたのは、アメリカ本土から一気に進出したアメリカ第3航空軍だけだったが、すぐにも地中海方面に展開していた部隊の多くが移動してきた。どれも歴戦の部隊であり、夏の連合軍空母機動部隊による北海乱入以後戦況は悪化の一途を辿り、冬になる頃には戦況はドイツ空軍にとって絶望一歩手前といえる状況になっていた。
 そして晩秋の頃から、アメリカ第8航空軍を中心とした重爆撃機部隊による工業生産地帯を目標とした俗に言う「戦略爆撃」が開始される。それまでの連合軍の空襲は、基本的には「戦術爆撃」だった。中華民国の重慶、四川方面への爆撃が若干の例外だが、それ以外は中型機、小型機を用いた戦場やその少し後方での空襲を重視していた。戦略的な攻撃と言えば潜水艦や通商破壊艦艇を用いた航路(船舶)への攻撃で、航空機の役割は戦場やその近辺、敵のやや後方での制空権を得るためと考えられていた。アメリカ陸軍航空隊を率いたアーノルド元帥らは「戦略爆撃」を強く推していたが、それは費用対効果としてではなく、戦後に独立空軍を作るための政治的行動と見られる事が多かった。
 一般的に敵の奥深くの生産拠点を爆撃することは、敵の抵抗が激しいため犠牲が大きく、費用対効果の低い戦闘行為だと考えられていた。戦略的に圧倒的優位に立てば状況は変化するが、ドイツ軍は強敵であり敵本土上空で優位に立てるようになるには時間がかかった。しかし1945年初夏にイギリス本土が奪回されると、状況は大きく変化する。それでも連合軍が従来通りの戦術爆撃で十分と考えており、展開される戦況はそれを肯定していた。
 それでもアーノルド元帥らは、第8航空軍の重爆撃機部隊を用いた戦略爆撃を1945年晩秋の頃から本格化させる。
 主に用いられた機体は、1943年末期に量産配備が開始された「ボーイング B-29 スーパーフライングフォートレス」。従来の「B-17」は既に旧式化が目立ち、「B-24」もドイツ空軍機相手に防御面などで難点があると見られていた。
 もっとも「B-29」の難点も解消されたわけでは無かった。確かに、最初期の稼働率20%という悪夢は、何とか50%以上に改善していた。だが、高性能の代償としてエンジンに無理をさせる機体であることに変わりなく、交換用のエンジンを大量に用意したり、熟練した整備兵を揃えることで稼働率を向上させたというのが実際だった。また、成層圏に駆け上がって爆撃が出来るが、「B-29」といえども駆け上がるまでが大変だった。英本土の中部から北部の基地に進出して敵地(ドイツ本土)は近くなったが、近くなりすぎたというのが実際で、英本土の上で成層圏まで駆け上がらなければならなかった。
 一度成層圏に達すれば、迎撃できるドイツ軍機は限られているし、高射砲も大型砲以外は脅威でなくなるし、随伴には多数の戦闘機を伴うので撃墜される心配は比較的少なかった。だが、だからといって簡単にドイツ本土を爆撃できるわけではなかった。
 また成層圏に駆け上がるためには多くの燃料が必要だし、時間も相応にかかった。燃料を積む分だけ爆弾搭載量も減った。中高度を進むのとどちらが効果的なのかは微妙なところと言われる。
 結局のところ「B-29」を使った爆撃は、在来の機体を使うよりもマシという程度だった。日本海軍の大型陸上攻撃機「連山」の方が、雷撃でもするように極低高度を高速で飛び回ってドイツ軍に迎撃の時間を与えないので、戦術的に有効と言われることも多いほどだ。
 それでも戦略爆撃マフィアと言われる人々は、ようやく訪れた機会を無駄にはせず、精力的に活動した。
 彼らの主な目標は、ルール工業地帯。英本土から比較的近く、途中にアルプス山脈のような地形障害もなく(※アルプスのせいで3000メートル程度の低高度進撃ができない。)、ドイツ軍に迎撃の時間をあまり与えずにすむ場所だった。加えてルールは、ドイツの心臓部とも言われる重工業地帯であり、大損害を与えることが出来れば戦略的な効果も大きかった。首都ベルリンを目標としなかったのは、ベルリンは政治的効果は高いが工業施設などがそれほどないので、危険度と合わせて考えると効果が低いと判定されたからだった。逆にハンブルグなど北海沿岸部の都市を標的としなかったのは、既に沿岸部の都市は頻繁に爆撃を行っていたため、効果が低い上に政治的インパクトにも欠けると判断されたからだった。その点ルール工業地帯は、今までは嫌がらせ目的の夜間の散発的な爆撃程度しか行われてきておらず、大規模な爆撃を成功させた場合の効果は非常に大きいと考えられた。

 1945年11月6日、最初の大規模なルール爆撃が開始された。
 参加するのは「B-29」324機、「P-51」96機だった。時間は昼間。堂々とした大編隊を組んでの進撃だった。また平行して、オランダ沿岸部からハンブルグにかけて、中型機と日本海軍の重攻撃機部隊による大規模な空襲も実施された。連合軍全体としては、1500機を投入する沿岸部への反復爆撃こそが本命で、ルール攻撃の方はドイツ空軍をおびき寄せるための囮としての感覚が強かった。爆撃効果自体も、工業施設の破壊は期待しておらず、操業の邪魔をする程度にしか考えていなかった。
 だが連合軍も作戦に手抜きをする気はなく、爆撃は一度だけではなく2週間の間に出撃できる限り出撃して、連続した打撃によってドイツ軍を疲弊させようと画策していた。
 連合軍の大規模な空襲に対して、ドイツ側は油断していた。と言うよりも、やや不意を突かれた形となった。沿岸部の爆撃に対しては、夏頃から激しい空襲を受け続けていたのですぐに対応したのだが、レーダーに捉えた時点で高度9500メートルを超えていた未曾有の大編隊(※大型機ばかりが密集しているので、実数はこの時点では不明。)に対しては、すぐに対応できる戦力が皆無ではないにしても少なかった。オランダ方面は第二航空艦隊、ドイツ沿岸部は第一航空艦隊が担当で、ルール工業地帯の防衛も第一航空艦隊の担当となるが、内陸部の防衛は南部のアルプス方面と首都ベルリン近辺に戦力を集中しており、ルールなどドイツ北西内陸部の防衛は、今までの戦況から夜間戦闘機部隊と若干の戦闘機隊が配備されているだけだった。「Me262」の戦闘機型で編成された飛行大隊がいるのが救いだが、迎撃に当たれるのは夜間戦闘機を含め全てを合わせても200機に届いていなかった。しかも奇襲的に成層圏から飛来してくるため、既に迎撃が間に合わない機体が半数近くを占めていた。「Ta-152」戦闘機はこうした迎撃に向いているのだが、数がなければ効果は薄かった。
 ルールの守りは「Me262」に委ねられたと言っても過言ではないが、それでもジェット機は期待を委ねるに十分な性能を有していた。
 だが連合軍も、ドイツ空軍が成層圏での迎撃にジェット戦闘機を飛ばしてくるのは折り込み済みだった。航続距離の関係で自分たちのジェット戦闘機(P-80)は出せないが、護衛の「P-51」部隊は新型を配備した上に、熟練パイロットも多く配属されていた。中には既にジェット機と対戦した者もおり、対策も十分に立てていた。
 護衛を担当した「P-51」部隊は、自由に戦闘する制空部隊と、何があっても爆撃機を守る護衛部隊に半数ずつで分かれていた。また中高度では、爆撃機の迎撃に向かうドイツ軍機をインターセプトする部隊が支援に当たり、敵の邀撃機の数を着実に減らしていった。特にドイツ側のレシプロ機部隊はほとんど阻止されてしまい、無理矢理出撃した夜間戦闘機大隊は昼間の戦闘に未熟なパイロットが多かったこともあって大損害を受けた。
 故障などで一割ほど脱落機を出していた「B-29」に対して、成層圏へと一気に駆け上がった「Me262」が迎撃しようとしたが、その横合いから見透かしたように「P-51」が襲いかかった。「P-51」部隊は、相手が高速発揮中のジェット機なので正面から迎撃はせず、とにかく相手の邪魔をする戦闘を心がけた。相手が自分たちに向かって格闘戦を挑んでくれば儲けものという程度であり、基本的には敵ジェット機の飛行進路を妨害して攻撃を逸らせばよかった。相手がジェット機なので、初手を外させてもさらに攻撃をしてくるが、とにかく邪魔に徹した。そして未熟なドイツ軍パイロットは、邪魔をされると爆撃機の攻撃どころではなく、頭に血が上って「P-51」を目標とする者も少なくなかった。そして「P-51」を相手にすれば「P-51」に乗せられて格闘戦を挑み、そして旋回などで速度を失って、脱落もしくは撃墜されていく機体が相次いだ。
 一方で「B-29」の攻撃に成功しても、撃墜や撃破は容易ではなかった。異常なほど高速なだけでなく、在来機以上に丈夫で防御火力を有するからだ。それが空中で緊密な陣形を組んでいるので、「Me262」と言えども少数での攻撃成功は難しかった。それでも高速を活かした攻撃なので、返り討ちに合うという事は少なく、また熟練パイロットが操っていれば、今までのレシプロ戦闘機よりも高い確率で撃破が可能だった。
 だが攻撃成功例は迎撃機数に対して少なく、けっきょく迎撃された「B-29」は全体の7%程度。撃墜となると4%を切っていた。この時の空襲では、最終的に5機が撃墜され、3機が帰投途中で墜落。さらに故障で4機墜落しているので、12機が失われた事になる。そして帰投中の墜落機の搭乗員多くが救出されており、搭乗員損耗率2%は十分に許容範囲の損害だった。出撃は翌日、さらに3日後、7日後、11日後、14日後の合計6回実施された。延べ約2000機の「B-29」が出撃した計算になり、80%以上の目標地域(※地点ではない)での投弾を実施した。投弾量も1万トンに達した。また、連合軍が本命とした連動した沿岸部などへの攻撃は、爆撃機の延べ出撃機数が2万機(回)を突破していた。これだけで爆弾投下量は6万トンにも達する。
 ドイツ軍による戦略爆撃に対する迎撃は、初日と二回目以後は改善が見られたが、初手で大きく出遅れた上に戦力のかなりも失ったため、連合軍が予測した以下の損害だった。当然、連合軍の戦果は挙がり、今まで大規模爆撃を受けてこず、また防空対策も十分ではなかったドイツの心臓部と言える工業地帯に無視できない損害を与えた。特にクリティカルヒットがあった事もあり戦車の生産に深刻な損害を与えており、一時的にドイツの戦車生産力を20%近くも低下させていた。(※その後数ヶ月で半分以上が回復されている。)
 なお、連合軍が敵地での爆撃の成果を正確に知ることは難しいが、偵察写真や無線情報、統計数字の推計などによって状況をある程度つかんでいた。そしてそれなりの成果があると分かった為、その後も体制を整えつつ主にライン川下流地域に対する戦略爆撃は戦術爆撃と平行して継続されることになる。そしてイギリス本土に連合軍空軍が数を増すに連れて、西ヨーロッパ北西部に対する空襲は激しさを増していった。
 また46年2月前半の爆撃では、石油精製所を集中的に狙って爆撃が実施されたが、ドイツ側の迎撃能力が既に大きく低下していた事もあって非常に成功して、ドイツの人造石油生産能力は一時10%を切るほど壊滅状態にまで一気に下落したほどだった。すぐに設備の復旧と爆撃された場所からの疎開などである程度回復するが、その後人造石油の生産量が以前の数字に戻ることも無かった。このため飛行機、車両双方のガソリン供給が一気に逼迫するようになり、それを数字上や戦場で確認した連合軍も、積極的に製油施設を爆撃するようになっている。
 アメリカ空軍(陸軍航空隊)としては、ようやく面目を施したと言えたのかもしれない。

 1946年2月頃には、本節の最初で取り上げた稼働機1万1000機に到達し、5つ以上の航空軍が2つ未満、実質1個程度、単純な数の差で8〜10倍もある戦力となって襲いかかるようになっていった。
 戦略爆撃の規模は、アーノルド将軍が望んだ規模には到達しなかったが、2月14日に行われた爆撃では、アメリカ第8航空軍だけでなく、日本海軍航空隊第十一航空艦隊、イギリス空軍第一航空軍の大型機が総力を挙げて爆撃する大規模な作戦が実施された。11月同様に、同時並行で大規模な戦術爆撃も実施され、4発重爆撃機1000機、作戦参加機5000機という未曾有の規模の爆撃が実施される。大規模な戦略爆撃が連合軍内で肯定されるようになったのは、制空権がほとんどの戦場で圧倒的と言えるレベルに達しつつあった事、空の戦場そのものがドイツ本土に十分達していた事、そして地上目標として一般的にドイツ外縁部や西欧各地が該当するようになっていたからだ。つまりは、戦術爆撃の延長に近かった。
 この頃になるとドイツ軍も、連合軍の重爆撃機に対して十分な迎撃体制を整えるようになっていたが、それは地上配備の高射砲などだけで、迎撃用戦闘機に関しては十分では無くなっていた。既に生産力が限界を超えていた上に、少なくなった機体以上にパイロットの枯渇が進んでいたからだ。さらに急速な燃料の枯渇、訓練できる安全な空域の減少が、パイロットの質を劇的といえるほどに低下させていた。(※ドイツの航空機生産数自体は、1944年春ぐらいから以後2年近く月産3000機以上をキープしている。)
 ドイツ空軍と言えば、常識外れの戦果を誇るスーパー・エースが綺羅星のごとく戦史の一角を埋めているが、そうしたパイロットはごくごく限られた人だけだった。もちろん普通のエースも数多くいたが、戦争後半に入ると殆どのパイロットが未熟なまま出撃を余儀なくされ、最初の出撃で命を落としていった。全体の90%は落とされるために出撃しているような有様で、連合軍のごく普通のパイロットに戦果を稼がせているような状況に陥っていた。
 そして1946年の春も近づく頃になると、連合軍の仕掛けてくる飽和的な航空撃滅戦に対して、ドイツ空軍はとにかく損害を少しでも減らすという消極的な戦いを強いられていた。この戦闘では、「Ta183」を装備した飛行大隊(の一部)がデビューを果たし大戦果を記録したのだが、もはや大海の一滴でしかなかった。デビュー以来、万難を排して数を増やした「Ta183」部隊は、その後も奮闘を重ねて数々の伝説的な戦果を挙げたが、連合軍も初夏の頃には自らの高性能ジェット戦闘機を前線に投入するようになっており、ドイツ人達が見えたと錯覚した希望の光を閉ざしてしまっている。

 話しが少し逸れたが、1月の爆撃ではルール工業地帯ではなくハンブルグ、ブレーメン、キールなどといったドイツ北西部の港湾都市に集中攻撃が行われた。迎撃までの時間が短く、戦略爆撃と戦術爆撃の双方が波状的に行えるため、決定的な戦果を挙げることが出来ると考えられたからだ。戦略爆撃と戦術爆撃の併用にはアメリカ軍のアーノルド元帥やスパーツ将軍らが反対したが、特に日本海軍が首を縦に振らなかった。またアメリカ軍の現場指揮官の一人で、その辣腕と剛腕から主導的地位にあったカーチス・ルメイ将軍は、アーノルド元帥とは違って大きな戦果が期待できる連携作戦に肯定的態度を取っていた。イギリスでは、元本国軍のハリス将軍などが戦略爆撃論者だったが、元本国軍の軍人に強い発言権はなく、連合軍の総意として複合的で大規模な爆撃作戦が実施されることになる。
 そして「ゴモラ作戦」と名付けられて行われた大規模な都市爆撃は、大都市ハンブルグの事実上の壊滅という戦果と歴史的悪名を残して大成功をおさめた。
 それまで港湾部、造船地帯以外は比較的軽微な損害で済んでいたハンブルグなどのドイツ北西部の各港湾都市は、全市街が大規模な爆撃の洗礼を受けて、多くが壊滅的打撃を受けた。一般市民の死者の数もそれまでとは比較にならないぐらい多く出てしまい、ドイツ首脳部に大きな衝撃を与えた。また、1945年夏以後低下を続けていたドイツの造船能力破滅的といえるほどの打撃を与え、特に潜水艦の大量生産に関しては完全に不可能なまでの打撃を与えることに成功した。

 そして十分な戦果を得たと考えた連合軍総司令部は、戦術爆撃に関しては次の大作戦の準備に当たる爆撃を重視するよう命令を変更した。日本海軍はしばらくノルウェー作戦の準備にかかりきりとなり、イギリス空軍に継続的な戦略爆撃を行う力は無く、アメリカ第8航空軍だけが戦略爆撃を継続する事になる。
 また、十分な戦果と結果が得られる事が分かった戦略爆撃だったが、連合軍全体としては「今更」という思いが強かった。成功した事についても、連合軍が戦争全般を優位に運んだ結果の一つにすぎないと言うのが総評だった。そして戦術爆撃で十分に押していけるのだから、今更経費がかかり危険の伴う戦略爆撃の規模を拡大する気はなかった。それでも戦略爆撃という今までほとんど見られない攻撃を、欧米の人々に目に見える形で示した影響は大きく、アメリカ軍内での空軍独立にさらなる一歩を記させたのは間違いないだろう。


●フェイズ80「第二次世界大戦(74)」